17.オコナイ(湖北の祭り考Ⅱ)

オコナイ(湖北の祭り考Ⅱ)

 湖北地方の祭りについてを考えるに際して私は、この地方を代表する祭りである曳山まつりとともに、もう一つの祭りについてどうしても触れないわけにはいかなかった。

 それは、湖北地方の各地で行われている「オコナイ」という祭りである。

 曳山まつりがこの世の春を謳歌する華やかな祭りであるとすれば、オコナイは春の訪れを呼び込む雪の祭りであると言えるかもしれない。

 湖北の祭り考の最後に私は、オコナイについて語っていきたいと思っている。

 この聞き慣れない名前の「オコナイ」とは、いったいどんな祭りなのだろうか?

 オコナイを定義するとすれば、「五穀豊穣と村内安全を祈願して年頭に行われる予祝行事」(1)ということになるようだ。

 『広辞苑』(第五版)によると予祝行事とは、「農産物などの豊穣を祈って、あらかじめ模擬する行事。鍬(くわ)初(ぞめ)・庭田植の類。小正月に行うものが多い」とある。

読んで字のごとく、秋の豊かな収穫の状態を予め作りだして祝うことで神にその実現をお願いする行事、ということになろうか。

1年の村の収穫はすべて神の思し召しによってもたらされるという、神への畏敬の念に基づいた村の人々の素朴な信仰が、オコナイという祭りに昇華していったものなのだろう。

秋の実りの風景を表現するためにお神酒と鏡餅を供え、枯れ枝に花を模した餅(餅花と言う)を括り付けて厳かに注連縄(しめなわ)を飾る。神への捧げ物は賂(まいない)であり、酒や餅などの「米」から作られる供物を捧げることによって、秋の米の豊作を神に約束してもらう。

たいへんに即物的であり単純でわかりやすい発想だと思う。しかし村にとっては非常に切実な問題でもある。湖北地方においてこの祭りが廃れずに長く続いてきた背景には、コメを中心としコメに依存してきたこの地方の人々の生活感が色濃く反映されているものと考えられる。

オコナイとは呼ばれないまでも、同様の予祝行事は、かつての日本では全国的に広く行われていたに違いない。都市化が進み、古くから伝えられてきた風習が次第に風化していく世調のなかで、オコナイというかたちの特徴ある祭りが湖北地方の多くの集落で今なお続けられている事実は、非常に興味深い。

湖北地方の人々にとって、オコナイの存在はごく身近で当り前の風物詩であるのかもしれない。しかし他所者(よそもの)である私は、足繁く湖北地方に通っていてさえも、長らくその存在を知らずにいた。先祖代々この土地に住み続けている地元の方たちと居住者ではない自分との決定的な深度の差を目の当たりにした感じがした。

オコナイを理解することなくして湖北地方を知り得たことにはならない。

自身の知識と理解の浅薄さを深く恥じ入るとともに、このオコナイという不思議な言葉の響きを持つ祭りに、私の心はズンズン惹き込まれていくのを心地よく感じていた。

オコナイは、村ごとにそれぞれ独自のスタイルが確立されており、行われる時期も1月上旬から3月上旬くらいまでの期間で村によって少しずつ異なっている。今でも村の人にとってはたいへんに重要な行事であり、俗に会社は休んでもオコナイを休むことはないとさえ言われている。

仕事よりもたいせつな行事が、オコナイなのである。

そう言えば、私の会社の元上司は浅草生まれのちゃきちゃきの江戸っ子で、毎年5月に行われる三社祭で神輿を担ぐことを何よりの楽しみとしていた。楽しみと言うよりは、むしろ神輿を担ぐことが当然の権利であり義務であると言い換えてもいいくらい、三社祭に強い思い入れを持っていた。

おそらくは、湖北地方の人たちも私の元上司と同じような気持ちで、オコナイに対して強い思いを抱いているのだろう。

おらが村のおらが祭りということである。

湖北地方の各村々毎に催されているオコナイのなかでも、時期的に最も遅い部類の時期に行われ特に大規模な祭りとして知られているのが、川道(長浜市川道町)のオコナイであるという。オコナイの「聖地」とも呼ばれるこの川道のオコナイを例にとって、オコナイとはどんな祭りなのかを見ていくことにしたい。

川道は、JR北陸本線長浜駅の北西約2.5㎞、姉川の河口から程近いところにある人口1000人程度の集落である。かつては旧東浅井郡びわ町に属していたが、平成18年2月13日に合併により長浜市となっている。

姉川の左岸、周囲を田園に囲まれた中に川道の集落はある。遠くには小谷山や山本山などの秀麗な山々を望む風光明媚で穏やかな土地である。農業のほかに、かつては養蚕業が盛んで、江戸中期から昭和初期にかけては絹糸の生産や縮緬織りなどにより大いに潤った時代もあったと言う。

この村の南東部に位置する川道神社が、川道のオコナイの舞台である。

8世紀初頭の和銅年間の創建と伝えられ、天(あま)照(てらす)皇(すめ)大神(おおかみ)・豊受(とようけの)大神(おおかみ)・大物(おおもの)主命(ぬしのみこと)・大山咋(おおやまくいの)命(みこと)の4柱を祭神として祀っている。西隣には、「川道観音」として知られる千手院がある。

オコナイの日程は時代とともに種々の変遷を経ている。以前は2月28日が宵宮で3月1日が本祭と定まっていたが、今では宵宮と本祭を2月の最終土曜日・日曜日に行うようにしているようである。

サラリーマンとなって町を出ていった人たちでも帰ってきて祭りに参加できるようにとの苦肉の策であるのかもしれない。

地元では、川道のオコナイの日には必ず雪が降ると言われている。

意外に思われるかもしれないが、湖北地方の冬は日本海側の気候であり、冬の間は深い雪に閉ざされている世界である。しんしんと降り積もる雪の中で執り行われる川道のオコナイは、神秘的でさえある。

それでも、2月も下旬から3月を迎える頃になれば、次第に空気も緩み水も温んでくる頃合いであるのだが、なぜか不思議なことに、川道のオコナイが行われる日だけは、必ず雪になるのだそうだ。

たまたまの偶然なのか、神の思し召しなのかは、知る由もない。

そして、雪のなかで行われる川道のオコナイが終わると、湖北地方にも春が訪れると言われている。

祭りのクライマックスは宵宮から翌日の本祭へと続く2日間であるけれど、実際にはその2週間ほど前から祭りは始まっている。

オコナイの道具が収納されている惣蔵から、鏡餅を搗く木臼や杵、提灯や屋台などの道具類を運び出す行事から祭りの準備が始まる。

祭りの1週間前には、鏡餅を飾る大注連縄(おおしめなわ)やカボと呼ばれる飾り物など、献鏡のための役物を作る藁仕事が行われる。献鏡という言葉は聞き慣れない言葉だが、後述するとおり、オコナイの中心行事は鏡餅を神前に供えることであり、献鏡の「鏡」の字は「鏡餅」を意味する。

カボとは、漢字を当てれば「火防」という字が当てはまる。藁を縦横に組んで編んだうちわ大の四角いもので、角には藁人形などが吊るされている。単なる装飾物ではなくて、献鏡の際に提灯から出火した際に、火を煽いで素早く叩き消す役割も担っているそうだ。

すべて手作りの丹念な作業である。

同時にこの日には、鏡餅の原料となる4斗(=1俵)のもち米をかし水につけておく「米かし」が行われる。神聖な鏡餅を作るためのもち米だから、注意深く栽培され厳選された米のみが用意される。今では井戸水ではなく水道水が使われるようになったけれど、それでも蛇口の周りには注連縄が張られ、清められた水が使われる。

本祭の3日前に餅搗きが行われる。

献鏡のための鏡餅を作るという非常に重要な行事である。

蒸(せい)籠(ろ)にもち米を入れ、正確に量を測る。美濃紙を巻き御幣で飾られた大釜で湯を沸かすと、いよいよ米を蒸し始める。

4斗という大量の餅を作るには、一度では賄いきれない。もち米を蒸す作業は3回に分けて行われる。

1回の蒸し時間がおよそ35分である。その間に切り返しと言って、蒸籠の上下を入れ替える作業が1回入る。蒸しむらが出ないようにとの趣旨の丁寧な作業だ。

蒸し上がったもち米は、木臼に移されて若い衆によって搗かれていく。蒸し上げられたもち米の蒸気と搗き手の熱気とで、みるみるうちに部屋の中に熱いエネルギーが充満されてゆく。

こちらも、搗きむらができないように、臼持ちが臼を少しずつ回していきながらの作業となる。

17時30分に最初の蒸籠を蒸し始めてから、最後の木臼で餅を搗き終わるまでに、3時間半以上の時間が経過していた。

搗き上がった餅は、一つの臼(待ち臼と言う)にまとめられた後、ゲス板と呼ばれる丸く凸状に整形された板の上に落とされる。

ゲス板の上に、ちょうど正月の鏡餅のように、中央部が盛り上がった巨大な餅の固まりが姿を現す。若い衆が拳で餅の周囲を抑え込むようにして形を整えていく。

最後に、輪方と呼ばれる熟練者が上から大きな枠を被(かぶ)せて、鏡餅の形を完成させる。

鏡枠の中に納まった餅は、中央部が盛り上がっていた表面を平らに整形され、藁(わら)箒(ぼうき)と呼ばれる小さな刷毛で掃き清められる。

こうして、5時間にも及ぶ餅搗きが無事に終わった。一同はホッと安堵の表情を浮かべ、手締めをして解散となる。

 鏡餅が出来上がると、その2日後には、いよいよ川道神社への献鏡が行われる。

 冷まされた後に枠が外された鏡餅は、藁箒でさらに表面を整えられる。目の前に現れた巨大な白い餅の塊が、神々しく輝いて見える。鏡餅はさらに渋紙で包(くる)まれて、その上から太い注連縄が掛けられる。

賑やかな宵宮膳を経て、献鏡屋台と呼ばれる神輿のような台座に乗せられた鏡餅が、若い衆に担がれて川道神社へと運ばれていく。

 日中に献鏡が行われる村も多いが、川道のオコナイは夜の時間帯の献鏡である。

 行列の先頭は、紋付羽織姿の村の役員衆が手にする先高提灯や手提げ提灯だ。その年のオコナイを取り仕切る「当番」は、献酒の徳利をたいせつそうに両手で携えている。

 献鏡屋台を担ぐ若い衆は、カンバンという派手な模様の祭り半纏(はんてん)を身に纏い、襷(たすき)掛けの勇ましい姿で献鏡屋台を担ぎながら、しずしずと村の中を進んでいく。夜の献鏡なので、献鏡屋台はいくつもの提灯で飾られ、それに火が灯される。

 米1俵分の餅というのは、実際に持ち上げて運ぶには相当の重さになるようだ。何人もの若い衆が担いでやっと持ち上げられる代物だ。

 川道地区は、東村、西村、中村、下村、川原村、東庄司村、藤之木村の7つの村に分かれていて、それぞれの村で同じように1俵の鏡餅を作って川道神社に献鏡する。

1つの鏡餅だけでも十分な迫力であるのに、同じ大きさで同じ形をした鏡餅が7つも同時に持ち寄られて神社の拝殿に供えられる様は、壮観という言葉以外の何ものでもない。

 すべての鏡餅が揃うと、厳かに神官の祝詞が読み上げられ、続いて総代、自治会長、当番代表が玉串奉奠を行い、献鏡の儀式が滞りなく終わる。

 例年であれば、なぜかこの時、川道地区には雪が舞い降りる。幻想的な雪景色のなかで、白い鏡餅が提灯の灯に白く浮き上がって見える。雪は、オコナイの趣を一層深くする自然の演出であるかのようだ。

7つの鏡餅は川道神社の拝殿でそのまま夜を越し、翌朝10時に始まる神事を待つ。一晩拝殿に置かれたままでいても、神が宿る重い鏡餅を持ち出そうとするような不埒な人間は村には一人もいない。

 紋付袴などの正装で恭しく神官の祝詞を受けた後、神社から拝領したお神酒や神饌のお下がりなどを持ち帰り、当番宅での本膳が執り行われる。

 村の歴々が一堂に会して酒食を共にすることで、村としての一体感が醸成され地域共同体としての結束が一層固められることだろう。

本膳には、「前髪」と呼ばれる若い衆が緊張した面持ちで甲斐甲斐しく給仕などを務める姿が見られる。その年初めて本膳に加わることを許された16歳から18歳くらいの若者たちである。

こうして本膳の場で披露されることにより、村の人々に顔と名前を知ってもらうことができるとともに、村の長老から生きた指導を受けることにもなる。

オコナイが今も営々として執り行われ続けている背景には、こうした若い力を祭りの場にデビューさせ組み込んでいく仕組みが巧みに織り込まれていることを、見逃してはならない。

本膳の後、村人たちは再び川道神社に参集する。献鏡した鏡餅を撤鏡する「お鏡下げ」が行われるためである。

献鏡の時と同様に、先高提灯を先頭に当番が献酒を持ち、その後に鏡餅を乗せた輿が続く。献鏡の時には8人で担いだ鏡餅だが、撤鏡時にはなぜか4人で担ぐ。

元来た道を当番宅まで戻った鏡餅は、特製包丁で切り分けられ、住民に配分される。一見、大きなブロックチーズのように分割された鏡餅が大きな桶に山積しているのを見るのは、不思議な感じがする。

こうして数日間に亘って執り行われたオコナイの行事は滞りなく終了し、来年の当番に役目が引き継がれて一堂解散となる。

 ここまでは、オコナイの一例として川道地区におけるオコナイの様子を見てきた。鏡餅を作って神に供えるという祭りの基本型に変わりはないものの、鏡餅の形状や供え方など祭りの細部は各村によってかなり異なり、特徴的である。

 鏡餅の形状について言えば、川道のように完全な円筒形に餅を仕上げる村もあれば、底の浅い桶のような木製の器に搗いた餅を流し込み淵から少し溢れさせるように垂らす村もある(後述の長浜市木之本町大音地区)。

 変わり種としては、延ばし棒で餅を延ばして座布団のように仕上げる四角い鏡餅(伊吹町甲(こう)津原(づはら))まであると言うから、おおよそ私たちが想像する正月飾りの鏡餅の常識をもってしたのでは、とても理解することができない奥深さがある。

 そう言えば正月に私たちが食べる雑煮にしても、四角い切り持ちがあったり丸餅があったりしているし、なかには餡が入った餅まであるというから、地方によって味も形も千差万別であることがわかる。

 どれがいいとか悪いということではなくて、それが自分たちの暮らしのスタイルであり、先祖代々伝えられてきたその地域のパターンであるのだ。

 同じ形の鏡餅を作り、その形を後世に向けて脈々と伝えていくことで、地域としての一体感を醸成し確認し合うことができる。

 献鏡の仕方にも、大きく分けて3つのパターンがある。

 献鏡するお堂の虹(こう)梁(りょう)などに吊して供えるタイプのいわゆる「掛け餅」と、仏前や神前に立てかけるようにして供える「立て餅」、それに正月飾りの鏡餅のように水平に置くタイプの3パターンだ。

 掛け餅は湖北地方にはあまり見られない。1俵もの米で搗いた鏡餅は重すぎて、吊すことができないというのがその理由だろう。

 反対に考えると、1俵の鏡餅を搗くということこそが、湖北のオコナイの大きな特徴であると言うことができる。

 湖北地方のオコナイでは、立て餅が案外多い。

 須弥壇などに立てかけて鏡餅の表面が参列者から見えるようにして置く置き方だ。そのことについては、また後で述べる。

 搗いた鏡餅を運ぶ際の運び方にも特徴がある。大別すると、台の上に鏡餅を置きそれを神輿のようにして数人で担いでいくタイプと、一人の人が背負っていくタイプである。

 担いでいくタイプで最もポピュラーなのが、前述のような神輿型である。単に戸板のような板に鏡餅を乗せて運ぶシンプルなものから、献鏡屋台と呼ばれる立派な台を組み上げ提灯まで括り付けた本格的なものまで、様々だ。

 なかには駕籠か輿のように、1本の太い竹に鏡餅が乗せられた台を吊し、2人で担いでいくものもある。

 さすがに湖北地方のオコナイは鏡餅が大きく1人で背負うことが難しいため、背負っていくタイプはあまり多くは見られない。しかし、神社の急な石段を登らなければならないような村では、今でも背負い型の運び方をしている。

 鏡餅の運び方も、鏡餅の大きさや供える寺や神社などの地形等によってその土地独自のやり方が考案され踏襲されているということなのだろう。

 運ばれる鏡餅は、白い餅肌が剥き出しのままのもの、剥き出しのうえに注連縄が掛けられているもの、鏡枠が嵌められたままのもの、鏡枠に上蓋が乗せられているもの、渋紙でくるまれたものなど、こちらも千差万別で同じかたちなどないと言ってもいいくらいバラエティに富んでいる。

 同じ鏡餅を搗いて神前に供えるというだけの行為なのに、しかも同じ湖北地方で行われている祭りなのに、どうしてこんなにスタイルが異なるのだろうか?

 私にはますます、このオコナイという祭りが不思議で魅力あるものに思えてきた。

 そもそも、「鏡餅」とは何なのだろうか?

 私の疑問と興味は、オコナイにおける最も核心的な「物体」である鏡餅に向かっていった。

 鏡餅と言うと、誰もが思い起こすのが、正月飾りに登場するあの鏡餅である。これも地方によって特徴があるのかもしれないが、日本において最も一般的な鏡餅が、二段重ねの丸い餅の上に蜜柑が乗せられている鏡餅だ。

 いままで私は、鏡餅という名前にほとんど何の注意を払うこともしてこなかった。

 ところが、湖北地方のオコナイを調べていくうちに、鏡餅が鏡餅と呼ばれる理由がわかってきた。

 鏡餅とは、まさに、鏡の餅なのである。

2つ重ねられて上に蜜柑が乗せられた状態ではわからなかった。形状も、中央部が軽く盛り上がった凸状をしているので、気がつかなかった。

 オコナイにおいて、平らな円筒形に整形され表面の凹凸をきれいに磨き上げられた真っ白な鏡餅が須弥壇などに立てかけられているのを見て、私はハッとした。

 鏡だ。

 それは、神社の本殿に祀られている神鏡そのものではないか!

 昔の人々は、米から作られた餅を使って、まさに鏡を作ったのだということに、私は思い当った。

 鏡は卑弥呼の時代から神聖なものであり、権威の象徴であった。「八咫(やたの)鏡(かがみ)」は、「天(あめの)叢(むら)雲(くもの)剣(つるぎ)」、「八尺瓊曲(やさかにのまが)玉(たま)」とともに三種の神器の一つとして代々天皇家に伝えられている。

 蝋燭のゆらめく薄あかりのなかで、僅かな光を反射して光る鏡には不思議な呪力があり、古来から神が宿ると信じられていた。

 鏡自体が神であり、信仰の対象だった。

 鏡を所有できる人間はごく少数でしかなかったから、やがて鏡は権力の象徴として崇められていくのであるが、原初的には鏡が放つ妖しい不可思議な光に人々は神の存在を意識したのではなかっただろうか。

 一生懸命に餅を搗き、搗いた餅で丹精込めて鏡を作る。

 光明と崇高さにおいて神が宿る鏡には及ばないかもしれないが、村人たちが一心にそれと類似する鏡(餅)を作ることで、神への誠意と敬意とを示そうとした。

 鏡餅が「鏡」の「餅」であるということに思い当った私は、オコナイにおいてこれほどまでに村人たちが鏡餅に拘る訳がわかったような気がした。

 畏敬の念は同じであっても、その気持ちの表し方にはいろいろな方法があって少しも不思議ではない。人々はそれぞれ、自分たちの村のスタイルで精魂込めて鏡餅を作り上げ、自分たちの村のやり方で供えたということなのではないか?

 これは自分たちの村だけのことだから、他の村がどんな供え方をしているのかは知らないし興味もない。もしかしたら最初は同じだったオコナイが次第に各村毎に特徴的になっていったのには、そんな事情があったかもしれない。

 私は学者でないので、何が真実であるのかを突き詰める術を知らない。従って今まで書いてきたことに何の学術的根拠を伴うものはない。ただ私をして直感がそう思わしめただけである。

 しかしながら、オコナイという、全国に普遍的にありそうな祭りの一種でありながら極めて特徴的な湖北地方の祭りにおいて、鏡餅というオコナイに共通の中心テーマについてあれこれと思いを巡らせることはたいへんに楽しい知的作業である。

 もうこうなると、実際にオコナイを自分の目で見てみないわけにはいかない。

 私はついにオコナイの現場を見るために、新幹線に飛び乗った。そのことは、この章の後に付記としてまとめた。

曳山まつりの時にもそう思ったのだが、やはり百聞は一見に如かず、である。

いくら本やインターネットで祭りのことを調べてみても、それだけでは絶対にその祭りを理解することができない。

その場の雰囲気、音、光、匂い……。自分の五感のすべてを使い体全体で感じ取らないことには、本当の祭りを理解することは不可能だと強く思った。

 男の人が花嫁姿で登場するオコナイ、鬼が出てくるオコナイ、顔を白粉(おしろい)で真っ白に塗りたくった鏡負い役が活躍するオコナイなど、各村によって本当に様々であるところに、湖北地方の多様性を強く感じる。

 画一された文化をただ伝承していくのではなくて、自由な発想の元でいろいろな可能性を追求しながら、オコナイは今なお進化と深化を続けていると考えてもいいのではないか。

 変わらないものと変わりながら引き継がれていくもの。

 オコナイのなかに私は、同時にこの2つのものを見たような気がした。

足繁く各村のオコナイに通って、その同一性と特異性とを詳らかにしていくのも、またたいへん興味深く楽しいことだろうと思った。

 今まで湖北地方にオコナイという祭りが残されてきた背景には、この地域が米作りと非常に密接な関係にあったということを先に書いた。それともう一つ、湖北地方には観音信仰が色濃く残されていることとも関係があるのではないかと私は考えている。

 後に触れるけれど、今では神社がオコナイの中心地のようになっているけれど、元々のオコナイは仏教行事に起源を発しているという説がある。

 この本の冒頭に採り上げた観音像を祀る観音堂が、実は鏡餅を供えるオコナイの舞台ともなっているという事実とを考え合わせてみると、その説もまた肯(むべ)なるかなという気がしてくる。

 己高閣と世代閣がある與志漏(よしろ)神社の薬師堂や高月町高野の薬師堂なども、オコナイの舞台となっていて鏡餅が献鏡されるのだそうだ。

 夏の一番暑い盛りに訪れたこともあるけれど、まさか薬師像や観音像が祀られている薬師堂や観音堂でオコナイが行われていたとは、その時には想像だにすることができなかった。

 村人たちが交代で薬師像や観音像を守ってきた背景には、素朴な薬師信仰や観音信仰があるほかに、その場所がオコナイの舞台であるという理由も含まれているのかもしれない。

 これまで私は、曳山まつりとオコナイという2つの湖北地方を代表する祭りを材料として、湖北地方の祭りについて考えを巡らせてきた。その前の章で採り上げた左義長まつりや八幡まつりのことも、特徴ある祭りとして私の頭から離れることができない。

 祭りとは、いったい何なのだろうか?

 先に私は、本やインターネットで調べただけでは祭りのことを理解することができないと書いた。確かに、実際に祭りが行われているその場に行って、自分の五感のすべてを使い祭りを体験しなければ、その祭りがどんな祭りであるかを知ることはできない。

 しかし、いくら祭りの場にいたとしても、祭りという輪の周囲をひたすら回っているだけで、けっして輪の中に入っていくことはできないような気がする。

 それは言葉を換えて言えば、土地の者と他所者との違いである。

 左義長まつりも八幡まつりも曳山まつりもオコナイも、ほんの触りの部分だけだったかもしれないけれど、実際の祭りを見て感動した。

 左義長まつりがこんなに荒々しい祭りだとは思っていなかった。左義長まつりや八幡まつりの燃え盛る炎の明るさと熱さとを、私はしっかり心に刻み込んでいる。最高水準の技術の粋を集めた精巧な工芸品で飾られた曳山の豪華さに長浜繁栄の歴史を想い、子供歌舞伎の可憐さに心が洗われた。オコナイという素朴な人々の信仰に触れ、ほのぼのとした想いが込み上げてきた。

 どの祭りも私にとって、興味深いものであり感動的であった。

 それでも、どこか心に引っ掛かる納得できない部分が残るのは、それは私が単に祭りという輪の周囲からしか祭りを眺めることができなかったからだろうと思う。

 祭りを眺めたけれど、参加したわけではない。

 祭りに参加する権利(と義務)があるのは、その土地の人だけである。そこに存在している厳然たる事実を改めて認識し、一抹の寂しい思いを抱いて私は湖北の地を後にした。

 今、カッコ書きで「義務」という言葉を書いた。

 私とは反対にその土地の人にとっては、祭りに参加することは権利であると同時に義務でもある。特に価値観が多様化している現代社会においては、必ずしも祭りに参加したいと思っている人たちだけではないという事実もある。

 曳山まつりに参加するには、相応の費用がかかるのだそうだ。揃いの着物や扇子などの小道具も揃えなければならないし、あれだけの規模の祭りを毎年大々的に維持していこうとすると、きれいごとだけでは済ますことのできない精神的財産的負担が地元の人たちに重くのしかかっているのだろう。

 それでも祭りは毎年華やかに行われていく。

 どのような時代になっても変わらないものを底流に維持しながら、社会や世相の変化に応じて臨機応変に表層を変えていきながら、祭りは過去の時代から営々と受け継がれてきたし、また未来へも脈々と続いていく……。

 祭りは、その土地の人たちにとって、アイデンティティの象徴である。その土地の歴史も風土も文化も、何もかもが凝縮されて詰め込まれているその土地そのものなのではないだろうか?

 特に個性的な祭りが多く残されている湖北地方の祭りの数々を具(つぶさ)に見てきて、私は羨ましさと寂しさとが相半ばする複雑な思いを抱いている……。

(1)中島誠一著『川道のオコナイ』 2011年 サンライズ出版