付記) 大音のオコナイ探訪記

(付記) 大音のオコナイ探訪記

 大音は滋賀県北部、賤ヶ岳の南麓に位置する静かな山里である。

 前著『湖北残照 歴史篇』において、「賤ヶ岳の戦い」の章で少しだけ触れたが、生糸の産地として知られている。普通の生糸も有名であるけれど、琴や三味線などの和楽器の弦の産地として特に有名なところだ。そのことは、次の章で書くことになる。

 大音地区でオコナイが行われる。

 ちょうどオコナイについての研究をしていた私に、友人がそんな知らせをもたらしてくれた。私は即座に大音行きを決断した。

 平成24年3月17日(土)午前8時に餅搗きが行われるらしい。

 ところが、私が友人から得た情報は、このことだけだった。場所もわからなければ終了時刻もわからない。実際のところ、新横浜を最も早く出る新幹線に乗っても、米原に着くのが8時をほんの僅かに切る時間でしかない。

 そこから車で飛ばして行っても、大音まで小1時間はかかるだろう。8時からの餅搗き開始には間に合わない。しかしそれでも、躊躇する理由は何もなかった。私は大音行きを決行した。

 とは言うものの、一抹の不安はあった。

 突然、見ず知らずの他所者が神聖な祭りの現場を訪ねて行って、果たして大音の人たちはそんな私を快く迎え入れてくれるものだろうか?私には何の確証もなかった。

 しかしあれこれ悩んでいても仕方がない。私は意を決して6時11分発ののぞみ号で名古屋に向かった。名古屋でひかり号に乗り換え、目指す米原に着いたのが7時58分である。

 あいにくの雨だった。

 それも、傘をさしていても濡れるくらいの強い雨だ。こんな日に、果たして餅搗きが行われているのだろうか?萎えそうになる心を奮い立たせて、私は車で大音地区に向かった。

 伊香具神社の前で車を停めて、辺りを窺ってみる。

 大音と言えば伊香具神社が最も有名な神社なので、ここに行けば何か情報が得られるのではないかと考えたからだ。

伊香具神社は、かつてこの辺り一帯を支配していた伊香(いか)氏の祖である伊香津臣命を祀る神社で、白鳳10年(660年頃)の創建と伝えられている古社である。広島県の厳島神社の鳥居と奈良県の大神(おおみわ)神社の鳥居とを組み合わせたような伊香具式と呼ばれる独特の鳥居をもつ神社としても有名だ。

しかしそんな私の思惑に反して、祭りの当日であるというのに、伊香具神社には人影がまったくなかった。

祭りと言えば、街中に提灯やぼんぼりが飾られ、沿道には屋台が建ち並び、参拝する大勢の人々で賑わう様を想像していた私には、非常に意外な光景だった。大音の集落は、いつもと少しも変わらずにひっそりと静まり返っていた。

雨だからだろうか?

そんなはずはないだろう。もしかしたら、3月17日にオコナイが行われるという情報が間違っていたのではないか?私の心に不安がよぎった。

そもそも、湖北のオコナイは3月1日頃の川道のオコナイがほとんど最後で、それから2週間以上後にオコナイが行われるということ自体に疑問を感じるべきではなかったのか?

不安は募る一方だ。

車を降りて、たまたま神社の清掃をしていた人に恐る恐る聞いてみる。

「今日はオコナイの餅搗きをする日と聞いて来たのですが……。」

「餅搗きなら、上の集会所でやってるでぇ。」

やっぱり餅搗きは行われているようだ。上の集会所というのがどこにあるのかわからなかったが、私はお礼を言って雨の中、坂道を登っていった。

ふと道端を見ると、先日降った雪がまだしっかりと残っている。その傍らに、ふきのとうの淡い緑色が鮮やかな色彩となって目に飛び込んできた。湖北の春がもうすぐそこまでやってきていることを実感した。

こんな上の方に果たして集会所があるのだろうか?

とにかく人っこ一人歩いていないのだ。しかも、この強い雨である。道を聞きたくても聞ける人がいないし、急坂を登っていって道が違っていたら、立ち直れないくらいにダメージが大きい。

限りなく訝しい思いを抱きながら、私はもう少し、急な坂を登ってみることにした。

坂道を登って行くと、ちょっとした広場のような平らな場所が現れて、その奥に白っぽい色をした2階建の集会所が見えた。

「祝 三組 伊香具神社神事祭」と墨書された看板が入口に立て掛けられ、「御神燈」の文字のある提灯が2つ、軒下に掲げられている。

中の様子を窺うと、人が餅搗きをしている様子には見えずひっそりとしているが、入口にはたくさんの靴と傘が残されているので、建物の中に多くの人がいることだけは間違いなさそうだ。

よく見ると、入口の外に木臼が2つと杵1つが置かれているのが見えた。さらにその近くのテントの中には、まだ火が燻(くすぶ)っている窯が置かれている。

私は恐る恐る、集会所の入口の扉を開けた。

何者か?と誰何(すいか)されるのではないかと恐れた。なにしろ私は、この祭りとは何の関係もない他所者であるのだから。

たまたま2階から紋付袴姿の落ち着いた雰囲気の老人が降りてきて私と目が合った。私は、横浜在住の者で、オコナイに興味を持っていて今日の餅搗きを見るために来たことを告げた。

後から知ったのだが、この紋付袴姿の方こそが「当人」と呼ばれる今年のオコナイ一切を取り仕切る主宰者の方であった。

その方のお話によると、餅はすでに搗き終わり、今は2階で搗きたての餅を食べながら関係者が談笑しているところらしい。

今日の餅搗きは、朝4時に起きて準備に取り掛かり、5升のもち米を3つの臼を使って搗いたのだそうだ。

たしかに、集会所の入口のところに木臼が2つ置かれているのを最初に見た。さらに、集会所の真ん中のスペースに敷かれた筵のうえにもう1つの木臼がまだ置かれたままになっていた。

そして、中央奥の1段高くした壇の上に、搗いた鏡餅が無造作に置かれていた。

大音の鏡餅は、大きな木桶の上部に注連縄を巻いたような器の中に、淵から餅を垂らすようにして造られていた。鏡餅の周囲に3機の扇風機が置かれフル回転で風を送っている。

無造作に置かれているように見えたのは、鏡餅を扇風機の風で冷ましているところだったのだ。

これが、鏡餅か!

これまでオコナイについて調べてきて鏡餅の重要性を十分に認識していた私は、搗いたばかりの鏡餅を実際に目の前にして、感無量だった。実際に搗いているところを見ることができればなおよかったのだが、こればかりは致し方ない。

まだ湯気を上げているところを見られただけでも、十分に感激的だった。

「当人」の方に促されて、みなさんが集まっているという2階に上がってみた。大音地区とはまったく縁がない私であるのに、どの方もとても親切に声を掛けてくださって、ありがたかった。

何でここに知らない人がいるの?という反応はまったくない。どこから来たの?わざわざ横浜からよく来てくださった。しまいには、「ヨコハマ、たそがれ~♪」なんて歌を口ずさむ方までいて、まさに温かく迎え入れていただいたことが、私には何よりもうれしかった。

まさに案ずるより産むが易し、である。

雨の米原駅に降り立った時には不安な気持ちで一杯だったが、やっぱり思い切って来てよかったと、心から思った。

集会所のみなさんは、ちょうど搗いたお餅を食べ終わったところのようで、無事に鏡餅を搗き終えた安堵感もあってか、表情が明るく寛いで見えた。

オコナイの話をしてくれる人がいるから聞いてみなさいと促され、隣の部屋に通された私は、村の長老と思しき方から直接オコナイにまつわる話を聞くことができた。

知らない土地に行って一番ありがたいことは、その土地の人から直接話を聞けることである。Iさんという郷土の歴史を研究されている方から聞いたオコナイの話は、たいへん興味深いものだった。

Iさんは言う。オコナイは、今では伊香具神社の神事のように思われているけれど、元々は仏教の行事だったもので、起源を遡ると桓武天皇が平安京を造営した時に始められたものだという。

平安京造営に先立つこと10年前の延暦3年(784)に桓武天皇は長岡京に遷都を行った。ところが、桓武天皇の腹心だった藤原種継の暗殺事件を皮切りに、飢饉、疫病、川の氾濫などの災難が続き、桓武天皇は僅か10年で都を平安京に遷さざるを得なくなった。

一説には、反逆の罪で流罪となり配流地で憤死した皇太弟の早良親王の怨霊であるとの説がまことしやかに流された。

平安京を造営するに際し桓武天皇は、都の鬼門にあたる北東に位置している比叡山を厚く加護した。もちろん、霊封じのためである。

ちなみに、裏鬼門にあたる南西に位置しているのが石清水八幡宮であることは、曳山まつりの章で書いた。

湖北地方は、ちょうど平安京と延暦寺とを結ぶ線の延長上にあり、その線はさらに、己高山から白山へと続いていくのである。

オコナイは、都の霊を鎮めるため、仏教の修正会(しゅしょうえ)から派生した祭事であるというのが、Iさんの説である。

修正会とは仏教の行事の一つで、正月に旧年の悪を正し、その年の国家安泰、五穀豊穣を祈念する行事として各寺にて行われているものである。

2月に行われるのが修二会であり、東大寺二月堂で行われる修二会は、「お水取り」の名称で知られている。

現在の大音地区では鏡餅を伊香具神社に供えるが、以前はお寺に供える行事であったという。そう言えば、今でも観音堂や薬師堂に献鏡しているオコナイも少なくない。神道と仏教とが意図的に峻別されたのは明治維新の時のことであり、それまでの日本では神社の中に寺があったりして、両者はほぼ一体のものとして考えられていた。

私はこの章の最初に「神への畏敬の念に基づいた村の人々の素朴な信仰が、オコナイという祭りに昇華していった」のだろうと書いた。そういった原初的な人々の信仰にあるいは仏教の教えが自然に加味されて、現在のオコナイの姿になっているのかもしれない。

オコナイの起源に関する話のほかにも、Iさんは興味深い話をいくつもしてくださった。そのなかでも私が最も印象を強く持ったのは、渡来人についての話だった。

湖北地方の文化は、朝鮮半島の新羅からもたらされた文化だという。ちなみに湖南地方に文化をもたらしたのは百済からなのだそうだ。

そう言えば、湖東地区になるけれど、湖東三山の一つである百済寺(ひゃくさいじ)は、聖徳太子が百済人のために建立した寺だった。

織田信長に攻められた時に百済寺は、南近江を支配していた六角氏に与して信長の怒りを買い、徹底的な破壊に遭った。百済と南近江との深いつながりを裏付ける出来事だ。

湖北地方と新羅とのつながりには、湖北地方が若狭に近いという位置的な関係が色濃く影響しているのだと言う。若狭という地名は、「出入口」を意味しているのだそうだ。日本海を渡ってきた新羅の人たちは、出入口にあたる若狭から日本に上陸し、距離的に近い湖北地方に先進的な文化をもたらしたり住み着いて帰化したりした。

湖南地方はむしろ、京からのルートで百済人が多く出入していたという。

私はこの書で、湖北の観音文化や藤堂高虎・小堀遠州に代表される築城などの土木技術を朝鮮半島の文化と関連づけて論じてきた。Iさんの話を拝聴して、ますますその意を強くした。

Iさんの話は止まらずに、1時間あまりにも及んだ。

気がつくと、出された時には湯気を立てていた搗きたてのお餅が、冷たく冷え切ってしまっている。それでも、おろし大根にほんのり酢の香の混ざった醤油がかけられたお餅は、とてもおいしかった。

1階で冷まされていた鏡餅がいつの間にか2階に運び上げられ、伊香具神社と墨書された掛け軸の前に恭(うやうや)しく供えられていた。

外は相変わらず強い雨が降り続いている。明日の朝は、いよいよ献鏡の祭事が執り行われるという。この雨は明日までには上がってくれるだろうか?

ここまで来たら、明日の献鏡を見ないわけにはいかない。私は親切な大音の人たちにお礼を述べ、集会所を後にした。

翌日、幸いにして雨は上がった。

私は再び大音の集会所を訪れた。献鏡の儀式は午前10時からと聞いていたのだが、昨日と同じように集会所前の広場にはまた誰もいない。

町を挙げてのお祭りだからさぞかし賑やかな光景を想像していた私は、またも裏切られる。

やがて30分くらいが経過したあたりから、少しずつだが近所の住民が姿を現し出す。どうやら今は、集会所2階で神事が行われているらしい。静かに静まり返っているように見えた集会所だが、目を凝らして2階を見てみると、神主さんが何やら動いているのが見えた。

時計が11時に近づく頃、神事が終わり、集会所の入口の戸が開けられた。

最初に黒い学生服を着た学生2人が、細く長い木の枝を大事そうに手に持ちながら現れる。続いて神主が、伊香具神社のお札が下がった神木を恭しく奉じて出てきた。

次にどんな物が現れるのだろうかと興味津々で待っていると、昨日は紋付袴姿だった「当人」が、今日は浅葱色の裃姿で登場した。手には小さめながら神木を携えている。

東京や横浜に住んでいると、紋付袴姿でさえ滅多に目にすることはない。ましてや、裃姿の人を見ることなんて、ほとんどあり得ないと言ってもいいだろう。しかし、純朴そうな人柄に見える当人だが、実に堂々としていて惚れ惚れするほど立派な裃姿であった。

そしていよいよ、鏡餅を乗せた台が狭い集会所の入口から姿を現した。

前後に長い2本の棒に据え付けられた鏡餅の乗った台を、6~7人の男性がたいせつそうに担いで外に運び出す。そのうちの4人は、カンバンと呼ばれるオレンジ色の祭半纏を身に纏い、額には朱色で「祭」と染め抜かれた手拭いを幅広に折って鉢巻きのようにきりりと巻いている。

あまりの半纏の色の奇抜さに、私は少したじろいだ。

静かで落ち着いた雰囲気を醸し出している大音地区のイメージからはかなり飛躍した斬新な色使いであるからだ。周囲のしっとりとした景色からもやや浮いて見えることは否めないが、そこは年に一度のオコナイの晴れの舞台であるから、むしろこのくらい鮮やかな方がいのかもしれないと思い直した。

よく見ると、当人も鏡餅の担ぎ手も、草履を履かすに白い足袋のままである。

鏡餅を無事に伊香具神社に供え終わるまでは今年の当番の責任であり、足袋のみの裸足で大切なお役目を務めるのだそうだ。

白洲正子さんの『かくれ里』で有名になった菅浦の須賀神社のことをふと想った。

須賀神社では、土足で本殿前の急な石段を登ることを許されていない。靴を脱ぎ靴下も脱いで、文字通り裸足で苔むした石段を登って行かなければならない。

冷たい石の感触を素足に感じながら登り始めたときには大いに違和感を感じたが、お参りを済ませて清水で足を濯いだ時の爽快感と神聖な気持ちは、忘れられない。

彼らの足袋姿を見て、そう言えば菅浦も大音も同じ湖北地方だったなと、ふと思った。

不思議なもので、最初は鮮烈な色合いに見えたカンバンも、彼らと一緒に伊香具神社まで移動していく間に次第に目に馴染んできて、古色蒼然とした伊香具神社の境内においてさえなお、違和感を感じなくなっている自分を発見して苦笑した。

献鏡台の担ぎ手は基本的にはカンバンを着た袴姿の4人なのだろうが、鏡餅があまりにも重いからか、周囲の人たちの助けが必要となる。

スーツ姿の若者たちが助力して、どうにか行列の態勢を整えることができた一行は、集会所前で思い思いに記念写真を撮った後、しずしずと集会所前の広い坂道を降り始めた。

細長い木の枝を手にした学生服の2人が先頭となり、天狗面が据えられた大きな神木を持った男性、神主、当人、そして鏡餅が後に続く。

さらに行列は、小さめの鏡餅を乗せた三方を持った男性が2人、神木を挿した竹の筒を手にした男性が2人続き、その後はぞろぞろと町の関係者が従っていく。

三方を持った男性のみが、和紙で作られた特別なマスクのようなもので口と鼻を覆っている。正確な意味合いはわからないけれど、あるいは息が直接鏡餅にかからないよいうにと考慮されたものであるのだろうか?和紙でできた特別なマスクであること、他の参列者はそのようなマスクを装着していないことから、とても奇異な光景に見えた。

毎年のことだから、地元の人たちは献鏡台が家の前を通過する時刻を経験的に熟知しているのかもしれない。直前まで人出のなかった沿道に、いつの間にか多くの人が出て鏡餅を見送っている。

そんななかを、意外と速いスピードで献鏡の一行が通過していく。

やがて、伊香具神社の参道に入り、有名な伊香具式の鳥居を潜り、石段を登りきると最終地点の拝殿に辿り着く。時間にして、ほんの15分ほどのささやかな行程であった。

伊香具式の鳥居の前で、来年の「当人」が裃姿で鏡餅を出迎えていた。こちらは足袋姿ではなく、履物をしっかりと履いている。

担ぎ棒が付いたままの状態で拝殿の台の上に鏡餅が置かれると、やがて祭礼の中心人物が拝殿に着座して厳かに神官によるオコナイの祭事が執り行われる

拝殿の周囲を村人たちが取り囲む。

服装や態度などで明らかにわかるのだが、今、この伊香具神社の献鏡の祭礼の場にいる人たちのなかで、他所者は私と私を案内してくれた友人、それにもう1人のカメラを持った旅行者風の女性の3人のみだ。

全員合わせてもそれほど多い人数ではないが、それでも、ここに集まっている人たちのなかで他所者が3人しかいない祭りだということが、私にはとても感動的なことだと思えた。

観光客を目当てにした祭りが、最近は意外と多いような気がする。

曳山まつりも、左義長まつりや八幡まつりも、元々は自分たちだけの祭りだったのかもしれないが、今では、観光客が訪れることを期待し、あるいは観光客がいることを前提とした運営が執り行われていることは間違いない。

先に私は、祭りの輪の中に入っていくことができずに他所者であることを強く意識したと書いた。本当の意味での祭りの輪には入れないけれど、観光客も広い意味では祭りの参加者であり、祭りを構成している要素の一つであることは間違いない。

そんななかで、土地の人間だけで執り行われ完結するささやかな祭りは、私の心に深く沁み入った。それでいて、私たち3人を排除しようというふうでもまったくない。いやむしろ、歓迎してくれているのだ。

オコナイの不思議な一面を、また私は改めて知ったような気がした。

こんな素朴な祭りが湖北地方の身近なところのあちこちで行われているということに、私は強く感動した。

神主の祝詞が終わり、巫女さんの装束をした4人の若い女性の舞いの後、玉串奉奠が行われてオコナイの儀式は滞りなく終わった。

ホッと安堵の表情を浮かべる今年の当人夫妻の笑顔が印象的だった。

気がつくと、祭りに参加していた人々はいつの間にか元の集会場へと引き返し、後には私と友人と、それに献鏡した鏡餅だけが伊香具神社に取り残されていた。

伊香具神社を再び静寂が取り包む。

今頃村の人たちは、集会所の2階の広間で美酒を口にしながら、本膳を食べ寛いでいることだろう。鏡餅が集会所を出る前に、2段重ねになった仕出し弁当がたくさん所内に運び込まれていくのを見た。

私たちも、そっと伊香具神社を後にした。

後には、鏡餅だけがぽつんと拝殿の台の上に残されたままだった。やがて本膳を堪能し日本酒にしたたか酔った村の人々が再び神社に戻り、鏡餅を集会所に持ち帰ることだろう。

こうして、大音地区の今年のオコナイも無事に終わる。今年もいい1年を送ることができて、五穀が豊穣でありますように、人々の思いが神に通じたにちがいない。