16.曳山まつり

曳山まつり(湖北の祭り考Ⅰ)

 祭りには、その土地の歴史と風土と信仰とが色濃く反映されている。
 そしてなぜか、祭りには人の心を躍らせ血をたぎらせる魔力がある。
 私は祭りが大好きだ。自ら参加する機会は持ち合わせていないものの、たとえ他所者(よそもの)で周囲から見ているだけであっても、祭りは見る者をして心を熱くせしめる不思議な力を持っている。いつの間にか祭りに引き込まれ祭りと一体化している自分を見出すことは、私にとって心地よい快感でさえある。
 湖北地方を代表する祭りと言えば、やはり曳山まつりを最初に思い浮かべる人が多いのではないだろうか?
 山車(曳山)を使った祭りであり、そのこと自体は祇園祭り、高山祭り、秩父夜祭りなど、規模の大小はあるものの全国各地で見ることができる、きわめてポピュラーな祭りの一形態である。
 それでも長浜における曳山まつりが印象的であるのは、太閤秀吉が開始したという祭りの起源の特異性と、それが故に豪華な山車(曳山)の存在と、子供歌舞伎の可憐さが特徴的であるからではないだろうか。
 これから私は長浜市を訪れ、長浜における曳山まつりについてを考察し、ひいては湖北地方におけるまつりについて考えを巡らせたいと思っている。

 曳山まつりの起源は、羽柴秀吉の時代に遡る。
 そもそも長浜の街自体が、秀吉によって拓かれた街である。天正元年(1573)、小谷城の攻防戦における勝利で浅井氏を滅亡に追い込んだ織田信長は、この戦いにおいて最も功のあった羽柴秀吉を北近江三郡(伊香郡、浅井郡、坂田郡)に封じ小谷城を与えた。
 秀吉が初めて国持ち大名となったのが、この時のことであった。
 日本海側に抜けるための幹線道路である北国脇往還が城下を通り、京にも東国にも移動しやすい交通の要衝にあった小谷城であったが、越前の朝倉氏と湖北の浅井氏を倒して眼前の敵を一掃した秀吉にとっては、冬季は深い雪に閉ざされる険阻な山城は無用の長物だったのだろう。
 加えて秀吉は、琵琶湖の水運を活用したかったものとも考えられる。
 小谷城を賜った翌年にすでに秀吉は、早くも今の長浜への移転に着手し始めている。
 当時は今浜という名前で呼ばれていた長浜の地は、琵琶湖に面した小さな集落であったものの、背後には広い後背地を持ち冬の雪も小谷ほど深くはなく、水運を利用した物流の拠点としてのポテンシャルを持ち合わせていた。まさに秀吉の炯眼であったと言うことができるだろう。
 秀吉は小谷の城下町を町ごと長浜に移転させた。
 人も、家も、寺院も、根こそぎ小谷の城下町を長浜に持って行ったのだ。長浜市の旧町名には、郡上(ぐじょう)や伊部(いべ)など今でも小谷山の麓に残る地名が使われていた。長浜市元浜町にある智善院は、長浜城の鬼門を守護するために小谷城下から移されたものである。
 こうして秀吉は、旧小谷城の城下町を核にしながら、新興都市としての長浜の街を形成していった。
 長浜駅に程近い豊国(ほうこく)神社の鳥居の近くに1基の大きな石碑が建てられている。
 昭和48年(1973)に長浜開町400年を記念して建立されたその石碑には、

  君が代も わが世も共に 長濱の
  真砂のか須(ず)の つき屋(や)らぬまで

の歌が刻まれている。秀吉の軍師であった竹中半兵衛の歌だ。
 新しい街づくりに臨む気概と理想に満ちた歌である。
 秀吉は、旧小谷城の城下町から移した民家や商家などの建物や寺院などのハードを新しい街のインフラとするとともに、そのインフラを円滑に運営するためのソフトとして楽市楽座や300石の地租免除などの経済助成策を次々と打ち出した。
 今でも長浜の市街を歩くと、「従是東長濱領」「従是北長濱領」などと刻まれた石柱を随所に見ることができる。この石柱自体は後世の復刻であるが、石柱に彫られた東や北などの方角に従って石柱と石柱とを線で繋いでいくと、線で囲まれた一つの区画が浮かび上がってくる。


 この区域こそが、秀吉が朱印状により300石の地租免除を約束した経済優遇区域である。秀吉の事蹟を徹底的に破壊した徳川幕府の時代になっても長浜の町に与えられたこの経済特権は維持されたというから、長浜の町衆にとっていかに恩恵に与(あずか)った善政であったかが窺われる。
 秀吉は信長とともに、城や城下町を外敵からの防御のためのものでなく、領国運営のための経済的拠点として位置づけたおそらく最初の戦国武将であったのではないかと考えられる。
秀吉や半兵衛の願いのとおりに長浜の街は、彼らが去ったあとも繁栄の途を辿り、湖北地方を代表する大都市として今に至るまで連綿と成長し続けている。
意外なことに、秀吉が長浜城主であった時代はほんの6年間ほどでしかない(天正2年(1574)~天正8年(1580))その意味においては、秀吉は長浜発展の種を蒔いただけで、その種が秀吉の思惑通りに成長して花開いたということになる。
長浜市民の祭り好きで先取の気性に富んだ気質は、そのルーツを辿って行けば、もしかすると浅井氏の配下であった小谷の町衆のDNAに辿り着くかもしれないと私は密かに思っている。
 あるいは、小谷の町衆に潜在的に祭り好きな気性があることを見抜いた秀吉が、彼らの人心を懐柔するために巧みに持ち込んだ施策の一つであったのかもしれない。

これは勝手な私の想像である。

 いずれにしても、派手なことを好んだ秀吉と長浜の町の人々との人心を一つにするために、まつりが果たした役割が大きかったことは間違いない。

 そのような時代背景と雰囲気のなかで、曳山まつりの基となる祭りが始められた。

 由来書によると、秀吉が町年寄十人衆に命じて、八幡太郎義家が後三年の役に勝利した時の凱旋の様子を表した「太刀渡り」を長浜八幡宮の祭礼として行わせたことが、曳山まつりの起源であると伝えられている。

 街の中心部に鎮座する長浜八幡宮は、延久元年(1069)に源義家(八幡太郎義家)からの発願を受けた後三条天皇の勅により、京都(現在の京都府八幡市)の石清水八幡宮から霊を分霊して当地に祀ったのがその起源とされている。

 石清水八幡宮は、都の鬼門(北東)を守護する比叡山延暦寺と対峙して裏鬼門(南西)を守護する神社として、皇室からの篤い信仰を得ていた神社であった。

加えて、創建を命じられた清和天皇の子孫と称する、源氏をはじめ足利氏、徳川氏、武田氏などの錚々たる武将たちが氏神として信仰していたことから、武運の神としても崇められていた。

鎌倉の鶴岡八幡宮も石清水八幡宮から勧請したものであるし、八幡太郎義家の「八幡」も石清水八幡宮と関連して名づけられた(1)名である。

武家にとっての聖地である長浜八幡宮で、長浜八幡宮に所縁(ゆかり)の深い八幡太郎義家の事績を顕彰する祭りを始めようとした秀吉の意図は、武運長久を祈念してのものであったのだろう。

その後、待望の長子(秀勝、6歳で死去)が誕生した秀吉は、大いに喜んで長浜の町人たちに砂金を与えた。長浜の町人たちはその砂金を自らのためには使わず、八幡宮の祭礼を盛大に盛り上げるべく、曳山を制作するための基金とした。

こうして、秀吉と長浜の町衆の合作である曳山まつりが誕生したのであった。

長浜の町としての興隆は、秀吉の時代にではなくて、むしろ江戸時代中期以降にあると言われている。次の章で書くことになるが、湖北地方は良質の絹糸の産地であった。その絹糸からみごとな縮緬を織り上げた。さらに、蚊帳やビロードなどの繊維製品を次々と生産していった。

これらの繊維製品はそれぞれ、「浜縮緬」、「浜蚊帳」、「浜ビロード」のブランドで日本全国に出荷され、購買者からの高い評価を得るに至っている。

長浜の町の発展の歴史は、まさに繊維とともに発展していった歴史でもある。加えて、琵琶湖の水運を利用できるという立地のよさも、この町の発展に大いに有利に働いている。曳山まつりに使われている曳山も、秀吉の時代に一時(いちどき)に造られたものではなく、町の発展とともに順次新造され加えられていったものであるようだ。

 

 では曳山まつりとは、どのような祭りなのだろうか?

曳山まつりは、毎年4月15日の子供歌舞伎奉納を中心に、9日間に亘って繰り展げられる長浜八幡宮の祭礼であり、長浜市を代表する祭りである。

 祭りの始まりは、4月9日の「線香番」という行事から始まる。

 線香番とは、祭りの総当番が子供歌舞伎の稽古場を訪れ、歌舞伎の上演時間を測る行事のことである。

 後に詳述するが、曳山まつりのメインとなる行事は、曳山と呼ばれる豪華な山車の曳き回しと、その曳山に設えられた舞台で執り行われる子供歌舞伎である。

 祭りのはじめにあたり、総当番がその子供歌舞伎の上演時間を測る行事が行われる。ストップウォッチなどの便利な道具がなかった昔は、線香を燃やして時間を測定したことから線香番という呼び名となったのだと言う。

 この4月9日に行われる線香番を皮切りに、ざっと次のような行事が執り行われる。

4月9日~12日 裸参り

子供歌舞伎の稽古が終わった後の夜8時過ぎに、若衆が褌姿で「ヨイサ、ヨイサ」と

いう掛け声とともに長浜八幡宮や豊国神社に詣でる行事。

 4月13日 起し太鼓

  早朝の行事である御幣迎えに供えて、未明(午前1時~2時頃から夜明けまで)に若衆

が笛、太鼓、スリガネなどで囃子を奏でながら町内を練り歩く。この起し太鼓は、子

供歌舞伎が奉納される15日の早朝にも行われる。曳山まつりは早朝の行事も多いこと

から、遅れることがないようにと始められたものかもしれない。

 4月13日 御幣迎え

  曳山に飾る御幣を長浜八幡宮に迎えに行く儀式。御幣とは、神を祀る際に使用する白

い紙を幣串に挟んだ神祭用具。金冠をいただき狩衣姿の10歳くらいの子供が御幣を授

かり、組内に持ち帰る。午前7時に行われる早朝の行事。

 4月13日 神輿渡御

  午前10時半、八幡宮の神輿が15日の曳山の集結地である御旅所へと担がれていく。

 4月13日 くじ取り式

  その年の出番山(12基ある曳山のうち通常は4基がその年の出番山として祭りに参加

する)の順番を決めるくじ引きの儀式。くじ取り人を応援する各組若衆が自組の扇子

を頭上に振りかざしながら、「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声を掛ける騒然とした雰囲気の

中でくじ取りが行われる。一番山を引いた組のみが子供歌舞伎上演前に三番叟を行う。

 4月13日 十三日番

  午後6時から各山組の前の道路に曳き出された曳山の舞台上で、本衣装と化粧をした

子供たちが初めてその年の外題の歌舞伎を演じる。

 4月14日 登り山

  文字通り、曳山が長浜八幡宮に登っていくこと。午前中に各山組で子供歌舞伎が上演

された後、子供役者を舞台に乗せた曳山が、四番山から順に長浜八幡宮に集まってい

く。

 4月14日 夕渡り

  午後7時、歌舞伎役者の衣装と化粧のまま、子供役者が歩いて長浜の街の中心部を通

り各組へと帰っていく。手提げ提灯の明かりに照らされて、たいへんに風情のある光

景である。

 4月15日 春季大祭

  午前7時から、長浜八幡宮で執り行われる祭礼。市内の重要な役割を担う人たちが紋

  付袴などの正装で参列する。

 4月15日 朝渡り

  午前7時から、この日に子供歌舞伎を演じる役者たちが夕渡りとは逆の順番に、徒歩

にて八幡宮にやって来る。いよいよこれから子供歌舞伎の奉納が始まるとの期待感が

高まっていく。

 4月15日 太刀渡り

  八幡太郎義家が長浜八幡宮に参拝した時の姿を模したと言われるもので、2~3メート

ルはあろうかという太刀を腰に刺した鎧姿の子供たちが行列を組んで八幡宮に詣でる。

 4月15日 子供歌舞伎奉納

  この祭りのメインと言ってもいい子供による歌舞伎の上演。一番山から順にその年の

外題が子供たちによって演じられる。後に詳述するので、ここでは簡単に触れるに止

める。

 4月15日 神輿還御

  御旅所でこの日最後の歌舞伎が上演された後、神輿が八幡宮に還っていく。

 4月15日 戻り山

  神輿還御に続いて、御旅所に集結した曳山が各組へと戻っていく。灯が灯された提灯

が曳山の周囲を取り巻き、えも言われぬ幻想的な光景が目の前に現れる。

 4月16日 後宴

  各組にて曳山を路上に曳き出し、朝の10時頃から夜の千秋楽まで数回におよび、子供

歌舞伎を演じる。その年の子供歌舞伎も、これでもう見納めである。

 4月17日 御幣返し

  最後に八幡宮から迎えた御幣を八幡宮に返却する。これで今年の曳山まつりの行事は

すべてが終了となる。

 

 4月13日から15日の3日間を中心に、実に様々な行事が行われることがわかるだろう。

祭りのメインとなるこの9日間以外にも、子供歌舞伎の稽古はすでに1ヶ月前から始められているし、翌年のまつりの準備は6月には始まると言うから、ほとんど年間を通じて曳山まつりのための活動が行われているということになる。

 

次に、曳山まつりで使われる曳山について見ていくことにしたい。

長浜には、祭りで使われる本物の曳山をいつでも見ることができる場所がある。そこは、曳山博物館という博物館である。

 長浜市の街の中心部、大手門通りと博物館通りとが交差する角地に建てられているユニークな構造の建物なので、すぐにそれと知ることができるだろう。

 この曳山博物館には、12基ある曳山のうちの4基が常に展示されている。

 写真などではよく曳山を目にしていた私であったが、実物を目の前にしてみると、あまりの豪華さに言葉がない。

 先の章で埼玉県本庄市の本庄まつりの山車について触れた(「浅井能楽資料館(知られざる匠のこだわり)」付記「本庄まつり体験記」)。山口憲さんが制作された胴幕は天下一品、世に並ぶもののない秀逸の作品であるが、山車そのものは規模も意匠も特筆すべきものではなかった。

 特にここ長浜でこれほどまでに豪奢な曳山を目にしてしまうと、比べるべくもない。

 あまりの豪華さに圧倒され、しばらく言葉を発することができなかった私であったが、気持ちを落ち着けて、まずは曳山の構造を見ていくことにしたい。

 

 曳山のことを「やま」と呼ぶ。

 曳山のルーツは、祇園祭りの前身である祇園怨霊会の鉾に求めることができる。長保元年(999)に、雑芸者の無骨という人が「標の山」という作り物を作って神に供えたのがその始まりであるとも言われている。

 標の山に車を付けて移動可能としたものが、山車になった。

 当時の都には疫病が流行していた。何とかしてこの疫病を鎮めることができないものか。人々は必死の思いで神に祈った。当時の思想では、すべては神の思し召しであり、疫病も神の仕業であると考えられていたからだ。

 神は恐ろしいものであるけれど、畏怖しきちんと祀れば五穀豊穣の恵みを与えてくれるありがたい存在でもあった。

 そして、そんな神が宿るとされていたものの一つが、「山」であった。

 山そのものがご神体となっている神社もある。奈良の大神(おおみわ)神社などがその典型例だ。大神神社には拝殿はあるが本殿はない。山そのものが本殿であるからである。

 祇園祭りの山車のことを「山鉾」と言う。曳山まつりの山車も「曳山」あるいは単に「やま」と呼ばれる。そもそも「山車」という言葉自体が、山の車と書く。

 これらに共通するキーワードが「山」であることには、誰でもすぐに気がつくだろう。

 曳山には、神が宿る神聖な場所という意味合いが込められている。

 山は自然のものであり動かすことができないけれど、車を付けた曳山は移動させて街中を練り歩くことができる。

 曳山に込められた想いは、神への畏敬であり、神への祈りであり、自分たちの平穏な生活である。そういう想いを込められて1台ずつ意匠を凝らして創り出されたのが、曳山だったのだと、私は考えている。

 そういう想いを込めて曳山を見ていくと、曳山がますます神々しいものに思えてくる。

 

 「やま」の主体部は、「舞台」と「楽屋」とから成っている。やまの前部が「舞台」であり、後部が「楽屋」である。さらに楽屋の上部を「亭(ちん)」と言い、下部を「下山」と言う。

 本庄まつりの山車と比べて曳山まつりの「やま」が決定的に異なるのは、この「舞台」の部分が圧倒的に広いことである。普通の山車は、せいぜいお囃子衆が坐る「囃子座」という比較的狭い場所が用意されているのみだが、曳山まつりの「やま」には、まさに舞台と呼ぶにふさわしい広いスペースが前面に付属している。

 舞台の広さはおおよそ四畳半程度というから、一般的な茶室の広さと同じである。曳山の舞台の上でお茶が点てられると思うと、その広さを理解することができるだろう。

 舞台の周囲を高欄で囲み、前面部には左右に前柱が立って屋根を支えている。この高欄や前柱には、「やま」によってそれぞれ見事な蒔絵や飾り金具などの装飾が施されていて、まるで動く美術館のようである。

 これらの飾り金具のなかには、藍水堂一徳や姉川堂良忠など国友の金工たちの名作が含まれていることは、先の章(「国友」(歴史を陰で支えた隠れたる名工の里))で触れた。

 正面にあたる舞台の屋根は向大唐破風で側面に千鳥破風を置くやまが多いが、側面に千鳥破風がないものや、切妻造り、入母屋造りの屋根を持つやまなどもあり、これらの違いを見比べているだけでもとても楽しい。

 さらに、舞台の上の天井に目を移すと、ここにも様々な装飾が施されていることがよくわかる。どのやまも格子天井になっていて、天井には花や鳥などの美しい絵が施されているものもある。

 舞台の後方には「楽屋」が控えている。舞台と楽屋とは、面幕と舞台障子とで仕切られている。この面幕や舞台障子が、またすばらしい。

 舞台障子は、金地に牡丹、芙蓉、小禽(しょうきん)、花車などの花鳥図が描かれているものがほとんどであり、どの障子もたいへんに豪華で美しい。

 舞台障子の脇に置かれている面幕も、龍、鳳凰、鯉、猿などが鮮やかに織りなされている立派なものだ。

 晴れの舞台とは、まさにこのことだと思った。

 豪華できらびやかな舞台空間は、秀吉が造った京の聚楽第や大坂城の一室を私に想像させた。当世一流の名工たちが腕を競い精魂を傾けて創り上げた名品の数々を散りばめたような空間が我が眼前に存在しているのだ。

 それはもう、感動という言葉以外のなにものでもなかった。

やまの前の部分が舞台だとすると、後ろの上の部分が亭(ちん)である。やまを正面の少し離れたところから見ると、舞台屋根の上にさらにもう一段、亭の屋根が高く聳えるようにして重ねられて見える。

 亭は四柱造りが最もポピュラーであるが、八つ棟造り、宝形造り、六角円堂などの亭もあり、屋根上に鳳凰を抱くもの、宝珠を置くものなど、やまによってそれぞれに特徴的な装飾が凝らされている。

 舞台障子で仕切られた亭の内部は楽屋になっていて、太夫(浄瑠璃)と三味線を演じる三役台が控える場所となっている。さらにその後ろは、楽屋襖を隔てて役者の控室になっている。

 やまの周囲は胴幕や見送り幕などで飾られているが、そのなかには重要文化財に指定されている16世紀ベルギー製の飾毛綴(タペストリー)が使用されているものもある。

この異国情緒溢れる見送り幕は、山組の人たちが京都の商人から200両で買い取ったものだとの記録が残っているそうだ。200両という金額が今の換算でどのくらいの価値に相当するものなのかはわからないが、かなりの大金であったものと推測できる。

純和風を追求するのでなく、大胆にも南蛮文化の意匠を採り入れて和洋折衷で曳山を飾ろうとした心意気が、いかにも進取の気性に富んだ長浜の町衆らしくておもしろい。

 

 これまで私は、随分と多くの紙面を割いて曳山を詳細に見てきた。正直言って、これだけの贅を尽くした豪華な曳山が12基も長浜の町に存在していることに、驚きを禁じ得ないでいる。

 正確に言うと、舞台や亭を持たない特異な型式である長刀山を加えた13基のやまがあるということになる。それぞれのやまの制作年代や作者などを列挙すると以下のようになる。

 

 長刀山(なぎなたやま) 小舟町組 元禄12年(1699) 伝藤岡甚兵衛作

 高砂山(たかさござん) 宮町組 延享2年(1745)以前 亭は文化13年(1816)藤岡重兵衛安則の作

 壽山(ことぶきざん) 大手町組 天明2年(1782) 藤岡和泉利盈の作、亭は作者不明

 鳳凰山(ほうおうざん) 祝町組 文政12年(1829) 藤岡和泉の作

 猩々(しょうじょう)丸(まる) 舟町組 安永3年(1774) 藤岡和泉一富の作

 萬歳樓(ばんざいろう) 瀬田町組 享和2年(1802) 藤岡重兵衛安道・市松安則父子の作

 翁山(おきなざん) 伊部町組 明和2年(1765) 藤岡和泉一富の作、亭は文化13年(1816)十兵

衛作

 孔雀山(くじゃくざん) 神戸町組 本体は宝暦年間(1751~1764)頃、亭は文化12年(1815)藤岡重

兵衛安則の作

 常磐山(ときわざん) 呉服町組 本体は明和7年(1770)、亭は文政元年(1818)の作

 春日山(かすがざん) 本町組 制作年代不詳 本体は平右衛門の作と伝えられている

 諫皷山(かんこざん) 御堂前町 本体は安永3年(1774)藤岡和泉一富の作、亭は文政元年(1818)

の作

 月宮(げっきゅう)殿(でん) 田町組 本体は天明5年(1785)岡田惣左衛門重貞の作、亭は嘉永3年(1850)

藤岡重兵衛光隆の作

 青海山(せいかいざん) 北町組 本体は宝暦5年(1755)藤岡和泉長好の作、亭は文化2年(1805)

         藤岡重兵衛安道の作

 

 同じ滋賀県の曳山でも、大津祭の曳山が1600年代中頃から1700年代前半の制作が中心であるのと比較するとやや新しく、江戸時代もむしろ後期の作であることがわかる。

 特に亭は後から作られたものが多く、江戸も末期に近い亭まである。

 時代が下る分、成熟した文化や技術などがより多く盛り込まれている。長浜の町の経済的興隆とも相俟って、大津祭や他の地域の曳山と比較しても非常に豪勢なものであることが特徴的だ。

 曳山の作者として名前が登場してくる藤岡和泉や藤岡甚兵衛などは、長浜の町が生んだ名工である。

彼らは曳山の制作に関わる傍らで、多くの神社や小堂などの建築を手掛け、またその技術を活用して仏壇の制作などでも活躍した。今でも浜仏壇として長浜の名産品の一つに数えられている仏壇の制作は、藤岡和泉が曳山を型どり和泉壇と呼ばれる仏壇の様式として創案したものであると伝えられている。

浜仏壇は、曳山制作の技術が濃縮された結晶である。今では反対に、その技術を受け継いだ仏壇職人たちの手によって曳山の修理が執り行われていると言うから、曳山と浜仏壇との密接な関係を窺い知ることができる。

 

 こうして曳山を見てくると、曳山の存在は長浜という町そのものの象徴であるように思えてくる。太閤秀吉が見た天下人の夢。その夢の出発点にあたる町が、長浜であった。そんな秀吉が持つ上昇気流と言うか爆発的なエネルギーを直接的に享受し、長浜の町の経済と文化の発展とともに歩んできたのが、この曳山だったのではないだろうか。

 この財と贅とを尽くした12基の曳山は、秀吉が祭りを始めた時から全台が揃っていたわけではないし、先に見てきたように、今に残る曳山は秀吉の時代の曳山そのものでもない。曳山は、長浜が町として発展していくのに応じて順次拡大していくとともに、その時々の技術や文化を反映し少しずつ変わりながら今に伝えられていったものである。

 先に私は、曳山のことを動く美術館と言った。言葉を少し変えて言えば、動く文化財でもある。長浜という町が成長し発展してきたその歴史と文化とが凝縮されて詰め込まれているのが、今に伝えられた曳山なのではないだろうか。

 私はしみじみとした思いで、改めて、曳山博物館にある曳山を眺めた。

 曳山に連綿と引き継がれてきた長浜の人々の熱い思いと希望と美意識とを想うと、いくら見ていても見飽きることはない。私はこの曳山に、長浜という町の魂を見たような気がした。

 

 博物館の曳山を見た私の心に生じた思いは、ただ一つだった。

 ガラスの陳列室の中に置かれた曳山ではなくて、祭りの場で動き回る生きた曳山を見てみたい。

 それから数多の歳月が流れていった。仕事の都合もあり、なかなか4月中旬のこの季節に私は長浜の街を訪れることができなかった。

 いつかは自分の目で生きた曳山を見たい。この思いは次第に私の心の中で大きな位置を占めていった。そんな想いが叶う時がやって来た。

 平成24年4月15日、私は子供歌舞伎奉納の日の朝早く、長浜駅に降り立っていた。

 この日私は縁あって、朝7時から長浜八幡宮にて執り行われる春季例大祭に参列する栄誉に浴することができた。

一般には、曳山を曳き回して子供歌舞伎を演じるのが曳山まつりだと思われているだろうが、前述のとおり、元々は長浜八幡宮の祭礼に際して秀吉が「太刀渡り」の儀式を行わせたことが起源であり、この春季例大祭こそがこの祭りの本旨であるのだ。

そんな重要な祭礼に長浜市長や商工会議所会頭など長浜市の重職を担われている方々と同じ席に参列させていただき、身の引き締まる思いがした。

 雅楽の調べが鳴り響くなか、かすかな軋み音をたてて本殿の扉が開かれた。

 鏡餅、酒、鯛、野菜、果物などの供物が神官たちによって次々と本殿に運ばれていく。やがて宮司による厳かな祝詞。そして玉串奉奠。

 今年一年の無病息災と五穀豊穣を祈念し、曳山まつりの成功が神に祈られた。

 参列者の多くは紋付羽織袴姿の正装である。そんな中に他所者である私がブレザー姿で紛れ込んでいる不釣り合いをひしひしと感じながらも、たとえ願っても容易に参列することなど許されない厳かな儀式の場に加わることができて、私はたいへんな感動を覚えた。

 直会(なおらい)の後、拝殿前の広場に戻った私は、そこで今年の曳山まつりの主役となるべき4基の曳山を間近に見ることができた。

 籤引きの結果、高砂山、猩々丸、壽山、鳳凰山の順で子供歌舞伎が奉納されることになっていて、その順番に4基の曳山が整然と並べられている。

 私は近づいて、曳山の細部を詳細に見ていった。

 博物館の中で見た曳山とは異なりガラス越しでない曳山が、早朝の柔らかな光を浴びて神々しく我が眼前に姿を見せていた。

最初は恐る恐るという感じだったのに、いつの間にか夢中で曳山に見入っている自分の姿があった。

間近にみる前柱や欄干の飾り金具はどれも精巧で、ただただ目を見張るのみである。繊細でかつ大胆なデザインに目が釘付けになる。

高砂山の欄干の下部には、波間に遊ぶ兎の姿が躍動感に満ちて表現されていた。唯一、御座舟の形をした曳山の猩々丸の背面には、左甚五郎作と言われている関羽と張飛の像が据え付けられている。壽山の前柱の昇り竜・降り竜の飾り金具は、精巧を極め技術の粋を集めていた。鳳凰山の舞台格天井には、花や鳥が鮮やかな色彩で描かれている。

目の前に現れた美の洪水に、私は酔い痴れた。

しかし私が最も感動したのは、これらの曳山が多くの曳き手によって動かされ、長浜の街の辻にその美しい姿を晒している時の姿だった。

けっして広くはない長浜の街を、みしみしと怪しい音をたてながら曳山が曳かれていく。

不思議なことに、5、6トンもの重量を支えている車輪には、右や左に曲がる機能がついていない。だから曲がり角を曲がる際には、一苦労である。

「ヨイサ、ヨイサ」の勇ましい掛け声とともに、引き手と押し手とが阿吽の呼吸で一気に角を曲がり切る様は、勇壮そのものだ。思わず沿道の見物客から拍手が起こるのも頷ける見事さである。

「ヨイサ」という掛け声は、「よいしょ」という力を出し切る際の気合いを込めた意味合いとともに、「いいぞ」という称賛のニュアンスが含まれているように私には思えて、たいへんに印象に残っている。

一方の曳山にも、相当のエネルギーの負荷がかかる。角を曲がる際に曳山が左右に大きく揺れて歪む様子を見ていると、このまま曳山が崩壊してしまうのではないかと心配になるくらいのインパクトである。

曳山には神様が宿ると思われている割には、意外と手荒い扱いを受けているところが、私にはまた微笑ましくて好感が持てた。

こうして御旅所と呼ばれる約800m先の広場まで、途中のいくつかの辻で停まって子供歌舞伎を演じながら、丸一日をかけて曳山は移動していく。

狭い通り一杯の空間を占領した曳山を見ていると、博物館のガラス越しに見るものでもなく、八幡宮の境内に整列されているものでもなく、実物の街のサイズで曳山を体感できる街中の曳山が一番美しいと私は思った。

 

 今まで私は、子供歌舞伎についてあまり触れて来なかった。目の前に現れた曳山のすばらしさに思わず目を引かれ、ぐいぐいと曳山のもつ魔力に惹き込まれていったからである。

曳山の魅力をひととおり堪能した私は、曳山と並んで祭りのもう一つの華である子供歌舞伎のことを、いよいよ語らなければならない時がきたようだ。

 残念ながら、子供歌舞伎の起源を、秀吉が祭りを創設した時代にまで遡らせることはできない。曳山まつりに子供歌舞伎が登場するのは、記録に残るうえでは明和6年(1769)あたりが初出のようである。

 その意味では、曳山の形態そのものも、子供歌舞伎が演じられるようになる以前とそれ以降とでは、趣が違うものであったかもしれない。

 当初は祭りの構成要素でなかった子供歌舞伎が、どうして曳山まつりで演じられるようになっていったのだろうか?

 それはある意味、歴史の必然であったようにも思われる。

 子供歌舞伎が演じられるということは、それを見る観衆がいるということと同義でもある。誰も興味がないものを外題として上演したとしても、祭りはけっして盛り上がらない。長浜には、子供歌舞伎を受け入れるだけの文化的土壌があったということであり、そのことが私には非常に重要な要素であったと思えるのである。

 元々近江国には、上三座、下三座の6つの猿楽座があったことが知られている。中世の日本文化を代表する猿楽は、やがて世阿弥らによって近世の能楽や狂言へと昇華していく。

 このうちの上三座は、伊吹山を中心とする文化圏内にあった。己高山や伊吹山を中心とした修験道の文化圏は、琵琶湖を挟んで西側の比叡山にも匹敵する大きな文化圏であり、仏教文化のみならず、こうした芸能文化をも包含した豊かな文化的土壌を作り上げていた。

上三座とは山階、下坂、日吉の3つの猿楽の座のことであり、世阿弥の『猿楽談義』にもその存在が記述されている。

先に採り上げた小堀遠州の祖の名前が初めて歴史に登場するのも、実は「長浜八幡宮文書」のなかの「勧進猿楽桟敷注文次第」(永享7年(1435)7月)という史料においてである。

この史料には、長浜八幡宮の前身である坂田郡八幡宮において、堂塔建立のための寄付を集める目的で勧進猿楽の興業が催されたことが記述されていて、その観覧者の一人として「小堀殿」という名前が記載されているのである。

この史料は、15世紀の長浜において猿楽の興業が行われていて、当時の有識者たちが多数観覧したという事実を物語っている。

猿楽の根幹をなすのは翁舞であった。翁舞を舞って神を祝福することが神事猿楽としての中心であって、その後に催される能や狂言などの舞は、むしろ余興としての意味合いが強いものであった。

神を祀る翁舞を見ていても実はあまりおもしろいものではないので、結果的に翁舞が廃(すた)れていって、より親しみやすい存在であった能や狂言のみが後世に生き残って伝えられたということなのだろう。

しかし祭りにおいては翁舞を舞うことこそが意味のある重要な行事であるので、今でも曳山まつりではまず三番叟を舞って、その後に子供歌舞伎が演じられるしきたりとなっている。

これは何の根拠もない私の想像だが、もしかしたら子供歌舞伎が演じられるようになる以前、秀吉の時代から比較的近い時代には、曳山の上では猿楽が演じられていたかもしれない。

時代が下り、町衆の経済力が増大していくにしたがって、形骸化した過去の芸能である猿楽に代わって、町衆のエネルギーを傾注できる生きた新しい芸能が必要とされるに至ってきた。そんな時に新たな試みとして演じられたのが、もしかしたら子供歌舞伎ではなかったのだろうか?

武家の式学が能であったのに対して、歌舞伎は庶民の間で圧倒的な人気を博していた。長浜の町衆は、流行の先端を行く芸能である歌舞伎を採り入れることによって、曳山まつりに新たな息吹を吹き込もうとしたのではないだろうか?

では、なぜ大人の歌舞伎ではなくて、子供歌舞伎なのか?

いたいけない子供たちが懸命に演じる歌舞伎はどこまでも清らかで、見ていて心が洗われる思いがする。子供たちが無意識のうちに振る舞うちょっとした所作にも、大人たちは頬笑みを禁じ得ず、心が和んでいく。

子供たちはやがて成長して大人になる。彼らは間違いなく、次の時代の曳山まつりを担っていくべき町の貴重な人材なのだ。

子供のうちから役者を演じて祭りに参加することで、祭りへの親しみと愛着とを自然のうちに身につけていく。これぞまさに、曳山まつりを未来永劫存続させていくための仕組みなのではないだろうか?

豪華な曳山は、お金をかければ作ることができるかもしれない。しかし、祭りを担っていく人の育成は、お金だけで解決できることではない。見る者をして清らかな心を呼び起こさしめ、同時に次の時代を託する人づくりにも資することができる。

子供歌舞伎は、長浜の町衆が生みだした究極の祭り維持のためのシステムであるのかもしれない。

 

 音と映像とで織りなされる子供歌舞伎のことを筆だけで表現することは難しい。反対に、子供歌舞伎のことを理解するにも、書物を読むだけで想像を巡らせることは相当に困難だ。私が曳山まつりをどうしても自分の目で見なければ、と思ったもう一つの理由である。

 前述の平成24年4月15日朝の長浜八幡宮で、私は初めて実物の曳山の上で演じられる子供歌舞伎を見た。

 一番山の高砂山の外題が演じられるのは9時55分からであったが、ちょうど日曜日ということとも相俟って、八幡宮の境内は1時間以上も前から多くの観光客でごった返していた。

 すっかり役者姿に化粧を整え装束を身に纏った小さな役者たちが、「朝渡り」と言って各山組から徒歩で八幡宮へと集まってくる。

 すかさず役者を取り囲む観光客に少しも動じる素振りも見せず、堂々たる立ち居振る舞いに驚かされる。

 実際の歌舞伎と同様に、曳山まつりの子供歌舞伎においても、女性の参加は許されていない。隈取りをした荒々しい武者姿の子供もいれば、本当に男の子が扮しているのだろうか?と目を疑いたくなるほどに美しい姫姿の子供もいる。

 一世一代の晴れの舞台を前にして、しかし静かに落ち着き払った子供たちの態度に、私は感心した。

 続いて長刀組の「太刀渡り」となる。身の丈以上もある長い太刀を腰に差した甲冑姿の子供たちが、行列を組んで八幡宮に参拝し御旅所へと歩いていく。八幡太郎義家が長浜八幡宮への社参の際の姿を模したとも言われる、元々秀吉が曳山まつりを始めた際から続く由緒ある儀式だ。

 同じく長刀組の「翁招き」の儀式のあと、いよいよ子供歌舞伎の開演となる。

 整列していた4基の曳山のうち、一番山の高砂山のみが数メートル前に曳き出され、本殿の向きに角度を変えて位置が定められる。

 一番山のみ、すべての演目に先駆けて「三番叟」の舞いが演じられる。先にも記したとおり、実はこの三番叟を演じることがこの祭りの重要な意義をもっていることを知る人は、意外に多くはないことだろう。

 小学校4年生、僅か10歳の少年が開演の緊張感を振り払うかのように力強く舞う三番叟の舞いで、人々の期待感が一層高まっていく。

 そして高砂山の今年の外題である「一谷嫩(いちのたにふたば)軍記(ぐんき) 須磨(すまの)浦(うら)の段 組討(くみうち)の場」が厳かに始まった。

 舞台は一の谷、源氏と平氏の戦いの場である。平氏の若き公達・平敦盛が熊谷次郎直実に討ち取られる有名な場面だ。

 組伏した敵将が若い敦盛であることを知った直実は、武士の情けでこっそりと敦盛を戦場から逃そうとする。その場面を岩陰から見ていた平山武者所が直実に二心ありと直実にプレッシャーを与える。

 直実は止むを得ず、泣く泣く敦盛の首を刎ねる……。

 このメインのストーリーに、敦盛とその許嫁玉織姫との心の交流や玉織姫に横恋墓を通そうと迫る平山武者所とのやり取りなどを絡め、相当に複雑な物語になっている。

 時間にして40分にも及ぶ堂々たる出し物であった。

 台詞はもちろん古文のままだし、小学生の子供たちが台詞を空んじ感情を込めて演じる演題としてはいささか難度が高い気がするが、そんなことを感じさせない見事な演技に感動を禁じ得なかった。

 この域に達するまでには、さぞかし厳しい稽古が行われたであろうことは想像に難くない。

 ふと舞台の周りを見てみると、紋付袴を着た大人たちが曳山の周囲を取り囲み、舞台の上で演じている子供たちを覗き込むようにして真剣な眼差しで見守っている。

 ある人は舞台の袖に手を掛けて、ある人はじっと腕組みをして、舞台を見詰めている。そしてお決まりの場面では、いの一番に掛け声を掛けたり拍手をしたりして舞台を盛り上げている。

演じている子供たちにとって、大人たちの存在はどんなにか心強いことだろうか。

曳山まつりにおいては、子供が主役で大人は脇役に徹している。

こうして、子供たちを前面に立てながら、陰で大人がさりげなくバックアップするという構図は、まさに世の望ましい姿であると私には思える。

私には少しずつ、役者が大人でなくて子供であることの理由がわかり始めたような気がした。

 4畳半の広さでは、茶道のスペースとしては問題がないかもしれないが、数人の大人が歌舞伎を演じるとなると、さすがに狭すぎてしまう。

子供の大きさにちょうどピッタリなサイズであるという舞台の大きさの制約がまずはあったのではないだろうか?

そして何よりも、子供が無意識のうちに持っている純真で華やかな表情や雰囲気が、祭りという場を盛り上げるのに最適であるという要素が、非常に大きいような気がする。

 

 八幡宮で最初の公演を終えた一番山は、やがてしずしずと移動を始めて、曳山博物館のある辻(一八屋席)でこの日2回目の興業を行う。さらに、もう少し進んだ札の辻席で3回目の公演を演じた後、御旅所神前でこの日最後の歌舞伎を披露する。

 1日に4回もの公演を行うことは、子供たちにとって容易なことではないだろう。しかし子供たちは嫌な顔ひとつせず、疲れた素振りも見せずに最後まで全力で演技を演じきる。

 子供たちの姿を見ていると、またとない豪華な舞台の上でヒーローになれることを、むしろ誇りに思い楽しんでいるかのようでさえある。

 八幡宮では、一番山に続いて二番山の猩々丸が「御所(ごしょ)桜(ざくら)堀川(ほりかわ)夜討(ようち) 弁慶上使(べんけいじょうし)の段(だん)」の外題を演じ、最終集結地点である御旅所に向けて移動していく。さらにその後に、三番山の壽山の「奥州(おうしゅう)安達ヶ原(あだちがはら) 袖(そで)萩(はぎ)祭文(さいもん)」、四番山の鳳凰山の「小磯原(こいそがはら)雪(ゆきの)柵(しがらみ) お静(しず)と礼(れい)三郎(ざぶろう)」の外題が続く。

 この日の長浜の街では、辻のあちらこちらに曳山が停まり、その曳山の舞台上で子供歌舞伎が演じられるのを見ることができる。

 なんとも贅沢で華やかな一日である。

 私は、長浜という町の繁栄の歴史を想った。町の繁栄とは、文化の醸成である。財があっても文化のない町はいずれ衰退していく。財を文化に換え、それを時代の変化に合わせて修正しながら守り続けることができた町だけが、繁栄という恩恵に与ることができる。

 長浜の街中を練り歩く生きた曳山を見て、私の思いは確信へと変わっていった。

 

 どれだけの時間が過ぎただろうか?

 やがて日は西に傾き、辻々に留まっては子供歌舞伎を演じていた曳山も次第に最終集結地点である御旅所に集まりつつあった。

 オレンジ色の夕焼け空を背景に、提灯の灯りが灯された曳山は、昼間とはまた異なった妖艶な表情を見せてくれていた。

 曳山まつりは、いよいよこれからクライマックスの時を迎える。

 完全に闇が支配するようになった空の下、一番山から順番に1台ずつ曳山が御旅所に集結してきた。

 4基すべての曳山が揃うまでにはまだ少しの間がある。宵闇の中でまだまだ遅い時間まで賑やかに祭りは続いくのだが、帰りの新幹線の制約がある私は、途中で御旅所を後にしなければならない。

後ろ髪を引かれる思いで私は、祭りの喧騒に背を向けて駅へと続くうす暗い道を歩いていった。

 そんな私の背中には、翻意を促すように賑やかな祭りの音が追いかけてくる。やがてその音も次第に遠い存在へと化していって、私は元の現実の世界へと引き戻されていくのを強く意識した。

 ほんの入り口部分だけではあったが、本物の曳山まつりを自分の目と耳と体とで経験することができて、私の心は満たされていた。春のほの暖かな一陣の風が頬を掠めて吹き過ぎていくのを、私は心地よい気持ちで感じていた。

 

 

(1)   7歳になった源義家が壷井八幡宮(現在の大阪府羽曳野市壷井)の神前で元服したことから「八幡太郎」と称したことがその名の由来とされている。壷井八幡宮は、義家の父である源頼義が河内源氏の氏神として祀るために石清水八幡宮から分霊したものである。