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2009-01

Ⅱ.江戸編 6. 豪徳寺(墓所)

最終目的地である豪徳寺に行く前に、今日はちょっと寄り道をしてみたい。

スタート地点は三軒茶屋。ここから路面電車に毛の生えたようなキュートな電車である東急世田谷線に乗る。もうそれだけで、遠足気分でルンルンになる。少し前まではイモ虫のような緑一色の電車が走っていたものだが、今では赤色や緑色を基調とした近代的なデザインの車両に変わっている。個人的には、かつてのイモ虫電車が懐かしい。clip_image002 東急世田谷線

それにしても、沿線の家や木々がなんと電車に近接していることか。民家の庭を車窓の借景にしながら、歩くようなスピードで電車は進んでいく。遊園地にあるミニ列車に乗っているような感覚でしばらく行って、松陰神社前で降りる。

駅前の道を少し行くと、目指す松陰神社の鳥居が見えてくる。神社名からわかるように、この神社は幕末の思想家であり教育家であった吉田松陰を祀った神社である。菅原道真ほどの知名度はないが、受験シーズンともなれば、合格祈念の親子連れで賑わうという。神域の一角には吉田松陰が萩で開いた松下村塾のレプリカが建立されていて、萩に行かなくても当時の様子を偲ぶことができる。

実は吉田松陰の墓が、松陰神社の中にある。

案内板に従い、向かって左側にある墓地を進んでいくと、「吉田寅次郎藤原矩方墓」と刻まれた比較的小さな墓標に辿り着く。こここそが、吉田松陰の墓所である。

説明書きに曰く。

松陰先生墓所

文久3年(1863年)正月9日、高杉晋作は千住小塚原回向院より伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等同志と共に、この世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に頼三樹三郎、小林民部も同じく回向院から改葬した。

 これから訪れる井伊家の菩提寺である豪徳寺もそうだが、世田谷には大名の領地の飛び地が多数存在していたらしい。松陰神社がある土地は、江戸時代に毛利家の別邸があった地だそうで、安政の大獄により江戸の小伝馬町で斬首され千住小塚原の回向院に葬られていた吉田松陰の遺体を、弟子であった高杉晋作らがここに移葬したものと伝えられている。

 直弼の墓に詣でる前に松陰の墓に詣でるというのも、複雑な思いがする。clip_image004 吉田松陰墓

 小伝馬町の牢に囚われた後も松陰は、自らの運命を楽観的に考えていたようである。一説によると松陰を死に追いやったのは、過激な思想をもち行動力抜群の松陰を持て余していた長州藩の意向が強く働いていたとも言う。歴史の真相はわからないが、松陰は安政6年(1859年)10月27日、30歳の太く短い生涯を閉じた。

 牢舎があった小伝馬町には、「松陰先生終焉之地」の石碑が建っている。その傍らには、

 身ハたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 畄(とどめ)置(おか)まし大和魂

の歌碑が刻まれている。志半ばで世を去らなければならなかった松陰の気持ちを思うと、さぞ無念な死であったことと思う。最後に、松陰の辞世の歌をここに記載して松陰神社を後にすることとしたい。

 親思ふ こころにまさる親ごころ けふの音づれ 何ときくらん

 松陰神社の前の道をほぼまっすぐ西に10分ほど進んでいくと、住宅街の中に突然のごとく世田谷城址公園の小高い山が見えてくる。本当に住宅街の真ん中にあって、不思議な感じだ。

この街中にある城跡の存在は、遠藤周作さんの「埋もれた古城」という本によって知るようになった。

 東京の中でも屈指の伝統的住宅街である世田谷に、城があったなんて。遠藤周作さんの本を初めて読んだ時、私はまず純粋に驚いた。この城跡は、赤穂浪士で有名な吉良上野介とも血縁のある世田谷吉良氏が治めていた居城だそうで、豊臣秀吉の小田原城攻めで廃城となるまで存していたそうだから、比較的最近まで機能していた城ということになる。

 今でもカラ濠や土塁などの城の遺構が残されていて、中世の城郭の構造を知るうえでの貴重な資料である。

 自然の小山を丸々利用した城跡は、今では散歩道として整備され市民の憩いの場となっている。私は山頂に据えられたベンチに腰を降ろし、遠藤周作さんの「埋もれた古城」の文庫本を取り出して読んでみた。時折吹きぬけていく風が心地よい。

 その場所で読む文章というのは、またひとしおだ。それほど長くない文章なので、一気に私は世田谷城の部分を読み終えてしまった。

 世田谷城址公園から豪徳寺までは、ほんの5分の距離である。

 松陰神社から来た道をそのままさらに西に歩き続ければ、豪徳寺の山門から続く参道と交差する。彦根の埋木舎から歩き始めた私の直弼を訪ねる旅も、ついに墓所のある豪徳寺まで来てしまった。

 文字通り埋木舎で埋もれて朽ちていったかもしれない一人の男が、歴史の表舞台に躍り出ていった。それも、誰もが尻込みするような史上例を見ない未曾有の難局での登場である。その時の直弼の置かれた立場や状況を考えると、私たちの日常の悩みなんて小さなものに思えてしまう。まさに直弼は、命をかけて日本という国の方向性を定めたのだ。

 あの直弼が、ここに眠っている。自然と緊張感が全身を包み込む。

 これまでにも、江戸における広大な屋敷跡を見てきて井伊家の強大な権力を目の当たりにしてきたが、豪徳寺も、井伊家の家格と威光に相応しい規模と格式とを備えた寺である。

 山門から正面に見える建物が仏殿で、延宝5年(1677年)の建立というから、当時のままの建物である。直弼も見たに違いないものだ。左手には白木の三重塔があり、仏殿の後ろには後世の建造物だが本殿が建立されている。広大な寺域を持つ堂々たる伽藍だ。

 直弼の墓のことは後で書くとして、豪徳寺と言えばもう一つ、どうしても書いておかなければならないのが招き猫のことである。井伊家は猫と縁が深い。2007年に彦根で築城400年の記念イベントが催されたが、このイベントを盛り上げたのが、ひこにゃんと呼ばれている猫のキャラクターである。

2本の黄色い大きな角を携えた赤い兜をかぶった白い猫のキャラクターは愛らしくて、ひこにゃんの名前と顔は全国的にも有名になった。ひこにゃんの成功にヒントを得て、全国のイベントでいろいろなキャラクターが誕生したが、本家を上回るキャラクターは今だに現れていない。

 このひこにゃん、豪徳寺に伝わる招き猫の言い伝えと関係している。

 時は二代藩主の直孝の時代、鷹狩りでこの寺の近くを通りかかった直孝が夕立に見舞われた際、お寺の門前で手招きをする猫を見つけて近づいて行った。その直後に、もと直孝がいた場所に落雷があった。猫の手招きがなかったならば、直孝は雷に打たれて落命していたところであった。

 命拾いをした直孝は、それまでは先程の世田谷城主であった吉良氏が建立した小さな寺であったものを、豪徳寺と改名したうえで井伊家の菩提寺として再建し、多くの堂宇を寄進して整備を図ったという。

clip_image006 豪徳寺の招き猫

 以来、豪徳寺と言えば招き猫ということになり、今でも社務所に行くと大小様々な大きさの招き猫が販売されている。右手をちょこんと挙げて大きな瞳で見つめる姿は、実にかわいらしい。私もご多分にもれず、思わず家へのおみやげにと小さな招き猫を買ってしまった。境内には招き猫を収納するための棚も用意されていて、これだけの招き猫が一堂に会している光景は、それはもう壮観である。

 いよいよ私は、直弼の墓所に足を運ぶ時を迎えた。

 招き猫などを見ていて和んでいた心が、一気に引き締まるのを覚えた。井伊家歴代の藩主の墓は、門を入って左手にあたる豪徳寺墓域の中でも、特に奥まった所に配置されていた。

 戒名しか彫られていない同じ形をした墓石が立ち並ぶ中で、直弼の墓はすぐにそれと知れた。直弼の墓の前にだけ、色とりどりの花が供えられていたからだ。

 直弼の墓は、井伊家歴代藩主の墓のなかでも一番奥に位置していた。「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と書かれたかなり大きな墓石がひっそりと建っていた。ここに本物の直弼の遺体が埋まっているのだと思うと、胸が詰まった。

 私は時が経つのも忘れて、直弼のことをいつまでも考え続けていた。混雑するほどではないけれど、ひっきりなしに訪のう人が絶えない。彼らはどんな思いで直弼の墓を詣でているのだろうか?

clip_image008 井伊直弼墓

 安政の大獄の加害者と言ってもいい直弼の墓と被害者の一人である松陰の墓が、わずかに歩いて15分ほどの距離にあるという事実に、私は歴史の皮肉と言うか不思議を感じた。さらに言えば、直弼の遺体も松陰の遺体も、ともに首と胴体とがくっついていない遺体である。

 今私は加害者と被害者と書いたが、果たしてこの表現は的確かどうか。歴史という大きな流れの中では、直弼も松陰もどちらも被害者だったのではないか。歴史とは時に残酷なものだと、やりきれない思いで世田谷の地を後にした。

※ちょっと足を伸ばして

  ちょっと足を伸ばして、世田谷ボロ市が開かれるボロ市通りを歩いてみよう。

  世田谷通りから一本奥に入った道には、世田谷代官屋敷として知られる重要文化財大

場家住宅が現存している。大場氏は、井伊家領世田谷の代官職を務めた家で、江戸時代

中期の母屋と表門等が残されている。隣接して区立郷土資料館もあって、世田谷の歴史

を学習することができる。

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Ⅱ.江戸編 5. 桜田門

桜田門を訪れた私にとって非常に意外だったことは、日本史の中でも極めて有名な事件であるにも拘わらず、桜田門の周辺には事件について記述された説明板や標柱等がどこにも見当たらなかったことである。

誰もが知っている事件だからであろうか?

それにしても、何らかの「痕跡」が残されていてもよさそうなものであるのに…。clip_image002 桜田門

安政7年(1860年)3月3日は、太陽暦で言うと3月24日にあたるという。春分の日も過ぎて、普通の季節であれば春の訪れを感じる季節であろうが、この日は朝からしんしんと雪が降っていた。

一説によると、この日の早朝、井伊家には直弼襲撃の企てがあるとの情報が寄せられていたとも言われている。そうでないとしても、当時の江戸幕府の高度な情報収集能力から考えれば、危険の兆候はかなりの確度で察知されていたものと考える。

病気と称して江戸城への出勤を取りやめることもできたであろうし、増やそうと思えば供回りの人数を増やすこともできたのではないか。あるいは替え玉を使うことだって不可能ではなかったはずである。本当に命を惜しむのであれば、いろいろな回避策を取れたはずなのに、直弼は敢えて、いつもとまったく同じようにして上屋敷を出立した。

井伊家の門からは、やむことなく降り続ける雪が視界を遮って、目と鼻の先にある桜田門でさえ見えなかったかもしれない。

早朝に愛宕神社に詣でた水戸浪士等は、8時頃には桜田門に到着していたようである。今と違って長靴もなければ使い捨てのカイロなどもない時代である。雪の降りしきる屋外に長時間滞在するだけで彼らの体温は奪われ、さぞかしつらい時間を過ごしたことと想像する。もっとも、これから彼らが起こす企てのことを思えば、興奮と緊張とで寒さなど眼中になかったかもしれない。

当時は江戸城に出勤する大名行列を見物することが江戸の一つのブームのようになっていて、見物に便利なようにと大名の家紋が記載された武(ぶ)鑑(かん)という小冊子まで発行されていたそうである。今で言うところのプロ野球の選手名鑑のようなものだろうか。

だから桜田門の周辺で武士が屯(たむろ)していても、一般にはそれほど怪しい風景には映らなかったのではないかと言われている。それにしても雪がしんしんと降り続く日に大名行列を見物するのは、あまり普通の光景とは思われない。ましてや、殺気立った雰囲気はきっと周囲にいた人ならば察知できたに違いない。

彼らは目立たないようにばらばらとお濠側と大名屋敷側とに分かれ、時を待った。

午前9時。直弼の行列がちょうど今の桜田門交差点に差し掛かったところで、突然事件が勃発した。clip_image004 直弼襲撃地点付近の現在

水戸浪士の一人である森五六郎が訴状を掲げて隊列の先頭に近付いた。狼藉者だ。にわかに緊張が走る。そして一発のピストルが発せられてからは、猛烈な切り合いが始まった。

直弼の供回りは60人と伝えられている。それに対して水戸浪士たちは僅か18人。圧倒的な数的有利を直弼サイドは活かすことができなかった。雪の中の行進であったがために、刀の柄に覆いがかけられていて即座に刀が抜けなかったためと言われている。それにしても、三分の一以下の数の敵に対してなす術もなく殿様の首を取られた彦根藩士の弱さは、目を覆わんばかりである。

そこには、井伊の赤備えと称して恐れられた藩創建当時の精兵のイメージはない。長年続いた太平の世の中で、実戦経験もないままに、武士そのものの魂と戦闘術が弱体化していったものと考える。恐ろしさのあまり、殿様の一大事にも拘わらず持ち場を離れ、逃げ去った家来が複数いたことがわかっている。

一方の水戸浪士側も、実際のところは決して褒められた戦闘とは言えなかったようであるが、そこは直弼に対する怨念を強く持っていた分、彦根藩の藩士たちよりは気力において勝(まさ)っていたものと思う。

やがて水戸浪士の稲田重蔵が行列中央に置かれた駕籠に向かって白刃を突き刺した。そして唯一薩摩藩から参加した有村次左衛門が駕籠の扉を開けぐったりとしている直弼を引き出して、首級を挙げた。

直弼はどうして戦わなかったのか?

桜田門外の変のシーンは幾多もの映画やドラマで演じられているが、どれを見ても直弼は駕籠の中でじっと坐ったまま無抵抗である。自分の家来を最後まで信じてじたばたしなかったのか?もちろん、それもあると思う。直弼ほどの胆力のある人であれば、この期に及んでうろたえることなどなかったはずだ。

もう一つ考えられることは、敢えて直弼は水戸浪士らに自分の命を与えようと考えたのではないか?安政の大獄を断行して多くの尊い人命を奪った罪は、直弼自身が一番よく承知していたはずだ。彼らに命を与えることが解決になるとは私は全然思わないが、直弼はこの日が来ることを予め予期していて、自ら従容として死に就いた気がしてならない。

舟橋聖一さんの「花の生涯」では、襲撃の合図となった最初の一発の銃弾が直弼に命中した説を採っている。その可能性も非常に高いと私も思っている。

いずれにしても、たった15分程度の戦闘で、すべてが終わった。

すべてが終わったと同時に、新しい何かがここから急速に始まっていく。clip_image006 桜田門から彦根藩邸跡を望む

直弼の首級を挙げた有村は、追いすがる彦根藩士に後ろから袈裟掛けに切られながらも、直弼の首を抱えたまま逃げ続けた。今で言うところの皇居前広場を濠に沿って駆け続け、大手門の手前、遠藤但馬守の屋敷前で自刃したと伝えられている。今のパレスホテルの辺りであると思われる。本人にとっては極めて不本意であったろうが、有村と一緒に直弼の首は、ずいぶんと遠くまで運ばれてしまったものだ。

直弼の首は、遠藤但馬守邸から飯びつに入れられて戻ってきたそうである。その後、藩医によって胴体と縫合されたと伝えられている。大名は後継ぎがないままに死亡した場合お家取り潰しとなるため、井伊家は直弼の死をひた隠しに隠した。そのための窮余の策が藩医による縫合だったのであろう。

急を聞いて彦根藩邸から藩士たちが駆け付けた時には、すでに水戸浪士たちの影はなかった。直弼の突然の訃報に接した彦根藩邸の人々の驚きと悲しみはいかばかりだったことだろうか。彼らはこみあげてくる悲しみと怒りを堪(こら)え、無残に散らかっている遺品を集め、藩邸に収容したに違いない。この時の血染めの土などを彦根に運んで埋めたのが、前に書いた天寧寺の井伊大老供養塔である。どんな形であれ、直弼の最期に所縁(ゆかり)のあるものを形見として彦根に伝えたいという江戸詰の藩士たちの気持ちであったのだろう。

それにしてもどうして、こんなに藩邸から近い距離での襲撃が可能だったのか?私の疑問は依然として残る。降雪という気候条件が水戸浪士側に幸いしたことは言うまでもない。それに先にも書いたが、歴史的に有名なこの戦闘はたった15分で終わったという。今と違って携帯電話もない時代だから、雪の中を援軍を求めて藩邸に駆け戻ったとしても、時すでに遅しだったのかもしれない。せめてあと15分でも持ち堪えることはできなかったものか?

実に呆気ない最期だった。

一国の宰相が、こんなに簡単に命を落とすことがあってもいいものか?直弼の生涯をずっと追い続けてきた私にとっては、実に残念でならない結末である。類まれな胆力と忍耐力でここまで上り詰めてきた人にしては、なんと淡白な終幕であったことか。

直弼の最期の潔さは、本能寺の変で逝った信長のそれに似ているかもしれない。信長があともう少し生きていたら安土桃山時代の歴史は別のものになっていたかもしれないのと同様に、直弼がなお存命であったならば幕末の歴史もまた変わっていたに違いない。

しかし歴史の残酷さは、埋木舎からはるばる長い旅をしてきた直弼を突然に歴史の大舞台から葬り去った。直弼の役割は、ここまでの運命にあったということか。

今の桜田門に事件を物語る何の痕跡もなかったものだから、ついつい想像のみで桜田門外の変の様子を長く綴ってしまった。直弼が落命した場所は、今は警視庁前の中央分離帯となっている辺りだろうか?

そんな恐ろしい事件があったことなど関係ないとでも言うように、市民ランナーたちがひっきりなしに桜田門の前を通過していく。その光景は、平和そのものである。深い緑色をたたえるお濠の水も緩やかな土居を埋める草々も、心に馴染んでうつくしい。

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戦国グッズのご紹介

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左)ひのきでできた名刺入れ 右)お市の方と浅井長政の夫婦湯のみ

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左)お市の方キューピー 右)茶々姫キーホルダー

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☆★★浅井三姉妹物語★★☆ の漫画ができました!!!

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お市の方の娘、 お江、お初、茶々の三姉妹物語の漫画ができました。長浜市観光協会作です。

これで、戦国時代の大まかな流れがわかります。

戦国武将やお市の方、戦国時代に興味のある方、これから戦国時代に興味を持ってみようと思っておられる方に無料でお配りしております。

フロントまでお申し出下さいませ。

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Ⅱ江戸編 4. 旧品川宿(土蔵相模)・愛宕神社(水戸浪士集結の地)

時はやや飛ぶが、桜田門外の変の前夜の江戸となる。すでに井伊直弼は大老に就任し(安政5年(1858年)4月23日)、日米修好通商条約が締結され(同年6月19日)、安政の大獄が断行されている(安政5年~安政6年)。

今回は視点を変えて、井伊直弼を桜田門外で害する水戸浪士たちの前夜からの足跡を追う旅をしてみた。

17人の水戸浪士と1人の薩摩藩士は、品川宿にある旅籠屋「土蔵相模」に集結していた。彼らはここから黎明に愛宕山にある愛宕神社に詣でて企てが成就することを祈念した後に、桜田門に向かったという。

私は、彼らが桜田門に達する前に立ち寄った2つのスポットに焦点を当てて、訪れてみることにした。

旧品川宿は、今では幹線道路である国道15号線から1本、海側に外れた細い道沿いにある。厳密に言えば、旧東海道は今も昔も変わらずこの細い道であり、むしろ国道の方が旧道を避けて新しく作られただけである。

品川宿の入口は今の品川駅ではなく、京急線北品川駅である。品川駅の一つ南側にあるのに北品川という駅名なのがおもしろい、と言うか紛らわしい。ここからさらに南側に連なっているのが、旧品川宿である。品川宿は、目黒川で2つに分かれている。目黒川の北側を北品川宿と言い、南側を南品川宿と言うのだそうだ。先程の「北品川」駅は、北品川宿にあるから「北品川」と命名されたのであろうが、今の品川駅を中心とする品川の繁華街は、さらにそれよりも北にできてしまっている。

有名な東海道五十三次では、品川宿が最初の宿場であり、日本橋を出立した江戸時代の旅人は、まず最初の品川宿に到着して安堵し、旅の行く末を思いやったにちがいない。

旧品川宿は、最近静かな脚光を浴びている。沿道の関係者の尽力により案内板などが設置され、江戸時代の面影を残す町並みとして整備されつつあるからだ。都会に近い立地でありながら、下町情緒がたっぷり味わえるのもうれしい。clip_image002[4] 品川宿土蔵相模跡

私が目指す土蔵相模の跡は、北品川宿の入口から比較的近い場所にあった。今ではマンションとなっている街道沿いの建物の一角に、木で作られた説明板が据えられていた。その説明板によると、ここにあったのは旅籠の相模屋で、外壁が土蔵のような海鼠壁であったところから、一般に「土蔵相模」と呼ばれていたとのこと。

桜田門外の変に関連してこの土蔵相模を訪れる人は、ごくごく稀ではないだろうかと思う。土蔵相模が有名なのは、文久2年(1862年)、高杉晋作や久坂玄瑞らがここで密議を凝らして英国公使館(高輪・東禅寺)を焼き打ちしたことだろう。土蔵相模は、そんな浪士たちの溜まり場となっていた旅籠である。

長州藩がおかしな藩だと思うのは、高杉晋作などが藩の公金を借り出しては土蔵相模などで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをして浪費してしまっているのに、お咎めなしであるばかりか追加で資金を供出しているところだ。飲んでしまう方も飲んでしまう方だが、それを許す方も許す方だ。そういうおおらかさが、この藩の革新性を根底から支えていたのかもしれない。

土蔵相模は、単なる宿泊を目的とした旅籠屋というよりは、むしろ現代の感覚で言えば妓楼と言った方が正確ではないかと思う。泊まるだけでなく、お酒も出れば女性もいる。これこそが粋というのだろうか。明日の早朝には命がけの義挙に打って出るという決死の覚悟でいる彼らが選んだ集合場所が、旅籠ではなく妓楼であるところに、当時の武士たちの時代感覚を窺うことができる。

前日に土蔵相模に集結した水戸浪士は13人。彼らは翌3月3日の早朝に土蔵相模を出発して、最終集合地点である愛宕神社に向かう。すでに雪がしんしんと降りしきり、寒気が身に沁みる。今の駅で言うと、ルートは若干異なるが、品川駅から田町駅、浜松町駅を経て新橋駅まで行くくらいの距離であったと思う。

最終集合地点である愛宕神社に集結したのが午前7時。愛宕神社は愛宕山の中腹にあり、そこまでは一名を出世坂とも呼ばれている急峻な男坂の石段が聳えている。深い雪の中を浪士らはこの石段を昇って行ったのだろうか?そんな想像をするだけで、にわかに緊張感が湧き上がる。

clip_image002[6] 愛宕神社水戸浪士石碑

時折しも、私が訪れた愛宕神社は桜の花が咲き誇る季節であった。愛宕神社は都内でも有名な桜の名所でもある。神域のそこここに植えられた薄ピンク色の桜の花弁が優しい雰囲気を醸し出している。平和な桜の景色のなかで血気にはやる彼らのことを思いやるのは、場違いな気がした。

雪が降っていなければ、当時であればここから桜田門が見えたのではないか。愛宕山自体は標高26mの低い山であるけれど、比較的平たんな江戸の中では、街を一望のもとに見渡せる立地にあったものと考える。今では、高いビルが立ち並び、眺望はごくごく限られてしまっている。

愛宕神社は、三田の薩摩屋敷での歴史的会談の前に、西郷隆盛と勝海舟がここ愛宕神社で江戸の市街を見渡しながら会談して、この街を戦火に晒してはいけないとの基本的認識を得たとのことが神社の案内板等にて紹介されている。官軍と幕府軍の両者が対峙し一触即発の状況下で、はたして両軍の責任者である西郷と勝がさしたる警備も伴わずに会談することが可能であったかどうか?私は疑う気持ちを持っているが、ホームページや案内板で公式に記述されているので、神社の主張を紹介しておく。

また愛宕山には、NHKの放送博物館が建てられている。残念ながら私が訪れた日は休館日であったため見学することができなかったが、ここに大正14年(1925年)7月にNHKの最初の放送局が設置されたことから、それを記念して昭和31年(1956年)に建設されたのが放送博物館だ。貴重な放送機器等が展示されており、放送の歴史やNHKの番組の歴史等を楽しみながら学習できるそうである。

博物館前の広場には、何の花だろうか?桜の一種なのかもしれないが濃いピンク色をした花が咲いていて、背後の愛宕山レジデンスの高層ビルを背景に強い存在感を示していた。

話を幕末の水戸浪士に戻す。

襲撃メンバー18人全員は、今は現存しないが敷地内にあったという絵馬堂に勢ぞろいして、神前に彼らの義挙が成就することを祈念した。櫻田烈士愛宕山遺蹟碑と書かれた大きな石碑が今でも存在する。

愛宕神社は、慶長8年(1603年)に徳川家康の命により江戸の防火の神様として建立された社である。彼らは彼らの論理として、今回の桜田門外での行為は徳川幕府のための義挙であるとの主張なのであろうから、正当性を主張するうえでも地理的にも愛宕神社に詣でたことは、ある意味必然だったのかもしれない。

clip_image002[8] 愛宕神社水戸浪士額絵

三つ葉葵の帳が降りる本殿の内陣にも、降りしきる雪の中を愛宕神社に集結した水戸浪士たちの姿を描いた額絵が飾られていて、愛宕神社が徳川幕府にとっても浪士たちにとっても所縁(ゆかり)のある土地であることを主張していた。

ここまで来れば、桜田門は意外と近い。浪士たちは積もる雪を踏みしめながら愛宕山を降りて、一路桜田門を目指した。次回は事件の現場となった桜田門に赴いてみたい。

※ちょっと足を伸ばして

ちょっと足を伸ばして、品川宿を横浜方面に歩いてみよう。

旧東海道からほんの少し山側にずれるが、近くには岩倉具視や越前藩主松平慶永(春

嶽)の墓がある海晏寺(非公開)、土佐藩主山内容堂の墓がある品川区下総山墓所などが

並んでいる。

また、京急平和島駅の手前には、鈴ヶ森刑場跡を示す石碑が建てられている。八百屋

お七が火炙りの刑に処せられた時の心棒を立てた石の土台(火炙台)や、丸橋忠弥が磔

の刑に処せられた石の土台(磔台)などが残されていて、かなりリアルである。

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☆★:∴: 睦月のお献立 :∴☆★

☆★:∴: 睦月のお献立 :∴☆★~季節の会席のご紹介~

 

1月料理 石田光成 013

【小鉢】 茶ふり海鼠霙れ和え

【前菜】 梅人参  姫栄蜱黄金焼き 子持鮎甘露煮

     干し柿チーズ  金柑蜜煮  鮭砧巻き  カステラ

【刺身】 牡丹蝦 鯛 ヨコ輪 芽物色々

【吸物】 鯛焼汁  千枚大根 、結び三つ葉

【焼物】 柚子釜焼き 葉地神 柚大根

【煮物】 鯛荒焚き 豆腐 木の芽

【台物】 鴨鍋

【止椀】 麦味噌汁

【食事】 近江米

【香味】 糟漬け

【水物】 栗羊羹 梨

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盆梅展 始まりました!!

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左:慶雲館の中の神社で厳かに祈願祭。早朝は雪が降ってましたが、祈願祭が始まる頃にはピタっと止みました。

中央:テープカット

右:物産コーナーも品揃え豊か。皆様のご来店をおまちしてま~す。

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左:「ゆけむり」という名の盆梅なので、目に留まりました。

中央:昨日のブログでご紹介した小川さんとともに、盆梅を守り続けてる縁の下の力持ち 田中さん。

右:お茶席。お抹茶と和菓子で、一息ついてください。

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長浜盆梅展 準備万端!!

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盆梅展開場式2日前。朝からたくさんの市民ボランティアが終結し、会場内外の清掃をやりました。

須賀谷温泉からも清掃活動に参加して参りました。

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会場となる慶雲館は庭もとても素晴らしく、隅々まで手入れが行き届いています。

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一番人気の花音(かのん)。形がいいので人気が高いそうです。(写真左)

昇龍梅。先端部が龍の頭の形に似ています。昔はもっと似ていたそう。(写真右)

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明治天皇がお立ち寄りになられたときにご休憩された慶雲館2階。レトロな感じがぐ~。

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丹精こめて盆梅を守り続ける小川さん。この日も大活躍。情熱が伝わってきました(写真左)

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館内には休憩場やお土産コーナーもあります。屏風は京都大徳寺のお坊さんの書(左)

去年、梅の鉢植えが大人気でした。今年も販売コーナーがあります。(写真右)

当館にお泊りのお客様には、入場券をプレゼントしております。是非ご利用下さい。

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謹賀新年

 

平成21年 お正月 020 お正月料理の一例

皆さまが私の料理で幸せになっていただけると嬉しいです。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

                                             料理長 徳久 勲

 

 

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Ⅱ.江戸編 3. 彦根藩下屋敷(明治神宮)

久しぶりにJRの原宿駅で降りた。駅前は相変わらず、若い女性たちでごった返していた。竹下通りを中心とした一角は、いまだに全国の若者たちのメッカになっている。私にはとてもついて行けない感覚だが、駅に降り立った瞬間から独特のパワーが漲っているのが、原宿駅である。

原宿駅には、若者たちのほかに、外国人も多い。彼らのお目当ては竹下通りではなく、線路の反対側にある明治神宮のようだ。外国からの観光客が多いようだが、国内に住んでいる外国人も結構来ているのではないか。

clip_image006 明治神宮大鳥居

東京で日本らしさを感じられるスポットの一つが、明治神宮なのであろう。たしかに、広大な敷地を進んでいくと、神々が降臨した太古からこうであったであろうと思わせるような神々しい気持ちになってくる。

鬱蒼と生い茂る木々の間に玉砂利が敷き詰められた広い参道を歩き、金色の菊の御紋が眩しい大鳥居を潜ると、神宮のこの森の奥の社には尊い神様がおわすに違いない。思わずそんなふうに思えてくるから不思議だ。

明治神宮は、正月三が日の初詣の参詣客数が日本で一番多い神社仏閣として有名である。どのようにして数字を算出しているのかよくわからないが、警察庁が発表する参詣者数では毎年300万人を越える人出で、もう何年も連続でダントツ1位をキープしている。

そんな日本人にも外国人にも極めて親しい場所が、明治神宮なのである。

しかしながら、この明治神宮こそが、彦根藩井伊家下屋敷跡であったということは、ほとんどの人が知らないのではないだろうか?かく言う私でさえ、この文章を書くために調べものをするまでは知らなかった。

clip_image004 明治神宮御苑

航空写真で見ると、明治神宮一帯は広大な森である。この森は江戸時代よりもはるか以前から存在していたものと思い込んでいた。なにせ神々が宿る森なのだから。ところが実際は、明治天皇を偲んで大正9年(1920年)に創建されたというから、まだ100年も経っていないという事実にまず驚く。今では、樹齢何百年かというような太くて高い木々が随所に見られ神寂びた雰囲気を作り出しているが、大正4年(1915年)の造営前の写真を見ると、木々は疎らで畑や荒地であったことがわかる。

「歴史」も「神」も、人工的に作ろうと思えば100年足らずで作れてしまうという事実に、私は恐ろしさを感じた。

実際に尋ねてみてわかったのだが、江戸における彦根藩の屋敷は、上屋敷も中屋敷も下屋敷も、いずれもかつては加藤清正が領していた屋敷であった。加藤家は、清正の子の忠広の代に改易となり、その後に井伊家がそのまま土地と屋敷を拝領し、幕末に至った。安易と言えば安易な幕府の対応である。

加藤清正は元々が豊臣家の家臣であり、関ヶ原の戦いでは徳川方に付いたものの、譜代の井伊家と違って徳川家にとっては所詮は外様であったということなのであろう。二代目の忠広が暗愚であったことも災いした。九州の雄は、いとも簡単に歴史の舞台から抹消されてしまった。

明治神宮には、ここが彦根藩の屋敷跡であったことを示す痕跡は私が知る限り何もないが、かつて加藤家や井伊家の庭園であったと言われる明治神宮御苑には、清正井という井戸が残されている。加藤清正本人が掘った井戸であるかどうかは定かでないが、江戸時代の屋敷跡を知る唯一と言っていい遺構だ。

明治神宮御苑の中に入るには、入場料が必要となる。そのせいで、あれほど参道を歩いていた人の群れは御苑内ではほとんど見られず、静寂が周囲を支配する。森のように見える明治神宮の敷地の中でも最も中心に位置し、最も自然が残されているのが明治神宮御苑なのである。

ここには加藤清正の時代からの庭園が残されている。それ以外の場所は、直弼亡きあとの造営であるが、もしかしたらこの庭園だけは直弼が見たかもしれない風景なのだ。そう思うと、目に入ってくる緑の木々も清らかに流れる水も、特別なものに思えてくる。

clip_image002 清正井

清正井と呼ばれる井戸は、縦に細長い御苑の最も北のはずれに位置している。今でもこんこんと澄んだ水が湧き出(い)でている。訪れる人は誰も、丸い井桁の中に手をかざして、冷たい水の感触を確かめる。清正の時代から絶えることなく湧き続ける自然の水の恵みに驚かされる。

この清正井から流れ出た澄んだ水が水源となり、豊かな水を満々と湛える南池を構成している。上流には山里の長閑さを思わせるような風景の中に菖蒲田が作られ、池の周囲にはいくつかのあずまやが配されている。今私は、東京の都会の真ん中にいるのだという事実をすっかり忘れている。こんなに豊かな自然に囲まれた世界があったということに、素直に驚いている。

残念ながら、ここ明治神宮では、直弼の足跡を見つけることはできなかった。もしかしたら、御苑の一部は直弼が見た風景だったかもしれない。しかし、せいぜいそれだけだ。ここは明らかに、後世になってからある意図をもって作り上げられた「聖地」であると思った。敷地の広さや建造物の大きさで物事の価値を決めることはできない。抹殺という言葉が正しいのではないだろうか。それは直弼に対する冒涜である。上から黒いもので塗り潰されてしまった古書を見るような、そんな思いを抱いて私は人々の喧騒から離れていった。

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