Ⅱ.江戸編 6. 豪徳寺(墓所)

最終目的地である豪徳寺に行く前に、今日はちょっと寄り道をしてみたい。

スタート地点は三軒茶屋。ここから路面電車に毛の生えたようなキュートな電車である東急世田谷線に乗る。もうそれだけで、遠足気分でルンルンになる。少し前まではイモ虫のような緑一色の電車が走っていたものだが、今では赤色や緑色を基調とした近代的なデザインの車両に変わっている。個人的には、かつてのイモ虫電車が懐かしい。clip_image002 東急世田谷線

それにしても、沿線の家や木々がなんと電車に近接していることか。民家の庭を車窓の借景にしながら、歩くようなスピードで電車は進んでいく。遊園地にあるミニ列車に乗っているような感覚でしばらく行って、松陰神社前で降りる。

駅前の道を少し行くと、目指す松陰神社の鳥居が見えてくる。神社名からわかるように、この神社は幕末の思想家であり教育家であった吉田松陰を祀った神社である。菅原道真ほどの知名度はないが、受験シーズンともなれば、合格祈念の親子連れで賑わうという。神域の一角には吉田松陰が萩で開いた松下村塾のレプリカが建立されていて、萩に行かなくても当時の様子を偲ぶことができる。

実は吉田松陰の墓が、松陰神社の中にある。

案内板に従い、向かって左側にある墓地を進んでいくと、「吉田寅次郎藤原矩方墓」と刻まれた比較的小さな墓標に辿り着く。こここそが、吉田松陰の墓所である。

説明書きに曰く。

松陰先生墓所

文久3年(1863年)正月9日、高杉晋作は千住小塚原回向院より伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等同志と共に、この世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に頼三樹三郎、小林民部も同じく回向院から改葬した。

 これから訪れる井伊家の菩提寺である豪徳寺もそうだが、世田谷には大名の領地の飛び地が多数存在していたらしい。松陰神社がある土地は、江戸時代に毛利家の別邸があった地だそうで、安政の大獄により江戸の小伝馬町で斬首され千住小塚原の回向院に葬られていた吉田松陰の遺体を、弟子であった高杉晋作らがここに移葬したものと伝えられている。

 直弼の墓に詣でる前に松陰の墓に詣でるというのも、複雑な思いがする。clip_image004 吉田松陰墓

 小伝馬町の牢に囚われた後も松陰は、自らの運命を楽観的に考えていたようである。一説によると松陰を死に追いやったのは、過激な思想をもち行動力抜群の松陰を持て余していた長州藩の意向が強く働いていたとも言う。歴史の真相はわからないが、松陰は安政6年(1859年)10月27日、30歳の太く短い生涯を閉じた。

 牢舎があった小伝馬町には、「松陰先生終焉之地」の石碑が建っている。その傍らには、

 身ハたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 畄(とどめ)置(おか)まし大和魂

の歌碑が刻まれている。志半ばで世を去らなければならなかった松陰の気持ちを思うと、さぞ無念な死であったことと思う。最後に、松陰の辞世の歌をここに記載して松陰神社を後にすることとしたい。

 親思ふ こころにまさる親ごころ けふの音づれ 何ときくらん

 松陰神社の前の道をほぼまっすぐ西に10分ほど進んでいくと、住宅街の中に突然のごとく世田谷城址公園の小高い山が見えてくる。本当に住宅街の真ん中にあって、不思議な感じだ。

この街中にある城跡の存在は、遠藤周作さんの「埋もれた古城」という本によって知るようになった。

 東京の中でも屈指の伝統的住宅街である世田谷に、城があったなんて。遠藤周作さんの本を初めて読んだ時、私はまず純粋に驚いた。この城跡は、赤穂浪士で有名な吉良上野介とも血縁のある世田谷吉良氏が治めていた居城だそうで、豊臣秀吉の小田原城攻めで廃城となるまで存していたそうだから、比較的最近まで機能していた城ということになる。

 今でもカラ濠や土塁などの城の遺構が残されていて、中世の城郭の構造を知るうえでの貴重な資料である。

 自然の小山を丸々利用した城跡は、今では散歩道として整備され市民の憩いの場となっている。私は山頂に据えられたベンチに腰を降ろし、遠藤周作さんの「埋もれた古城」の文庫本を取り出して読んでみた。時折吹きぬけていく風が心地よい。

 その場所で読む文章というのは、またひとしおだ。それほど長くない文章なので、一気に私は世田谷城の部分を読み終えてしまった。

 世田谷城址公園から豪徳寺までは、ほんの5分の距離である。

 松陰神社から来た道をそのままさらに西に歩き続ければ、豪徳寺の山門から続く参道と交差する。彦根の埋木舎から歩き始めた私の直弼を訪ねる旅も、ついに墓所のある豪徳寺まで来てしまった。

 文字通り埋木舎で埋もれて朽ちていったかもしれない一人の男が、歴史の表舞台に躍り出ていった。それも、誰もが尻込みするような史上例を見ない未曾有の難局での登場である。その時の直弼の置かれた立場や状況を考えると、私たちの日常の悩みなんて小さなものに思えてしまう。まさに直弼は、命をかけて日本という国の方向性を定めたのだ。

 あの直弼が、ここに眠っている。自然と緊張感が全身を包み込む。

 これまでにも、江戸における広大な屋敷跡を見てきて井伊家の強大な権力を目の当たりにしてきたが、豪徳寺も、井伊家の家格と威光に相応しい規模と格式とを備えた寺である。

 山門から正面に見える建物が仏殿で、延宝5年(1677年)の建立というから、当時のままの建物である。直弼も見たに違いないものだ。左手には白木の三重塔があり、仏殿の後ろには後世の建造物だが本殿が建立されている。広大な寺域を持つ堂々たる伽藍だ。

 直弼の墓のことは後で書くとして、豪徳寺と言えばもう一つ、どうしても書いておかなければならないのが招き猫のことである。井伊家は猫と縁が深い。2007年に彦根で築城400年の記念イベントが催されたが、このイベントを盛り上げたのが、ひこにゃんと呼ばれている猫のキャラクターである。

2本の黄色い大きな角を携えた赤い兜をかぶった白い猫のキャラクターは愛らしくて、ひこにゃんの名前と顔は全国的にも有名になった。ひこにゃんの成功にヒントを得て、全国のイベントでいろいろなキャラクターが誕生したが、本家を上回るキャラクターは今だに現れていない。

 このひこにゃん、豪徳寺に伝わる招き猫の言い伝えと関係している。

 時は二代藩主の直孝の時代、鷹狩りでこの寺の近くを通りかかった直孝が夕立に見舞われた際、お寺の門前で手招きをする猫を見つけて近づいて行った。その直後に、もと直孝がいた場所に落雷があった。猫の手招きがなかったならば、直孝は雷に打たれて落命していたところであった。

 命拾いをした直孝は、それまでは先程の世田谷城主であった吉良氏が建立した小さな寺であったものを、豪徳寺と改名したうえで井伊家の菩提寺として再建し、多くの堂宇を寄進して整備を図ったという。

clip_image006 豪徳寺の招き猫

 以来、豪徳寺と言えば招き猫ということになり、今でも社務所に行くと大小様々な大きさの招き猫が販売されている。右手をちょこんと挙げて大きな瞳で見つめる姿は、実にかわいらしい。私もご多分にもれず、思わず家へのおみやげにと小さな招き猫を買ってしまった。境内には招き猫を収納するための棚も用意されていて、これだけの招き猫が一堂に会している光景は、それはもう壮観である。

 いよいよ私は、直弼の墓所に足を運ぶ時を迎えた。

 招き猫などを見ていて和んでいた心が、一気に引き締まるのを覚えた。井伊家歴代の藩主の墓は、門を入って左手にあたる豪徳寺墓域の中でも、特に奥まった所に配置されていた。

 戒名しか彫られていない同じ形をした墓石が立ち並ぶ中で、直弼の墓はすぐにそれと知れた。直弼の墓の前にだけ、色とりどりの花が供えられていたからだ。

 直弼の墓は、井伊家歴代藩主の墓のなかでも一番奥に位置していた。「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と書かれたかなり大きな墓石がひっそりと建っていた。ここに本物の直弼の遺体が埋まっているのだと思うと、胸が詰まった。

 私は時が経つのも忘れて、直弼のことをいつまでも考え続けていた。混雑するほどではないけれど、ひっきりなしに訪のう人が絶えない。彼らはどんな思いで直弼の墓を詣でているのだろうか?

clip_image008 井伊直弼墓

 安政の大獄の加害者と言ってもいい直弼の墓と被害者の一人である松陰の墓が、わずかに歩いて15分ほどの距離にあるという事実に、私は歴史の皮肉と言うか不思議を感じた。さらに言えば、直弼の遺体も松陰の遺体も、ともに首と胴体とがくっついていない遺体である。

 今私は加害者と被害者と書いたが、果たしてこの表現は的確かどうか。歴史という大きな流れの中では、直弼も松陰もどちらも被害者だったのではないか。歴史とは時に残酷なものだと、やりきれない思いで世田谷の地を後にした。

※ちょっと足を伸ばして

  ちょっと足を伸ばして、世田谷ボロ市が開かれるボロ市通りを歩いてみよう。

  世田谷通りから一本奥に入った道には、世田谷代官屋敷として知られる重要文化財大

場家住宅が現存している。大場氏は、井伊家領世田谷の代官職を務めた家で、江戸時代

中期の母屋と表門等が残されている。隣接して区立郷土資料館もあって、世田谷の歴史

を学習することができる。