Ⅱ江戸編 4. 旧品川宿(土蔵相模)・愛宕神社(水戸浪士集結の地)

時はやや飛ぶが、桜田門外の変の前夜の江戸となる。すでに井伊直弼は大老に就任し(安政5年(1858年)4月23日)、日米修好通商条約が締結され(同年6月19日)、安政の大獄が断行されている(安政5年~安政6年)。

今回は視点を変えて、井伊直弼を桜田門外で害する水戸浪士たちの前夜からの足跡を追う旅をしてみた。

17人の水戸浪士と1人の薩摩藩士は、品川宿にある旅籠屋「土蔵相模」に集結していた。彼らはここから黎明に愛宕山にある愛宕神社に詣でて企てが成就することを祈念した後に、桜田門に向かったという。

私は、彼らが桜田門に達する前に立ち寄った2つのスポットに焦点を当てて、訪れてみることにした。

旧品川宿は、今では幹線道路である国道15号線から1本、海側に外れた細い道沿いにある。厳密に言えば、旧東海道は今も昔も変わらずこの細い道であり、むしろ国道の方が旧道を避けて新しく作られただけである。

品川宿の入口は今の品川駅ではなく、京急線北品川駅である。品川駅の一つ南側にあるのに北品川という駅名なのがおもしろい、と言うか紛らわしい。ここからさらに南側に連なっているのが、旧品川宿である。品川宿は、目黒川で2つに分かれている。目黒川の北側を北品川宿と言い、南側を南品川宿と言うのだそうだ。先程の「北品川」駅は、北品川宿にあるから「北品川」と命名されたのであろうが、今の品川駅を中心とする品川の繁華街は、さらにそれよりも北にできてしまっている。

有名な東海道五十三次では、品川宿が最初の宿場であり、日本橋を出立した江戸時代の旅人は、まず最初の品川宿に到着して安堵し、旅の行く末を思いやったにちがいない。

旧品川宿は、最近静かな脚光を浴びている。沿道の関係者の尽力により案内板などが設置され、江戸時代の面影を残す町並みとして整備されつつあるからだ。都会に近い立地でありながら、下町情緒がたっぷり味わえるのもうれしい。clip_image002[4] 品川宿土蔵相模跡

私が目指す土蔵相模の跡は、北品川宿の入口から比較的近い場所にあった。今ではマンションとなっている街道沿いの建物の一角に、木で作られた説明板が据えられていた。その説明板によると、ここにあったのは旅籠の相模屋で、外壁が土蔵のような海鼠壁であったところから、一般に「土蔵相模」と呼ばれていたとのこと。

桜田門外の変に関連してこの土蔵相模を訪れる人は、ごくごく稀ではないだろうかと思う。土蔵相模が有名なのは、文久2年(1862年)、高杉晋作や久坂玄瑞らがここで密議を凝らして英国公使館(高輪・東禅寺)を焼き打ちしたことだろう。土蔵相模は、そんな浪士たちの溜まり場となっていた旅籠である。

長州藩がおかしな藩だと思うのは、高杉晋作などが藩の公金を借り出しては土蔵相模などで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをして浪費してしまっているのに、お咎めなしであるばかりか追加で資金を供出しているところだ。飲んでしまう方も飲んでしまう方だが、それを許す方も許す方だ。そういうおおらかさが、この藩の革新性を根底から支えていたのかもしれない。

土蔵相模は、単なる宿泊を目的とした旅籠屋というよりは、むしろ現代の感覚で言えば妓楼と言った方が正確ではないかと思う。泊まるだけでなく、お酒も出れば女性もいる。これこそが粋というのだろうか。明日の早朝には命がけの義挙に打って出るという決死の覚悟でいる彼らが選んだ集合場所が、旅籠ではなく妓楼であるところに、当時の武士たちの時代感覚を窺うことができる。

前日に土蔵相模に集結した水戸浪士は13人。彼らは翌3月3日の早朝に土蔵相模を出発して、最終集合地点である愛宕神社に向かう。すでに雪がしんしんと降りしきり、寒気が身に沁みる。今の駅で言うと、ルートは若干異なるが、品川駅から田町駅、浜松町駅を経て新橋駅まで行くくらいの距離であったと思う。

最終集合地点である愛宕神社に集結したのが午前7時。愛宕神社は愛宕山の中腹にあり、そこまでは一名を出世坂とも呼ばれている急峻な男坂の石段が聳えている。深い雪の中を浪士らはこの石段を昇って行ったのだろうか?そんな想像をするだけで、にわかに緊張感が湧き上がる。

clip_image002[6] 愛宕神社水戸浪士石碑

時折しも、私が訪れた愛宕神社は桜の花が咲き誇る季節であった。愛宕神社は都内でも有名な桜の名所でもある。神域のそこここに植えられた薄ピンク色の桜の花弁が優しい雰囲気を醸し出している。平和な桜の景色のなかで血気にはやる彼らのことを思いやるのは、場違いな気がした。

雪が降っていなければ、当時であればここから桜田門が見えたのではないか。愛宕山自体は標高26mの低い山であるけれど、比較的平たんな江戸の中では、街を一望のもとに見渡せる立地にあったものと考える。今では、高いビルが立ち並び、眺望はごくごく限られてしまっている。

愛宕神社は、三田の薩摩屋敷での歴史的会談の前に、西郷隆盛と勝海舟がここ愛宕神社で江戸の市街を見渡しながら会談して、この街を戦火に晒してはいけないとの基本的認識を得たとのことが神社の案内板等にて紹介されている。官軍と幕府軍の両者が対峙し一触即発の状況下で、はたして両軍の責任者である西郷と勝がさしたる警備も伴わずに会談することが可能であったかどうか?私は疑う気持ちを持っているが、ホームページや案内板で公式に記述されているので、神社の主張を紹介しておく。

また愛宕山には、NHKの放送博物館が建てられている。残念ながら私が訪れた日は休館日であったため見学することができなかったが、ここに大正14年(1925年)7月にNHKの最初の放送局が設置されたことから、それを記念して昭和31年(1956年)に建設されたのが放送博物館だ。貴重な放送機器等が展示されており、放送の歴史やNHKの番組の歴史等を楽しみながら学習できるそうである。

博物館前の広場には、何の花だろうか?桜の一種なのかもしれないが濃いピンク色をした花が咲いていて、背後の愛宕山レジデンスの高層ビルを背景に強い存在感を示していた。

話を幕末の水戸浪士に戻す。

襲撃メンバー18人全員は、今は現存しないが敷地内にあったという絵馬堂に勢ぞろいして、神前に彼らの義挙が成就することを祈念した。櫻田烈士愛宕山遺蹟碑と書かれた大きな石碑が今でも存在する。

愛宕神社は、慶長8年(1603年)に徳川家康の命により江戸の防火の神様として建立された社である。彼らは彼らの論理として、今回の桜田門外での行為は徳川幕府のための義挙であるとの主張なのであろうから、正当性を主張するうえでも地理的にも愛宕神社に詣でたことは、ある意味必然だったのかもしれない。

clip_image002[8] 愛宕神社水戸浪士額絵

三つ葉葵の帳が降りる本殿の内陣にも、降りしきる雪の中を愛宕神社に集結した水戸浪士たちの姿を描いた額絵が飾られていて、愛宕神社が徳川幕府にとっても浪士たちにとっても所縁(ゆかり)のある土地であることを主張していた。

ここまで来れば、桜田門は意外と近い。浪士たちは積もる雪を踏みしめながら愛宕山を降りて、一路桜田門を目指した。次回は事件の現場となった桜田門に赴いてみたい。

※ちょっと足を伸ばして

ちょっと足を伸ばして、品川宿を横浜方面に歩いてみよう。

旧東海道からほんの少し山側にずれるが、近くには岩倉具視や越前藩主松平慶永(春

嶽)の墓がある海晏寺(非公開)、土佐藩主山内容堂の墓がある品川区下総山墓所などが

並んでいる。

また、京急平和島駅の手前には、鈴ヶ森刑場跡を示す石碑が建てられている。八百屋

お七が火炙りの刑に処せられた時の心棒を立てた石の土台(火炙台)や、丸橋忠弥が磔

の刑に処せられた石の土台(磔台)などが残されていて、かなりリアルである。