百済寺樽 その7(新酒利き酒会)

百済寺樽 その7(新酒利き酒会)

日本は四季のある美しい国である。

春夏秋冬、それぞれに趣きのある風情を私たちに見せてくれるその四季に一度ずつ、私は百済寺町を訪れた。

春の田植え、夏の成育状況視察、秋の稲刈り、そして今、冬の新酒利き酒である。

百済寺樽プロジェクトの今年の行事全4回が無事に終わり、今は大いに安堵している。

と言うのは、7月に私自身の中に深刻な病気が見つかって、一時は稲刈りや今日の新酒利き酒会に出席することができないのではないかと懸念したからだ。その試練を乗り越え、無事に今日の日を迎えられたことに、まずは感無量である。

 

今日(2019年1月20日(日))は朝9時から、総祈祷(そぎと)という百済寺本町に400年間に亘って伝わっている伝統行事を隣の部屋から見学させていただいた。

百済寺町は信長の焼き討ちに遭って町全体が火災の大きな被害を受けた。二度とこのような火災の被害を受けないようにとの町民たちの願いを受けて始まったのが、この総祈祷という行事なのだそうだ。

 

 

 

総祈祷の様子

 

総祈祷というのは、百済寺の住職による3時間にも及ぶ「仁王般若経」読経がメインの行事となる。百済寺本町の各戸から一人ずつ代表者が参加して行われるものだそうだ。

ご住職の読経により、七難即滅七福即生、無病息災が祈念される。

冬場に住民が総出で公民館に集まって行う祭りというと、私はすぐに湖北地方の「オコナイ」を思い出す。

オコナイを一言で言ってしまえば、鏡餅を作って神に祀り、向こう一年間のムラの無病息災と作物の豊年満作とを神に祈る行事であるが、総祈祷はひたすら百済寺の住職が読経するという行事のようだった。ただしそこには、住民と百済寺との堅い結びつきを感じることができる。

最近は参加者も少なくなる傾向にあり、次第に簡略化されて読経の時間も短くしてきているのだそうだ。今日の住職の読経は、約半分の1時間15分ほどだった。

住職の読経が終わると、住職を中心として町民のみなさんが部屋の壁に沿って年齢順に坐り、盃に注がれた日本酒を順番に飲んでいく。

日本酒は全部で5升と決められていて、そのうちの1本が「惣御神酒」で、残りの4本が普通の御神酒だ。

昨年は初めて、惣御神酒として百済寺樽が使われた。今年は5本とも百済寺樽という豪華さだった。これは、百済寺樽プロジェクトから提供したものではなくて、百済寺本町の方々から総祈祷で百済寺樽を使いたいとの依頼があったものと聞いている。

地元と密着したプロジェクトが町の人たちにも認められて、町の伝統行事とも一体化して成熟していくことは、とてもいいことだしうれしいことだ。

大きな鉄製の鍋のような酒器が2つ用意されている。惣御神酒の日本酒の瓶と酒器には水引きの飾りがつけられている。

最初に惣御神酒の日本酒1升を片方の酒器に注ぎ込み、次にその日本酒をもう一方の酒器に注ぐ。

酒器にはそれぞれオスとメスとがあるとのことで、オスの酒器に注いだ日本酒を酒器内でよく攪拌した後に、メスの酒器に移し替えてまたよく攪拌する。

下座から当番の方が口上を述べて、酒宴が始まる。

介添え役の方が2人いて、一人が順番に盃に日本酒を注ぎ、続いてもう一人がつまみを供する。つまみとしては、牛蒡と大豆とお米が供される。

最初に百済寺のご住職が酒を飲み、その後は左右に坐った年長の人から順番に盃をあけていく。

一つの盃(実際には会の効率的運営のために盃は2つ使用していたが)を皆で回し飲みするという行為は、町人たちが一つの社会の一員であることの象徴的現れだろうと思った。同じ盃から同じ酒を呑み合って、町としての一体感を毎年認識する。

ひとしきり参加者に惣御神酒が行き渡ったところで、次に残り4升の御神酒が振舞われる。

最初の惣御神酒は一人ずつ順番だったが、御神酒は全員に日本酒が行き渡るまで待って、皆で一斉に日本酒を飲む。今回はお行儀よく全員が注ぎ終わるのを待っていたが、例年は待ちきれずに先に飲んでしまう長老もいるとのことで、厳かな雰囲気の中にも和やかさを感じ取ることができる場面でもあるようだ。

皆に日本酒が注がれるのを待つ間に、皿に盛られた辛味(唐辛子)、刻み牛蒡、刻み昆布の皿が運ばれる。

私たちは隣の部屋から襖を少し開けて会の様子を見させていただいたのだが、私たちはもちろんのこと、町の方々でも一家に一人と定められた今日の出席者以外はたとえ百済寺本町に住んでいる人であっても、会場の大広間に一歩たりとも入ることが許されない。

控えの間にいる人は大広間には入れないので、つまみの皿も部屋の境のところで大広間にいる出席者に手渡すという徹底ぶりだった。

この儀式は、一昨年までは女人禁制だったそうだが、昨年から女性でも参加することができるようになったそうである。当地に400年間続く伝統行事ではあるけれど、時代に合わせて少しずつルールは変わってきているらしい。とは言え、今年は女性の参加は一人もいなかった。

この総祈祷の行事は、百済寺の町の中でも百済寺本町に住んでいる住人だけが参加される行事で、他の町では行われていない。あるいは、百済寺本町と同様にかつては類似の行事が行われていたものの次第に衰退し、今は百済寺本町のみに遺されている行事なのかもしれない。

先にも触れたが、参加できるのは一家で一人のみと決められている。たいていは親が参加するので年齢層が高くなる。

それでも、全部で100戸くらいある総戸数のうちの、今日の参加者は半分以下とのことだった。

 

私たちも隣の部屋で、肴として供されている辛味(唐辛子)、牛蒡、刻み牛蒡を少しずついただいて、もちろん日本酒はなかったけれど総祈祷の雰囲気を少しだけ味わわせていただいた。

特に辛味は、町に伝わる唐辛子の種から栽培して、唐辛子とみかんの皮だけで作るこの町特有のものである。みかんの皮を入れるのは、おそらくは香りをよくするためだろう。

オレンジ色一色の唐辛子の色がとても眩しい。少しだけ手のひらに取って口に含んでみると、頭のてっぺんにツンとくるような辛さが響く。

辛いもの好きな私でさえ辛く感じるのだから、相当な辛さである。

でもスッキリとした辛さなので、後味はけっして悪くはない。確かにこの辛味だけでも十分日本酒がおいしく飲めるだろうと思った。

辛味以外の牛蒡も、酢が適度に効いていてこれまた日本酒とは相性抜群だと思った。食べなかったけれど刻み昆布もきっと同様に日本酒にピッタリな味なのだろう。

これらの肴を食べながら町の人同士で語り合う時間は、とても貴重な時間になるのだと思う。

普通は他所者には公開することがないこのような行事を快く見せてくださった百済寺本町のみなさんに深く感謝したい。

 

他の人たちがおいしそうに日本酒を飲んでいる光景を日本酒を飲まずに眺めているのは、精神衛生的にはあまりいいものではない。

次は喜多酒造で私たちが出来たばかりの百済寺樽をいただく番だ。

野菜花(のなか)という野菜料理専門のお洒落な店でみんなで昼食を摂り、愛東町マーガレットステーションで再びジェラートに挑戦した後、私たちはいよいよ喜多酒造へと向かった。

その前に、ジェラートのことだけはどうしても触れておきたい。

前回の稲刈りの章で、マーガレットステーションで大盛りのジェラートを食べたものの、すぐに溶けて滴り落ちてくるジェラートに大いに悩まされたことを書いた。

今回はそのリベンジだった。

さすがに冷たい雨が降りしきるこの気温では、前回のようなことはあるまいと思ってはいた。しかし改めて見るジェラートのボリュームに、私は内心少したじろいだ。

今回は何と、「みずかがみ」と「ホウレンソウ」という非常にレアな、おおよそジェラートの材料とはなり得ないような味のジェラートに挑戦した。

みずかがみとは、滋賀名産のお米の品種である。

東京・日本橋の「ここ滋賀」で、昨年みずかがみの新米を購入して食べたことがあった。ふっくらとしてとてもおいしいお米だった。

しかし、お米として食べるのなら理解できるけれど、ジェラートとして食べるとなるとどんな味なのか皆目見当がつかない。

ホウレンソウにしたって、みずかがみほどではないにしても、事前に想像することが難しい味だ。

溶けないように素早く食べながら、なおかつ不思議な味をしっかりと味わわなければならない。なかなか難しいチャレンジだった。

みずかがみは、ほんのりお米のつぶつぶ感を感じながら、味はあっさり系の味だった。

ホウレンソウは、思っていたようなエグさがなくて、とてもマイルドな甘さで食べやすい味だった。

最初のうちはいくら食べても全然減らなくて嫌な予感が一瞬漂ったけれど、さすがにこの気温の中では、雫を垂らすこともなく完食することができた。

 

シャーベットも食べてすっかり心もお腹も満ち足りた私は、車に乗せていただいて、みんなと一緒に喜多酒造へと向かった。

喜多酒造は、名神高速道路の八日市インターチェンジと紅葉の名所として名高い永源寺の中間くらいにある、八風街道沿いにある酒蔵だった。

この道は秋の紅葉シーズンに何度も通ったことがある道なのに、喜多酒造がここにあるということを私は今まで気がつかずにいた。

八風街道を挟んだ反対側の駐車場で車を降りると、同じ駐車場に石川ナンバーの車が何台も駐められていた。今日は石川方面からの蔵見学の人たちが多いのかと思ったら、みんな杜氏の車だということが後からの社長の説明の中でわかった。

八風街道を渡り、喜多酒造の敷地内を横断して、敷地の反対側から一旦外に出る。

正面側の八風街道と比べたら大変に狭い道だが、実はこの道が旧の八風街道だったのだそうだ。車が1台すれ違えるかどうかの道幅なのに、昔はこの道をバスが通っていたとは喜多社長の言である。

従って、喜多酒造の玄関もこの旧街道に面している。

「喜楽長」のロゴが染め抜かれた由緒ありそうな赤茶色の大きな暖簾を潜り、すぐ右側の部屋に通される。今日の新酒利き酒会場となる場所だ。部屋の中央に長机が置かれていて、すでにその中央にプロジェクターが用意されている。

今日の喜多酒造でのスケジュールは13時40分から16時20分までと事前に知らされていたので、2時間半以上も利き酒が楽しめるのかと思っていたら、そうではなかった。

最初に社長から日本酒造りについての「授業」があって、その後に酒造所の見学があって、最後の最後に百済寺樽の新酒にありつけるというスケジュールになっていることがわかった。

 

 

 

 

 

 

部屋の中が暖かかったのと、前日の睡眠不足とがたたって、社長の授業が始まったらすぐに睡魔が襲ってきた。社長の話はおもしろかったし私が知りたいことがたくさん散りばめられていたのだが、今朝もその前の朝も早起きをしなければならなくて、私には睡眠時間が絶対的に不足していた。

なので、ここでは社長の貴重な話をあまり記載することができない。

喜多酒造の看板商品は、「喜楽長」というちょっと変わった名前の日本酒である。この喜楽長という銘柄名は、呑む人に「喜び、楽しく酒を飲みながら、長生きしてもらいたい」という思いを込めて命名したものなのだそうだ。

百済寺樽の酒米は、「玉栄」である。滋賀県に特有の銘柄であると言ってもいい。

社長の説明により、酒米の種類によって稲の背の高さが違うということを初めて知った。いくつかの種類の酒米の穂が付いたままのサンプルを見比べることができた。

玉栄は長くもなく短くもなく標準的な長さの品種のようだったが、酒米としてよく知られている「山田錦」は非常に背が高い品種であることがわかった。

背が高いと風の影響を受けて倒れやすくなるそうで、農家にとっては栽培が難しくなるそうだ。近畿地方に莫大な被害をもたらした昨年9月の大型台風の時にも我が玉栄が無事だったのは、あるいはこの背の高さが幸いしたのかもしれない。

収穫後、これを磨いていく。

磨く前の100%のコメと、80%精米のコメと、60%精米のコメの3種類のサンプルを見せていただいた。こうして比べてみると、1粒の大きさの違いも当然だが、コメの輝き度合いの違いに驚かされる。

100%の磨く前のコメは白い色をしているけれど、80%精米を経て60%精米になると周囲の白い部分が削り取られてまるで宝石のように透明で輝いて見えた。濁ったものを取り除いて澄んだコメの中心部分だけで造った日本酒は、まさに贅沢品だと言えるだろう。

20俵のコメを60%にまで精米するためには30時間もの時間が必要なのだそうだ。材料も贅沢に削り取るけれど、時間も贅沢に使っての作業であることを実感した。

水は鈴鹿山系愛知川の伏流水を使用している。

水質は軟水で、やわらかくて含みのある味わいを醸し出すのに最適な水である。この水を自家の井戸から汲み上げて使用している。

いいコメといい水とその素材のよさを最大限に引き出すいい杜氏の三つの条件が揃って初めて、旨い日本酒を造ることが可能になる。

先程も少し触れたが、喜多酒造では代々能登杜氏により酒造りを行っている。

酒造りの最高責任者である「杜氏」と酒蔵を経営する「蔵元」とは強い信頼関係で結び付けられている。車の両輪というか、一心同体にならなければ旨い酒を造ることができない。喜多社長は力強くそう宣言した。

能登杜氏への信頼感は、酒造りに対する真摯な姿勢と常により良い日本酒を追い求めるという探求心とにあると社長は言い切る。杜氏と蔵元とがまさに強力なタッグを組んで日々努力精進し結実したものが、私たちが口にする喜楽長の酒ということになる。

ますます早く新酒を飲みたくなるような熱い社長の口上が続く。

現在の杜氏は四家(しやけ)裕(ゆたか)さんという昭和32年生まれの方が務められている。

喜多酒造における能登杜氏の歴史を見ていくと、戦前から昭和29年までは天保勇さんが杜氏を務め、昭和30年からは天保さんの息子の天保正一さんがその後を継いだ。平成18年からは家修さんに代わり、そして平成26年から四家裕さんが杜氏に就任して今に至っている。

四家さんの体制となった平成26年からは何と4年連続で全国新酒鑑評会で金賞を受賞している。通算では18回目というから、喜多酒造は金賞受賞の常連である。従前からいかにいい酒を造っていたかということがよくわかる。

その四家さんのもとで社長の実のお嬢さんの喜多麻優子さんも杜氏として酒造りに従事しているとのことだった。

最近は女性杜氏誕生の話もちらほらと聞かれるようになってきたが、麻優子さんは将来は社長として喜多酒造を継ぐことをすでにお父様である現社長に宣言されているそうだ。そう話す社長の口元が緩む。

どこの会社でも社長にとって後継者問題は深刻で、現に喜多酒造でも長男は喜多酒造を継がずに東京に出ているとのことだった。なかなか親の思う通りにはならないのが難しいところである。

次に私たちは、日本酒の製造過程について喜多社長の「授業」を受けた。

日本酒の製造工程は、以下の手順による。

 

①玄米

②白米

③洗米

④漬米

⑤蒸米

⑥麹米 + 水

⑦酛

⑧醪(もろみ)麹米+酛+蒸米

⑨上糟

⑩清酒

⑪濾過

⑫殺菌貯蔵

⑬熟成

⑭瓶詰

⑮出荷

 

蔵元見学の後、いよいよ待ちに待った新酒の利き酒会となった。

すでに17.8度の百済寺樽の原酒は出来上がっていて、この原酒は現時点では喜多社長だけしか飲んでいないとのことである。

私たちは喜多社長の次に、今年できたばかりの百済寺樽を口にする栄誉を与えられたことになる。

今日の利き酒会では、17.8度の原酒に若干の仕込水を入れて味を落ち着かせる試みを行うとの説明を受けた。

 

 

 

 

原酒に加水することを「割り水」と言う。度数1%までの割り水であれば原酒と表示することができるのだそうだ。ほんの僅かではあるけれど水を加えることによって原酒の味がどう変わるかを体感することが今日の私たちの狙いである。

その前に、秋の稲刈り時に絵入れをした盃が配られた。私にとっては悪夢の再来であったが、下手な絵を描いた責任は100%私にあるので、その悪夢は甘んじて享受しなければならない。

せっかくの旨い酒が、盃の絵のために台無しになってしまうけれど、自業自得なので仕方がない。

まずは、できたての原酒を試飲用の小さなグラスに注いで新酒の味を確かめてみた。

今年の百済寺樽の原酒は、17.8度である。昨年より少しアルコール度数が低いそうだ。

今年の百済寺樽の成分等の情報は、以下のとおりである。

原料米 玉栄

精米歩合 60

日本酒度 +2.6

アルコール度数 17.8

酸度 1.8

アミノ酸度 1.0

一升瓶から試飲用グラスに新酒を注ぐと、グラスからふくよかな香りが漂ってくる。鼻の奥に静かに浸透していき脳を刺激する、たまらない香りだ。

そっと口に含んでみる。口の中に日本酒の香りが拡かっていく。少し遅れて日本酒の味わいが舌先に伝わってくる。

思っていたよりも硬い味わいというか、かなりしっかりとした味がした。

硬いと感じたのは、割り水をしていない原酒のままの日本酒を飲んだことがなかったからかもしれない。

これからこの原酒に割り水をして、まろやかな風味へと微修正を加えていくのが、今日の私たちに課された課題である。

が、その前にどさくさに紛れて?1杯と言わず何杯か原酒のままの百済寺樽をいただいてしまった。

原酒のアルコール度数が17.8度だったので、私たちは17.4度と17.0度の2種類の割り水を試してみた。

ここは蔵元なのに、理科の実験で使うようなロートや三角フラスコなどが用意されていることにまず驚いた。

17.8度の百済寺樽500ccに対して、17.4度と17.0度になるように加水する仕込水の量を計算し、試験管で測って三角フラスコに入れた500ccの百済寺樽に注ぎ入れてよく撹拌する。

試飲用のグラスに注いで口に含んでみる。

最初に17.4度の百済寺樽を試してみると、17.8度の原酒と比較してまろやかな味わいに変わっていたので驚いた。

僅か0.4%のアルコール度数の違いなのに、こんなにも味わいが変わるものかと思った。

次に17.0度の百済寺樽を試してみた。

17.8度 → 17.4度 → 17.0度ときたからある程度必然の結果だったかもしれないが、17.0度の百済寺樽はかなり飲みやすい味に変わっていた。

私たちの結論は、それほど日本酒好きでない普通の人には、17.0度の方が親しみやすいのではないかとの結論に達した。

けれど、私たちが製品にしてほしいのは、17.4度の百済寺樽であるということも、ほぼ全員の意見だった。

今日ここに集まっている人たちは、私ももちろん含めてだが、日本酒好きの人たちである。日本酒好きの人たちにとっては、飲みやすさよりも深い味わいをより重視するので、17.4度の方がよりおいしいと感じる。

ちなみに、17.8度の原酒の味もやっぱり捨て難い。原酒を製品化するべきと主張する人もいた。

ということで、製品化するのには17.4度というのが私たちの結論で、ただし17.8度の原酒も私たちだけには何らかの手段により提供してほしいとの要望事項付きの結論となった。

実に虫のいい結論である。ただし実現されるかどうかは、保証の限りではない。

今日の私たちの意見は、百済寺樽プロジェクトのオーナーのあくまでも参考意見として社長の胸に留め置かれるだけで、実際には喜多酒造のプロの人たちの会議にて決定されるとのことだった。

すっかり酔ってしまった私たちは、気持ちよく喜多酒造を後にして、路線バスで八日市駅に向かった。

バスは、ほとんど私たちだけの貸し切りバスのようだった。

バスの車窓から、手を振り見送ってくださる喜多社長の人懐こい温和な笑顔がうれしかった。

八日市駅近くの「魚や楓江庵」という雰囲気のいい洒落た居酒屋で1年間の成果を祝う打ち上げに参加して私は、19時39分発米原駅行きの近江鉄道に乗って八日市駅を後にした。

この後、約4時間の時間をかけて横浜の自宅に戻った私は、翌日からの仕事に備えて急いで睡眠に就いた。

 

 

こうして、1年間に亘って参加してきた私の百済寺プロジェクトがすべて終わった。

田植え、稲刈りをはじめとして、初めて経験することばかりのプロジェクトだった。60歳を間近に控えたこんな歳になってから始めて経験するというのも恥ずかしい話ではあるが、人生はいくつになっても勉強なので、これからも常に新しいことに興味を持って生きていきたいと思っている。

文中にも何回か書いたけれど、私が百済寺町を訪れた4回というのはあくまでも「点」であって、その間、一日も休まずに「線」で成長していく稲の手入れをし続けてくださった地元の農家の皆さんのサポートがなければ、とても成し遂げることができなかったことである。

いつも百済寺町を訪れる私たちを最高の笑顔で迎えてくださった地元の皆さんに、まずは心からお礼の言葉を申し述べたい。

皆さんのおかげで、私自身貴重な経験をさせていただくことができた。

完成した百済寺樽が私の手許に届くのは2月中旬ということなので、まだ少しだけ先のことである。1年間の想い出がたくさん詰まった今年の百済寺樽は、私にとってまた格別な味がするに違いない。

さまざまなことを想い、心から百済寺樽を味わいたいと、今からとても楽しみにしている。

 

2019年1月28日