琵琶湖

琵琶湖

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滋賀県と聞いて誰もが一番に頭に思い浮かべるのが、琵琶湖ではないだろうか?

滋賀県の面積の半分以上が琵琶湖だと思っている人が意外と多いことにも驚かされる。実際には5分の1程度だと言うと、今度は皆が驚く。

それくらい、私たちの意識のなかでは滋賀県と琵琶湖とは切っても切れない関係にある。

『湖北残照』を書き始めてからずっと、琵琶湖について書かないことに私自身わだかまりを感じていた。部分的に触れた場面は結構あったけれど、一つの章として真正面から琵琶湖と対峙することをしてこなかった。

してこなかったと言うよりも、私にとって琵琶湖があまりにも大きな存在であったがために、琵琶湖を捉えきることができなかったという表現のほうが正しい。

今でも、そうである。琵琶湖のどこから手を付けていけばいいか、わからない。まったくの手探り状態ではあるが、この『湖北残照 拾遺』の最後を飾る章として、私はどうしても琵琶湖について書かなければならないと思った。

琵琶湖を書かないと、『湖北残照』は終われない。私は最後の力と勇気とを振り絞って、『湖北残照』の集大成として、琵琶湖に挑戦してみたいと思っている。

雲間から差す陽光DSCN7416

前の章で私は、伊吹山の生い立ちは約3億年前に遡ると書いた。

諸説あるのだろうが、琵琶湖は伊吹山よりもずっと若くて、約400万年前に誕生したと言われている。

それでも湖の世界では極めて古い部類に入り、バイカル湖、カスピ海に次いで琵琶湖は世界で3番目に古い湖であるとされている。一般に湖の寿命は短くて、普通は10万年以内であるとのことなので、琵琶湖がいかに古い湖であるかということが理解されると思う。

興味深いことには、誕生して間もない頃の琵琶湖は今の位置よりもずっと南側にあって、現在で言うと三重県の伊賀盆地付近にあった大山田湖と呼ばれる湖だっと言う。

滋賀県のシンボルのように思われている琵琶湖だが、実は三重県生まれだったと聞くと、ちょっと複雑な気持ちになる。

その後、次第に北西に移動を続け、約300万年前に琵琶湖はようやく滋賀県の領域に入ってくる。しかしその位置は、まだ日野から甲賀にかけての地域であり、今の琵琶湖の姿からは程遠い。

この状態が約80万年近くも続いた後、やがて地殻変動により南側の伊賀盆地が隆起し、一方で北側の近江盆地が沈降したため、湖は少しずつ北へと移動していった。その時期が今からおよそ200万年前くらいであったと想像されている。

さらに南側で鈴鹿山脈の隆起が続いた結果、100万年前頃には当初の位置にあった湖が姿を消し、琵琶湖は完全に滋賀県のものとなった。

30~40万年前になると南の鈴鹿山脈や西の比良山地がさらに隆起し、琵琶湖は一時、今の半分くらいの大きさにまで縮小するが、その後再び土地が沈降して、ほぼ現在の大きさと形になったものと推定されている。

ずいぶんといろいろな推移を経て現在に至っている琵琶湖ではあるが、縄文時代が始まったのが今から約1万6千年前であると言われているから、古代の人たちが目にしていた琵琶湖の姿も今とほとんど変わらない姿であったものと想像される。

琵琶湖の歴史に比べたら、人類の歴史などはほんの瞬間程度の僅かなものでしかない。

人間から見ると、琵琶湖は昔も今も常に変わらない姿で私たちの傍らに存在し続けているということになる。

以上が科学的な観点から見た琵琶湖の生い立ちであるが、民間信仰としておもしろい言い伝えがある。

昔、ダイダラボッチという大男がいて、近江の国の土を掘ってその土を駿河の国に盛り上げた。ダイダラボッチという大男が何のためにそんなことをしたのか、どうして近江の国の土を掘って駿河の国に盛り上げたのかはわからないが、こうして近江の国に出来たのが琵琶湖で、駿河の国に出来たのが富士山になったのだそうだ。

俄かには信じがたい話ではあるが、この伝説が縁となり、滋賀県の近江八幡市と静岡県の富士宮市とが昭和43年(1968)に夫婦都市の提携を締結している。姉妹都市でなく夫婦都市であるところが、珍しい。

両市の間では、この夫婦都市が締結される以前の昭和32年(1957)から毎年、琵琶湖で採取した水を富士山頂まで運び注ぐ、という儀式を行っている。

少しだけ夢のない話をすると、琵琶湖の体積はおおよそ30立方キロメートルなのに対し富士山の体積は1400立方キロメートルなので、ちょっと帳尻が合わない気がする。

それに、琵琶湖のほかに浜名湖にも同様の伝説が伝わっているのだそうだ。

高い山と大きな湖の成り立ちの起源を結びつけて考える素朴な民間信仰が昔からあったということなのだろうと思う。

琵琶湖の夕景DSCN6942

さて、この琵琶湖であるが、昔から琵琶湖と呼ばれていたわけではない。以前は何と呼ばれていて、そしてどうして琵琶湖と呼ばれるに至ったのであろうか?

琵琶湖は、古くは「淡海」と呼ばれていた。

古代の都の人たちにとって琵琶湖は、大きな淡水の海として認識されていたということだろう。淡海と書いて、「あはうみ」と読む。このあはうみが詰まって「あふみ」となり、現代に至って「おうみ」と読まれるようになったのだという。

京の都から見るともう一つ、琵琶湖の向こう側に大きな淡海(・・)がある。今の静岡県にある浜名湖がそれだ。琵琶湖と浜名湖。この2つの大きな湖を区別するために古代の人々は前者を「近淡海」、後者を「遠淡海」と呼んだ。

「ちかつあはうみ」と「とおつあはうみ」と読む。

やがて8世紀に至り、律令の定めるところにより国名を好字2文字で表すこととなり、近淡海を「近江」、遠淡海を「遠江」と表記することとした。

都に近い琵琶湖の方は、「近」という漢字が充てられているが「ちかつあはうみ」ではなく単に「あはうみ」(=おうみ)と読み、遠くにある浜名湖は漢字のままに「とおつあはうみ」(=とおとうみ)と読んだ。

近江も遠江も、湖の名前が国名の由来になっていることがわかる。

もう一つ、琵琶湖には「鳰海(におのうみ)」という呼称がある。

「鳰」とは、カイツブリという鳥の別称だ。カイツブリとは、カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属の鳥で、30cm弱の大きさの黒褐色をした水鳥である。滋賀県の県鳥にもなっているカイツブリは、まさに琵琶湖を代表する鳥であると言ってもいい。

漢字で(水に)入る鳥と書くように潜水が得意で、15秒から30秒近くも水に潜り魚などの獲物を獲るという。

この鳰が棲む湖ということで鳰海と呼ばれるようになったのだろう。

琵琶湖が今の「琵琶湖」という名前で呼ばれるようになったのは、比較的最近のことである。

湖の形が「琵琶の形に似たり」という表現が文字として残されているのは、14世紀に著された『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』という仏教書が最初のようである。

『渓嵐拾葉集』は、比叡山延暦寺の学僧である光宗(こうしゅう)(1276‐1350)が書いた300巻にも及ぶ仏教教学の著述集で、天台宗の教義についてのみならず、政治や経済や文化についてなど幅広い視野で書かれた書物である。一部散逸しており、現在は113巻のみが現存している。

光宗は比叡山から眺めた湖の風景が楽器の琵琶の形に似ていると言っているのだろうが、比叡山からは湖の全景が眺められるわけではない。比叡山から眺められる琵琶湖の姿から全体を想像して琵琶の形に似ていると言ったのか、それとも琵琶湖の周囲を自分の足で歩いてみて琵琶の形に似ているとの結論を得たものか、詳しいことはわからない。

湖の名前として「琵琶湖」という名前が明記されているのは、16世紀初頭に京都の詩僧である景徐周鱗(けいじょしゅうりん)(? – 1518)が湖を訪れた際に詠んだ漢詩集「湖上八景」が初出とされている。

もっともこの頃はまだ一部の知識人の間でそう呼ばれていたにすぎず、琵琶湖という名称が一般的に湖の名称として市民権を得るに至るのは、江戸時代も中期以降になってのことである。

元禄2年(1689)に『養生訓』の著述で有名な儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)(1630 – 1714)が日記のなかで琵琶湖全体の地形について記述し、「故に琵琶湖と言う」と記した頃以降、定着していったようである。

これらの状況を勘案するに、琵琶湖の名の起こりは、湖の形が楽器の琵琶に似ていることから琵琶湖と呼ばれるに至った、というのが一般的に言われている琵琶湖の名称の起源のようである。加えて、琵琶は湖に浮かぶ聖なる島である竹生島に祀られている弁才天が手にしている楽器でもあり、この弁才天信仰とも深く結びついて琵琶湖という名称が一般化したのかもしれない。

琵琶湖に浮かぶ竹生島DSCN0980

ところで、琵琶湖の河川法上の正式名称は、「一級河川琵琶湖」であると聞いて驚いた。

琵琶湖が「川」であると言われても大いに違和感があるのだが、琵琶湖から流れ出た宇治川がやがて淀川となり大阪湾に注ぎ込むという大きな絵図を考えると、琵琶湖も「川」の一部であるという考え方も成り立つのかもしれない。

しかしながら私は、琵琶湖を川と定義するお役人の感覚と理論とに哀しい気持ちを抱かざるを得ない。

海と捉えるのならばまだ理解ができるけれど、琵琶湖はやっぱり湖であって川ではない、とついつい思ってしまう。

 

琵琶湖が歌枕として読み込まれている歌や俳句をランダムに抜き出してみた。人麻呂や黒人以外にも『万葉集』にはたくさんの琵琶湖を詠み込んだ歌が掲載されているが、その一部は前著『湖北残照 文化篇』に紹介しているのでここでは繰り返さない。

 

柿本人麻呂 淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ『万葉集』

高市黒人 磯の崎漕ぎ廻(た)み行けば近江の海八十の港に鶴さはに鳴く『万葉集』

紫式部 しなてるやにほの湖に漕ぐ船の真帆ならねども相見しものを『源氏物語』

西行 にほてるや凪ぎたる朝に見わたせばこぎ行く跡の浪だにもなし『拾玉集』*

式子内親王 鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな『新勅撰集』

藤原家隆 鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり『新古今集』

藤原定家 鳰のうみやけふより春にあふさかの山もかすみて浦風ぞ吹く

藤原定家 あとふかきわがたつそまにすぎふりてながめすずしきにほの湖

藤原定家 さざ浪や鳰の浦風ゆめ絶えて夜わたるつきにあきのふなびと

藤原定家 さざ浪やにほのみづうみのあけがたに霧隠れ行くおきの釣舟

藤原定家 にほのうみやしたひてこほる秋の月みがく浪間をくだす柴舟

藤原定家 鳰の海のあさなゆふなに眺めしてよるべ渚の名にやくちなむ

藤原定家 鳰のうみやみぎはの外のくさ木までみるめなぎさの雪の月影

藤原定家 鳰のうみや氷をてらす冬の月なみにますみのかがみをぞしく

俊成女(むすめ) 鳰の海や秋の夜わたるあまを船月にのりてや浦つたふらん『玉葉集』

源実朝 比良の山やま風さむきからさきのにほのみづうみ月ぞこほれる『金槐和歌集』

良寛 にほの海照る月かげの隈なくば八つの名所一目にも見ん

芭蕉 四方より花吹入てにほの波

惟然(いぜん) 蜻蛉や日は入ながら鳰のうみ

一茶 夕雉の走り留や鳰の海

虚子 鳰がゐて鳰の海とは昔より

風生(ふうせい) 家並欠け葱畑の上に鳰の湖

青畝(せいほ) 友鳰の走るかぎりの鳰の湖

静塔(せいとう) 鳰のうみ青波を鴨ついばめり

 

* 『拾玉集』第四冊に、西行がその晩年に比叡山無動寺の慈円を訪れ、帰ろうとする翌

早朝、大乗院の放出から眼下の琵琶湖を見渡して詠んだ歌と、それに慈円が唱和し

たという返歌が、次のように収録されている。

円位上人無動寺へのぼりて、大乗院のはなちでにうみをみやりて

にほてるやなぎたる朝に見渡せばこぎ行く跡の浪だにもなし

かへりなんとてあしたの事にてほどもありしに、今は歌と申ことは思たえたれど、

結句をばこれにてこそつかうまつるべかりけれとてよみたりしかば、ただにすぎが

たくて和し侍し

ほのぐとあふみのうみをこぐ舟の跡なきかたに行こうかな

(五四二二・五四二三)

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人麻呂も西行も定家も芭蕉も、琵琶湖を題材歌枕とした作品を世に残している。これらの歌や俳句を見ていくと、浪 舟 月 花 鳥 霞 霧などの言葉がキーワードとして登場していることがわかる。

そこには、琵琶湖が私たちの生活や意識とどのように関係し位置づけられてきたのかが窺われて興味深い。

四季の移ろいのなかで、琵琶湖は私たちに様々な表情を見せてきた。

鏡の面のように穏やかな湖面の日もあれば、荒れ狂う浪が激しく湖岸に打ち寄せる日もある。霧がたったり霞がたなびく幻想的な光景もあれば、月の光が妖しく湖面に反射する夜もある。鳥が鳴き、湖岸に花が咲き、雪が降る。

豊かな自然を背景にして、琵琶湖は様々な場面で私たちに接し、私たちの心に語りかけてくる。

そこには、自然の中で私たちの生活と一体化した琵琶湖の姿を見ることができる。

また、琵琶湖の景色を岸から眺める歌も多いけれど、舟の上から目にする湖の風景であったり、岸から見る湖を漕ぎ行く舟の姿であったり、琵琶湖と接する人々の生活にとって舟が重要な役割を果たしていたことがよくわかる。

当時の琵琶湖の交通は舟による海上交通が主流であり、琵琶湖に住む人々にとっては今以上に舟が身近な存在であったことが想像される。

 

先の「菅浦」の章でも触れたが、近代に至るまでの琵琶湖に面する小集落の表玄関は、陸路による村の入口ではなく、海路による村の港だったと考えた方がいいかもしれない。

道路や鉄道が発達する以前の琵琶湖周辺の村々を巡る交通手段の中心はむしろ舟であり、歩いて村を巡るということの方があるいは少数派であったかもしれない。

特に湖北地方は山が湖のすぐ際まで迫り、非常に険しい地形になっている。細い道を切り拓くことはできたかもしれないが、広い街道を通すには多大な労力が必要だったことだろう。

今のような工作機械などがなかった時代には、よほどの大きな権力が介在しない限りは大規模な道を作ることは困難だったと想像される。

ところが舟が一艘あれば、湖が凪いでいる時なら琵琶湖沿岸のどの村へだって漕ぎ行くことができる。

歩いたり馬で行く場合は運べる荷物の量にも限りがあるが、舟だったら格段に大きな量の荷物を運ぶことができる。

今の私たちが考えている以上に、琵琶湖周辺において昔は舟が重要な役割を担っていたと考えた方が素直なように思える。

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高島の あどのみなとを 漕ぎ過ぎて

塩津菅浦 今かこぐらむ

既掲の菅浦を詠み込んだ歌のように、『万葉集』にも湖上を舟で移動する様子が詠まれている歌が散見される。そんな太古の昔から、人々は舟で湖上を移動していたことがわかる。

琵琶湖の湖上輸送手段を考えるとき、まず頭に浮かぶのが丸子船(まるこぶね)である。

丸子船は、琵琶湖に特有の船の形態で、喫水が浅く比較的平らな舟底、舟の左右に取り付けられた「おも木」と呼ばれる大木を二つ割にした木材、「かさぎ」と呼ばれる船尾に取り付けられた鳥居のような形状の木材、船の後部に据え付けられた大きな帆などが特徴的な船である。

比較的水深が浅く、湖であるために高い波がたちにくいという琵琶湖の自然条件を考慮して、少しずつ改良が加えられていった船の形態であると思われる。

原初的な舟は、切り倒した丸太を使用した「丸太(丸木)船」だった。やがて二つ割にした丸太をくり抜いた「刳(く)り舟」が使われるようになっていった。『万葉集』に登場するような舟は、そのような原始的形態の小舟だったのではないだろうか。

丸子船は、刳り舟を継ぎ合わせ棚板などを渡した準構造船と呼ばれる構造の船で、いつ頃から出現したものであるかははっきりしないが、最盛期の江戸時代中期(元禄時代)には1350隻もの船が琵琶湖の上を行き来するほどに、琵琶湖水運において重要な役割を果たす船として活躍していた。

古来、日本海で採れた海産物や北陸諸国の産物などは、一部には越前鯖街道の名で知られる湖西の街道を通って陸路で京まで運ばれていたものの、大半は敦賀から深坂峠を越えて琵琶湖北端の塩津まで陸路で運ばれ、塩津港から湖上を通って大津や堅田にもたらされ京に入るのが一般的なルートであった。

北(塩津)から南(大津・堅田)への荷を「下り荷」と言い、主にニシンや海藻類、それに生魚や馬の鞍木などがその主な荷物であった。

反対に南から北へは、飴・醤油・酒・タバコなどの食料品に綿や着物や反物などの繊維製品が「上り荷」として運ばれたという。

普通は京に向かうのが上りであり、京から地方に向かうのが下りであるのだが、琵琶湖の湖上輸送においては方角によって上り・下りを区分しているのが興味深い。

今も書いた通り、日本海や北陸方面からの産物は、敦賀に集積され陸路で琵琶湖北端の塩津まで運ばれそこから船で大津に向かう。

琵琶湖から敦賀まで水路が続いていたなら、陸路と水路を併用しなくて済む。

実はこのような地理に目をつけ、約1000年も前に敦賀と塩津の間を運河で結ぼうと考えた人物がいた。

平清盛である。

清盛は、息子の重盛に運河の開削を命じたが、当時の土木工事力では難所とされた深坂峠を越える水路を掘削することが困難だったのだろう。この壮大な運河計画は、残念ながら実現には至らなかった。

この時の無念の思いを清盛は、「後世必ず湖水の水を北海に落とせと言う者あらん、このこと人力の及ぶことに非ず」と書き遺している。

その後、清盛の思いは秀吉や家康に引き継がれたが、ついに琵琶湖と日本海とを結ぶ運河の開削は実現することがなかった。

江戸時代に入ると河村瑞賢(元和3年(1617) - 元禄12年(1699))が東廻り航路・西廻り航路を開拓し、菱垣廻船や樽廻船などの発達により日本海側の産物が比較的容易に京や大坂に運ばれるようになってくると、次第に琵琶湖水運の重要性が薄れてきて、さらに明治時代に入ると鉄道網の発達により、琵琶湖水運はその歴史上の役割りを終えることになった。

今は竹生島を行き来する観光船と小さな漁船などが時たま湖上を渡る姿を見かけるだけで、昔の面影を想像することは困難になってしまったが、江戸時代までは想像を絶する数の大小様々な船が湖上を行き来し、さぞや賑やかな風景であったことであろう。

浮世絵師歌川広重が描いた「近江八景」のなかでも、瀬田夕照、粟津晴嵐、矢橋帰帆、堅田落雁などの作品に湖上に浮かぶたくさんの船が描かれている。とても趣のあるすてきな光景だ。

琵琶湖に浮かんだ船と言えば、もう一つ、織田信長が造った大船についても触れておかなければならない。

信長が大工の棟梁岡部又右衛門に命じて、長さ30間(約54m)幅7間(約13m)、艪(ろ)を100挺、艫(とも)と舳(へさき)とに櫓(やぐら)を持った巨大な軍艦を建造させ、この琵琶湖に浮かべたことが『信長公記』に記載されている(元亀4年(1573)7月3日)。

信長は早速のこ大船で東岸の佐和山から西岸の坂本まで漕ぎ寄せ、さらに北西岸の高島にまで大船で攻め込んでいる。浅井氏一族を攻め滅ぼす3ヶ月ほど前のことである。

元々この大船は、足利義昭が将来刃向かうであろうことを想定した信長が、その際に一網打尽にするべく、大量の兵士を輸送する手段として建造させたものであったが、浅井一族を殲滅し義昭の脅威もなくなったため、信長はせっかく建造したこの大船を3年後の天正4年(1576)には解体してしまっている。

なんとも贅沢で気まぐれな行動に唖然とさせられる。

湖上から見た長浜城DSCN1069

琵琶湖は江戸期までは交通手段として重要な役割を果たしてきたが、そもそも琵琶湖沿岸に住む人たちにとって琵琶湖は、まさに生活の場そのものであった。

琵琶湖はその豊かな自然から人々に多くの生きるための糧をもたらしてきた。

琵琶湖には、鮒、鯉、鮎など一般的な淡水魚や琵琶湖固有種などを含めて約50種類の魚が生息しているという。

琵琶湖にしか生息していない固有種としては、ホンモロコ(コイ科)、ゲンゴロウブナ(コイ科)、ビワマス(サケ科)、イサザ(ハゼ科)、ビワコオオナマズ(ナマズ科)、ビワヒガイ(コイ科)、ニゴロブナ(コイ科)、ワタカ(コイ科)、ウツセミカジカ(カジカ科)、ビワヨシノボリ(ハゼ科)、スゴモロコ(コイ科)、アブラヒガイ(コイ科)、スジシマドジョウ(ドジョウ科)、イワトコナマズ(ナマズ科)など10数種類を数えることができる。

琵琶湖沿岸に住む人々は、古来よりこれらの魚を獲って食してきた。

なかには、別の章で紹介したニゴロブナを使用した鮒ずしのような珍しい発酵食品など独特の食文化をも創出している。

目を鳥に転じてみると、琵琶湖の古称である「鳰海(におのうみ)」の語源となった鳰(カイツブリ)、天然記念物のオオヒシクイ(カモ科)、冬になると遠くシベリアから飛来するコハクチョウ(カモ科)、湖北地方の冬の味覚の代表格絶品鴨鍋の材料となるマガモ(カモ科)などをはじめとして、ユリカモメ(カモメ科)、ケリ(チドリ科)、カルガモ(カモ科)、ダイサギ(サギ科)、カワウ(ウ科)、オオヨシキリ(ウグイス科)などの水鳥を見ることができる。

琵琶湖は、湿地を保護して水鳥を頂点とする食物連鎖の生態系を守るという目的で国際的に締結された、いわゆるラムサール条約の登録を1993年に受けている。

湖北地方は特にコハクチョウの飛来地として知られており、長浜市には琵琶湖水鳥・湿地センター(1997年開設、総工費2億5500万円)、湖北野鳥センター(1988年開設、総工費1億550万円)などの野鳥観察のための施設が設置されている。

これらの教育・観察施設では、「探鳥会」と称する野鳥観察会や、月例の「観察会」、「鳥のおはなし会」など様々な行事を通じて野鳥の生態を広く知らしめるとともに、鳥マニアたちの観察や写真撮影基地として重要な役割を果たしている。

コハクチョウは、北極に近いシベリア北部に棲息しており、5~6月頃に生まれた雛鳥とともに10月末くらいに琵琶湖に飛来して冬を越す。

1971年に初めて確認されて以来、毎年琵琶湖に飛来するようになり、最初は20~30羽くらいだったものが、1985年には150羽程度に増え、さらに最近では400羽以上ものコハクチョウが飛来している。

湖北地方の琵琶湖には、餌となるマコモや水草などがたくさん繁茂していて、コハクチョウたちにとっては大変に住みやすい環境であるのである。

コハクチョウと言っても、翼を広げた時の大きさは2mもあり、重さも5㎏ほどある。コハクチョウが琵琶湖の上空を飛ぶ姿は、まさに真冬の湖北の風物詩である。

また天然記念物に指定されているオオヒシクイもカムチャツカ半島から琵琶湖に渡ってくる渡り鳥である。

コハクチョウよりはやや小柄で、翼を拡げた時の大きさは1.6m、体重はコハクチョウと同じ5㎏くらいの褐色の鳥である。コハクチョウよりも警戒心が強く、また日中は沖の浅瀬などで休んでいるので間近で目にすることはあまりないかもしれない。

夜になると、小谷山東麓の西池などに飛来してマコモなどを食べると言う。

オオヒシクイも、おおよそ300~400羽程度の飛来が毎年確認されている。これらの貴重な水鳥たちを守るために、湖周辺の多くの人たちが琵琶湖の環境保護のために活動をしている。

他所者(よそもの)の私たちは、そんな地元の方々の苦労などをあまり知らずに、気軽ににこれらの施設を訪れては、珍しい鳥たちの姿を見て楽しんでいる。

 

琵琶湖の自然に関して、興味深い新聞記事を目にした。

真冬になると、琵琶湖の北部では表層部の水と深層部の水とが入れ替わる「全循環」という現象が起こるのだという。

水深が深い湖北地方では、例年春頃から気温の上昇とともに表層部の水温が上昇し、深層部との間に温度差が生じ、表層部と深層部とで別々の水循環が発生するようになる。

そうすると、深層部まで十分な酸素が行き渡らなくなり、深層部は徐々に酸素濃度が低下してくる。深層部の酸素濃度の低下は、10月~12月頃にピークに達する。

このままの状態が続くと、深層部は酸欠状態に陥り、湖底に生息するエビや貝などの生育に深刻な影響が出るのだが、その後、寒気により表層部の湖水が冷えて深層部に沈み込むことにより、表層部と深層部との間で大きな水の循環が発生し、深層部にも十分に酸素が行き渡るようになるのだそうだ。

毎年1月~2月頃に起こるこうした水の循環を「全循環」と呼び、別名を「琵琶湖の深呼吸」とも言うのだそうだ。

人工的に琵琶湖の水をかき混ぜることなく、自然の作用で表層部の水と深層部の水とが入れ替わるこの全循環は、琵琶湖の生物を維持していくための不思議な自然現象であると言える。

ただし、たいへんありがたい自然現象であるこの全循環も、その年々に発生した自然事象、例えば大型台風の襲来等によって発生の程度が異なってくるし、最近では地球温暖化現象や外来の藻などの影響により、全循環の発生程度に微妙な影響が出てきているというから、非常に心配な話である。

もう一つ、興味深い新聞記事を目にした。

琵琶湖が11年間で3cm縮んでいるというのだ。

最近はGPS(衛星利用測位システム)を使用して正確な地球上の位置を把握することができるようになってきた。そのGPS調査によると、湖西の高島市朽木と湖東の彦根市との距離が、2001年から2012年までの11年間で3cm縮まっているというのだ。

この章の冒頭で私たちは、琵琶湖は約400万年前に三重県の伊賀盆地付近で誕生し次第に滋賀県へと移動していったという生い立ちを見てきた。長い目で見れば琵琶湖は少しずつ姿かたちを変えながら変遷しているものなので、11年間で3cmという数字は驚くに値するものではないし、ましてや悲観すべきものではまったくない。

少なくとも、私たちが生きている間に琵琶湖が消滅するというような数字ではないので、そんなものかとただ頷くだけである。

そもそも、この琵琶湖が縮む動きというのは、ここ100年くらいの傾向として続いているもののようである。

琵琶湖だけでなく日本列島そのものが複雑に入り組む地殻プレート上で少しずつ動いているのだから、そのようなニュースに一喜一憂することにはほとんど意味がないが、何となく気になるニュースではあった。

さらにもう一つ、琵琶湖の生い立ちに関するニュースを紹介しておこう。

今も琵琶湖は約400万年前に伊賀盆地付近で誕生したと書いたばかりだが、現在のこの通説に琵琶湖固有種とされる生物種の遺伝子学的見地から異を唱える新設が、滋賀県立琵琶湖博物館(草津市)などで検証されているというのだ。

この説によると、鈴鹿山地が隆起する前に現在の濃尾平野と伊勢湾を含む一帯に「東海湖」という巨大湖が存在していて、通説とされている伊賀盆地付近にあったとされる琵琶湖の原型となる湖(大山田湖)は、この東海湖の一部だったというのである。

この説によると、琵琶湖の誕生時期は通説の約400万年前からさらに50万年ほど遡って、今から約450万年前ということになる。

これは、三重県津市の約400万年前の地層から、琵琶湖固有種である「スズキケイソウ」に似た化石が見つかったことなど、琵琶湖固有種の化石がこの東海湖があったと推定される場所から発見されていることなどをその根拠としている。

これらの研究によると、琵琶湖固有種である「ゲンゴロウブナ」は約450万年前、「イサザ」は約290万年前、「ホンモロコ」は約170万年前に元の種から分化して固有種になっていったのだという。

琵琶湖が11年間で3cm縮んでいる話も、今から400万年前だか450年前だか昔の琵琶湖誕生の話も、どちらも私にとってはそれほど深刻な話ではないけれど、琵琶湖に関する話はやっぱり気になってしまう。

 

さらにもう一つ、琵琶湖で気になることの一つが、琵琶湖疎水についてである。

湖北地方とはまったく縁のない話ではあるが、興味ついでに調べてみた。

琵琶湖には119本の川が注ぎ込まれていると言われている。代表的な川を列挙すると、余呉川(長浜市)、姉川(長浜市)、天野川(米原市)、芹川(彦根市)、犬上川(彦根市)、宇曽川(彦根市)、愛知(えち)川(東近江市)、日野川(近江八幡市)、野洲(やす)川(守山市)、真野川(大津市)、安曇(あど)川(高島市)などの川である。

大きな川は、比較的湖北から湖東にかけてが多いように思われる。

一方で、琵琶湖から出ていく川は、自然の川ではただ一つ、瀬田川のみである。瀬田川は、石山の辺りで琵琶湖から流れ出て、やがて宇治川、淀川と名前を変えながら最後は大阪湾に流れ出る。

119本もの川が注ぎ込んでいるのに流れ出る川がたった1本しかないというのは、いかにもバランスが悪い気がする。流れ込む水の量の方が多くてやがて琵琶湖の水が溢れ出てしまうのではないかと心配になるが、今のところ誰も騒いでいないところを見ると、きっと私の心配は素人の杞憂なのだろう。

それにしても、非常に不思議なことのように思われる。

今、自然の川では瀬田川がただ一つと書いたが、他に人工の川が一種類だけある。それが、琵琶湖疏水である。

疏水とは、『広辞苑 第六版』によると、次の説明になる。

 

灌漑・給水・舟運または発電のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水さ

せること。また、そのもの。多くは湖沼・河川から開溝して水を引き、地形によっては

トンネルを設けることもある。琵琶湖疏水が有名。

琵琶湖疏水(南禅寺境内)DSCN8109

 

琵琶湖疏水は、明治維新で都が東京に遷り活気を失っていた京都を復興する目的で、第3代京都府知事の北垣国道氏の呼びかけにより明治18年(1885)に建設が開始され、5年後の明治23年(1890)に第一疏水が完成したものである。

その後、明治45年(1912)には第二疏水も完成している。

第一疏水は、大津市の三井寺(園城寺)近くの琵琶湖から取水し、途中第1~第3トンネルおよび諸羽(もろは)トンネルの4つのトンネルを経由して、京都南禅寺近くの蹴上(けあげ)に通じている水路である。

当時は機械でトンネルを掘削する技術もなかったため、ほとんど人力だけで工事を完成させたという。しかも、外国人技師に頼らず、日本人の力だけでこの難事業を成し遂げたところに大きな価値がある。

難事業であったため、工事には犠牲者が出た。現在蹴上には、犠牲者の慰霊碑(殉職者之碑)が建てられている。琵琶湖疏水は、こうした善意の人々の犠牲のうえに成り立った大事業だったのである。

工法としては、トンネルの両側から掘り進むと同時に、途中の地上から垂直に竪穴を掘り、そこからも両端に向かって掘り進むという竪坑(シャフト)方式という工法が採られた。わが国で初の試みである。

今でも第一トンネルが通る長等山には、その時に掘った2つの竪坑が遺されている。レンガ造りのお洒落な造りの建造物だ。

明治23年4月9日の竣工夜会には、市内各戸に日の丸と提灯が飾られ、祇園祭の月鉾(つきほこ)、鶏鉾(とりほこ)、天神山、郭巨山(かっきょやま)の4つの山鉾が並べられ、さらに如意岳の大文字も点火されたというから、まさに京都の町を挙げてのお祝いだったことがよくわかる。

疏水の水は、水車動力、舟運、灌漑、防火などに使用されたほか、日本で最初の事業用水力発電としても活用された。蹴上発電所がそれである。

水力発電によって安定的な電力供給が可能となったことにより、折からの明治政府の殖産興業の流れにも乗り、伝統産業である紡績などを中心に京都の産業は再び活気を取り戻すことができた。

琵琶湖の水は、単に飲料水として京都市民の喉を潤しただけでなく、こうして産業復興を通じて町全体の活性化にも大いに貢献したことがわかる。

また、こうした実用的な目的だけでなく、琵琶湖疏水は流域に美しい景観を創り出してもいる。

トンネルの入口には、レンガや石を使用してお洒落な装飾が施されている。伝統的な寺院建築が多い京都にあって少しの違和感もなく、明治の洋風文化が自然な形で溶け込んでいるのが微笑ましい。。

南禅寺の境内を通るレンガのアーチ橋(水路閣)なども、周囲の景色に実によく馴染んで見える。今も美しいアーチ橋の上を、勢いよく水が流れている。実用的な部分にプラスして美的にも優れたセンスを持った琵琶湖疏水は、まさに芸術そのものだ。

この琵琶湖疏水建設が当時の京都市民だけの願いではなく、国家的事業であったことを示しているのが、この装飾的なトンネル入口に掲げられた扁額だろう。

第一疏水の第一トンネルの大津側入口には、伊藤博文筆の扁額が嵌め込まれている。

琵琶湖疏水DSCN8063

「氣象萬千(きしょうばんせん)」と彫られたその意味は、千変万化する気象と風景の変化はすばらしいという、宋の『岳陽樓記』の一節だそうだ。

第一トンネルの反対側(京都側)には山形有朋筆で、「廓其有容(かくとしてそれいれるものあり)」と彫られた扁額が飾られている。こちらの意味は、悠久の水をたたえ悠然とした疏水の拡がりは大きな人間の器量をあらわしている、という意味だそうだ。

以下、第二トンネル以降の扁額の一部を紹介すると、

井上 馨 仁似山悦智為水歓歡(じじんはやまをもってよろこびちはみずをもってなるを

よろこぶ) 仁者は知識を尊び知者は水の流れを見て心の糧とするという『論

語』の一節

西郷従道 隨山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる) 山にそって行くと水源に辿

り着く

松形正義 過雨看松色(かうしょうしょくをみる) 時雨が過ぎると一段と鮮やかな松の

緑を見ることができるという、唐の盧綸の詩

三条実美 美哉山河(うるわしきかなさんが) なんと美しい山河であることよという『史

記』呉記列伝の言葉

などがある。いずれも、京都市上下水道局のホームページを参照させていただいた。まだまだたくさんあるので興味のある方はそちらをご覧いただきたい。実際に疏水沿いを歩いて実物を見てみるのも楽しいと思う。。

琵琶湖疏水の最後に、インクラインについて触れておきたい。

南禅寺から京都市営地下鉄の蹴上駅まで歩くと、その途中左手に線路のようなものが見えてくる。これが、インクラインの跡である。

インクラインとは「傾斜鉄道」とも呼ばれ、運河や山腹などの傾斜している土地で貨物を運搬するための鉄道施設のことを言う。

どうして蹴上にインクラインが必要だったのだろうか?
琵琶湖インクラインDSCN7897

琵琶湖疏水のインクラインは、琵琶湖から疏水を通ってきた舟を丸ごと車輪のついた荷台に積み込んで陸路を運ぶという、まさに画期的なものだった。

私たちの普通の発想は、水路の終端地点で舟の積み荷を降ろし牛馬で運ぶか鉄道に積み替えるというものだが、琵琶湖疏水のインクラインはそのような手間をかけることなく、舟ごと鉄道で運んでしまう。そうすることにより、牛馬で運ぶよりも大量の荷物を迅速に運ぶことができるという訳である。

蹴上から鴨川経由で京都の町中まで荷物を運ぶためには35mの急坂を上らなければならず、当然のことながら舟では不可能なことであった。そこで舟を鉄道に乗せて運ぶという、このインクラインが発想されたのであろう。

「船頭多くして舟、陸に上がる」という言葉があるけれど、本当に船が陸に上がって運ばれていくのを見て、当時の人々は驚いたという。

今ではすっかりその役目を終え、その時に使用した線路が残されているのみとなってしまった。

 

琵琶湖について長々と書いてきた。

湖北の領域をはみ出して書いた部分もあるが、反対に書き足りない部分もまだたくさんあるし、書けなかった部分もある。

書けなかった部分というのは、琵琶湖で生活する人たちのことだ。琵琶湖はそこに住む人々の暮らしと不可分の関係にあり、人々が琵琶湖と接しながらどのように暮らしているのかを書きたいと思っていた。

何度か試みたのだが、今の私には無理であることがよくわかった。

私は他所者であり、たまに琵琶湖を訪れる旅人に過ぎない。たまに訪れたくらいでは、琵琶湖で暮らしている人たちの生活を理解することはできない、ということに気付いた。

いつかは琵琶湖の周辺に住んでみたいと思っている。

琵琶湖で暮らす人たちのことを書くのは、その時までお預けということにしたい。実際に住んでみないと本当のその土地の暮らしはわからないというのが、偽らざる今の私の心境だ。

琵琶湖の章を終わるにあたって、最後に「マザーレイク」という言葉について考えてみたいと思っている。

琵琶湖に関する情報を集めていると、よくこの「マザーレイク」という言葉を目にしたり耳にしたりする。

文字通り、母なる湖、というのがその意味だろう。

琵琶湖の夕景DSCN6967

琵琶湖は、周囲に住む人たちにとって、まさに母なる湖であるのだ。

琵琶湖は私たちに湖の幸をもたらしてくれる。湖岸には葦が生い茂り、その葦の根元では魚や水鳥たちが安心して巣を作ったり繁殖したりして生を育んでいる。

琵琶湖およびその周辺に棲む生物は、様々なかたちで琵琶湖と関わり、琵琶湖から様々な恩恵を受けながら生きている。

反対に、琵琶湖に何らかの異変が生じたら、被る影響は極めて大きいということでもある。

先に、琵琶湖が縮んでいるというニュースを紹介したが、琵琶湖の長い歴史の尺度から考えたらまったく何の影響もない。しかし、外来魚の出現によって在来種の生態系が損なわれようとしている事実や、水質の汚濁によって水中の生物に異変が生じているなどの情報は、看過することができない重大な危険性を孕んでいる。

私たちが母なる湖として琵琶湖から多大な恩恵を受けていることの裏返しとして、私たちは感謝の思いを込めて母なる湖を守っていく責務がある。

未来の琵琶湖の住人や生物たちのために、私たちは琵琶湖を今のままの状態で後世に伝えていかなければならない。

それはちょうど、駅伝で次のランナーにタスキを渡すこと似ているかもしれない。

自分の走区でタスキを絶やすことがないように、自分の後を走るランナーのために、私たちは今以上の琵琶湖を維持していく責務があるということだ。

滋賀は湖国と呼ばれている。

滋賀は即ち琵琶湖であり、琵琶湖は即ち滋賀であるということだ。滋賀の象徴である琵琶湖に生かされ、琵琶湖を生かしていくことが私たちの未来と同義語であると私は思っている。

 

 

『湖北残照 拾遺』を書きながら、やっぱり湖北には魅力が溢れていると思った。湖北を書いていることが、私にとってはとても楽しく充実した時間でもあった。

一度興味を持って訪ねると、そのことがきっかけになって新たな興味が湧いてくる。前に行った時には見えなかったものが見えてきたり、見落としたものがあったことを知ってまた行きたくなる。

こうして、同じ場所に二度も三度も足を運んでいく。

湖北を卒業したら別の地域について書いてみたい。ずっとそう思っているのだが、湖北のことがいつになっても書き終わらないので、次の地域に移動することができないでいる。

最近は、このまま私は湖北だけで終わってしまうのではないかという気持ちが次第に強くなってきた。一方で、このまま湖北だけで終わってしまってもいいなと言う気持ちも強くなってきている。

もれているものを補って『湖北残照』の完結版としてこの「拾遺」を書いたつもりだったのだが、どうやら「拾遺」の次にも「続・拾遺」なるものが出てきそうな気がする。

でも、それはそれでいいとも思い始めている。

湖北とは長い付き合いになってきた。こうして度々湖北を訪れていると、もう地図などなくてもどこへでも行けるようになってきた。

同じ場所に行っても、季節の移ろいのなかで目に映る景色は全然違ったものになってくるから、いろいろな季節ごとに訪れてみたくなる。

まさに私は、井伊直弼が語った「一期一会」の気持ちで、いつも湖北を訪れている。