野田沼、上丹生、朝妻(湖北の万葉歌碑を訪ねて)

万葉歌碑                                                                              野田沼に立つ万葉歌碑

 さざなみの……

と言えば、次にどんな言葉を思い浮かべるだろうか?

 和歌の世界には、枕詞(まくらことば)という言葉がある。特定の言葉の前にかかって、その後の言葉を修飾する言葉である。

「あしひきの」と言えば「山」を、「ひさかたの」と言えば「光」を「ぬばたまの」と言えば「闇」や「黒」を修飾する枕詞である。

 「さざなみの」と来れば、「滋賀」や「大津」や「比良」などの近江国の地名が後に続く。「さざなみの」は近江国の地名にかかる枕詞である。

さざなみの志賀の唐崎幸(さき)くあれど 大宮人の船待ちかねつ 柿本人麻呂 巻一30

 さざなみの志賀の大わだ淀むとも 昔の人にまたも逢はめやも 柿本人麻呂 巻一 31

 ささなみの国つ御神(みかみ)の心(うら)さびて 荒れたる京(みやこ)見れば悲しも 高市黒人 巻一33

 ささなみの大山守は誰(た)がためか 山に標結ふ君もあらなくに 石川夫人(ぶにん) 巻二154

 ささなみの志賀さざれ波しくしくに 常にと君が思ほせりける 置始東人 巻二206

 楽浪の志賀津の子らが罷(まかり)道(ぢ)の 川瀬の道を見ればさぶしも 柿本人麻呂 巻二218

 ささなみの連庫(なみくら)山に雲居れば 雨ぞ降るらむ帰り来(こ)わが背  巻七1170

 楽浪の志賀津の白水郎(あま)はわれ無しに 潜(かづき)はな為(せ)そ波たたずとも 巻七1253

 楽浪の志賀津の浦の船乗りに 乗りにし心常忘らえず 巻七1398

 ささなみの比良山風の海吹けば 釣する海人(あま)の袖反(かへ)る見ゆ  巻九1715

 万葉集の中から「さざなみの」が用いられている歌を拾い上げてみた。万葉時代の都人(みやこびと)にとって、淡海の海と呼ばれた琵琶湖は非常に身近な存在であり、歌枕として数々の歌に詠まれてきた。

 「さざなみの」という枕詞からは琵琶湖の湖岸に打ち寄せくる波の音が聞こえてくるようで、生き生きとした美しい枕詞であると思う。

 残念ながら?「さざなみの」の枕詞が使われている万葉集の歌は、かつて都があった大津を中心とした湖の南側を読んだ歌ばかりであるように思われる。水深が深く、岸近くまで山が迫っている湖北地方では、さざなみというよりはもっと荒々しい波の方が似つかわしいのかもしれない。

 湖北地方にも、数はそれほど多くはないけれど、万葉集に詠みこまれた土地がある。今回の旅で私は、万葉人になった気分でそんな湖北地方にあるいくつかの万葉歌碑を訪ね、当時の人々の素朴な暮らしぶりや風景などを体感してみたいと思っている。

  葦邊波 鶴之哭鳴而 湖風 寒吹良武 津乎能埼羽毛

葦(あし)べには鶴(たづ)が音(ね)鳴きて 

湖風(みなとかぜ)寒く吹くらむ 津乎(つお)の崎はも 若(わか)湯座(ゆえの)王(おおきみ) 巻三352 *1

 若湯座王の歌は、万葉集にはこの一首を掲載するのみである。生没年等の詳しいこともわからないミステリアスな皇子だ。万葉集への掲載順序から考えると、天平時代を生きた皇族の一人ではないかと推測されている。

葦の群生 野田沼の葦の群生

 皇子などの高貴な子に湯をつかわせるのに介添えをした女性のことを「湯坐(ゆえ)」と言う。「若」というのは正に対する副の意味で、正の湯坐が「大湯坐」である。

 『古事記』(中巻)に「御母(みおも)を取り、大湯坐、若湯坐を定めて…」という用例がある。

 若湯座王とは、そういう若湯坐を掌る氏族に養育された皇族、というような意味合いかと思われる。

津乎(つお)は、地名である。

 歌碑が建つのは、長浜市湖北東尾上町にある野田沼の畔である。野田沼は、小谷城の支城として浅井氏の時代に重要な役割を果たした山本山の麓にあり、琵琶湖畔にも近い自然に恵まれた静かな沼だ。

 近くには水鳥公園や湖北みずとりステーションがあり、コハクチョウ、カイツブリ、オオヒシクイなどの貴重な野鳥を間近に観察することができる。

 また湖岸一帯や沼の周囲には葦が群生していて、水鳥や魚たちの豊かな棲み家であるとともに、葦によって浄化された清らかな水を琵琶湖に供給している。

 今は琵琶湖の内湖を形成しているけれど、以前は沼ではなくて琵琶湖の一つの入江であり、古くから良港として知られていた。

 実際に訪れてみると、すぐ近くを湖岸道路が通っているのに、野田沼の周囲だけは静寂が支配していて、突然目の前に現れた沼と葦とが織りなす幻想的な光景に、思わず心が引き込まれていくのを私は快い気持ちで感じていた。

 左手になだらかな山容を見せて存在感を示しているのが、山本山だ。遠くから見ると円錐形に見える美しい山なのだが、麓から野田沼越しに見上げる山本山は、まったく別の山のように見える。

野田沼                                                                                     野田沼から山本山を望む

 目の前の水辺には冬枯れした葦の茎が乱雑に立ち並び、荒涼とした寒々しい光景が拡がっている。湖側から吹き付けてくる頬を刺すような強い冷たい風が、若湯座王が歌に詠んだ「湖風(みなとかぜ)」なのだろうか?

 岸辺から沼に突き出すように伸びているジグザグに曲がった木製の橋が、屏風絵の八つ橋のように見える。ところどころ朽ちかけたその木橋を恐る恐る渡りかけると、沼辺で安心しきって休息していたのだろう、黒い水鳥が驚いたように一声鳴いて、水面を低空飛行で飛んでいった。

 相変わらず間断なく湖から吹いてくる強い風に、葦の穂先が靡いている。

 野田沼は、地図にもあまり明瞭に記載されてはいない小さな沼だ。こんなところにこんな沼があったということ自体、若湯座王の歌碑を訪ねようとしなければ、私自身知ることはなかっただろうと思う。

 周囲の緑地には桜が咲き誇り菜の花が彩りを添える季節になっているというのに、野田沼だけは周りの風景から取り残されたように荒涼として見える。

 しかし私は、野田沼のことを心から美しいと思った。厳しい自然を反映して荒れ果てているように見えるけれど、多くの水鳥や魚をその懐に抱きながら、静かに春の到来を待ち続けている姿には、気品のようなものを感じとることができる。

心に沁みる風景だと思った。

やがて冬枯れしていた葦にも新しい芽が吹き始め、沼の周囲の木々が柔らかな緑の葉で覆われる頃には、野田沼は生気に満ち溢れた美しい沼にきっと表情を一変させることだろう。

若湯座王の歌碑は、そんな野田沼の畔(ほとり)に、野田沼を望むように建てられている。

白っぽい石に黒い字で刻みこまれた流麗な字体が見る人の心を捉える。私はしみじみとした思いで、飽かずに華麗な万葉仮名を眺め続けた。

 歌碑は野田沼の畔(ほとり)に建っているけれど、津乎の場所を巡っては様々な説がある。万葉集の歌の詠まれた場所は、この津乎の地と同様に明確でない場合が多い。詠まれたであろう候補の土地土地を巡ってはあれこれと思いを馳せることは、私にとってはとても楽しい知的作業である。

この歌に詠まれた「津乎の崎」については、歌碑のある野田沼や難波津付近など琵琶湖沿岸とする考え方が有力ではあるが、伊予国野間郡などの異説もある(『仙覚抄』)。さらに野田沼付近でも、尾上(おのえ)地区とする説、津里(つのさと)地区とする説など諸説がある。

『代匠記』という書物には、「和名抄を見るに、近江国浅井郡都宇郷あり、湖風をみなと風とよめるはこの所にや」ともある。

すすき 

伊予国との説もあるようではあるけれど、歌に詠み込まれた寒々しい葦辺の光景からは、琵琶湖の湖岸の、しかも湖北地方の光景がありありと目に浮かぶ。

「らむ」「はも」はいずれも、眼前にない風景を推量して思いやる助動詞や助詞であり、今、現地で見ている風景をそのまま歌に詠み込んだものではなく、かつて旅をした時に目にした心に沁みる風景を懐かしく想い出しながら詠んだ歌だと言われている。

 通して解釈してみると、以下のような意味になるだろうか。

 湖岸一面に拡がる葦原の上空を白い鶴の群れが鳴きながら飛んでいく。今ごろは津乎の崎には湖を渡ってくる強く冷たい風が寒々しく吹き付けているのだろうなぁ……。

 野田沼がまだ琵琶湖の入江であった頃の風景である。

鉛色の雲が厚く湖北の空を覆っている。その雲の合間からはちらちらと白いものが落ちてくる。時折、雲を切り裂くようにして陽光が湖面を照らし、湖に浮かぶ竹生島がシルエットのように際だって見えたかと思うと、陽光はすぐにまた雲に遮られ、元の暗い湖へと戻ってしまう。

湖岸に群生している葦の穂先が風に揺られて一斉に靡くのが見える。強い風の音に抗うようにして聞こえてくるのは、もの悲しげな鶴の鳴き声だ。鶴はこのような厳しい自然のなかでも、凛とした気品を保ち続けている。

黒ずんだ色の湖面には白波が立ち、凍るような風が止むことなく湖の沖合からこちらへと吹き付けてくる。

人間たちの営みを拒絶するかのように、冬の琵琶湖は厳しい自然の顔を私たちに見せつけてくる。実に寒々しくて、荒涼とした光景だ。

しかしこの歌の作者である若湯座王は、そんな厳しい湖北の風景を、慈しみを込め懐かしんでいるかのようである。

荒々しい冬の琵琶湖の光景も、湖岸に住み、湖と共に生きている彼らにとっては、反対に親しい光景なのかもしれない。

歌のはじめに登場する葦は、琵琶湖を代表する植物である。

歌では「アシ」と詠まれているが、「アシ」は「悪し」に通ずることから、今は「ヨシ」と呼ばれることが多い。厳密には「アシ」と「ヨシ」とは異なる植物だと主張する人もいるけれど、一般的には同義と考えてもよさそうである。

葦はイネ科ヨシ属の多年生草木で、琵琶湖に限らず北海道から沖縄までほぼ全国の湖沼で見ることができる、たいへんポピュラーな植物である。

葦の群生  野田沼の葦の風景

『日本書紀』で日本国のことを「豊(とよ)葦原(あしはらの)千五百(ちいほ)秋(あきの)瑞穂国(みずほのくに)」と表現されていることからも、古来から葦が豊かに生い茂り、日本人にとっていかに身近で親しみをもった植物であったかがわかる。

葦は根と茎の一部が水中にあり、長い茎が水上に伸びている。さらに横に拡がっていって大きな群落を形成する。秋になるとイネ科の植物らしく穂を出して小さな種を実らせる。

葦が群生する水辺には、ニゴロブナ、ホンモロコなど琵琶湖に固有の魚類のほか、ゲンゴロウブナ、ギンブナ、コイなどの小魚が卵を産み付け生殖している。また、カイツブリ、オオヨシキリ、バン、カルガモなどの鳥類も、葦の群生の中で卵を産み雛を育てる。

葦が作り出す空間が自然の温床となり、魚や鳥たちを外敵から守り、尊い命を育(はぐく)んでいる。また、葦の群落が水の流れを緩やかにし、葦や周囲の土につく微生物が水の汚れを分解し、水中のリンや窒素を養分として吸い取る働きをしている。

葦は、自然が創りだした水の浄化装置でもあるのだ。

そういう葦であるから、琵琶湖と葦とは切り離すことができない関係にある。若湯座王がこの歌の冒頭で葦を歌っているのには、そのような深い思いが籠められているのだと私は考えている。

琵琶湖の葦は今も湖岸を覆い、人々に無数の恩恵をもたらし続けているのである。

 

  麻可祢布久 尓布能麻曽保乃 伊呂尓□弖 伊波奈久能未曽 安我古布良久波

(□は、ニンベンに弖)

 

真金(まかね)吹く丹生(にゅう)の真(ま)朱(そほ)の色に出て

丹生の歌碑

言はなくのみそ 吾が恋ふらくは  詠人不詳 巻十四3560 *2

 真金は、鉄のこと。「真金吹く」は、ふいごで風を送って製鉄を行う光景から、鉄の産地であった吉備や丹生にかかる枕詞である。

 丹生は、地名である。

 例によって、この歌が詠まれたと言われている土地は、たくさんある。湖北の地だけでも、長浜市余呉町の丹生説と米原市の丹生説とがある。湖北地方以外では、福島県南相馬市原町区金沢の東北電力原町火力発電所内、および群馬県富岡市下丹生にも同じ歌の歌碑が建立されている。

 この歌が巻十四の東歌の中に所収されていることを考えると、私はむしろ、近江国というよりは関東以東の土地がこの歌の真の舞台ではないかと考えている。

 そうであっても、この歌の魅力は変わらないし、近江国のどこかでもこのような歌が詠まれていたかもしれないと思うことは、実に楽しい。

 歌碑は、米原市上丹生のいぼとり公園内に建てられている。JR東海道本線に沿って走る国道21号線(中山道)を醒ヶ井駅のところで直角に曲がり、養鱒場方面に1500mほど上って行ったところだ。

 近くの中山道の旧道には醒井宿のしっとりと落ち着いた街並みが見られ、初夏には梅花(ばいか)藻(も)の白い可憐な花が清らかな水の流れに揺らめいているのを鑑賞することができる。街のそこここに湧水が湧き出で、伊吹山の大蛇と戦いその猛毒で傷ついた日本武尊(やまとたけるのみこと)がその泉で傷口を冷やすと傷がたちどころに癒されたとされる神話の世界の舞台でもある。

いぼとり公園  

 眼前には、伊吹山の特異な山容を間近に眺めることができる。

 いぼとり公園の周辺には、6世紀後半に築造された古墳時代末期の円墳である下丹生古墳が存在し、役の行者が御堂を建立しようとして弟子に命じて斧で石を割らせたところ湧き出でたとの伝説が残る斧割水、石灰石の採石場などがあり、この土地が古来から高い文化を持った土地であったことを物語っている。

 石灰石でできた下丹生古墳は、あるいは息(おき)長丹生(ながのにゅうの)真人(まひと)の墓であるとも言われている。後述するが、米原市を中心とするこの辺りの土地は、応神天皇や神功皇后などとの関係が深く強い勢力を持っていた息長氏の勢力範囲内にあったものと考えられている。

 いぼとり公園の駐車場で車を降りた。

 静かな山里のしっとりと落ち着いた空気が私を包み込む。なんと清々(すがすが)しい空気だろうか。私は思わず胸一杯に息を吸い込んだ。微(かす)かに聞こえてくるせせらぎの音は、道の向こう側を流れる丹生川の清らかな水の流れだ。

 いぼとり公園とは風変わりな名前だ。

近くに建つ案内板によると、この地に湧き出でる泉は「法性坊初(うぶ)洗(あら)いの水」と言い、貞観8年(866)に息長丹生真人の一族として生まれ、後に天台座主十三世となった法性坊尊意が産湯を浸かった泉であるとされている。

その後、丹生川の美しい流れに誘われてこの地を訪れた旅人が、この山の中から湧き出る清らかな水を手ですくい取って飲もうとしたところ、手にできていたイボがぽろりと取れた。それ以来、泉の水は「いぼとり水」と呼ばれるようになった。

やがてイボで悩める人の身代りとして泉の傍らに地蔵堂が建てられ、霊験あらたかな水を求めに来る人たちが後を絶たなかった。今ではおできや汗疹(あせも)にまで効能が拡大されて、ついには肌がきれいになる水として珍重されているようだ。

醒ヶ井宿に残る日本武尊の居醒の井と言い、丹生から少し上流にある役行者の斧割り水と言い、このいぼとり水と言い、この地方には水にまつわる伝説が多い。この土地が古の世から連綿と続く清らかな上質の水に恵まれた住みよい土地であったことを今に物語っている。

「真金吹く……」の万葉歌碑は、いぼとり水の泉の左手にひっそりと建てられていた。早嵜得雄さん揮毫の特徴ある流麗な文字が奥伊吹の花崗岩に刻まれている歌碑だ。何とも言えない不思議な味わいのあるステキな歌碑であると思う。

こんな場所で村の男女が開けっぴろげに恋を語り合っていたとしても少しも不思議はないような気がした。

 真朱と書いて「まそほ」と読む。

 真朱とは、朱色の顔料として使用される辰砂のことである。鮮やかな朱色は古代の人たちにとっては特別な霊力を持っていて、邪気を抑え込むとともに、美しさや華やかさを引き立てる特殊な色として重用されていた。

 丹生は地名であると同時に、真朱の産地を表す地名でもあるから、この歌の「真金吹く丹生の」までが真朱を起こすための序としての役割を持っていることがわかる。

 この辺りの出で、先に訪れた下丹生古墳の被葬者に擬せられている息長丹生真人は8世紀の中頃に都(平城京)で画師として活躍した人物だったと言われている。この地方で産出される貴重な朱色の顔料(辰砂)を巧みに操り、大陸から持ち込んだ先進的な絵画の技法を駆使して、頭角を現していったのかもしれない。

 この地を訪れてみて、そんな想像まで逞しくしてしまった。

 伝えたいことは、「色に出て言はなくのみそ 吾が恋ふらくは」である。

 このストレートな愛情表現がいかにも万葉人らしくておおらかで素朴で、私は好きだ。解釈してみると、次のような大意になる。

 製鉄所のある丹生の赤土が真っ赤であるように、あなたを想うだけで私の顔は朱く染まってしまう。あなたが好きだと口に出しては言わない(言えない)けれど、私はあなたのことを想っているのです。

 万葉集の魅力の一つは、この素朴な相聞歌(恋の歌)にあると私は思う。口に出しては言わないと言っているけれど、実際には歌に気持ちを込めて堂々とあなたが好きだと宣言しているのだ。

 この歌を贈られた娘さんは、詠み人である男性にどのような反応を示しただろうか?今から1300年も前の恋愛を、現代を生きる私が思い煩っているのだと思うと、実に不思議な光景である。

 しかしながら男女の恋愛事情は、昔も今もあまり変わらない気がする。だからこそ、今でも万葉集が私たちの共感を得ているのではないだろうか。

  尓保杼利乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母

鳰(にほ)鳥(どり)の 息(おき)長(なが)川は 絶えぬとも

  君に語らむ 言尽きめやも  馬史国人 巻二十4458 *3*4

 鳰鳥とは、カイツブリという鳥のことである。長い時間水の中に潜っていることができることから、「息長」の枕詞になっている。

 息長氏は、息が長く続くことから、潜水を業とする海人の一族との説がある。一方で、製鉄を行う際のふいごの息を長く吹き続けられるところから来た姓ではないかという説もある。私は、息長氏が渡来系の氏族で、製鉄などの高度な技術を駆使して頭角を現してきた氏族だったのではないかと考えている。先程見てきた「丹生」の地は、まさに息長氏の勢力範囲の中にある。

看板

 息長川とは、これも諸説があり、馬史(うまのふひと)国人(くにひと)が住んでいた河内国の伎人(くれひとの)郷(さと)近くを流れる今川だとする説もあるけれど、むしろ有力なのが、息長氏の本拠地である米原市周辺を流れ、やがて朝妻筑摩のところで琵琶湖に注ぐ天野川のことだとする近江説であるようだ。天野川の「天」は、もしかしたら「海人」に通ずるかもしれない。

 作者の馬史国人は、生没年不詳の奈良時代の渡来系宮廷人・歌人である。万葉集に所収の歌は、この一首しかない。

 国人についての歴史上の記述は極めて断片的なものしか残されておらず、詳細はわからない。限定的な情報を基に彼の人生を推測すると、以下のようなものになるのではないかと想像できる。

国人は、河内の馬飼(うまかい)の末裔で、馬(うま)氏一族の首長級の子息だったのではないかと思われる。

馬飼とは、文字どおりに馬の飼育、売買、輸送などの馬に関連する業務を掌る役職であったものと推測されるが、それらの本業から派生して、建築や水運などにも関係していたことが記録に残されている。現代で言えば総合商社のような、商業活動を幅広く実践していた技術者集団だったと見るべきではないかと思う。

しかしながら馬飼部は、部(べ)民(みん)階級の中では最下級に属する身分で、言わば半奴隷的な扱いを受けていたとも言われている。

そんな境遇を打破すべく国人は、馬飼部の地位向上のために上京して舎人として仕え、官人への道を目指した。

運よく藤原四兄弟の末弟の藤原麻呂の舎人(とねり)として仕えることができた国人は、この時に人脈のネットワークを構築し、それが後の彼の人生に大いに役立ったものと考えられる。

この歌を詠んだ時の宴に同席していた大伴家持との出会いもまた、この頃のことではなかったかと想像されている。武門を掌る豪族の家持と輸送を業とし広い情報力を持つ国人。天皇家の舎人としての家持と時の権力者藤原氏の舎人としての国人。

両者の関係は補完関係にあり、よき協力者であった。

国人の名前が初めて歴史に登場するのは、奈良の二条大路から出土した、天平8年(736)8月2日の日付がある木簡に馬国人の名前が記載されていたのが最初である。

その後、正倉院文書の天平10年(738)の項に、東史生の名前の中に「少初位下」という最下位の官位で馬史国人の名前が記されていることが確認されている。史生(ししょう)とは、公文書の書写や修理などに従った下級の書記官のことである。

天平宝字8年(764)10月26日には、従六位上の馬毘登国人に外従五位下の位が授けられたことが「続日本紀」に記録されている。

天平10年に少初位下だった国人が26年かけて15階位もの昇進を遂げて外従五位下まで昇格したことは、極めて異例の出世であったと言うことができる。

馬氏一族の命運を担って、馬氏一族の情報力や財力を総動員しての出世であったのかもしれない。

この歌は、端書きに次のように記載されている。

  天平勝宝八歳丙申二月朔乙酉廿四日戊申、太上天皇太后幸行於河内離宮、経信以壬子

伝幸於難波宮也。三月七日、於河内国伎人郷馬国人之家宴歌三首

 天平勝宝8年(756)に天皇(孝謙天皇)が太上天皇(聖武)と皇太后(光明)とを伴って河内の離宮に行幸した際に、難波宮に立ち寄った。その最中の3月7日に、河内の伎人郷にある馬国人の邸にて宴を催した時に詠まれた三首の歌、という意味である。

 一首目が兵部少輔・大伴宿禰家持の歌で、

  住吉の浜松が根の下延へて 我が見る小野の草な刈りそね (4457)

 二首目が主人であり散位寮散位の馬史国人の歌で、

  鳰鳥の息長川は絶えぬとも 君に語らむ言尽きめやも (4458)

 三首目が式部少丞・大伴宿禰池主の歌で、

  葦刈りに堀江漕ぐなる梶の音は 大宮人の皆聞くまでに (4459)

 国人の名前に付いている「散(さん)位寮(いのりょう)」の「散位」とは、官位はあるが官職のない者のことを言う。この頃の国人の官位は、七位くらいであったものと推測される。

 国人の歌の大意を示すと、概ね以下のようになる。

 息長川の水の流れが絶えるようなことがあったとしても、あなたと語る言葉が尽きることはありません。(さあ、もっと語り合いましょう。)

 客人の来訪を喜び、客人を心からもてなそうとする主人としての国人の親愛に満ちた気持ちがまっすぐに伝わってくる。

 孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后の行幸という公式行事のさ中に、わざわざ二人を招いての宴である。しかも、従五位下兵部少輔の大伴家持と従六位上式部少丞の大伴池主を当時七位程度であったと思われる馬史国人が自邸に招くということは通常では考えにくいことである。

三人の間には官位や役職を超えた友人関係が構築されていて、単なる儀礼的な宴ではなくて、本当に親しい間柄の友人を自邸に招いての私宴であったことが想像される。

心からのもてなしに舌鼓を打ち、美味い酒を酌み交わしながら積もる話に興じ、そして互いに歌を贈り合っての賑やかな宴(うたげ)だったのだろう。

 このような宴は滅多に催せることではないから、国人は心の底からこの楽しい時間がいつまでも続くことを願ったに違いない。

 客人である家持や池主も、武門の名門としてその名を轟かせた大豪族大伴氏の一族ではあるものの、急速に台頭し権力を握り始めていた藤原氏の風下に立たざるを得ない時の流れのなかで、必ずしも心安からざる日々を送っていたものと思われる。

 役職を離れ、心の鎧を脱ぎ捨てて、日頃の鬱憤を晴らすかのごとく心ゆくまで語り合うことができたこの日の宴は、国人にとっても家持や池主にとっても想い出深いものだったに違いない。

 この歌碑が建つ米原市の朝妻公園を訪れた。

菜の花と桜とすすき

 目の前には広大な琵琶湖が拡がり、湖央から吹き付けてくる強い風に葦が靡いて見えた。左手には砂浜が弧を描きながら続いていて、後からあとから波が打ち寄せてくる。まるで湖ではなく海岸にいるような錯覚に陥ってしまう。改めて、琵琶湖の大きさを実感した。

折しも、湖岸の桜が満開の季節で、本来なら長閑な春の景色を満喫できるはずだった。ところがこの日は生憎の空模様で、空には低く雲が垂れ込めて、時折落ちてくる雨が風とともに頬を打つ。厳しい琵琶湖の自然を見せつけられた気がした。

歌碑が建つ朝妻の地には古来から湊が拓かれ、琵琶湖を巡る水運の要衝として栄えていた土地だった。

朝妻湊と呼ばれたこの地は、奈良時代から江戸時代に至るまで、交通の要として重要な役割を果たしていた。奈良時代には朝廷の台所である大膳職御厨が置かれるとともに、北近江、美濃、飛騨、信濃などの諸国から朝廷に献上される品物や税、それに木材や食料などが集積され、大津や坂本などの湊を目指して多くの船が行き交っていた。

往時の繁栄ぶりが目に浮かぶ。

生活物資の搬送だけでなく、役人や商人たちも船で行き来をしたし、木曽義仲やかの織田信長も朝妻湊から京へ向かった。

江戸時代に入り、琵琶湖の湖上運送の中心は米原、松原、長浜のいわゆる彦根三港に移っていき、明治18年(1886)の鉄道開通によって交通の中心は湖上から陸上へと変わってしまった。

桜の木の傍らに真新しい朝妻湊趾の石碑が湖畔にぽつんと建てられていた。

朝妻筑摩の歌碑

「鳰鳥の息長川は……」の歌碑は、朝妻公園のさらに奥にあった。歌碑のすぐ裏側には大きな川が流れていて、豊富な流量の水が勢いよく湖に注ぎ込まれている景色が見てとれる。

この川こそが、かつての息長川であるとも言われる天野川である。歌碑はその天野川を背にして、天野川の流れを慈しむかのように建てられている。こちらの歌碑も、上丹生の歌碑と同様、奥伊吹の花崗岩に早嵜得雄さんの特徴ある筆跡で刻まれている。

もっとささやかな流れの小川を想像していた私にとって、天野川は予想外の大河だった。この雄大な流れであれば、川の流れが尽きることもなく、国人は家持や池主との語らいを心ゆくまで続けることができたであろう。

強く冷たい風をまともに受けてよろめきながら、私も心ゆくまで、国人の歌碑と天野川の流れとを眺め続けていた。湖北の春は、まだまだ遠い。

 湖北地方を舞台とした万葉歌碑を3つばかり経巡ってみた。いずれも有名な歌ではないけれど、味わいがあり情けがあっていい歌だと心から思った。

湖北地方を歌枕とした歌は、これ以外にもまだいくつかある。最後にこれらの歌を書き記してこの章を終えることとしたい。

磯の崎漕ぎ廻(た)み行けば近江の海(み) 八十(やそ)の湊(みなと)に鵠(たづ)多(さは)に鳴く 高市連黒人 巻三273 *5

いづくにか我が宿りせむ高島の 勝野の原にこの日暮れなば 巻三275 *6

さざれ波磯(いそ)越(こし)道(ぢ)なる能登湍(のとせ)河(がは) 音のさやけき激(たぎ)つ瀬ごとに 巻三314 *7

大夫(ますらを)の弓(ゆ)末(ずえ)振り起(おこ)せ射つる矢を 後見む人は語りつぐがね 笠(かさの)金村 巻三364

塩津山うち越え行けばわが乗れる 馬そつまづく家恋ふらしも 笠金村 巻三365

託(つく)馬野(まの)に生(お)ふる紫(むら)草(さき)衣(きぬ)に染(し)め いまだ着(き)ずして色に出(い)でにけり 笠(かさの)女郎(いらつめ) 巻三395

大御船泊ててさもらふ高島の 三尾の勝野の渚し思ほゆ 巻七1171 *8

いづくにか舟乗りしけむ高島の 香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟 巻七1172 *9

山越えて遠津(とほつ)の浜の石(いは)つつじ わが来るまでに含(ふふ)みてあり待て 巻七1188

真珠つく越の菅原われ刈らず 人の刈らまく惜しき菅原 巻七1341

草枕旅ゆく人も行き触らば にほひぬべくも咲ける萩かも 笠金村 巻八1532 *10

伊香(いかご)山野辺に咲きたる萩見れば 君が家なる尾花(をばな)し思ほゆ 笠金村 巻八1533 *11*12

旅ならば夜中をさして照る月の 高島山に隠らく惜しも 巻九1691 *13*14

思ひつつ来れど来かねて三尾の崎 真長の浦をまたかへり見つ 巻九1733 *15*16

高島の安曇(あど)の水門(みなと)を漕ぎ過ぎて 塩津菅浦今か漕ぐらむ 小弁(せうべん) 巻九1734 *17

今朝行きて明日は来なむと言ひし子が 朝妻山に霞たなびく 巻十1817

子らが名に懸けの宜(よろ)しき朝妻の 片(かた)山岸(やまぎし)に霞たなびく 巻十1818

狭(さ)野方(のかた)は実にならずとも花のみに 咲きて見えこそ恋の慰(なぐさ)に 巻十1928

狭野方は実になりにしを今さらに 春雨降りて花咲かめやも 巻十1929

八田の野の浅茅色づく有乳(あらち)山 峰の沫(あわ)雪(ゆき)寒く降るらし 巻十2331

大船の香取の海にいかり下ろし いかなる人か物思はずあらむ 巻十一2436 *18

霰(あられ)降り遠つ大浦に寄する波 よしも寄すとも憎からなくに 巻十一2729

あぢかまの塩津(しほつ)を指して漕ぐ船の 名は告(の)りてしを逢はざらめやも 巻十一2747 *19*20

高湍にある能登瀬の川の後も逢はむ 妹にはわれは今にあらずとも 巻十二3018 *21

志賀の海人(あま)の磯に刈り干す名告(なのり)藻(そ)の名は 告(の)りてしをなにか逢ひ難き 巻十二3177

階立つ 筑摩左野方 息長の 遠智の小菅 編まなくに い刈り持ち来 敷かなくに

い刈り持ち来て 置きて われを偲はす 息長の 遠智の小菅 巻十三3323

万葉歌碑の所在地

*1  長浜市湖北町津里 野田沼畔

*2  米原市上丹生 いぼとり公園

*3  米原市世継 蛭子神社

*4  米原市朝妻筑摩 朝妻公園

*5  米原市磯南町 磯崎神社前湖畔

*6  高島市勝野 関西電力高島制御所入り口

*7  米原市能登瀬 能登瀬橋近く

*8  高島市勝野 大溝漁港脇児童公園

*9  高島市音羽 音羽古墳公園

*10 長浜市木之本町賤ヶ岳山頂

*11 長浜市木之本町役場

*12 長浜市木之本町賤ヶ岳山頂

*13 高島市勝野 北村真一氏宅庭

*14 高島市永田 しろふじ保育園

*15 高島市鵜川 いにしえの街道・西近江路

*16 高島市勝野 高島郵便局前

*17 長浜市西浅井町菅浦 須賀神社・民族資料館

*18 高島市勝野 乙女が池畔

*19 長浜市西浅井町塩津浜 塩津神社

*20 長浜市西浅井町塩津浜 塩津北口バス停そば

*21 米原市能登瀬 能登瀬会館