須賀谷温泉のブログ
8. 尼子(藤堂高虎・築城の名人の系譜)
- 2010-02-21 (日)
- 湖北残照
8. 尼子(藤堂高虎・築城の名人の系譜)
別に藤堂高虎のことを調べようと思って降り立った駅ではなかった。
そもそも、藤堂高虎という人物は知っていたけれど、どんな人で、どこの出身かなどの予備知識は、私にはほとんどなかった。
2009年晩秋。紅葉の名所である湖東三山(西明寺、金剛輪寺、百済寺)を巡ろうと思い降り立ったのが、近江鉄道の尼子(あまご)駅だった。西明寺行きのシャトルバスを待つ間に駅前広場を散策していた時、私は一枚の案内板を見つけた。
城づくりの名人 藤堂高虎
戦国時代、甲良町在士出身の藤堂高虎は、その戦の駆け引きのうまさと、城作りの能
力で浅井長政、豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康などから請われて七度も主人をかえまし
た。自分の力と運によって一介の武士から大々名に出世を遂げた英傑です。
どうしてこんなところに藤堂高虎がいるのか?まず不思議に思った。尼子という駅名からして、出雲地方で活躍した尼子氏と関係のある土地であるかもしれないということはある程度想像ができたが、この地が藤堂高虎の出生地であったことは、迂闊にもまったく予期していなかった。
藤堂高虎と言えば、伊勢の国(今の三重県)にある津藩の藩主としてのイメージが強い。また立派な石垣を擁する伊賀上野城などを築城した経歴からも、てっきり伊勢か伊賀の国の出身だと思っていた。思いがけない場所でひょっこり、思いがけない人物に出会ったような驚きを感じながら、私の興味は次第に、藤堂高虎という人物に向けられていった。
藤堂高虎は、弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡甲良町在士)にて、藤堂虎高の次男として生まれた。父が虎高で息子が高虎とは、何とも紛らわしい名前である。父である虎高はこの土地の土豪であり、上に長男の高則がいたが、兄は早世しているので、実質的に高虎が藤堂家の跡取りとなっている。
地方の一小領主に過ぎなかった高虎はその後、次々と主君を変え、数奇な運命を辿りながら、次第に頭角を現していく。先の案内板に記載されていたように、実に7人の主君に仕えたという。
今の世で言えば、転職を7回繰り返したということとほぼ同義であろうか。一般論で言えば、転職を繰り返す人たちは、大きく2種類に分類される。一つのところに留まることができずに、次々と職場を変えながら次第に没落していくタイプと、前職を踏み台にしながら、前職の経験を活かしてステップアップしていくタイプの2種類である。
高虎の場合は、間違いなく後者のタイプであった。
最初の主人は、浅井長政である。それまでの藤堂家は、土豪とは言うものの、度重なる没落が続き、ほとんど農民と変わらない程度にまで落ちぶれた存在であった。そこに、元亀元年(1570年)、姉川の戦いが勃発した。
浅井側にとっては負け戦となったものの、この戦いにおいて高虎は武功を挙げ、長政から感状を受けている。
また高虎はこの時、後の主君となる徳川家康との運命的な出逢いを果たしている。戦場において敵味方に相分かれて戦っていた時のことであるから、もちろん直接出逢って言葉を交わしたわけではない。実質的にこの戦いの勝敗を決めることになった家康の戦いぶりをつぶさに見て、敵ながら家康の卓越した戦術眼に尊敬の念を抱いたのだった。
この時敵と味方に分れて戦った二人が、後に強い信頼関係の絆で結ばれるのだから、歴史というのは複雑で奥が深い。
やがて天正元年(1573年)の小谷城をめぐる攻防戦で浅井氏が滅亡すると、高虎は浅井氏を裏切った山本山城主の阿閉(あつじ)貞(さだ)征(ゆき)のもとに仕え、続いて浅井氏の旧家臣であった磯野員(いそのかず)昌(まさ)に仕えた。
この時期の高虎は、まさに綱渡りである。
浅井氏は信長により滅ぼされ、阿閉氏も信長亡き後に秀吉により討伐され、磯野氏も信長の勘気に触れて高野山に放逐されている。けっして安泰な主君に仕えたわけではなく、一歩「転職」のタイミングを間違えれば一族の破滅に直結する。難しい判断を余儀なくされながらも、しかし高虎はしたたかに生き残っていった。
その後は、織田信長の甥にあたる織田信澄に一時期仕えた後、羽柴秀長のもとに参じ、次第に豊臣政権の中心に接近していく。秀長は秀吉の弟である。歴史の表舞台にはあまり登場しないものの、実際は秀吉を陰でよく支え、豊臣政権樹立の一番の功労者として評価されている人物である。
高虎はこの秀長の下(もと)で能力を認められ、信頼に裏打ちされた主従関係を構築していった。そして賤が岳の戦いでは大いに戦功を挙げて、1万石の大名に取り立てられるに至っている。
そして高虎最初の築城となる和歌山城の普請奉行を務めることになる。しかしこの頃はまだ、築城の名人としての高虎の才能が認められての築城ではない。高虎の才能が開花し、次々と城造りを命じられていくのは、徳川の世となってからのことである。
しかしながら高虎は、この最初の経験であった和歌山城築城において、何物か重要なヒントを得たに違いない。同じ仕事を任されても、単にそれをやり遂げるだけの人間と、そこから得難い大事なものを見出して後の仕事に活かすことができる人間との違い。
私はこのようなところに、世渡り上手としての高虎の非凡な一面が垣間見られるのではないかと考えている。
天正19年(1591年)に主君であった秀長が亡くなると、高虎は養子の豊臣秀保に仕え、文禄の役にも出兵している。根っからの武闘派大名である。ところが高虎は、主君であった秀保が早くに亡くなったことに心を痛め、世を捨てる決心をして高野山に出家している。
一般に世渡り上手と言われている高虎だが、まったくの打算のみで主人の間を渡り歩いたわけではなく、主君への忠義に厚い一面も併せ持っていたことがわかる。そうでなければ新しい主人から信頼されるはずがない。
一度は高野山に出家した高虎であったが、秀吉から還俗を命じられて伊予国板島7万石の大名に取り立てられた。伊予国板島とは、今の宇和島である。高虎の才能を、関白秀吉も高く評価していたことが窺える。
慶長の役にも水軍を率いて参戦した後、高虎は板島の丸串城に大規模な改修を加え宇和島城と改称している。地勢を活かして海水を巧みに引き入れた、海城の様相を呈する名城である。白亜の3層の天守は今も現存している。
この辺りから高虎の築城名人としての名声が高まっていったものと考える。
まだ秀吉が存命中であったにもかかわらず、慶長3年(1598年)8月頃から高虎は、家康に急接近していく。高虎のこの行為に対しては、後世の人々の評価が分かれている。秀吉に対する裏切り行為なのか、時代の流れを読み先を見据えた行為だったのか、である。
石田三成を中心とする官僚的な能力に長けた大名が豊臣政権のなかで次第に力を増していく勢力図のなかで、武闘派と呼ばれる大名たちの心が豊臣政権から離れていった事実が一つにはある。
高虎は、姉川の戦い、賤が岳の戦い、文禄・慶長の役などを通じて一貫して武功により頭角を現してきた大名であった。戦下手で官僚的な大名の台頭に対して、秀吉への不満が募っていたであろうことは想像に難くない。
その一方で高虎は、先を見通せる鋭い目で、豊臣政権の終焉を正確に予測していたのかもしれない。若いころに弱小な主君の間を渡り歩き、生き延びていく中で培ってきた主君を見る目が大いに役立ったのではないだろうか。
そんな時に、かつて姉川の戦場で相まみえた家康のことが、高虎の心の中に大きくクローズアップされていったのかもしれない。
本当の高虎の心理は誰にもわからないが、結果として高虎は、秀吉から家康へ最後のポイントを切り替えた。
そして関ヶ原の戦いでも東軍の武将として戦勝に大いに貢献し、家康から伊予今治20万石への加増を受けている。
外様大名でありながら、家康からの信頼は非常に厚かった。その一番の証拠が、江戸城築城の縄張りを高虎が任されたことである。
城の縄張りは、言わば軍事上の最高機密に属する事項である。樹立したばかりの江戸幕府を盤石なものとするために、江戸城築城は家康にとって最重要プロジェクトの一つだったに違いない。その要に当たる事業を高虎に任せたという事実に、高虎という人間への強い信頼と高虎の築城技術に対する絶対的な評価を窺うことができる。
仕える主人を7度も変えた高虎であったが、家康はこの「転職」を前の主君への裏切りとは見ていないで、むしろ高い能力を買われての転職であったと考えていたことがわかる。
高虎が遺したと伝えられる次の言葉には、高虎自身も自分の能力に強い自信を持っていたことが窺える。
武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ
一人の主君のみに仕えることの一面性を脱却し、複数の主君から信頼されること。高虎はむしろそのことに自身の価値を見出したのだろう。
一人の主君に仕えるだけであれば、その主君の考え方や趣味嗜好をよく理解しそれに自分の行動を合わせることで、うまく主君を取り込んでいくことは比較的容易にできるかもしれない。しかし複数の主君から高く評価されるためには、いわゆる主君への迎合だけではとても誤魔化すことはできない。高虎は、どんな主君から見ても相応の評価を得られるだけの実力を持っていたことになる。
築城の名人としては、熊本城を造った加藤清正も有名である。清正が熊本城に代表される深い反りのある石垣に特長のある城造りをしていたのに対して、高虎の城は高い石垣と濠との調和、および塔層式と呼ばれる天守の構築様式に特長があった。
海水や湖水を巧みに取り入れて天然の濠として活用する術には目を瞠(みは)るものがある。従来の(入母屋造りの建物の上部に望楼を構築する)望楼式天守に代わり、1階から最上階まで正方形の階を次第に小さくしながら積み上げていく塔層式天守を考案したのは、高虎であると言われている。
高虎が生涯に築城を手掛けた城の数は、実に17城にもおよぶと言う。代表的な城を列挙すれば、江戸城のほか、三重県の津城、上野城、愛媛県の今治城、宇和島城、大洲城、滋賀県の膳所城、兵庫県の篠山城、京都府の二条城、亀山城、伏見城、和歌山県の和歌山城、奈良県の郡山城など枚挙にいとまがない。
いずれも、土地の地形を巧みに利用し、堅固な石垣と美しい天守を擁した当世一流の名城であることが共通点である。
家康の死去に際して枕元に侍することを許されたというから、いかに高虎が家康から高い信頼を得ていたかということが窺える。その後も高虎は、二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え、寛永7年(1630年)10月5日、74歳の生涯を閉じた。
晩年は目を患い、ほとんど失明の状態であったそうだが、戦乱の世を生き抜き天寿を全うしたという意味において、戦国大名としては稀有の幸福な人生であったと言うことができるのではないだろうか。
高虎の出生地である滋賀県犬上郡甲良町在士(ざいじ)を訪れてみた。
近江鉄道本線尼子駅の南東約1㎞、今では甲良町の町役場が建つ町の中心部である。高虎の出生地であることを示す痕跡は、残念ながらあまり多くは残されていない。町役場のやや北に、高虎公園と呼ばれる公園が僅かに存在するだけである。
優雅な池を抱く緑豊かな公園には、池の中央に浮かび立つようにして高虎の騎馬像が建立されていた。風もなくて、水面にもう一つの高虎像が線対称となって鮮やかに映しだされている。
甲冑姿で馬に跨り、右手で前方を力強く指し示す高虎の銅像を見上げていると、戦上手と言われた高虎のイメージが沸々と眼前に湧き上がってくる。高虎は、身長191㎝の大男だったという。幾多の戦いにより指を失い、全身刀傷まみれであったと伝えられているから、文字通りに武闘派の勇敢な武将であったのだろう。
道路に面した一角には、「高虎公ゆかりの残念石」と呼ばれるたいへん大きな石が置かれている。説明書きによるとこの石は、元和6年(1620年)に京都府賀茂町の大野山から切り出された石で、約11トンもあるのだそうだ。側面には、藤堂家の普請であることを示す記号(「┓」の字)と寸法(九尺二寸、三尺七寸、三尺九寸と記載)が刻まれている。家康の命により大坂城再建のために使用する目的で切り出したものの、なぜか使用されないまま木津川に取り残されていたものだそうだ。高虎の偉業を顕彰するために、地元の「藤堂高虎公顕彰会」と「在士村づくり委員会」がわざわざこの場所まで運んで来たのだ。
このほかに公園内には、藤堂家に所縁のあるものとして、藤堂家の家紋入り対灯篭と駒止め石と呼ばれる石碑のような石が設置されている。屋敷の遺構等は残されていないものの、甲良町の人たちがいかに高虎に親しみを持ち、高虎のことを誇りに思っているかが伝わってきて、とても気持ちのいい公園であると思った。
思えば、こんな静かな土地に生まれ、自分の才覚だけを頼りに幾人かの主人を渡り歩いた高虎は、随分数奇な人生を歩んだものだ。若い時に仕えた主君が次々と滅んでいく中で、結果的に勝ち組となった徳川家康に辿り着き、戦国武将としては稀に見る成功を収めた人生の出発点が、このけっして裕福とは言えない場所からであった。
どんなところからスタートしても、高い志と他人にはない絶対的な技術と主君を冷静に評価できる目とがあれば、相応の人生を歩むことができるということを、高虎は私たちに教えてくれている。
高虎公園は、周囲に拡がる田園風景のなかにポツンと存在しているような、美しくて長閑な公園だった。この公園の前から西方面にあたる八幡神社までの道を「高虎の道」と呼ぶのだそうだ。道の端には小川(尼子川と言う)が流れ、澄んだ水を素敵な速度で運んでいく。
八幡神社の境内にも、高虎を偲ぶものがあった。
鳥居の左脇に建立されている「藤堂高虎公出生地」の石碑がそれである。
八幡神社は、応永2年(1395年)に藤堂家の始祖である藤堂三河守景盛が京都の石清水八幡宮を勧請したのがはじまりであると伝えられている。石清水八幡宮は武士の神として藤堂家が篤く信仰していた神であった。
この時に一族の繁栄を祈念して一緒に植えられたのが、一株の紫色の藤だった。その後数百年を経た藤の古木は、今でも鳥居の脇に設けられた藤棚などに見事な花を付け在士の人たちの目を楽しませてくれている。
神社の前からさらに西側へは、敷石で見事に整備された道が続き、古い趣のある民家が立ち並ぶ。静かな佇まいのなかにどこか気品が漂い、清々(すがすが)しささえ感じられる、在士はそんな街であった。
機会があれば、伊賀上野や津にある高虎が築城した城にも行ってみたいと思った。出生地である甲良町には物証としての高虎の足跡は残されていなかったけれど、高虎が実際に造った城を訪れ、石垣や濠や天守などを眺めながら、改めて高虎の人生について考えてみるのも悪くないと思ったからだ。
近江が生んだ築城の天才は、どのような気持ちで、それらの城を築いてきたのだろうかと思うと、実に興味深い。
せっかく尼子(あまご)という名前の駅に来たのだから、最後に尼子氏について簡単に触れておくことにしたい。
甲良町尼子(あまご)地区は、近江鉄道本線・尼子駅の周囲200ha、人口1,000人弱の小ぢんまりとした地域である。土地の3分の2を水田が占める農村地帯だ。この地に、佐々木源氏・京極氏の流れを汲(く)む佐々木高久(たかひさ)が居住したことから尼子の歴史が始まった。高久は、当地の地名にちなんで尼子姓を名乗るようになる。
高久の祖父にあたる佐々木高氏(たかうじ)(道誉)は、足利尊氏を支えて室町幕府樹立に大いに貢献した知将であった。自由奔放で派手な性格から婆娑(ばさ)羅(ら)大名との異名を持ち、幕府内で強い影響力を保持していた有力大名だった。甲良町が生んだ三大偉人の一人なのだそうである。ちなみにあとの二人とは、藤堂高虎と、高虎と共に日光東照宮を造営した名工の甲良豊後守宗廣である。町の中心部にほど近い法養寺には、甲良豊後守宗廣記念館が建てられている。
高久の次男持久が当主であった時代に、宗家である京極氏が守護を務める出雲の守護代として下向したことから、出雲における尼子氏の歴史が始まる。やがて出雲の国人たちを掌中に収め、持久の孫の経久の時代に守護の京極政経を追放して守護大名の座を確立させた。
尼子氏は、5大山城の一つに数えられる月山富田城(現在の安来市)を拠点とし、出雲から備中、備前、美作、さらに播磨へと勢力拡大を続けていったが、安芸の国(今の広島県)の吉田を拠点に勢力を急拡大していた毛利元就との勢力争いに敗れ、経久から4世の後の義久の時代に第二次月山富田城の戦いにおいて降伏し、尼子氏は高久からわずか6代で滅亡した。
尼子(現甲良町)を拠点として、二人の男が飛び出していった。一人は尼子氏(持久)であり、もう一人が藤堂高虎である。二人は、結果において大きく明暗が分かれてしまった。
尼子持久は、任国として下った出雲の地で勢力を拡大し、順調に一族の地歩を確立するかに思えたが、毛利元就という中国地方におけるスーパースターの登場に遭い、死闘の末、義久の代にあえなく滅亡となる。
藤堂高虎は、はじめは弱小領主に仕え、次々と主人が滅ぼされていく中で綱渡りの人生を歩んでいたが、やがて羽柴秀長、そして徳川家康という二人の知己の領主に才能を見出され、武勇と築城術とを買われて大大名へと出世していく。
両者の間にどんな違いがあったのか?状況が違うので単純な比較はできない。勝ち負けはあくまでも相対的なものであるから、周囲に強力な敵がいなければ成功するかもしれないし、目前に大きな障害があれば大いに苦戦を強いられることになる。
織田信長や豊臣秀吉の軍と比較して、上杉謙信や武田信玄の兵が弱かったのかと言うと、そういう問題ではない気がする。謙信と信玄は、都から遠いという共通のハンディに加えて、まずはライバルである両者の間で雌雄の決着をつけなければならないという状況に置かれていた。
5度にわたる川中島の戦いにおいて、両者の体力は徒(いたずら)に消耗していった。そして、いざ都を目指そうとした時には、二人はもう十分に歳を取り過ぎていた……。
成功を勝ち取るためには、周囲の状況、年齢、タイミング、いろいろな制約要素が存在し、それらの条件をクリア―した後に初めて、勝利は訪れるものである。
高虎が優れていて、尼子氏が劣っていたとは私は思わない。それぞれ、歴史の大きなうねりの中でもがき、苦しみ、そして戦っていった。その結果として、高虎は周囲の主君にも最後は恵まれて、能力を開花させることができた。
尼子氏は、武運に見放されて、出雲の地に散っていった。
そういうことなのだと思う。なにかわかったようなわからないような結論だが、私は一人うなずいて、尼子から彦根へ戻る近江鉄道のがらんとした列車に乗り込んだ。
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15. 彦根城(井伊直弼の城下町と国宝の天守)
- 2010-01-07 (木)
- 湖北残照
15. 彦根城(井伊直弼の城下町と国宝の天守)
関ヶ原の戦いが終わり、佐和山城が落ち、そして石田三成が処刑された。秀吉亡き後の混乱の世の中は、急速に徳川家康の下に収束されようとしていた。
徳川四天王の一人井伊直政は、関ヶ原の戦いにおける戦功により、石田三成の居城であった佐和山城を賜った。敵方の大将の所領を賜ったのだから、並み居る徳川方の武将たちの中でも最大級の評価を受けたと言って間違いないだろう。
直政は、先陣を任されていた福島正則らの外様大名に戦功を譲ることを潔しとせず、抜け駆けをして先陣の功を得た。本来であれば抜け掛けは軍規を乱す行為であるので反対に処罰の対象となるものだが、福島正則らの外様大名を先鋒に指名したこと自体が、家康の本意ではなかったのであろう。家康の真意を知っていて、敢えて直政は抜け掛けの禁を犯したと考えた方が、恩賞結果と合致する。
さらに直政は、中央突破を図って敗走する島津義弘軍を追走し、佐和山城攻めでも軍監を務めるなど、関ヶ原の戦い全般において第一級の軍功を挙げ、上野国高崎12万石から北近江15万石と上野国3万石の領主となった。
井伊家の石高はその後、大坂の陣などでも加増されて、最終的には35万石の大大名へと成長していくことになる。
直政が佐和山城に入ったのは、慶長6年(1601年)1月であった。しかしながら直政は、島津義弘を追撃する際に銃弾を受け、その傷がもとで翌年2月1日に死去した。わずかに40年の短い生涯であった。
彦根城築城の計画は、直政存命中から練られていたようである。直政自身が三成をひどく嫌っていたこと、三成の記憶を城もろともに消し去る必要があったこと、さらに、秀頼のいる大坂方面への抑えとしてより機能的な城が求められていたことなどがその理由であると考える。
彦根城築城は、慶長9年(1604年)、家康の承認のもとに幕府主導で開始された。
幕府からは6人の公儀奉行が派遣されたほか、近江近国の大名28家および旗本9家が動員され、急ピッチで築城工事が進められていった。発足したばかりの徳川幕府にとっての重要な軍事的戦略プロジェクトの一つだったことが窺える。
2年後の慶長11年(1606年)には早くも天守が完成し、慶長12年頃までには城の主要部分が完成している。大坂冬の陣(慶長19年)、夏の陣(慶長20年)を挟んでさらに工事は続けられて、最終的な完成を見るのは元和8年(1622年)頃であった。
急いで造らなければならなかったことから、彦根城の建造物には他の城などからの転用が目立つ。
重要文化財に指定されている天秤櫓は、長浜城から移築されたと言われている。本丸に向かってさらに進んだところにある太鼓門櫓は、彦根城を築城する以前に彦根山に建立されていた彦根寺の山門を利用したものと伝えられている。国宝に指定されている天守さえも、大津城の天守を転用したとの説がある。
石垣に至っては、佐和山城、長浜城、安土城の石垣の石が使用されていると言う。言ってみれば彦根城は、廃物を利用しての寄せ集めの城である。しかし廃物利用のリサイクルの城だからと言って城の価値が下がるものではない。彦根城はそういった構成要素の過去の来歴を感じさせない、城としての統一感と堅牢性とを兼ね備えている。
第一に、美しい。
高い石垣の上に、白壁の櫓や門などの建造物群が眩(まばゆ)い光を放ちながら聳(そび)えている。天秤櫓に通じる高い橋桁を持つ木製の橋(廊下橋)は、荒々しく野趣に満ちている。そして本丸に鎮座する三層の天守は、小ぢんまりしたなかにも抜群の存在感を示している。千鳥破風と唐破風を巧みに配し、軒端には金の装飾を施した外観は、実にお洒落な佇まいだ。
そこには、計算され尽くした美の意識が息づいている。
短い工期を余儀なくされ、材料としては他の建造物を転用するという制約の下で、しかも軍事的に堅固な城を築きあげなければならない。そのような状況下にありながらも、よくぞこれほどの美しさを保ち得たものだと、感嘆の言葉を禁じ得ない。
第二に、堅牢である。
濠に面した石垣は、いわゆる腰巻石垣と腹巻石垣を併用している。すなわち、濠から立ち上がる部分に石垣を配し(腰巻き)、その上に土塁を積み上げ、最上部にさらに石垣を重ねている(鉢巻き)。三層構造となった石垣は、江戸城の石垣と同じ構造であり、江戸城以外にはほとんど類例を見ない。
天秤櫓の下の、廊下橋をくぐるように交差する狭い道は、堀切である。道の両側を高い石垣で塞ぎ、下の道を通って攻め込もうとしている敵兵に対して、矢を射かけたり鉄砲を撃ったりして上から攻撃を仕掛ける。これはたまったものではない。
それでも先に敵が進んで行けば、先程の廊下橋を焼き落してしまえば、本丸は完全に独立した空間となる。山の地形を巧みに利用した心憎いばかりの縄張りである。
彦根城は、様々な制約の下での築城であったにもかかわらず、質と実とを兼備した機能的な城であることがよくわかると思う。天下に名城と謳われる所以である。徳川幕府の中で大老職を仰せつかってきた数少ない大名であり、「常溜り」と呼ばれる譜代の大藩としては稀有の地位を与えられた井伊家の居城として、彦根城は実に相応しい城である。
彦根城の生い立ちを追ってきたが、それでは早速、実際に彦根城を訪れてみることにしよう。
JR琵琶湖線の彦根駅は、東海道新幹線の米原駅から京都方面にわずか一駅の立地にある。 駅舎の2階から眺めると、真正面に彦根城の天守を望むことができる。駅前の雑多なビルが目障りではあるが、小高い山の頂上で存在を主張する彦根城の姿は、旅人の心を強く引きつける。
余談だが、彦根城の姿は、新幹線の車窓からも確認することができる。米原駅を出てすぐ、京都方面に向かって右側の景色を目を凝らして見ていると、遠く小高い丘のような小山の上に、ちょこんと乗った彦根城の天守が遠望できる。米粒のように小さな姿だが、これは意外と感動ものであるので、是非お試しあれ。
さて、駅前の広場では、井伊直政の騎馬像が私を迎え撃つ。甲冑姿に身を包み、両脇に長い角を模(かたど)った飾りをつけた兜をかぶり、高い馬上から見下ろす姿は、凛々しい戦国武将そのものだ。鋭い眼光に、思わず射すくめられるような思いがする。徳川四天王の一人として幕府の創建に君臨した直政の功績を想いながら、駅前の道をまっすぐに城へと進んでいく。
城下町には、どこか独特の雰囲気がある。
言葉ではうまく表現することができないのだが、街の空気に含まれている気品というか緊張感というのだろうか。武家の街の凛とした気配が、そこここに感じられるのである。その空気の行き着くところ、求心力の焦点に、城がある。
駅前からまっすぐの道は、一度行き止まりに突き当たる。いわゆる「どんつき」と呼ばれている、城下町にはよくある街の構造である。敵方に一気に攻め込まれないように、道のあちこちにこのような行き止まりやかぎ型を設けるのが、城下町の常識である。
一度左へ曲がり、すぐにまた右に曲がると、目の前に大きな松の並木と濠が見えてくる。いろは松と呼ばれる松並木の向こう側には、白壁が美しく映える佐和口多聞櫓が待ち構えている。この櫓も、一度右へ曲がりすぐに左に曲がる桝形の構造を持っている。
佐和口多聞櫓のすぐ手前の小道を濠に沿って右折すると、井伊直弼が青年期を過ごした埋木舎に至るのだが、ここのことは後で触れるとして、道を先に急ぐことにする。
佐和口多聞櫓を過ぎると、濠に突き当たる。この濠に沿って右に行くと、彦根城第二郭にあたる玄宮園方面となる。反対に左に行くと、本丸に向かう表門橋が見えてくる。橋を渡ったところにあるのが、表御殿を模して造られた彦根城博物館である。
かつてこの地には、彦根藩の藩政の中心である表御殿があった。厳密な発掘調査をもとに、彦根市制50周年記念事業として彦根市が復元したのが、彦根城博物館である。外観は当時の表御殿そのままとし、内部には井伊家の歴史を中心とした貴重な資料が多数展示されている。
当時の風俗を描いた国宝「彦根屏風」も、その一つである。実物は思ったよりも小さな屏風だが、金箔のうえに庶民の様子が生き生きと描かれている傑作だ。
博物館の一部には、表御殿の内部が庭園とともに復元されている。「御殿」と名がつけられていても、意外と質素な佇まいであったことがわかる。
彦根城博物館を出ると、いよいよ本丸に向かう上り坂となる。
狭くて急な坂道を息せき切って登っていく。周囲には木々が生い茂り、鬱蒼とした森の中を進んでいくような感じだ。鳥のさえずる声が心地よく鼓膜を刺激してくれる。
しばらく行くと、やがて左右を高い石垣に阻まれた狭い道が現れ、目の前に古風な木製の橋が出現する。廊下橋である。なんと風流な橋なのだろう、なんて感心していてはいけない。今私が立っている場所こそが、先程書いた堀切の底であり、戦いのさなかであれば私は、上方のあらゆる角度から矢や鉄砲を見舞われてこの場に倒れているはずである。
逃げ場のない空間に敵を誘いこんで、一網打尽に叩きのめす。背筋がぞっとするほど恐ろしい仕掛けが、何気なく仕込まれている。
廊下橋をくぐりぬけて回り込むようにして坂道を上ると、鐘の丸と呼ばれる広場(廓)に出る。先程上方に見上げていた廊下橋と同じ高さである。廊下橋を渡りきったところに接続している門のような構えをした白壁の櫓が、長浜城から移築されたと伝わる重要文化財の天秤櫓である。
天秤櫓を抜けてもまだ登り坂が続く。
幅広の石段を登り続けていくと、こちらも重要文化財の指定を受けている太鼓門櫓が見えてくる。こちらは、元々彦根山にあった彦根寺の山門とのことだが、どう見ても城門以外のものには見えない構造をしている。
桝形になった門を抜けると、いよいよ天守が聳える本丸広場に辿り着く。
ついに彦根城の頂点に到達である。ここまで来るのに、いくつの城門をくぐり、どれだけの坂道を登ってきたことだろうか?天守までの道程は、実に遠く険しかった。井伊直政が構想し、井伊直継によって完成された彦根城を、私は自分の心と体とで体感した。
天守は本丸の真ん中に鎮座しているわけではなく、北西の隅に位置している。と言うのは、本丸には天守だけでなく、藩主の居館であった御広間(おんひろま)や宝蔵、それに着見櫓などの建造物が建っていたからである。
これらの建造物群が現存していたら、本丸の景色もさぞや賑やかであったことだろうと思う。それ以外の建物は取り壊されてしまい、今は広々とした空間に天守のみがポツンと取り残されている。
彦根城の天守は、姫路城や大坂城の天守などを想像すると、小ぢんまりしていて物足りないかもしれない。しかし彦根山の頂上に建つ天守を城下町から見上げると、えも言われぬ存在感を誇示して見える。城下のどこからでも、またさらに遠方からでも眺めることができるように、ちょうどいい大きさに計算して造られているのが、彦根城の天守であると言える。
そういう意味で彦根城は、山全体を混然一体として眺めるべきである。
京極氏の大津城を移築したと伝えられる三階三層の天守は、入母屋屋根に唐破風と千鳥破風を巧みに配し、複雑な外観を造り上げている。窓には装飾性に富んだ花頭窓を採用し、軒端には金の飾りを施す姿は、戦いを目的とした城というよりは、風流をより強く感じさせる可憐な城である。
戦場においても粋な赤備えの具足に身を包んで戦った井伊家一流の美学が、城にも息づいているのであろうか?彦根城は無条件に美しい。
優雅な外観とは対照的に、天守の内陣は質実剛健そのものである。太い柱と板敷の床。天井を見上げれば、反りのある太い木材が何本も組み合わされながら渡されている梁。木の冷たい感触がそのまま伝わってくるような、重厚な造りの内部だ。
急な階段を手摺を頼りに上っていくと、やがて最上層に辿り着く。彦根城の天守から眺める眺望は、すばらしい。
目の前一面に拡がる琵琶湖の碧い湖水。風に吹かれてさざ波立つ湖面。築城前に没した井伊直政はこの景色を見ること能わなかったけれど、直継以下の歴代の藩主たちはきっと、この雄大な景色を堪能したに違いない。
幕末の大老・井伊直弼も、いく度(たび)かは今私が佇む場所に立って、飽かず琵琶湖の湖水を眺めたかもしれない。あるいは、甍が並ぶ美しい彦根の城下を満足げに見渡したかもしれない。そう思うと、感慨もひとしおである。
天守からの風景を心に納めて、私は城を後にした。主がいなくなっても、城が毅然として存在し続けていることが、健気に思えてきた。
幸いにして彦根城は、実戦の経験を持っていない。しかし一歩間違えば戊辰戦争の時の会津のように、戦いが現実のものになっていた可能性もある。無数の砲弾を浴び、廃墟のようになりながらも立ち尽くしていた鶴ヶ城の写真を見ると、彦根城が同様の運命を辿らなくてよかったと、心から安堵する。
それにしても、守りの美学とでも言うのだろうか。実際には使われなかったものの、守備のための設備や仕組みをふんだんに備えながら、彦根城はなお美しさを湛えている。追求され尽くした城の機能美を満喫しながら、この後は彦根の城下町を探訪してみることにしたい。
彦根の城下町は、彦根城築城と同時に建設に着手された。芹川の流れを付け替えて濠の役割を持たせるなど、大きな土木工事を伴うものであった。たしかに、よく見てみると、城の南西を流れる芹川は、不自然にまっすぐな流れになっているのがわかる。
彦根の城下町は、大きく4つの区域に分けることができる。
第1郭は、彦根城の中心部分である。先程見てきた天守を中心として、多聞櫓、表御殿などが配置され、内堀と高い石垣で区画されている。
第2郭は、第1郭を取り巻くように内堀と中堀に挟まれた区域で、内曲輪および二の丸と呼ばれている。ここまでが、いわゆる彦根城だ。家老などの上級藩士の広大な武家屋敷が並び、槻御殿や玄宮園など藩主の別邸や庭園、それに藩校などが置かれていた。
今では、藩校の流れを受け継ぐ彦根東高校や地方裁判所、それに玄宮園と命名された庭園として整備されている。上級藩士の武家屋敷の大部分は、残念ながら明治維新に際して解体されてしまった。今では、筆頭家老・木俣家の屋敷、黒板塀に白壁が映える西郷家の長屋門、なまこ壁が美しい脇家の長屋が残るくらいである。
第3郭は、中堀と外堀に囲まれた区域で、内町と呼ばれている。中堀の外側と外堀の内側に面して中級藩士の武家屋敷が立ち並び、その間に町人の居住区であった町屋が設けられているサンドイッチのような構造になっている。
今でも、夢京橋キャッスルロードの北西側の本町2丁目・3丁目、城町1丁目辺りには、町屋の遺構が比較的多く残されている。当時の町名で見てみると、東内大工町、紺屋町、上魚屋町、職人町、桶屋町など、そこにどんな町人が住んでいるかが一目で理解できる町名になっていることがわかる。
旧職人町に隣接する旧連着町の辺りであろうか、何気なく歩いていると、「腹痛石」という不思議な石が路傍に置かれているのに出くわした。この地方でよく見られるお地蔵様のように前掛けを掛けられた、腰の高さくらいの石だ。上には、いわくありげに数珠が置かれている。
藤原時代の昔からこの地にあると言い伝えられてきた石のようで、不届き者が石を持ち去らないように、この石に触れると腹が痛くなると言われてきた。触れると腹が痛くなるというフレーズに私たちは、先に見てきた石田町の八幡神社境内に埋められた三成一族の墓石のことをすぐに思い出す。昔の人々は、こうして大切なものを守ってきたのだろう。
こんな思いがけない見つけものをするのも、伝統ある街並みを歩く楽しさではないだろうか。厳かな武家屋敷とは違う町屋を歩く気楽さみたいなものが、またうれしい。
第4郭は、外堀の外側で、外(と)町(まち)と呼ばれている区域だ。下級藩士や足軽の組屋敷などが設けられ、町人も居住していた。今の彦根駅辺りは、この第4郭と言えるだろう。
この地域で今でも特徴的に確認することができるのは、足軽の組屋敷である。夢京橋キャッスルロードを突き抜けてまっすぐに、芹川に向かって細い道を歩いて行くと、立て横に細かく区画された不思議な町割の中にいることに気づくだろう。芹橋1丁目・2丁目辺りだ。
ここはかつて、彦根藩善利組の組屋敷があったところである。外堀と芹川に挟まれた城下町の最外部に位置する場所で、ここに足軽組の組屋敷を配備することで、城の最前線における防御を意図していた。
かつては700戸もの屋敷が存在していたが、今でも比較的良く当時の雰囲気を伝えている街並みだ。江戸時代の建物も、十数軒程度は残されている。これらの建物は、小規模ながらも武家屋敷としての体裁を保っており、江戸の昔にタイムスリップしてしまったような郷愁を覚えるお勧めの散歩道である。
彦根の城下町は、彦根山の麓に新しく一から造り上げた街なので、計画的でかつ機能的な城下町を作ることができた。こうして、城と城下町とが混然一体となって、街全体で敵からの攻撃を防御するコンセプトが徹底された。
築城当時の街割りは今でもよく窺うことができる。街を歩いていると、そこここで行き止まりやカギ型に曲がる路地に出会う。敵の攻撃時に、まっすぐ侵入されることを防ぎ、道の曲がり角に籠って防戦の機会を作ることを目的としている。最終局面である街路におけるゲリラ戦を想定している用意周到さだ。
敵が攻めにくい街の構造ということは、そこに住む人間にとっても同様に住みにくい環境にあるということを意味している。彦根市に住む人々は、築城以来数百年もの長い年月にわたって、この住みにくさと同居しながら生きてきたのである。
江戸時代ももう少し時代が下ってからの築城であれば、もっと生活しやすさに重点を置いた街づくりができたのだろうが、彦根城築城当時の徳川幕府はまだ黎明期であり、大坂城には豊臣秀頼が存命しており、緊張感のある時代であった。
そんな時代背景などに思いを馳せるのも、城下町散策の楽しみ方だと思う。
最後に、旧花街だった袋町あたりを巡って、彦根城下町の散策を締めくくることにする。
長い雨季の終り。
夕空は久しぶりに、伊吹山の山頂まで、くっきりと晴れわたって見えたが、芹川の水
は、見違えるほど水嵩(みずかさ)を増して居た。岸から二尺あるかないかで、水勢はいつになく鋭
い。
さっきから、堤の上を往ったり来たりして居る浪人風の男があった。歩いたかと思う
と、ふと立ち止まって、水の面に、目を注ぐ。そうかと思えば、首を上げて、涯(はて)しない
大空を遠く眺めた。
堤の東は、袋町の花街である。ことによったら、堤を下りて、この郭(くるわ)の揚屋(あげや)に、登楼
しようという客が、暫(しば)しの時を消すために、堤の上をそゞろ歩きして居るとも思われな
いことはない。しかし、よく見ると、人態風俗、郭通いの粋客とは、どうしても受取れ
ぬ。
年の頃は二十七、八。細長の顔で、眉は太く長いのが特長だ。然(しか)し目は切れ長で、色
は白く、鼻筋が通って居るから、理知的ではあるが、柔い相である。
堤のすぐ下に、軒を並べた娼家の窓から、たか女は、川の水嵩を見ようとして顔を出
した時、堤の上の、その男の姿に目を惹(ひ)かれた。
見馴れない男だと思った。他国者にちがいない。物騒な時代だけに、藩士達は他国者
の入国には必要以上に神経過敏となって居る。よく、あんなところを、ブラブラ、やっ
ていられると、意外な気がした。
向こうでは、まだ、こちらが見ているとは気がつかない。桜の立木の下に居て、ジイ
ッと水面を見下ろしながら、何か深い黙想にふけって居るらしい。
ここに突然引用したのは、舟橋聖一さんの名著『花の生涯』の冒頭部分である。井伊直弼の生涯を題材とし、NHKの歴史大河ドラマの栄えある第一回作品に選定されたのが、この『花の生涯』であった。
堤の上を往ったり来たりしている浪人風の男こそが、後に京都の大老と呼ばれ志士たちに恐れられた長野主(しゅ)馬(め)(後の主膳)である。娼家の窓から芹川の堤を眺めていたのが、井伊直弼の愛人となり、後に主膳とともに京都で諜報活動に身を投じることになる村山たか女である。
長野主馬が初めて井伊直弼にお目通りする日、お忍びで直弼のもとを訪れるために日が暮れるのを待っていた光景から、物語が始まる。
彦根の城下町を歩くのなら、有名なこの作品の冒頭に表されている袋町を訪ねてみたい。そう思っていた。元は彦根城の外堀であったところを埋め立てて作られた大きなバス通りを南に歩き、古い商店街である銀座街を抜けると、花しょうぶ通りという趣のある商店街に達する。この通りの右手(西側)こそが、旧袋町の花街跡である。
今では河原2丁目という地名に変わっているが、花街の面影を色濃く残した飲み屋街として今も健在だ。昔は娼家だったかもしれない洒落た紅柄格子の旅館などが軒を並べ、『花の生涯』を彷彿とさせる。
長野主馬は、この辺りをそぞろ歩きながら時間を費やして、やがて暗がりの中を井伊直弼が寓居する埋木舎を訪れたのだろう。
旧袋町界隈は、できれば日が暮れてから訪れてみたかった。きっと昼間の顔とはまた違った、むしろ往時の花街を想起させる街の姿が垣間見られることだろう。
城下町には、武家屋敷の顔があり、町屋の顔があり、そして花街の顔がある。これらの異なる街の「顔」が計画的に整然と割り振られ、全体として一つの街としての機能を維持している。
彦根城と彦根の城下町を探訪した最後に、どうしても触れておかなければならないのが、井伊直弼のことである。築城当時から時代はかなり下るが、彦根と言えば井伊直弼のことを抜きにして語ることはできない。
井伊直弼は、彦根城第2郭にあたる玄宮園に隣接する彦根藩の下屋敷にあたる槻御殿で生まれた。文化12年(1815年)10月29日のことである。
槻御殿は今も現存している。井伊家の豊富な財力を駆使して槻の木材をふんだんに使用した豪華な建物だ。城の北東に位置する御殿からは、玄宮園の広々とした回遊式庭園を望むことができる。大名文化の粋を集めた贅沢な空間だ。
ところが直弼は、前藩主である井伊直中の十四男として生まれた。生まれながらにして藩主になる可能性がゼロに等しい男だったのだ。槻御殿での優雅な暮らしは、長くは続かなかった。
父・直中の死去に伴い直弼は、弟の直恭とともに槻御殿を退去し、第3郭にある尾末町屋敷に移り住んだ。直弼が17歳の時のことであった。
この尾末町屋敷のことを、後世の人たちは「埋木舎」と呼ぶ。
世の中を よそに見つつも 埋れ木の
埋もれておらむ 心なき身は
直弼は我が身の上を、自嘲するかのようにこうに詠んだ。
花も咲かず実も付けないままに埋もれていく木とは、藩主になる可能性が限りなくゼロに近い直弼そのものだった。
しかもその翌年、他の大名家への養子縁組を求めて弟の直恭とともに江戸に出たものの、直恭のみ養子縁組が決まり、直弼は失意のうちに一人で埋木舎に戻らなければならなかった。自暴自棄になり道を踏み外してしまってもおかしくない状況であるのに、直弼はそれでも気持ちを切らすことなく勉学に励んだ。
いわゆる捨て扶持である。300俵の扶持米を与えられて直弼は、いつ果てるともない部屋住み生活を続けた。しかし直弼の心には、希望の光は消えていなかった。
1日4時間の睡眠時間だったと言う。明日がない身であるにもかかわらず、直弼は自分自身を磨き続けた。
武道では、居合いの道で新派を興せるほどの腕前だった。学問も、洋学も含めてひと通りのことは身に付けた。そのほかにも、歌道、茶道、禅、能、焼き物(湖東焼)と、文化にも非常に深い造詣を示した。
茶道では、千利休以来の茶人との評価も高く、『茶湯一会集』という書物を著している。「一期一会」という言葉は元々は利休が唱えた言葉だが、世に拡めたのは直弼であると言われている。
禅の道では只管打座(しかんたざ)。ひたすら坐って無の境地を追い求めた。
能の世界では、埋木舎時代に「筑摩(つくま)江(え)」という謡曲を自ら創作している。伊勢物語に想を得た作品で、横浜の掃部山にある能楽堂で平成19年(2007年)11月27日、160年ぶりに上演されたことで話題になった。
どの分野を採り上げても、一流人である。口で言うだけなら簡単だけれど、それを実践することは、並大抵の人間にできることではない。
直弼は、32歳までの15年間をこの埋木舎で過ごした。そして弘化3年(1846年)、世嗣であった井伊直元が亡くなると、藩主である兄・井伊直亮の養嗣子として世嗣となり、江戸の藩邸へと移っていった。
13人もいた兄たちは、あるいは亡くなり、あるいは他家に養子に行き、あるいは僧籍に入るなどして、たまたまこの時に藩主の跡目を継ぐことができる状態にいたなかでは、直弼が最適な人材であったのだった。
世の中は、本当にわからないものだ。
しかし、世嗣の座を引き寄せたのは、私は直弼自身であったと思う。直弼が可能性がないにもかかわらず15年間も精進を続けた蓄積が、最後は自らを援けたと思わずにはいられない。
直弼が再び彦根に戻ってくるのは、その5年半後、藩主直亮の死去に伴い、第13代彦根藩主としての帰国時(嘉永4年(1851年))である。この時には、今では彦根城博物館となっている表御殿が、直弼の居場所だったのだろう。万感の思いを込めて、天守から琵琶湖の湖水や城下町を眺めたかもしれない。
私は、直弼の埋木舎での15年間にもわたる耐乏生活のことを知って、感動して『井伊直弼と黒船物語』を書いた。直弼の人生から教えられたことは、数限りない。しかし時代は、直弼を彦根藩主としてのみに止めておくことを許さなかった。直弼が藩主に就任したわずか2年後(嘉永6年(1853年))にペリー率いる黒船が来航し、日本は欧米列強の開国圧力の前に風前の灯状態となるのである。
未曾有の国難に際して、直弼は大老職を仰せつかって事の収拾に努めた。そして就任わずか2ヶ月で、日米修好通商条約締結という大事業をやってのけたのである。この間の事情の細かいニュアンスについては、それが目的ではないのでここでは触れない。
ここでは、欧米列強の侵略の魔手から日本を守り、日本を近代国家へと導いた恩人として、直弼のことを尊敬してやまないということを述べるに止めておきたい。井伊直弼は、彦根が生んだ最も偉大な人物である。
なお、彦根城の周辺には、埋木舎のほかにも直弼を偲ぶものが残されている。
玄宮園に近い公園には、衣冠束帯姿の直弼像と、舟橋聖一さんの花の生涯の記念碑が建立されている。不思議なことに、石田三成というと坐像なのだが、井伊直弼というと衣冠束帯姿の立像である。同じく衣冠束帯姿の立像が、横浜の掃部山公園に建立されている。
また、埋木舎ちかくのいろは松の並木には、直弼の歌碑が建てられている。
あふみの海 磯うつ浪の いく度(たび)か
御代にこころを くだきぬるかな
直弼は桜田門外の変で亡くなる2ヶ月前、衣冠束帯姿(坐像)の絵を狩野永岳に描かせ、自詠のこの歌を書き添えて井伊家の菩提寺である清涼寺(後述)に奉納した。この時にはすでに、直弼は死を覚悟していたに違いない。直弼は自らの命に代えても、日本という国を救おうとしていたことがわかる。この歌は、言わば直弼辞世の歌と言ってもいいかもしれない悲壮なまでの決意が込められた歌である。
ほかに直弼所縁(ゆかり)の寺としては、城下になるが、龍潭寺、清涼寺、天寧寺などがあるので、こちらも是非訪ねてみたいお勧めの場所である。
佐和山の麓にある龍潭寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で、井伊家の菩提寺である。枯山水の庭園と、佐和山を借景とした回遊式庭園が美しいことで知られている。敷地内には、直弼の母であるお富の方の墓所がある。
龍潭寺から程近いところにある清涼寺は、直弼が座禅の修行のために通った寺として有名である。清涼寺も井伊家の菩提寺で、初代藩主の井伊直政はここに葬られている。残念ながら非公開であるため、詳細を知ることはできない。
天寧寺は、直弼の父に当たる直中が建立した曹洞宗の禅寺である。桜田門外の変の後、現場付近に散在していた血染めの土や遺品を四斗樽に詰めて運び、ここに埋めたと言う。その上には井伊直弼供養塔が建つ。また同じ境内には、「長野義言之奥津城」と刻まれた大きな碑が建っている。長野主膳の墓である。主膳は直弼亡き後も彦根藩の藩政に関与していたが、反論が一転し、捕えられてろくな詮議もないままに断罪となった。文久2年(1862年)8月27日のことであった。
長々と彦根城と城下町を見てきた。まだまだ紹介しきれないたくさんの魅力を擁した街だが、そろそろ彦根の街を後にしようと思う。江戸時代の歴史を活かし、これから彦根の街がどのように発展していくのか、興味が尽きない。
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12.佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城)
- 2010-01-07 (木)
- 湖北残照
12.佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城)
世に、三成には過ぎたるものが二つあったと言われている。一つは居城の佐和山城であり、もう一つは家臣の嶋左近だそうだ。
連続3回に及んだ三成探訪の旅の最終回として私は、三成には過分のものと揶揄された一つである佐和山城祉を訪ねてみることにしたい。
佐和山城は、現在の近江鉄道本線の鳥居(とりい)本(もと)駅と彦根駅との間に存する標高232.5mの佐和山に造られた山城である。石田三成の居城として知られるが、実は三成が佐和山城主であった期間はほんの5年程度の期間に過ぎず、それ以前は湖北地方と湖南地方との接点にある城として、戦国武将たちの争奪目標となっていた。
古くは京極氏、六角氏、浅井氏が三つ巴で覇権を争っていたが、その後浅井氏が支配するようになり、重臣の磯野員(かず)昌(まさ)がこの城を守った。浅井長政と同盟を結ぶ織田信長も、当時の拠点であった岐阜と京都を結ぶ交通の要所として佐和山城をよく利用した。
琵琶湖を背にする立地は、琵琶湖の水運を利用した京方面への移動や物資の運搬を容易にした。城の正面にあたる大手筋(鳥居本方面)には、江戸時代の中山道の原形となる東山道が走っていた。東国と京とを結ぶ接点として、また北国街道を介して北陸方面ともつながりのある、まさに交通の要衝にあったのが佐和山城であった。
名城として世に知られていないのは、関ヶ原の合戦で三成が敗れた後、佐和山城を賜った井伊直政によって徹底的に破壊されたためである。
「破城」という言葉がある。
私は、佐和山城のことを調べるまで、この言葉を知らなかった。なんとも恐ろしい響きと字面(じづら)とを持った言葉だと思う。初めてこの言葉を聞いた時、私は戦慄で背筋がぞっと冷たくなるのを感じた。
破城とは、二度と軍事目的のために使用することができないように、徹底的に城の機能を破壊することを言うのだそうだ。具体的には、天守をはじめとした数々の建造物を取り壊し、濠を埋め、石垣を崩すことが主な作業と思われる。
そして破壊した城の材料そのものを、ほとんど残らず佐和山から運び出した。単に破壊しただけであれば、石垣の石などはゴロゴロと周囲に残されていることと思う。そこに石垣があったということさえ今はわからないほどに、完全に城の姿は消し去られたのであった。
先に訪れた小谷山にもほとんど城としての面影が残されていなかったのは、やはり羽柴秀吉らによって破城を受けたからだろうと私は考えている。
そこまで徹底的に消し去らなければならなかったのは、実は佐和山城そのものではなくて、石田三成という人の名声だったのではないか。私はそのように思えて仕方がない。家康は、三成を亡き者にしただけでは事足りず、なおも三成を異常なまでに恐れていたのではないだろうか?
後世の人たちが家康を賞することなく三成の遺徳を讃えるようなことがあってはならない。家康が本当に恐れていたのは、私はこのことだったのだと思う。
だから、三成に関わるものは徹底的に破壊した。物理的な物も人の思いも破壊し尽くそうとして、井伊直政をして人々の記憶から三成の存在を完全に消し去ろうとした。佐和山城の破城とは、そういうことだったのではないかと、私は思っている。
さらに、佐和山城が完全に消え去ってしまった背景には、城の機能を消去し石田三成の記憶を抹消するという軍事的戦略のほかに、現在ほど物資が豊富に存在しているわけではなかった戦国時代から江戸時代初期においては、廃物利用、今で言うところのリサイクルの精神が普通に存在していたという側面もあったのではないかと考えている。
特に、関ヶ原の戦いが終わったもののまだ大坂城に豊臣秀頼が存在していた当時の状況では、大坂城への睨みを効かす存在として彦根城を急いで築城する必要があった。だから、ゼロから作るよりも既存の施設を転用した方が効率的であったという合理的観点もあったに違いない。
石田三成の怨念が籠っている石を彦根城の石垣に転用するというのはあまり心地のいいことのようには思えないが、昔の人はそのあたりの感覚には比較的おおらかだったのかもしれない。城の石垣の材料として墓石が転用されたという話も聞いたことがある。
それでは、石田三成の居城であった佐和山城とはどんな城であったのだろうか?時代を天正年間に戻して、想像力を働かせながら当時の佐和山城の様子を見ていくことにしよう。なにしろ破城に遭っているため、正確な佐和山城の姿を復元することは誰にもできない。様々な説があるなかで、私が最も素直に受け入れることができる説を取捨選択しながら、復元を試みてみることにしたい。
石田三成が佐和山城に入った時期は、天正18年(1590年)7月とも文禄4年(1595年)7月とも言われていたが、近年の研究でやっと、天正19年(1591年)4月であったことが確定している。
こんな基本的な事実でさえなかなか確認できないところに、石田三成の神秘性が感じられる。石田三成が正規の歴史に登場するのは賤が岳の戦いを待たなければならないし、その後も諸説紛々としていて、関ヶ原の戦いで敗戦したのちに田中吉政の手の者に捕獲された状況に至るまで、正確なところがわからない。
佐和山城の正面にあたる大手は、城の東方の鳥居本側にあった。
佐和山の山頂に向かって東から西へ、2本の谷が伸びている。今の近江鉄道本線が通るやや広い谷がメインの谷で、中級以上の侍屋敷が立ち並んでいた地域と思われる。この谷を囲むように、佐和山の稜線上に三ノ丸、二ノ丸、本丸、太鼓丸が⊂の字型に並べられている。
もう1本の谷はメインの谷の北側にあり、やはり侍屋敷があったと伝えられている。
一方の城の西側は、石田三成が入城した当時は山際まで入江内湖が入り込み、背面を琵琶湖と琵琶湖に続く内湖とにより守り固める地形であったのではないかと言われている。
佐和山を取り巻く現在の街の状況から、大手口は佐和山の西側にあったと思い込んでいた私であったが、西側が発展するのは彦根城が築城される時期以降のことであるらしい。この時期に大手口が佐和山の東側から西側に付け替えられた可能性を主張する学者もいる。
佐和山城には五層の天守が聳えていたとの説がある。名城と謳われた城の頂上には美しい天守がよく似合う。真っ赤な夕焼けの空を背景に黒板張りの五層の天守が燃えるように聳える様を想像するだけで、胸がわくわくしてくる。実際の佐和山城は、どんな天守を擁していたのか?興味は尽きない。
ところが、佐和山城の天守について記述された信頼できる文献や絵画は一切残されていない。佐和山城の記憶は、徹底的に抹消されてしまっているのである。
一般に、山城の天守はそれほど大きなものはないと言われている。巨大な天守が登場するには信長の安土城の出現を待たなければならないし、平山城や平城と違って縄張り自体がすでに十分な高さにある山城には、五層の天守を必要としない。
浅井長政の小谷城の天守も、非常に簡易なものではなかったかと言われている。佐和山城の天守も、どちらかと言えば質素なものであったと考える方が、残念だが正しいかもしれない。平時は山の麓で政務を執り、非常時のみ山の上に籠ったのであろうから、立派な天守の必要性は極めて低かったのではないかと考える。
佐和山城が落ちた時、山は炎に包まれて、女たちが城の石垣から身を投げて果てたという悲しい言い伝えが残っている。今でも本丸の南にある女郎ヶ谷と呼ばれる谷が、その時の谷であったと言われている。
ぞっとするような凄惨な光景が想像されるが、実は近年の研究によると、佐和山城はほとんど抵抗らしい抵抗をすることもなく開城したのではないか、とする説が有力だ。
三成が関ヶ原の戦いに出陣している留守を守っていたのは、三成の父・正継と兄・正澄であった。秀吉の命に従って全国を飛び回らなければならず佐和山に留まることができなかった三成に代わって、平時から佐和山の領民たちを統治していたのは、正継や正澄であったと言われている。
関ヶ原の戦いで三成率いる西軍が敗れたことは、城中にいる正継や正澄にもすぐに伝わったに違いない。緊迫した城内の様子が想像される。
家康は時を移さず小早川秀秋や田中吉政らをして佐和山城に遣わしめ、城を完全に包囲した。関ヶ原の戦いからわずか2日後の9月17日のことであった。天下の大勢がすでに決してしまった今となっては、城兵たちの戦意を掻き立てることはもはや不可能だったに違いない。
守兵はわずかに2,800人。一方の寄せ手は1万5,000人である。内部から徳川軍への内応者も出て、正継や正澄もなす術がなかったのだろう。本丸を守っていた正継と三ノ丸を守っていた正澄は自刃して果てた。こうして、名城と謳われた佐和山城は、さしたる抵抗もできないままに呆気なく落城したのであった。
落城に際して、琵琶湖を背景に真っ赤に燃えあがる佐和山の姿が想像されるが、佐和山城は炎上しなかったというのが最近の通説のようである。落城が開城に近い状態であったこと、本丸や二の丸に残されている瓦に火災の痕跡が認められないこと、関ヶ原の戦いの武功により佐和山城を賜った井伊直政が速やかに入城した事実などから、学者たちは佐和山城炎上説を否定している。
落城後の佐和山城は、井伊直政らによってほとんど痕跡を残さないほど徹底的に解体されたが、丹念に見ていくと、彦根やその周辺に「面影」を色濃く残していることがわかる。佐和山城が炎上しなかったことを証拠づけることにもなると思うのだが、元佐和山城の建造物と伝えられる遺構が転用されて彦根市街やその近辺に存在している。そんな佐和山城の痕跡を探し訪ねて彦根の街を歩くことも、私の楽しみの一つだ。
城下町の町屋の雰囲気を再現した新しい街並みが立ち並ぶ夢京橋キャッスルロードのちょうど真ん中に位置する赤い門の大きな寺が、宗安寺である。この深みのある朱色を湛える門こそが、佐和山城の大手門を移築した門であるという。
宗安寺の表門はいかにも城門らしく、馬に乗って出入が可能なように敷居が設けられていない。元禄時代に起こった彦根の街の大火でも奇跡的に焼け残り、往時の姿を今に伝えている。
よく見ると、太い門柱には継ぎ接ぎ補修の跡が残り、門扉には横に引っ掻かれたような傷跡が窺える。伝承が正しければ、長い間佐和山城と彦根の街の歴史を見続けてきた貴重な遺構ということになる。
宗安寺のほかにも、佐和山城の痕跡はいくつか残されている。
彦根城の西側の栄町一丁目にある蓮成寺は、佐和山城の法華丸の建造物を移築したものであると伝えられている。法華丸は、三成が若き日に修行の場としたと伝えられる古橋にある法華寺が、三成のために普請したものである。ここにも三成の熱い魂が籠っている
また、花しょうぶ通りにある妙源寺の本堂と庫裏は三成の佐和山御殿を、山門は佐和山城の城門を移したものと言われている。
さらに、鳥居本宿にある専宗寺の太鼓門の天井には佐和山城の用材が使用されている。前著『井伊直弼と黒船物語』で紹介した高源寺の山門は、佐和山城の裏門であると言われている。
こうして見てくると、徹底的な破城に遭ったとは言うものの、佐和山城の面影は三成の魂とともに、今もなお彦根城下に色濃く残されていることがわかる。三成の記憶を完全に消し去ることは、徳川家康や井伊直政を以てしても、結局は能(あた)わなかったということなのだろうと思う。
佐和山城と、佐和山城落城にまつわる悲話を見て来た機会に、ここで三成の功績について考えてみることにしたい。
侍大将としての器量はともかくとして、官僚としての三成の能力は当時の武将の中では群を抜いていて、実は徳川幕府260年の礎を築いたのは三成であったとは、先に紹介した歴史学者太田浩司さんの言である。
意外に思う方も多いと思うので、少し詳しく語ることにする。
ここからは尊敬する太田さんの受け売りである。これまでは石田三成のことは、豊臣秀吉の恩義を忘れずに奸臣徳川家康に挑んだ「忠臣」という側面のみが強調されて評価を受けていたが、太田さんは三成のことを「構造改革を断行した男」と捉えている。
三成をどう見るかは、もちろん個人の自由であるが、私は彼を「忠義の臣」として捕(ママ)え
るのは、正しくないと思っている。江戸時代の三成評を否定しようとしている我々が、
江戸時代の儒教思想に基づいた「君に忠」の思想に呪縛されてどうするのであろう。そ
もそも三成が有能な政治家であり、官僚であれば、新たな日本の国家像について、明確
な方針を持っていたはずである。高い志を掲げる政治家や官僚が、「忠義」という二文字
だけで果たして行動するであろうか。私は三成を、そんな姿に矮小化したくない。
さらに続けて、
小和田哲男氏は三成を、豊臣政権の官房長官として、政策通の仕事ぶりを高く評価す
る。それはもっともだが、私はさらに進んで、三成は戦国という世が持っていた社会構
造を打破し、その上に新たな政治・経済システムを構築した政治家として評価したい。
もちろん、この仕事は彼のみで行ったわけではないが、彼が中心であったことは、これ
から述べるさまざまな状況証拠から明らかである。つまり、三成がいなければ、古い権
利におかされた戦国時代とは決別できず、江戸時代という新しい社会は生まれなかった
のである。
と述べている。長くなるが、もう少しだけ、太田さんの文章の引用をお許しいただきたい。
本質は、三成と家康の国家構想をめぐる戦いだったと結論できる。この戦いの後、三
成が目指した豊臣家による先鋭な中央集権国家は生まれず、地方分権にも重きをおく温
厚な中央集権国家が出来上がった。政治的にはそうであったが、経済的・社会的なシス
テムは、三成らの秀吉政権が造り上げてきたものを踏襲する。江戸時代は、三成ら豊臣
政権の「構造改革」の上に花開いたのである。
前掲書の巻頭で太田さんは、渾身の力を込めてこのように述べられている。今まで三成のことをこのような観点から評価した人はいなかったのではないだろうか。太田さんの説は、私にとって非常に新鮮で、かつ素直に頷けるものだった。
太田さんは著書のなかでこの考えを歴史学者らしい正確さで一つ一つ論証されているが、そこまで引用していくと本を丸々引用してしまうことになるので、要点のみを簡単に紹介していくに止めることにする。
三成が中心となって敢行した「構造改革」は、具体的には「惣(そう)無事令(ぶじれい)」と「喧嘩(けんか)停止令(ちょうじしれい)」、および「刀狩り」と「太閤検地」に代表されている。そしてこれら4つの施策は、互いに密接に関連し合っている。
「惣無事令」は大名に対して、「喧嘩停止令」は百姓に対して出されたものだが、いずれも趣旨は同じで、「私戦」を禁止するものである。それまでは、紛争解決の手段として武力による解決が一般的だった。
大名同士の領土紛争にしても、百姓同士の水の利権や山の所有権をめぐる争いにしても、強いものが勝つのが当然の帰結であった。争いに勝つためには、多量の武器を保有しておく必要があるし、戦うための人材を確保しておかなければならない。
三成は、これらの「私戦」を禁止して、訴訟による平和的解決を求めた。豊臣氏を裁く立場に置くことにより地位を確実なものとするとともに、私戦を根絶させることにより不要な武器や侍を駆逐することができる。「刀狩り」や「太閤検地」にも通じていく施策であることが理解されると思う。
後述する刀狩りと太閤検地は有名だが、「惣無事令」と「喧嘩停止令」は日本史の教科書には出てこない。しかしながら、この2つの法令によって初めて、豊臣の地位が臣下である他の大名とは一線を画することを可能にしたのである。
現に、天正15年(1587年)の島津征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐など秀吉の名の下に行われた「征伐」は、禁じられた「私戦」を行ったことに対する秀吉の「制裁」であった。
さらに三成は、征伐の対象となった島津氏や佐竹氏を「指南」して秀吉の許しを取りつけることにより、彼らに恩義を与えることにも成功している。これらの恩義が後の関ヶ原の戦いにおける西軍の構成要素にもなっていくのだが、反対に三成が秀吉の腰巾着であるような悪いイメージを持たれてしまうのは、秀吉への取り次ぎ役としての印象のみが後世に強く意識され過ぎてしまった結果なのかもしれない。
刀狩りと太閤検地については、歴史上有名な施策であるので、内容自体の説明は不要と思われる。農民から刀などの武器を取り上げて武力蜂起ができないようにするとともに、全国の耕地を実測することにより生産高を正確に把握するための施策である、というところまでは誰も異存はないだろう。
ところが、そういった表面的な目的だけではなく、刀狩りと太閤検地にはもっと重大な意図が籠められていた。
刀狩りは、農民を抑圧するための施策ではなく、農村から武力を放逐し、法に基づいた秩序ある農民社会を作るために行われたものであった。ここで言う「武力」とは、刀や槍などの武器のことのみを言っているのではなく、村に居住する「侍」を追放することも併せて意味している。そのことは、次に説明する太閤検地と合わせて考えると、より鮮明に理解ができるだろう。
太閤検地は、生産高を正確に把握することを意図したものであったが、実はそのこと以上に、村に存在していた「侍」の経済的権益を否定して、耕地を真の耕作者に開放することを最大の目的としていたのである。
村には、農民とも侍ともつかない者が多数存在していた。平時には耕作に従事しているが、一朝事ある際には武力を行使して侍となる輩(やから)である。彼らは、農民から小作料を搾取していた。太閤検地における検地帳には、これらの侍たちの権利に関する記述は一切なされておらず、真の耕作者の氏名のみが記載されていた。これによって、耕作者の権利が公的権力によって保証されたのである。
太田さんは言う。太閤検地は、戦国の「農地解放」とでも言える政策である、と。
なるほど、そういうことだったのかと、目から鱗が落ちたような感激に浸ったのは、私だけだろうか?ここから先は、さらに重要な内容となるので、再び太田さんの記述を引用することをお許しいただきたい。
この結果、経済的基盤を失った「村の侍」、すなわち秀吉政権の武士たちは、村に住め
なくなった。それでも住む者は、武力も特権もない百姓になったのである。村に住めな
くなった武士たちは、村を出て城下町に集住するようになる。江戸時代の社会には、農
村は生産を行う農民が住む場所、町は消費を行う武士が住む場所という、区域的な住み
分けが存在した。この仕組みは刀狩や太閤検地の結果、初めて成立したのである。これ
は考えてみれば、自己犠牲をともなう大変な「構造改革」であった。政権内部にいる武
士たちの権益を、同じ政権内の武士が否定してく作業だからだ。当然反発も多い。江戸
時代の大名や家臣が、形の上ではその所領を持ち得たのは、この反発を背に負った家康
による反動が影響している。三成らの改革がそのまま進めば、明治政府のように、大名
は中央からの任命制となっていたかもしれない。
このように、三成ら豊臣政権が行った経済・社会改革は、二つの武力を村落から追放
することだったのである。そのことによって、武士と農民が分離され、武力を独占した
中央政権によって、村落の秩序を保つことができるようになった。兵農分離の意味する
所である。村に武器があり隣村と戦い、「村の侍」が住み、絶えず住民が合戦に駆り出さ
れる状況では、安定的な経済発展は望めないことを、三成ら豊臣政権の奉行は痛いほど
わかっていた。(中略)この三成の主導した豊臣政権の改革は、まさに日本近世への「構
造改革」であり、これなくして、日本は新たな時代を迎えることはできなかった。
社会は「忠義」や「友情」では動かない。社会を正そうとする「正義」のみが、国や
社会を変えていくと私は信じたい。三成には、それがあったのである。
太田さんが熱く語ってくださった言葉は、私にとってすんなりと心に沁み込んでいく言葉であり、本質を捉えた言葉であると思う。
反対に、そのような世の中の構造を変え得る人物だったからこそ、家康は三成亡き後も三成の名声が世に拡まることを極度に恐れ、佐和山城とともに三成の記憶を人々の脳裏から抹消することに躍起になっていたのではないかと思い当った。
ずいぶんと長く三成のことを見てきてしまった。
最初はこんなに長くなるつもりはなかったのだが、見ていけばいくほど、石田三成という人物の奥の深さが感じられて、興味が泉のように後からあとから湧き上がってくる思いだった。
この章の最後に、石田三成の最期について触れて、総括としたい。
関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の麓を経由して、最期は単身で母方の故郷である木之本の古橋に向かった。樵(きこり)の姿に身をやつし、木の実などを食べながらの悲惨な逃亡だった。茶畑で動けなくなっているところを地元の住人に助けられたりしながらの苦行であった。
そこまでして三成が「生」に拘ったのはなぜだったのだろうか?
武運なく、志空しくして戦いに敗れた侍大将は、潔く自らの命を絶つのが当時の慣行ではなかったのか。敗戦後の戦国武将として三成が取った行動は、極めて稀な行動であったと言わざるを得ない。
前著『井伊直弼と黒船物語』でその生涯を見てきた井伊直弼の最期の潔さと比べたら、まさに正反対の行動である。同じ湖北の地に輩出し、共に湖北の地を代表する人物でありながら、その対照性が非常に顕著であることが興味深い。
歴史に仮という言葉はあり得ないが、もしも井伊直弼が石田三成の立場であったなら、直弼は間違いなく、関ヶ原の地において自決していたであろう。
目を覆わんばかりの往生際の悪さである。
でも私は、三成の気持ちがわからないでもない。
彼の発想は、近代の人たちの発想と同じなのではないかと思う。命をけっして粗末にしない。たとえ僅かであっても可能性があるのであれば、無駄に命を捨てることなく、最後の最後まで望みを諦めない。
生き恥を去らすことはみっともないことではあるけれど、大望のためであれば敢えて甘受する強い精神力。自らの名誉のためであったら、私は三成は関ヶ原において自決していただろうと思う。
自分の命への執着ではなくて、世の中を変えていきたい、変えなければならないという強い使命感。敢えて三成が選択した道は、むしろ茨の道であった。
散り残る紅葉は ことにいとおしき
秋の名残は こればかりぞと
あらためて、三成が詠んだ「残紅葉」の歌を思い出した。
先に私はこの歌を、三成の生への執念と書いた。三成生誕の地で見た時にはそう思えたこの凄まじい歌だが、三成の最期に及んで再びこの歌を見てみると、また違った意味合いに見えてくるような気がする。
最後の一枚となって散り残っている真っ赤な紅葉の葉は、三成の命そのものではない。秋の陽光を浴びて輝く赤い紅葉の葉は、豊臣時代に三成が築こうとした新しい世の中への希望の光だったのではないだろうか?
理想の社会を創ることを目指して日々戦いだった三成の人生。やがて最後の一枚の葉が、静かに音もなく散っていく……。
三成は、徳川方の武将である田中吉政の手の者によって捕らわれた。吉政は、三成と同じ湖北地方(浅井郡宮部村・三川村)の出身者で、三成とは旧知の間柄であった。土地勘もあり、三成の行動を正確に予測しえた唯一の人物であったに違いない。
捕縛時の正確な状況は、諸説があってわからない。
古橋は、母方の故郷である。若き日に三成自身が法華寺三珠院にて修行を行っていた土地であったかもしれない。三成を守り匿おうとした人々が多数いた一方で、吉政に情報を密告した人間がいたということであろう。
9月21日に捕縛された三成は、25日に大津に滞陣していた家康のもとに送還された。家康は三成を厚くもてなしたという。単身で捕えられ、すでに籠の鳥となっている三成のことを、家康は何も恐れることはない。余裕を持って、あるいは優越感を持って遇したにすぎない。
一歩間違えば、反対の立場に立っていたかもしれないなどとは、微塵も思わなかったに違いない。勝者としての全幅の余裕をもって、家康は三成を扱った。
26日には家康とともに大阪入りをして、大坂、堺、京都の市中を引き回された後、10月1日に京都の六条河原にて処刑された。41歳の波乱に満ちた短い生涯であった。
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お正月のお献立
- 2009-12-31 (木)
- 今月のお献立
新年あけましておめでとうございます。
ことしも皆様が笑顔になっていただけるようにがんばります。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
料理長 徳久勲
☆★::お正月三が日のお献立(一例)::☆★
季節の会席のご紹介(グレードアップメニュー)
【食前酒】 梅酒
【先付け】 子宝昆布木の芽
【八寸】 姫栄螺素焼き 金柑 日ノ出唐墨 伊達巻カステラ 諸子甘露 竜皮昆布 市松チーズ 梅人参 のぞき
【向付け】 伊勢海老 鯛松皮 寒八 ヨコ輪 芽物色々
【煮物椀】 蛤浦白椎茸 鶯菜 斗人参 たけのこ
【焼物】 蓮根鯛姿焼き 串打ち黒豆 葉地神 干柿チーズ巻き 柚香大根 酢だち
【焚き合せ】 蝦芋 鯛真子 蝦芝煮 菜の花 蟹餡 慈姑 生姜
【台物】 近江牛しゃぶしゃぶ
【止椀】 麦味噌汁
【食事】 近江米
【香味】 盛り合わせ 白菜 柴漬け 大根 みぶ菜 4種盛
【水物】 カクテル オレンジ キウイ パイン
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7. 観音寺・法華寺跡(秀吉と三成との運命的出逢いの地・2つの三献茶伝説を追う)
- 2009-12-27 (日)
- 湖北残照
7. 観音寺・法華寺跡(秀吉と三成との運命的出逢いの地・2つの三献茶伝説を追う)
長浜駅前で見た不思議な像の謎に近づく時がやっとやってきた。
何か茶碗のような物を差し出している子供と、腰に刀を差して立ち尽くす袴姿の男性の二人の像だ。
この像が、「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」という題であることは先に書いた。とすれば、腰に刀を差して立ち尽くしている男性が羽柴秀吉で、茶碗のような物を差し出している子供が石田三成ということになる。
後に天下人となった豊臣秀吉の五奉行の一人として活躍することになる石田三成が若き日の秀吉との運命的な出逢いを果たした場所が、長浜であるということなのだ。
諸説があるようであるが、そのうちの一つが、石田町からさらに少し東に行ったところにある観音寺であるという。
秀吉と三成の運命の出逢いの伝説は、概説すると次のような話になる。
長浜城主となった羽柴秀吉は、ある日領内で鷹狩りをしている途中、とある寺に立ち寄った。喉が渇いていたので出てきた小姓にお茶を所望すると、小姓は奥に引っ込み大きな椀にぬるめのお茶をたっぷりと入れて秀吉に差し出した。
喉が渇いていた秀吉は、ごくごくと喉を鳴らしながら一気にそのお茶を飲み干した。
人心地がついた秀吉が二杯目のお茶を所望すると、小姓は今度は先程よりも小ぶりの椀に先程よりもやや熱めのお茶を入れて秀吉に差し出したのであった。
一杯目のお茶で喉の渇きは癒されていたので、やや濃い目のお茶はさらさらと秀吉の喉を潤わせながら通って行った。
「うまい。」
思わず秀吉は、唸った。と同時に、一つの興味が湧いた。
「もう一杯お茶を所望しよう。」
秀吉には、次に小姓がどのようなお茶を持ってくるかが予想できた。果たして、小姓はさらに小さな椀に濃い目の熱いお茶を入れて秀吉に差し出したのであった。
にやり、と思わず口元を綻ばせた秀吉は、三杯目のお茶を味わいながら静かに啜った。
思っていたとおりであった。小姓は、秀吉が所望した三杯の茶を、秀吉の喉の渇き具合に応じて三通りに入れ分けて持ってきた。
すなわち、一杯目は喉の渇きを癒すことに重点をおいてぬるめのお茶をたっぷりと用意した。二杯目は喉の渇きも収まったであろうから落ち着いてお茶を味わえるように少し熱めのお茶をやや量を抑えて持ってきた。そして三杯目は、ゆっくりと落ち着いた気持ちでお茶の味を堪能できるように、小さな椀に熱いお茶を入れて持って来たのだ。
いわゆる、三献茶の伝説である。
秀吉に三種類の異なるお茶を差し出した小姓が石田三成であることは言うまでもない。
相手の状況に応じて臨機応変に自らの行動を変えることができる石田三成という少年の柔軟な思考力に、秀吉は深く感じ入ったにちがいない。そのまま長浜城に連れて行って家臣に取り立てたと言い伝えられている。三成が15歳の時とも17歳の時とも言われている。
そして、この運命的な出逢いを果たした舞台となった「とある寺」こそが、観音寺であったという。
石田町の三成生誕地を後にした私は、観音寺を目指した。
観音寺は、石田町の東側に連なる横山丘陵を越えた反対側に位置している。当時は山越えの道を行かなければならなかったのだろうが、今は観音坂トンネルが丘陵の真ん中を貫通しているので、難なく行き着くことができる。
観音寺は三成の父・正継が有力な檀家を務めていた寺で、石田氏との強い結びつきがあったことが指摘されている。この寺で三成が修行をしていたと考えることはそれほど不自然でないかもしれない。三成は長男でなかったために、この寺に預けられて修行のうちに一生を送る運命にあったのかもしれない。
一方、横山丘陵の上には当時、横山城があった。元は小谷城の支城として浅井家が支配していた城であったが、姉川の合戦の後に織田方の城となり、木下(後の羽柴)秀吉が城番として一時駐留していたことがある。
横山城を守る秀吉と石田町の地侍である石田氏との間に何らかの交流があったと考えることも、肯われることだ。そう考えると、観音寺における秀吉と三成との出逢いがまんざら作り話とばかりは言えないのではないかと私は考えている。
遠くに伊吹山の、特徴ある山容を望む長閑な田園地帯に、観音寺は今も存している。所在地は、長浜市ではなく米原市に属しているらしい。惣門の横に米原市教育委員会が平成8年(1996年)3月に表した説明板が設置されている。その説明板によると、観音寺の正式名称は伊富貴山観音護国寺と言い、弥高、太平寺、長尾寺の三ヶ寺とともに伊吹山四大護国寺の一つとして、元は伊吹山中にあったものだそうだ。正元年間(1259年~1260年)に現在の地に移転したとされる天台宗の寺である。
惣門はどこかの城の城門を連想させる堅牢な造りで、屋根の両端にシャチを頂いている。黒板張りに白壁を上部に設えた塀が周囲を取り囲み、厳かな門である。今私は城門を連想させると書いたが、一朝事ある時には、寺全体が一つの城としての機能を担う役割を備えていたものと考える。
門の左手は池のようになっているが、城としてこの寺を見れば明らかに濠であり、その一部が池として残されていると考えた方がよいのではないだろうか。寺の四囲を取り囲んでいたであろう塀も、今では門の近辺に一部が残っているのみだ。
門を入ると先程の池が左手に連なっている。その裏側近くには、三成が秀吉に茶を献ずる際に使用したという「水汲みの井戸」が残されている。井戸と言っても小さな水たまり程度の簡素なものだが、周りを石で囲ってあるところから、人工の設備であることがわかる。
水を湛えてはいるが、落ち葉が底に溜まり、今ではとても飲用には堪えないものと思われる。井戸の傍らには、「太閤ニ茶ヲ献スル時石田三成水汲ノ池」と書かれた石柱が建つ。真偽のほどはわからないが、想像力を湧きたててくれる遺構であることは間違いない。
目指す本堂は、惣門を入ってまっすぐに、砂利が敷かれた坂道を登っていく。白い斑点を付けた見慣れない黒い蝶が4羽、互いに交錯しあいながら目の前を飛び過ぎていった。何か特別な力を持っているような不思議な蝶だった。
参道の左手の石垣の上に玉泉院という塔頭を見て、右手に赤いトタン屋根の本坊を眺めながら進んでいくと、やがて目の前に石段が現れる。石段の両脇にも城郭のように石垣が築かれている。その石段を登りきったところに建つのが、本堂である。
千手観音を本尊として祀る本堂は、江戸時代(正徳5年(1715年))の再建だそうだ。彫刻も見事で豪壮な造りであるが、秀吉や三成が見た本堂ではない。再建前の観音寺はどんな寺だったのか?好奇心は尽きるところがない。
三献茶の舞台としては、石田町に程近いここ観音寺が有力候補地として考えられているが、もう1ヶ所、三成の母の出身地である木之本の古橋にある法華寺三珠院がその舞台であると考える学者もいる。
前者は、観音寺の有力な檀家であった三成の父・正継との関係を重視して、あるいは横山城の城番をしていた木下秀吉と石田町の地侍であった石田氏との関係を考慮して、観音寺説を主張する。
一方で後者は、関ヶ原の合戦に敗れた後の三成が最後に頼ったのが母方の故郷である古橋の地であり、古橋の三珠院こそが三献茶の舞台であると主張する。
三成研究の第一人者である太田浩司さんは、その著書(『近江が生んだ知将 石田三成』)の中で両者の説を公平に紹介して比較しながら、
夢も希望もない話だが、そもそも逸話自体が史実ではない可能性も高く、その場合は
この「ある寺」探しは、虚構の寺を探すことになり何の意味もない。逸話が史実である
と確認しようがない以上、天正元年(1573)9月1日、浅井長政を滅亡させ、北近江の
支配権を信長から託された秀吉が、その領内から有能な人材を発掘して近習(きんじゅ)にした。そ
の一人が石田三成であったという程度しか、歴史学では述べることはできない。
と学者らしい非常に冷静な結論を導いている。
歴史学者でない私は、あまりによく出来過ぎているこの逸話が真実であってほしいと強く願っていて、可能ならば白黒決着をつけたいと思っている。そこで、観音寺を訪れたのなら三珠院にも足を運ばなければならないと思い、古橋にあるという法華寺跡を目指した(三珠院は、法華寺の塔頭)。
己(こ)高(こう)閣・世代(よしろ)閣を起点としてもっと楽に行ける道もあるのだと思うが、私は石道寺から鶏足寺跡を経て山中の道を進むルートを選択した。まっすぐ行くと己高閣・世代閣、右へ行くと中尾古墳という分かれ道を中尾古墳側へと右折する。そしてさらに進んで、右に行くと中尾古墳、左に行くと法華寺跡という看板を左に曲がると、細い山道になる。
関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の山中を通り、古橋にある法華寺を目指したという。途中で最後まで付き従ってきた磯野平三郎、渡辺勘平、塩野清助の3人の家臣とも別れ、ここからは孤独な単独行となる。今私が歩んでいる山道は三成が歩んだ道そのものではないかもしれないが、きっとこのような山道だったに違いない。そう考えて少しも不思議ではない細くて急峻な山道が続いていく。
時折現れる案内板により、かろうじて我が進む道が法華寺跡へと続く道であることを確認することができるが、それも途中までで、二股に分かれている道に出くわしたりして、果たして私が選択したこの道で正しいのかと不安な思いで歩を進めていく。
いくら母方の故郷であり幼い時に修行した場所であったとしても、案内板もなく人目を避けながらの潜行は、失意の三成にとって厳しいものだったに違いない。食べるものもなく、落ちている木の実などを食べて飢えをしのいだと伝えられている。ほんの数日前までは日本を二分して戦った西軍の総大将だったことを考え合わせると、なんと哀れな姿であることか!そんな三成の惨状を追体験するには、この道は実にふさわしい道だと言えるだろう。
細い山道をずっと登っていくと、突如として苔むした五輪塔が立ち並ぶ小さな平地に至る。これらの石群は、明らかに墓である。あるものは全面苔に覆われ、あるものは大きく傾き、あるものは激しく摩耗している。訪れる人も稀なこんな山中(さんちゅう)に葬られているのはいったいどんな人たちなのだろうか?背筋がぞっとするような無気味な光景だ。
この墓の主たちも、三成と関係があるのだろうか?即座に頭に浮かんだのが、石田町にある石田神社の供養塔だった。三成に関係した人たちが人目をはばかってこんな山中に葬られたのではないか?咄嗟に私はそう想像した。
ところが意外にも、石に刻まれていたのは享保など江戸時代の年号であった。すでに十分古びた墓だが、どうやら三成が生きた時代からはかなり下った時代の墓であることがわかった。
墓のあった地点を頂点として、道は下りに転じる。
本当にこの道でいいのだろうか?不安が次第に増大していく。私のこの不安は、三成の不安であったかもしれない。やっぱり引き返そうか?そう考え始めた時、かなりの遠方に何やら案内板のようなものが建てられているのを発見した。
「法華寺跡」と書かれた標柱と、その脇には「法華寺と石田三成」と書かれた案内板が設置されていた。こここそが、我が目指していた法華寺跡であった。
私は安堵のため息を漏らすとともに、周囲の景色の美しさに見入った。
法華寺は、726年に行基が創建した己高山鶏足寺の別院である。本尊として薬師如来が祀られ、最盛期には102宇の僧坊を抱いていた大寺であったと伝えられているが、鶏足寺同様、現在は廃寺となっている。往時の面影を今に伝える遺構としては、まっすぐ緩やかに登っていく石段と、石段の両脇に築かれた石垣が残されているくらいのものだ。
杉木立に囲まれた寺院跡を歩いて行くと、実に清々しい気持ちになっていく。銀色のススキの穂が風に靡き、一本の楓が赤く燃え立つようにすっくと立つ。誰も訪れる人のいない、山の中にぽっかりと現れた静かな空間だ。
長く緩やかな石段が尽きるすぐ手前の左手に、「三珠院」と書かれた真新しい石柱が建てられているのを見つけた。言い伝えによると、若き日の三成はこの場所で修行を行い、そして秀吉にお茶を献じたことになっている。
と同時にこの場所は、諸説があるようではあるが、関ヶ原の戦いに敗れた三成が最後に頼って落ちのびてきた場所であると言われている。何も残されていない廃寺の跡に立って当時の状況を想像することは難しいが、今私が立っているこの景色を、若き日の三成も捕獲される直前の三成も、見たのかもしれない。
法華寺三珠院は、戦国時代を生きた石田三成の、武将としてのスタート地点であり、またゴール地点でもあるということだ。そう考えると、目にするものすべてが神々しく貴いものに思えてくる。
それにしても、誰もいない。
鶏足寺跡までは紅葉見物の観光客でずいぶんと賑わっていたのに、中尾古墳に続く道へと折れてからは、法華寺跡までの山道の往復で、誰一人として人の姿を見ることはなかった。
今でさえこのような寂しい道を、腹痛に耐えながら、樵姿に身をやつした三成がさまよっていたことを想うと、改めて三成の哀れさが痛いほどに感じられた。
二つの三献茶伝説の場所を求めて、観音寺と法華寺跡を訪れた。そもそも三献茶伝説そのものが真実かどうか、疑わしい。そのことは承知の上で、改めて三献茶伝説の舞台について、私なりに考えを巡らせてみた。
実際に二つの候補地を訪れてみて、地の利があるのと感じたのは観音寺だ。
姉川の合戦後に秀吉が石田町に隣接する横山城の城代(=城番)を務めたこと、浅井氏を滅ぼした後に秀吉が長浜の地を賜ったこと、鷹狩りと称して領国内を実査していたのだろうが、距離的にも観音寺の方が似つかわしいと思った。
三成の父である正継と観音寺との深いつながり、地侍を自らの勢力に取り込み有力な家臣団を形成したい秀吉の思惑、三成の登用はそんな複雑な政治的背景のもとに計算づくで行われたものではないかと考える。
一方の法華寺は、三成の母との関係が色濃く反映された土地に存する。
距離的には長浜からはかなり遠く、日帰りで鷹狩りをするにはやや難しい気がするが、三成がこの地から秀吉の家臣としての道を歩み始め、そしてすべてを失って最後に戻ってきたのがこの地であると考えると、郷愁というのだろうか、ほのぼのとした思いを禁じ得ない。
三成にとって法華寺がある古橋の地が、原点であり終点であった。そこに私が立っているという心の内に湧きあがってくる感動。
論理的には観音寺が、情緒的には法華寺が、私にとっては三献茶伝説の舞台である。
どちらであってもいいし、あるいは両方ともが舞台だと思ってもいいではないか。いい加減で曖昧な結論であるように思えるかもしれないけれど、私にはどちらかに決めなければならない必然性はない。
むしろ重要なことは、秀吉によって石田三成という有能な人材が発掘され、やがて豊臣政権を支えていく重要な柱になっていくという事実だ。
石田家の長男でない三成は、秀吉に見出されることがなければ、寺に預けられてそのまま修行のうちに一生を過ごさなければならなかったかもしれない。名伯楽である秀吉が、三成の才能と能力とを正しく見抜き、自らの懐(ふところ)刀(がたな)として登用した。三成の人生も大きく変わったし、秀吉の人生も変わった。
二人の出逢いの場が観音寺なのか法華寺なのかが問題なのではなく、はたまた三献茶の伝説が真実であるのかどうかも重要なことではなく、湖北の地で三成が秀吉によって見出されたこと、やがて秀吉の統治政策の礎を築く存在へと成長していくことが、日本の歴史を大きく変えていくことになる。
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6.石田町(今も生き続ける三成の魂・石田三成出生地)
- 2009-12-08 (火)
- 湖北残照
6.石田町(今も生き続ける三成の魂・石田三成出生地)
湖北地方が生んだ偉大な歴史上の人物と言えば、誰を思い起こすだろうか?
私は、浅井長政、石田三成、そして井伊直弼の名前がすぐに頭に浮かんでくる。三人とも、日本の歴史を語るうえでは欠くことのできない重要な人物である。
前作(『井伊直弼と黒船物語』)で私は、井伊直弼の生涯を丹念に追った。日本を開国に導き、横浜が国際都市として発展する礎を築いた偉大な人物だ。
「姉川古戦場跡」と「小谷城祉」の章では、悲劇の武将として浅井長政の足跡を辿った。信長の妹であるお市の方を娶り、将来を約束された身でありながら、朝倉氏との盟友関係を選択した義の人物である。
私にとって最もわからないところの多い謎の人物が、石田三成であった。
それにしてもテレビの影響というのは凄まじいものだ。これまで、関ヶ原の戦いに敗れ、大将としての器に欠けていたなどと芳しくない人物評が専らであった三成だが、NHK大河ドラマ「天地人」で俳優の小栗旬さんが今風のカッコイイ三成を演じて以来、若い女性を中心に三成人気が急激に高まっているという。
たしかに、あんな男前の三成がいたら、女性のみならず男性でさえも、三成の信奉者は増加すること間違いない。
私は、いままでの三成は過小評価され過ぎていたのではないかと思い、今現在の三成は過大評価され過ぎているのではないかと思っている。正確な三成像を確かめてみたい。そんな思いもあって、まずは三成出生の地とされる長浜市石田町を訪ねてみることにした。原点を知ることは、大切なことだと思う。
石田三成の出生地である石田町は、長浜駅前の道をまっすぐ西に5㎞ほど行ったところにある。途中、道の両側に大きな家が点在しているのに気づくかもしれない。この辺りはベルベットの生産で栄えた街であり、裕福な家が多いのだそうだ。
ベルベットは別名を天鵞絨と言いビロードとも呼ばれている、上品で柔らかな手触りと光沢のある高級服地だ。フォーマルな婦人服に使われているほか、劇場の緞帳などにも使用されている。
元々当地は絹糸の産地であったところに、イギリスから最新の製法を持ち込み、特産品として逆にイギリスに輸出して利益を挙げたという。
石田町の交差点をほんの少し過ぎたところに、近江ベルベットの本社工場がある。レンガ造りの可憐な建物で、今でも見る者の心をやさしく和ませてくれる。石田町を訪れる機会があったら、是非とも訪ねてみたいスポットだ。
また、石田町に向かう途中の道路には、中央付近に色の違った部分が帯のように続いていることを不思議に思うかもしれない。よく見てみると、帯のように道の中央を走る幅30㎝くらいの部分には、小さい点のようなものが一定間隔で埋め込まれている。
これは、冬の降雪期に雪を融かすために地下水を噴水する設備である。
長浜市辺りは、冬は日本海式の気候となることを多くの人は知らないだろう。地図で見るとよくわかるのだが、長浜市は日本海側と太平洋側の中間点よりもやや日本海側に位置している。冬になると低く雲が垂れこめた日々が続き、相当量の積雪があるということを、この地域のことを考える場合には念頭に置いておかなければならない。
三成の出生地である石田町へは、長浜駅前から道なりにまっすぐ進んできた道を右に曲がる。「石田三成公邸跡 是より南へ入る」という石柱が建っているので、わかりやすいと思う。先程登場した近江ベルベットの本社工場まで行ってしまったら少し行き過ぎなので戻らなければならない。
そして、ひとたび道を右に曲がった瞬間から、何とも言えない不思議な雰囲気が漂っているのを感じ取ることができるだろう。三成の屋敷があったところや石田神社を中心とした石田町一帯が、神々しい雰囲気を湛えた特別な街なのである。こういう場所を、崇敬の念を込めて聖地と呼ぶのだろう。
石田町への入口に設置されている姉川の合戦再見委員会の説明板によると、三成の父である石田正継(まさつぐ)は浅井長政の家臣で、この石田村を本拠地とする地侍であったという。この入口から南側に連なる1町4反の地域は小字を「冶部(じぶ)」と称し、石田家の屋敷があった場所であると伝えられているのだそうだ。
余談になるが、なぜこの地に姉川の合戦再見委員会の説明板があるかと言うと、石田町のすぐ東側に存する横山丘陵の山頂にかつて小谷城の支城であった横山城があって、この横山城を織田信長の軍勢が包囲したことが姉川の合戦の発端となったためである。
話を元に戻す。1町4反という広さがピンとこないと思うが、石田町入口が石田家屋敷の北端で、今では三成関係の資料が展示されている石田会館あたりが南端であるというから、おおよそ100m四方の広さであったものと推測できる。
永禄3年(1560年)、三成はこの広大な石田屋敷の中で石田正継の次男(三男との説もある)として生まれた。長政の家臣であった石田家が、姉川の合戦、小谷城の戦いを経てどのようにして生き延びたのかはわからない。三成の名が歴史に登場してくるのは、次章で書くことになる観音寺における羽柴秀吉との出逢いまで待たなければならない。
神々しい雰囲気に包まれた石田町で私が最初に訪ねたのは、石田氏の氏神として信仰を集めている八幡神社と、八幡神社の奥にひっそりと佇む石田神社である。
八幡神社は、それほど大きな神社ではない。石造りの鳥居と、その奥に小さな社殿があるだけの、どこにでもあるようなささやかな神社だ。その八幡神社の社殿の裏側にスペースがあり、「石田三成公一族及家臣供養塔」が祀られている。
石の柵で囲まれた7m四方くらいの狭い敷地の中央に新しくてやや大きめの五輪塔が一基と、その周囲にたくさんの小さな五輪塔が並べられている。小さな五輪塔はどれも、角(かど)が取れて丸みを帯びている。これらの石が、ただならぬ長く険しい時を経ていることを無言のうちに物語っている。
これらの供養塔は昭和16年(1941年)、隣接する八幡神社の境内の地中から発見されたものだ。「永禄五年」「天正十四年正月十四日」「妙性霊位」「缶禅定門」などと書かれた文字が認められるこれらの石は、石田三成およびその一族と深い関係がある墓石であることが推測されている。
関ヶ原の戦いの後、徳川方の執拗な追及を免れるために、里人たちが密かに神社の裏側の地中に埋(うず)めたものではないかとの推測である。土地の人々は、これに触れると腹が痛くなるとの言い伝えを作り上げて、すべての人から墓石を守り続けてきたと言う。
石田三成公事蹟顕彰会の手で発掘された後も30年余りの歳月を仮の墓所で供養を続けてきたが、昭和48年(1973年)11月に現在の場所に整備し直したものなのだそうだ。そして毎年11月6日の三成の命日には、墓前にて厳粛に法要が執り行われるという。
これらの苔むして丸みを帯びた石の群れには、石田三成の無念の怨霊が宿っているに違いない。
地元のご婦人が一人、地面に蹲るようにして祈りを捧げていた。石のように固まってしまったのではないかと思われるほど、その女性は長い間微動だにしないで祈り続けていた。嘘偽りのない祈りの姿を見て、私は心打たれた。
塵ひとつ落ちていないほどに掃き清められた敷地内に一人佇んで祈りを捧げているご婦人。ここでは石田三成のことを、よそ者のように「三成」と呼び捨てにはしない。尊敬の気持ちを込めて、「三成さん」あるいは「三成さま」と呼ぶのだそうだ。
ご婦人は毎朝長い時間、三成の供養塔の前に佇んで、祈りを捧げているのだろう。そしてこの石田町には、このような人たちがたくさんいるに違いない。
石田三成は、石田町の住人の中では、いまだに生きている。
石田町に足を踏み入れた瞬間から感じていた何かとは、このことだったのだと、私は確信した。三成が没してから410年近くの時が経つというのに、このように敬虔な気持ちで敬い続けられている石田三成という人物をどう考えればいいのだろうか?
私は、この事実を具に見て、徳川を中心とした後世の三成像が悪意を込めて作りあげられた虚像の三成像であったことをはっきりと悟った。
残紅葉
散り残る紅葉は ことにいとおしき
秋の名残は こればかりぞと
供養塔の傍らには2基の歌碑が建てられている。
そのうちの一つ、三成直筆の文字で刻まれた歌は、深まりゆく秋の景色の中で最後まで木に留まって輝き続ける残紅葉を讃える歌である。三成は、最後の一葉となろうとも何としても生き延びて、再起を図りたかったのだろう。いつの作かはわからないが、生への執念を感じさせる凄まじい歌だ。
そしてもう一つの歌碑は、
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく わが身なりけり
辞世の歌である。
三成の無念な思いがひしひしと胸の奥に伝わってくる心の叫びの歌だ。正しい者が勝つとは限らない。強い者が勝利するとも限らない。時に運なく敗れた者の最期は、いつも虚しく哀しい。
石田町の人々は、400年以上にわたって、この三成の無念さをずっと背負い込んで生きてきた。三成のこの無念な思いを共有しながら生きてきた。そう思い至った時、これはすごいことだと思った。
供養塔のある神域に一本の背の高い木があった。ちょうど、村人たちが墓石を地中に埋めた辺りに立つ木だ。赤いピンポン玉大の実を付け、その実が三つにはじけて中から種が落ちていた。
先程供養塔に跪いていたご婦人に聞いてみると、椿の木の実だそうだ。
椿の木がこんなに大きくなるということも、椿の木がこんな実を付けるということも、私は知らなかった。艶々と光沢のある実をいくつか拾って、私はポケットにそっと放り込んだ。
石田神社から程近い場所に、石田会館という建物がある。
この場所こそが、石田氏の屋敷があった南端であり、「石田冶部少輔出生地」と刻まれた石碑と石田三成公と書かれた台座に正座する三成像が建立されている。ここはまさに、三成の原点のような場所だ。
石田三成像は、彦根市の龍潭寺でも見た。こちらの像も、端座している三成像だ。普通は銅像というと立っているものが多いが、二基の三成像ともに正座しているところが偶然とは思えず、私には不思議に思われた。
この石田会館の像は、平成2年(1990年)に三成の390回忌に際して建立されたもので、高岡市の喜多敏勝さんという彫塑家が、京都・大徳寺三玄院に葬られている遺骸と、青森・杉山家に伝わる三成の肖像画を参考にして制作されたものであるという。
よくよく比較してみると、龍潭寺の三成像の方が凛々しくて男前である。抜け目のない才子然としている三成像は、ある意味正確な三成の面影を表しているような気もする。一方の石田会館の三成像は、より柔和な表情をしている。からだ全体から力みが消えた自然な姿が印象的だ。それでいて折りたたんだ扇子をしっかりと握る右手が力強い。
どちらの三成像もすばらしく、とても興味深く拝見させていただいた。
三成像のすぐ南には、小さな池がある。どこにでもあるようなごく普通の小さな池なのだが、堀端池(冶部池)と呼ばれて、元は石田屋敷の堀の一部だったと言われている。そう言われて改めて見てみると、どことなく風情が感じられてしまうから、人間の目などいい加減なものだと思ってしまう。
石田会館前の庭にはこれらの他にも、吉川英治さんの句碑や「関ヶ原軍記を読む」と題された西郷隆盛の七言絶句碑が建立されているので、ここで紹介しておきたい。
吉川英治さんの句碑は、昭和16年(1941年)8月17日に徳明寺において催された石田三成を語る座談会に臨席した時に詠んだ句で、
愛民孤忠の政将石田三成の冤を惜みかたりあふて
冶部どのも
今日
瞑すらむ
蝉しぐ禮
於石田徳明寺
吉川英治
と吉川英治さん自身の筆跡で刻まれている。
西郷隆盛の七言絶句は、
関原読軍記
西郷隆盛
東西一決戦関原 東西一決関ヶ原に戦う
鬢髪衝冠烈士憤 鬢髪冠を衝き烈士憤る
成敗存亡君勿問 成敗存亡 君問う勿れ
水藩先哲有公論 水藩の先哲 公論あり
「水藩の先哲」とは水戸光圀のことであり、徳川家に属する人間でありながら石田三成を讃えた故事に依っているのであろう。
歴史小説の大家である吉川英治さんも、明治維新の元勲の一人である西郷隆盛も、『大日本史』を編纂した水戸光圀も、心ある人はみな、三成の本当の力を認め、素直に評価をしているということだ。
これだけの証拠を突きつけられたら、よほどの意志の持ち主でない限りは、三成に心を寄せるであろうこと必定だ。しかしそれが心地よく感じられてしまうところが、石田町の不思議な雰囲気なのかもしれない。
石田会館の中には、三成に所縁(ゆかり)のある品々が展示されていた。
八の字に向かい合う鳩を描いた石田家の家紋「鳩八」が付いた裃の写真、赤と黒の二領の鎧兜、大徳寺三玄院にある三成の墓から発掘された頭蓋骨の写真、その頭蓋骨から復元された三成の顔の想像図など、小さな展示室の割には貴重な情報が満載なことに驚いた。
復元された三成の顔は、小栗旬が扮する三成像を想像している世の女性たちにとって、どのように映ることだろうか?
と言うか、小栗旬の三成を想像していない私でさえ、あの三成像にはちょっと…である。もう少し精悍な顔つきにはできなかったものだろうか?学術的にこれが事実だと言われてしまえばそれ以上反論のしようもないのだが、私にはちょっとお人好しで冴えないおじさんの顔にしか見えない。
復元された三成の顔はともかくとして、私は石田町に来てよかったと心から思っている。土地の人たちの敬虔な立ち居振る舞いに接して、三成に対する見方がガラッと変わった。
自分もあやかろうとして、人生において成功した人を崇(あが)め祀ることはよくあることだ。あるいは祟(たた)りを恐れるがために非業の死を遂げた人を祭り崇(あが)めることも古来からよく行われてきた。
ところが、石田町の人たちの三成に対する祈りは、現世の利益を求めるものでなく、また祟(たた)りを鎮めるためのものでもない。そこには、三成を尊崇する純粋な気持ち以外には何ものも存在していない。
400年以上も、代々こうして三成を慕い続けてきた人たちの誠に、私の心は痛いほどに打たれたのであった。これはもう、ますます三成を追いかけてみたくなった。しばらくは私と一緒に三成を訪ねる旅にお付き合い願いたい。
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5.賤が岳古戦場跡(秀吉と勝家決戦の地)
- 2009-11-10 (火)
- 湖北残照
時代はやや下って、天正11年(1583年)となる。この時期は、時代の主(あるじ)が信長から秀吉に移りつつある微妙な過渡期にあった。
天正10年(1582年)、本能寺の変で明智光秀に織田信長が倒された後、中国地方での戦いから取って返した羽柴秀吉が光秀を討って、天下の大勢を支配しかかっていた。
賤が岳の戦いは、織田家の旧家臣団のなかで主導権を握りかけた秀吉に対して、旧勢力の代表的存在である柴田勝家がそれを阻止しようとした戦いであった。秀吉は、天下を獲るための最初のステップとして、対立する全国の諸侯と戦う前に、まずは織田家中での支配権を獲得しなければならなかったのである。
小谷城のあった小谷山から北国街道をさらに北上すると、やがて琵琶湖の最北端に近い場所に至る。加藤清正や福島正則やすでに触れた片桐且元らが七本槍として武名を轟かせた賤が岳は、この琵琶湖の北端と余呉湖との間に存する標高421メートルの山である。
知名度の割にはさほど高い山ではないし、山容に特徴があるわけでもない。どこにでもある普通の山である。実質的に秀吉が信長の後継者となることを決定づけた歴史的に重要な合戦がこの地で行われていなかったならば、賤が岳は2つの湖に挟まれたごく普通の風光明媚な山に過ぎなかったに違いない。
賤が岳が秀吉と勝家との雌雄を決する闘いの舞台として選ばれたのは、その立地によるものと思われる。
賤が岳がある滋賀県伊香郡は県の最北端に位置し、そのすぐ北側は福井県と県境を接している。北の庄(現福井市)に本拠を置く勝家と秀吉とが激突する場所としては、交通の要衝でもあるこの地をおいて他になかったのではないか。
賤が岳に登るにはいくつかのルートがある。一番手軽に賤が岳に触れるのであれば、南の琵琶湖側から登る賤が岳リフトがお勧めだ。山頂まで約6分で昇ることができる。![]()
このリフト、最初に開業したのは昭和34年(1959年)8月8日だそうだ。実は、私が生まれた日と同じである。共に今年で半世紀の歴史を刻んだことになる。何とも言えない不思議な縁を感じるのは、私だけだが…。
その間に賤が岳山頂まで運んだ人の数はどのくらいになるのだろうか?想像することもできないほどの数になるのではないだろうか。50年とは、それほどの歳月だと思う。
今は近江鉄道グループが経営権を持ち、リフト自体も平成3年3月に新しいものに変わっているから、リフトの乗り心地は快適そのものだ。
地面からあまり高くない場所を通っているので、乗っていて恐怖感はない。しかしかなりの急斜面を登ってくことには驚かされる。振り返ると、次第に高度を上げていくに従って眼前に拡がっていく湖北地方の田園風景が美しい。
途中何度か、リフトの下を登山道が交差する。麓から自分の足で確かめながら、賤が岳の頂上を目指すのもまた楽しいだろうと思う。
リフトの山頂駅がそのまま賤が岳の山頂かと思っていたら、さすがにそれは甘かった。賤が岳山頂までは、リフトを降りてから10分ほど、急な斜面をさらに登っていかなければならない。しかし山頂までのこの道程は、それほど苦痛ではない。
なぜなら、そもそも麓から自力で登ることを考えれば相当楽な手段を行使しているのだし、途中の見晴らしが利く広場から眺めた琵琶湖の風景が雄大で、思わず歓声を挙げてしまうほど美しかったからだ。
いくつもの曲線を重ねながら半島のように伸びていく右岸の山々。深い紺碧の水を満々と湛える琵琶湖の湖水。ここが琵琶湖のほぼ北端である。青い空の下に、ここから南に果てしなく拡がっていく琵琶湖の大きさを想うと、心がおおらかになってきた。
山頂に辿り着く前に、一つ寄り道をする。寄り道と言っても本当に道を逸(そ)れて歩くのではなく、話の寄り道をするだけだ。山頂までの道の傍らに1枚の興味深い説明板が建てられていて、この話を是非とも伝えたいと思ったからだ。
「三味線糸、琴糸の里、梔子(くちなし)の里」と題された説明板の記載は、以下のとおりである。
七本槍の古戦場、賤が岳の南麓「大音」「西山」の里は千年の昔より製糸業(生糸)の
盛んな地方で、今も地場産業として数軒の農家(5、6軒)が昔ながらに足踏みグルマ製
糸の作業を受け継いでおり和楽器(三味線糸・琴糸)の原糸、生糸の生産高は全国の八
割を占めています。
三味線糸・琴糸は黄色であるがその染色は、昔は梔子の実が使用されていました。(現
在は、外国産ウコン粉が使用されています。)今も大音・西山の里には、家々にも庭先や
畑地の一隅にも必ず梔子が植えられています。梔子の果実を乾燥保存し、原糸の取引の
時など、いつも問屋さん(仲買人)にプレゼントしたという…又、漬物やお祭りのお餅
や団子蒸し御飯にもよく使われたと語りつがれています。このたび賤が岳にも梔子を植
栽し、七本槍の古戦場の歴史とともに三味線糸、琴糸の里、くちなしの里として伝統を
守り続け、より多くの人々に知って頂き、くちなしの白い花を見、香を利き、またいつ
の日か思い出して、訪ねて頂きたいと念ずる次第であります。
木之本町観光協会、賤が岳観光協会、大音・西山特殊生糸組合連名の案内板だ。長浜の章でも少し触れたが、賤が岳南麓に限らず、湖北地方は生糸の生産が盛んであった地域である。昔はこの辺りの村ではどこでも、糸ぐるまを回しながら糸を紡ぐ生糸の生産風景が見られたという。
リフトの山頂駅と賤が岳の山頂までの間に、「賤が岳合戦々没者霊地」と書かれた石柱が建ち、背後にある小さな社の周囲には色とりどりの前掛けを掛けられたかわいい石仏たちが配置されている。 これらの石仏は、合戦の犠牲者の霊を弔うために地元の人々が供えていったものだ。以前は賤が岳の山麓に点在していたものを、昭和57年(1982年)の賤が岳合戦400年を機にこの地に集め、まとめて供養するようになったのだそうだ。
長閑で静かな山中だ。こんな平和そのもののような山の中で多くの人の命が奪われた凄惨な戦いが行われたことなど、想像することなどとてもできない。亡くなった人の霊を鎮め、平和への願いを込めながら地元の人たちによって一つ一つ置かれていった可憐な石仏を見ていると、為政者たちの愚かさと領民たちの素朴さとが際立って見えてくる。
やっと賤が岳の山頂に辿り着いた。 山頂からの景色は絶景である。 南側には広大な琵琶湖が拡がり、アクセントのように竹生島が浮かびあがる。北側には余呉湖が一望のもとに眺められる。賤が岳の戦いでは、むしろこの余呉湖の西側での戦いが激烈を極めたと伝えられるが、今はただ、穏やかな湖面が眼下に見渡されるだけだ。そして東側には遠く伊吹山を望むことができる。
賤が岳からは、実に雄大な眺めが眼前に現れる。是非、天気のいい日に山頂を訪ねてみることをお勧めする。もうそれだけで、その日の小旅行は成功であろうこと請け合いだ。
よく整備された山頂のやや広いスペースには、琵琶湖を見下ろす展望台や、余呉湖を望むベンチなどが設置されている。そして長い槍を持ち疲れ果てたように岩に腰をおろしている何とも異様な姿の加藤清正の像が置かれている。
私が訪れた日も天気が抜群によかったので、鳥の声に耳を傾け、吹き過ぎていく風の音を聞きながら、持参したおにぎりを頬張った。自然に囲まれた中で食べるおにぎりは、何にもましておいしかった。
せっかく見通しが利く賤が岳の山頂に来たのだから、私はこの場所から、430年ほど前の当地での出来事を振り返ってみることにしたい。
天正11年(1583年)3月5日、柴田勝家はついに羽柴秀吉追討の兵を挙げた。北の庄はまだ雪深く進軍にはまったく適さない季節であったが、信長の後継者争いにおいて秀吉に遅れを取らないために、無理を押しての出陣であった。勝家の並々ならぬ闘志とともに、焦る気持ちが窺える。
勝家側は、前田利家、佐久間盛政らが加わり総勢3万人。一方の秀吉側は、高山右近、中川清秀らに丹羽長秀が加わり5万人の兵力であった。
数の上では勝家軍が不利であったが、勝家軍は要所要所で守りを固め、さすがの秀吉といえども容易には攻め込めず、両軍が睨め合う膠着状態がしばらくの期間続いていた。
秀吉は、勝家の養子の柴田勝豊から前年奪還したばかりの長浜城に一時退去し、機が熟するのを待つ。
そこへ勝家方の滝川一益らが岐阜に進軍したとの情報を得た秀吉は、長浜を離れて岐阜に向かった。秀吉が岐阜に赴こうとしたのは、滝川一益の動きを牽制する意味合いもあっただろうが、膠着状態に陥った賤が岳の戦線を動かすための誘い水であった可能性が高いものと考える。理由は後述する。途中、揖斐川の氾濫に遮られて、秀吉は大垣城に入城した。
秀吉の不在を知った勝家軍は、血気に逸る佐久間盛政が慎重な勝家を説き、賤が岳に連なる大岩山に陣取る秀吉方の武将中川清秀を急襲する。時に天正11年(1583年)4月19日のことであった。
中川清秀は摂津の国生まれの敬虔なキリシタン大名で、信長や秀吉などについて武名を轟かせていた。特に秀吉が光秀を討った山崎の合戦では先鋒隊の一員として大いに戦功を挙げ、秀吉の信任の篤かった武将の一人であった。当時は摂津の茨木城主を任されていたが、賤が岳の戦いにおいては、この大岩山に陣を張っていたものである。42歳と、まさに男盛りの年齢であった。
激戦であったという。
今でも鬱蒼と杉の林が続く細い山道だが、この日の大岩山は将兵たちの叫び声に満ち満ちていたことだろう。佐久間盛政の急な攻撃を受けた中川清秀は、援軍もないなかで勇敢に戦ったが、8,000人の盛政勢に対して清秀勢はわずかに1,000人だったと伝えられている。多勢に無勢はいかんともしがたい。この地で討ち死にを遂げることになる。早朝6時に始まった戦いは、午前10時には清秀の自刃により幕が閉じられた。
玉砕だったと言う。
凄惨な地獄絵図が想像される。
幸先のいい勝ち戦に気分が高揚しすっかり舞い上がってしまった盛政は、清秀に勝利した後は自重して自陣に引き返すことになっていた勝家との約束を無視して進軍を続ける。近くの岩崎山に陣取っていた高山右近をも撃破した盛政は、賤が岳に迫る勢いを見せていた。賤が岳の戦いにおける2つの重要な転機と言われるうちの一つめの転機がこの時である。
大岩山における急変を知った秀吉は、大垣城から賤が岳へと急ぎ取って返す。秀吉というと、本能寺の変を知って中国地方から引き返したいわゆる「大返し」が有名だが、大垣からの「大返し」もこの中国地方からの大返しに匹敵する神業であったと言われている。
先に秀吉が岐阜に赴こうとしたのは、膠着した賤が岳の戦線を動かすための誘い水であったと書いた。それを証拠づけるのは、大垣から賤が岳へ返す道々には夜中の行軍でも迷わないように松明が用意されていて、各所で握り飯があてがわれたという事実である。
明らかに秀吉は、留守中に動きがあることを予期していた。
予期していたというよりは、敢えて相手が動く状況を作って誘ったのである。
気の毒だったのは、中川清秀だった。こういう役割を、捨石と言うのだろう。しかしここで中川清秀が奮闘したことが、佐久間盛政の判断を誤らせ、それが雪崩的な秀吉軍の勝利につながっていく。捨石ではあったが、清秀の死は無駄石ではなかった。
戦国の歴史のなかでは、清秀のような役割を担い、使命を全うして果てていった武将たちが無数にいる。信長も秀吉も家康も、そういう真の意味で献身的に彼らを支えた武将たちの犠牲の上に、天下統一という偉業を成し遂げたということを、私たちはけっして見落としてはいけないと思う。
午後2時に大垣を出発した秀吉軍1万5,000人は、大垣から木之本までの52㎞の行程を僅か5時間で一気に駆け抜けたと言われている(7時間という説もある)。にわかには信じがたいが、時速に換算すると約10㎞である。現代のマラソンコースのように整備された道があるわけでもなく、細い山道を武具を携えて走ったことを思うと、驚異的なスピードであったことがわかる。
敵に勝利するための一つの常套手段が、相手の意表を衝くことである。
鵯(ひよどり)越(ごえ)における義経の奇襲攻撃が然り、厳島合戦における毛利元就の夜襲も然り。桶狭間の信長の行動もまさにこの範疇に属する。
大岩山に陣を張っていた佐久間盛政が、木之本方面から無数の松明が近づいてくるのを目の当たりにした時の驚きを想像することは難くない。
即座に撤退の判断を下した盛政は見事な判断力と行動力とで一旦は余呉湖北西の権現坂まで引き返すが、弟の柴田勝政が秀吉軍と激突して苦戦の状況にあるのを見て、再び余呉湖畔へと引き返す。
両軍が相まみえて戦った賤が岳の北面から余呉湖畔にかけての地域が、激戦の地となった。兵士たちの流す血で、湖水が真っ赤に染まったという。
勝政軍との合流を果たした盛政軍はよく戦い、この時点では両軍の優劣はつきがたい混戦状況にあった。後に勝敗の結果だけを見て、賤が岳の戦いは圧倒的に秀吉軍が優勢だったように思われがちだが、実際にはどちらが勝利してもおかしくない微妙な戦いだったのである。
ここで、この戦いの勝敗を決定づける2つ目の転機が訪れる。
権現坂の後方を固めていたはずの前田利家軍2,000人が、謎の戦線離脱を遂げたのだ。
勝家軍についていたはずの利家軍がなぜ裏切ったのか?理由は明らかになっていない。元々利家は与力として勝家軍に従軍していたものだが、与力は勝家のお目付け役に似た役割りであって勝家の臣下を意味するものではない。独自の判断で動くことが可能であったし、利家と秀吉とは竹馬の友である。心情的に秀吉寄りだったと考えることができる。あるいは戦況を見て秀吉方が有利と見た利家が勝家を裏切ったと見ることもできる。
この時の利家の心境は永遠に謎のままだ。
数的不利な状況を佐久間盛政を中心とする凄まじいほどの気力で補い善戦していた勝家軍であったが、利家軍の後ろ盾を欠いて、総崩れとなる。秀吉軍は余呉湖の北面を通り、湖の北東の狐塚に陣取っていた勝家に迫る。
勝家は狐塚で秀吉軍を迎え撃ち激戦を演じたものの数的劣勢を覆すこと叶わず、ついには退却を余儀なくされ、北国街道を一路北の庄へと奔った。近江国と越前国との境界にある栃ノ木峠は、皮肉にも勝家が上洛の便宜のためにと整備した道であった。
この後のことは、語るに忍びない。
間髪を入れずに、秀吉方に寝返った前田利家らによって北の庄城を取り囲まれた勝家と妻のお市の方は、4月23日、北の庄城の天守にて自害して果てた。
数多の戦いが演じられた戦国時代と雖も、最後の天守を巡る攻防戦にまで及んで落城したケースというのは、それほど多くはないのだそうだ。小谷城と北の庄城と2回もの天守落城を経験したお市の方の悲劇を想わないではいられない。
夏の夜の 夢路はかなき あとの名を
雲井にあげよ 山ほととぎす 勝家
さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の
わかれを誘う ほととぎすかな 市
夏の夜というにはまだ早すぎる、早春のかなしい越前での最期であった。奮戦した佐久間盛政もやがて捕らえられ、斬首の上、首は京の六条河原で晒されたという。すべてが、兵どもが夢の跡、である。
ふと我に返って空を見上げると、強い風を切り裂くように大空を滑空する一羽のとんびが見えた。今の賤が岳山頂は、眩しいほどに長閑でうつくしい。
しばし山頂で休憩して景色を堪能した私は、賤が岳を後にした。
山頂からは、今見てきた激戦の跡を辿りながら、稜線伝いに大岩山を経て余呉湖に降りるハイキングコースがお勧めだ。
全体的には下(くだ)りながら、時には上りを交えてのコースである。木々の合間から時折垣間見える余呉湖が、清々しい。約1時間半の快適なハイキングだ。
ちょうどコースの三分の一を過ぎた頃だろうか、山道から少し脇道に入ったところに、清秀の首を洗ったとの言い伝えが残る「首洗いの池」がある。
当地に設置されている説明板によると、清秀の遺体は土民たちの手で谷下に降ろされ、敵方に見つからないように柴で覆われ守られたと言う。池というよりは、単なる水溜りのようなささやかな水だ。しかし大岩山の山中においては、僅かばかりでも湧水を湛えるこの場所は、土地の住民たちにとって神聖な場所だったに違いない。
首洗いの池からさらに余呉湖の方向に進んでいったところに、中川清秀が祀られている広い平坦地が現れる。清秀の百回忌にあたる天和2年(1682年)に建立された墓所は、思いの外に立派である。
中川氏は後に、次男の秀成が豊後国岡藩の初代藩主となり、岡藩主として幕末まで存続することになる。加藤清正や福島正則など七本槍として讃えられた武将たちの子孫が次々と徳川幕府によって改易となっていくなかで、賤が岳の戦いの初戦で早々と全滅してしまった中川氏の子孫が藩主としての地位を最後まで全うしたという事実は、実におもしろいと思う。人生まさに、塞翁が馬である。そうであってこそ、清秀の死も報われると言うものだ。
岡藩と言えば、美しい石垣を持った城と竹田の子守唄で有名な藩である。その岡藩の五代の嫡孫である久恒が清秀の霊を供養するために建立したのが、今私が眼前にしている墓であるという。 清秀の墓は、二段の広い石の基壇の上に、いくつもの石を積み上げて塔のように仕立てた重厚な墓だ。後世の造作と思われるが、墓の周囲には洒落た鉄柵が廻らされていて、正面はアーチのかかった門のような造りに設(しつら)えられている。その門扉には、キリシタン大名であったことを示すかのように、十字が模様化されて付けられている。
訪れる人は極めて稀であるけれど、このような立派な墓を子孫により建立してもらって、清秀も少しは心安らかに眠れるようになったのではないだろうか。そんな安堵感を抱きながら、私は再び、余呉湖畔への道を歩き始めた。
賤が岳から余呉湖までの道は、杉の樹林が延々と続く快適な道であるが、この杉の林は後の時代の植林によるもので、秀吉と勝家が争った当時の賤が岳は、全山がすすきや熊笹に覆われた山容だったのだそうだ。そうであるとすると、今とはだいぶ趣が違った山であったことが想像されるし、戦いの様子もまた別のイメージを持たなければならない。
こんな鬱蒼とした林の中の一本道でどのようにして戦ったのかと訝しく思っていたが、もう少し縦横無尽に兵士たちが丘陵地を駆け巡りながら刃と刃をまみえたであろう光景を想像した。
余呉湖の湖畔には、天女が舞い降りたと伝えられる羽衣掛の柳がある。羽衣伝説は、静岡県の虹ノ松原など全国各地に残されているが、穏やかに水をたたえる余呉湖の傍らに一本だけ独立して立つ大きな柳の木には、たしかに天女が降りてきても不思議でない神秘さがある。
この柳の木も、秀吉と勝家の戦いを見た歴史の目撃者なのであろうか?
賤が岳の戦いに勝利した秀吉は、天下人への道を一直線に駆け上っていくことになる。
最後に、賤が岳と言えばどうしても触れておかないわけにはいかないのが、七本槍だ。
七本槍と言うのは、加藤清正、福島正則、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糠屋武則の七人のことを言う。賤が岳の戦いにおいて活躍が顕著であった七人の若武者を讃えてこう呼ばれているのであるが、実はこの七人が活躍したのは戦いの大勢が決した後の追撃戦においてだったと言われているし、真の功労者は彼らの他にいたというのが後の歴史家たちの大方の判断のようである。 事実、最初の3人くらいまでは私も知っているが、残りの4人の名前はあまりおぼつかないというのが本当のところだ。秀吉一流のやり方で、子飼いの若手を世に売り出すために敢えて賞賛したのではないかとも言われている。
それはそうと、余呉湖の湖面は風もなく穏やかで、静かに水をたたえている。
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11月のお献立
- 2009-11-04 (水)
- 今月のお献立
☆★:∴:霜月のお献立(一例) :∴☆★
~季節の会席のご紹介(スタンダードメニュー)~
【先付け】 帆立焼霜 叩きオクラ 雲丹 浜防風 黒豆
【八寸】 子持鮎甘露煮 完熟柿長芋二見寄せ 鮭袱紗焼き 公孫樹南京 鱧鳴戸巻き白
煮 姫栄螺素焼き 栗蜜煮 アチャラ蕪イクラ
【刺身】 牡丹蝦 鯛 ヨコ輪 芽物色々
【煮物椀】 卵摺り流し ズワイ蟹身 松茸 芹 柚子
【焼物】 柚子釜 柚香大根 葉地神 鰆
【大鉢】 鯛荒焚き 豆腐 針生姜
【台物】 近江牛しゃぶしゃぶ ポン酢 薬味
【止椀】 麦味噌汁
【食事】 近江米
【香味】 盛り合わせ 白菜 柴漬け 大根 みぶ菜 4種盛
【水物】 栗羊羹 キウィ オレンジ パイン
~季節の会席のご紹介(グレードアップメニュー)~
【食前酒】 梅酒
【先付け】 帆立焼霜 叩きオクラ 雲丹 浜防風 黒豆
【八寸】 子持鮎甘露煮 完熟柿長芋二見寄せ 鮭袱紗焼き 公孫樹南京 鱧鳴戸巻き白煮 姫栄螺素焼き 栗蜜煮 アチャラ蕪イクラ
【刺身】 牡丹蝦 鯛 ヨコ輪 芽物色々
【煮物椀】 卵摺り流し ズワイ蟹身 松茸 芹 柚子
【焼物】 多羅場蟹
【大鉢】 鯛荒焚き 豆腐 針生姜
【台物】 近江牛しゃぶしゃぶ ポン酢 薬味
【止椀】 麦味噌汁
【食事】 近江米
【香味】 盛り合わせ 白菜 柴漬け 大根 みぶ菜 4種盛
【水物】 カクテル
~季節の会席のご紹介(クリスマスプラン)~
【先付け】 帆立焼霜 叩きオクラ 雲丹 浜防風 黒豆
【八寸】 子持鮎甘露煮 完熟柿長芋二見寄せ 鮭袱紗焼き 公孫樹南京 鱧鳴戸巻き白煮 姫栄螺素焼き 栗蜜煮 アチャラ蕪イクラ
【刺身】 牡丹蝦 鯛 ヨコ輪 芽物色々
【煮物椀】 卵摺り流し ズワイ蟹身 松茸 芹 柚子
【焼物】 柚子釜 柚香大根 葉地神 鰆
【大鉢】 鯛荒焚き 豆腐 針生姜
【台物】 海鮮鍋
【止椀】 麦味噌汁
【食事】 近江米
【香味】 盛り合わせ 白菜 柴漬け 大根 みぶ菜 4種盛
【水物】 栗羊羹 キウィ オレンジ パイン
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ジュリエット・グレコ第1集
- 2009-11-01 (日)
- 私の好きなレコード
フランス フィリップス N76000R「ロマンス」「私は私」「愛し合う子ら」「抱きしめて」「パリの空の下」「バルバラの唄」「枯葉」「日曜日は嫌い」
ジュリエット・グレジコが今秋また来日するという。いったい彼女は何歳になったのであろうか。たしか1927年の生まれだから82歳・・・。
戦後まもなくのパリ、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈にサルトル等実在主義者や多くのインテリ風の人たちがたむろしていた頃、長い髪と黒い服をまとってサン・ジェルマン・デ・プレの女神のように崇拝されていたのが若き日のグレコだった。べつに哲学者だったわけでもないだろうが、彼らサン・ジェルマン・デ・プレの鼠といわれた連中のアイドル的存在として、ある種のリアリティを感じさせていた時期が彼女にはあった。そんな時代は長くは続かなかったが、その頃のグレコの面影を伝えるのがこのレコードである。
彼女の低音の声はなかなか魅力的だし歌唱も新鮮で洗練されており、なにより独得の雰囲気があって、それが当時の彼女の風貌ともよく似合っていたし、当時のパリの空気を見事に反映していた。
パリは燃えずにすんだが、戦争は人々の心に暗い影をもたらした。戦前のロマンティックなあたたかさは影をひそめ、知的だが冷たく荒涼とした気分が拡がっていた。
当時のフランス映画からも感じられるこの雰囲気が彼女の歌にも感じられる。伴奏は弦主体の格調高いものだが、不思議とそんなグレコに調和している。
その後もグレコは多くのレコードを出しているが、神話と伝説に彩られたこの頃のものは格別の光影を放っている。時代は変わり、グレコも変わったが、グレコが時代精神ともっとも強く結びついていたのが、この時代だったように思う。
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ミスコロンビア(松原 操)思い出のアルバム
- 2009-10-24 (土)
- 私の好きなレコード
「浮き草の唄」「十九の春」「気まぐれ涙」「秋の銀座」「並木の雨」「河原ススキ」「ヒュッテの一夜」「月のキャンプ」「峠の雨」「真白き富士の根」「乙女鳥」「「そんなのないわ」「旅の夜風」「悲しき子守唄」「母の歌」「一杯のコーヒーから」「港の歌」「愛染夜曲」「朝月夕月」「乙女七人」「日本よい国」「愛染草紙」「荒野の夜風」「新妻模様」「目ン無い千鳥」「楊柳芽をふく頃」「大空に祈る」「三百六十五夜」 コロンビアAL・5070~1
ミス・コロンビア・松原 操の歌謡曲のSP録音を復刻したセットである。彼女は昭和6年に東京音楽学校を卒業し、クラシックの声楽家として活動していたが、コロンビアにスカウトされ歌謡曲も歌うようになった。
彼女の歌を聴いていると、かつて存在したが今はもう失われた日本女性の美徳、純情、可憐、清楚、貞淑といった要素をその歌唱の中に昇華し結晶化しているように思われる。大げさな言い方になるかもしれないが、西洋音楽の歌唱において日本らしさ、日本的スタイルがここに確立しているとみることができる。そして彼女以後、これ程、日本的な良さを感じさせる歌手は出なかった。その意味でまことに貴重な記録がここにあるといえよう。
また、彼女のノンヴィヴラートの発声を聴いていると、ヴィヴィラートというのは、あってもいい場合もあるという程度に理解すべきことが痛感される。中世ルネッサンスの宗教曲等でヴィヴラートがあると困る場合はあっても、逆にヴィヴラートがなくてはならないという曲はないのではないかということである。
ところで、1970年代以後にコロンビアから発売されたこの種のSP復刻盤には以下の3種の音源が混在している。すなわち①昭和30年代に復刻したものをテープで保存していたもの。②1970年代以後に新たに金属原盤から復刻したもの③市販のSP盤から1970年代以後に新たに復刻したもの(いわゆる板おこし)。この場合②がすばらしい音質であることが多く、①については、テープの経年劣化のため音質がよくない場合が多い。松原操の復刻盤は他にも出ているが、この3種の音源が混在しており、「旅の夜風」等 有名曲は①によるものが多くて音質がすぐれない。その点このセットはすべて③で統一されているようで、ものによってはノイズが多かったり音が歪んだりしているが、先述の「旅の夜風」等は他の復刻盤におけるものより音が良い。とにかく、曲は同じでも、他の盤とは復刻の方法が異なっているので、その点だけでも存在価値のあるセットといえよう。
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