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5月4日(金)
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片桐且元企画展3/24〜5/27
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坪内逍遥の最高傑作の一つに数えられている「桐一葉」。この戯曲の主人公、片桐且元は、弘治2年(1556年)に、私どもの温泉のある須賀谷の地で生まれています。父は、浅井氏の家臣である片桐孫右衛門直貞、母の名は伝わっていません。浅井長政が秀吉によって滅ぼされた後は秀吉に仕え、秀吉と柴田勝家とが織田の跡目を争った賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正や福島正則らとともに賤ヶ岳の七本槍として武功を讃えられています。
清正や正則のような武闘派の武将としてよりは、むしろ石田三成のような官僚派の知将として能力を発揮するタイプだったものと思われます。秀吉が天下を取った後の且元の働き場所は戦いの最前線ではなく、街道の整備や軍船の調達など後方支援に重きが置かれていました。
天下を統一する過程においては武力に秀でた能力が重用されますが、天下平定後に求められる能力は、武力ではなく調和力です。且元は、豊臣家からも徳川家からも厚い信頼を置かれ、秀吉亡き後は両家をつなぐ重要な役割を果たしました。
「国家安康」「君臣豊楽」の銘により徳川家から大きな嫌疑をかけられた方広寺鐘銘事件においても且元は大いに奔走し、徳川家に足繁く通って和平交渉に尽力しました。
ところが堕ちていく一族とはこんなもので、疑心暗鬼に陥っている豊臣家ではこの且元の行為を徳川家への内通と疑い、且元は大坂城を追われるようにして後にせざるを得なかったのです。
大坂夏の陣が終わり、且元は家康から4万石に加増を得たものの、夏の陣からわずか20日後に謎の死を遂げます。最後まで秀頼の助命を嘆願していたと伝えられる且元の死は、あるいは豊臣家と徳川家とに挟まれて苦悩のうちに自ら死を選択した結果かもしれません。60年の波乱に満ちた生涯でありました。
須賀谷に生まれ、浅井、豊臣と次々と主(あるじ)を失っていくなかで、且元は誠実に人生を生きてきた。坪内逍遥はそんな且元の生き方に感銘して「桐一葉」の名作を世に送り出したに違いありません。
片桐且元の功績を振り返る企画展が、須賀谷温泉の近くの五先賢の館で、3月24日〜5月27日まで行われます。
3月27日には、「片桐且元の生涯と業績について」太田浩司氏の講演会も開催されます。
厳しい冬を通り越して、やっとこのあたりにも春の気配が漂い始めました。春の香りを楽しみながら、是非、この企画展にお越し下さいませ。
須賀谷の秘境より
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