湖北残照 4.小谷城祉

4. 小谷城祉(浅井長政終焉の地)

 小谷城のあった小谷山は、隠れた紅葉の名所である。

錦繍という言葉が実に相応しい。私はこのような鮮やかで色とりどりのかえでの葉が織りなす紅葉のトンネルのような道を見たことがない。桜のトンネルは各地にあるけれど、紅葉のトンネルは、そうそうはないかもしれない。

こんなに美しい紅葉は、長政やお市の時代からこの小谷山にあったものだろうか?

自然に生え拡がっていったのか、それともいつの時代かに誰かが意識的に植えたものなのか、私は知らない。しかし願わくば、長政やお市の方の時代からこの楓の木が存在していて、連々と年輪を重ねていってくれたものであってほしいと思った。

長政やお市の方もこの燃えるような紅葉を見て、心が慰められたかもしれない。そう思うだけで、胸が熱くなる。是非とも長政やお市の方がこの紅葉を見てくれているようにと、心から思った。

古城を探索するのに本来は邪道であるのだが、私は中腹の金吾丸にある駐車場まで車で山道を昇った。麓から登山道を歩いて登るのには、この日の私のスケジュールではどうしても時間が足りなかったからだ。この次に小谷山を訪れる時には、十分余裕のあるスケジュールを組んで、自分の足で一歩ずつ、小谷山の土を踏みしめながら歩いて山頂まで登る道を選択したい。

狭い林道を対向車に注意しながら静かに進んで行った車は、途中で湖が望める望笙峠と呼ばれる小ぢんまりとした広場に出た。ここから眺める琵琶湖は、実にうつくしい。湖中に浮かぶ島は、竹生島である。

「望笙峠」の「笙」の字は、「竹」かんむりに「生」まれると書く。即ち、「竹生」である。遠く湖中に竹生島を望める峠だから、望笙峠なのだろう。納得である。

今はまだ時間的に早いけれど、夕陽が湖面に沈んでいく光景をこの峠から見ることができたなら、きっとさらなる感動に包まれるに違いない。琵琶湖に夕陽が落ちる様は荘厳かつ厳粛で、見る者をして感動せしめずにはいられない。

DSCN0695  望笙峠からびわ湖を望む

こんなしっとりとした湖の光景を、長政やお市の方も見たのだろうか?この場所からかどうかはわからないが、小谷山から琵琶湖を望む風景は、そこかしこから見られたものと思われる。きっと長政やお市の方も眺めたに違いない。

私も長政になった気持ちで、水田の向こう側に拡がる清らかな湖を心ゆくまで眺めた。そして車は、再び小谷山を登っていく。

 残念なことに車は、望笙峠から少し上ったところにある金吾丸までしか入ることができない。駐車場に車を停めて、ここから先は山頂まで歩いて登るしかない。

そう思いながら車を降りた途端、駐車場の周囲の紅葉の鮮やかさに私は言葉を失った。

clip_image002 紅葉とすすき

 この駐車場の傍らで私は、一枚の写真を撮った。それは今でも、私の最もお気に入りの写真のうちの一枚になっている。画面を右下から左上の対角線で二分割して、右上側に深紅の紅葉が、左下側にすすきの穂群れが写されている写真だ。

 紅葉とすすき。秋を代表する二つの景色が絶妙のコントラストを作って画面一杯に写っている。

もっとも、このすてきな写真だが、残念ながら私の腕がいいわけではない。この場所に立ってカメラのシャッターを押しさえすれば、誰でもが簡単に撮ることができるごく普通の写真なのである。

 しかい小谷山の紅葉の美しさは、すすきと一緒に写るこの深紅の紅葉よりも、むしろ緋色に近いような鮮やかな赤色の楓にあるかもしれない。あるいは黄色に近い色をした楓の葉もある。微妙な楓の葉の色づきの濃淡が織りなす妙。こんな山の中腹に人知れず燃え出でるように色づく紅葉を見て、再び私は胸を熱くした。

 案内板によると、ここから小谷城の最高地点にあたる山王丸までは、歩いて20分ほどの距離であるという。途中、いくつかの家臣の屋敷跡や首据石、刀洗池など戦(いくさ)を連想させる物騒な名前の遺蹟を経(へ)、本丸や小丸などの曲輪を通って山王丸に至る道である。 

馬洗い池 馬洗池

馬洗池 馬洗池

首据石 首据石

私は案内板の地形を大まかに頭に入れて、番所跡の石柱のある広場の先からいきなり急峻となった山道を、本丸の方向へと歩き始めた。

 古城址を訪ねるという安易な気持ちで小谷城を訪れた私は、いきなり認識の甘さに打ちひしがれる。私にとっては本格的な山城に登るのはこれが初めての経験であったのだが、これはもう完全に登山そのものだ。坂の勾配の強烈さは想像をはるかに超えていた。ごつごつとした岩がそこここに突出し、細い道が蛇行しながら上部へと続いていく。

 山道の先は見通すことができない。山の地理に不案内で、重い甲冑や刀剣を携えての城攻めであったなら、確かに攻め落とすのには相当な困難を極めること間違いない。城というと、石垣や櫓ばかりを思い起こす私であったが、すでにこの山道そのものが防御の一番のアイテムであるということを実際に歩いてみて実感した。

 一番上まで行っても20分ほどだからと、私のどこかに小谷城を甘く見る気持ちがあったことは否めない。しかしその気持ちは、歩き始めてからほんの数分のうちに失われた。ここは戦国武将が命をかけて自分の領地を守るための最後の拠点であったということを、改めて思い知った。

 途中、うっそうと茂る木々の合間から眺望が展ける場所があると、すうっと心が洗われる思いがする。小谷山から見下ろす湖北の風景は、極上である。琵琶湖を望む景色はもちろんのこと、琵琶湖が見えない方角でも、周囲の山々が重なって映る風景が美しい。ふと見上げると、木々の緑が青い空の色に映えて、何とも爽快な気持ちにしてくれる。

 本丸に向かうメインストリートの途中に、右側に折れる小道がある。赤尾屋敷跡に通ずる小道だ。後に詳しく述べるが、武運に見放され最早これまでと悟った浅井長政が最期の場所として選択したのが、家臣である赤尾氏の屋敷だった。

 メインストリートから赤尾屋敷跡までの僅か100mの道程を、長政はどんな気持ちで奔(はし)ったのか?今でも一歩足を踏み外せば遥か崖下に転落してしまいそうな細い岨(そば)道(みち)を、失意の長政は必死の思いで赤尾氏の屋敷まで急いだ。

 後世に生えた木々がすでに古木として林立する赤尾美作守の屋敷跡には、「浅井長政公自刃之地」の石柱が建つ。静寂が支配し、訪のう者も稀なこの空間で、浅井長政は29年の短い生涯を終えた。その場所がまさにこの地なのだと思うと、万感想いが重なって、胸が詰まる思いがする。

DSCN0736 浅井長政自刃の地

 この赤尾屋敷跡は、小谷城における最も神聖な場所であるかもしれない。

 元来た道をメインストリートまで戻った私は、再び本丸に向けて山道を歩き始めた。しばらく歩くと、桜馬場と呼ばれる広い空き地に出る。ここには、「浅井氏及家臣供養塔」が建つ。その先の大広間跡の向こう側に一段と高くなっている場所が、本丸跡である。

 本丸跡に至る道には、僅かに石垣が残されている。

 「破城」という言葉がある。のちの佐和山城の章で詳しく述べることになると思うが、今後城として機能できないように既存の城の機能を徹底的に破壊する行為を「破城」と言うのだそうだ。堅牢不落を誇った小谷城の石垣が現在ほとんど残されていないのは、小谷城の征服者である羽柴秀吉らによって小谷城が破城に遭ったことを如実に物語っている。

 石垣の大部分は失われてしまったが、一段高くなっている本丸の斜面には、細かい石を自然な感じで積み上げた野面積みの石垣の一部を今でも確かめることができる。小谷城に残る数少ない当時の城郭の面影である。今では石と石の間から草が生え、すっかり周囲の自然に溶け込んでしまっているのが余計にうら悲しい。

石垣の名残 小谷城石垣の名残

 説明板によると、この小谷城本丸に建立されていた天守が、後に移築されて彦根城西の丸の三重櫓になっているという。戦時用に建てられた小谷城の天守は、後の江戸時代の城の天守のように壮麗な造りではなかったと言われている。それに、落城の際に火を放たれた可能性も高く、果たして説明板の記載が正しいかどうかは私にはわからない。

 いずれにしても、信長軍の攻撃を受けた浅井長政は、最後までこの本丸で全軍への指揮を執り、最後は先程訪れた赤尾屋敷にて自刃したと伝えられている。今では木々が疎らに立ち並ぶやや広い平坦地に、当時は敵味方が入り乱れ、阿鼻叫喚の地獄模様が繰り展げられたものと想像される。

 普通の城は本丸が一番の高所にあり、本丸が防御の最後の拠り所となるのだが、小谷城の本丸は最高所にはない。さらにその向こう側に、大きな堀切(1)を経て、中の丸、京極丸、小丸、山王丸と曲輪が連なっていく。

 小丸には長政の父の久政が居住していて、本丸の長政と小丸の久政とで、堀切に迷い込んだ敵方を挟撃する防御戦術を採ろうとしていたものと思われる。

 一方で、本丸と中の丸との間に存在する大規模なこの堀切は、本丸と小丸方面とを分断してしまう意味において、小谷城の弱点にもなり得た。小谷城の縄張りを深く研究した秀吉は、小谷城攻めに際してこの弱点を鋭く突いてきた。そのことはまた後に詳しく触れることになるので、ここでは先に歩を進めることとしたい。

 中の丸には、刀洗池と呼ばれる池(の跡)がある。また、中の丸の西側を下った場所に位置する曲輪は、お局屋敷跡と呼ばれている。説明板によると、明確には書かれておらず何とも微妙な表現ながら、お市の方や三人の姫たちもこの曲輪に住まわっていたようなことが書かれている。

 そんなに広いスペースではない。陽当たりも悪いこんな場所に建物が建てられていて、そこに多くの女房や子供たちが暮らしていたかもしれないと思うと、何とも言われぬ悲壮感が込み上げてくる。

 さらに細い道を登っていくと、やがて京極丸という曲輪に至る。信長による小谷城攻めに際しては、西側の清水谷方面から侵攻してきた秀吉軍によって最初に占拠されたのが、この京極丸であると言われている。

 そして京極丸のさらに上に位置しているのが、長政の父である浅井久政が守っていた小丸である。この辺りはずっと、ほぼ直線状にそれなりの広さを確保した曲輪が連なっている。一つ一つの曲輪の大きさはそれほどではないが、すべてを合算すると相当のスペースがこの峻嶮な山の稜線伝いに存在していたことになる。

 信長軍に攻め込まれた久政は、もはやこれまでと悟り、この小丸にて自害し49歳の生涯を閉じた。今はほとんど人影もまばらで静かな疎林に落ち葉が散り敷くしっとりとした景色であるが、天正元年(1573年)8月27日のこの場所は、さぞかしや地獄のような光景だったのだろう。

 そんな遠い昔の悲しい光景を胸に思いやりながら、海抜395mの最高点に位置する山王丸に辿り着いた。途中、大きな岩がごろごろと転がっている。苔むしたこれらの岩も、かつては小谷城の石垣だった岩かもしれない。

 山王丸を小谷城の最高点と書いたが、実は道はさらに先に続いている。残念ながら、今回の私の小谷城を巡る旅は、ここで元来た道を金吾丸の駐車場まで引き返さなければならないが、次回訪れる時には是非、この先まで歩を進めたいと思う。

 以下は、読んだ資料の受け売りである。

一度下って六つのお寺があったと伝えられる六坊跡を経て、再び登りとなった道は西側に相対する峰の頂上にある大嶽城跡に至る。初代の亮政が作った最初の小谷城は、この大嶽城の辺りだったらしい。今の小谷城の縄張りが確立されたのは、二代目の久政の時代になってからだったのではないだろうか。

 信長軍による小谷城攻めの際、この大嶽城には援軍の朝倉氏が拠っていた。しかしながら、小谷城攻撃に先だって信長軍の攻撃に晒された朝倉軍は、城を降りて越前へと逃げ帰る。これを徹底的に追撃した織田軍は、ついに8月20日に朝倉軍を壊滅させ、ここに越前の国で栄華を誇った朝倉氏は滅亡したのであった。

 朝倉氏を倒した信長軍はその足で小谷城に引き返し、援軍もなくなり孤立した小谷城に攻撃の焦点を集中し、そしてついに浅井氏をも滅亡へと追い込むのである。

 小谷城に来てよかったと思った。本格的な山城を歩いたのは初めての経験であったが、実際に歩いてみて初めて、小谷城が難攻不落の名城と呼ばれた理由(わけ)がよくわかった。蛇行しながら行く細く急峻な坂道。ゴツゴツと突き出た岩。次々と現れる大小さまざまな曲輪。攻めようとする者に対して自然の造作物と人口の造作物とが混然一体となって、あらゆる抵抗を試みようとする。

 これはもう、山全体が城なのだ。

 狭い山道を登りながら、ある時は攻める信長軍の気持になり、ある時は守る長政軍の気持になり、私は浅井氏が造ったこの芸術品のような城の雰囲気を、思う存分に味わった。

 残念なことに、小谷城の遺構は櫓も石垣も長浜城や彦根城に転用されてしまい、今は往時の面影を残すものはほとんど残されていない。

 しかし何も残っていないことが、かえって空想の自由を私に与えてくれる。何もないところに盛時の小谷城の姿を思い描き、そこに長政やお市の方、それに茶々、お初、お江の三姉妹を配してみるのもおもしろい試みであると思う。

 話を440年前に戻すことにする。

 姉川の戦いに勝利した織田信長・徳川家康連合軍は、敗走する浅井・朝倉連合軍を小谷城まで深尾いすることをしなかった。小谷城の守備の堅固さを熟知していたからと言われている。

 信長は、このチャンスに一気に長政の止めを刺すことをしないで、再びこの地に攻め上るまでに3年の歳月を費やした。先にも触れたが、長政の裏切りにより越前から命からがら逃げ帰った後に姉川の戦いまでが僅か2カ月だったことを考えると、3年間の月日はいかにも長過ぎる。実はこの間の信長は、四方八方を敵に回して、生涯において最も危険な3年間を過ごしていたのである。

 足利義昭の反乱、石山本願寺、比叡山の抵抗とそれに対する焼き打ち、三好氏、松永弾正、そして朝倉・浅井連合軍の攻勢。新興勢力である信長に対抗する包囲網が互いに連携を取りながら信長を取り囲み、次第にその包囲の輪をすぼめようと画策していた時期だった。

 信長は驚異的な力でこれらの敵を次々と撃破していった。そしていよいよ満を持しての小谷城攻めとなったのである。

小谷城は、いわゆる日本五大山城の一つに数えられている堅固な山城である。ちなみに残りの4つの山城とは、上杉謙信の春日山城(越後)、尼子経久の月山富田城(出雲)、六角義賢の観音寺城(近江)、畠山義綱の七尾城(能登)の4城である。まともに戦っては信長といえども勝ち目がない。信長方の武将であった羽柴秀吉は、調略によって長政陣の結束を崩す戦略を実行した。

この秀吉の調略が功を奏して、長政の父久政の信任が厚かった山本山城主・阿閉(あつじ)貞征が元亀4年(1573年)、織田方に寝返った。譜代の家臣と重要な戦略的拠点とを戦わずして信長方に奪われた長政のショックは計り知れない。姉川の戦いでは鉄壁の結束を誇った浅井家の家臣団であったが、崩れる時にはこうして内部の人心から崩壊していくのだろう。難攻不落と謳われた小谷城の攻撃は、調略という信長や秀吉が得意とした新たな手法により浅井軍の士気を弱めたうえで、始められたのである。

ちなみにこの阿閉貞征という人物は、後に秀吉の臣下となり山本山城を引き続き預けられたにも拘わらず、本能寺の変に際して秀吉の居城であった長浜城を攻めた。山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉が貞征を許しておくはずがない。裏切りに裏切りを重ねた人間の末路は、悲しい。

小谷城は、北近江を支配する浅井家の亮政、久政、長政三代の居城であった。この地方において絶大なる存在感を誇り名城との誉れ高い城であったが、実際に城として機能していた期間は僅かに50年の歳月に過ぎない。まさに、浅井家三代の夢の跡である。

姉川の戦いで勝利した信長でさえ恐れた小谷城が、その3年後にどうして落ちたのか?それは、もう一人の浅井方の武将の裏切りがきっかけとなったとも伝えられている。秀吉は、中の丸を守備していた大野木茂俊を密かに味方に引き入れていたという説だ。

中の丸は、長政が守る本丸と、父の久政が居る小丸の中間に位置する重要な拠点であった。先に実地に歩いて見てきたとおり、元々小谷城は、小谷山の稜線に沿って金吾丸、本丸、中の丸、京極丸、小丸、山王丸と、下から登山道を正攻法で攻め上ってくる敵を想定した防御構造となっていた。

山の複雑な地形を利用しながらいくつかの曲輪を巧みに配置し、その曲輪に籠って寄せ手を迎え撃つ。攻撃側は細く険しい登山道を辿りながら、金吾丸、本丸、中の丸…と一つずつ曲輪を撃破していかない限り、城を征することができない。登山道は道幅が狭いから、どんな大軍であっても攻め手は細く長い隊列を作らざるを得ない。間延びした戦線を左右から狙い撃ちすれば、少ない勢力でも効果的な守備が可能となる。小谷城が難攻不落と称される所以だ。

ところが秀吉は、この長くかつ標高差のある浅井の防御線の真ん中に位置する京極丸を登山道を経由しないで横から直接衝いた。それができたのは、京極丸の一つ手前にある中の丸を守備する大野木茂俊の手引きがあったからだというのが、裏切り説である。

秀吉がどのような手段を使って茂俊を籠絡したのかは、わからない。

今であれば携帯をはじめとして様々な通信手段があるけれど、城の防御線の中央部に籠城している茂俊に連絡を取り翻意を促すことは、当時は至難の技であったに違いない。疑問は残るけれど、事実として秀吉は、京極丸を破ることに成功した。

城の内部から内通者が出ることなど、長政にとっては全くの想定外のできごとだったに違いない。難なく中の丸と京極丸に導かれた秀吉軍は、そこよりも上部にいる父・久政と下部にいる長政とを分断した。どんなに堅固な造りを施した山城であっても、そこを守る人の心が敵方にあっては、ひとたまりもない。

京極丸、中の丸にいる秀吉軍と、下から正攻法で攻め上がる信長軍本隊とに挟まれた長政は、本丸を出て勇敢に戦ったが、ついに進退極った。すでに敵方は本丸をも占領しており元に戻ることさえできない。すべてを観念した長政は、家臣である赤尾美作の屋敷にて自刃した。時に天正元年(1573年)9月1日(8月28日との説もある)のことだった。長政は、自らが生まれ育ったこの小谷城の山麓にて、29歳の短い生涯を閉じた。

信長の小谷城攻めを成功に導いた勝因は、武力ではなく知力だった。

敵方の主要な武将に取り入って、城の内側から閂を開ける。味方に犠牲者を出さずして敵方に決定的な打撃を与える画期的な戦略である。裏切った人物が信任の篤い大将であればある程、味方に与える精神的打撃も大きいものがある。

戦国時代の戦いは、現代で言うところの企業同士の戦いと似たところがあるが、決定的な違いは、現代の企業間の戦いではたとえ敗れても直ちに命を落とすことはないということである。

相手の企業に乗っ取られて職を失えば、たちまちにして食うや食わずの窮地に陥れられること必定ではあるが、危機を察知して事前に他の企業に転職することもできるし、たとえ乗っ取られても命まで奪われるわけではない。

しかし戦国の世では、臣下にあるものが主君を選ぶことはできない。そして不幸にして主君が暗愚であった場合に、あるいは弱小な主君に属してしまった場合には、主君とともに座して死を待つ以外に道はない。戦いに敗れれば、敗れた者は皆殺しとなるのが戦国の常である。今の世と違って彼らは、文字通り真に命を懸けて戦っていたのである。

圧倒的に味方が不利な状況において、命と本領とを安堵するという甘い言葉で囁きかけられたとしたら、相手の言葉に墜ちたとしても誰も責めることはできないかもしれない。長政に落ち度があったとは思えない。総大将としての資質に疑義があったとも思えない。

命を懸けた戦いの場で、生きたいという人間の本能に働きかけた秀吉の戦略が功を奏した結果であったのだと思う。

しかしその一方で、味方を裏切った人間がその後の歴史において幸福な人生を歩んだという実例を、私は知らない。信義に反して生きた人間は、必ずどこかで自らが犯した心やましい行為に対して、償いをしなければならないというのが世の習わしなのだと私は信じる。

落城後の小谷城はどうなったのか?

小谷城攻撃の最大の功績者は羽柴秀吉であった。信長にその功績を認められた秀吉は、北近江三郡(伊香郡、坂田郡、浅井郡)に封ぜられ、小谷城を賜った。初めて城持ち大名として信長の武将の一員に加えられたのである。お市の方が長政と仲睦まじく暮らした小谷城を、お市の方に心を寄せていたと言われている秀吉はどのような気持ちで眺めたことだろうか。

秀吉は2年半の月日を小谷城主として過ごした後、小谷城の資材を移築して長浜(当時は今浜と呼ばれていた)に移っていった。朝倉と浅井を滅ぼした織田にとって、もはやこの地に堅固な山城は必要なかったということだろうが、秀吉にとってはそれだけが理由ではなかった気がする。

秀吉が去って行った後の小谷城は誰に顧みられることもなく、ひっそりと埋もれていった。今は地元の人たちの尽力により史跡として整備されているが、小谷城の跡は長い間、人々の記憶から置き去りにされていた。地元のごく少数の心ある人たちを除いては。

 長政は赤尾美作の屋敷で非業の死を遂げたが、お市の方は3人の姫とともに生きて救出された。長政の盟友として信長と戦い小谷城落城の直前に滅ぼされた朝倉義景の妻子たちが一人残らず殺戮されたのとは、扱いが大きく異なった。信長の妹君であるのだから、当然の措置だったろう。

しかし救出されたお市の方の気持はいかばかりであったか?遺された姫たちを守っていかなければならない。浅井家の血を後の世につないでいかなければならない。お市の方の胸中には自分の命のことなど微塵もなくて、3人の姫のこと、浅井の血を絶やしてはいけないという使命感、それだけしかなかったのではないかと推察する。

 長政とお市の方の3人の姫のその後の人生は、三人三様に波乱に満ちている。

長女の茶々は、秀吉の側室となり淀君と呼ばれた。やがて秀頼を生んだが大坂の陣にて徳川家康に敗れ、豊臣家と最期を共にした。

次女のお初は、室町時代から続く名門大名である京極氏(高次)に嫁ぎ、高次の死後は出家して常高院と称した。豊臣家と徳川家の間に立って両家の関係改善に尽力したと伝えられる。

そして三女のお江(ごう)は、徳川家の2代将軍秀忠の正室となり3代将軍家光を生んだ。お江が生んだ和子は、東福門院として後水の尾天皇の正室となり、明正天皇を生んでいる。

茶々とお初の血は途絶えてしまったが、お江を経由した長政とお市の方の血筋は、今にも面々とつながっているという。物理的遺産である城は滅んでしまったけれど、二人のDNAは生きている。

NHKは、2011年の大河ドラマを、「江 ~姫たちの戦国~」とすることを決めた。第一回作品「花の生涯」から数えて50作目にあたる記念すべき作品だ。彦根(「花の生涯」)から始まった大河ドラマの流れが、50年の歳月を経て再び近江の国に還ってきたと思うと、感慨もひとしおである。

 このドラマの主人公はお江である。戦国時代を生きた浅井三姉妹の末妹お江の波乱に富んだ生涯を通じて、新たな視点からの人間性溢れるドラマが描かれることと期待している。小谷城や姉川などお馴染みの土地が映し出されることも楽しみである。

 このドラマを予習しておきたい向きには、畑裕子さん著の「花々の系譜」という本がサンライズ出版から刊行されている。ドラマとは視点を変えて次女のお初を通してこの時代を見つめる視点は確かで秀逸の作品である。

 姉川の古戦場跡から小谷城祉へと、浅井家の歩みを通して湖北の歴史を体感してきた。わずか50年で悲しくも湖北の空に散っていった勇猛にして果敢な戦士たち。それにしても、私はあの小谷山の紅葉を忘れない。