Ⅲ.京都編 1. 金福寺・圓光寺(たか女終焉の地・墓所)

 錦秋の京都に行きたいと思った。

 京都に行くなら真っ先に行きたいと思っていた場所がある。金(こん)福寺(ぷくじ)と圓(えん)光寺(こうじ)だ。いつか機会があったら、たか女が晩年を過ごした金福寺とたか女の墓所のある圓光寺を訪れたいと、ずっと思っていた。

 ついに念願が叶う時が来た。新幹線で京都駅に到着した私は、取るものもとりあえず叡山電車の出発地である出町柳に直行した。折しも紅葉が一番美しい季節である。出町柳の駅も2両編成の小型のワンマン電車も、平日だというのに大勢の観光客でごった返していた。なぜかお年寄りが多い。

 私が目指す「一乗寺駅」は、出町柳から3駅目。思ったよりも近い。乗客の大部分が鞍馬を目指しているので、一乗寺で降りる乗客は比較的少なかった。それでも、私の希望よりはるかに多くの数の人がこの駅で降りた。

 金福寺への道は、線路と垂直に交わる道をまっすぐ山側に向かっていく。途中、宮本武蔵と吉岡一門との決闘の舞台になったと言われている一乗下り松を通る。この下り松を過ぎて真っ直ぐに進むと、紅葉で有名な詩仙堂がある。金福寺に行くには、細い道を右に折れる。

 観光客も、詩仙堂までは足を運ぶものの、金福寺を訪れる人は少ない。さらに細くなっていく道をもう一度右に曲がると、やがて左手前方に金福寺の小さな門が見えてくる。周囲は閑静な住宅街だ。こんなところにお寺があるのかと途中訝しく思えてしまうほど、寺は周囲に溶け込むようにひっそりと建てられていた。

 十段ほどの石段を昇ったところに先程見た門があり、門の左手に大振りな楓の木が赤く色づいていた。まるで私のことを手招きしているように、楓の木の赤い色が私の眼を射た。京都に着いて最初に目にした紅葉に、私はしばしの間、足を止めて見入った。

 clip_image002 金福寺弁天堂

その楓の木の傍らに、「村山たか女創建の弁天堂」という小さな建物があった。いきなりたか女の足跡に接することができて、心が熱くなった。お堂の傍らの説明書きには、

  此の弁天堂は、舟橋聖一作花の生涯のヒロイン、村山たか女(妙壽尼)が慶応三年に

創建したものです。

  たか女は文化六年(一八〇九年)己巳(きみ)の年に生まれました。巳(白い蛇)は、

弁天様の御使ひとされて居るので、たか女は、弁天さんを深く信仰して居たものと思

われます。

  井伊大老が、櫻田門外で遭難してより二年後の文久二年たか女は、金福寺に入り、尼

僧として行いすまし、明治九年九月三十日当寺に於いて、六十七才の生涯を閉じたの

でした。

  法名、清光素省禅尼

 とある。いかにもたか女らしい慎ましやかな弁天堂だ。「辯財天女」と書かれた剥げかけた額が、たか女が生きていた時代との時の隔たりを感じさせる。ふと、大洞の弁天像のふくよかなお姿を思い出した。たしかに、たか女には弁天さまがよく似合う。

 一番の盛期をほんの少し過ぎてしまっていたが、庭のそこここに配置された紅葉が枯山水の庭に鮮やかなアクセントを加えている。白砂に映える赤い色、緑の木々とのコントラスト、苔に上に落ちた楓の鮮烈さ。すべてが庭という小さな世界の中に、計算され尽くして配置されている。たか女もこの紅葉を見たであろうと思うと、心が救われる思いがした。

 それほど大きくない本堂と小さな枯山水の庭と裏山とからなる寺の規模も、いかにもたか女が余生を過ごした場所として相応しいと思った。すべてを失い無となった彼女が人生の最後の時間を過ごした場所が、このささやかな空間だった。

 本堂には、たか女に所縁(ゆかり)のある遺品の品々が展示されていた。直弼の書や主膳の肖像画なども興味を引いたが、中でも私が一番心惹かれたのは、長野主膳に宛てたたか女直筆の密書である。あまりの流麗な筆であることに、驚いた。一方、楷書で書かれた弁天堂の棟(むね)札(ふだ)は実に端正な筆づかいで書かれている。三味線や和歌の道にも通じ、直弼や主膳と思想を共にしたたか女の教養の高さが窺える一品である。

 clip_image004 たか女の遺品

これまでは、たか女が生まれた家の跡であったり、たか女が訪れたであろう神社仏閣であったりで、私にとってたか女は、間接的にしか感じられない存在だった。金福寺を訪れてたか女が実際に手にした物に初めて接することができて、胸が詰まった。

直弼も主膳も忽然として世を去った後、たか女は何を心のよすがとして自らの余生を生きたのか?我が眼前にある彼女の遺品が、答えを語ってくれているような気がする。14年間の歳月は、けっして短い年月(としつき)ではない。私はこの金福寺でのたか女の生活に、涙する思いで心を馳せた。

clip_image006 金福寺本堂と楓

 金福寺は、村山たか女が亡くなるまでの時を過ごした寺としてよりは、むしろ与謝蕪村の墓のある寺として有名である。松尾芭蕉とも関係が深かった縁があり、「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」の句を芭蕉もこの寺で詠んでいる。古くから文人に愛された土地柄だった。たしかに京の街の中心部からやや離れ、静寂に支配された山の佇まいは、文人たちの心に安らぎを与えたに違いない。

世の喧騒から隔絶されていながら、鄙(ひな)ではない。そんな絶妙のバランスに裏打ちされた洗練された雰囲気を感じさせるところが、金福寺の魅力ではないかと考える。同じような雰囲気は、光悦寺あたりでも感じられる。いわゆる芸術家が集まりやすい環境なのかもしれない。

 京都の北山を一望のもとに見渡せる裏山に昇ると、蕪村の墓をはじめとして数々の文人の墓や碑があり、また芭蕉庵なる趣深い小屋(しょうおく)が建立されている。たか女もこの庵の傍らに佇んで、京の街を遠望したかもしれない。

 

 金福寺を後にした私は、詩仙堂を経て、圓光寺に向かった。

clip_image002[1] 圓光寺山門

 圓光寺は、徳川家康が開基の寺だけあって、金福寺よりよほど大きな寺域を有している。庭園の規模も本堂の規模も、金福寺をはるかに凌駕している。たか女の墓がどのような経緯で圓光寺に作られたのかを私は知らないが、たか女の墓であるのなら、慎ましやかな金福寺の方が似つかわしく思えた。

 たか女の墓のことは後に書くとして、まずは本堂の廊下に腰を降ろして、大規模な庭園を眺めることにする。

clip_image002[3] 圓光寺庭園

 残念ながら、紅葉の美しさでは、金福寺も圓光寺も先に見てきた詩仙堂に及ばない。観光客の多さがその差を如実に物語っている。鮮やかな紅色の楓がふんだんに散りばめられた詩仙堂の庭園は、紅葉を愛でる庭としては高度に洗練されている庭だ。丸く刈り込まれた手前の緑の植え込みとその向こう側の楓の赤とが見事に調和し、絶妙とも言える風景を作り上げている。

 圓光寺の庭園は、すでに紅葉がピークを過ぎていたこともあるが、そこまでの洗練された美しさはない。自然を模した楓の疎林の中に石や灯篭や苔を巧みに配してそれなりの雰囲気を作ってはいるが、雑然とした感は否めない。

 あるいはもう少し楓が鮮やかに色づいていればまた印象も変わったのかもしれないが、やや物足りなさを感じながら、庭園をしばし歩いた後、寺域の裏側にあるたか女の墓に向かった。

 たか女の墓は、表示がなされているのですぐにそれと知れた。

clip_image002[5] たか女墓

 何の変哲もない三段に石が組まれた普通の墓だ。裏側には何も刻まれておらず、表に「清光素省禅尼」と法名のみが彫られている。直弼の墓に供花が絶えなかったことや、主膳の墓の大きかったことと比べたら、花もなく何と質素なことか。そう思うと、涙がこぼれそうになった。

 数奇な人生を生きた一人の女性。それは、運命と歴史の渦とに翻弄された波乱に満ちた人生だった。むしろそれだからこそ、今は誰に邪魔されることもなく、ひっそりと眠っていてほしいと思った。

 私以外にも、数は多くはないけれど、たか女の墓を訪れる人は後を絶たなかった。彼女のファンは、案外と多いのかもしれない。たか女の生涯を追って、多賀大社から彦根を経てついに京都まで来てしまった。秋の彩り豊かな景色のなかで、私は不思議な思いでたか女の墓を見つめ続けていた。