百済寺樽 6

百済寺樽 6(稲刈り)

 

いよいよ実りの秋の到来だ。

2018年9月22日(土)、私は稲刈りのために三度目の百済寺を訪れた。

夏頃から体調を崩していた私は、過去二回と同様に夜行バスでの移動はできなかったため、朝早い新幹線で米原まで行き、友人の車でいつもの百済寺町公民館まで送ってもらうことにした。

これだと前日自宅でぐっすり眠ることができるので、多少朝が早いとしてもとても楽に百済寺町公民館に着くことができる。やっぱりこの歳でのこれまで二回の夜行バスはきつかったなと、改めて思った。

 

今日は心待ちにしていた稲刈りである。

今年は例年になく気候が異常で、大雨や台風や酷暑などが続いたために稲の状態が心配ではあったけれど、成長しているであろう稲の光景が見られるかと思うと、一刻も早く稲を見たい気持ちで気が逸った。全員が集合した後、早速私たちが田植えをした田んぼまで歩いて行くことにする。

稲刈りを待つ私たちの田

玉栄という品種の私たちの稲は、先日の台風の影響も受けず、見事に成長して大粒の実をつけてくれていた。茎や葉が黄金色に色づき、収穫を待っている様子がありありと見て取れる。

私たちは稲刈り用の鎌を渡され、サポートをしてくれている農家の方から稲刈りの仕方を教えていただいた。

左手で稲の上の方をしっかりと掴んで、右手に持った稲刈り用の鎌で根元の部分に力を込めて一気に引くと、稲は見事に切り離された。農家の方はとても簡単そうにやられているけれど、私たちがやった場合に果たしてあんなにうまく、あんなに簡単にできるだろうか?

何事も、初めてやることには不安が付きまとう。

さらに農家の方は、刈り取った稲の何株分かを束ねて、藁紐で括っていく作業も実演して見せてくれた。しっかり括らないと稲がばらばらになってしまうので、これも力が要る難しい作業のように思われた。

説明はほどほどにして、早速、稲刈りが始まる。

 

 

 

 

たわわに実る稲

比嘉さんから渡された鎌の刃にはギザギザが付いていて、鎌を引いた時に稲をより刈り取りやすいようにできていた。

子供の頃、自宅の庭の草刈りで手にしたことがある鎌には、ギザギザは付いていなかったと思う。稲刈り用との違いなのか、それとも昔の時代のことだったからなのかは、よくわからない。

いよいよ稲を刈ることになるのだが、今回私は手抜きをして長靴を持ってこなかったために、田の中に入るのを少しの間躊躇った。収穫の時期なのでもっと完全に水が抜かれているものと勝手に都合よく想像していたのだが、実際にはまだ田には結構水が残っていて、土もかなりぬかるんでいたのだった。

他のメンバーのみなさんはちゃんと長靴を用意されていたので、躊躇なく田の中に入っている。

私の場合は遠くから来ているので、少しでも荷物を少なくしたいとの思いもあって、今回は苦渋の選択で田植え用長靴を持ち物から外したのだったが、やっぱり長靴は持ってくるべきだったと反省した。

と思ってもすでに手遅れである。意を決して、なるべく水に浸らないように気をつけながら、恐る恐る田の中に入ってみる。滅多に入らないからだろうか、田に入る時にはいつも緊張感が伴う。

まずは左足を畦道から田の土の上にそっと降ろす。次にバランスを取りながら右足を続ける。自分の体重によりずぶりと土の中に足がめり込んだけれど、幸いにして靴の中にまでは水が入らずに済んで、ホッと胸を撫で下ろす。

早速、稲を刈ってみた。まずは一番手前にある稲の数株を左手に取り、根元の部分に釜の刃を入れて手前に引いてみる。思っていたよりも簡単に稲の束が根元から分離され、後の土には切り株が残った。稲刈りの作業がそれほど難しい作業ではないことに安堵する。

刈り取った稲の束を畦道に置き、次の株に取り掛かる。同じように、思ったよりもスムーズに刈ることができた。この調子だ。

同じ作業を3回ほど繰り返した後、畦道に置かれた刈り取った稲の束を藁紐で束ねる作業に移る。

稲の束が少し太すぎたようで、なかなかひと束にできない。やっとのことで稲の束の裏側にまで藁紐を回して、力を込めて縛り上げることができた。

稲を刈る方はそれほどの力は要らないけれど、こちらはなかなか力が要る作業だった。

稲を刈り始めてすぐに、腰が痛くなった。田植えの時もそうだったけれど、田んぼの作業はどうしても腰を屈めて行う作業が多くなってしまう。普段からこういう姿勢での作業には慣れていないし、最近は特に体調を壊して運動不足でもあったから、情けないことだがすぐに腰が痛くなってしまった。

一度腰が痛くなると、回復させることは難しい。私の稲刈りの作業は、いきなり腰との戦いの様相を呈することになった。

時折思い切り身体を後ろにそらして伸びをしたり、刈り取った稲を束ねる時には完全に腰を降ろしてしゃがんだ状態で束ねたり、少しでも腰の緊張が持続しないように工夫をしながら、刈り取りと刈り取った稲を束ねる作業とを交互に進めていった。

隣の、稲刈りを手伝いに来ている女子大生の動きが私に比べて俊敏に見えたのは気のせいだろうか?改めて農作業が年配の人間には重労働であることを実感する。

今日は雨が心配された微妙な天気だったけれど、稲刈りが進むにつれて次第に空の一部に青い部分が見え始めてきて、どうやら雨の心配はなくなったようだった。

百済寺町公民館から琵琶湖の湖水が見えるようになると雨が上がるのだそうだが、先程公民館から僅かだが琵琶湖の湖面が見えていた。なるほどその通りになったと思って感心した。

腰の痛みはあったものの、稲刈り自体は順調に進んでいき、私自身も大いに楽しむことができた。夏に生育状況の視察をした後で体調を崩してしまったため、もしかしたら稲刈りに来ることができないかもしれないと思っていただけに、無事に稲刈りに参加することができたことをうれしく思いながら稲を刈った。

春先にはあんなに細くて弱々しげに見えた稲の苗が、僅か半年ちょっとでこんなにもたわわに稲穂を実らして、太く逞しく成長してくれたことに驚くとともに、一日も欠かさず手間をかけて稲を守り続けてくださった農家の方たちに感謝の思いを強くした。稲の苗は、自分たちだけで勝手に成長することはけっしてない。

皆が刈り取った稲の束がみるみるうちに畔に積み上がっていく。

畦道の脇に長い木の棒が何本も置かれていたのが気になっていたのだが、ある程度稲の束が積み上がってくると、農家の方たちがその長い木の棒を地面に突き立て始めた。それに横の棒を交差させて藁で括ると、あっという間に稲の束を掛けておく棚に早変わりした。稲刈りの後に田んぼでよく見かける光景が忽然と目の前に現れた感じだ。

刈り取られた稲

そして、刈り取られたばかりの稲の束が次々と掛けられていく。

私はそんな光景を尻目に見ながら、ただ黙々と稲を刈り、刈った稲を束ねては畦道に運ぶ作業を繰り返していた。

腰はすでに限界に達していたけれど、騙しだまししながら作業を続けた。

いつの間にか青空が支配する天気に変わり気温も上昇して、快い汗が額を流れる。

稲を刈り取る時の勢いで、首から掛けていたカメラに泥が飛び散っていた。レンズにだけ気をつければ、外側の汚れは後で拭いて取り去ることができるだろう。そう思っていたから、カメラが汚れることは気にしなかった。と言うよりも、気にするほどの余裕がなかったと言った方がより正確な表現かもしれない。

しかし、手も指も泥だらけになっていたため、自分が稲を刈っている姿を自分のカメラに収めることはできなかった。

どれくらいの時間が経っただろうか?そろそろ上がって記念写真を撮りましょうか、という比嘉さんの神の声が聞こえた。

稲刈りと言っても広い田んぼ全面の稲を手で刈り取るわけではなくて、稲刈り体験というか、予め定められた時間内でできるところまで手で刈って、刈り残した稲は後から機械で刈り取っていくことが最初から決まっていたのだと思う。

刈り取った稲の束が掛けられている畦道に集合して、田を背景にみんなで記念写真を撮った。

生まれて初めての田植えをして、生まれて初めての稲刈りもして、今年は本当に想い出に残る一年になった。

 

しばらく休んでいたところへ比嘉さんから、もう一段上の田に集合の号令が出された。稲刈りは終わったと思っていたのに、もう一回稲刈りをしなければならないのだろうか?一瞬だが緩みきっていた心に緊張が走った。

上の田に行ってみると、比嘉さんからの説明は稲を刈るのではなくて、稲の間に自生している粟などの雑穀を刈ってほしいとのことだった。

言われるまでは気付かなかったけれど、田の中をよく見てみると、田一面を覆っている稲の中に、稲より少し背が高く淡い緑色をした別の植物が点在していることがわかった。それが、粟なのだそうだ。

どうして稲の中に粟が生えているのか?と不思議に思った。この粟は人が栽培しているものではなくて、自生しているもののようだ。粟も植物だから花を咲かせて実を付ける。その実が田んぼの土に落ちて年を越す。そして次の年に稲とともに成長して実を付けるということになるのだそうだ。

今の段階で刈り取ってしまえば、実が土に落ちることがなくなるので、翌年は生えてくることがない。

稲が取る養分を粟が取ってしまうと稲の成長が悪くなるので、稲にとって粟はよくない植物になるらしい。これで来年は、稲が一段と元気に成長するだろうとのことだった。

比嘉さんは、私たちの労働力を利用して、この粟の一掃作戦を考案したらしい。

私たちは私たちで、稲刈りとはまた違った趣で、楽しみながら粟を刈っていったので、比嘉さんの作戦にうまく乗せられた感じである。

今日の稲刈りには朝日新聞の記者さんが取材に来られていた。ちょうど粟の刈り取りをしている時に、畦道にいた比嘉さんから呼ばれた。何でも、記者さんからのリクエストで、一番遠くから参加している人にインタビューをしたいとのことで、私が呼ばれたものだった。

私は記者さんに問われるままに、百済寺樽のオーナーに応募した経緯について話し、今日の感想などを伝えた。記者さんは簡潔にまとめられて、私の名前とともに記事で紹介してくださった。

きれいに粟も刈り取ることができて、私たちは颯爽と歩いて百済寺公民館まで戻った。労働した後のお昼ごはんはとてもおいしい。充実した一日を実感しながら、寛いだ気持ちで午後の作業が始まるのを待った。

 

身体を動かしてお腹も満腹になって、今、「寛いだ気持ちで」と書いたばかりなのだが、実は私には一つだけ、心からは寛げない理由があった。

それは午後に予定されている作業と関連していた。

午後には、お猪口の絵付けが予定されていたのだ。

来年1月の新酒お披露目会の時に、自分が絵付けをしたお猪口で新酒を飲むというのは、とても魅力的なことだと思った。さすがはアイデアウーマンの比嘉さんだと感心した。

去年は藁を使って草鞋づくりをしたと聞いている。滅多に経験できることではないから草履作りも悪くはないけれど、酒飲みたちにとっては、自分が制作に関わったお猪口で新酒を飲めるなんて、その光景を想像しただけでも垂涎ものだ。

ところが私には一つだけ、大きな問題があった。

それは、私の絵ごころの無さである。

自慢ではないが、私の絵ごころはまったくないと言っても少しも大袈裟ではない。小学校以来、図工や美術の成績は一貫して5段階中の3評価だった。2や1にならなかったのは、偏に図工や美術の先生のお情けの賜であった。

前回の写仏の時にも一瞬肝を冷やしたけれど、これは紙の上から筆ペンでなぞるだけでよかったので、なんとか誤魔化すことができた。しかし今回はお猪口への絵付けである。もう逃れようがない窮地に、私は一気に追い詰められたような気持ちだった。

時間になり、今日の講師をされる地元八日市市の工芸家である中野亘さんの説明が始まる。

中野さんは、京焼の八代目高橋道八氏に師事して陶芸を学ぶ傍らで、南米ペルーでプレインカの研究に取り組むなど、ユニークな創作活動を行っている陶芸家だ。昭和60年(1985)に東近江市に工房を設立し、「土の息吹を感じとりながら、土の造形と土の音が織りなす響きに独自の世界を見出して」*いるという情熱的な陶芸作家さんであった。

今日の作業は、中野さんが下薬を塗って焼かれたお猪口に、紅殻の塗料で上絵を書き付けていくという作業になるらしい。

一人一人に手渡されたお猪口は中野さんの作品で、縁の一部に変化がつけられていて、デザイン的にもおもしろいし、実用的にも飲みやすいお猪口だと思った。

下薬を塗っただけの「真っ白」なお猪口にどのような絵を入れていくのか?と言われても、頭の中には何も思い浮かばなかった。自分の絵ごころのなさを改めて痛感した。

何か文章を書いてみろと言われれば、何らかの文章を書くことはできる。でも、何でもいいから絵を描いてみろと言われても、私は何も描くことができない。

予め配られた白紙の紙と鉛筆が長い間テーブルの上に置かれたままだった。

周りの人たちを見渡すと、それぞれの思いを具象化するべく、紙の上を鉛筆が忙しそうに動いている。携帯を取り出して、何かいい絵柄やデザインがないかとカンニングを試みたけれど、それもいいアイデアが出てこない。

ほとんどお手上げ状態だった。

最後には、全面を塗り潰すという奥の手が残っていたけれど、それは最後の手段として取っておいて、できる限りは頑張ろうと思った。

その時に僅かに頭に浮かんだのが、家紋だった。

我が家の家紋は丸に橘で、それは江戸時代の当地の藩主であった井伊家の家紋と同じであった。私と当地との共通項である丸に橘の家紋を描けたら記念になるのではないかと思ったのだ。

ところが、いざ描こうとしてみるとなかなかに難しい。今まで一度も描いたことがなければ、描こうと思ったこともなかった図柄であった。

橘の花は、バランスが非常に難しい。それは裏返して言えば、それだけ洗練されたデザインであるということだと思った。

下書きで四苦八苦しているところに先生が通りかかって、悪魔の囁きをする。

「なかなかいいじゃないですか。いや、大変にすばらしい!」

そんなはずはない。先生、少し褒めすぎではないですか?と心の中で呟いた。

「焼き物の絵は、あまり上手過ぎない方が、かえって趣のあるいいものになるのですよ!」なるほど、そういうことか。

先生は暗に私の絵は上手くないということを言ったうえで、そう言って私のことを勇気づけてくれていたのだ。下手な人でもその気にさせる、なかなかすばらしい先生を比嘉さんは連れてきてくれたと思った。私は心の中で比嘉さんと先生に感謝した。

最悪の場合、失敗したら塗料を水で洗い流せばゼロクリアーでやり直すことができると聞いて、私の決意は固まった。

それに、失敗しても、それもまた後から思えば楽しい思い出になる。

塗料は、近江で民家の建物などに特徴的に使用されている紅殻という鮮やかな赤色の塗料だった。とても上品な色合いで、私の好きな色の一つである。

絵筆に紅殻の塗料を含ませて、慎重にお猪口の内側に最初の赤を入れる。緊張の瞬間だ。そこから、お猪口の縁に沿って線を伸ばしていくと、やがて最初に書き入れた線のところに戻ってきて、不恰好だが丸い円になった。

丸に橘の、丸の部分の最初の原型ができたことになる。手書きなので、あまり厳格な円形には拘らなかった。と書くと立派に聞こえるけれど、実際は厳格な円形などとても描くことができない。

歪(いびつ)な一本の細い円がお猪口の内側に描かれた。その線を、なるべく均一な太さとなるように注意しながら、少しずつ太くしていくと、やがて家紋の外枠となる円が完成する。

次はいよいよ、中の橘を描くことになる。

橘の花は普段から描き慣れていないとかなり難しい。案の定、もっと丸みを帯びてふくよかな形に描かなければならなかったところが、妙に痩せた橘の花になってしまった。

しかし一度描いてしまった痩せた橘を今さら太らせることはできない。

下手な絵ほど趣きがあるとの先生の言葉を信じて、このまま痩せた橘で貫き通すことにした。

周りの人たちを見てみると、みなさんまだ熱心に絵を描き続けている。私のようにいい加減な人間は、特に絵にはほとんど何の執着もないものだから、下手な絵でもとにかく一度描き終えたらもうそれっきりで修正などしない。

今日は地元のテレビ局の取材の方も来ていてとにかく恥ずかしいので、この私にとっては拷問のような時間が早く終わってくれることばかりを祈っていた。

出来上がったみんなのお猪口を窓際の棚に並べて写真を撮った。

絵入れ後のお猪口

私のお猪口がダントツで下手だけれど、たくさんのお猪口に紛れて、悪い意味での存在感が薄まってくれて助かった。遠くから眺めると、拙い絵が目立たなくなって、それなりに全体のなかでは調和しているようにも感じられた。

このお猪口は、一旦は先生が持ち帰られて仕上げの焼きを入れられて、1月の新酒お披露目会の時に各々そのお猪口で新酒を飲むことができるようにしてくれるとのことだった。

私の場合、新酒の味を悪くするような出来映えのお猪口ではあるけれど、それはそれで楽しみでもある。とにかく、悪夢のような時間が終わって、心からホッとした。

 

稲刈りの会はここで終わりとなり、私のほか何人かは車で近江八幡の駅まで送っていただいた。

途中、東近江市内にある道の駅である、あいとうマーガレットステーションに立ち寄ってもらって名物のジェラートを食べた。

2種類のジェラートが選べて350円という価格はとても安いと思った。しかもメニューを見てみると、しぼりたて牛乳、あいとう梨、かぼちゃパイ、オクラ、豆乳、マーブルチョコ、はちみつシナモン、赤ワイン、カスタードプリン、まいたけなど、地元の野菜や名産品などを使った、ジェラートメニューとしては聞いたこともないようなユニークで楽しいメニューがたくさん並んでいた。

私は散々迷った揚げ句に、ワインと抹茶の2種類を選択した。比較的おとなしいメニューになってしまったのは、初めて食べるのにさすがにオクラやまいたけを注文する勇気がなかったからだった。

コーンに山盛りにシャーベットを盛り付けてくれたので、店の外に出て記念に写真を撮った。そこまではよかったのだが、写真を撮っている間にポタポタとシャーベットが溶け始めて、収拾がつかない状態に陥ってしまった。

周囲を見ると、仲間の人たちも皆同じ状況で、まぁ大の大人がポタポタポタポタと大粒のジェラートの雫を地面に落としながら必死に食べている様は、何ともおかしくて心から笑ってしまった。

ボリュームたっぷりジェラート

 

そういうことなので、正直言ってジェラートの味を味わうような心の余裕はまったくなかった。とにかく一刻も早く、少しでも垂らさずにジェラートを食べきることに全精力を傾けてジェラートと格闘をした。

無事に食べ終えて地面を見ると、各々がこぼしたジェラートの雫が汚く地面を汚していた。

手もベタベタで、そのまま洗面所に駆け込んで手を洗った。

最後はとんだハプニングとなってしまったけれど、それもこれも、マーガレットステーションのジェラートのボリュームが多かったがためのハプニングであり、ある意味うれしいハプニングであった。

こうしてすっかり百済寺での一日を楽しんだ私たちは、次回の再会を約して、近江八幡の駅で別れた。

次はいよいよ、待ちに待った1月の新酒お披露目会である。

 

* 「中野亘陶展」の案内ハガキから転記