百済寺樽 2

百済寺樽

それから440余年の星霜が過ぎていった。

平成29年(2017)のことである。失われた百済寺樽を復活させたい。一人の女性が立ち上がった。比嘉彩夏さんである。

 私は比嘉さんのことをよくは知らない。

比嘉さんのことを知ったのは、クラウドファンディングのホームページにおいてであった。

何気なくインターネットの画面を見ていたら、「百済寺樽」という言葉が私の目を引いた。

百済寺は、秋になると毎年訪れている紅葉が美しい寺である。その百済寺の樽とは何だろうか?よくよく読み進んでいくと、織田信長の焼き討ちにより壊滅的被害を受けた百済寺でかつて造っていた日本酒を復活させるプロジェクトだという。

酒米の栽培から始め、昔の技法を復元させて当時と同じ味の日本酒を醸造したいという比嘉さんの気持ちに感動した。

少しでもお役に立てればと思い、私は即座に活動資金を送金した。正直に言うならば、役に立ちたいという気持ちは嘘ではないが、それよりも返礼品として送っていただける百済寺樽を飲んでみたかったというのが偽らざる気持ちであった。

資金を送金して暫くしてから、比嘉さんからの手紙が届いた。クラウドファンディングへの出資のお礼の手紙だった。

驚いたことに、印刷された手紙ではなく直筆だった。

私が出資した別のクラウドファンディングでは、約束された返礼品でさえなかなか送られてこなくて、こちらから督促してやっと送られてきたといった事例もあった。

それは極端にひどかった例であるけれど、そこまでいかなくても、お礼状は印刷されたものが普通である。

百済寺樽に出資した人は私の他にも何十人といたはずなのに、一人一人に直筆でお礼状を書いてくれる比嘉さんとはいったいどんな方なのだろうか?

比嘉さんはその後も、節目節目で稲の生育状況などをホームページでレポートしてくれた。そしていよいよ平成30年1月に見事に百済寺樽が完成した。

実際に百済寺樽が送られてくる前に、インターネットのニュースで百済寺樽の完成を知った私は、比嘉さんにお祝いのメッセージを送った。丁寧な返信がすぐに返ってきたことは言うまでもない。

それから少しして、百済寺樽の四合瓶2本が送られてきた。

私は逸る気持ちをぐっと抑え、そのうちの1本を冷蔵庫で数日間しっかりと冷やした。そして満を持して百済寺樽の封を切った。

透明でやや粘り気のある液体が口の中でふくよかな香りを伴いながら拡がっていった。最初に舌先に強いインパクトを残しながら、次第に口中に沁み渡っていく深い味わいを私は心地よい気持ちで味わった。

飲み干した後に幽かに残る爽やかな余韻。想像していた以上に旨い酒だった。

日本酒の味わいは千差万別であり、旨いかそうでないかは最終的には個人の好みの問題に属するものである。

キリリとした辛口を好む人もいれば濃厚で芳醇な味を好む人もいる。だからこれはあくまで私個人の感想であり、私の好みに合っているかどうかということなのだけれど、一言で言えば百済寺樽の味は私の好みにかなり合っている。

正直言って、ここまで旨い酒になるとは思っていなかった(比嘉さん、失礼!)。

しっかりとした味を持ちながらすっきりとしていて後味がよく、そして雑味がない。と書いたところで、酒の味を言葉で表現することは難しい。いくら言葉で表したところで、「百聞は一飲に如かず」である。

先に私は、昔の技法を復元させて当時と同じ味の日本酒を醸造すると書いたけれど、厳密に言うと、昔の技法のままに百済寺樽を復活させたわけではない。遺された文献などを研究して昔の技法を研究したうえで、現代の最新の技法を加味して平成の百済寺樽を復活させたと書いた方がより正確な表現になるだろうと思う。

比嘉さんたちは、地元の喜多酒造の協力を得ながら復活させる百済寺樽の味についての検討会を何度も重ねた。こうして出来上がったのが、百済寺樽なのである。

実際に飲んでみないことには百済寺樽の旨さを理解すること能わずであるのだが、残念ながら平成29年度の百済寺樽は、平成30年2月10日に地元東近江市内にある道の駅「あいとうマーガレットステーション」で販売されたものの、僅か30分で完売してしまったという。

四合瓶で1,250円、一升瓶で2,500円という値段も、破格の安さであると言わざるを得ない。

 

封を切った四合瓶がすぐに空になってしまったことは言うまでもない。しかしその後私は、もう1本残された四合瓶に手を付けることがどうしてもできないでいる。

復活最初の年であり、どんな酒ができるかもわからなかったし、果たして売れるかどうかも予測できないなかで、いきなり大量の酒を造ることには大きなリスクがあった。

だから初年度は、一升瓶に換算して1,600本分の分量しか造らなかったのだという。

それはそうだろう。まずは440年余も途絶えていた百済寺樽を復活させることに意義があるのであり、増産はその次の課題となる。

従って、来年になり百済寺樽の新酒が出来上がるまでは、私たちは百済寺樽を口にすることができない。私が2本目の瓶の封を切ることを躊躇する理由である。

 

そうこうしているうちに、再び比嘉さんからWebサイトを通じてメッセージが届いたのは、平成30年4月10日のことだった。

今年の百済寺樽プロジェクトをスタートさせるので、オーナーとして参加しないかとのお誘いのメッセージだった。

オーナーとなるためには3万円の出資金が必要になる。その代わりに、5月の田植え、7月の草取り、10月の稲刈り、そして翌年1月の新酒披露の4回、百済寺樽の製造過程に参加することができるのだそうだ。

横浜に住んでいる私にとって、百済寺はかなり遠い。

純粋な距離の問題だけではなくて、百済寺の最寄り駅から百済寺まで行くための交通手段がほとんどないことが、私が躊躇した真の理由だった。

百済寺へはほぼ毎年、紅葉を見るために赴いているので、周囲の交通事情については手に取るようにわかっていた。秋の季節は湖東三山巡りのシャトルバスがJR彦根駅などから出ているのでまだいいのだが、紅葉シーズン以外となるとバスも1日にほんの数本しかなくてアクセスが非常に難しくなる。

決め手となったのは、名神高速バスで京都や名古屋から1時間のところにある「百済寺」のバス停から徒歩20分で行けるという情報だった。

高速道路を走る路線バスというものにこれまで乗ったことがなかったけれど、名古屋からバスで1時間ほどで行けるのなら何とかなるかもしれない。

私はすぐに応募フォームに必要事項を記載し3万円を送金し、参加の申し込みをした。こうして、私は復活2年目の百済寺樽プロジェクトにオーナーとして参加することになったのだった。