Ⅱ. 江戸編 1. 彦根藩上屋敷跡(憲政記念館)

ある日の私は、国会議事堂にすぐ隣接している小高い丘を散策していた。深い緑に囲まれた広大な敷地は起伏に富み、鳥たちの囀りが心を和ませてくれる。眼下を見渡すと、深い緑色の水を満々とたたえた濠の向こう側に、江戸城がすぐ間近に見える。

この辺りから眺める江戸城の姿が一番うつくしい、と私は思う。緩やかに湾曲した緑の土手が濠から競り上がり、その上に低いが堅固な石垣が垂直に屹立している。俗に「鉢巻土居」と呼ばれる江戸城に固有の築城法だ。土手の上に石垣が鉢巻を巻くように配置されている。

そしてその向こう側に白を基調とした江戸城の城門が窺える。緑の背景の中で城門の白さが一段と際立って見える。なんと雄大で平和な光景だろうか。私は時間の流れを忘れて、暫しの間その場に立ち尽くす。

もしも歴史の知識が何もなければ、私の心はこの長閑で美しい景色を満喫できただろうと思う。しかしどうしても私は、心を穏やかにしてこの小高い丘から江戸城の景色を眺めることはできない。

clip_image004 憲政記念館から桜田門を望む

なぜならば、今私が立っている場所こそが、井伊直弼が主(あるじ)であった彦根藩上屋敷の跡であり、向こうに見える白い門こそが、桜田門であるからだ。

距離にしたらおそらく500mくらいの距離であると思う。こうして目の当たりにしてみると、ほんの目と鼻の先の距離であることがよくわかる。万延元年(1860年)3月3日の朝、ここから500mの地点で、あの事件は起こったのだった。

そんな150年前のことを知ってか知らずか、今では憲政記念館と国会前庭洋式庭園として整備され一般公開されているこの広大な公園で、幾組ものカップルや家族連れが休日の昼下がりの時間を満喫している。

憲政記念館は、議会開設80年を記念して昭和47年(1972年)に開館したもので、議会制民主主義の歴史をつぶさに学ぶことができる。館内には憲政の神様として知られる尾崎行雄氏の業績を称えた尾崎メモリアルホールが併設されている。

clip_image002憲政記念館

尾崎行雄と言えば、若い頃に「人生の本舞台は、常に将来に在り」という言葉に感銘を受けた。すなわち、

人間は、齢を重ねれば重ねるほど、その前途がますます多望なるべき筈のものだとい

うのが、私の最近の人生観である。

人間にとっては、知識と経験ほど尊いものはないが、この二つのものは年毎に増加し、

その直前が二つ共最も多量に蓄積された時期である。故に適当にこれを利用すれば、人

間は、死ぬ前が、最も偉大な事業、または思想を起こし得べき時期であるに相違ない。

若い頃は我が眼前に広大な「本舞台」が存していたが、あれから25年ほどが経過した今となっては、「本舞台」の余地は極めて限定的に狭められてしまっている。しかしだからと言って諦めることなく、放り出すことなく、これまでに得た知識と経験とを駆使して自分なりの足跡を残したい。

尾崎行雄のこの言葉は、むしろ今の方がありがたくわが心に沁みわたる。

国会議事堂前庭洋式庭園には、小さなローマ神殿風の不思議な建物が存在する。周囲の自然のなかで異彩を放つというか、そこだけ独特の雰囲気を作り上げている。これは、日本水準原点である。日本国内各地に存在する水準点の原点がここにあるのだ。

clip_image006 日本水準原点

水準点とは、土地の標高を決める基になるもので、この建物の中に据えられている水晶版の目盛りの標高は、24.4140mを示しているという。井伊の殿様の屋敷内に、奇妙なものが設置されてしまったものだ。

公園内のどこを歩いても、今は井伊家の上屋敷の痕跡を残すものは見当たらない。周囲の道端にひっそりと建つ「井伊掃部頭邸跡」と標された標柱以外には、ここで直弼が生きた証を見ることはできなかった。

古くはこの地は、大田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかくふじの高根を軒端にぞ見る」と詠んだ松原の一角に連なっていた土地であり、江戸幕府開府の頃には加藤清正の屋敷があった土地とも言われている。

そういう風光明媚で要衝の地に、井伊家の上屋敷があったということに、私は江戸幕府における井伊家の位置づけの重要性を思う。このことは、次の項(彦根藩中屋敷跡)でも触れることになるだろうと思う。

余談だが、安政の大地震(安政2年(1855年)10月2日)が江戸の街を襲った際、元々江戸城築城時の埋立地であった丸の内や八重洲、日比谷辺りの大名屋敷では百人を上回る多数の死亡者が出るなどの甚大な被害が発生したそうだが、麹町台地の強固な岩盤の上に建つ彦根藩上屋敷では、門や塀は崩れたものの死者はおろか怪我人もなく、被害は些少であったそうだ。

それにしても、ここから桜田門までは、本当に近い距離である。どうしてこんな近距離にもかかわらず、直弼の家臣たちは直弼を守ることができなかったのか?私の疑問はますます強まってきた。このことについては、別の項(桜田門)で考えてみたい。