井伊直弼生誕200年によせて

日米修好通商条約締結

 

直弼が大老就任と同時に直面したもう一つの大問題が、日米修好通商条約の締結問題である。

アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが領事館のある下田から江戸に上って、欧米列強による武力行使の危険性を交渉材料にして幕府に強い圧力をかけていた。

井伊直弼1

ハリスが滞在し条約交渉を行った蕃書調所跡(九段下)

 

この時の幕府内の空気は、多少の温度差はあったものの、意外なことにほとんどが開国派だった。

正しい情報を得て正しい判断をすれば、武力的な実力のない当時の日本が欧米列強を相手に攘夷を実行することなど自殺行為に等しいということは、容易に判断可能だったのではなかろうか。

もちろん、開国派と言ってもその主張には濃淡がある。

積極的に国を開いて海外との貿易により国力を富ませるという積極開国派から、本心は攘夷なのだが実力のない今は徒らに諸外国と戦わずに彼らの要求を受け入れて開国し富と実力を身に付けた段階で再び鎖国を断行するという消極的開国派まで、様々な意見が交錯したが、大きな意味では開国容認の空気が流れていた。

一方で、水戸藩の徳川斉昭や外様大名の薩摩藩や長州藩、それに朝廷などが強硬な攘夷を主張していた。

ちょうど幕府権力の中央部が開国派で、その外側を攘夷派が取り囲んでいたような絵柄が連想される。

直弼は、条件付きの開国派だった。

現在の彼我の戦力を比較したら、開国はやむを得ないことである。開国した後、貿易により国力を養ったら、今度は十分な武力を背景にして改めて鎖国を行えばよい。

しかも開国に当たっては、朝廷の勅許が必要であると考えていた。

世の中の通説となっている、直弼は朝廷の許しを得ずに独断で開国を断行したというのは、誤った理解である。

結果的に直弼の真意に反して勅許のないままに日米修好通商条約が締結されてしまった後、直弼は敢えて自らを正当化するような言い訳を一切しなかったので、条約締結に反対していた人たちの憎悪を一身に引き受けてしまった結果が、そのような間違った理解を生んだ原因となったのであろう。

その間の事情はこれからおいおい書いていくことになる。

そもそも、安政5年(1858)3月に条約締結の勅許を得るために老中堀田正睦(まさよし)と目付岩瀬忠震(ただなり)が孝明天皇の許に伺候した際、天皇から幕府に下した勅諚の内容は何だったのか?

実はこのとき、孝明天皇は開国するなとは言っていないのである。孝明天皇は、広く全国の大名たちと衆議を尽くしたうえで再度奏聞するよう幕府に命じたのが真相である。

もちろん、孝明天皇は大の外国人嫌いだったから本心は攘夷だったのだろうが、それよりも何よりも、日本の国の将来を左右するような大きな政治的決断を自分がさせられることに耐えられなかったのではないだろうか。

NOとは言わずに再度衆議を尽くせと言われた天皇の言葉には、迷いが感じられる。

一歩間違えば後世の歴史家から国を滅ぼした暗君と評されてしまうことを怖れ、自らは判断を下さなかったというのが、実際のところだったのかもしれない。

ハリスからの強いプレッシャーを受け続けた交渉役の岩瀬忠震と井上清直は、江戸城で直弼らに迫る。

あくまでも勅許を得てから条約を締結するべきだと主張する直弼に対し、どうしても止むを得ない時には勅許なしで締結していいか?と決断を迫る。

その場合は(締結しても)仕方がないが出来る限り尽力せよ、と答えた直弼の言葉尻を捉え、岩瀬忠震と井上清直は即座にハリスとの条約交渉に臨み、碌な交渉もしないでその日のうちにさっさと条約を締結してしまった。

完全な確信犯である。

この事実を知らされた直弼は、岩瀬忠震と井上清直らに謀られたと思ったことだろう。

この後に取った直弼の行動についても、これまでの通説は真実を伝えていない。

これまでの通説は、それならば仕方がない、罪は一身に私が負うことにしようと直弼が述べて、勅許なしでの条約締結についての一切の責任を背負ったということになっている。

実に男気のある直弼像である。

この逸話があったから、後世の人々は直弼が勅許なしで条約締結を強行した張本人であることを信じて疑わなかった。

この話は、井伊家の公式記録である『公用方秘録』に記述されている。

明治維新になって、写本が井伊家から明治政府に献上されている。原本は失われており現存しない。

ところが近年、現存する『公用方秘録』の写本の一部が改竄されたものであることが、直弼研究をしている学者の指摘で明らかになったのだ。

原本から直接写した写本が彦根藩家老の木俣家に遺されていた。

驚いたことに、この木俣家の写本にはこの時の様子が別のストーリーで書かれているではないか。

井伊直弼2彦根藩上屋敷跡

 

この日(安政5年6月19日)、藩邸に帰った直弼は大いにしょげ返ってその日にあった出来事を家臣の宇津木六之氶に語った。

直弼の話を聞き終えた六之氶は直弼に対し、どうして諸大名を集めて意見を問わなかったのかと、直弼が行った意思決定手続きの不備を責めた。先に書いたように、孝明天皇からの勅諚は、諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよということだった。

六之氶にそう言われて直弼は、腹を立てるどころか素直に頷いて、たしかに諸大名を集めて意見を問わなかったことは私の落ち度であった。どうしてそのことに思いが至らなかったのか、と我が行動を悔いた。

宇津木六之氶の指摘は実に正鵠を得ている。

孝明天皇からの指示は、再度諸大名に問うて衆議をまとめることであった。その手続きを経ないで条約を締結してしまったことを、六之氶は指摘したのだった。

家臣に意思決定手続きの不備を指摘されて子供のようにしょげ返る直弼を読者はどう思うだろうか?

カッコわるいと思う人もいるかもしれない。

しかし私は、これこそ人間としての直弼の真の姿なのだと思い、直弼に対する親近感がますます強くなった。

おそらくは、直弼亡き後の井伊家の人たちは、カッコわるいと思ったのだろう。

こんなカッコわるい直弼像を後世の人たちに見せたくないという気持ちが、『公用方秘録』改竄という行為に駆り立てたのではないかと思う。

日米修好通商条約締結を巡る歴史の改竄は、井伊家自らが行ったものであった。

直弼の子孫としては、止むに止まれぬ行為だったのであろう。心情的には、よくわかる。

しかしこの改竄が果たして直弼のためによかったかというと、私はそうは思わない。

将軍継嗣問題や安政の大獄における誤解と相俟って、非情で剛腕政治家という直弼のイメージづくりに利用されてしまった感を拭えないからだ。

この時の話にはさらに続きがあって、六之氶からの指摘を受けた直弼は素直に反省して、このような事態を招いてしまったからには大老職を辞任すると言い出したのだ。

すると六之氶が再び、直弼に諫言する。

今ここで殿が大老を辞されたところで何とします。このような時こそ、大老職に留まって最後まで最善を尽くすのが、殿の役割ではござらんか。

これもまた、正論である。

大老である直弼にこれほどまでの直言を言える六之氶も立派なら、臣下の言を素直に受け入れられる直弼の人物の大きさも賞賛に値する。

このような主君と家臣との一連のやり取りを見ていると、直弼が独裁専横的な君主ではなく、広く合議によって意思決定を行っていた政治のプロセスが理解されると思う。

そして、鉄の心を持った残酷な政治家というイメージの強い直弼が、実は悩みもするし大いに後悔もする生身の人間であったことを知って、ホッとすることだろう。

井伊家の人たちは、そのような直弼の姿をお家の恥辱と感じて『公用方秘録』を改竄したものと考える。

当時支配していた武士道の考え方からすれば、あるいは井伊家の人たちの行った行為は致し方なかったかもしれない。同情の余地は大いにある。

しかし真実をフィクションで塗り替えることは許されないし、今の私たちの感覚で見れば、真実の直弼の姿の方がはるかに人間らしいし好感がもてるものであると思う。

そして、この時の直弼の苦悩に比べたら、日頃の私たちの悩みなんて実に取るに足らないちっぽけなものだと思わざるを得ない。

私は直弼の埋木舎での15年間の耐乏生活から決して諦めてはいけないということを学ぶとともに、この一連の日米修好通商条約締結を巡る出来事から自分の悩みの小ささを知る。まさに私にとって直弼は、人生の師であるのだ。

 

日米修好通商条約が(あくまでも勅許を得てから締結するという)直弼の意に反して締結されたことは、締結から僅か4日後に老中堀田正睦と松平忠固が罷免され、実質的な交渉役だった岩瀬忠震らが後にお役ご免となり蟄居を命じられたことからも、明らかである。

直弼は、彼らに騙され利用されたとの思いを強くもったことであろう。

直弼はああいう性格の人だから、自分のことに対して一切弁解はしない。しかし余程腹の虫が収まらなかったに違いない。彼の誠意を踏み躙った人たちに対しては、厳しい処分で臨んだ。

一方で、勅許なしでの条約締結は攘夷勢力を大いに憤慨させた。

条約締結(安政5年6月19日)から5日後の6月24日、居ても立ってもいられない水戸藩の徳川斉昭は、尾張藩の徳川慶恕(よしくみ)らを伴い、直弼の罪を責めるために江戸城に登城した。

井伊直弼3江戸城(本丸御殿があった辺り)

 

諸大名には江戸城に登城する日が予め定められていて、定められた日以外に登城することは禁じられていた。

この日は斉昭らが登城する日ではなかったので、世に「押しかけ登城」または「不時登城」などと呼ばれている。

条約締結を大いに憤った斉昭らが、直弼に切腹を迫る勢いで登城してきたのだから、たまらない。

しかし役者は直弼の方が一枚も二枚も上だった。

直弼は、江戸城における御三家の控えの間である「大廊下」に一行を待たせたまま、5時間もの間彼らを放置しておいた。その間、昼の時刻になっても昼食も出させなかったという。

すっかり待ちくたびれ、腹も減っては戦にならない。

一行が意気消沈した頃合いを見計らって登場した直弼に対し、もはや斉昭らは何の打撃を加えることもできず、すごすごと江戸城を退出していかざるを得なかった。

それどころか、幕府の掟を破って不時登城した罪を問われ、斉昭は永蟄居、尾張藩の徳川慶恕も隠居・急度慎、一橋慶喜は登城停止と、政治の表舞台からの退場を余儀なくされてしまった。

直弼の完全勝利であった。

もはやそこには、条約締結の日の夜、藩邸で家臣の宇津木六之氶に手続きの不備を指摘されて大老辞任まで思い詰めた弱気の直弼の姿はない。

さらに追い討ちをかけるように水戸藩に覆いかかってきたのが、安政の大獄という暗雲だった。

安政の大獄については、次の章で詳しく書く。ここにおいても直弼は、大いなる誤解を受けていると思うからだ。

直弼により木っ端微塵に打ち砕かれた水戸藩は、もはや直弼を倒すためには非合法な手段に訴えるしか方法がなかった。

桜田門外の変へと突き進む道は、ある意味歴史における必然の道だったのかもしれない。