伊吹山

伊吹山

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湖北地方を歩いているとき、私はこの山のことを意識しなかったことはない。と言うか、意識することなくして、常に我が視界に入ってくるのが、伊吹山であった。

伊吹山は、独特の山容と圧倒的なボリューム感とで、湖北の風景を作り出している。

名著『日本百名山』のなかで、著者の深田久弥さんが唯一滋賀県から選んでいるのがこの伊吹山である。

伊吹山とは、どんな山か?

その生い立ちは、約3億年前に遡ると言われている。信じられないことだが、当時伊吹山がある辺りは海の底だったという。深い海の中で海底火山が噴火した。それが、今の伊吹山の原型となった。

噴火の後、何千万年もの歳月の間に周辺には珊瑚が生い茂っていった。そこへウミユリやフズリナなどの生物が住みついた。海の底に形成された美しい光景が想像される。今は高山植物の宝庫として知られている伊吹山であるが、遥か昔は海の中のお花畑であったのかもしれない。

その後、長い歳月をかけて次第に土地が隆起し、海底の楽園が地上の楽園として趣を変えて蘇った。

伊吹山が海底にあった証拠として、山頂付近からもウミユリやフズリナなどの化石が産出されるという。山全体が石灰岩でできているのも、かつての珊瑚やフズリナなどの生物の繁殖の跡である。

石灰岩質の伊吹山に降った雨は、ミネラルを含んだおいしい水となって山の中腹や麓から湧き出ずる。

山麓にある金明水や、麓の醒ヶ井の町から湧き出る泉などはみな、伊吹山のもたらした自然の恵みと言える。泉の話は後にまたヤマトタケルのところでも触れることになるだろう。

行政区分的には、伊吹山は滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、岐阜県不破郡関ヶ原町の2県3市町にまたがって存在している。

伊吹山ドライブウェイを車で登って行くと、最初は岐阜県なのだが途中で滋賀県に入り、その後何度か岐阜県と滋賀県とを行き来して最終的には滋賀県に落ち着く。カーナビは忙しく県境を越えたことを何度もアナウンスしなければならない。

なお、三角点がある山頂は米原市に属している。

 

3億年という気の遠くなるような歴史を持つ伊吹山だが、それから見ると人類の登場はごく最近の出来事になる。

『古事記』や『日本書紀』、それに『近江国風土記』に登場してくる伊吹山の姿は今からおよそ1300年くらい前の姿であるから、今私たちが見る伊吹山の風景とそれほど異ならないものと思われる。

神話の世界に出てくる登場人物たちが見ていた伊吹山の姿を今私たちが見ているそれとほぼ同様のものと考えてみても、大きな間違いにはならない気がする。

かのヤマトタケルも、今見るような雄々しい姿の伊吹山を眺めたことだろう。

日本の素朴な信仰では、神は山に宿るとされてきた。どのような山にも神は降臨するのだが、とりわけ美しい形をした山、あるいはとりわけ特異な山容の山には特別な神が宿るものと考えられてきた。

奈良県の三輪山を祀る大神(おおみわ)神社には、拝殿があるのみで神殿が存在しない。それは、美しい円錐の形をした三輪山そのものがご神体であるからだ。

「神南備(かむなび)山」という言葉がある。神の鎮座する山という意味である。三輪山はまさに、神が宿る山として古来より多くの人々の篤い信仰を受けてきた山であった。

伊吹山も、その神南備山と称するに相応しい山である。

三輪山のように端正な形をした美しい山ではない。むしろその対極にある荒々しささえ想起させるような、不思議な力を感じさせる山である。

伊吹山を眺めて古来より人々は、無意識のうちに祈りを捧げてきたに違いない。そこには誰もが、神宿る神聖な山として納得する不思議な力の存在を認めざるを得ない。

湖北地方は山岳信仰のメッカの一つと言ってもいいくらい古(いにしえ)より修行僧による山岳修行が盛んに行われてきた地方であり、己高山(こだかみやま)とともに伊吹山に対する信仰は湖北地方における山岳信仰の大きな頂点を形成していた。

かの役(えんの)小角(おづぬ)も伊吹山に登り、弥高寺と太平寺という二つの寺を建立したとされている。伊吹山には役小角建立と言われるこの2寺のほかに、長尾寺、観音護国寺という二つの寺が存在し、伊吹四大護国寺として栄えていた歴史がある。

信仰心をもたない私が眺めても、伊吹山には特別な威力があると思わざるを得ない不思議な何かを持っている。古代の人たちが神の山として憧れ、畏怖し、そして篤い祈りを捧げてきたこともむべなるかな、である。

 

「竹生島」の章で紹介した『近江国風土記』に記述されている伊吹の神の話を思い出したい。

夷服岳(いぶきのたけ)(=伊吹山)には、多々美比古命(たたみひこのみこと)という神が住んでいた。父の名は、霜速比古命(しもはやひこのみこと)である。多々美比古命には須佐志比女命(すさしひめのみこと)という名の姉がいて、久惠(くえ)の峯に住んでいた。また、多々美比古命の姪の淺井比咩(あさゐひめ)は、淺井岳(=金糞岳)に住んでいた。

ある時、夷服岳と淺井岳とが高さを争った。ところが、一夜のうちに淺井岳が高さを増したので、それを怒った夷服岳の神が、淺井比賣(ひめ)(の首)を殺り落としてしまったために、今では伊吹山の方が金糞岳よりも高いのだという。

そして、斬り落とされた淺井比賣の首が江(湖)のなかに落ちて竹生島になったと言うのが、『近江国風土記』が語る夷服岳と淺井比賣の物語の顛末である。

『近江国風土記』では、神の背の高さが山の高さそのものであることが興味深い。神を山そのものとして意識していた当時の人々の思想の一端を窺うことができる。

淺井比賣は、どのようにして山の高さを一夜のうちに高くしたのだろうか?

古代の人たちは、金糞岳(1,317m)よりも伊吹山(1,377m)の方が僅かながら高いということを正確に認識していたことになるから、実に不思議である。

ちなみに、竹生島の標高は197mであるから、夷服岳の神に首を斬られる前の淺井岳(金糞岳)は、少なくとも1,514mはあったことになる。

伊吹山を200m近く高さで凌駕していたとすると、まさに湖北随一の山だったと言うことができるであろう。多々美比古命に首を斬られたために、金糞岳は今では滋賀県で2番目に高い山に順位を落としている。

実際には、伊吹山の周辺を領有する多々美比古命という古代豪族がいて、金糞岳一帯を拠点としていた淺井比賣との間で一族による勢力争いが勃発し、多々美比古命が淺井比賣を殺害して勝利したというのが、真相ではないかと私は思っている。

金糞岳が一夜のうちに高さを増したというのは、短期間の間に淺井比賣が反多々美比古命勢力を駆り集め、武力を以て対抗しようとしたのではないだろうか。

血生臭い一族の争乱を、『近江国風土記』の作者は山の神の争い、しかも高さ比べとして比喩的に描いたのではないかと私は想像している。

いずれにしても、たいへんに興味深い記述である。

『近江国風土記』は、そのほとんどが散逸してしまっていて、今私たちが目にすることができるのは、ごくごく断片でしかない。

そんな現代に遺された僅かな断片に、夷服岳の神と淺井岳の神との逸話が含まれていたことを、私は神に感謝しなければならない。

 

伊吹山を巡る神話がもう一つある。

こちらの神話の方が、むしろ有名だ。それは、『古事記』や『日本書紀』における悲劇の皇子(プリンス)、ヤマトタケルに関する神話である。

『古事記』と『日本書紀』とでは、そもそもヤマトタケルのことを前者は「倭建命」、後者は「日本武尊」と記述するなど微妙に表記や内容が異なっている。ここではまず『古事記』の記述を引用し、後に両者の差異について簡単に触れることにする。

 

故尓して御合(みあひ)して、其の御刀(みはかし)の草那芸釼(くさなぎのたち)を、其の美夜受比売(みやずひめ)の許(もと)に置きて、伊服岐能山(いぶきのやま)の神を取りに幸行(い)でましき。

是(ここ)に詔(の)りたまわく、「茲(こ)の山の神は徒手(むなで)に直(ただ)に取りてなむ」とのりたまひて、其(そ)の山に騰(のぼ)る時に、白猪(しろゐ)山の辺(へ)に逢(あ)へり。其の大きさ牛(うし)の如(ごと)し。尓(しか)して言挙(ことあ)げ為(し)て詔りたまはく、「是(こ)の白猪に化(な)れるは、其の神の使者(つかひ)ぞ。今殺(ころ)さずとも還(かへ)らむ時に殺さむ」とのりたまひて騰(のぼ)り坐(ま)しぬ。是(ここ)に大氷雨(おおひさめ)を零(ふ)らし、倭建命(やまとたけるのみこと)を打ち或(まと)はしつ。此(こ)の白猪に化(な)れるは、其の神の使者(つかひ)に非(あら)ず、其の神の正身(ただみ)に当たれり。言挙(ことあ)げに因(よ)り、或(まと)はさえつるなり。故(かれ)還り下(くだ)り坐(ま)して、玉倉部(たまくらべ)の清泉(しみづ)に到(いた)りて、息(いこ)ひ坐(ま)す時に、御心(みこころ)やくやく寤(さ)めたまふ。故其の清泉に号(なづ)けて居寤(ゐさめ)の清泉(しみづ)と謂(い)ふ。(1)

 

九州の熊曽建(くまそたける)や出雲の出雲建(いずもたける)などの豪族たちを征伐し都に戻ったヤマトタケルは、ひと息つく間もないままに父である景行天皇から東征を命じられた。自分は父から疎まれているのではないか。ヤマトタケルは悲しみを心に抱きながら東国へと旅立っていった。

相武国(さがみのくに)では国造(くにのみやつこ)の奸計により野に火を放たれ、草薙の釼を使って周囲の草を薙ぎ払い危うく難を逃れた。走水(はしりみず)では荒れ狂う海を鎮めるために后である弟橘比売(おとたちばなひめ)命が身を投げて犠牲となった。

度重なる艱難辛苦を克服してヤマトタケルはようやく遠い東国から都近くまで戻ってきた。

関ヶ原を越えて伊吹山を目にしたヤマトタケルは、はるばるとしてきた旅の終息を予感したに違いない。ここまで戻ってくれば、都はもうすぐそこである。

帰心矢の如しと言うが、伊吹の神を平定して一刻も早く都に帰りたい。逸る気持ちがヤマトタケルに油断の気持ちを生じさせたのかもしれない。

ヤマトタケルは草薙の釼を尾張国にて娶った美夜受比売(みやずひめ)の許に預け、素手で伊吹山の神の成敗に向かったのであった。

伊吹山に登り始めると、牛くらいの大きさの大きな白い猪がヤマトタケルの前に現れた。すっかり油断しているヤマトタケルは、「この白い猪は伊吹の神の使者が化けたものであろう。今ここで仕留めなくても帰る時に仕留めれば十分だ。」(先に伊吹の神を成敗してしまえば、その使者にすぎない猪などはヤマトタケルを畏れて手も足も出せないに違いない。)そう言って先を急いだ。

ところがこの白い大きな猪こそが、伊吹の神自身だったのだ。

伊吹の神は激しい氷雨を降らしてヤマトタケルの行く手を阻んだ。深い山中で冷たい雨に打たれたヤマトタケルはすっかり体力を消耗してしまい、それ以上先に進むことができなくなった。

伊吹の神退治を断念したヤマトタケルは、やっとのことで山を降りた。ふらつく足取りでしばらく進むと、玉倉部というところに至った。

そこにはふつふつと湧き出でる泉があった。朦朧とした意識のなかで、清らかな清水を口にしてやっと人心地がついたヤマトタケルは、生きて伊吹山から帰れたことを実感し、心から安堵したことだろう。

以上が『古事記』に基づくヤマトタケルの物語である。

『日本書紀』では、白い猪の代わりに大蛇が登場する。ただし、猪が大蛇に変わっただけで、物語の大筋に変わりはない。敢えて言えば、「玉倉部」という地名は『日本書紀』には出てこない。

このときにヤマトタケルが飲んだとされる清水が、醒ヶ井(滋賀県米原市)にある。(2)今でも清らかな水を満々と湛える清水は「居醒の泉」と呼ばれ、泉の傍らには釼を大きく振り上げたポーズのヤマトタケル像が立っている。醒ヶ井という地名ももちろん、このヤマトタケルのエピソードからくるものである。

『古事記』や『日本書紀』に語られるヤマトタケルの神話は、私たちに何を語りかけているのだろうか?

西征伝や東征伝に描かれているのと同様に、伊吹山一帯を拠点とするこの地の豪族との間で戦いが行われたと見るのが妥当ではないかと私は思っている。ヤマトタケルの旅は、当時まだ全国に点在していた反天皇家勢力を一つ一つ討伐していく旅でもあったからだ。

ヤマトタケルが戦った伊吹山を拠点とする伊服岐能山の神と『近江国風土記』に登場する夷服岳の神である多々美比古命とは、どのような関係があるのだろうか。

興味が尽きない。

そして、大氷雨に打たれて打ち惑わされたということは、ヤマトタケルが伊吹山一帯を支配している一族と戦ったものの打ち勝つことができなかったということを意味しているのだろう。

もっとも、ヤマトタケルは大いに油断していて素手で戦おうとしたのだから、最初から勝ち目はなかったかもしれない。

命からがら逃げ落ちてきて、清らかな清水を見てここまで来ればもう大丈夫と安堵したのが、居醒の清水だったのではないだろうか。

あるいはヤマトタケルは、伊吹の一族との戦いによって傷ついていたかもしれない。その傷を癒したのが、この清らかな泉の水であったとも言えるだろう。

 

あるいはもう一つ、こんな解釈もあり得るのではないか。

ヤマトタケルは人(や神)と戦ったのではなく、伊吹山という厳しい自然に打ち負かされて遭難しかけたという解釈である。

都に帰る旅の途中で伊吹山を見たヤマトタケルは、目の前に雄々しく聳えるこの山に登ってみたくなった。あの頂に立って伊吹山を征服したい。山頂から見降ろす景色はさぞや美しいことだろう。ヤマトタケルの想像力は高まった。

山に登るだけなのだから、もちろん武器は要らない。こんな山などひとたまりもないだろう。

自信に満ちみちたヤマトタケルであったが、いざ登ってみると意外にも道は険しかった。鬱蒼と茂る木々に行く手を阻まれ道を失い、山中を彷徨(さまよ)っているうちに冷たい雨が刺さるように降り注ぎ、そしてヤマトタケルの身体から熱を奪っていった。

もはやこれ以上、上を目指すことは能わない。それどころか、ここに留まっていること自体が死をも意味するだろう。ヤマトタケルは伊吹山の登頂を断念し、やっとの思いで山を降りた。深い霧のなか、朦朧とした意識で歩き続けたヤマトタケルは、前方に湧き出る一条の泉を見た。

泉の畔に辿り着いたヤマトタケルは、両手で澄んだ水をすくいそっと口に含んだ。口の中に拡がる水の甘い味わい。ひと口飲んだだけでヤマトタケルの意識がはっきりと覚醒された。

『古事記』に記されたヤマトタケルの伊吹山に纏わる逸話は、私に様々な想像を抱かせてくれる。

伊吹山の山頂には、右手に剣を持ち左手に剣の鞘を握り直立する風変わりな日本武尊(ヤマトタケル)の石像が安置されている。

これは、明治45年に尾張国御嶽照王教会員の人たちによって寄進された石像で、岐阜県不破郡関ヶ原町の石清が制作し、滋賀県東浅井郡草野村の有志が山頂まで担ぎ上げたものである。大正元年11月21日に開眼供養が執り行われている。

『古事記』に見るヤマトタケルは伊吹山の山頂には至っていないし、草薙の釼も手にしていないので『古事記』の記述とは異なる像だが、伊吹山の山頂で見るヤマトタケルの石像は神秘的だ。

また中腹の4合目の高屋には、「日本武尊遭難の地」として小さな祠が建てられ、木造が安置されている。

伊吹山にはなぜかヤマトタケルがよく似合う。

神秘的な臭いをそこはかとなく漂わせている点において、両者に類似点があるからであろうか。

 

このあたりで神代の時代から時を現代に戻して、伊吹山が見せてくれる自然の美しい表情について見ていくことにしたい。

伊吹山は、花の山として有名である。

伊吹山の山頂付近は、「伊吹山山頂草原植物群落」として平成15年に国の天然記念物に指定されている。

また、「伊吹山地草原植物およびその自生地」として琵琶湖国定公園特別地域滋賀県指定天然記念物にも指定されている。

伊吹山は、約300種の温帯性および亜高山性の草木が群生開花する自然のお花畑になっていて、近畿地方以南では他に例を見ることができない貴重な花の楽園を形成している。

学術上貴重な植物として、ルリトラノオ、コイブキアザミ、イブキコゴメグサ、コバノミミナグサ、イブキレイジンソウ、イブキハタザオ、イブキヒメヤマアザミ、ミヤマコアザミ、イブキタンポポという、伊吹山でしか見ることができない植物が自生している。これらの伊吹山固有種は、地質が石灰岩質で森林が成長しにくいことや、適度な高さがあり高山特有の気候にあることなどから、伊吹山のみで独特の進化・発達を遂げたものと考えられている。

また、キンバイソウ、グンナイフウロ、エゾフウロなどの植物は、伊吹山が北方からの分布の西南限種となっている。これらは、元々氷河期に北極周辺で生息していた植物が、カムチャッカ半島や千島列島などを経由して日本に入り南下した、いわゆる北方系の植物である。気候的限界があるため南下は伊吹山で止まり、それよりも南の地域では見ることができない。エゾフウロなど北海道にちなんだ名前をもつ植物が伊吹山で見られるのは、これらの植物が北方から南下してきたためであることがわかる。

一方で、先程も書いたとおり伊吹山は山全体が石灰岩質であることから、イチョウシダ、キバナハタザオ、ヒメフウロ、クモノスシダ、イワツクバネウツギ、クサボタンなど石灰岩地を好む植物を見ることができる。

さらに、地理的に日本海側にも通ずる場所に位置している伊吹山では、イブキトリカブト、オオカニコウモリ、スミレサイシン、ザゼンソウ、ハクサンカメバヒキオコシ、ミヤマイラクサなどの植物も分布している。

これはまた後に触れることになるけれど、ミヤマトウキ、リンドウ、オオヨモギなど伊吹山は薬草の山としても貴重な資源を私たちに提供してくれている。その数、民間薬草として約230種、局方薬草として19種を数えることができる。

美しいだけでなく、まさに伊吹山は宝の山であることがわかると思う。

伊吹山を望む位置にある関ヶ原は、日本を二分して東軍と西軍とが激突した天下分け目の合戦の舞台となった土地である。ここは、単に交通の要所であっただけではなく、東日本と西日本との自然が交わる接点でもあったのだ。

さらに、位置的には太平洋側に面しているものの、日本海側の気候の影響を受けやすい特殊な立地であることも、伊吹山の植物にとっては幸いした。このことは、冬の東海道新幹線に乗っていると、名古屋も京都も晴れているのに、その間にある関ヶ原を通る時だけ雪が降り真っ白な銀世界が出現することで理解していただけると思う。

また、滋賀県随一という伊吹山の高さも、高山植物が生育する環境に適合していた。

こうした、地理的、気候的、高度的な諸条件を満たした山だからこそ、私たちはさまざまな種類の貴重な植物を目にすることができるのだろう。まさに幾重もの偶然が重なった稀有の資源を持った山。それが伊吹山なのである。

 

そんな伊吹山であるのに、伊吹山ドライブウェイを使えば山頂のかなり近くまで車で行くことができる。車を降りてから1時間弱の山登りで山頂まで辿り着けるのだから、登山と呼ぶにはちょっと気が引けるくらいの非常にお手軽な山歩きである。

この伊吹山ドライブウェイは、昭和36年(1961)4月に着工し4年の歳月をかけて昭和40年(1965)6月に完成した全長17㎞の自動車専用道路である。

終点のスカイテラス駐車場は標高1,260mの高さに位置し、展望台からは遠く槍ヶ岳(3,180m)や穂高岳(3,190m)などの北アルプスの山々や突然の爆発で多くの被害者を出した御嶽山(3,063m)が生々しく噴煙を吹き上げている様まで見ることができる。

方向を変えれば琵琶湖に浮かぶ竹生島や、『近江国風土記』で伊吹山と高さを争ったという金糞岳を望むこともできる。

9合目に位置するこのスカイテラス駐車場から伊吹山山頂までは、西、中央、東と3本の遊歩道が設けられている。

向かって右側の西遊歩道は、フジテンニンソウやサラシナショウマやアカソなどの群落を左右に見ながら大回りに回り込んで山頂を目指すルートで、所要約40分(1km)の道程である。

真ん中の中央遊歩道は、最短距離で山頂を目指すルートで、階段が多く上り勾配がきついけれど、約20分(0.5km)で山頂まで行き着くことができる。道の途中にはオオバギボウシ、メタカラコウ、サラシナショウマなどの群落を見ることができる。

左側の東遊歩道は下り専用のルートで、山頂から駐車場までの道程を約60分(1.5km)かけてゆっくりと降りて行くコースである。途中、岩やぬかるみがあり道幅が狭い個所があるために下り専用の一方通行となっている。

山頂までは西遊歩道か中央遊歩道を歩き、下りは東遊歩道を歩いて戻るというのが、一般的な山頂までの登山コースになるだろう。

時間に余裕があるのであれば、ゆっくりと時間をかけて伊吹山の山頂付近を探索できる西遊歩道-東遊歩道のコースをお勧めする。せっかく花の楽園を訪れたのだから、少し遠回りをして伊吹山の自然に長く触れてもらいたい。

伊吹山の山頂は、山頂と言っても槍ヶ岳山頂のような狭いスペースではない。緑の絨毯を敷き詰めた起伏に富んだなだらかな高原。山頂付近はそんなゆったりとした散歩道のイメージだ。

その緑の世界に白や黄色や紫などの可憐な花が咲き乱れている。百花繚乱と言う言葉がまさにピッタリの自然の楽園。夏の伊吹山は文字どおり花の宝庫である。

高山植物は一様に色合いが淡く花のつくりも小づくりである。清楚、可憐、繊細……。そんな言葉が似つかわしい。同じ夏の間でも時期によって咲いている花の種類は微妙に変わっていくから、この季節には何度伊吹山を訪れても期待にそぐわないということはない。

 

もちろん、片道1時間弱の山歩きでは物足りないという人にはちゃんと登山道が整備されているから、心配は要らない。

そして、伊吹山の花々を楽しむことができるのは山頂付近だけではなく、この登山道に沿った3合目から5合目付近にもマユミやユウスゲなどの植物群落が群生していて、登山者の心を癒してくれる。

特に、初夏の3合目付近の夕暮れどきに一面を黄色に彩るユウスゲの群落は絶景だ。

ユウスゲは名のごとく、夕方になって花が開き翌朝には萎んでしまうユリ科の黄色い花で、別名をキスゲ(黄菅)とも言う。

ユウスゲと聞いて、石原裕次郎さんの「ゆうすげの花」という歌を思い出す人がいるかもしれない。

 

誰にも知られずに 日暮れに咲き

夜明け待たずに 散って行く

私は悲しい ゆうすげの花

都会のざわめきに かくれて咲いていた

夢ひとつ できました

あなたに会ってから しあわせ願うの

はたちを過ぎた頃 あと振りむき

涙ばかりの 過去を見た

人にはそれぞれ 季節があると

微笑み 淋しく ひたすら生きて来た

そして今 暖かい あなたの胸の中

しあわせ願うの

 

どんなにつらくても あきらめずに

何処かこころの 片隅で

あなたを待ってた 気がする私

総てを投げすてて 貴方につくしたい

やさしさに いたわりに ちょっぴりとまどって

しあわせ願うの

 

中山大三郎さん作詞、久我山明さん作曲の名曲だ。

ユウスゲを題材にした歌としては、石原裕次郎さんが歌ったこの歌のほかに、森進一さんの「ゆうすげの恋」、真咲よう子さんの「ゆうすげの花」などがある。

いずれも、夕方に咲いて朝には萎んでしまうという花の儚さを恋の儚い気持ちと重ね合わせて歌った歌詞となっている。

実際の伊吹山のユウスゲの景色は、恋や人生の儚さというよりはもっとロマンチックな感動を私たちにもたらしてくれるだろう。

夕暮れ時に黄色いユウスゲの花が夕陽に照らされて金色に輝きながら静かに夜を迎えようとする伊吹山の光景は、心に残る景色である。

山の西南斜面に拡がる登山道の周囲には、かつて伊吹山スキー場が存在していたが、平成22年(2010)から営業が中止されている。

スキー場が営業していた頃は、スキー場のゴンドラを使って3合目まで簡単に行けたのだが、今は麓の上野にある三之宮神社近くの登山口から徒歩で登って行かなければならない。

歩いて登った場合、山頂までは距離にして約6,000m、個人差もあるだろうが3時間20分ほどの山登りとなる。

スマートに伊吹山ドライブウェイを使って車で訪れるのももちろんいいが、伊吹山の高さを自分の体で確かめながら、花々を訪ねて歩く山登りの道もまた楽しいものだ。

 

ところで、有史以来の自然の宝庫のように思える伊吹山のお花畑だが、実は入山者による踏みつけや、ササ、ススキ、低木などの繁茂により、お花畑の面積が次第に狭められる危機に面しているのだという。

心ない入山者が高山植物を違法に採取してしまったり、あるいはそのような悪意がないにしても知らずしらずのうちにお花畑に立ち入って高山植物を踏みつけてしまったり、という事象が生じてしまったことは想像に難くない。

特に伊吹山の場合、9合目まで快適なドライブウェイが整備されているので、登山経験のない人でも簡単に山頂付近のお花畑に至ることができる。山のルールを知らない人たちが大挙して押し寄せて、貴重な山の自然を無意識のうちに破壊してしまうということは実に起こりがちなことである。

山頂付近には、縄張りして人が立ち入らないように制限を加えている区域が見られる。いつまでも伊吹山が美しいお花畑の山であるためには、これも止むを得ない措置なのだと思う。

むしろ、「伊吹山再生協議会」の方たちによるこのような保護活動があってこそ、私たちは美しい伊吹山のお花畑を見ることができるという事実を、感謝の気持ちをもって受け止めなければならないだろう。

伊吹山の花は私たちだけのものではなく、未来の人々のためのものでもあるのだ。後世の人たちのためにも、私たちはここで伊吹山の花々を絶やしてはならない。

また、昭和47年(1972)には官民一体となって「伊吹山を守る会」が発足し、伊吹山山頂付近での美化事業や各種啓蒙運動などの実施に加え、ススキやコクサギ等の低木を伐採することにより、かつてお花畑であった斜面の植生回復に取り組んでいる。

高山植物はか弱い植物であるため、何も人手を施さないでいると繁殖力の強いササやススキなどの低木種に次第に取って代わられてしまうのだという。自然を残すと言っても何もしないことではなく、最低限の人手を加えて弱い立場にある高山植物の自生を補助してあげること。

非常に難しい活動であるとつくづく思う。

 

先に私は伊吹山のことを宝の山と書いた。

可憐な高山植物を目にすることができるのも私たちにとっては宝物だが、もう少し現実的な恩恵を伊吹山は私たちにもたらしてくれている。

それは、伊吹山麓に自生する薬草類である。

前著『湖北残照 文化篇』のなかで私は、中山道・鳥居本宿の赤玉神教丸のことを紹介した。

今も旧鳥居本宿に立派な店舗を構える赤玉神教丸本舗は、江戸時代初期の万治元年(1658)の創業と伝わる旧家である。

この赤玉神教丸本舗の当主である有川氏がまだ鵡川という姓を名乗っていた頃、伊吹山山麓に自生しているオウバク(黄柏)、キジツ(枳実)、ビャクジュツ(白朮)などの薬草を採取して特殊な製法で煎じて小さな赤い球状の薬として売り出したのが、赤玉神教丸であった。

多賀大社の防人に託して全国に宣伝して回った情報戦略も奏功し、中山道鳥居本宿の赤玉神教丸の評判は日本全国に行き渡った。鳥居本宿の店舗には赤玉神教丸を買い求めようとする旅人の列が引きも切らなかったと言われている。

食べ過ぎ、飲み過ぎ、二日酔い、胃のもたれや胸やけなどによく効くという赤玉神教丸は、身近な常備薬として多くの人々に愛用されている。私もその一人であり、何度となく赤玉神教丸のお世話になっている。

その主要成分が伊吹山で採れる各種の薬草類であるのだから、有川氏にとって伊吹山はまさに宝の山と言うことになる。

もう一人、伊吹山で採れる蓬(よもぎ)を使い江戸時代に大儲けをした人がいた。

本書の「北国脇往還」中の柏原宿で紹介した艾(もぐさ)屋の亀屋左京である。亀屋左京の主人である松浦七兵衛は、伊吹山中に自生する蓬に目を付けた。

蓬の葉を乾燥させて精製した綿のようなものを艾と言う。この艾を皮膚の上に乗せて火を着けるのがお灸だ。

お灸の起源は古く3千年前の中国で発明されたものと言われているが、日本に伝わったのは遣隋使や遣唐使の頃のことである。お灸は自律神経に作用して血行を促進し、内分泌の働きを増加させる効用があるとして古くから民間で用いられてきた療法だ。

お灸は吉田兼好の『徒然草』にも登場するが、盛んに使われるようになったのは江戸時代になってからのことだった。

その江戸時代も後期になって登場した亀屋左京の六代目松浦七兵衛は非常に商魂逞しい人で、伊吹山中で採れる蓬を使用して艾を製造し、江戸に出て伊吹もぐさとして売り出し大成功を遂げた。中山道の柏原宿には当時、伊吹もぐさを販売する店が多数建ち並び、大いに繁盛したと言われている。

湖北地方では伊吹もぐさを使用したお灸の生産が今でも盛んで、長浜市内保町(うちぼちょう)には全国的にも高い知名度を持つ「せんねん灸」という会社の本社ビルと工場が建てられている。

こうして、伊吹山で採れる各種の薬草や蓬などを使用して、人々は様々な経済的恩恵を伊吹山から享受してきたのだ。そこには、自然に生えている草を商売のネタに変えていく近江人の商人魂が背景としてあったかもしれない。伊吹山の豊かな自然と、それを活用しようとする人智とが融和して、現実的な富がもたらされるということなのだろう。

ところで、興味深い話が伝わっている。

今私は、伊吹山に「自然に生えている草を商売のネタに変えていく」と書いたが、この草の一部がどうやら自然にではなく人工的に栽培されていたという話が伝わっているのだ。

誰がそんなことをしたのかと言うと、それが織田信長だというから、驚きである。

織田信長は、永禄年間(1570~1588)にポルトガルの宣教師たちに伊吹山中の土地50haを与えて薬草園を造らせ、本国から約3,000種もの薬草を取り寄せて栽培させたというのだ。

この話は、江戸時代に著された『切支丹根元記』、『切支丹宗門本朝記』、『南蛮興廃記』などの書物に書かれている。

これらの書物は学術的信頼性があまり高くないので鵜呑みにはしにくいが、伊吹山にはキバナノレンソウ、イブキノエンドウ、イブキカモジグサなどのヨーロッパ原産でしかも日本では伊吹山にしか自生していない植物が見られる事実から、この話の信憑性を窺うことができる。

ヨーロッパ原産なのに「イブキ」の名前が冠せられている植物なんて実に不思議な気がするが、ヨーロッパから取り寄せられ伊吹山で栽培された名残りだとすれば、それほど驚くに値しない。

この話が真実であるとすれば、織田信長という人はやはり人並み外れた発想の持ち主であったということが言えるのではないかと思う。

 

植物にとって様々な要素が複合的に存在して生息しやすい環境となっている伊吹山であるので、植物以外の生物たちにとってももちろん、棲息しやすい環境であることは言うまでもない。

山中には、ニホンザル、タヌキ、キツネ、ノウサギ、イノシシ、ニホンイタチなどの比較的身近な動物類のほか、ニホンカモシカやツキノワグマなどの動物が棲んでいる。また最近では、山麓部を中心にアライグマやハクビシン等の外来種が姿を現すこともある。

ニホンザルを除きこれらの動物たちは夜行性なので、昼間の登山や山歩きで出会うことはあまりないだろう。もっとも、突如イノシシが突進してきたり、ツキノワグマと鉢合わせなどという事態はあってほしくないことなので、これらの動物たちとは出会わない方がいいと思う。

鳥たちにとっても伊吹山はパラダイスだ。

私は夏の伊吹山山頂で、ホーホケキョと美しい声で鳴くウグイスの姿を初めて見た。声を聞くことはしばしばあっても、ウグイスの姿を直接見ることができる機会というのはそれまでなかったので、たいへんに感動した想い出をもっている。

また、伊吹山ドライブウェイを使って山頂まで行ったことがある方は、山頂の手前の道端で何人かの人たちが長い大きな望遠レンズを三脚に据え付けて屯している光景を目にしたことがあるかもしれない。

そこからいったい何が見えるのだろうか?

不思議に思って車を止めてみたことがある。

たまたま11月上旬の秋の日だったので、そこからは全山真っ赤に染まった山々の絶景を見渡すことができた。なるほど、この人たちはこの景色を撮るためにここに佇んでいたのか、と納得しかけたのだがちょっと様子が違う。

彼らは紅葉の景色になどあまり興味がなさそうだし、そもそも風景写真を撮るのであればそんな大きな望遠レンズなどは要らない。

それではこの人たちはいったい、何を撮ろうとしているのだろうか?

私の疑問はまた振出しに戻る。わからないことは聞いてみるしかない。

「ここでいったい、何を撮っているのですか?」

おそるおそる聞いてみると、意外とみなさん親切で気さくな人たちで、

「イヌワシだよ。」

と気軽な感じで答えてくれた。

イヌワシと聞いてもよくわからず目を白黒させている私に、足元のバッグの中からアルバムを取り出して、イヌワシの写真を見せてくれた。

真っ青な空を背景に大きな1羽の鳥が翼を拡げ悠々と空を飛んでいる写真がいきなり目に飛び込んできた。

なんて雄大な姿なのだろう。

写真を趣味としている私には、彼らの気持ちがすぐに伝わった。

彼らは、いつ飛んでくるともわからない気ままな?イヌワシの姿を写真に収めんがために、北風が吹き付ける寒い日であろうとものともせず、こうしてひたすらシャッターチャンスがくるのを待っているのである。

忍耐の末に思い通りの写真が撮れた時の感激といったらない。

イヌワシはノウサギなどの生きた動物を捕食して生活している鳥であるので、非常に広い縄張りが必要だ。一説には1つがいのイヌワシに必要な捕獲エリアは100㎢とも言われている。

そんな広い活動エリアを獲物を求めて自由に飛び回る鳥をじっと一点で待ち構えていて写真に収めようというのだから、けっして効率的な行為ではない。

しかしそんな多大な犠牲を払ってでもイヌワシに出会う価値はあると思う。残念ながら私が滞在していた僅かな時間には、イヌワシはその姿を現してはくれなかった。

考えてみれば当たり前のことで、一日中佇んでいたとしてもイヌワシには出会えないかもしれないのに、ほんの僅かな時間いただけでイヌワシを見ることができるなんて甘い考えだ。

でもいつかこの目で、イヌワシが大空を飛游している姿を見てみたいと思っている。

 

伊吹山の最後に、歌などの文学に描かれた伊吹山について考察し、締め括りとしたい。

『古事記』や『日本書紀』や『近江国風土記』に伊吹山が登場することはこれまで触れてきた。しかし不思議なことに、『万葉集』には伊吹山が登場しない。

近江国で詠まれた『万葉集』の歌については、前著『湖北残照 文化篇』の「野田沼、上丹生、朝妻(湖北の万葉歌碑を訪ねて)」の章で採り上げたが、塩津山、伊香(いかご)山、高島山、朝妻山、有乳(あらち)山など近江国に所在する山の名前が詠み込まれているのに、なぜか伊吹山が詠まれた歌が存在しない。

これは、どういうことであろうか?

一説には、『万葉集』に出てくる奥十(おきそ)山が伊吹山であると説く説がある。

 

ももきね 美濃(みの)の国の 高北(たかきた)の 八十一隣(くくり)の宮に 日向(ひむかひ)にい行き靡(なび)かふ 大宮を

ありと聞きて わが通ひ道(ぢ)の 奥十山(おきそやま) 美濃の山 靡けと 人は踏(ふ)めども かく寄れと

人は衝(つ)けども 心無き山の 奥十山 美濃の山

 

百岐年 三野之國之 高北之 八十一隣之宮余 日向余 行靡 闕矣 有登聞而

吾通道之 奥十山 三野之山 靡得 人雖跡 如此依等 人雖衝 無意山之 奥磯山

三野之山

万葉集 巻第十三 3242 (3)

 

百きねの美濃の国の高北のくくりの宮に、日に向かって靡きゆく大宮があると聞いて、

私が通ってゆく道の、奥十山よ、美濃の山よ。倒れふせと人は踏むが、このように寄れ

と人は衝くが、心なき山たる奥十山よ、美濃の山よ。

 

一部に訓み方が定まっていない句があったり、また詠み込まれている地名の場所も諸説があったりで、非常に難解な歌である。

歌の解釈をしているだけで1冊の本が書けてしまうくらいのボリュームになってしまうのでここでは解釈にはあまり深入りしないが、アララギ派の歌人土屋文明(明治23年(1890)-平成2年( 1990))はその著書「くくりの宮」(4)のなかで奥十山とは伊吹山であると主張している。

「くくりの宮」とは、『日本書紀』において景行天皇4年2月から11月にかけて行幸が行われたとされる「泳宮」を指すものと考えられる。

泳宮の所在地は、岐阜県可児郡久々利村(現岐阜県可児市)であるとする説が一般的であるが、土屋氏は実地に現地を歩いて調査した結果、久々利村ではなく不破郡もしくは安八郡であると論断した。

久々利村近辺には歌に詠み込まれるような特徴ある山が存在しないこと、「くくり」とは水が湧き出ずる場所を言う言葉であるが久々利村近辺には湧水地が見られないことなどをその論拠としている。

そこで土屋氏は、伊吹山と伊吹山からの湧水地である不破郡あるいは安八郡こそが泳宮の所在地であるとの結論を導いた。

私はこの土屋氏の奥十山=伊吹山説には与しない。

歌の大意から考えた場合、ちょっと無理があるように思えるからだ。

「百きね」は、語義は不明ながら「美濃」にかかる枕詞である。「高北」もよくわからないが地名か、あるいは北の方というくらいの意味かもしれない。いずれにしても、久々利の宮が美濃国にあるということをこの歌は冒頭に示している。

この歌の作者は「日に向かって靡きゆく」宮があると聞いて、久々利の宮に行きたいと思っているのだ。

日に向かって靡きゆくという言葉もよくわからないが、輝くような立派な宮というくらいの意だろうか。ここでは、作者が行ってみたいという思いを起こさせるような何かをもった宮であるということがわかればよいだろう。

ところが、美濃国にある奥十山が邪魔をして作者はくくりの宮に行くことができない。

ここで、くくりの宮だけでなく奥十山も美濃国にあることが明記されている。

こんな山など倒れてしまえと踏みつけても、端に寄れと突いてみても、山は動こうとしない。何と心ない山なのであろうか、奥十山よ。美濃国にある山よ。

以上がこの歌の大意である。

もしも奥十山が伊吹山だとすると、伊吹山を越えてくくりの宮に行くということになるので、歌の作者は近江国の人に限定される。

近江国の人にとって伊吹山は美濃国の山だろうか?

私はそうは思わない。近江国の人にとっては、伊吹山は近江国の山に他ならない。毎日見上げている我が郷里が誇る美しい山。それが伊吹山だからだ。

『日本書紀』の日本武尊(ヤマトタケル)の記述のなかにも「近江の五十葺山(いぶきやま)に荒ぶる神有ることを聞きたまひて」という記述があるくらいだから、伊吹山は近江国の人ならずとも近江国の山として広く認知されていたものと私は考える。

そもそも、圧倒的な高さと大きさとを誇る伊吹山を踏みつけて倒してしまおうとか、衝いて脇へ寄せようなどという発想は、近江国の人にはないと思う。

それに現実的に、近江国から美濃国に至る道として、伊吹山の南麓の不破の関を通る道は古くから確立されていたから、伊吹山が正面に立ちはだかって美濃国に行くことができないということは想定しにくい。

以上の理由により、私は奥十山=伊吹山であるという土屋氏の主張には無理があると思っている。

そうだとすると、『万葉集』には伊吹山を詠んだ歌が一つも掲載されていないことになる。

『古事記』や『日本書紀』や『近江国風土記』には言及されているのに『万葉集』に詠まれていないということの裏側には、『万葉集』選者の明らかな意図があるように思えてならないが、今の私にはその理由を知ることができない。

 

『万葉集』には掲載されていないものの、伊吹山が歌枕に詠み込まれている作品は多数ある。

 

かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを (藤原実方『後拾遺集』)

 

『百人一首』にも選ばれているこの歌が、伊吹山を詠んだ歌としては最も有名な歌であるかもしれない。

「さしも草」とは、艾(もぐさ)のことである。「伊吹」は、「言(い)ふ」と「伊吹(いぶき)」との掛詞だ。伊吹で産する艾のように熱いあなたへの想いを伝えたくてもどうしてあなたに言うことができましょうか、という意味の恋の歌である。

実方は、伊吹山そのものではなく伊吹山に産する艾を歌枕にした歌を数首残している。

 

恋しともえあは伊吹のさしも草よそにもゆれどかひなかりけり

なほざりに伊吹の山のさしも草さしも思はぬことにやはあらぬ

 

また、実方以外にも、伊吹のさしも草は以下のような著名な歌人によって歌に詠み込まれている。

 

思ひだにかからぬ山のさせも草たれか伊吹の里は告げしぞ(清少納言『歌枕名寄』)

けふも又かくやいぶきのさしも草さしも我のみ燃えや渡らむ(和泉式部『新古今和歌集』)

あぢきなや伊吹の山のさしも草おのが思ひに身をこがしつつ(藤原行成『古今和歌六帖』)

 

伊吹山の景色を歌った歌としては、

 

名に高き越の白山ゆきなれて伊吹の嶽をなにとこそ見ね(紫式部『紫式部集』)

くれ舟よあさづまわたり今朝なせそ伊吹のたけに雪しまくなり(西行『山家集』)

秋をやく色にぞ見ゆる伊吹山もえてひさしき下の思ひも(藤原定家『和漢朗詠集』)

春きぬと伊吹の山邊にもまたしかりける鶯の声(喜撰法師『古今和歌集』)

 

などがある。

また芭蕉も、先に「北国脇往還」の章で紹介した句の再掲になるが、

 

そのままよ 月もたのまじ 伊吹山 (『後の旅』)

 

の句を残している。

同じ『後の旅』には、「千川亭に遊びて」との前書きの後に、

折々に 伊吹を見てや 冬籠

 

という句も詠んでいる。千川亭とは大垣藩士の岡田治右ヱ門邸のことで、岐阜で奥の細道の旅を終えた芭蕉がホッと安堵の思いで旅の疲れを癒すべく後援者の許で過ごした際に詠んだものであろう。

美濃側から見た伊吹山も、また美しい。芭蕉は万感の想いを籠めて、伊吹山を眺めたことだろう。

これら数多の歌人や俳人たちが歌枕として詠み込んだ伊吹山であるのにどうして『万葉集』に登場しないのかは、本当に不思議なことだと思う。伊吹山の謎は私のなかでますます深まっていくばかりだ。

 

伊吹山はまさにミステリアスな山である。

その魅力を書き表わすのにどれだけの筆を費やしても書ききれるということはない。私がいくら花の名を書き連ねたところで、伝わらないだろう。

百聞は一見に如かず。

伊吹山の花を是非自分の目で見てほしいと思う。それが何よりも一番、伊吹山を理解することになると思うからだ。

 

 

 

  • 中村啓信訳注『古事記』角川ソフィア文庫
  • 滋賀県米原市醒井ではなく、岐阜県不破郡関ヶ原町玉という説もある。
  • 中西進訳注 『万葉集(三)』 講談社文庫 (訳も)
  • 土屋文明著 「くくりの宮」1944年1月 (『続万葉紀行』筑摩書房 1983年に所収)