菅浦

菅浦

 

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白洲正子さんはこのムラのことを「かくれ里」と呼んだ。

かくれ里とは、いったいどんな場所なのか?白洲さんはその著作(1)のなかで次のように書いている。

世を避けて忍ぶ村里――。かくれ里には、美しい自然や歴史、信仰に守られた神秘の

世界が存在する。人里離れた山奥ではなく、街道筋から少し離れた場所や新たな道路の

建設によってさびれてしまった古い社や寺などが現在の「かくれ里」なのである。吉野、

葛城、伊賀、越前、滋賀などの山河風物を訪ね、自然が語りかける言葉に耳を傾けると、

日本の古い歴史や伝承、習俗が伝わってくる。そこでは、思いもかけず美しい美術品が

村人たちに守られてひっそりと存在していることもあるのだ。

 

これから訪ねる菅浦という集落も、白洲正子さんが言う「かくれ里」の一つである。

琵琶湖のほぼ最北端に位置し、葛籠(つづら)尾(お)崎という、琵琶湖に突き出した岬の突端に近い僅かな土地に、へばりつくようにして人々が暮らしている。

地図で菅浦の場所を確かめた私は、まだ見ぬ不思議な土地に思いを馳せた。

 

追手門学院大学学部長の南出眞助氏は、次のように言った。

「菅浦は、正面を琵琶湖に向けた村である。」(2)

目の前に拡がる広大な琵琶湖が、菅浦の正面玄関だというのである。だから、菅浦に向かうには船で行くのがよい。なるほど、そうかもしれないと思った。

琵琶湖から望む菅浦の集落が、菅浦の「顔」を一番正確に表しているのではないか。

しかし、竹生島とは異なり菅浦に向かう定期船はない。

私は、陸路を取って菅浦を訪ねることにした。

琵琶湖沿いに走る幹線道路をさざなみ街道と呼ぶ。

さざなみは、近江国や近江国の地名にかかる枕詞でもある。湖岸にひたひたと寄せ来る波の音が聞こえてきそうなステキな名称だ。

しかし琵琶湖の東岸を南から北へ、湖水を左手に見ながら進んでいくと、湖の表情が次第に変わっていくのがわかる。広々としてはるか向こうに見えていた対岸が、急に間近に迫って見えてくるようになるのだ。

砂浜のような湖岸線が姿を消し、山が突然湖に落ちていくような険しい表情に一変する。そこにはもう、さざなみが寄せ来るなどという穏やかな琵琶湖の表情はない。湖北の湖岸線を走る度に私は、緊張感が湧き起り一抹の不安が頭をよぎる。

道は尾上港を過ぎたあたりで一度湖岸を離れ、山本山から賤ヶ岳へと連なる山塊を横切るトンネルを抜けて木之本方面に向かう。やがて塩津街道に入りいくつかのトンネルを越えると再び左手に湖が見えてくる。

このあたりは地形が複雑に入り組んでいて、車がどちらの方角に走っているのか、方向感覚には絶対の自信を持っている私でさえ覚束なくなってしまう。

大浦という古い面影を残す集落を過ぎたあたりからは、先程までずっと左手に見えていた湖がいつの間にか右手に見え始める。

深い入江になっているのだろう。広々とした琵琶湖の印象とは趣が異なり対岸の山が間近に見られ、道が右へ左へと細かくカーブする。変化に富んだ湖岸線は美しく、山間(やまあい)にある小さな湖を車でドライブしているような錯覚を引き起こす。

疎らに植えられた木々の間から望む湖面に陽光が降り注ぎキラキラと反射する光景を見ていると、心がしっとりと落ち着いてくる。

この後何度か通うことになる菅浦への道。

私は琵琶湖最北端のこのささやかな道をすっかり気に入ってしまった。南出先生がおっしゃるように菅浦の正面玄関は琵琶湖なのかもしれないが、横道から訪れる菅浦もまた、実に趣があって素適だと思う。

道はやがて再び広い湖面に出る。前方に見える島は、竹生島だ。宝厳寺や都久夫須麻神社がある港とは反対の裏側にあたる方向になる。ここまで来れば、菅浦まではもう少しである。

やがて前方に、大きな弧を描くような湖岸に沿って家々が建ち並ぶ小さな集落が見えてきた。

ムラの入口は、四足門(しそくもん)と呼ばれる茅葺きの門である。

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読んで字の如くで、4本の柱で支えられた切妻造りの屋根を持つ小さな門だ。屋根の大きさや茅葺きの厚さに比べて支える4本の柱の間隔が狭く、頭でっかちでアンバランスな門である。

しかしそのことがかえって、この門に神秘性をもたらしているように思える。何か特別な意図をもって造られた門なのではないか。そんな畏敬の念を感じさせるような、不思議な門である。

以前はムラへの侵入者を監視するために使用されていたとも言われている。

しかし四囲に壁もなく4本の柱が剥き出しの門であるから、雨は避(よ)けられても風を遮ることはできない。特に冬場の雪に覆われたような季節には、この門の下に留まり続けることはほとんど不可能だったのではないだろうか?

むしろ私には、ムラの結界を示すための象徴性を持った門として造られたと考えた方が、その形の特異性とも相俟ってすんなりと受け入れられる。

今私が見ている門が、ムラの西の入り口に建つ門である。

四足門はもう一つ、ムラの東端にも建てられている。この門については、ムラを散策していくうちにまた触れることになるだろう。

今は失われているが、かつて菅浦には、東西の端にあるこの2つの門のほかにあと2つの四足門があったと言われている。

西門からすぐ北の、須賀神社に向かう参道に1つ、大門と呼ばれる門が置かれていた。もう1つは、その大門から西の方角に行く小道があり、同じく須賀神社から南下してくる道と交差する場所に北門があったと推定されている。

ムラが弓状の湖岸に沿って細長い形をしているため、東西南北ではなく、門はムラへ入り込むための3つの道筋に置かれていたことがわかる。

今私は、門が4つあると書いたのに、ムラに入り込むための3つの道筋と書いた。

記述間違いではないかと思われるかもしれないが、記述間違いではない。実はムラの東端にある四足門の先は行き止まりになっていて、ムラの東側からの進入路はないのである。

先に四足門は外部からの侵入者の監視のために使用されたとも言われているが、むしろムラの結界を象徴的に表していると考えた方がしっくりくると書いた。東側からの侵入者を想定する必要はないので、もしもこの門が監視のために造られたのだとしたら、東端の四足門は不要だったはずである。

ともあれ、神秘的な何かをもつ不思議な門がムラの入り口に建っていることが、たいへんに強いインパクトとなって菅浦というムラを特徴づけている。

菅浦の集落は、この西端に建つ四足門から、大きな弧を描く琵琶湖の湖岸線に沿って東側に形成されている。

これから街を歩いていく前に私は、まずは須賀神社にお参りをしなければならないだろう。

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西側の四足門の傍に須賀神社と彫られた額が掛かる石造の鳥居が見られる。この鳥居から北側に上って行く道が須賀神社の参道である。

須賀神社は、天平宝字8年(764)の創建と伝えられる古社である。祭神は、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)、大山咋命(おおやまぐいのみこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)の三柱を祀っている。

元は、保良神社(菅浦大明神)と称していたが、明治42年(1909)に小林神社、赤崎神社を合祀して一つの神社としたものである。

須賀神社に足を踏み入れる前に私は、この神社や菅浦の歴史や文化において非常に重要な位置を占めている淳仁天皇伝説について触れておかなければならない。

それは、菅浦の人々が共通にもっている遺伝子と言ってもいいし、矜恃という言葉に置き換えてもいいものと関係しているからである。

淳仁天皇は、天武天皇の子である舎人(とねり)親王を父に、当麻(たぎまの)真(ま)人山(ひとやま)背(せ)を母にもつ第47代の天皇である。在任期間は天平宝字2年(758)8月1日から天平宝字8年(764)10月9日までの僅か6年間でしかない。

孝謙女帝の後を継いで践祚(せんそ)し、再び孝謙女帝が重祚(ちょうそ)した称徳天皇に皇位を譲るという不思議な継承をしている。

古代天皇家においては、意外なほど多くの血なまぐさい事件が起きている。

聖徳太子の子孫が殺され、その首謀者であった蘇我氏が大化の改新で滅ぼされ、壬申の乱では先の天皇の子である大友皇子が叔父である大海人皇子に討たれるという大きな内乱までが発生している。

大津皇子や有間皇子の事件なども冤罪の可能性が非常に強く、今の民主的な世の中ではあり得ない不当な行為が時の権力者の名において正当化され、公然と行われていたのだ。

これは、べつに天皇家に限ったことではないし、古代に限定されたことでもない。同様の不合理なことは豊臣秀吉や徳川幕府の時代においても行われているし、今からたった150年前の明治維新でさえ会津藩などは戊辰戦争にて、目を覆わんばかりの惨劇に見舞われている。

歴史を見ていると、権力に近いところにいる人ほど、権力を得るための手段を選ばない傾向にあるように思われる。そしてまた、権力を得た後の不条理な行為も目に余るものがある。

淳仁天皇もどうやら、よくあるこの手の権力を持った人たちの間の争いに巻き込まれた犠牲者であったのかもしれない。

せっかくの機会なので、淳仁天皇の事件について少し詳しく見ていくことにしたい。

先にも書いたとおり、淳仁天皇は天武天皇の子である舎人親王を父とする皇族で、孝謙天皇の後を継いで第47代天皇の座に就いている。

この時は孝謙天皇との関係は悪くなかった。むしろ淳仁天皇は、孝謙天皇により立太子されているのだ。

舎人親王の七男として生まれ、かつ、3歳の時に舎人親王が亡くなっているため官位もなく、それまであまり目立つ存在でなかった淳仁天皇(当時は大炊王と称した)の立太子を強く推挙したのは、後に恵美押勝(えみのおしかつ)と改名する藤原仲麻呂であった。

仲麻呂には大いなる下心があったのだろう。淳仁天皇が践祚した後、政治の実権はこの仲麻呂が握ってしまい、淳仁天皇は自らの意思で政を行うことができなかったようだ。

これが、淳仁天皇の第一の悲劇である。

仲麻呂は、光明皇后の強い後ろ盾を得て、独特の感性で政治を行っていった。

時に唐では安禄山の乱が起こり、政情が不安定な状態に陥っていた。そのなかで仲麻呂は、新羅征伐計画を打ち立て、平城宮の改築工事を行い、官位を唐風に改めるなど、専制的な政治を推進していった。

果たして淳仁天皇が仲麻呂の政治を心から支持していたかどうかはわからない。

これは何の根拠もない私の想像だが、仲麻呂の行為を苦々しく思い心で泣きながら、御璽を押されていたのではないだろうか。

仲麻呂の行為を孝謙上皇もけっして快く思ってはいまい。その思いは同時に、それを黙認している淳仁天皇にも向けられたことだろう。

そんな現実への厭世観からかどうかはわからないが、やがて孝謙上皇は僧道鏡との間に親密な関係を作ってしまう。

未婚の上皇の心の隙間に道鏡が巧みに入り込んだということなのだろうか。

仲麻呂の行為を黙認してきた淳仁天皇であったが、孝謙上皇のことは黙って見過ごすことができなかった。

孝謙上皇に諫言したのだ。

恋は盲目と言うが、道鏡に夢中になっているところに横から淳仁天皇が余計な口出しをしてきたことで、両者の関係は決定的な局面を迎えた。

冷静に考えれば、孝謙上皇に対する淳仁天皇のこの行為は正しい。ところが道鏡との間でアツアツの状態にある孝謙上皇にとっては、実に許し難い行為と映ったに違いない。

 

天平宝字6年(762)6月3日、孝謙上皇は突然、国家の大事と賞罰は自分が行うことを宣言する。

 

太上天皇(孝謙)のお言葉をもって、卿(まえつぎみ)たち皆に語り聞かせるようにと仰せなさる

には、朕の母上の大皇后(おおきさき)(光明)のお言葉をもって朕にお告げになるには、「岡宮(おかのみや)で天下

を統治された天皇(草壁皇子)の皇統がこのままでは途絶(とだ)えようとしている。〔それを防

ぐために〕女子の後継(あとつぎ)ではあるが、〔聖武のあとを汝(孝謙)に〕嗣(つ)がせよう」と仰せに

なり、〔それを受けて朕は〕政治を行ったのである。こうして〔朕は淳仁を〕今の帝とし

て立てて、年月をすごしてきたところ、〔淳仁は朕に〕恭しく従うことはなく、〔それど

ころか〕身分のいやしい仇の者が話すように、言うべきではないことも言い、なすべき

ではないこともしてきた。およそこのように〔無礼なことを〕言われるような朕ではな

い。〔朕が〕別宮に住んでいるならば、そのようなことを言うことができようか。これは

朕が愚かであるために、このように言うのであるらしいと思うと愧(はずか)しく、みっともなく

思う。また一つには、〔この度のことは〕朕に菩提の心を発(おこ)させる仏縁であるらしいとも

念(おも)われる。そこで〔朕〕は出家して仏の弟子となった。ただし政事(まつりごと)のうち、恒例の祭祀

など小さな事は今の帝(淳仁)が行われるように。国家の大事と賞罰との二つの大もと

は朕(孝謙)が行なうこととする。このような事情を承り理解せよ、と仰せになるお言

葉を、みな承れと申しわたす。(3)

 

正史である『続日本紀』からそのまま引用した。実質的な淳仁天皇からの政権剥奪である。

5月23日の項に突然、「高野天皇(孝謙:筆者注)と〔淳仁〕帝との仲が悪くなった。」との記述があり、その直後の一方的な孝謙上皇からのこの宣言である。唐突感は否めない。

それに対して淳仁天皇がどう対抗したかは、わからない。御璽を保有していたので孝謙上皇に対抗しながら天皇としての政務を引き続き行っていたとの説もあるし、身柄を拘束されてしまい実質的な政権は孝謙上皇に移ってしまったとの説もあり、学者の間でも決着がついていないようだ。

その2年後の天平宝字8年(764)9月に、藤原仲麻呂から改名した恵美押勝が乱を起こし敗死するという政変が起こっている。

淳仁天皇がこの乱に関わっていたかどうかはわからないが、孝謙上皇がこんなチャンスを逃すはずがない。

恵美押勝と親しかったことを理由に淳仁天皇は一方的に廃位を宣告され、天平宝字8年(764)10月14日に淡路島に流されている。

孝謙上皇は自ら重祚して称徳天皇となった。

淳仁天皇は罪を得て廃位されたため、天皇の諡名を与えられず、廃帝(はいたい)あるいは淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれ、天皇家の系譜から抹消された。

淳仁天皇という名前が与えられたのは、明治の世になってからのことである。

ところが、淡路島に流された後も、淳仁天皇人気は高かったようである。得体の知れない怪しい僧侶といい仲になり政道を踏み外している天皇との比較において、淳仁天皇の生真面目さは一般の人たちにとって好感をもって迎えられたのではないだろうか。私の勝手な想像である。

危機感をもった称徳天皇は、淳仁天皇の監視を強化した。そんなさなかの天平神護元年(765)10月、淳仁天皇が逃亡を図り捕まるという事件が起きている。

称徳天皇の裁断を甘んじて受け入れるのではなく、自らに下された不当な措置を憤り、その境遇から抜け出そうとする淳仁天皇の強い意思が感じられる。

あるいは、淳仁天皇の政権復帰を願う人たちがいて、彼らの手助けがあったということなのかもしれない。

しかしながら淳仁天皇の目論見は失敗に終わり、天皇はその翌日に病を得て亡くなったと伝えられている。

あまりにもタイミングの良すぎる死である。

 

淡路公(淳仁天皇)は幽閉されたいきどおりに耐えきれず、垣根を乗り越えて逃走し

た。〔淡路〕守の佐伯宿禰助と掾の高屋連並木らは兵士を率いてまちうけ〔闘争を阻止し〕

た。〔淡路〕公は引き戻された翌日、〔おしこまられた〕一郭の中で薨じた。(4)

 

再び、『続日本紀』から引用する。非常に簡潔なと言うか、あっさりとした記述である。

配流地からの逃亡を図ったくらいの血気盛んな人が捕まった翌日に亡くなるということは、憤って自ら死を選んだか殺害されたかのどちらかを疑うのが、むしろ自然な見方ではないだろうか。

『続日本紀』のこの少なすぎる記述は、淳仁天皇の不自然な死の疑惑を何ものにも増して雄弁に物語っている。

こうして、血生臭い臭いが紛々とする淳仁天皇の物語は幕を閉じ、孝謙天皇と称徳天皇との間にそのような天皇がいたという事実も、人々から忘れ去られてしまった。

 

長々と淳仁天皇の生涯について、眺めてきた。淡路に流され淡路で亡くなったとされる淳仁天皇が、いったい菅浦とどのような関わりをもっているのか?

実は、淡路に流されたと伝わる淳仁天皇伝とは異なるもう一つの淳仁天皇伝説が、菅浦に残されているのである。

先にも書いたとおり、菅浦にある須賀神社は、祭神のひと柱として淳仁天皇を祀っている極めて稀有な神社である。

そして神社の背後には、淳仁天皇の御陵とされる塚(淳仁天皇舟形御陵)が残されている。

地元に伝わる伝説によると、淳仁天皇が流された地は、淡路ではなく淡海であったというのだ。

元々、称徳天皇が指示した遠流地が淡海だったのか、それとも淳仁天皇が自らの意思で逃れ辿り着いた土地が淡海だったのか、伝説は詳細を物語ってはくれない。

いずれにしても、正史である『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記載されている話とは別に、淳仁天皇が菅浦に逃れて隠棲したという話がここ菅浦には存在し、住民たちにより秘かに語り継がれているのである。

恵美押勝の乱に連座して天皇の座を追われた淳仁天皇は、都を脱出し、葛篭(かご)に隠れて琵琶湖を渡ったと伝えられている。

菅浦のある琵琶湖に突き出した岬を葛籠尾崎と言うのは、この時に淳仁天皇が葛篭に乗って来られたことからそのように呼ばれるようになったとの説もあるようだ。

しかし都から逃れてきた時に天皇は、最初から菅浦を目指したわけではあるまい。ただし、南の方では容易に追っ手の捜索網に引っ掛ってしまうだろうから、逃げるとしたら必然的に北の方向に舳先が向いたであろうことは想像に難くない。

そういう意味では、菅浦は逃亡者にとってはうってつけの土地だったと言うことができるかもしれない。

ムラに通ずる道はほとんどなく陸の孤島であり、ひっそりと静まり返った隠れ家そのもののようなムラだからである。

突然目の前に現れた高貴な一行を、当時の菅浦の人たちは驚きの目で迎え、そして畏敬し、最後は親近感をもって受け入れたことだろう。

普通なら一生のうちに一度たりとも尊顔を拝することなど考できない帝が我が眼前におわすのだ。

どんな事情があるのかはわからないが、これは身命を賭してでもお護り申し上げなければなるまい。

菅浦の住民たちの心は一つにまとまった。

都での血生臭い政争にこりごりした思いでいた帝にとって、菅浦の住民たちの純朴な人柄と心和む美しい景色とは、何よりの癒しになったのではないか。

追っ手を逃れての隠棲の身ではあるものの、もしかしたら淳仁天皇にとっては生まれて初めて味わう心からの安堵感であったかもしれない。

今でも菅浦の人たちの間では、都ことばが使われているという。周囲のムラとは明らかに異なる特徴である。

淳仁天皇を匿ったことをムラの誇りとし、代々に亘って語り継いできた矜恃とでも言えばいいのだろうか。

もしかしたら彼らは、天皇家や侍従たちの子孫であるかもしれない。菅浦の街全体に漂う凛とした清涼な雰囲気は、ここから来ているのではないか。私にはそう思えてならない。

 

淳仁天皇にまつわる話が長くなってしまったが、ここで須賀神社の参道に戻る。

須賀神社に参拝する前に淳仁天皇のことを長々と書いてきたのは、須賀神社独特の参拝方法を理解するのに、どうしてもこの程度の知識が必要だったからである。

鳥居から続く舗装された坂道をだらだらと上っていくと、やがて須賀神社の石段が見えてくる。

これが須賀神社の石段か。私は、感慨深い思いで、何の変哲もない石段を見上げた。

そう。どこの神社にもよくありそうな、ごく普通の石段である。

ところが、この石段の登り口は木製の柵で塞がれていて、近くに土足を禁ずる旨の注意書きが刻まれた石板が建てられている。

 

土足禁止

ここより上は心身を

清めると共に

神域清浄保持のため

土足を禁止します

須賀神社

 

ここから上は特別に神聖な場所であるから、神域の清浄を保持するために、土足でお参りをしてはいけないというのだ。

傍に脱いだ靴を入れておく下駄箱が設けられていて、スリッパが何足か用意されている。

本来は裸足になって参拝するものだが、ギリギリ譲ってもスリッパに履き替えてお参りくださいという、神社からの強い意思表示に映った。

私が訪れたのは11月も下旬の紅葉が美しい季節だった。紅葉が美しいということは、朝晩は相当の冷え込みになるということでもある。

靴を脱いで裸足で石段を上らなければならない神社なんて、今まで50年以上生きてきた私にとっても、初めての経験だった。

最初は躊躇(ためら)いもあったけれど、知らない土地に行ったらその土地の慣習に従うのが他所者としての守るべき嗜みだ。私は靴を脱ぎ、思い切って靴下も脱いだ。

恐る恐る最初の一歩を踏み出す。石の感触が直接、足の裏に伝わってくる。想像していた以上に冷たい。

石段の長さはさほど長くはないけれど、それでも歩いていくに従ってさらに冷たさが増していくであろう足裏の感覚のことを思うと、遠い道程に思えた。

どうしてこの神社だけ裸足でなければならないのか?

この時の私は淳仁天皇伝説のことを詳しくは知らなかったから、とても不思議に思った。

ただ、地元の人たちがそこまでして頑なに護っている彼らにとってのたいせつなものを、他所者の私が文字通り土足で踏みにじりたくはなかった。

それにしても、足裏の冷たさは半端でなかった。石段を上っていくにしたがって、最初は刺すような痛みだったものが、そのうちにほとんど感覚を感じないようになっていった。

痺れるような感覚と言えばいいのだろうか。拝殿に辿り着いた時には、もう私の足は冷たさも痛さも感じなくなっていた。

それでも、石段の方がまだよかった。拝殿から本殿までの間は敷石がゴロゴロと敷かれていて、感覚が麻痺した足裏でさえ、石が突き刺さる痛さを感じるほどだった。

やっとのことで本殿に辿り着いた。

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ごく普通の神社というか、むしろ質素なくらいの小ぢんまりとした社が拝殿の後ろに建てられていた。

どうしてこんな思いをしてお参りしなければならないのか?

不勉強な私は最初不思議に思った。

ところが後から勉強して、淳仁天皇の不遇な人生を思い無念であったろうお気持ちを察するようになると、裸足になるくらいのことはむしろ当たり前のことのように思えてきた。

今では、土足でお参りをすることなんてできないと思っている。

しかしその時は全然そんなふうには思えないで、ただ足裏がたまらなく冷たいのと、苔や泥の付いた石の上を歩くことにより足が汚れることに閉口すること頻りだった。

やっとの思いで下まで降りて、水で足を濯ぎタオルで拭いて靴下を履いたらホッとした。

しかし世の中にはこんな不思議な神社があるということに、私は驚いた。

かの白洲正子さんも裸足でお参りをしたのだろう。私は不思議な思いで須賀神社を後にした。

不思議と言えば、この時私は、原因不明の足裏痛に悩まされていた。右足の親指付け根当たりの地面に接する部分が、なぜか痛かった。

ところが、須賀神社に裸足でお参りをした後、この痛みが消えてなくなったのだ。

私は特別に神仏は信じていない。だからこの現象も単なる偶然の出来事だと思うのだが、それにしても1ヶ月以上に亘って私を悩ませ続けていた痛みがきれいサッパリ消えてなくなったので、須神社との何らかの関連性を考えないわけにはいかなかった。

これは、本当の話である。

 

須賀神社を後にした私は、西から東へ、集落のなかを散策してみることにした。

大雑把に言うと道は海側と山側のふた手に分かれていて、どちらを選択しても極上の散歩道が約束されているように思われた。

須賀神社の鳥居前の広場で二股に分かれている道で少し考えた末、私は左の山側の道を歩き始めた。

道は狭くて曲がりくねっている。でもそこがまた、近代化されていない昔ながらの街並みを歩いているように思えて、旅人にはたまらない郷愁を感じさせてくれる。

雑然としたなかにもどことなく気品のようなものを感じたのは、後から考えてみると、淳仁天皇とそれに纏わる人たちの末裔のムラだからであろうか。

菅浦の集落の特徴の一つは、道に沿って築かれた石垣だろう。道の山側に築かれている石垣は、それほどの高さはない。

これは、波除けのための石垣であると言われている。

今は静まり返って鏡のように穏やかな湖面だが、大時化の時には2mもの高さにまで猛り狂って菅浦のムラに襲いかかってくるのだという。

その割には、低い石垣だ。

それは、普通の防波堤が高さで波を跳ね返そうとして造られているのに対して、菅浦の石垣は波の勢いを弱めることを目的に造られているためである。

だから、高さは腰くらいしかないけれど、その代わりに奥行きが深い。

海の水と異なり琵琶湖の水は淡水であるので、勢いさえ削いでしまえば、多少の水を冠ったとしても大きな被害にはならないのだそうだ。

波除けの石垣ではあるが、街並みに趣を与えてくれている。

菅浦の家々は、その石垣に護られるようにして、山側に建てられている。

特別に豪華な家はあまりないかもしれない。比較的古い家が多い。しかし、どことなく漂う気品は、言葉では表しがたい。

途中、「淳仁天皇菩提寺菅浦山長福寺跡」と刻まれた石柱が建つ小広場があった。石柱の隣には意味ありげな五輪塔が建てられている。

近くの案内板によるとかつてここには、弥陀、観音の二尊堂が建ち、蓮池、蹴鞠場、射弓場があったことが記されている。

いかにも雅な宮廷生活を偲ぶ施設が建ち並んでいるではないか。

菅浦の街並みを歩いていると、淳仁天皇やその臣下たちの旧蹟が狭い地域のなかに散りばめられていることがわかる。

「四位祖先千百五十年祭記念」と彫られた古びた石柱が建つ場所は、帝と共に都から落ち延びてきた公家の末裔が住んでいた跡だろうか。

石柱の向きが内向きに建てられていて、道から見ると石柱の裏側しか見えないので、道行く観光客は何のことかわからず首を傾げながら通り過ぎていく。

案内図によると、四位家跡の隣には五位家跡も存在しているようだが、その所在を確かめることはできなかった。

果たして本当に淳仁天皇がこのムラに住まわれていたのかどうかは、今となっては確かめる術がない。

けれど、純朴なこのムラに淳仁天皇伝説が生まれた背景には、きっと何らかの根拠なりきっかけがあったものと私は考えたい。

淡路島にも立派な淳仁天皇陵があって、淳仁天皇の旧蹟もたくさん残されているようではあるけれど、菅浦の土地を訪れてからは、いつしか私は菅浦における淳仁天皇の伝説を信じる気持ちになっていった。

 

菅浦というと、かくれ里というイメージがとても強い。

かくれ里というと、人里離れて世間から隔絶された世界、いわゆる秘境みたいなところをどうしてもイメージしてしまうが、この章の冒頭で白洲正子さんの文章を引用したように、ここでは、主要道からちょっと外れたところにあるような忘れられたムラのことをかくれ里と呼んでいる。

昭和になってからだが、葛籠尾崎を巡るドライブウェイ(奥琵琶湖パークウェイ)も造られたし、ムラの入口には国民宿舎(つづらお荘)もある。

また街中には、琵琶湖産の天然うなぎや鴨料理などが食べられるちょっと洒落た和食の店(割烹佐吉)だってある。

さらには、ムラのそこここに第◯作業所と書かれた看板が掛かるプレハブ造りの不思議な小屋を見ることが出来る。

何の小屋なのか?

あまりにあちこちにあるので、最初私は怪訝に思ったが、この小屋は何と、ヤンマーディーゼルの部品を作っている作業場だったのだ。

菅浦の人たちにとっては、この作業所での労働が貴重な収入源になっている。

古いものと新しいものとが同居していて、それが少しも不自然に感じられない不思議な街。

菅浦を表現すれば、そんな形容になるのではないだろうか。

いつしか私は、ムラの東端まで来ていた。

湖の傍らに、先程見たのと同じ形をした四足門が建てられていた。門の先にはそれほど広くはない空き地が拡がっているが、やがてその土地は湖水に接して消えていく。

つまり、ここはムラの東の果てであり、この先は湖になっているので道がないのである。

西の入口の四足門から東の果ての四足門まで、歩いても15分くらいしかかからないだろう。

菅浦は、そんなスケールの集落である。

帰りは、湖側の道を通って元来た西の四足門まで帰ることにした。

山側の道は家並みを見ながらの道であったが、湖側の道は左手に常に湖を見ながらの道である。

弓なりになった湖岸線に沿って街が形成されている様子がよくわかる。水際には葦が茂り、澄んだ水がひたひたと押し寄せてくる。

実に静かで長閑な風景だ。

政争に敗れこの島に隠棲していた淳仁天皇も、さぞやこの景色を見て心慰められたことだろう。

途中に小さな港があった。

南出先生の言によれば、ここが菅浦の正面玄関になる。小さな防波堤があり、何隻かの漁船が繋留されている。

たしかに、竹生島方面から舟でこのささやかな港を訪れてみたら、きっと趣があることだろうと思った。

港の近くには、この街で唯一のスーパーマーケットである大八商店がある。

食料品から日用品までこの店に行けばひととおり購入することができる、たいへん便利な商店だ。

さらに西に向かって歩いていくと、じきにスタート地点の西の四足門に戻ってくることができる。

 

菅浦を有名ならしめていることの一つに、菅浦文書の存在がある。

菅浦文書とは、菅浦の自治の活動を記録した古文書のことで、鎌倉時代から江戸時代に至るまでの期間に記録された1255通もの一連の文書群が存在していて、昭和51年(1976)に国の重要文化財書跡に指定されている。

大正年間に、ムラに伝来していた「開けずの箱」から発見されたものと言われている。

この菅浦文書によると、菅浦のムラは惣という組織によって自治が行われていたことがわかる。

湖岸線に沿って細長い街並みを形成する菅浦のムラの自治組織は、西村と東村とに分かれていた。

それぞれの村から乙名(おとな)と呼ばれる村役が選任され、この乙名衆を中心として高度な自治が執り行われていた。

寛正2年(1461)7月13日付「菅浦惣庄置文」(227号)によれば、惣庄は「上廿人乙名、次之中之乙名、又末の若衆」により構成されていたことが記載されている。

最上位に位置する「乙名」は定員が20人であったことから、別名「ニジューニン」とも呼ばれていた。

乙名を補佐するのが「中之乙名」で、東西の村から2人ずつが選ばれた。彼らは、「中老」とも呼ばれた。

若衆は、15歳から30歳くらいまでの若者で構成され、軍事・警察などの役割を務めるとともに、村の戦闘集団としても活躍した。

菅浦の自治はたいへんに強力なもので、前述のとおり、警察権や刑罰権に属することまで、惣の掟によって執行されていたという。

驚くべきことには、罪人が出ても感情的に罪を裁くのではなく証拠に基づき乙名全員が出席した裁判で裁くことが定められていたり、父親が犯罪者であってもその罪が子にまで及ばないことなど、公平で合理的な発想に基づき掟が作られていた。

今では当たり前の内容だが、武士の台頭により武断的な色彩が強まっていた当時の発想としては、進歩的で画期的な考え方だったということができるだろう。

 

この菅浦文書によると、永仁3年(1295)から約150年間にも亘って、隣村である大浦との間で大きな紛争があったことがわかる。

菅浦のことを元は自分たちの領内だったと主張する大浦村と、元々独立したムラだったと主張する菅浦村との間で、日指(ひざし)•諸河(もろかわ)という、大浦と菅浦の間にある田畑を巡っての領有権問題が勃発したのだ。

話し合いでは決着がつかず、武力による衝突に及んだというから、凄まじい。先程紹介した「若衆」が中心になって、激しい戦闘が展り拡げられたのだろうか。武士同士ならいざ知らず、一般の村人たちがそれぞれに武器を持って戦う姿というのはあまり想像しにくい光景である。

死を覚悟して悲壮な決意で戦いの場に赴く村人の様子が描かれた文書も残されているという。

この時に紛争を収めるために活躍したのが乙名の清九郎という人物で、後に出家して道清と名乗った清九郎のことは、菅浦を救った英雄として後々まで語り継がれている。

 

この菅浦文書の研究により私たちは、中世から近世に至る間の菅浦のムラの様子を、かなり正確に知ることができるようになった。

菅浦の人たちの主たる産業は、目の前の琵琶湖から得られる漁業の恩恵よりも、猫の額ほどの土地を耕作して得られる農業からの恩恵のほうが大きかったようである。

意外な気がする。

農作物としては、米のほかに油(あぶら)桐(ぎり)などが主要な生産物であった。

江戸時代の記録になるが、米は毎年一定量(63石2斗2升)を納める定納であったのに対し、別に納める油桐の実の量(10~20石程度)により全体の年貢量の調整がなされていたことがわかっている。

農業、漁業のほかでは、柴木採りなどの山稼ぎや、草履・鞋(わらじ)作りなどの家内生産により生計が立てられていた。

また菅浦は、古くから天皇家に納めるための作物を生産し貢納する供(ぐ)御人(ごにん)のムラとして知られていた。

彼らは琵琶湖での漁労に携わりその水産物を天皇家に納めるとともに、湖上における船運、廻船に従事していた。そういう意味では、心情的にも天皇家と非常に近しい間柄にあったと言うことができる。

淳仁天皇伝説が生まれた背景のひとつとして、こうした天皇家との深いつながりの歴史があったことが、あるいは関係していたかもしれない。

古来から、概ね100戸程度、人口にすると500人くらいの規模をずっと維持して現在に至っているという。

非常に不思議が満載のムラである。

 

毎年4月の最初の土曜日•日曜日に須賀神社の例祭が行われると聞いた。

湖北地方の祭りに大いに興味を持っている私は、思わずこの魅力的な情報に飛びついた。

いったいどんな祭りなのか?何時頃行けばいいのか?もう少し詳しい情報を知りたくて観光協会に問い合わせてみたのだが、この季節は花見の問い合わせばかりで、祭りの問い合わせはあなたが初めてだと言われた。

結局、詳細はよくわからないままに、祭りのクライマックスは日曜日の午後だろうと当たりをつけて、菅浦に向かうことにした。

ところが生憎、平成25年4月の最初の土日は、急速に発達した低気圧の影響で強い雨と風とが吹きつける大荒れの天候となった。

こんな天気でも本当に祭りは行われるのだろうか?大きな不安はあったものの、こんな天気の日の菅浦を見ることも滅多にできることではあるまいと思い直し、私は車で菅浦へと向かった。

今年は桜の開花が例年より早くて、湖北地方は今がまさに桜の一番美しい季節だった。

大浦を過ぎて、竹生島を見渡せる広い湖に出た途端、湖岸線が一筋の薄ピンク色の帯で彩られているのを見て、私は思わず歓声を挙げた。

晴れていれば絶景であったろうに、この空模様と強風とでは台無しである。私は空を見上げて雨雲を恨んだ。

菅浦に着いた。

想像していたような祭り目当ての観光客の姿はなく、いつもの日と変わらない静かな菅浦の姿があった。

ただ、石の鳥居の傍らに須賀神社と墨書された大きな幟が立てられていたのと、鳥居の左脇にある広場中央の建物(御旅所)の中に3基の金色に輝く神輿が置かれていたことで、今日が祭りの当日であることを確信することができた。

神輿を間近に見てみた。

どの神輿も金色の精巧な装飾が施されており、担ぐ棒は鈍い光沢を放つ黒漆で塗り込められていた。見るからに美しく立派な神輿であることに、驚いた。

やがて、着流し姿の男衆が小さく折りたたまれた半纏を片手に、続々と集まり始めた。

男衆たちは誰もが一様に、御旅所前に着くとしゃがみこんで手を合わせ一礼する。なかには傘を閉じて濡れるのも厭わず祈る人もいて、須賀神社に対する信仰心の篤さを目の当たりにし感動した。

折悪しく、一度上がっていた雨が落ち出す。と同時に、急激に気温が下がっていく。

神輿は1時くらいから繰り出されると聞いたのだが、2時を過ぎても2時半を回っても神輿は出ない。

雨混じりの風が吹き付けるなかで1時間半以上も待たされた私は、寒さで全身が凍りついた。

傘をさしているものの、服はびしょ濡れである。さすがに祭りを見に来ている地元の人たちもイラつき始める。

隣の人の言によると、なんでもこの雨のため、神輿を何基出すかで祭りの責任者たちの間で折り合いがつかず、揉めているのだという。

真偽のほどはわからないけれど、この時の私の気持ちは、何基でもいいからとにかく早く神輿を出してほしいという、その一言に尽きていた。

 

それからどのくらいの時間が経っただろうか?

神輿が置かれている建物の正面に対峙している小屋から突然、半纏姿の男衆が猛スピードで走り出して3基の神輿に取り付いた。

祭りは突然に始まったのである。

向かって左端の神輿が動いた。

数人の担ぎ手によって建物から担ぎ出された金色の神輿が、ほんの一瞬建物前の広場で停まったと思ったら、ものすごいスピードで広場の外へと消えて行った。

この先、神輿がどこへいくのか、私にはわからない。

残りの2基の神輿も続いて出るのか?と思いカメラを向けながら息を殺して待ち構えていたところが、いくら待っても神輿の出る気配はない。

そのうちに、残った神輿に取り付いていた担ぎ手たちは、にたにたと互いに談笑しながら元の控え小屋に戻ってくるではないか。

結局、今年の神輿は1基しか出なかった。

私は、先に出て行った神輿の行方を追った。何の当てもなかったけれど、ここは西の入口だから、神輿は東に向かったに違いない。私は、西へと向かう山側の道を走った。

案の定、神輿は淳仁天皇の菩提寺跡と言われている長福寺跡の空き地に停められていた。

神主が祝詞を読み上げている。

やがて祝詞が終わるとお神酒が振舞われ、再び神輿が担がれた。

普通神輿は、多くの担ぎ手によって静々と進んでいくのが私のイメージであったのだが、菅浦の神輿は少数の担ぎ手によって小走りに運ばれていく。

後をついて行くのに、自然と私も小走りになる。なんとも元気のいい神輿である。

狭い道を急ぎ足で駆け抜けた神輿は、やがてムラの東端の四足門の前に辿り着いた。

同じように神主が祝詞をあげ、御神酒が振舞われて神輿が出立した。

戻りは海側の道を辿る。

狭い道を神輿が小走りに駆け抜けていく。

雨も風も関係ない。さすがは菅浦の神輿だと内心感嘆しながら、カメラのシャッターを押し続け走って神輿の後を追った。

菅浦の祭りは、地元では「スガの祭り」と呼ばれ、以前は4月2日、3日に行われていた。

雪が降っても雨が降っても毎年欠かさずに執り行われている行事であるから、今年の天候くらいで動ずることはないのだ。

ずぶ濡れになり寒さに閉口している私たち他所者を尻目に、菅浦の男衆は至って元気がいい。

神輿は最初の勢いをそのまま保ったまま、御旅所に戻ってきた。

無事に元の場所に格納された神輿も、ホッと安堵の表情を表しているように感じられた。

この後、さらに祭りは続いていくのだろうが、帰りの新幹線の制約のある私は、後ろ髪引かれる思いで菅浦を後にした。

雨に濡れて寒さが身に染みた。

願わくば、好天に恵まれた菅のまつりを見てみたいと思った。

それは来年以降の楽しみとして、とっておくことにしたい。

 

菅浦の章の最後に、菅浦を詠んだ万葉集の歌を引用して締め括りとしたい。

菅浦資料館の前庭に黒く光沢のある石で造られた1つの石碑がある。

 

高島の あどのみなとを 漕ぎ過ぎて

塩津菅浦 今かこぐらむ

小弁 巻九 1734

 

今でも訪う人が稀なかくれ里である菅浦のことが、すでに万葉集に登場しているということに、まず私は驚きの念を禁じ得ない。

おそらく万葉の時代には、人々は遥々道を歩いたのではなく、舟で菅浦を目指したのだろう。

そもそも、道はなかったかもしれない。あっても、都から菅浦まで行くのには相当の苦労を要したことだろう。

それよりは、断然舟の方が便利である。今と異なり、特に湖北地方に赴くためには、舟による交通が一般的だったのだろう。

湖を行く舟の姿には趣きがある。

キラキラと陽光を反射させる湖面に、シルエットのように小舟が映る。よく目を凝らしてみれば、櫓を漕ぐ船頭の姿が見えるかもしれない。

今の動力を持った船とは異なり、舟はゆっくりとしたスピードで湖面を渡っていく。なんとも長閑で平和な光景ではないだろうか。

高島も安曇も地名である。湖西地方の高島郡にある安曇の港ということだろう。

また塩津も菅浦も、同じく地名である。

この歌は、僅か31文字のうちの13文字を地名に費やしていることになる。さらに、漕ぎ、漕ぐという言葉が2ヶ所使われている。

そういう意味で、たいへんに珍しい歌であると私は思う。

反対に、これだけ地名を並びたてて、さらに漕ぐという言葉を重ねて使用することにより、舟が波間を漂いながら移動していく様が手に取るように想像されるのである。

最後の「らむ」という助動詞は、実際に自分の目で見ている光景ではなく、想像している光景であることを表す。

通して読んでみると、大略以下のような意味になるだろうか。

先程、高島の安曇の港を漕ぎ過ぎたあの舟は、今頃は塩津のところの菅浦あたりを通っているのだろうなぁ。

ここから先は、自由な想像の世界である。

何の縁もゆかりもない舟なら、作者はこれほどまでに舟の行方を気にすることはあるまい。

私は、その舟には想う人が乗っていたと思いたい。だからこそ、今頃は菅浦あたりかと気になるのではないだろうか。

作者の想う人は、いったいどんな目的のために菅浦方面に漕ぎ出でたのだろうか?

一時的な所用のための舟旅なのか?それとも、任地に赴くための旅路であろうか?

歌の表面からはこれらの事情はわからない。感情を押し殺して、地名だけを列挙した作者の気持ちが意地らしい。

残念ながらこの歌は、菅浦という地名が表示されているものの、菅浦のことを主題として詠み込まれた歌ではない。

たまたま、菅浦という地名が出てきただけの歌である。しかし万葉時代の人にとっては、今の時代よりもはるかに自然に、菅浦というムラが身近なものであったことを証明する材料になることは間違いない。

菅浦は、今の時代よりもはるかに、万葉の時代の方がポピュラーな存在だったのではないだろうか。

改めて、菅浦というムラの不思議さをつくづく思った。

 

 

 

(1)      白洲正子著 『かくれ里』 講談社文芸文庫

(2)      平成25年3月9日「シンポジウム菅浦の文化的景観」 於菅浦自治会館

(3)      直木幸次郎他訳注 『続日本紀』3 平凡社・東洋文庫 天平宝字6年6月3日

(4)      直木幸次郎他訳注 『続日本紀』3 平凡社・東洋文庫 天平神護元年10月22日