もう一度 小谷山 ~清水谷~

~清水谷~

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追手道は、清水谷に向かう道の入口を右へ曲がってしまったが、ここで曲がらずまっすぐに清水谷を進んで行っても、小谷城址を目指すことができる。

清水谷は、平時における長政の屋敷があった場所であり、多くの重臣たちの住まいもここに置かれていたので、普段着の浅井氏の生活ぶりを偲ぶことができる場所であるという意味では格別な場所であると言うことができるのではないだろうか。

清水谷への道は、正面に小谷山の最高峰であり端正な三角形をした頂を持つ大嶽(おおづく)(495m)を望む道であり、歩いていてたいへんに気持ちがいい道でもある。

清水谷へと進む道で最初に見えてくるのが、左手の遠藤屋敷跡だ。

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ここは、浅井長政の重臣であった遠藤喜右衛門尉直経の屋敷があった場所である。

遠藤直経は、敗色濃厚となった姉川の合戦において、味方である三田村氏の首級を手にして織田方の家臣を装い、信長を刺殺しようとして単身で織田陣内深くに入り込んでいった猛者である。

浅井氏に対する強い忠誠心と何事にも揺るがない勇気がなければ成し得ない献身的な行為であった。

もう少しで信長の許まで達するという段になって、運悪く竹中半兵衛の弟である竹中久作重矩に見破られ、直経はその場で取り押さえられ斬殺されてしまった。

姉川からかなり南に下った田んぼの中に、ポツンと遠藤直経の墓がある。その場所こそが、直経が刺殺された場所であると伝えられている。

長政は、かけがえのない味方の武将の命を姉川の合戦において失ったのであった。

遠藤屋敷跡から少し行った右側に、木村屋敷跡がある。

木村屋敷跡とは、木村日向守の屋敷があったところである。木村日向守も浅井氏の重臣で、室町幕府将軍であった足利義昭が織田氏の招請を受けて朝倉氏の許から移る際、迎えの使者として越前に赴いた人物である。

大事な将軍をお迎えする使者として選ばれたのであるから、長政からの信頼が厚かったことを窺うことができる。

木村屋敷の斜め向かい、遠藤屋敷の隣に山城屋敷跡の石柱が建つ。

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ここは山城氏の屋敷があった場所なのであろうと思い、山城氏がどんな人物であったのかを知らない私は、浅井氏の家臣団を調べてみたものの、ついに山城氏の名前を見出すことができなかった。

落胆しかかっていた私は、この屋敷跡が山城氏のものではなく、浅井山城守の屋敷跡であったことを知り、なんだそうだったのかと我が身の浅学さを恥ずかしく思った。

これで問題解決かと思ったのだが、浅井山城守という人物のことがまたわからない。

浅井氏の系図を眺めていくと、山城守という人物が1人だけいる。久政のすぐ下の弟であり長政にとっては叔父にあたる人であるから、清水谷の重要な場所に屋敷を構えていたとしても不思議ではない。

しかしこの人物、下の名前もわからなければ生没年月も母の名前もわからないという、まるっきりミステリアスな人物なのである。

この山城屋敷跡の近くから虎ヶ谷道と呼ばれる一本の道が番所跡まで続いている。

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先程の追手道がやや緩やかで長い道だったのに対し、虎ヶ谷道は急峻で短い。追手道ではなく、こちらの虎ヶ谷道の方が小谷城への正面ルートであったとの説もある。

これから訪れるルートも含めて、小谷城への登山ルートはかなりの数に上っている。敵方から攻め入られる可能性のある道は極めて限定的にしておくべきと思うのだが、事実として小谷城への登山ルート(=攻略ルート)は多数存在している。

さらに進んで行くと、右手に徳勝寺址と刻まれた石柱が建つ。

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徳勝寺は元は医王寺と称していた曹洞宗の寺で、浅井氏の菩提寺として知られている。元は上山田村(現長浜市小谷上山田町)にあったものだが、小谷城築城に際し初代亮政がこの地に移したものと伝えられている。

小谷城が落城した後に羽柴秀吉が長浜に移築し、寺名を徳勝寺と改名した。徳勝寺とは、亮政の院号(徳勝殿)から取った寺名である。

その後、幾度かの移築を繰り返した後、現在地(長浜市平方町)に至っている。長政が徳川第三代将軍家光の祖父にあたることから、徳川幕府からも厚い加護を受けていた。

寺内には亮政・久政・長政、浅井三代の墓がある。

話を小谷城址に戻す。徳勝寺の奥に拡がる広い空間が、御屋敷と呼ばれる浅井氏の居館があった場所である。

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今では杉林となっている広い平坦地に、かつては浅井氏三代の居館が建てられていた。どのような屋敷であったかはわからないが、初代亮政の時に当時の湖北地方を治めていた守護大名の京極氏を招いて饗応を行ったとの記録があることから、それなりの規模を備えた建造物であったであろうことが想像される。

小谷城というと小谷山上に聳える石垣に守られた堅固な城郭をすぐに思い浮かべるが、城主も家臣も常時山上に居住していたわけではない。400m近い山上にある大広間や本丸で生活するのはあまりにも不便であり、平時にはここの御屋敷で暮らしていた。

ということは、かの浅井長政やお市の方、それに幼少期の茶々(後の淀殿)や初もこの場所で生活をしていたことになる。ちなみに、三女の江は天正元年(1573)の生まれであるから、織田信長の攻撃を受けて小谷山上に籠っていた時に生まれたものと考えられている。

今は当時の栄華を偲ぶ何の痕跡も残されてはおらず、御屋敷跡と彫られた石柱があるほかは、僅かに、誰が供えたものか、傾き崩れかけた数基の石の五輪塔がひっそりと杉の木立の根元に佇む姿を見るばかりである。

栄枯盛衰は世の常と言うけれど、戦で敗れた一族の末路はただに哀しい。

かつて湖北地方を手中に収め、かの織田信長とも渡り合った浅井氏の夢の跡とでも表現すればいいのだろうか。その最も中心であったこの場所に、今は何もないということが、たまらなく哀れな現実として私の心を打つ。

崩れかけた五輪塔にそっと手を合わせ、私はさらに小谷山の奥へと進んで行った。

それまでは平坦な道であったものが、御屋敷跡を過ぎてからは、次第に勾配が増していく。御屋敷跡が清水谷の最も奥まった場所であり、そこから先がいわゆる小谷山の山中ということになるのだろう。

清水谷という地名が地形をよく表していると思う。御屋敷跡からしばらくは、杉の木立に囲まれた道をせせらぎの音を聞きながら登って行く山道となる。

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まさに清らかな水を右に左に眺めながらの心地いい山歩きの様相を呈する。ここが小谷山という歴史的舞台でなかったら、豊かな自然を満喫できる格好の散策路であると言えるだろう。

朽ちかけた一本橋を渡り、「クマ出没注意」と書かれた黄色い看板を横目で見やりながら杉林のなかを進んで行く。ここ小谷山には野生のカモシカも棲息しているが、熊も住んでいるという。熊避けの鈴は小谷山登山には必需品である。

いま私は、「ここが小谷山という歴史的舞台でなかったら」と書いた。

現に私は、美しい自然に抱かれた山道を登っているのだが、実は同時にこの道は、天正元年(1573)に織田信長配下の羽柴秀吉が小谷城を攻撃した時のルートそのものなのである。

よく見ると、右手の本丸へと続く山の斜面には、山上に向かって垂直に人工的な溝が掘られているのを確認することができる。

当時の山城における典型的な防御手段の一つであった空堀(竪堀)である。

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姉川の戦いの後、浅井長政は信長の襲来を予測して小谷城防御の強化を徹底的に実施した。私が目にしている竪堀も、おそらくはその時に掘られたものであるのだろう。

一方で目を左手の谷側に向けると、いつの間にか水の流れが道の遥か下方に見えている。この後、丸子岩、蛙岩、八畳岩などと名付けられた奇岩が立て続けに現われ、まるで深山幽谷の世界に足を踏み入れたような美しい景色が眼前に展開される。

小谷城はこんなに豊かな自然に包まれた城だったのだ。私はうっとりとした心地で、六坊跡へと向かう山道を登って行った。

先に見てきた追手道の、様々な防御的施設が施されたいかにも山城らしい厳(いか)つい表の表情とはまったく対照的に、小谷城には浅井の家臣団のみが使用する穏やかな自然の懐に抱かれた内の表情が存在していることに、私は驚愕した。

しかしかの羽柴秀吉は天正元年の小谷城攻撃に際し、表口ではなくこの裏口をこじ開けて小谷城内に侵入した。

丸子岩から蛙岩に至る道の途中に、「水ノ手」と書かれた木柱が建っている場所がある。

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この場所こそが、羽柴秀吉が小谷城攻略時に攻め上った場所である。

僅かに道らしき筋が蛇行しながら山麓に向かって伸びているのが見えるが、その道はうっそうと茂る木々に覆われほとんど確認することができない。秀吉軍はこの山の斜面を夜陰に紛れてほとんど這い登るようにして進んで行ったのだろう。

『信長記』にはごく簡潔に次のようにしか記されていない。

 

八月廿七日、夜中に、羽柴筑前守、京極つぶらへ取り上り、浅井下野(筆者注:久政)・

同備前(長政)父子の間を取り切り、先ず、下野が居城を乗っ取り候。

 

『信長記』には「水ノ手」という言葉は出てこないけれど、ここ水ノ手から小谷山の斜面をまっすぐに這い登っていった先にあるのが、京極丸である。

京極丸を占拠した秀吉軍は、すぐ上方の小丸に籠る浅井久政と下方に籠る浅井長政との間を分断し、まず手始めに久政を攻めて自刃せしめている。

私は水ノ手に立ち尽し、頂の見えない山上に向かって心の中で手を合わせた。

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水ノ手から蛙岩、八畳岩を経てさらに登って行くと、左手に三田村屋敷跡と書かれた石柱と案内板が見えてくる。

すでに私は小谷山のかなり高所にまで上り来たっているが、こんなところに家臣の屋敷があったことに驚かされる。

三田村氏は浅井氏の重臣で、姉川の北岸で大きな勢力を保有していた豪族である。姉川の合戦があった野村地区の北西に位置する三田村(現長浜市三田町)に三田村城とも称される居館を構えていたので、小谷山の中腹にあるこの館は戦時を中心とした館であったのかもしれない。

今ではややわかりにくくなっているが石垣も築かれており、堅固な造りの屋敷であったことが窺われる。

三田村屋敷跡のさらに上方にもう一つ、大野木屋敷跡がある。

傍らの石柱に土佐屋敷址と彫られているように、大野木土佐守の屋敷跡である。大野木氏も三田村氏同様浅井氏の重臣であったが、前著『湖北残照 歴史篇』において私は、秀吉が京極丸を奪取できた背景には大野木氏の内通があったのではないか、との説に与している。

たとえ水ノ手を這い上がって行けたとしても、小谷城の城地には切岸が施されていて断崖絶壁のように仕立てられていたであろうから、容易に京極丸に近づくことはできなかったはずである。

しかし何者かが城の内側から手助けをしていたとしたら、話はまったく別となる。

その何者かが、私は大野木秀俊であったのではないかと考えている。このことについて最も信頼できる歴史史料である『信長公記』には何も書かれていないが、江戸時代になってから書かれた『淺井三代記』には次のように記されている。

 

信長卿其日は小谷に滞留有て、淺井が降人共の御沙汰なされける。淺井七郎・同玄蕃

亮・大野木土佐守・三田村左衛門大輔は長政一門成(なる)に、落城ぎわの謀叛見苦しき心底な

り、諸侍のみせしめにせんとて則誅罰したまひける。

 

裏切りがあったかどうかは別にしても、小谷城の最も高所に屋敷を持っていた三田村氏も大野木氏も、少なくとも主君と運命を共にすることなく、落城直前に織田方に降伏したことは間違いない。

長閑でうららかな渓谷沿いの道を歩きながら私は、450年近く前の苦しい人間模様を思いやっていた。

道はやがて六坊跡の鞍部に至る。

ここから左に急坂を登って行けば、小谷山最高所の大嶽(おおづく)に出る。右手に道を取れば、小丸、京極丸、本丸に至る道となる。まっすぐに道を下れば、月所丸から西池方面へと続く搦め手の道となる。

続けて私はこのまままっすぐに道を進み、搦め手の道を歩いてみたいと思っている。

 

搦め手

 

城には、落城時を想定して人知れずそっと城を脱出するための裏の道が用意されているものだ。その道のことを搦め手と言う。大手が城の表口だとすると、搦め手は城の裏口ということになる。

地元に伝わる伝説によると、天正元年(1573)8月終わりの夜陰に紛れ、この搦め手から密かに小谷城を下山した一行がいた。

夫浅井長政との今生の別れを終えたばかりの正室お市の方と二人の間に生まれた幼い三人の姉妹(茶々、初、江)、それに付き添う侍女が一人のみ。悲しく絶望的な逃避行の始まりである。

日頃から人の行き来がある大手と異なり、搦め手は普段は人が通ることなど稀であったに違いない。道は細く、急な下り勾配が続く山道を彼女たちはどのような思いで降りて行ったことだろうか。

当時の切迫した状況を思い浮かべながら、私は六坊からの急な坂を下って行った。

六坊からやや下ったところに月所丸と呼ばれる曲輪がある。お市の方一行は、この場所から下山を開始したのだろう。ここは搦め手からの敵の攻撃を防御するために造られた曲輪で、土塁と空堀とを配し二段構造で築かれた堅固なものだった。

しばらくは急な下り坂が続いていく。

女と子供の足ではさぞかし難儀であったであろうことが容易に想像される。しかも周りは漆黒の闇である。山道に足を取られて何度も転(まろ)びながらの下山であったに違いない。

必死の思いで急坂を降りて行った一行は、やがて淨心平と呼ばれる広い平地に至ってホッと一息をついたかもしれない。と同時に、これからどのような運命が自分たちを待ち受けているのかを思い、台頭してきた恐怖心に暗澹たる思いになったことだろう。

気持ちを強く持ち直して、再び始まった急坂を降り続ける。

しばらく進むと、右側に行くと「本宮の岩屋」に至ると書かれた道標を目にすることができる。ここで私は一旦、お市の方たちの逃避ルートから離れ、下山道を外れて本宮の岩屋に赴くことにした。

本宮の岩屋は、小谷山の山腹に露出した巨大な花崗岩の塊である。大きな岩と岩との間には、僅かな空間が存在している。

2つの大岩が隣接して存在しているものか、1つの巨岩が裂けてできたものなのか、私にはその生成の由来はわからないが、岩の大きさと、岩と岩との間に存在する不思議な空間とが限りなく神寂びて見えた。

この巨岩を目にした者は誰でも、そこに神が宿っていることを無条件に信じることだろう。

この巨岩が本宮の岩屋と呼ばれていることには、次のような伝説がある。

用明天皇2年(587)に仏教信奉を巡って蘇我馬子と対立した物部守屋は、馬子との戦いに敗れ自領のあった近江国にまで逃れてきた。

そして、この巨岩と巨岩との間の僅かな隙間から中に入り、この岩間の空間で隠遁生活を営んだというのだ。近隣の住民たちは守屋を慕い、食事などを運んで守屋を助けた。

追手の手から逃れ得た守屋は後に、溜池を造るなどして住民たちの厚意に応えたという。今に残る西池も、その一つであると言われている。

本宮の岩屋の南西にあたる長浜市高畑町には、この守屋を祀る波久奴(はくぬ)神社という神社が存在する。岩屋を出た守屋は、この萩の花が美しく咲き誇る高畑の地に移り住み、萩生翁という名前で余生を送った。住民たちは守屋の遺徳を偲び、祠を建てて正一位萩野大明神として崇め奉った。

その祠が、今の波久奴神社であるということだ。

波久奴神社に対して、その本宮としてこの岩屋が祀られている。

日本史の通説では、守屋は河内国渋川郡(現大阪府東大阪市衣摺)にあった守屋の館で討ち死にしたことになっていて、墓も大阪府八尾市の大聖勝軍寺近くにある。

私は守屋の別領が長浜の地にあったということを知らないので、最初に守屋という名前を聞いた時に唐突な話のように思ったが、ここ小谷山の東峡に守屋伝説が遺されているということは、それなりに何らかの根拠があってのことなのだと思う。

そんな守屋に思いを馳せながら、私は守屋が隠れていたという岩屋の中に入ってみようと思った。

同行していた地元の人から、ここの隙間は非常に狭いので太った人は入れない、しかもところどころ足元がなくて空洞になっているところがあるので注意するようにと言われた。

足元に関しては、大人であれば踏み外して体ごと下に落ちるということはないとのことであったが、狭いと言ってもそれほどの狭さではないものと高を括っていた。

ところが、いざ中に入ろうとしてみて、地元の人が言ってくれた忠告がけっして大げさなものでなかったことが実感としてわかった。

私の体は途中で前後の岩の壁に挟まれて、そこから奥へ行くことができなくなってしまったからだ。入口に戻ろうとしたけれど、体が完全に挟まってしまっていて戻ることさえできない。私は閉所恐怖症ではないけれど、急に恐怖心が心の底から湧き上がる。

ここまで来たら、意を決してどちらかに動くしかない。

私は渾身の力を籠めて、岩屋の内側へと移動を試みた。少しだけ、体が動いた。さらに力を籠める。私の体は少しずつだが確実に洞窟の内側へと移動していった。

途中、足元がなくなって岩壁の間に挟まれて宙づりのようになっている箇所もあったが、なんとか私の体は洞窟の中に入ることができた。

中は思っていたよりも広くて、ひんやりとした無気味な空気が漂っている。光が届かないから真っ暗な闇である。懐中電灯で照らしてみると、黒っぽいものが点々と天井にこびりついている。よく見てみると、それは蝙蝠だった。

生きた蝙蝠をこんなに間近な距離で見ることなどまずないから、恐ろしかった。

帰りも行きと同様に苦労しながら、やっとの思いで外に出た。ふと見ると、着ている服のお腹の部分が、岩肌との接触で擦れて破れていた。

正直言って、もう一回中に入ってみようとは思わない。一度中に入ったから、もうそれだけで十分である。

それに、あれから4年経つ今の私は、さらにお腹の贅肉が成長しているから、今ではもう入ろうと思っても入ることができないだろう。

物部守屋という人は、きっとスマートな人だったに違いない。

本宮の岩屋ですっかり道草を食ってしまった私は、再びお市の方一行が下って行った搦め手の道を歩いていくことにした。

時折、木々の間から一面に拡がった平地が見える。

次第に下界が近づいてきている様がわかるが、暗闇のなかを下山していたお市の方たちは、どこまで歩けばいいのかもわからずたまらなく不安な道程であっただろうことが想像される。

道は、万華坂、克己坂、立志坂と名付けられた急坂を下って行き、やっとのことで平坦な山里に降り着いた。

お市の方たちは、池奥とよばれるこの地で村人が用意していた乞食の姿に着替え、さらに坂道を越えて長政の姉が庵主を務める実宰院に身を寄せたという。

守屋の話もお市の方と三姉妹の話も、共に戦いに敗れた落人が追手の追撃を逃れて密かに隠れ住んだという悲しい伝説である。

敗者の伝説は、いつも聞く人の心を打つ。小谷山はそんな悲しい伝説に彩られた悲しみの山でもあるのだ。