郡上・伊部

郡上・伊部

小谷城は不思議な城で、2つの城下町を持っている。
普通、城下町と言うと、城の周囲を取り囲むようにして武家屋敷や町家が建ち並び、一朝事あらば城と一体化して侵攻してくる敵を防御するように造られている、というのが私が思い浮かべる一般的な城下町の姿だ。
だから、最初に城下町が2つあると聞いた時に、即座には小谷城の城下町のイメージを頭のなかで想像することができなかった。
実際に小谷城を訪ね、その地形を自分の目で確かめてみると、なるほどそういうことだったのかと、納得した。
私が思い描いていた城下町の姿というのは、江戸城であったり大坂城であったり、いわゆる平城の城下町のイメージであった。
周囲に十分な広さの平地を確保できて、ゼロの状態から城も城下町も設計できる。そういう城であれば、理想的な形態として、城の四囲をぐるりと城下町が取り囲む縄張りが描けるであろう。
ところが小谷城は、小谷山という500m近い高さの山を中心とした山城である。小谷山の自然の地形を前提にした縄張りしか、描くことができない。
そのような地理的制約を考えると、小谷城の城下町は小谷山の西麓または南麓に造らざるを得なかったということがよく理解される。
そうした場合、伊部か郡上のどちらかの土地だけでは狭すぎたのだろう。そこで浅井氏は、二つの街で一つの城下町を形成する形を取ったものと思われる。

一般に山城の場合、山に食い込むようにして入り込んでいる谷の部分に武家屋敷を築くケースが多い。
敵が攻め込んでくれば、武家屋敷を最初の防御線として戦い、それでも防ぎきれない場合は山の上の城に籠って抗戦することができる。
そうすると、町民が住むエリアは、その外側の平坦な土地ということになる。
小谷城の場合、小谷山に食い込む清水谷に沿って武家屋敷が建ち並び、山の南側の平地に伊部、西側の平地に郡上という集落(=城下町)が造られている。
一つの城に二つの城下町があるというのは、珍しい事例なのではないだろうか。
小谷山の麓であり、街を山側に拡げるには制約があっただろうが、反対側には平地が拡がっているので、どちらかの街をもっと拡張して城下町を一つにまとめることは不可能ではなかったのではないかと考える。
敢えて小さめの城下町を二つ造った背景には、浅井氏に何らかの戦略があったことが想像される。
二つの集落は、北国脇往還の宿場町としても栄えた。二つの宿場町は、総称して小谷宿とも呼ばれていた。
馬の継立は、上りは郡上宿で、下りは伊部宿で行われ、また本陣は伊部に副本陣は郡上に置かれるなど、役割りが分担されていたようである。
まずは北国脇往還を関ヶ原方面から来た場合、はじめに通る伊部について見ていくことにしたい。

伊部の集落の南側の入口は、小さな橋である。清らかな水が流れる小川(田川)を渡ると、道がまっすぐに小谷山に向かって伸びている。この道が、伊部の街のメインストリートだ。
右手に見える小高い丘のような山は雲雀山と言う。左手に見えるそれより大きい山の塊は、虎御前山である。
虎御前山については、別の章で訪れることになる。
伊部宿を入ってすぐの右側には、古矢眞(こやま)神社という由緒ありそうな神社が鎮座している。
古山眞神社は、大山咋命、経津主命、迦具土命の三柱を祭神として祀る古社で、石段を登っていった上部の平地に、一間社流造の本殿が建てられている。
それほどの高さがあるわけではないが、本殿のある場所から眺めると、伊部の街並みを上から見降ろすことができる。
再び街道に戻って歩いていくと、左手に黒板張りに白壁の、趣のある長い板塀のある門が見えてきた。
門の前に立つ石柱に、伊部本陣跡と刻まれている。
ここが、小谷宿唯一の本陣である肥田家があった場所である。街道に沿って14間半もの広い間口をもち、当時は裏の厩まで乗馬のままで入ることができたという。
伊部の集落のなかでの象徴的な場所であり、今では往時の伊部宿を偲ぶことができる数少ない史跡の一つである。
ただし、本陣の建物が残されているわけでもなく、私たちは塀の外側からここに本陣があったことを思い、想像を巡らすことしかできない。
伊部の集落は道行く人も疎らで、いつもひっそりと静まり返っている感じがする。
街道の両側に趣のあるしっかりした造りの民家が多く建ち並び、風格のある街並みであると思う。そして歩いていると、常に端正な山容の小谷山が視界に入ってくることが、この集落の気品を一段と高めているように私には思えてくる。
伊部のメインストリートを小谷山に向かって真っ直ぐに歩いていくと、道は突然左に90度曲がる。
城下町にはよくある桝形と同じ意味合いの仕掛けなのだろう。一気に敵に攻め込まれないように、道のところどころに意図的に曲がり角を造り、いざという時にはこの角に籠って敵を襲撃する。
一見何気ない道に見えるが、この道は今でも、浅井氏のそうした戦略が息づいている道なのだということをつくづく思った。
左折してすぐのところに、右に折れる比較的大きな道がある。道の傍に小谷城址登山参道と彫られた石柱が立っている。
ここで右折すると小谷城に向かうのだが、北国脇往還はここを右折しないでそのまましばらく真っ直ぐ進む。

右手の雲雀山が尽きると、その奥手に小谷山の端正な山容が再び姿を現してくる。
道は、真っ直ぐに進んだ後、また不自然に右に曲がる。そしてその道は、小谷山の麓の清水谷に向かう道となる。
清水谷は、浅井氏が居住していた御屋敷と呼ばれる建物をはじめとして、家臣たちの屋敷が建ち並んていた場所である。
道は、清水谷の入口をかすめるようにして、伊部と並ぶもう一つの城下町である郡上へと続いていく。
清水谷の入口には現在、小谷城戦国歴史資料館が建ち、また江のふるさと館というイベントスペースとなっている。
道は不自然に曲がりながら、やがて郡上の街並みへと入っていく。
途中に城下町大谷市場跡と刻まれた石柱が田んぼの畦道に立てられている。道端の小川に水車が置かれ、趣のある景色を作り出している。
その傍らの説明板の記載をそのまま引用する。

浅井三代小谷城時代には重要な商業施設の中心であったと考えられ武家屋敷や町間の
台所までも賄っていたといわれている。
特に海産物については若狭の新鮮な魚貝類が若狭街道を通して届いていたという。
小谷城落城後羽柴秀吉によって城下町が長浜城下に移されたとき「大谷市場」も同時
に移された。

山の中にあって新鮮な魚貝類を食べていたとは、驚きである。
山の幸、湖の幸は言うに及ばず、海の幸までもが揃っていたとなると、これは相当に贅沢な食生活を営んでいたことになる。
浅井長政やお市の方が小谷城で鯛や鮃の刺身を食べていた姿を想像するのは、歴史の教科書には書いていない楽しみである。
これは意外な発見をしたと思った。
市場跡の前を通り過ぎて、郡上の街並みに入る。ここも伊部と同様に大きな家が建ち並び、威厳を備えた独特の雰囲気を持っている。
民家のすぐ裏側が小谷山に連なっているため、より威圧感を感じる地形である。
道は、高札場跡と彫られた石柱を見ながら左手に折れて、そのまま宿場の外へと出ていく。