山本山城跡

DSCF9506
最初にこの山の名前を目にした時、安易な名前だと思った。しかしまた、何と覚えやすい名前だろうとも思った。
しかも南側から見た山容が美しい三角錐の形をしていて、どこから見てもわかりやすい。
琵琶湖の東岸にポツンと一つ、独立して聳えているように見える。
同じこの山を東側や西側から見ると、南北に長く連なる連山に見える。山本山は、北方の賤ヶ岳へと連なる山塊でもあるのだ。
独立峰と連山と、山本山は2つの顔を持つ山である。
これだけ目立つ山だから、戦国時代の武将たちが放っておくはずがない。山の上には城が築かれた。山本山城である。
城の歴史を辿っていくと、治承4年(1180)に山本義経が守る山本山城を平知盛と資盛が攻撃したとの記述が見える。
ということは、それ以前に山本山城は築かれていて、城主が山本氏であったということになる。
山本氏が守る山城だから山本山城となったのだろうか?あるいは、山本山に城を築いたから山本氏と名乗ったのだろうか?
詳細はわからない。
その後、京極氏が北近江の守護大名となると、京極氏に仕える阿閉氏が山本山城に入って城主となった。
城の西側には広大な琵琶湖が拡がり、東側を北国街道が通る交通の要所であった。
やがて北近江の支配権が京極氏から浅井氏に移り、浅井亮政が小谷山に城を築くと、地理的な条件から山本山城は浅井氏にとって非常に重要な支城となっていく。
永正年間(1504~1521)に一時浅見氏が城主となった時期があったが、浅井氏が実権を握った後は、山本山城は再び阿閉氏に委ねられた。

どんな城だったのか?
百聞は一見に如かず、とりあえず登ってみることにした。
DSCN2209
山の南西麓に宇賀神社という神社が祀られている。その神社の脇に登山口があった。
他にも何ヶ所か登山口はあるのだろうが、最初に目についたので、私は迷わずここから登り始めた。
迷わずと書いたが、実は少し迷った。と言うのは、この日は天気がよくなくて、時折り雨がぱらつく天気であったからだ。
324mの山なので、そこそこの高さがある。途中で本降りになったら、登るのも降りるのも、つらい。
しかし、今を逃すと次にいつ登るチャンスが訪れるかわからないので、多少のリスクを冒してでも登ってみることにした。
最初の登りは傾斜が厳しく、つらい登りとなった。敵の侵攻を防御するための山城だから、傾斜が厳しいのは織り込み済みではある。しかしこの先にどんな難所が待ち構えているかわからないので、不安な気持ちを抱えながら、とにかく登っていった。
道はよく整備されているので、安全面での心配は要らない。一歩ずつ、確実に上を目指して登っていくしかない。
幸い、心配した雨は一時的に上がり、登山の妨げになることはなかった。
激しい上り坂を30分くらい登っただろうか?
二の丸跡と書かれた立て札がある広場に着いた。DSCF9516

さらに登っていくと、本丸跡と墨書された案内板のある、より広い平坦地が現れる。DSCF9526

周囲の土地が高く盛り上がっているのは、土塁が巡らされているのだろう。
山城の主要な防御設備と言えば、土塁と空堀である。

DSCF9521
山本山城は、典型的な山城であることがわかる。
西側の眺望は、琵琶湖になる。
右側に半島のように突き出している細長い陸地が、葛尾崎である。湖上に浮かぶ小さな円錐形の島が、竹生島だ。
ここから望めば、湖上を漕ぎ渡る舟の航行は手に取るように見渡すことができる。

DSCF9518
東側に移動すると、間近に見慣れた三角形の頂きを持つ美しい山が見渡せる。小谷山である。
本丸跡まで登ってみて初めて、浅井氏が目をつけた山本山城の立地を実感することができた。

山上の説明板には、次のように書かれている。

山本山城 本丸跡
高倉宮以仁王の令旨を受けた山本源氏山本義定•義経父子の旗上げした陣地跡。
治承四年(1180)十二月十六日、平家の平知盛•資盛の大軍により全山火の海と化すと
伝う。
本丸は、高さ2m程の土塁で囲まれている。
西側には帯曲輪があり、その下に竪堀北側には空堀を設けている。

人っこ一人いない山上で、往時の凄惨な光景を思い描いた。城は人と人とが命を懸けてせめぎ合う場所でもあるから、決して平和な場所ではなく、過去に悲しい歴史を持つ場合が多い。
この山本山城も例外ではないということだ。
本丸跡から北側へとさらに道は続いていき、峰伝いに賤ヶ岳へと至ることができるらしい。
今日はそこまでの時間的余裕はないし、天候も気になるので、本丸跡までで元来た道を引き返すことにした。
本丸跡付近には、一番馬場跡、二番馬場跡、馬の蹴り跡、と書かれた木の札が立てられていた。
詳細な説明がなされていないのでよくわからないが、こんな険しい山の山頂にまで馬が乗り入れていたということなのだろうか?そう言えば、小谷城址にも馬場跡という地名があったことを思い出した。

ここ山本山城は、天正元年(1573)の長政と信長との攻防戦の際、たいへんに重要な役割りを演じた。
先程も書いたとおり、山本山城は小谷城を間近に望む交通の要衝の地に立地している城である。
この城を落とせば小谷城は孤立する。信長軍は、何としても山本山城を我が物とするべく、猛攻を仕掛けた。
守るは、浅井氏の重臣・阿閉貞征である。
阿閉氏は、代々北近江(伊香郡)の一部を支配していた国人であり、今でも山本山の東麓には、東阿閉、西阿閉の地名が残っている。
おそらくはこの地が、阿閉氏の本拠地であったのだろう。
貞征は享禄元年(1528)の生まれであるから、信長が小谷城に攻め入った時には45歳とまさに男盛りの年齢であった。
阿閉氏は、浅井氏の家中でも重きを置かれた存在だった。
小谷城の攻防戦に先立つこと3年前の姉川の合戦においても、縦に重なった長政の布陣において3段目の陣を任されたことからも、阿閉氏に対する長政の厚い信頼ぶりを窺い知ることができる。
本拠地に隣接し、地理的にも重要な拠点であった山本山城を与えられたのも、自然な成り行きであったことと思われる。
しかし信長は、その阿閉貞征を籠絡した。
力詰めで猛攻撃を仕掛けた後に、おそらくは甘い言葉で誘ったのだろう。
小谷城は完全に信長軍によって包囲されている。このまま抗戦してももはや勝ち目はない。今、信長方に降れば、現在の所領はことごとく安堵するであろう。
圧倒的に不利な状況のなかで、命を助けてもらえるどころか、所領もそのまま認められるとなれば、いくら長政の信任が厚い存在であると言っても、寝返りを決意するのは人間の心理として極端に悪なこととは言えないかもしれない。
阿閉貞征は、浅井氏を見限って織田氏に付いた。
その事実を知った長政をはじめとする小谷城籠城組の心中はいかばかりであったことだろうか。
単に寝返った貞征方の人数だけの問題ではない。軍中に起こった動揺は、計り知れないものがあっただろう。
あの阿閉氏までもが敵方に降ってしまった。そうでなくても重苦しい雰囲気のなかにいた小谷城内の士気が、一層落ち込んでいったことは言を俟たない。
味方が土壇場に至って寝返るということの落胆は、長政たちにとってほとんど絶望的な打撃であったことだろうと思う。
それも、戦って敵側にダメージを与えることもなく、戦わずして山本山城の城と人とがそっくりそのまま敵方のものとなってしまったのである。
それでも、城内には長政と生死を共にしようという男気のある家臣たちもたくさんいた。
彼らはむしろ、阿閉氏が寝返ったことに発憤して、それならば益々殿をお護りしなければならない、と決意を新たにしたことだろう。
その一方で、城内にも調略の触手は伸びていた。籠城している家臣のすべてがそのような強い気持ちで戦っていたわけではない。
そういう弱い人間をターゲットにして、密かに調略行為が行われていたのであろう。
結局は、巨大な堤防が蟻の穴ほどの綻びから決壊していくように、小谷城はほんの一握りの城内からの内応者の裏切りによって、織田方兵の城内への侵入を許し崩されてしまった。

止むを得ない状況であったことは否めないものの、阿閉貞征は浅井氏にとって裏切り者として歴史に名を残す存在になってしまった。
裏切り者の末路は、やはり穏やかではない。
約束どおりに秀吉の下で旧領安堵され、引き続き山本山城主としての地位を得た貞征であったが、その後、明智光秀と秀吉との戦いにおいては光秀方に付き、長浜城を攻撃してこれを占拠するに至った。
秀吉から見れば所詮貞征は外様であり旧主を裏切った信頼のおけない人間である。当初は約束通りに旧領を安堵したとしても、何かと難癖をつけて貞征の得ていた特権を剥奪しにかかったであろうことは想像に難くない。
事実、竹生島の支配権を秀吉に剥奪されるなど、秀吉に反旗を翻した背景として貞征には貞征なりの理由があったものと思われる。
しかしそれこそ、秀吉の思う壺であった。一度主君を裏切った男に全幅の信頼を寄せるほど秀吉は甘い人間ではない。
しかも、二度目の裏切りである。
山崎の戦いで明智光秀を倒した秀吉により阿閉氏は捕らえられ、一族悉く誅殺されてしまった。
まんまと秀吉の謀略に嵌められたとの感がなくはない。一度主君を裏切った男の悲しい末路である。
その後の山本山城のことは、歴史上にあまり記述がない。

DSCN2208