竹生島

竹生島

 竹生島1

琵琶湖に浮かぶ島というと、真っ先に思いつくのが、竹生島ではないだろうか。
 地図で見てみると、琵琶湖にある島の数は、湖の大きさに比較すると意外にもそれほど多くはない。
大きさでは、近江八幡市の沖合1.5㎞のところにある沖島という島が、最も大きい島であるようだ。「近江八幡市立沖島小学校」という学校や「おきしま資料館」という資料館などがあり、約450人もの人が住む島である。淡水湖に浮かぶ島に人が住んでいるというのは、海外では事例があるものの、日本ではこの沖島が唯一のものなのだそうだ。
 その他にも、南草津の沖合に矢橋(やばせ)帰帆(きはん)島(とう)(ただし、人工島)、彦根市の沖合に多景島という島を確認することができる。島と言えるかどうかわからないけれど、多景島の西方5㎞ほどの沖合には、沖の白石という1つの大岩と3つの小岩で構成される岩塊がある。他にもあるかもしれないが、地図上で確認できる島はそれくらいのものだ。
 はじめにも書いたけれど、他所者(よそもの)の私にとって、琵琶湖に浮かぶ島は、やはり竹生島が一番身近に感じられる島である。
 初めて竹生島の島影を見たのは、いつ頃のことだったろうか?
 湖北地方を訪れ始めた頃だから、あるいは平成14年(2002)のことだったかと思う。琵琶湖に沿って走る湖岸道路を南から北へと車で移動しながら、左手の湖にぽっかりと浮かぶ島の姿を見た。
 春先の低く垂れこめた鉛色の空の下だった。今にも白いものが落ちてきそうな寒々しかった空の色を記憶している。その雲の切れ間から、一瞬、陽の光が漏れて湖面に突き刺さった。その高輝度の光の向こう側にシルエットのような島影を見た。
 何という名の島だろうか?
 その時は琵琶湖に関する私の予備知識は皆無に等しい状態だった。わからないながらも頭に浮かんできた名前が、竹生島という名前だった。
 後に地図で確かめて、確かにあの時に見た島が竹生島であったことを知った。
 それが私と竹生島との縁のはじめである。
 次に竹生島を意識したのは、小谷城址においてであった。
車で小谷山中腹の金吾丸駐車場まで行く途中に、琵琶湖の眺望がすばらしい展望台がある。
 「望笙峠」と名付けられた展望台で車を降りた私の目は、美しい景色に釘付けになった。目の前に拡がる田園風景の向こう側に湖が見える。その湖の中に、三角錐の形のいい島がぽっかりと浮かんでいる。
 竹生島だ!
 私の心はさざ波立った。竹生島の端正で美しい島影は、望笙峠から望む湖北地方の風景に強烈なアクセントを与えていた。なんて美しい景色なのだろう。私の心は大いに高まった。
 そして、かの浅井長政やお市の方も、こうして小谷山の山上から竹生島が浮かぶ琵琶湖を眺めていたかもしれないと想像したら、ますますこの景色がありがたいものに思えてきた。
 長政をはじめとする浅井氏と竹生島との関係については、この章のテーマの一つであるから、後ほどまた書く。
 ここでは、望笙峠という峠の名前について言及するに止(とど)めたい。
 笙とは、雅楽で使用する楽器の一つである。壺のような形状をした吹き口の上に長短17本の竹管を立てた楽器で、誰でも一度は画像か映像で見たことがあって何となくイメージすることができるかもしれない。
 しかし、笙を望む峠とはどういう意味だろうか?
 最初私は大いに首を傾(かし)げた。
 しかし、やがて合点した。
 展望台から楽器の笙が見えるのではないのだ。謎解きは、笙という漢字そのものにあった。笙という字は、分解すると竹と生とで構成されている。そうだ、竹生島なのだ。
 竹生(島)を遠く望む峠だから、望笙峠。なるほど、納得である。

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 竹生島を湖岸から眺めているだけでは、それ以上のことはわからない。やはり、実際に竹生島に行って自分の足で竹生島の土を踏んでみたい。私は、長浜港から船に乗って竹生島を目指した。
 乗ってしまえば30分の距離である。季節にもよるが、長浜港からは1日5往復(冬季は2往復)の定期便が出ていて、白い船体の洒落た船が快適に竹生島まで運んでくれる。
 竹生島へは、長浜港からのほかに、湖西の今津港からも定期船が出ている。思い立てば意外と身近に行ける島なのである。
 3月中旬の湖北地方は、鉛色の空だった。空の色と湖水の色とが同じようで、白い雪を頂いた賤ヶ岳方面の山々が境目になければ、両者の区別が付きにくかったかもしれない。
 季節がよければデッキにいた方が気持ちがいいかもしれないが、さすがに早春の風は冷たくて、長い時間晒されること能わずであった。『万葉集』で若(わか)湯座(ゆえの)皇子(みこ)が詠んだ「湖風(みなとかぜ)」(1)とは、まさにこんな冷たい風(かぜ)だったのだろうと思った。
 吹き付けてくる風は冷たかったけれど、不思議と湖面は平らだった。船室に戻って前方を眺めていると、鏡の面のような湖面のはるか向こうに、ちょこんと2つのなだらかな頂をもった島影が見えてきた。
 竹生島だ。

船から見た竹生島
 船は島に向かってまっすぐに進んでいく。少しずつ島影が大きくなっていって、確実に島に近づいていくのがよくわかる。
 やがて島に生える1本1本の木までが見極められるようになってきて、船は2つの頂のちょうど間にある入江へと滑るように入っていった。
 束の間のクルージングだった。船は竹生島の港に到着した。

 竹生島は神の宿る島として知られている。周囲2㎞ほどの、島としてはそれほど大きくはない島である。
島の成り立ちは、わかっていない。
全般的に島の周囲の水深は深く、特に西側は琵琶湖で最も深い104.1mもの水深となっているというから、琵琶湖の水がなかりせば、かなりの高さの独立峰のような様相を呈していることになる。
さらに、竹生島と北側の対岸にあたる葛(つづ)籠(ら)尾(お)崎との間の水深70mの湖の底には、湖底遺跡が存在していて多数の土器類が出土している。
いったいいつの時代に、どんな人たちがこの土地に住んでいたのだろうか?ということは、竹生島と葛籠尾崎とは陸続きだったということなのか?その集落がどうして70mもの湖底に沈んでしまったのか?
疑問ばかりが次々と浮かんでくる。
まさに竹生島は、神秘に満ちた島なのだ。人々がこの島に神が棲むと信じたことも素直に頷ける気がする。

 この島には、宝(ほう)厳寺(ごんじ)という寺院と都久夫須(つくぶす)麻(ま)神社(じんじゃ)という神社とが建立されている。
竹生島において私たちが散策できる場所というのは極めて限定されていて、この1つの寺院と1つの神社の境内、それに桟橋近くの土産物店が並ぶエリアくらいがその範囲である。
それ以外の場所は、神聖なる神の山の針葉樹林帯になっている。寺社関係者も土産物店関係者もみな島外から通って来ている人たちで、夜はまったくの無人島になるというから本当に不思議な島である。

船を降りた参詣客は、数店の土産物店の前を通り抜けると、「竹生島神社」の額が掛かる石造りの鳥居を潜り、急勾配な石段を登っていくことになる。竹生島神社とは、都久夫須麻神社の別名である。
物見遊山気分で島に降り立った私は、いきなりの試練に見舞われた。
お寺や神社に石段は付き物であるものの、まだ十分な覚悟もできていないままに、鋭角的な角度で上に続いていく石段を登って行かなければならない現実を理解した。

竹生島
最初の鳥居のところで道が左右に分かれる。右に行くと竹生島神社で、まっすぐに進んでいくと弁才天堂に至るとの案内板があった。少し迷った末に、私は弁才天堂が建つというまっすぐの道を選択した。
みるみるうちに高度が上がっていく。見上げる位置にあった寺の付属施設の建物群が、いつの間にか我が眼下に見渡せるようになる。
最初の登りは厳しかったけれど、あるいはそれであるが故に、意外と短時間の間に私は弁才天堂が建つ平らな広場に達することができた。
本尊である弁才天像を祀ることから弁才天堂の通称で親しまれている宝厳寺本堂が我が眼前にある。入母屋造りの大屋根の正面に千鳥破風を配した朱塗りの柱の建物は、平安時代の様式を模して昭和17年(1942)に建てられたものであるという。
比較的新しい建物と言っても、すでに70年以上の星霜を経ている。どっしりとした風格のある建物だ。

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今は宝厳寺と都久夫須麻神社とに分かれているが、元々は渾然一体とした存在であったらしい。現在のように寺と神社とが峻別されるようになったのは、明治維新の際の神仏分離令によるものである。
それまでの宝厳寺は、都久夫須麻神社の神宮寺のような存在だったのではないだろうか。寺伝によると、聖武天皇に命じられて行基が建立したものとされている。
神亀元年(724)に行基が初めて竹生島を訪れ弁才天像を祀ったのが、この寺の起源であるという。
一方で異説もある。『竹生島縁起』によれば、天平10年(738)に行基がこの島に小堂を建て、丈二尺の四天王像を造り祀ったのが最初であると書かれている。
どちらの説が正しいのかはわからないが、他の湖北地方の寺々と同様に、行基が寺の創建に深く関与していた可能性を考えることは、それほど不自然なことではない。
当初は東大寺の支配下にあったものの、10世紀中ごろ以降は比叡山延暦寺の傘下に属し天台宗の寺として栄えたことも、他の湖北地方の寺々の歴史と類似している。
観音信仰を中心とした素朴な湖北地方の寺々と宝厳寺との決定的な違いは、前者がムラの人々の純粋な信仰心により伝え続けられてきたオラがムラの守り神なのに対して、宝厳寺は浅井氏、豊臣氏など時の湖北地方の権力者たちによって信仰されてきた特別な意味合いをもった寺であるという点である。
古くは、先の『竹生島縁起』によると、天平勝宝5年(753)に近江国浅井郡大領の住人である浅井(あざいの)直(あたい)馬(うま)養(かい)が千手観音を納めて祀ったことが記載されている。
その後も、足利尊氏による地頭(じとう)職(しき)寄進状(足利尊氏による浅井郡錦織東郷の地頭職寄進)、足利尊氏の弟である足利直義の禁制(軍勢により島内の侵害を行わないことが書かれている)、後醍醐天皇綸旨(後醍醐天皇による今西河北庄の領家職寄進)、足利義政御判御教書(室町幕府八代将軍による竹生島所領安堵)など錚々たる歴史上の人物たちの古文書が宝厳寺に残されている。
さらに戦国時代になると、湖北地方を領有した亮政、久政、長政の浅井氏三代をはじめとして、宝厳寺に書状が残されている武将を挙げると、織田信長、豊臣秀吉、尼子晴久、朝倉義景、田中吉政などの名前が連なっている。
これら日本史にその名を残す著名な武将たちが、竹生島に対して寺領の安堵や年貢以外の課役の禁止、あるいは所領の寄進や宝物の奉納などを記した文書を遺している。
彼らはどうして、これほどまでに竹生島に厚い信仰心を寄せていたのだろうか?
そのなかでも特筆すべきは、浅井氏である。
元々、浅井氏の出身地である浅井郡の住人は、すべて竹生島の氏子であるとされてきた。北近江を領有する前の地方の一豪族であった頃から、浅井氏は竹生島を厚く信仰していたことが窺える。
初代亮政の先代に当たる浅井直政と直政の母である慶集が書いた「浅井直政・慶集寄進状」という古文書が宝厳寺に遺されている。明応9年(1500)3月12日の日付が記されているこの文書が、浅井氏と竹生島との関係を知る最も古い文書になる。
この「寄進状」によると、

  竹生嶋天女御宝の前に如法(にょほう)経(きょう)供料として米田地を寄附奉る事

 として、元々慶集の先祖から相伝してきた私領地である江州(近江国)高嶋郡川上庄および江州高嶋郡海津庄の田地6反余りを寄進したことが記されている。
 浅井氏は、北近江の領国経営の一環として、領民統治のためのパフォーマンスを目的に竹生島信奉をアピールしたとの説がある。もちろん、そういう側面があったことは確かだろうが、それ以前に、一氏子としての純粋な信仰心から竹生島を厚く敬っていたことが、この文書によりわかる。

 続いて、浅井氏三代と竹生島との関わりについてを書く前に、竹生島における最大の祭礼行事である蓮華会について触れておきたい。
 蓮華会の起源については、正確なことはわかっていない。大別すると2つの説があるようだ。
 一つは、宝厳寺の開基に深く関わった聖武天皇の存在である。
 確かな文献こそ遺されていないものの、勅願により宝厳寺を創建した聖武天皇は2度、竹生島を訪れたとの伝承が地元には残されている。
 一回目は神亀2年(725)3月3日のことで、この日に「豊饒会(ほうじょうえ)」を催したとされている。そして2回目の神亀4年(727)6月15日には、「金翅(きんじ)鳥(ちょう)王(おう)」の祭を執り行い、その祭礼料として高島郡安野庄を寄進したと言われている。
 「豊饒会」はまさに「蓮華会」の異名であるし、「金翅鳥王」も蓮華会の船(ふな)渡御(とぎょ)(後述)において船団の先頭を行く「鳥船」に用いられているものであり、聖武天皇の竹生島行幸と蓮華会との深い関係を物語っている。
 竹生島の「宮崎」という岬の先端近くには、「聖武天皇供養塔」と呼ばれる石塔が建てられている。また、島内には、聖武天皇の行幸の際に造られた道として「御幸坂」と呼ばれる坂がある。後述する観音堂と都久夫須麻神社本殿とをつなぐ舟廊下の北側から宝物殿の下へと通じている道だ。
 こうして島内に遺された伝承や地名の由来などを見ていくと、聖武天皇の影が色濃く竹生島に反映されていることがわかる。
 もう一つの蓮華会の起源として語られているのが、天台宗第18代座主(ざす)であった僧・良源に纏わる伝承である。
 良源は、慈恵(じえ)大師とも呼ばれ、叡山中興の祖として知られている人物だ。近江国浅井郡虎姫(現滋賀県長浜市)の出身であるから、まさに竹生島の氏子として幼少の頃から厚く竹生島を信仰していたかもしれない。
 最澄直系の弟子ではなく身分もけっして高くはなかったものの、南都の旧仏教勢力の高僧を法論で論破したり、村上天皇の皇后の安産祈祷等で次第に頭角を現わし、康保3年(966)に天台座主にまで上り詰めた人物である。
 当時の延暦寺は、承平5年(935)の火災により根本中堂をはじめとする多くの伽藍が焼失し、荒廃を余儀なくされていた時期だった。良源は、村上天皇の厚い信任を背景として堂塔の再建に努め、壮大な根本中堂を再建した。
今では延暦寺の代表的かつ中心建造物である根本中堂も、最澄による創建当時のそれは小規模なものであったらしい。良源のこの時の働きにより、根本中堂を中心とする延暦寺の伽藍の基礎が築かれた。
良源はまた、「二十六ヶ条起請」を公布して山内の規律を保つなど、まさに中興の祖と呼ばれるに相応しい業績を叡山に遺した。
命日が正月の3日であったことから「元三大師」の別名を有し、その他、「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」などの名前でも呼ばれている。これらの通称の一つや二つはどこかで聞いたことがあるかもしれない。
さらに良源は、「おみくじ」の創始者としても知られている。
ついつい多くの紙面を割いて良源のことを書いてしまったのは、良源がまさに我が湖北が生んだ仏教界のスーパースターであるからだ。
天台宗の最高責任者の地位になど、誰もが簡単に就けるものではない。最澄の直弟子でもなく身分も高くなかった良源が天台宗の最高位を極めることができたのは、良源の弛(たゆ)まない精進と高い能力の賜物であると思う。
良源のことは、前著『湖北残照 文化篇』の「観音の里」の項で少しだけ触れている。高野の大師堂にある伝・伝教大師像が、実は慈恵大師像であるということを紹介した個所である。再掲すると、以下のとおりである。

右手に密教独特の独鈷(どっこ)杵(しょ)と呼ばれる金属製の道具を持ち、左手には念珠を手にしてい
る。きりりと引き締まった口元に鋭い眼光。緊張感が漲る表情には強い意志が感じられ
る。

 後世に創られた像だろうが、たいへんにリアルで厳しい表情をされている。見ている私の方が気後れしてしまいそうな、そんな緊張感と迫力に溢れていた。
 良源を祀った寺院は全国に点在し、そのうちのいくつかは誰もが知っている著名な寺院である。
 例えば、栃木県佐野市の惣宗寺(佐野厄除け大師)、東京都調布市の深大寺、東京都台東区の輪王殿両大師堂(両大師)、埼玉県川越市の喜多院(川越大師)、大阪府天王寺区の四天王寺などである。
 慈恵大師良源が意外に身近な存在であることが理解されただろう。
 話を元に戻す。豊饒会の起源として、良源が関与しているとの説についてである。
 宝厳寺に伝わる応永28年(1421)2月の日付のある「竹生島宗徒等目安案」という古文書の中に、蓮華会の由来として以下のことが書かれている。
円融天皇の御代(969年~984年)のことである。深刻な旱魃に見舞われた天皇は、時の天台座主であった良源に対して「請雨之御祈」を行うよう勅宣を行った。
その勅宣に従い坂本の日吉大社にて祈祷をしていた良源は、「権現之霊夢」を見た。その霊夢の告げるとおりに、良源が竹生島にて舞楽を奏して御躰(みたい)を供養し法華経を唱えたところ、たちまちにして黒雲がたなびき雨が降り出したと伝えられている。
この時に良源が行った祈祷の様子がその後も竹生島で継承されて、現在の蓮華会の起源となっているという説である。
このことを傍証する記録が遺されている。
長元5年(1032)に良源の弟子の梵照が著した『慈恵大僧正拾遺伝』によると、貞元2年(977)に良源が「近江国浅井郡竹生島」において法華経百部を書写し、法会を催した後に龍頭(りゅうとう)鷁首(げきす)という船に乗り、楽人が鼓を打つなかを散花しながら島を廻ったとの記録が遺されている。
龍頭鷁首とは聞きなれない名前だが、舳先に「龍」と、鵜に似た白い水鳥である「鷁」とを飾り付けた船のことである。
先の聖武天皇起源説のところで、後述するとして「金翅(きんじ)鳥(ちょう)王(おう)」や「船(ふな)渡御(とぎょ)」という聞き慣れない言葉を使った。
なかなかイメージを掴めずにいたのだが、中世の蓮華会の様子を描いた「竹生島祭礼図」(東京国立博物館蔵)という絵を見て、なるほどと合点がいった。
その絵には、鳥の首を模した大きな飾り物が付いた船を操り竹生島に向かう人たちの様子が描かれている。この鳥こそが、いわゆる「金翅鳥」と呼ばれる鳥である。また、こうして対岸の早崎港や尾上港からご神体の弁才天像を乗せて船で竹生島に向かうことを「船渡御」という。
船の大きさに比して鳥の飾り物が非常に大きく立体的で、まるで巨大な鳥そのものが湖を泳いで渡っているようにさえ見える。
龍頭鷁首という船は、舳先に龍の頭部と鷁の首とを飾り付けた双頭の船だろうから、金翅鳥の船とは少し趣が異なるものだろうが、概ね似たようなものであったろうことが想像される。
このように飾り付けられた船に乗り、楽の音が奏でられるなかを、色鮮やかな花を湖水に撒き散らしながら島を廻ったというのだから、随分と華やかな行事であったことが想像される。まるで平安貴族の舟遊びを彷彿させる光景ではないだろうか。
先に引用した『慈恵大僧正拾遺伝』によると、良源が行ったこの行事は、「弁才天荘厳(そうごん)」と「生地の恩に報いる」という、二つの目的のために執り行われたものであるという。
竹生島の対岸である近江国浅井郡という地域と弁才天信仰とが、良源という偉大な僧侶によって一つのものとして結び付けられたと解釈することができるのではないだろうか。
蓮華会の起源が聖武天皇なのか良源なのか、正確なところはわからないけれど、いずれにしても長い間、竹生島におけるもっとも重要な祭りとして、古来より蓮華会が連綿と受け継がれてきた事実に間違いはない。

もう少し蓮華会の説明を続ける。
その年の蓮華会を取り仕切る中心人物のことを頭役(とうやく)(または頭人)と呼ぶ。頭役は、浅井郡居住者か浅井郡出身者の中から毎年2人(先頭(せんとう)および後頭(ごとう))が籤(くじ)により選ばれる。
選ばれた頭役は、竹生島から「御正躰(みしょうたい)」と呼ばれる御神体を自宅に迎え入れるとともに、自宅の敷地内に弁才天の仮屋となる祠を建てる。頭役夫婦は別火で精進し、新たに弁才天像を作る。その弁才天像を祭りの当日、船に乗せて竹生島まで運び奉納する儀式を執り行うというのが、蓮華会の概略である。
この、船に弁才天像を乗せて竹生島に渡る行事を「船渡御」という。先の良源のところで出てきたように、管弦師により楽が奏でられ、「金翅鳥」を模した船で湖を渡る光景は、実に晴れがましくて華やかである。
いかにも、女性の神様として崇められている弁才天を祀るに相応しい、艶(あで)やかな行事ではないだろうか。
蓮華会は、浅井長政の時代には6月15日に行われていたようだが、現在は8月15日に執り行われている。宝厳寺住職の言によると、法要の結願日が8月15日であるとのことである。
 頭役に選ばれることはたいへんな名誉であり、頭役を務め終えた家のことは、敬意を込めて「蓮華の長者」あるいは「蓮華の家」などと呼ばれている。さらには、「竹生島の頭が差した」などと表現されることもある。
これは元々、天皇自らが頭役を務められていたものを、後に一般人がこれに代わるようになったことに由来するとも言われている(聖武天皇起源説)。
さらにまた、先に見てきたとおり、選ばれた頭役は自宅の敷地内に弁才天を迎える仮屋を建てたり、奉納する弁才天像を新造したりしなければならず、多大な経済的負担を伴うものでもあった。
頭役は籤により選ばれると書いたけれど、実際には、誰もが頭役になれるわけではなかったのである。
頭役になりたいのになれなかった者もいれば、頭役に選ばれたのにこれを辞退する者も現れた。
こうして、頭役を巡っては、古来から数々の争いが繰り展げられてきた。
先に引用した「竹生島宗徒等目安案」(応永28年(1421))も、その作成目的は、頭役に選ばれた浅井西郡五坪(現長浜市湖北町五坪)の粟間子息がこれを拒否したことから、竹生島の衆徒らが訴えを起こした文書である。

蓮華会の頭役に関するこれらの争いを裁き、円滑に祭りを取り仕切ることも、浅井郡を統治する支配者にとって重要な役割であった。
北近江を支配した浅井氏もそれは例外でなく、初代亮政や三代長政の時代に蓮華会の頭役を決する差(さ)定(じょう)に深く関与していたことを証する記録が遺されている。
浅井亮政書状(「竹生島文書」年未詳12月21日付)には、蓮華会の執行に滞りがないよう指示したことが記載されている。
また、浅井長政書状(「竹生島文書」年未詳7月11日)では、頭役候補として名前が挙がった三田村与介なる人物が如何なる人物であるかを尋ねている。これは、浅井氏として頭役の候補者が適任であるかどうかを見極めようとしたものと思われ、蓮華会の執行に浅井氏が深く関与し、責任の一端を担っていたことを物語る証拠であると考えられている。
実は、浅井氏自らが頭役を務めたこともあった。
永禄9年(1566)に二代浅井久政が、さらにその翌年の永禄10年にも久政の生母である寿(じゅ)松(しょう)が、頭役を務めている。実に2年連続で浅井氏が頭役を務めたことになる。
先に触れた東京国立博物館蔵の「竹生島祭礼図」に描かれた金翅(きんじ)鳥(ちょう)船には、三盛亀甲の浅井氏の紋が描かれた幔幕が張り巡らされている。まさにこの絵は、浅井氏が頭役を務めた際の蓮華会の様子を描いた絵であることがわかる。
この時の久政および寿松が頭役を務めた際に奉納したという弁才天像が、今も宝厳寺に遺されている。
久政が奉納したとされる弁才天像は、高さ145cmと宝厳寺に現存する弁才天像のなかで最も大きく、実に堂々とした像である。
背面に頭役を務める前年の永禄8年の制作であることが墨書されていることと像の規模等から、久政が奉納した像であると目されている。
蓮華座に坐した八臂(はっぴ)の像で、それぞれの手に宝剣や宝珠などを持っている。かつて彩色されていたことが窺えるが、450年近くの歳月が像から色を取り去り、しかしそれが故にかえって古びた神々しさを醸し出している。
寿松が奉納した弁才天像は、高さ117cmと久政の弁才天像よりやや小振りだ。唇に引かれた紅や腕に彩色が残されていて、こちらもたいへんに豪華な弁才天像である。
これらの像を新たに作り2年続けて蓮華会の頭役を務めた浅井氏の実力と名声は、当時の北近江において誰もが認めるものとなったであろう。
こうして蓮華会の歴史を見てくると、浅井氏と竹生島との並々ならぬ関係が理解されると思う。
浅井氏は、湖北地方をその版図として手に入れる前から竹生島の氏子であり、生まれながらにして竹生島に対する篤い信仰心を持っていた。
他の戦国大名が竹生島と良好な関係を築くことで湖北地方の民意を得ようとしたのとは、根本的にスタンスが異なっていたのだ。
反対に言うと、湖北の人たちにとっては、今なお竹生島に対する愛着心や信仰心を持ち続けているのと同じ理由で、浅井氏に対しても同胞としての強い愛着心を抱いているということだ。
湖北の民のベクトルと浅井氏の持つそれとが同じ向きに向かうその先にあるのが、竹生島だった、と言い換えてもいいのかもしれない。

 私は随分と長い時間、宝厳寺に留まってしまったようだ。竹生島には宝厳寺のほかにもう一つ、都久夫須麻神社という由緒ある神社が鎮座している。帰りの船の時間が来ないうちに、急いで都久夫須麻神社に詣でなければならない。
 竹生島において、かつては神社と寺院とが渾然一体であったものが、明治維新の神仏分離令によって別々の存在として引き離されたことは、先に書いた。しかし今でも、堂塔の配置を見る限りは、宝厳寺と都久夫須麻神社とは一つながりになっているように見える。
 宝厳寺の本堂がある広場から本堂を背にして左方向に降りていく階段があった。その階段の行き着くところに、苔むした檜皮葺きの由緒ありげな建物が建てられている。宝厳寺唐門と観音堂である。

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 入母屋造りの建物の前面に引き出るようにして唐破風が付属している。一つの建物のようにも見えるけれど、よく見ると入母屋造りの観音堂の横っ腹に唐破風を持つ唐門を注ぎ足すようにして接続されていることがわかる。
唐門は、幾星霜の経過によりすっかり剥げ落ちてしまっているが、ところどころに僅かに残る黒い塗料の痕跡から、かつては総黒漆塗りの豪華な建造物であったことを窺うことができる。
桃山時代から江戸時代初期にかけての建築や彫刻の様式が色濃く反映された趣のある建物である。

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 国宝に指定されているこの唐門は、かつて豊臣秀吉の墓である豊国廟にあった「極楽門」であるという。秀頼の命により慶長8年(1603)に片桐且元が移築したものと伝えられている。
 片桐且元は小谷山の麓の須賀谷で生まれ、賤ヶ岳の七本槍の一人として名を馳せた武将である。どうして秀頼が豊国廟にある門をわざわざ竹生島に移築したのかはわからないが、湖北に所縁(ゆかり)のある且元に移築を命じた背景には、あるいはそういった配慮があったかもしれない。
 この唐門は、豊国廟の極楽門からさらに歴史を遡ると、元々は大坂城本丸の北に架けられていた「極楽橋」であるとも言われている。
 京方面から大坂城に入るには、城の北側からこの極楽橋を渡って天守に至るのが当時の道筋であった。橋と言っても普通の橋ではない。二階建ての望楼を付属させた廊下橋であったという。秀吉は大坂城の天守を極楽に喩(たと)え、その極楽へと通ずる橋としてこの極楽橋を建築し豪華に彩ったのかもしれない。
 もしもこの話が本当だとすると、私は今、唯一現代に遺る大坂城の遺構を目にしていることになる。そういう目で見てみると、虹梁には鳳凰や兎などの詳細な彫刻が施され、入口の両脇には見事な唐草模様の彫りものが据え付けられていることがわかる。
 長い時間風雨に晒され続け今は当時の輝きを失ってしまっているけれど、この建物からはどことなく漂う気品のようなものを感じた。むしろ色彩が失われ、素の地肌が露わにされた今の姿こそが、この建物の持つ本質的な価値を表しているのかもしれない。
 唐門に接続して建てられているのが、重要文化財の観音堂である。こちらも、唐門と同様に慶長8年(1603)に豊国廟から移築されたものだと言われている。
 おそらくは狭く急峻な地形の関係からだろうが、前述のとおり、唐門は観音堂の横に接続されている。観音堂の正面を見るためには、唐門を入った後、観音堂の壁に沿って右側に回り込まなければならない。
 観音堂も、外壁・内陣ともに総黒漆塗りの壮大な建造物である。見上げれば、折上格天井となっている天井には、桐、菊、牡丹などの花々が描かれているのがわかる。

 

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柱や壁面に貼られた夥しい数の千社札が建物の品位と景観とを台無しにしてしまっているのがたいへん残念であるけれど、心の内でそれらを取り除いて見てみると、唐門に匹敵する美しい建造物が姿を現してくる。
 宝厳寺には、二躰の本尊が祀られている。
 本堂である弁才天堂に祀られているのが弁才天像であることは言を俟たないが、もう一つ、この観音堂に祀られているのが千手観音立像である。
鎌倉時代に制作された11面42臂の等身大の像だそうで、60年に1回しか開扉しない秘仏となっている。
 古びた回廊を廻っていくと、やがて「舟廊下」と呼ばれる渡り廊下となる。
 観音堂と都久夫須麻神社本殿との間に横たわる谷の上を渡る長い廊下は、秀吉が朝鮮出兵の際に使用した御座船「日本丸」の舟底の用材を天井板として使用しているところから、舟廊下と呼ばれているものである。
 廊下内の表示には「国宝舟廊下」と書かれているが、実際には重要文化財である。

DSCN3214外観は、清水(きよみず)の舞台を彷彿とさせるような長い床下柱をもつ懸(かけ)造(づく)りの構造になっている。狭隘で急峻な地形に適応すべく造られた苦心の建物であることが窺える。
 舟廊下を渡り切ったところが、都久夫須麻神社の本殿になる。

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 社伝によると、雄略天皇3年(420)に浅井姫命を祀る社殿が造られたのがこの社の起源であると言われている。
 浅井姫命と竹生島に関するたいへん興味深い記述が『近江國風土記』に遺されている。

  又云(い)へらく、霜速比(しもはやひ)古(この)命(みこと)の男(こ)、多々(たた)美比(みひ)古(この)命(みこと)、是(こ)は夷服(いぶき)の岳(たけ)の神と謂(い)ふ。女(むすめ)、比佐(ひさ)
志比女(しひめの)命(みこと)、是(こ)は夷服(いぶき)の岳(たけ)の神の姉(いろね)にして、久(く)惠(ゑの)峯(みね)に在(いま)しき。次(つぎ)は淺井比咩(あさゐひめの)命(みこと)、是(こ)は夷服(いぶき)
の神の姪(めひ)にして、淺(あさ)井(ゐ)の岡(をか)に在(いま)しき。ここに、夷服(いぶき)の岳(たけ)と、淺(あさ)井(ゐ)の丘(をか)と、長高(たかき)を相(あい)競(きそ)ひ
しに、淺(あさ)井(ゐ)の岡(をか)、一夜(ひとよ)に高(たか)さを增(ま)しければ、夷服(いぶき)の岳(たけ)の神、怒(いか)りて刀劔(つるぎ)を抜(ぬ)きて、
淺井比賣(あさゐひめ)を殺(き)りしに、比賣(ひめ)の頭(かしら)、江(うみ)の中(なか)に墮(お)ちて江島(しま)と成(な)りき。竹(ちく)生島(ぶしま)と名づくるは
其の頭(かしら)か。(2)

 夷服の岳とは伊吹山(1377m)のことを、淺井の岡(丘)とは金(かな)糞(くそ)岳(1317m)のことを指していると言われている。
伊吹山と金糞岳とが高さを争い、一夜のうちに金糞岳が高さを増したので、それを怒った夷服の岳の神である多々美比古命が淺井の岡の神である淺井姫命の首を斬り落とした。姫の首が湖の中に落ちて島となった。それが竹生島である。
叔父が姪の首を斬り落とすなんて、なんとも血生臭い話だ。
『近江國風土記』に所収のこの話は、斬り落とされた淺井姫命の首のせいで金糞岳の方が伊吹山よりも低くなってしまったということと、竹生島の由来(淺井姫命の首が竹生島になった)とを物語っている。

伊吹山を中心に土地を支配していた多々美比古命と金糞岳を中心に湖北地方を支配していた淺井姫命は、元々血のつながった親族の関係にあった。
ところがある時突然、淺井姫命が軍備を増強して多々美比古命を攻撃する気配を見せたため、そのことを怒った多々美比古命が淺井姫命を攻めてこれを滅ぼした。
淺井姫命の首が琵琶湖に落ちて竹生島になったというのは、この時に命を奪われた淺井姫命の魂を鎮めるために、竹生島に墓が築かれ霊が祀られたということを暗示しているのではないか。
古代に起こった一族の主導権争いの事件を山の高さ比べに喩えて書き表わし、併せて竹生島の起源を表現したのが、この『近江國風土記』の記述ではないか、などと私は勝手な想像を巡らせている。
このようにして想像の物語を展開していくと、「雄略天皇3年(420)に浅井姫命を祀る社殿が造られたのがこの社の起源であると言われている」と先に書いた社伝の記述に、より具体的な状況が付加されていく。
竹生島に弁才天が祀られるようになったのも、あるいは祭神として女性である淺井姫命が祀られていることと関係しているかもしれない。
それに富や現世の利益に縁が深い財宝神としての弁才天の性格が重なり、竹生島が弁才天の島として人々の信仰を集めるようになっていった……。
などと一連のストーリーを展開してみるのも、知的想像作業として実に楽しいことだ。
さらに、夷服の岳の神とは、『古事記』に登場し日本武尊を大いに苦しめた「伊吹山の大蛇」と同一人物かあるいはその一族であろう、などと想像を逞しくすることもできる。
日本武尊にも匹敵する強敵に反旗を翻した淺井姫命という人(神)がどんな人物だったのか、興味は尽きない。
ところで、その淺井姫命を祀る神社が、竹生島のほかにもう1ヶ所ある。
浅井氏発祥の地と言われ、境内には「浅井亮政出生の地」の石柱が建つ丁(よう)野(の)(現長浜市小谷丁野町)の岡本神社がそれである。
淺井姫命は、戦国大名浅井氏の遠い祖先であるかもしれない。そして、浅井氏と竹生島とを結びつける重要な役割を果たしている人物なのではないか。
多々美比古命との戦いに敗れた淺井姫命の一族は、湖北の地を追われたことが容易に想像されるが、その一部が湖北地方に密かに残ったのかもしれない。
祖先である淺井姫命の霊を祀るために岡本神社が建立された。あるいは、延喜式内神名帳所録で近江国浅井郡十四座の一つとして元々存在していた岡本神社に淺井姫命が主祭神の一柱として加えられた、などの事情が考えられる。
丁野のことは別の章で書くことにしているので、ここでは丁野の岡本神社に淺井姫命が主祭神として祀られていることを示すに止めることとしたい。

 話を都久夫須麻神社に戻す。
 都久夫須麻神社の本殿は、慶長7年(1602)豊臣秀頼の寄進によるものである。
宝厳寺といい都久夫須麻神社といい、竹生島に秀頼が寄進した建造物が多いのは、秀頼の生母である淀殿の意向が色濃く反映された結果であると考えるのが妥当だろう。
小谷城に生を受け秀吉の側室となった淀殿は深い神仏への帰依のもと、生まれ故郷の竹生島に対しても強い信仰心を持ち続けていたようだ。そんな歴史のちょっとした綾に目を向けてみることも、またおもしろい。
その都久夫須麻神社の本殿は、永禄10年(1567)に建築された向拝(ごはい)や庇(ひさし)など元の本殿の外回り部分に、伏見城の遺構と言われている建物を入れ込んで一つの建物とした特殊な構造となっている。
 桁行5間、梁間4間の入母屋造り檜皮葺き屋根の前後の軒に唐破風を付け周囲に庇を巡らした建物は、国宝に指定されている。
 近年は傷みが激しく、平成21年以降は内装保護のために一般人の本殿への拝観は許可されなくなってしまった。実に残念なことである。
 それでも、本殿の前に佇むと、金色の御幣が奉られている正面の桟(さん)唐戸(からと)や欄間には菊や牡丹などが立体的に彫刻されていて、かつては極彩色に彩られていたであろう色の痕跡も認められる。
 現在見ることができない内陣には、狩野光信(1564~1608)による襖絵や天井画が描かれているのだそうだ。華やかな金地を背景にして菊、松、梅、桜、桃、楓など四季折々の花や草木が咲き乱れる様は、まさにこの世の極楽を見るような思いなのではなかろうか。
 色褪せてなおの輝きである。移築当時はさぞ、絢爛豪華な桃山時代の香りを芬々(ふんぷん)と漂わせてくれる雅やかな建物であったであろうことが想像される。
 本殿の前面に張られた高貴な赤い色をした幕には、この神社の格式の高さを誇るかのように、向かって右側に菊の御紋、左側に桐の紋が染め抜かれている。
 本殿右側のやや下がった場所には、石造りの鳥居に「厳島大神 江島大神」の額が掛かる小さな社が祀られていた。
 ここ竹生島のほか、安芸国の宮島、相模国の江の島の3つの島に祀られている弁才天を、俗に日本三大弁才天と言うのだそうだ。奇しくも都久夫須麻神社の本殿前に、その三社の神が勢揃いしていることになる。
 本殿の石段を降りたところに建つ海に面した建物が、拝殿である。
 『平家物語』には、平経正がこの拝殿で琵琶を奏でた様子が描かれている。
 拝殿から海を臨むと、目の下がちょっとした岬のようになっていて、その先端近くにある太い注連縄の張られた石造りの鳥居を見下ろすことができる。
 素焼きの小皿(かわらけ)に願いごとを書いてこの拝殿から投げ、かわらけが下の鳥居の間を見事に潜れば龍神によりその願いが叶うと言われている。
 私には鳥居が遠く、また小さく見えて、とてもその間を通すことなどできないように思われた。残念ながら、私の願いごとは叶いそうもない。
 海に面した拝殿の中央部には、「竹生島竜神拝所」なる場所があり、龍と言うよりは蛇と言った方が相応しいような1対の彫像が置かれていた。近くに「龍神祝詞」なる額が掲げられていた。興味を持ったので、参考までに以下に転記する。

  高天原(たかまがはら)に坐(ま)し坐(ま)して天(てん)と地(ち)に御働(みはたら)きを現(あらは)し給(たま)う龍王は大宇宙根元(こんげん)の御祖(みおや)の御使いにし
て一切を産み一切を育て萬物(よろづのもの)を御支配あらせ給う王神なれば一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやこと)
の十種(とくさ)の御寶(みたから)を己(おの)がすがたと變(へん)じ給いて自在自由に天界地界人界を治め給う龍王神な
るを尊(とうと)み敬いて眞(まこと)の六根一筋(むねひとすじ)に御仕(みつか)え申すことの由(よし)を受引き給いて愚(おろか)なる心の數々(かずかず)
を戒め給いて一切衆生(いっさいしゅうじょう)の罪穢(つみけが)れの衣を脱ぎ去らしめ給いて萬物(よろづのもの)の病災(やまひ)をも立所(たちどころ)に
祓(はら)い清め給い萬世界(よろづせかい)も御祖(みおや)のもとに治めせしめ給へと祈願(こひねがい)奉ることの由をきこしめし
て六根(むね)の内に念じ申(もお)す大願(だいがん)を成就なさしめ給えと恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(もお)す

 拝殿から湖水を眺めているとなるほど、鉛色の雲が覆う空の下(もと)、鏡のような湖面のどこからともなく龍が現れ出てきそうな気がする。
 満々と水を湛えるこの湖水には、さまざまな生きとし生けるものが棲息している。母なる湖である琵琶湖のどこかに、龍が棲んでいたとしても少しも不思議を感じない。竹生島の龍神信仰は、そんな素朴な人々の思いから発生したものなのかもしれない。

 私は随分と竹生島に長居をしてしまったようだ。急がないと、帰りの船が出てしまう時間が近づいてきた。
 書きたいことはまだたくさんあるが、最後に謡曲「竹生島」について触れて、島を後にすることとしたい。
 都久夫須麻神社の拝殿に、平成10年3月24日(火)に奉納能が催されたことを記す木製の額が掲げられていた。
 演目はもちろん、「竹生島」である。
 武田尚浩さんがシテを務め、中村彌三郎さんがワキを演じられたことがわかる。竹生島を舞台とした謡曲「竹生島」とは、どんな能なのだろうか?少しだけ、能の世界を覗いてみることにしたい。

 時は延喜帝(醍醐天皇)の御代のこと。帝の臣下が、霊験豊かと伝えられる竹生島の弁才天の社に詣でようと、帝にお暇を賜り琵琶湖を訪れる。
 そこへ年老いた漁師が若い女性を乗せた釣り舟に乗り現れた。臣下は老人に、竹生島まで連れて行ってくれるよう頼んだ。
 この舟は渡し舟ではなく釣り舟だと一旦は断るものの、臣下が初めて竹生島に詣でる者であることを聞いて、同乗することを許す。
 時は(旧暦)3月半ばの穏やかな季節。湖面にはさざ波さえ立たず、対岸の桜の花が白雪かと見まがうばかりである。湖上で春爛漫を満喫した一行は、やがて竹生島に到着する。
 漁師の案内で、臣下は弁才天を拝んだ。聞きしに勝るありがたい像に臣下は感激する。ところで、先程の女人も一緒に参られたけれど、そもそもこの島は女人禁制ではないのかと、臣下が尋ねる。
 弁才天は女性の神であるから、女性であっても分け隔てをしない。そもそも、私は人間ではない。
 そう言い置いて、女人は社壇の扉を押し開いて宮の中へと入ってしまった。漁師姿の老人も、私はこの湖の主であると言い捨てて波間に消えていった。

 やがて弁才天に仕える社人が現れ、臣下に竹生島の由来を語り宝物などを見せていると、社殿の中から眩い光とともに弁才天が天女となって姿を現し、春の夜の月明かりの下で舞いを舞う。
 私はこの竹生島に住み、神を敬い国を守る胎蔵界の弁才天であると名乗る。
 空から音楽が舞い降り、花が盛んに降りしきるなか、美しい天女の舞いが月明かりに照らし出されていく。
 そこへ湖からは龍神が現れ、天女の舞いに和す。龍神は金銀の珠玉を臣下に捧げ、祝福の意を表する。
 しばしの舞いの後、天女は社へ、龍神は龍宮へと入っていく。
 地謡が補う。
 衆生(しゅじょう)済度(さいど)の誓いは様々なかたちで現れる。ある時は天女の姿になって衆生の願いを叶え、またある時には下界の龍神となって国土を鎮める。その誓いを現して、天女は宮の奥へと入って行った。龍神もまた、湖水に飛び込み湖面が大いに波立った。

 ざっと表すと、こんな内容の能である。
 前シテは翁であり後シテも龍神であるから、弁才天よりもむしろ龍神を中心に書かれているところが興味深い。金春禅竹の作である。

 短い滞在時間であったけれど、私は神が宿ると言われている竹生島を満喫した思いで、長浜港へと向かう帰りの船に乗った。
 竹生島には庶民の素朴な祈りがあり、武将たちの多少打算を含んだ信仰があった。私はこの竹生島で、さまざまな人たちがさまざまな思いで捧げてきた祈りのかたちを見たような気がした。
 弁才天も千手観音も龍神も、元はと言えば衆生済度という一つの霊験が姿を変えてこの世に現れ出でた化身なのかもしれない。
 長浜港へと向かう船の一番後ろのデッキに腰掛け、冷たい湖風(みなとかぜ)に打たれながら、私は島影を見続けていた。この次は、桜の花が満開の季節に来てみよう。謡曲「竹生島」を頭に思い描きながら、そう思った。

(1)  葦(あし)べには 鶴(たづ)が音(ね)鳴きて 湖風(みなとかぜ) 寒く吹くらむ 津乎(つお)の崎はも 若(わか)湯座(ゆえの)王(おおきみ)
   万葉集巻三352
(2)  秋本吉郎校注 日本古典文學大系2『風土記』岩波書店より