3.多賀大社

諸田玲子さんの著書「奸婦にあらず」には、主人公である村山たか女の本拠地としてここ多賀大社が度々登場する。紀州徳川家と深いつながりを持ちながら、地元の井伊家にも強い影響力を擁する隠然たる政治的権威。坊人(ぼうにん)と呼ばれる特殊能力者を駆使して政治的工作や諜報活動を展開する不可思議な集団。由緒がありながらきな臭さを感じさせる存在として、諸田さんはこの多賀大社のイメージを作り上げた。

clip_image006 紀行文写真file 484 多賀大社

多賀大社でたか女の足跡を確かめたい。

今回多賀大社を訪れることが叶って、長年にわたって抱き続けてきた願いをようやく私は実現させることができた。

多賀大社の門前町は、門の左右に横に拡がっている。普通の門前街が門からまっすぐ正面に伸びているのと比較すると、極めて稀な形態である。大社に詣でる前に、まずは当地の名物である糸切り餅を食することにした。

たか女も食べたであろうか?長い餅を糸で切って食べやすい一口サイズに整えたところから名付けられたという可憐な和菓子だ。中に餡子が入っていて食べやすい。実演販売をしている店や、店内でお茶のサービスを施している店などもあり、門前街の楽しい気分を味わった後、多賀大社の鳥居を潜る。

鳥居の前に立つ時、何と言っても目を奪われるのは、太鼓橋だ。

紀行文写真file 474 紀行文写真file 472 太鼓橋

太鼓橋と言うと、私などはすぐに鎌倉の鶴岡八幡宮の太鼓橋を思い浮かべてしまうが、ここ多賀大社の太鼓橋は、急峻な角度が半端ではない。橋には滑り止めの太い丸太が幾本も据え付けられている。この滑り止めに頼らなければ、橋を渡り切ることは至難の技である。もっとも、そんな危険を冒さなくても、もちろん橋の脇を通れば難なく大社に詣でることはできるのでご安心を。

お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる

お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り

俗謡にもある通り、地元の信仰は厚い。多賀大社の祭神が伊邪那(いざな)岐(ぎの)命(みこと)、伊邪那(いざな)美(みの)命(みこと)であり、伊勢神宮の祭神である天照大神の生みの親であることから出た俗謡であろうが、これを全国に宣伝して歩いたのが、坊人であると言われている。諸田玲子さんが作り上げた政治組織が存在していたかどうかは別として、恐るべき組織力である。

滋賀地方の一つの古社でしかなかった多賀大社の名が全国的に知れ渡っているのは、坊人の功績が大であったものと思われる。

それともう一つ。多賀大社の名前を日本中に拡めたのは、天下人である豊臣秀吉だろう。母である大政所の延命を願い、「3年、それが叶わなければ2年、いやせめて30日でも」と祈念したと伝えられている。入口のところにある太鼓橋は、その願いが成就したことにより太閤が寄進したもので、太閤橋と呼ばれている。

多賀大社は現在、平成の大造営が行われている。2007年9月には本殿屋根の桧皮の吹き替え工事が完工し、装いを新たにしたばかりだ。私が訪れた季節は折しも紅葉が燃え盛る秋で、境内の所々に植えられた楓の木々が、鮮やかなアクセントを与えていた。

たまたま私が訪れた時は参拝客もまばらで閑散とした風景が拡がっていたが、2月の節分祭や8月3日~5日に行われる万灯祭の際には、大勢の参詣客で溢れるばかりになると言う。長寿の神様として、また、縁結びの神様として、篤い信仰心を集めている。私もそれにあやかったわけではないが、境内にある茶屋で長命そばを食した。

多賀大社を訪れたら絶対にお勧めなのが、奥書院の庭園だ。社務所でお願いすると拝観することができる。大々的に案内がされているわけではないので、知らずに帰ってしまう参詣客が多いのではないか。

庭園の拝観者は、拝殿に向かって左側にある立派な会館から中に入る。あとは勝手に館内の案内に従って細い廊下を進んでいく。古風な廊下には、有名人が奉納した絵馬が多数展示されていて、それを見ているだけでも楽しい。

庭園を巡る廊下は迷路のように入り組んでいて、神社の舞台裏に迷い込んでしまったような感覚になれて楽しい。

紀行文写真file 518 紀行文写真file 512 多賀大社庭園

古風なガラス窓越しに眺める楓の木やさりげなく配置された庭石が趣深い。神社の奥にこんな不可思議な空間が拡がっていることに、私は驚いた。

外界の喧騒から隔絶された静寂の世界で、私は多賀大社の神秘を想った。この神社には、他の神社にない何かがある。私の中で「奸婦にあらず」に登場する多賀大社のイメージが強過ぎるせいだろうか?

庭園を後にしたのち、神域にたか女の足跡を求めてしばらく歩いてみたが、残念ながらたか女がここで生きた痕跡を確認することはできなかった。これは後で知ったことだが、鳥居を出た向かい側に、たか女の生家があったらしいことがわかった。たか女に関する私の探訪は、どうやら次の機会に託さなければならないようだ。

少し残念ではあったが、もう一度、多賀大社を訪れる口実ができたことは、私にとっては別の意味では幸運であった。次回たか女に逢えることを楽しみに、次の機会を窺うことにしたい。

追記

前回の多賀大社訪問では、たか女の足跡を確認することができずに残念な思いをした。どうしても自分の目でたか女の生きた痕跡を確かめたくて、矢も盾もたまらぬ思いから私は再び多賀大社を訪れた。

大鳥居の前に到着した私は、鳥居を背中にして右側に続いている参道を進んだ。道の左手にたか女の生家があったはずだ。インターネットで調べた結果を手掛かりに、みやげもの屋が立ち並ぶ参道をどんな痕跡も見逃すまいと、一軒一軒丹念に覗き込みながら歩いて行った。

見知らぬ人が見たら、妖しい行動と見てとれたかもしれない。なにしろ、土曜の昼下がりだというのに参道は閑散としていて、そこにものを物色するような目つきでそろりそろりと歩いていたのだから。

あった。

clip_image002 不二家(たか女生家跡)

「幕末悲劇の女性 村山たか女の生まれた家」と書かれた看板が、あった。今では不二家という名前の食事処となっている。黒を基調とした柱と白い壁が調和した、瀟洒な造りの建物が落ち着いていて、いかにもたか女にゆかりのある土地に似つかわしく感じられて、好感が持たれた。

もう一軒、不二家の右側にあるやまだ精肉店の店先のガラス戸にも、「村山たか女の住処」と書かれたたか女の履歴が表示されていた。近江牛の看板を掲げるこちらの肉屋も、門前街に相応しい店構えであることに安堵した。

clip_image004 やまだ精肉店(たか女生家跡)

たか女の生家は、この二軒にまたがる広い敷地に存在していたということか。

説明書きによると、たか女は皇族の血をひく尊勝院の尊賀上人を父に持ち、般若院院主の娘であり花柳界にもゆかりのある藤山くにを母とする名家の生まれであったことがわかる。多賀大社とは深い縁(えにし)で結ばれている。「花の生涯」で三味線のお師匠さんとして登場する艶やかさも肯(うべな)われるし、「奸婦にあらず」では後述する大洞弁財天の申し子とされているのも、然りかな。

この地で生まれたたか女が、やがて直弼や長野主膳と出逢い、そして数奇な歴史の運命に翻弄されていく。そんな波乱の人生を、今のこの平和な多賀大社の姿からは想像するべくもない。

できることならいつか、たか女が最晩年を過ごした京都市左京区の金(こん)福寺(ぷくじ)*と圓光寺(えんこうじ)にあるというたか女の墓に詣でてみたいと思った。たか女の人生を想う時、それは取りも直さず直弼の人生の一部であり、幕末日本史の重要な一場面であったということを強く意識せざるを得ない。

考えてみたら、多賀大社に行きながら、今回は多賀大社の神域の中には一歩も入らなかった。それでいて、達成感と言うか満足感は高かった。たか女への一筋の思いが、やっと報いられたということか。

* たか女は文久2年、勤皇の志士によって三条河原で晒し者にされたが、3日後に助けられて

この金福寺に入り、尼(妙寿尼と名乗る)として明治9年までの14年間を過ごし、当寺で生

涯を終えた。法名は清光素省禅尼という。本堂では、たか女の遺品が拝観できる。

たか女の墓は、金福寺に程近い圓光寺にある。