1. 中山道の宿場町から(醒井宿、鳥居本宿)

 

 

私は埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)の出身である。

 浦和は、中山道69次の宿場町のうちの第3番目の宿場町として江戸時代に栄えた町だ。日本橋を出て板橋宿、蕨宿と歩き続けた旅人は、やがて浦和宿に辿り着く。日本橋から24㎞ほどの距離だから、お江戸日本橋を七つ(午前4時)に出発した旅人がそろそろ疲労と空腹とを覚え、どこかで昼食でも摂ろうかと思案する頃合いだったかもしれない。

 すっかり近代化してしまった浦和の街で、今では当時の浦和宿の面影を想起できるような遺物はほとんど残されていないが、僅かに「中山道」という道の名前だけは残っている。

 私にとっての中山道は、南から北に向かって走る1本の道だった。

 この道が、やがて上州路、信州路、木曽路、美濃路と続いていって、ついには近江にまでつながっているということが、私にはとても不思議な気がする。近江路を走る中山道が南北の方向ではなく東西の方向であることも、なんとなく私の感覚にはうまくフィットしていない。

 しかしながら紛れもなく浦和と近江国とは中山道によってつながっていて、近江国には柏原(かしわばら)、醒井(さめがい)、番場、鳥居本(とりいもと)、高宮、愛知川(えちがわ)、武佐(むさ)、守山、草津、大津の10の宿場町が存在していた。

 本稿ではこの10の近江国における宿場町のうち、私が大好きな醒井宿と鳥居本宿を採り上げて訪ねてみたいと思っている。

 中山道第61番目の宿場町が、醒井宿である。

 一言で言うと、清らかな泉の湧き出でる爽やかな宿場町とでも言い表すことができようか。

 

 このことは、「野田沼、上丹生、朝妻」の章でも少し触れた。街のそこここから水が湧き出で、湧き出た水が街道の傍らを流れる水の流れとなって旅人のこころに安らぎと潤いとをもたらしてくれる。

 水にまつわる様々な伝説が生まれ、透明度の高い澄んだ水の中には珍しい魚や植物が生息している。この宿場町に関するあらゆることが、水から始まっているのだ。

 なんて清々しい宿場町なのだろうか。初めてこの街を訪れた時に抱いた私の印象である。

 早速、醒井宿を歩いてみることにしよう。

JR東海道本線・醒ヶ井駅を降りて駅前の道を道なりに歩いて行くとすぐに旧中山道醒井宿の街並みに辿り着くのだが、旅人の気持ちになってこの宿場町を見るためには、宿場の入り口から入るのが王道だろう。

私は駅前を走る国道21号線を左方向の関ヶ原方面に歩いて、この新道から旧道が分離する地点にまで移動した。距離にして1㎞弱の距離であろうか。左手にJR東海道本線を見ながら歩く道だが、車が猛スピードで走り抜けていく国道を歩くのは、味も素気もない。

しかしこれも、これから味わう醒井宿の魅力を堪能するための試練だと思えば苦にならない。

新道と旧中山道との分岐点に近いところに馬頭観世音と刻まれた石が大切そうに祀られている。江戸時代において馬は、人や荷物を運ぶための数少ない動力源の一つとして重用されていた。馬頭観音を祀る石碑は、全国各地で見ることができる。

旧中山道醒井宿は、この馬頭観音碑のある辺りから西側(醒ヶ井駅方面)に続いて行くのだが、少しだけ寄り道をして、急な坂道を直角方向に登って行く。

実はこちらの急な坂道が旧中山道で、不自然に曲がりくねったこの坂道の途中に醒井宿の本当の入り口である見附が設けられていた。

見附は宿場の入り口と出口に設けられていて、それぞれに番所が置かれていた。不自然に道が曲がりくねっているように見えたのは、桝形の構造になっていたからだった。醒井宿は、この東見附から西見附まで、8町2間(876m)に亘って家並みが続いていた。

見附の案内板を右手に見ながらもう少しだけ宿場から離れる方向に坂道を登って行くと、右手に「鴬ヶ端」と書かれた案内板が見えてくる。

江戸方面から旅を続けてきた旅人は、醒井宿に入る直前のこの鴬ヶ端の地で、ホッとひと息ついたのかもしれない。遠景に伊吹山が顔を覗かし、眼下に醒井宿が見渡せる眺望の地は、古来歌枕にも歌われた場所だ。

  旅やどり ゆめ醒井の かたほとり

  初音もたかし 鴬ヶ端

 平安時代の歌人で三十六歌仙の一人にも数えられている能因法師の歌である。

 近くには「佛心水」と刻まれた井戸がある。旅人は、この仏心水の水で喉を潤し、伊吹山の秀峰を眺め、そして醒井宿へと入って行ったのだろう。

 ここで道を引き返して、いよいよ醒井宿へと歩を進めていく。

 宿場町の街並みにはどこか不思議な雰囲気がある。

広い野原を横切り、険しい峠を越え、川の急流を乗り越えて旅を続けてきた旅人にとって、心から休まることができるオアシスのような場所が、きっと宿場町だったのだろう。

私はそんな苦行をしてきたわけではないが、それでも人が集まり集落を形成している場所に身を寄せると、安堵の気持ちが湧いてくる。

古い家並みが多く建ち並んでいることも、旅情を掻き立ててくれる。

よく見ると、窓の桟(さん)や柱などに紅(べん)殻(がら)色の塗料を使った美しい色彩の家が目につく。後の章でも書くことになろうが、紅殻は私のなかでは近江を代表する色彩である。深い朱を湛えたこの色を見ていると、妙に心が落ち着く気がする。

 

 ほかにも、洒落た桟をしたガラス窓を持った家や美しい格子戸のある家なども多数見られ、何気ない生活のなかにも美的なセンスが窺われて、うっとりと足を止めることしばしばであった。

 緩やかに左に曲がり、さらに右に曲がりかけた道の左手に、「居醒の清水」を湛える池が見えてくる。

 

 醒井の地名の起源となったと思われるのが、日本武尊の居醒の清水伝説である。当地に建つ案内板をそのまま引用する。

  景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせておりました。そ

こで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。尊は剣を抜いて、大

蛇を斬り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめま

した。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不

思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名

づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。

 伊吹山の大蛇とは、あるいはこの地域一帯に勢力を持っていた地元の豪族のことであったかもしれない。

 伊吹山の特異な山容とも相俟って、彼らのことを大蛇と表現したものと推測される。いかにも大蛇が棲息していそうな妖しい雰囲気をもった山である。

 彼らとの戦いは激戦だったのだろう。なんとか勝利したものの、日本武尊も大いに傷ついた。その傷を癒したのが、この居醒の清水の澄んだ水だったということではないだろうか?

 何の文献も存在しない神代の時代の出来事をこんなふうに現代風に解釈してみるのも、私には楽しい知的想像作業である。

 池の対岸の丘の斜面には、長く太い剣を杖のようにして左手に持ち、右手を高く翳(かざ)している鬟(みずら)姿の日本武尊像が立てられている。

 その日本武尊像の前に拡がる池は、はっきりと底が見通せるほどに澄んで透明だ。石の橋が渡され、この場所に神が宿っていたかもしれないと思うほどに、神聖な雰囲気に満ちている。

 水が絶えることなく湧き出でる光景には、なぜか心を落ち着かせる作用があるのだろう。 池の傍らには、こんな歌碑も建てられていた。

 明治二十八年、北白川能久親王は、台湾で熱病にかかられ、重体になられました。病床

で「水を、冷たい水を」と所望されましたが、水がありません。付き添っていた鮫島参

謀は、かって醒井に来られた時の水の冷たさを思い起こされ、1枚の紙に

  あらばいま 捧げまほしく

  醒井の うまし真清水

  ひとしずくだに

 と詠んで親王にお見せになると、親王もにっこりされたと伝えられています。

 日本武尊伝説とはまた趣が異なってしみじみと胸を打つ歌である。

鮫島参謀の必死の介護の甲斐もなく北白川宮能久親王は台湾で息を引き取られたが、鮫島参謀の真心に接せられて、親王は心から喜ばれたに違いない。北白川宮能久親王は初めて戦地にて戦死を遂げられた皇族として、日本武尊に擬せられたとも伝えられている。

やはり醒井とは非常にご縁のおありになる方だったようである。

軍服に身を包み騎馬で勢いよく駆け出でる姿の親王像が、東京の北の丸公園にひっそりと建立されている。スピード感のある馬の動きが生き生きと感じられて秀逸な像であると、親王の像を眺めながら毎日、私は朝の散歩を楽しんでいる。まさか醒井の地で親王にお会いするとは、思っていなかった。

 醒井宿の街道脇を流れる清流(地蔵川)には7月になると梅花(ばいか)藻(も)が可憐な白い花を着け、澄んだ水の流れに揺らめく姿を見ることができる。

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 梅花藻とは読んで字のごとく、梅の花弁に似た白い花を着けるキンポウゲ科の沈水植物で、水温15℃くらいの澄んだきれいな湧水を好む長さ50㎝ほどの多年草である。流れに沿ってゆらゆらと水面にたゆとう白い花は、見る者をして神聖な気持ちにせしめる何かを持っている。

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 透明な水の流れの中で太陽光を浴びて生き生きと輝きを増した緑色の葉が眩しい。その緑のなかにまるで小雪が降りかかっているように白いものが点々と見えるのが、梅花藻の花だ。

 

 想像していたよりも小さな花だった。

 そのことが余計に、得がたい尊さとなって心に沁み込んでくる。醒井のこの水があってのこの花でもある。

梅花藻が見られる地域はここ醒井のほかに、富士山に降った雨水が伏流水となって濾過されて湧き出る静岡県三島市の柿田川流域、北アルプスに降った水が清らかな水となって流れる上高地の梓川など、国内でも僅かしかない。

いずれの場所にも共通しているのは、水が澄んでいることである。それも、ちょっとやそっときれいなだけでは条件を満たさない。最高度に澄んだ透明な水でなければ、梅花藻は生育しないのである。

 また梅花藻は、15℃程度の冷水でないと生育しないため、特に温暖な西日本では育ちにくいという。さらに、生育のためには水の流れが必要で、澄んだ水であっても澱んだ水では育たない。流水でも水槽ではまず生育しないというから、梅花藻がいかに繁殖しにくい植物であるかがわかる。

 いくつもの条件が合致したごく限られた場所でないと見ることができないことも、梅花藻をたいへん貴重な存在に昇華させている。

 地蔵川の清らかな流れと水面に浮かぶ梅花藻を眺めながら、趣のあるいかにも宿場町という感じの古びた建物が建ち並ぶ街並みをそぞろ歩きするのは、とても楽しいことである。

 醒井の地蔵川には、梅花藻とともにもう一つ、珍しい生物が生息している。

 それは、ハリヨという名前の小さな魚である。

ハリヨとは、針魚と書かれることもあるトゲウオ科イトヨ属の魚で、滋賀県東北部と岐阜県南西部の水温が20℃以下の湧水に生息している体長4~7㎝ほどの目の大きな可憐な魚だ。

 鱗はなくて、背中に3本、腹部に1対、それに尻びれの近くに1本のトゲがある。この針のようなトゲから針魚と呼ばれるようになり、「はりうお」が転訛して「ハリヨ」になったのかもしれない。

 梅花藻と同様に澄んだ冷たい湧水にしか棲むことができない。そのためか、ここ醒井ではハリヨは梅花藻と共生しながら生きている。

 梅花藻に寄生している水生昆虫はハリヨの好物であり、ハリヨは水中に漂う梅花藻の長い葉の中を潜り抜けながら、生活をしている。

 また、梅花藻により緩やかになった水の流れはハリヨの格好の産卵場所にもなる。ハリヨは水草等でトンネル状の巣を作り、3月から5月にかけてその巣の中で産卵を行う。オスは卵が孵化するまで餌も食べずに卵を見守るというから、なかなかに献身的な魚のようである。

 とても小さな魚なので、地蔵川の中で泳ぐハリヨの姿を確認することはなかなか難しい。うまく泳いでいる姿を見つけることができたら、それはとてもラッキーなことかもしれない。

 そんな魚だけに、ハリヨの神秘性は余計に増してくる。幻のような魚がこの地蔵川の流れのどこかに潜んでいると思うだけでも、不思議な思いにかられてしまう。

ハリヨ

梅花藻とハリヨの存在が、醒井宿を一層魅力ある街にしていることは間違いない。私は満たされた思いでJR醒ヶ井駅へと続く道を歩いて行った。

駅の手前の右側にある洒落た洋館は、ウィリアム・ヴォーリスの設計なる建物だ。大正4年(1915)に旧醒井郵便局として建てられたもので、今は記念館として内部が公開されている。

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ヴォーリスについては次の章で書くのでここでは簡単に触れるに止めておく。純和風の建築物が続く醒井の街並みのなかで特異な存在であるのに、違和感をまったく感じさせない気品を保っているのがとても不思議だ。

 醒井宿は、この章の最初にも書いたとおりに、湧き出でる泉の宿場町である。

 宿場町の中には「居醒の清水」のほかに、「十王水」と「西行水」という2つの泉が湧き出ている。

 十王水は、平安時代中期に天台宗の高僧である浄蔵法師が諸国遍歴の途中で開いた水源と伝えられている。近くに十王堂というお堂があったことから十王水と呼ばれている。

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西行水は、この泉の畔の茶屋で休憩した西行とその西行に恋した茶屋の娘との淡い恋の伝説から名づけられた泉名である。

宿場を外れるが、近くを流れる丹生川を遡っていくと「天神水」、「いぼとり水」、「役の行者の斧割り水」などの湧水が見られ、この地域一帯が湧水の宝庫であることがわかる。

これらの泉は、背後に存在する霊仙山(1084m)の伏流水であると考えられている。霊仙山は山全体がカルスト地形で構成されていて、山に降った雨水が石灰石の地層に沁み入り、濾過されて地表から湧き出てくる。

霊仙山は同時に古来から山岳仏教の修験道場でもあったことから、役の行者や西行など仏教の修験者の名前が伝説と結びついて泉の名前として定着していったのだろう。

今では、丹生川の澄んだ美しい水を利用して丹生川から分かれた宗谷川に東洋一の醒井養鱒場が造られている。

豊かな水を巧みに利用しながら、醒井の町は今なお生き続けている。

 醒井宿の次に私が訪れたのが、中山道第63番目の宿場町である鳥居本宿である。

 醒井宿を出た旅人は、番場の忠太郎で有名な番場宿を経て、鳥居本宿に辿り着く。宿場町に入る手前には、街道随一の名所とされる摺針峠が控えている。

  この峠から見る琵琶湖の眺望はすばらしい。

 長い旅を続けてきた旅人は、ここで初めて琵琶湖の姿を目にするのだろう。海沿いを通る東海道と異なり山の中を歩む中山道を進んできた旅人にとっては、湖といえども大海原に匹敵する琵琶湖の眺望は、感動的だったに違いない。

 

 

 かつて旧東海道を歩いてみたことがある。はるばる日本橋から歩き続けて箱根の石畳の道を息を切らせながら上り詰めた。そして権現坂と名付けられた下り坂まで来たときのことだった。急に目の前が展け遠くに芦ノ湖の青い平らな湖面が見えてきたときの感動を、私は忘れない。

 その時に私が味わったのと同じ感動をおそらくは、中山道を旅してきて摺針峠にさしかかった旅人たちは感じたことだろう。

 摺針峠とは曰くありげな名前である。

 昔、諸国を修行して回っていたある旅の僧がこの峠に差し掛かった時、一人の老婆が一心に斧を石に摺りつけている光景に出くわした。何をしているのですか?とその僧が問いかけると、1本しかない針を誤って折ってしまったので斧を石で摺って針にしようとしているのです、と老婆が答えた。

 斧から1本の針を摺り上げようなどとは、気の遠くなるような作業である。普通の人間なら何を馬鹿なことをしているのかと老婆を嘲るところだが、この僧は老婆の真摯で諦めない姿に我が身を戒められた思いがした。

 慢心していた己が身を大いに恥じてさらに修行に励み、この僧は後に高僧となった。その僧の名を弘法大師と言う。

  道はなほ 学ぶることの難からむ

  斧を針とせし人もこそあれ

 弘法大師は後に再びこの峠を訪れたとき、摺針神明宮に栃餅を供え、杉の若木を植えてこの歌を詠んだと伝えられている。

 その杉の真下に望湖堂という茶屋が建てられていた。たいへんに立派な建物で、江戸時代には朝鮮通信使もこの茶屋で休んで琵琶湖の眺望などを詩にして詠んだ。また、皇女和宮や明治天皇も休息したという由緒のある茶屋だったが、平成3年に惜しくも焼失してしまった。

 かつて望湖堂が建てられていた場所には現在、1軒の建物が建てられている。紅殻色の柱が鮮やかな立派な邸宅だ。

どうぞご自由にご覧ください、と気さくに声を掛けていただいた当家のご婦人の好意に甘えてお庭を拝見させていただいた。

 右脇の狭い入り口を通り抜けると、建物と低い白壁の塀の間の細長いスペースに飛び石が設(しつら)えられている。

 その飛び石伝いに歩いて建物の裏手に回ると、そこには極上の琵琶湖の眺望が用意されていた。 庭に置かれた石灯籠の向こう側、白い塀越しに一面の田園風景が見渡せる。そしてその田んぼの尽きるところに、青く平らな琵琶湖の湖面が穏やかな表情で顔を覗かせている。

 おそらくは朝鮮通信使も和宮も明治天皇も、今私が立っているのと同じ場所から同じ琵琶湖の風景を眺めて、その美しさを心に刻んだに違いない。朝鮮通信使でなくとも、詩や歌などを詠みたくなるような、絶景である。

 摺針峠の眺望を楽しんだ旅人たちは、いよいよ鳥居本宿へと歩を進めていく。

 中山道の前身にあたる東山道では、今の鳥居本宿より南側に位置する小野村に宿場が置かれていたようである。小野村には、この地が小野小町の誕生地であるとの伝説が残されている。

 即ち、出羽郡の小野美実(好美)が京から奥州に下る途中で当地に一夜の宿を求めた。その宿で生後間もないかわいい女児を見染め、貰い受けて出羽国に連れ帰った。この女児こそが、後に美人の誉れ高い小野小町となったという伝説である。

今でもこの地には小町地蔵が祀られる祠が建ち、その傍らには小町塚という塚(石碑)が存在している。

 しかしながら絶世の美女と謳われている小野小町を巡っては全国各地で同様の伝説が語られていて、決め手はないというのが実情のようである。

 それはそうと、今でも小野村(現彦根市小野)には古い由緒ありげな家々が建ち並び、鳥居本宿ほどの密集度ではないものの、趣のある家並みの小集落となっている。鳥居本を訪れる人はいても、小野村まで足を伸ばす人はほとんどいないだろう。

名神高速道路と東海道新幹線とに挟まれ小野川という小川に沿った狭い谷あいの街並みであるが、私は小野村のもつ独特の表情を気に入ってしまった。

 ところで、小野村に置かれていた宿場が鳥居本村に移された背景には、徳川幕府の意向が見え隠れしている。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、通信網と物流の整備を優先政策と考え、いち早く東海道をはじめとする五街道の整備に着手した。中山道もその一つとして慶長7年(1602)に伝馬制が定められた。

ところが当初は小野村に伝馬継所が置かれたものの、すぐにその翌年の慶長8年には小野村で代々本陣を営んでいた寺村家が幕府により鳥居本村へと本陣の移転を命じられている。

ちょうどこの頃、西国への守りを固めるために彦根山に新しい城が築城されようとしていた。この彦根城と中山道とを結ぶ脇街道のルートが定められたのも、この時のことだったと考えられている。彦根道と呼ばれる道が鳥居本宿から分岐して佐和山の南麓に存在していた切通しを通って彦根城へと続いているのがそれである。

小野村と彦根城との間には石田三成の居城のあった佐和山から続く山並みが横たわっているために道を通すことが出来ない。今の彦根カントリー倶楽部となっている山塊がそれである。その山を避けるために宿場町を北側に移したというのが小野村から鳥居本村への宿場移転の実情と考えていいだろう。

山に道を拓くことをしないで、反対に町を移動させることにしたのだから、徳川幕府もかなり乱暴なことをしたものだと思う。もっとも当時の土木技術を考えると、道を切り拓くよりも町ごと移転させてしまった方が容易だったのかもしれない。

かくして、中山道の第63番目の宿場町としての鳥居本宿が成立した。

鳥居本宿は、南端の小野村境から北端の下矢倉村までの長さ13町(約1.4㎞)、人口約1450人、戸数300戸程度(天保年間の「宿村大概帳」による)の宿場町であった。この宿場の中に35軒の旅籠と本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒が置かれていた。

 北側の下矢倉村から鳥居本宿に入った旅人は、まずは大きな店構えの建物を目にすることになるだろう。赤玉神教丸という胃腸薬を製造し販売する店である。

 創業は万治元年(1658)と伝わるから、鳥居本宿が成立してから僅かに半世紀の後のことである。赤玉神教丸の有川家は、鳥居本宿の北の端から350年以上にもわたって鳥居本の歴史を見守ってきていることになる。

 有川家の先祖は、元は磯野丹波守に仕えた郷士で鵡川という姓を名乗っていたが、有栖川宮家への出入りを許されるようになり有栖川宮の「有」の一字を賜って「有川」の姓となった。

 

 鳥居本宿の次の宿場の高宮宿の近くには「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と俗謡に歌われ全国から多くの信者を集めている多賀大社がある。その多賀大社の神教によって調製したという謳い文句が奏功した。

 多賀大社の坊人が全国を巡回して多賀参りを勧進して回る際に、神薬として赤玉神教丸を持ち歩いて宣伝したことも神教丸の名前を拡めることに大いに寄与したことだろう。多賀大社の名声はこれらの坊人たちによって全国津々浦々にまで轟き渡っていたので、効果は絶大だった。

 赤玉神教丸は店舗販売を専らとしていたために、鳥居本宿のこの店舗には、評判を聞きつけて赤玉神教丸を買い求めようとする旅人で大いに賑わった。中山道を旅して鳥居本宿に行ったなら、あの赤玉神教丸を旅の土産として是非とも買い求めよう。そんな思いの旅人たちで店舗はごった返していたことだろう。

 

土産物としても家族に喜ばれるだろうが、何が起こるか分からない旅の途中であるから、道中を無事に過ごすための非常薬としても旅人にとってはこの赤玉神教丸が心強い味方であったに違いない。

 当時の世相を描いた『近江名所図会』にも赤玉神教丸を買い求める旅人で賑わう店舗の様子が生き生きと描かれている。また、十返舎一九の『木曽道中膝栗毛』にも、

  くれないの 花にいみじく おく露も

  薬にならない赤玉という

  もろもろの 病の毒を 消すとかや

  この赤玉も 珊瑚朱の色

 下賤な歌だが、赤玉神教丸を題材とした歌が紹介されている。

 この神教丸も、近江国の賜物であると私は考えている。

 多賀大社との絶妙のコラボレーションで庶民が飛びつきやすい見事なキャッチフレーズを考案した商才も称賛に値するけれど、元々神教丸の歴史は有川家がまだ鵡川の姓を称していた頃に伊吹山の薬草を探索していたことに起因している。

 まさに湖北の自然がもたらしてくれた産物が神教丸であると言うことができるのだ。

 現在の赤玉神教丸本舗の建物は宝暦年間(1751~1764)に建てられたもので、入母屋造りの大きな瓦葺き屋根の下に白壁で塗り込められた2階部分が顔を覗かし、1階部分にはもう一層の庇のような小屋根を設け、大きな格子のガラス戸が6枚嵌め込まれている。

 建物の右端の入り口には左右に「有川市郎兵衛」「赤玉神教丸」、中央には丸の下に一文字のトレードマークが染め抜かれた臙脂色の大きな暖簾が誇らしげに掛けられている。

 ほぼ真っ直ぐな道が続く鳥居本宿のなかで、唯一街道がカーブを描いているのがこの赤玉神教丸本舗の前である。その角地に大きな店構えの立派な店舗を構えていたのだから、赤玉神教丸のことを知らずに通りかかった旅人でさえ、思わず足を止めて見入ったに違いない。

 そんな迫力満点の店内で販売されていたのが、食べ過ぎ、飲み過ぎ、二日酔い、胃のもたれや胸やけなどによく効くという赤玉神教丸である。オウバク(黄柏)、キジツ(枳実)、ビャクジュツ(白朮)など9種類の生薬を配合した小さな丸い仁丹くらいの大きさの薬だ。

 これもおそらくは、有川家のご先祖様が伊吹山の山中を歩き回って効能豊かな薬草を探し求めた賜物であるに違いない。

 神教丸という名前は知らなくても、今でも「赤玉」と言われればあの薬のことかと思い当る人は多いと思う。

 母屋の右手には、明治11年(1878)に明治天皇が北陸巡幸の際に増築されたという建物が接続されている。正面から見ると威風堂々たる店構えだが、右手の増築部分から眺めるとたいへんに複雑な構造を持った建物であることがよくわかる。

 鳥居本宿には、この赤玉神教丸のほかにもう一つ、旅人たちの間で有名だった名産品がある。それが、合羽である。

 

 合羽とは、雨の時に羽織って濡れるのを防ぐ、あの合羽である。

 なぜ、鳥居本で合羽なのだろうか?

 鳥居本宿における合羽製造の歴史を遡っていくと、享保5年(1720)の馬場弥五郎という人物に行き当たる。

 弥五郎は、若くして大坂に奉公に出て合羽の製造方法を学んだ。とは言っても、当時はまだ合羽の製造技術が十分に成熟していたわけではなかった。弥五郎は奉公先の「坂田屋」という屋号を譲り受けて故郷の鳥居本に戻り、さまざまな工夫や改善を重ねながら合羽作りに励んだ。

 なかでも、それまで雨滴をはじくために菜種油を使用するのが一般的だったものを、代わりに柿渋を使用したことが大成功を招く要因となった。柿渋は保温性と防水性・防湿性に優れ、しかも紙を丈夫にする作用があるため、山がちで雨の多い木曽路を旅する旅人たちに大いに重宝されたからだ。

 色合いも、菜種油よりも深い赤味がかかった美しい色をしている。一説には紅殻を混ぜてこの深い色合いを出したとも言われているが、実用性に富んでいただけでなく外見的にも鳥居本宿の合羽は美しかったということになる。

 今の時代と違って車も電車もなかった時代だから、旅人は雨の日でも濡れながら旅を続けていかなければならない。合羽の重要性は現代よりもはるかに高かったと言うことができるだろう。となれば、少しでも高機能で少しでもお洒落な合羽を手に入れることは当時の人たちにとっての必然の需要だったということになる。

 馬場弥五郎が創業した鳥居本宿における合羽製造業者の数は次第に増加し、江戸時代の文化文政年間(1804~1829)には15戸にも達していた。そこには、他では追随できない高い技術と鳥居本の合羽というブランドとが確立していた。

 ここで簡単に合羽の製造方法について触れておく。

 まずは鳥居本合羽の秘密兵器である柿渋の製造方法である。

 柿渋自体は、防腐用、外壁の塗装用、清酒の清澄剤、衣服の染色用などに幅広く使用されており、製造方法が鳥居本の専売特許であったわけではない。熟した柿ではなく、タンニンが多く含まれる青柿を使用した。これを石臼や米突き臼などで砕き、適量の水を加えて桶や樽の中で数日間貯蔵して発酵させる。

 発酵期間が長いほど良質の柿渋が採取されるという。この発酵した柿渋液を圧搾して上澄みを採取したものが柿渋である。

 次に合羽の材料となる紙は、若狭、大坂、土佐、伊予、美濃などの産地から取り寄せた仙花紙がおもに使われた。仙花紙は厚手で丈夫なために、耐久性が要求される合羽の材料として適していた。

 調達した紙を張り合わせて必要な紙の大きさにすることを小継ぎと言う。張り合わせることで紙の大きさを確保するとともに、紙の強度を増すという効果を得ることにもなる。

 張り合わされた紙は、寸法どおりに裁断される。木製の定規を当てて、ヘラのような包丁で紙を切っていくのだ。当然だがこの時、張り合わせるためののりしろを確保したうえで紙を裁断していく。

 裁断した紙の四隅を折り曲げて糊で張り合わせて合羽の原形を作り上げる。張り合わせた糊が剥がれにくくなるように、糸で縫う。これを糸入れと言う。

 合羽の形ができあがると、製造業者の商標印を入れる。鳥居本製の合羽であることを証明する重要なステップであるが、単に版木を押印するだけの単純な作業なので、子供が手伝いで押すこともあったと言う。

 次が紙揉みの工程である。後で塗る柿渋や油の吸収をよくするためには、紙を十分に揉みほぐさなければならない。合羽には硬い仙花紙を使用しているために、紙揉みは熟練を要する重要な作業であった。

 紙揉みが終わると、いよいよ柿渋を塗る。これを渋引きと言う。20㎝くらいの刷毛で柿渋液を満遍なく塗っていく作業である。出荷する地方の嗜好に合わせて柿渋に紅殻を入れたりして独特の色合いを出すのもこの工程における作業だ。

 続いて、油引きと言って、渋紙に薄く油を塗っては乾燥させるという作業を何度も繰り返す。

 油引きが終わった合羽は、天日で干される。合羽干しと呼ばれる作業である。油引き後の合羽はなかなか乾燥しないので注意を要する。

 そして最後の仕上げに四隅または上部の両端に紐を通す穴を開けたりして細部を整えて、完成である。

 簡単に書いたつもりだったのに随分と長くなってしまった。合羽を作る工程は、それだけ複雑で煩雑な作業の積み重ねであるということなのだと思った。馬場弥五郎が初めて鳥居本宿で合羽の製造を行って以来、幾多の改良が加えられながら伝えられてきた技術である。

 鳥居本宿のちょうど真ん中あたり、かつて本陣があった場所の正面に木綿屋という合羽所の建物が現存している。黒板塀に塗り込められた白壁が目に眩しく輝き、趣のある竹格子が立てかけられている格式のある立派な建物だ。

 軒下には、「本家合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた木製の看板が吊るされている。実はこの合羽所・木綿屋は、私が出版でお世話になっているサンライズ出版の岩根社長のご実家であるのだ。

 合羽の製造は現在ではもう行われていないが、岩根家には当時の合羽製造に使われた道具や商標印の版木、それに顧客からの特注で合羽に刷り込んだ模様の型紙などが保管されている。

 それらを拝見させていただきながら一番に私が驚いたのは、合羽そのものである。

 合羽というから、衣服の上から羽織る紙でできた比較的簡単な構造の蓑のようなものを想像していたのだが、私の目の前に現れた合羽はそれとは全然違うものだった。

 時代劇によく出てくる旅ガラスが纏うマントのような形をしていて、しかも木綿でできている。柿渋を塗った雨滴をはじく紙はどこに行ってしまったのだろうか?と訝しげに眺めていると、岩根社長のお母さまの敏子さんがそっと教えてくださった。

 なんと、柿渋を塗った紙は表地と裏地の2枚の生地の間に挟まれて縫い込まれているのだそうだ。これでは外見は普通のマントと何ら変わらない。

しかもこの合羽、表地が紺色にやや薄いブルーの縦縞で、裏地は同じく紺色の地色だが白い縦縞と薄いブルーの横縞の格子模様になっているリバーシブルの合羽なのだ。

実用的でかつ美的センスにも優れていた鳥居本の合羽の真髄を見た気がした。

なるほど、こんなお洒落な合羽だったら、人々が争って購入したというのも素直に頷けると合点した。

それにしても、旧家の文化的蓄積はすごいものがあると思った。

岩根家は宿屋ではなかったものの、中山道を行き来する文人墨客などの文化人が木綿屋に立ち寄り、そして一夜の宿りを借りることも多かったのだろう。そのお礼として彼らがその場で書いて置いて行った書や絵を屏風に設えたものが置かれていた。

 

いずれも見事な出来栄えのものばかりで、日頃から教養の高い文化人との交流を通じて自らの文化をも高めていった旧家の底力を目の当たりにした感じがした。彼らは単に工業製品としての合羽を生産していたのではなかったのだ。

合羽所が転じて、現在は地元の貴重な情報を書籍として世に送り出す出版社となったことにも、納得がいく思いがする。

 ここまでは代表的な名産品である赤玉神教丸と合羽を中心に鳥居本宿を見てきた。この2つ以外にも鳥居本宿には、ヴォーリスが設計した旧本陣寺村家の門扉や、佐和山城の用材が使用されているという専宗寺の太鼓門など歴史的価値のある建築物が多数存在している。しかし何よりも、宿場町としての雰囲気のある街並みを街全体で今によく残してくれていることが、旅人にとっては格別うれしい。

 さらに近江鉄道本線の鳥居本駅は、三角形の赤い瓦屋根がトレードマークのかわいらしい駅である。昭和6年(1931)の開業当初の姿をよく保存しているという駅舎はまるでおとぎの国の駅のようで、鳥居本宿の玄関口として実にふさわしい佇まいである。

 最後に鳥居本宿を通る朝鮮人街道について記述して、長くなってしまったこの章を終えることにしたい。

 朝鮮人街道とは、先に雨森芳洲の章で触れた朝鮮通信使が朝鮮と江戸との往復の際に通った道で、鳥居本宿から分岐して中山道よりも北側の琵琶湖沿いの道を通り守山宿の手前の行畑で元の中山道に戻る全長40㎞あまりの道のことである。

 比較的まっすぐな道として整備されている中山道とは異なり、道が複雑に右折左折を繰り返す道をわざわざ朝鮮通信使一行に歩かせた幕府の意図はよくわからない。

 この道は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が京に上る際に通った吉例の道とされている。その後も将軍上洛の際に使用された道であるが、大名の参勤交代には通行を許されなかった特別な道でもある。

 鳥居本宿の南のはずれに近い四つ角に、「右 彦根道 左 中山道 京いせ道」と刻まれた古い道しるべが建っている。

 ここをまっすぐ南に下って行けば次の高宮宿に辿り着く。右の佐和山方面に曲がって行けば、切通しを抜けて彦根の城下町に向かう道となる。

 朝鮮通信使はここで進路を右に取り、彦根城下の宗安寺で宿泊するのが通例となっていた。朝鮮通信使は徳川時代を通じて12回しか派遣されなかったのにこの道が朝鮮人街道と呼ばれるようになったのは、沿線の住民たちにとって朝鮮通信使の一行がいかに印象強いものであったかを物語っている。

 しかしながら今では、この「朝鮮人街道」という道の名前も道筋も朧気なものとなってしまっていて、地元の人でも朝鮮人街道という名前を知らない人が多くなっているという。

 ましてや、今となっては区画整理などで道が失われてしまっている箇所も多々あり、正確な道筋というものがわからなくなってしまっているというのが悲しい現実のようである。

 そんな幻の朝鮮人街道を実地に歩いて確かめようという滋賀県立彦根東高校新聞部の生徒たちの興味深い研究成果がサンライズ出版から本として出版されている(『淡海文庫「朝鮮人街道」をゆく』(1995年))。

 鳥居本宿の分岐点に立って佐和山方面を見やりながら、私は雨森芳洲と朝鮮通信使たちのことを想った。

 私が歩いたのと同じこの中山道を、幕末には新撰組の隊士たちが江戸から京へと駆け抜けていった。反対に孝明天皇の妹君であられた和宮が、公武合体という重たすぎる使命を帯びて京から江戸へと下っていった。

許嫁との婚約を強制的に破棄させられ、京の皇族から見れば蛮族とも思えるような東国の武家の許に嫁がなければならなかったその時の和宮の悲壮な決意の気持ちを想うと、切に胸が痛む。

 これらの歴史に名を刻んだ人物が歩いたのと同じ道を今、私が歩いているという不思議な感覚。そして、感動を私は噛み締めている。

 女性である和宮が山の中を通る中山道を婚礼の道として選択したことは一見意外なことのようにも感じられるが、幕府の政策により大きな河川には橋が架けられていなかった東海道のほうがかえって女性には歩きにくい道であったとも言われている。

 中山道のことを別名で「姫街道」とも称されているのは、女性が多く選択した道であった事実を物語っているのだろう。

 ここまで来れば、最終目的地の京都までもあと僅かだ。旅人たちの安堵のため息と京都での期待感が伝わってくるような気がする。