已高閣・世代閣(廃寺に残された仏たち)

1. 已高閣・世代閣(廃寺に残された仏たち)

 廃寺という言葉には、特別な響きがある。

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 かつて栄えていた寺が何らかの理由により廃れていって、やがて消えてなくなる。そこにどんな事情があったのかを知りたく思うし、無常感と言うのだろうか、衰退しやがて消え去っていく運命の悲哀と哀愁とを感じてしまうからだと思う。

 しかしながら、数々の変遷を経ているにせよ、今に何らかの「かたち」が残っていれば、私たちはそこから往時の寺の姿を想像することができるかもしれない。

 今回の旅で私は、そんな廃寺に残された僅かな「かたち」から、かつて存在した寺の姿を思い描いてみたいと思っている。

 遠い昔の湖北地方に存在し、隆盛を誇った一つの大寺があった。

 その寺の名前は、鶏足寺という。前述した己高山の五箇寺のうち観音寺の別院として存在していた寺院である。

 地元に伝わっている伝承によると、神亀元年(724)(諸説があり、天平7年(735)とも言われている)に行基によって東光山常楽寺として開基された寺が原形であるとされている。その後一時荒廃していたものを、延暦18年(799)に最澄が再興した。

 最澄が修行のために当地を訪れた時のことである。己高山の山頂付近に輝く不思議な光を見た。その光を求めて険しい山道を這い登っていくと、やがてどこからともなく不思議な鳥の声が聞こえてきた。その声に導かれるようにして雪の中に残された鳥の足跡を頼りに進んでいくと、やがて十一面観音の仏頭が雪の中に埋もれているのを発見した。

 驚いた最澄はその十一面観音を掘り起こして修復し本尊となし、新たに堂宇を再建して一大寺院を建立した。それが、己高山鶏足寺であるという。寺名の由来は、その時に最澄が辿った鳥の足跡に依るのであろうか。

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 鶏足寺は時の帝であった桓武天皇からも厚い信仰を得た。寺領として伊香郡を賜り、国家鎮護の祈祷所として重要な役割を担うこととなる。

さらに時代が下って文永6年(1269)には、下野国薬師寺の僧慈猛によって真言宗に改められている。

 鶏足寺の伽藍は、五箇寺をはじめとする山岳仏教の中心的存在である己高山(923m)の山頂付近に建立されていた。本堂のほかに中坊、池本坊、奥ノ坊、西ノ坊など数々の主要伽藍が立ち並び、さらに多宝塔、経蔵などの堂宇と120宇の僧坊からなる5000㎡にも及ぶ広大な寺域を擁する大寺となった。

聖地である己高山山麓に存在していたことからも、山岳修験者にとっては最も聖なる寺であったと言ってもいいのではなかと考える。

鶏足寺が最も隆盛を極めたのは、室町時代から戦国時代にかけての戦乱の時代だったのかもしれない。浅井氏三代の加護の後、豊臣氏からも祈祷所としての地位を保証され、さらに徳川の時代となってからも、京都所司代から寺領を保護されている。

 その後、衰微しながらではあるが明治維新の廃仏毀釈運動の波をくぐり抜けたものの、ついには無住となりながらも昭和初期までは堂宇が存在していたという。ところが、昭和8年(1933)の冬に不審火により、最後まで残っていた権現堂と本堂とが焼失してしまった。

意外と最近まで寺が存在していたことに驚くとともに、廃寺となった原因が火災だったということが残念でならない。しかし、火災の後に再建されることがなかったという事実からは、すでに当時鶏足寺は相当に衰微していた寺であったことが想像される。

 一方で、己高山の山頂付近のほかに石道寺の裏手にも、紅葉の名所として著名な鶏足寺と呼ばれている場所がある。

 なだらかな石段が山に向かってまっすぐに伸びて、左右にはかつては諸堂が建立されていたであろう平坦地が並んでいる。道の両側には背の高い楓の古木が立ち並び、秋の季節ともなれば散り敷く紅葉が真っ赤な絨毯のようになって堆積し、燃え立つような鮮やかな色彩の紅葉がまるでトンネルのように続いていく光景は、私が湖北地方で最も好きな紅葉の景色である。

 地元の人たちはこの場所を鶏足寺と呼んでいるが、正確には飯(はん)福寺(ぷくじ)という名前で鶏足寺の別院があった場所であるようだ。本院と同様に往時は興隆を誇り、この地を治めた京極氏や浅井氏からも庇護を受け、徳川の世になってからも寺領を与えられるなどして大寺の風格を維持してきたが、明治時代になって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるなかで衰微し、今は廃寺となっているもののようである。

 己高山にあった鶏足寺本院の堂宇が昭和の時代になってから火災に遭って焼失してしまったことは先に書いた。しかしながら、ご本尊の十一面観音像をはじめとする鶏足寺の仏像たちは、大正3年(1914)に己高山の麓にある與志漏(よしろ)神社境内に遷仏されていたために災禍からの難を免れた。

 このことは、大正初期の時代においてすでに本堂の損傷がかなり進んでいて、ご本尊を安置しておくに耐えられなかったという事実を物語っているのかもしれない。

 その後、昭和38年(1963)に国庫の補助を受けて文化財収蔵庫である己高閣が建立されて、鶏足寺の諸仏たちはこの中に安置されるに至った。

 寺という本来の住み処は無くなってしまったけれど、その代わりに空調設備が整い保存に適した環境のなかで、数奇な運営に翻弄された鶏足寺の仏像たちは今も大切に保管されている。

 私たちはこの残された仏像たちをとおして、今は形が無くなってしまった鶏足寺という大寺の面影を想像することができるのである。

 石道寺の裏手から紅葉の名所である鶏足寺(飯福寺)跡を経てお茶畑が続く長閑な山道を道なりに歩いていくと、前方の小高い土地にコンクリート造りの建物が見えてくる。ここには、己高閣と世代閣という2つの収蔵庫が建設されている。

 己高閣と世代閣がある場所は、與志漏(よしろ)神社の神域となっている。

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 與志漏神社は、この辺り一帯の地域名である余領(よしろ)郷の氏神として古代から崇め祀られてきた大社で、神速須佐之(かみはやすさの)男尊(をのみこと)と波(は)多(た)八(や)代(しろ)宿(すく)禰(ね)を祭神とする古社である。

 波多八代宿禰は武内宿禰の子で、淡海(近江)臣の祖とされている。延喜式神名帳にも記載のある由緒ある神社である。

 また、與志漏神社の境内にはかつて、世代山戸岩(といわ)寺が存していた。僧行基によって霊亀2年(716)(霊亀元年(715)との説もある)に創建されたと伝えられているから、鶏足寺よりもさらに建造年代が古い古寺ということになる。ご本尊は、薬師如来立像(りゅうぞう)である。

8世紀の末頃には、最澄のほか、空海や慈覚などの高僧も来錫したとされており、全盛期には本尊を安置する薬師堂のほかに、大日堂、観音堂、鐘堂、経堂などの諸堂が建ち並び、岩本坊、阿弥陀坊、開寿坊、真乗坊、道禅坊、長円坊の6坊を擁する規模を誇っていたと伝えられている。

 ご本尊である重要文化財の薬師如来像をはじめとして、この旧戸岩寺に伝わる古文書や仏画などを収蔵するために平成元年に建立されたのが、世代閣である。

 與志漏神社の境内に2つ存在しているコンクリート造りの収蔵庫のうち、手前側にある校倉を模した建物である己高閣にまず足を踏み入れてみた。

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 こちらの建物には、主に鶏足寺にまつわる仏像などが安置されている。

 最澄が己高山の山頂付近に妖しい光を見て、鳥の足跡に導かれるようにして探し当てたとの伝説が残る旧鶏足寺のご本尊である重要文化財・十一面観音像は、純朴ななかにも慈悲深い気品を備え、私の前に尊いお姿を見せてくれた。

 どちらかと言えば石道寺の十一面観音像に近いお顔立ちかもしれない。流麗な美しさというよりは、素朴さの方が勝(まさ)っている。しかしながら、明らかに紅が引かれた跡が残り、全体的に装飾性が豊かな石道の観音様とは異なり、きりりと引き結ばれた口元には力強い意志の力が漲り、むしろ男性的なお顔との印象を強くさせている。

 頭上の小面はやや縦長で、石道の観音様よりも大きめで豪華だ。額の中央には、白毫が嵌め込まれている。

 左手に蓮華の花を入れた水瓶(すいびょう)を持ち、体に比してかなり長めの右手は中指と薬指を曲げて親指とで丸い形を作っている。

 身に纏う天衣は至ってシンプルで、流麗というよりは力量感をより強く感じさせてくれる。武骨だが、それだけに神秘的な霊力を伴った安定感のあるお姿のように私には思われた。

 学術的には平安時代前期の像と目されているから、最澄が雪の中から掘り出した仏様との伝説とは少し辻褄が合わないかもしれない。しかしそのようなことは、私にとってあまり大きな問題ではない。

 どんな人が創った仏像なのかはわからないけれど、1100年を超える気の遠くなるような長い時間、鶏足寺において本尊として崇められ祀られて、多くの僧侶たちの信仰を集めてきたというそのことに、私は強い感動を覚えた。

 このような仏像をご本尊として戴いていた鶏足寺という寺とはどんな寺だったのだろうか?私は、今はない鶏足寺という寺に大いなる共感を覚えると同時に、往時の姿を見てみたいという強い衝動にかられた。

 厳しい戒律により隅々までが支配され、凛とした品格が漂う厳かな雰囲気の寺だったのではないだろうか?広い境内には何百年もの樹齢を誇る太く背の高い樹木が林立し、木々によって陽光が遮られて昼でもなお鬱蒼としている。

毎日己高山をはじめとする周囲の山々を巡る修験者たちの厳しい修行が執り行われ、読経の声が諸堂のそこここから聞こえている……。なんとなくだが、そんな気がする。

ご本尊のみから寺の全貌を想像するということは極めて難しく乱暴な行為であるのだけれど、今の私には他に往時の姿を思い描く術がない。私なりの鶏足寺の姿を想像してみた。

 己高閣には、この重要文化財・十一面観音像のほかに、旧法華寺のご本尊であった七仏薬師如来像、ご本尊・十一面観音の脇侍である毘沙門天および不動明王像など、鶏足寺をはじめとして己高山の諸寺に祀られていた諸仏約20躰が展示されている。みんな、身を寄せる寺のない仏たちだ。

 変わったところでは、法華寺の境内にあった石田三成の母である瑞岳院の墓石も置かれている。そう言えば己高閣・世代閣があるこの辺りの古橋の地は、三成の母の出身地であったことを改めて思い出した。

 もう一つの収蔵庫である世代閣には、主に旧世代山戸岩寺に存していた諸仏などが収蔵されている。己高閣が国の補助を得て昭和の年代に建設されたのに対して、世代閣は地元の人たちの浄財のみによって平成元年に開館した比較的新しい収蔵庫である。

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 世代閣には、旧戸岩寺のご本尊であった重要文化財・薬師如来像と、弘法大師空海が祀ったと伝えられている魚藍観世音菩薩像などが展示されている。

 薬師如来像は、湖国で最古の仏像と言われている。天平仏の特徴をよく伝える純朴な楠の一木造りの仏像だ。

 左手には薬師如来にお決まりの薬(やっ)壺(こ)を持ち、右手は施無畏(せむい)印を結んでいる。背後には後世の造作である緑色の輪光(りんこう)を拝するお姿だ。

 山の頂上付近にあり山岳修験道の聖地であった鶏足寺と比較して、山里にある戸岩寺は地元の住人たちにとってより身近な寺だったに違いない。ご本尊も薬師如来であるから、現実的なご利益に与(あずか)れる寺であったものと思われる。

 全体的に肉厚で、どっしりとした重量感のある仏様である。両腿(もも)あたりには肉が盛り上がるように張り詰め、その両腿の間をYの字をつくるようにして衣紋が流れている。

 うっすらと金箔が残るご尊顔は神々しくて慈悲に溢れている。

 この仏様はきつと、実に長い間にわたって庶民の信仰を一身に集め、崇め祀られてきたのだろうという思いを強くした。安定感のある力強い仏像を拝見して、ほっと心の緊張が解けるような心地よさを感じた。

 一方の魚藍観音とは、あまり聞かないお名前の仏像である。

 中国では、法華経が説くいわゆる三十三観音の一つとされている観音で、唐の時代に魚商をしていた美しい女性がいて、その女性が実は観音様の化身であったとの言い伝えから信仰を集めている観音であるという。

魚にまつわる観音だから、魚藍(魚を入れる籠)を持っている。右手に摘(つま)むようにして持った蓮華の花を胸のあたりに掲げ、下に垂らした左手には一匹の魚が入った籠を下げている。

上半身に条帛(じょうはく)をかけない半裸のお姿は、たいへんに珍しい。

元は頭上仏があったのだそうだが今は失われてしまって、ない。そのせいだろうか、頭上で髪を括って大きく丸めているように見える。魚藍観音というと、その由来から美しくてうら若い観音像をどうしても想起してしまうのだが、旧戸岩寺の魚藍観音さまは町に魚を売りに来たおばちゃんのような風情である。ぽっちゃり君のお顔も、たいへんに特徴のあるお顔だ。

でもそこが、とても好感が持てていい。

いかにも古橋地区に古くから伝わる素朴な仏様らしくて、私は強い親しみを持ってこのユニークな観音様を飽きることなく眺めていた。

 廃寺という言葉に導かれて己高閣・世代閣を訪れた。

 栄枯盛衰という世の姿は、この地で命を懸けて戦った戦国の武将たちのためだけにある言葉ではなかった。奈良時代に競うようにして己高山の周囲に建立された寺々も、世の推移、時代の流れのなかで栄枯盛衰を繰り返しながら、やがて静かに消えていった。

 厳しい修行に励んだ僧侶たちの祈り、地元住民たちの素朴な願い……。様々な人々の希望や苦悩をすべて包み込みながら1000年以上もの長い間にわたって維持されてきた営みを想うとき、私は限りない愛惜の念に駆られる。

 仏像は本来、信仰の場である寺で拝むものだけれど、その寺が無くなってしまった以上は、こうして収蔵庫の中で拝むしか私たちには術がない。去来する様々な想いを胸に、私は静かに残された仏像たちに手を合わせた。

 寺という物理的な建造物は消え去ってしまったけれど、寺の精神の象徴であり仏教の教義の真髄である仏像は、敬虔な村人たちの手によって今の世に残された。

真の信仰の力とは、こういうことなのかもしれない。私は心の底から湧き起こる熱いなにものかを強く感じながら、満たされた想いで己高閣と世代閣を後にした。

 「近江のまほろば」とも呼ばれるここ古橋の地に吹く風は、心地よく私の頬をかすめて通り過ぎていった。

 思いがけずも随分長く湖北の観音のことを書いてきてしまった。それだけ湖北地方には魅力的な観音像が多数存在しているということの表れであるのだと思う。次の章では、これまでに見ることができなかった観音像をさらに訪れ、湖北地方に秀逸な観音像が多い理由を私なりに考えることで、観音の章の総括としたい。