9. 浅井能楽資料館(知られざる匠のこだわり)

 

何の予備知識も持たないままにこの資料館を訪れたことを、私は後悔した。

観光のガイドブックには、ほとんど紹介されていない。それに、車で訪ねて行っても、うっかり見落として通り過ぎてしまいそうな地味な佇まいの資料館である。

浅井能楽資料館

資料館と言っても、建物の外観は普通の住宅と何ら変わるところがない。この地味な造りの資料館の中に、伝統に裏打ちされた確かな技術の結晶が数(あま)多(た)展示されていようとは、知る由もなかった。

 能の世界は奥が深い。

 そこには様々な約束事が存在し、私たちのような素人の門外漢を容易に寄せ付けようとしない厳しさがある。同じような物語を題材に採りながらも、江戸時代に確立した庶民的芸能である歌舞伎とは一線を画する孤高の存在でもある。

 凛とした美の世界。

 私のイメージの中では、難解で高尚な精神世界を象徴しているのが、能という芸能ではないかと漠然とだが思っていた。

 近寄りがたい存在であるものの、このまま手を拱いて境界線の外から眺めているだけでは、いつになっても能の世界を知ることはできない。素人でも素人なりに、能の持つ魅力の一端くらいは知ることができるかもしれない。

 私は勇気を振り絞って、能の世界に飛び込んで行った。

 当資料館の創設者であり現館長をされている山口憲(あきら)さんは、元々は旧浅井町に人縁や地縁があったわけではない。

 山口さんは、昭和23(1948)年、京都市の生まれである。

昭和47(1972)年に立命館大学経営学部を卒業されると同時に能装束の研究を始められている。学生時代、博物館に展示されている能装束をガラス越しに見て、江戸時代の能装束と現代の能装束とではどうしてこんなに違うのだろうかとの疑問を持ったことが、能装束研究を志すきっかけとなった。

江戸時代の能装束には内面に秘めた品位があって、例えてみれば、現代の能装束との間には、金と鍍金ほどの違いがあるのだそうだ。

単に(表面的に)美しいだけ、あるいは豪華なだけだと、すぐに飽きてしまう。本物はいくら見詰めてもけっして飽きることがない。それどころか、二回目、三回目と回を重ねて見ていくにしたがい、本物には常に新しい発見があるのだと言う。

残念ながら能楽は明治維新以降、江戸時代の政治や文化を全否定する新政府によって崩壊し、能装束を制作する技術もそこで衰退した。加えて、近代的な機械を駆使して効率性を追及する人たちの手によって作られた新しい能装束は、江戸時代以前のそれとは似ても似つかないものに堕ちてしまったのであった。

山口さんは、本物だけを見続けた。

骨董屋の丁稚は修行の過程において、最初は本物だけを主人から見せられるのだそうだ。本物だけを見続けていると、ある日偽物を目にした瞬間に、感覚的に偽物であることを悟ることができるのだという。

本物と偽物とを混ぜて見ていると、けっしてこの感覚を身につけることはできないのだそうだ。本物だけを見続けることによって初めて、そこに異物としての偽物が迷い込んで来ても、異質性を見出すことができるということなのだろう。

山口さんは、本物の能装束を見続けることによって、自らの鑑定眼と審美眼とを養っていった。

 昭和50(1975)年には、宝生流教授嘱託会理事長で能楽関係の専門書店であるわんや書店代表取締役の佐藤芳彦さんとの運命的な出逢いを果たしている。

 佐藤芳彦さんは佐賀県の出身で、大分の中学および高商を卒業した後、小野田セメントの北朝鮮工場での勤務を経て上京し、一転して出版業界に身を投じた人である。

 わんや書店という、能楽書を専門に扱い、多数の出版事業をも手掛ける書店に縁あって入社し代表取締役を務められる傍ら、宝生流教授嘱託会にて宝生流の指導にあたられた方である。平成3(1991)年に亡くなられている。

 わんや書店から様々な能楽関係の専門書を著しているほか、「九段下より」「続・九段下より」という味わい深いエッセイを出版されている(ただし、現在は絶版)。

 私事になってしまうが、佐藤芳彦さんのことを調べ、わんや書店の場所を探していて驚いた。なんと、私が今勤務している会社のビルから徒歩1~2分のところにあることがわかったからだ。

 調べた所在地を目指して歩いていくと、九段下の靖国通りから一本奥に入った小道に、わんや書店はあった。こんな近いところに……。佐藤芳彦さんとの不思議なご縁を感じた。

 その後、昭和59(1984)年4月に山口能装束研究所を設立すると、山口さんは江戸時代の能装束の調査に着手した。毛利家、井伊家、松平家、前田家、紀州徳川家などに伝来する能装束300領を実地に調査した。

 能装束は、能楽が武家の式学として確立した江戸中期にピークを迎えた。技術的にも美学的にも絶頂期にある本物の能装束を具(つぶさ)に調査していくことにより、山口さんは能装束の本質を捉えていった。

風合い、糸の艶、色彩と配色、文様と構成、染めの技術……。それぞれに高度な技を目の当たりにした山口さんは、経年劣化により次第に色褪せ、失われていく運命にあるすぐれた能装束を自分の手で復原していくことを決意する。

復原とは、150年前の能装束を現在見える形でそのまま再現することではなく、江戸時代の文献等を参考にしながら、当時の色や風合いを想像して、当時に限りなく近い工程と技術とによって能装束を新たに創造することを言う。

絹糸採取、染め、織り、文様、組織など、それぞれの制作過程や材料を忠実に再現していくための丹念かつ繊細な作業である。

そうこうしているうちにも能装束を作る技術は損なわれていく。すでに今となっては、山口さんたちがどんなに頑張って研究を重ねても、最高水準にあった江戸時代中期の能装束作りのすべての工程を再現することは不可能だという。

当時の能装束は、名字帯刀を許されたエリートたちの手によって作られていたものであった。

先に、能楽が武家の式学であると書いた。武家の式学とは、徳川幕府が認めた正式な芸能のことを言う。公家の式学が舞楽であったのに対して、武家の式学としては能楽が定められたのであった。

江戸城本丸と西の丸には能を演じるための表舞台が造られ、幕府の慶事や公式行事の際には必ず能が開催されていた。諸大名も幕府に倣って能の興隆に大いに力を注いだ。優秀な能役者を藩のお抱えとし、争うようにして能装束が作られていった。名門大名家に今も残る能装束は、こうして制作され蒐集されていったものである。

どんな物でも容易に入手することができる現代にあっても手に入れることができないものがある。失われつつある伝統や技術を追求することの難しさと意義とを強く感じさせられる。

こうして復原された山口さんの能装束が、昭和60(1985)年から昭和61(1986)年にかけて、ストックホルムやコペンハーゲンなどを巡って開催された能装束北欧巡回展において、初めて海外に披露された。そして海外においてたいへんに高い評価を得た。

その後も山口さんと山口さんが復原された能装束は、チューリッヒ、シュツットガルト、ローマ、デュースブルグ、ハンブルグ(1993年~1994年)、ワシントンDC(1994年)、ニューヨーク、ミュンヘン(1997年~1998年)と経巡り、2002年にはジュネーブ、モナ(フランス)、プラハ、ウィーン、ミュンヘン、マイニンゲン、デュッセルドルフ、ツホンズクレイスなどを歴訪している。

 山口さんの知名度は、日本でのそれよりも、むしろ海外での方がはるかに高いかもしれない。海外からは、山口さんが自ら売り込むことなく、展覧会の依頼が常に多数寄せられている状態であるという。現に資料館一階の壁には、様々な国でVIP待遇で迎えられている山口さんの写真が所狭しと飾られている。

 同じ国に暮らす日本人として、海外で先に山口さんのことを評価されてしまっている現実を恥ずかしく思った。日本の伝統文化である能の世界を、私たち日本人はもっと知らなくてはならないということを、つくづく感じた。

山口能装束研究所を設立してから9年後の平成4(1993)年に、山口さんは浅井能楽資料館を当地にて開館し現在に至っている。

 その後も、平成6(1995)年に日本文化芸術財団により第2回日本伝統文化振興賞を受賞したほか、海外での展覧会実施による日本文化紹介の実績が評価されて平成15(2004)年に外務大臣表彰を受賞するなど、特異な活動が国内外で高い評価を得ている。

 ところで、どうして山口さんはこの浅井町に資料館を建設されたのだろうか?

私が一番に疑問に思っていたことである。

その疑問に答えてくれたのは、資料館の案内をしてくださった、山口さんの長男の奥様だった。

「絹糸です。元々館長は京都で繊維関係の仕事に従事していたのですが、能装束の復原を志して、それにはいい絹糸がどうしても不可欠だったので、全国いろいろなところの絹糸を訪ねて回った末に、ここ浅井町の絹糸が一番ふさわしいとの結論に至ったのです。」

浅井町の絹糸のどこがどのようにいいのかは、素人の私にはよくわからない。しかしながら、湖北地方が古くからの絹織物の産地であることは、第一部の観音寺城址や長浜や賤ヶ岳の章などで紹介してきたとおりだ。

達人の確かな目で見ると、浅井町の絹糸は艶やかな光沢があってずっしりと重いのだそうだ。繭から糸を取り出す手法にも、この地方独特の特徴があるらしい。

今でこそ養蚕をしている風景を農家の軒先などで見つけることは難しくなってしまっているけれど、以前は旧小谷城の城下町であった郡上や伊部地区あたりでも、絹糸を紡ぐ糸ぐるまを操る光景などをごく普通に見ることができたという。

遠く奈良時代の昔から連々と受け継がれてきた養蚕技術の伝統が、現代の巧(たくみ)である山口さんの目と感覚とによって見出され、うつくしい能装束として織りなされていったということなのだと理解した。

資料館の二階には、そんな山口さんが復原された能装束のうちの何領かが、その時々に設定されたテーマに沿って、さりげなく展示されている。

DSCN0642 館内の作品 

能楽には独特の約束事がたくさんあるので、素人が何の知識もないまま普通に見ただけでは、なかなかそのすばらしさを理解することは難しい。実に奥深い世界なのである。

今日は奥様に解説をお願いして、そのほんの一端だけでも、触れてみたいと思っている。

まずは呼び方だが、「能装束」と言うのが正しい。「能衣装」とはけっして言わないそうなので、注意が必要だ。また、数える時には「領」という単位を使う。一領、二領……である。

能装束は、能の舞台以外で使用されることはない。能のための専用の装束ということになる。しかし一部の特別な装束を除いて、一領の装束をいろいろな能で使用することができる。同じ装束であるのに、演じられる曲目によってまったく別の装束のように感じられるというから、能装束とは実に不思議なものであると思う。

しかも能装束は、単に鑑賞するために創られたものではなく、能舞台で実際に使用されることを目的として創られたものである。能装束が私たちの心を強く捉えて放さないのは、薄っぺらい鑑賞用ではなく舞台での実用に耐え得るだけの強さと機能とを備えたものだからであるのだろう。

山口さんが復原された能装束ももちろん、現代の能役者によって演じられることを目的として創られたものである。

能装束と言うと、華やかな色使いと派手な模様とで豪華さがとても印象的である。ところが意外なことに、使用されている色は非常に限られている。

これは、当時の技術的問題から来る制約ではない。能装束の制作技術は今よりも優れていたので、使おうとすれば様々な色を使えたはずだ。敢えて多くの色数を使わずに、それでいて豊かな色彩を表現しようとした。

能装束の持つ芸術性の一端である。

たとえば、しだれ桜に蝶が舞う装束を例にとって説明してみよう。

縦に何条ものしだれ桜の枝が不規則な曲線を辿りながら上から下へと垂れている。枝にはたくさんの桜の花と葉が描かれている。

そこにやや大柄の蝶が舞い遊ぶ、春爛漫の華やかな装束である。

まずはしだれ桜から見ていこう。桜の葉の色は、上品な薄い緑色の一色である。小さな葉が一面に配されていて、装束全体の基調を作りだしている。単色であることにより、装束に落ち着きと安定感とを与えていることがわかる。

一方の桜の花は、薄い青、濃い青、赤、橙(だいだい)、白、紫などのカラフルな色が使われている。実際の桜の花にはあり得ない色であるけれど、敢えて使用できる限りの多くの色を配することによって、春の華やいだ雰囲気を演出している。

そこに舞う蝶は、上から見た図柄と横から見た図柄の、基本は二種類しかない。それぞれに右向きと左向きとがあるから、合計で4種類ということになる。

この蝶は、前の羽と後ろの羽とが異なる色使いで描かれている。この色も、現実世界ではあり得ない華麗な色をしている。羽にもそれぞれ、さらに異なる色の模様が付けられている。

単純に計算しても、2(上から・横から)×2(右向き・左向き)×2(前羽・後ろ羽)×2(羽の模様)=16種類の色合いの蝶を描くことが可能となる。実際には、羽に描かれた模様部分はもっと複雑な図柄となっているので、描き出せる色のパターンはほとんど無限に近くなる。

能装束をよくよく見てみると、この図柄と色の組み合わせにより、同じような模様が繰り返し描かれているにも拘わらず、けっして同じ図柄と色パターンが重複して使用されていることはないことが理解されるだろう。

指摘されてみないと絶対にわからない能装束のトリックである。

色使いについて言うと、さらにこんな約束事もある。

「紅」と書いて「いろ」と読む。文字通り、赤い色のことである。「紅入り」(いろいり)とは、赤い色が使用されている能装束のことを指す。その反対の言葉は、「無紅」(いろなし)である。

紅入りは、それが若い女性の装束であることを意味している。女性の年齢が上がっていくにしたがい次第に紅色(あかいろ)が薄れていき、歳を取った女性の装束には紅が使用されていない。装束に紅が入っているかどうかで、登場人物の女性の年齢が暗黙のうちに了解される。

また、金色を使用している装束は高貴な人物を表している。こうして、装束に使用されている色を見るだけで、登場人物の性別や年齢、それに貴賤の別などがわかるような工夫がなされていることがわかる。

能で使用される装束の代表的な種類として、「唐織」と「厚板」と呼ばれる装束がある。

唐織は、女性役が着用する小袖仕立ての装束で、主に表(おもて)着(ぎ)などに使用される艶(あで)やかな能装束である。

明(みん)から舶載された高級な織物を総称して「唐織物」と呼ばれていた。その唐織物に由来する呼び名である。女性を表現する装束であるので、使用される文様も、草花、蝶、扇、虫籠など女性らしいやさしい文様が多く使用されている

一方の厚板は、男性役が着用する装束で、力強さ、荒々しさ、武骨さなどを表す大ぶりな文様が特徴の装束である。明(みん)から舶載される際、厚い板に巻かれて持ち込まれたことに由来する。男らしさを強調するため、斧、松明、蜘蛛、稲妻などの模様がよく使われている。

両者の中間に位置する装束として、「厚板唐織」と呼ばれる種類の装束もある。

これらの織り模様の装束のほかにも、下地に金箔や銀箔を摺りつけた摺箔(すりはく)と呼ばれる女性用の小袖仕立ての装束がある。織り模様とは異なった「箔」の上品さと華やかさがあり、独特の趣を醸し出している。

さらに摺箔の上に刺繍を設えた「縫箔」(ぬいはく)と呼ばれる小袖仕立ての装束も見ることができる。摺箔の上品さの上に色とりどりの刺繍の華やかさが加わり、たいへんに豪華な装束である。

山口さんの能装束の復原作業は、これら能装束の持つ様々な技法や工程を忠実に実践することによって初めて可能となるものである。ご苦労の一端が窺われる。

 山口さんの作品を長男の奥様の解説によって一領一領丹念に拝見して回った後、私は不思議に敬虔な気持ちを抱いたまま、資料館を後にした。

 山口さんが浅井の地を資料館の建設地として選定してくださったことを深く感謝するとともに、新たな湖北地方の文化の発信源として、浅井の地が積極的な役割を果たすようになってくれたらいいと願っている。

 そんな可能性を十分に感じさせてくれる、何か、を持っているのが浅井能楽資料館であるような気がする。

 最後に、平成22年(2010)9月20日に木之本町伊香具神社の拝殿で執り行われた、佐藤芳彦記念山口能装束研究所設立二十五周年記念の奉納能のことを記(しる)して、この章を締め括ることとしたい。

 残念ながら私は、栄えある奉納能を拝見する資格など持ち合わせていないので、実際に自分の目で奉納能を見たわけではない。列席を許された知人から話を聞くのが精一杯のことだったが、話を聞いただけでも十分に感動的な舞台であった。

 伊香具神社は、木之本駅からまっすぐ西に2㎞ほど行ったところ、賤ヶ岳の南麓に位置する大音(おおと)地区に存する古式豊かな神社である。入り口の大鳥居を潜り、長い参道をしずしずと進んでいくと、やがて萱葺(かやぶき)の拝殿が見えてくる。神さびてという言葉がとても似つかわしく感じられる建物である。

 奉納能は、この伊香具神社拝殿にて厳かに執り行われた。

 演目は、「羽衣」である。伊香具神社から程近い余呉湖畔にも同様の羽衣伝説があり、当地に相応しい演目を選択されたものだろう。シテは観世流の中所宜夫さんが演じられた。蝉時雨が間断なく降り注ぐ暑い日であったという。

 日頃、資料館に何気なく展示されている山口さんの能装束が、中所さんの演技によって命を吹き込まれ、生き生きと舞う様を見て、我が知人は感動のあまり涙が止まらなかったと言う。

 叶うことなら、たとえ末席であっても、私もその場に居合わせたかったとつくづく思った。鬱蒼と生い茂る神秘的な木々に囲まれた神域のなかで、地謡方の力強い声に蝉の声が唱和して、それは幻想的で幽玄な世界がつくりだされていたことだろうと思う。名人が演じる舞いが限りなく神秘的に見える瞬間だ。

 その後、場所を変えて木之本町の老舗料亭すし慶で開かれた祝宴の席でも、宝生流・三川泉さんによる「八島」、金春流・本田光洋さんによる「邯鄲」、観世流・武田志房さんによる「猩々」の舞いが演じられた。流派を越えて当代一流の能役者たちが一堂に会しての、山口さんの業績を讃える華やいだ祝宴となった。

 流派の別が厳格な能の世界にあって、このような機会というのは極めて稀有なことではないかと考える。これも偏に、山口さんの仁徳と意義ある業績のなせる技だと思う。

 祝宴の出席者のなかで目を引いたのは、埼玉県本庄市の市長と本町自治会の方々だ。平成19年(2007)に本庄まつりに使用される十基の山車のうち、本町の山車に使われる胴幕(祭禮錦)と人形装束が山口さんの手により新調されたことが縁で、山口さんとの交流が続いているのだそうだ。

 毎年11月3日に開催される本庄まつりでは、山口さんの作品である胴幕によって装飾された本町の山車が、ひと際目立つ存在として人々の目を引いている。 

本庄まつり

 

能楽資料館3 

 

能楽資料館2 光の加減で色が様々に変化する。

 山口さんの旺盛な制作意欲は、能装束の枠内に止(とど)まらない。山車の胴幕もその一つだが、山口さんは、群馬県前橋市にある人形店「島久」の雛人形の装束をも手掛けられている。三代目となる島久のご主人と奥様も山口さんの祝宴に駈けつけられた。

 山口さんの業績は拡大し続けている。将来どのような展開を見せるものか、興味と期待は尽きるところを知らない。