1. 渡岸寺(妖艶・国宝十一面観音像)

<第二部 湖北文化の輝きに触れる>

1. 渡岸寺(妖艶・国宝十一面観音像)

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これまで私は、湖北を舞台に活躍した戦国武将たちの生きざまを通して湖北地方を見つめてきた。歴史という糸を縦糸とすると、これからはもう一つの糸である文化を横糸として、湖北地方を俯瞰していきたいと思う。歴史と文化とを織り交ぜることで、長浜特産の美しい浜ちりめんのように、色鮮やかな湖北地方の織物が織り上がっていくのではないかと思っている。

 平成18(2006)年11月、上野にある東京国立博物館には連日、長蛇の列ができていた。特別展「仏像(一木にこめられた祈り)」を見るために集まった人々の列である。仏像が静かなブームになりつつあることを実感させられる光景だった。その行列の中の一人として、私もいた。

 日本全国から様々な一木造りの美しい仏像が国立博物館に集結していた。しかしながら、並み居る仏像たちのなかで皆の注目は、メインの展示場である平成館の最も中心に置かれた一体の仏像に注がれていた。

 渡岸寺の国宝十一面観音立像である。

 仏像と言うと、京都や奈良を真っ先に思い浮かべる人が多いだろうと思う。私もかつてはそうだった。渡岸寺の十一面観音を見るまでは。

学生のころから京都や奈良の寺々を巡っては、さまざまな仏像を見て歩いた。和辻哲郎さんの『古寺巡礼』や亀井勝一郎さんの『大和古寺風物詩』、あるいは堀辰雄さんの『大和路』など、仏像のことが描かれた本を手にして、私は夢中になって仏像を追い求めたものだった。

そういう意味で仏像とは、もう長年にわたって親密な関係を築いてきた間柄である。それなりに思い入れもあったし、自分なりの見方みたいなものが確立していたつもりでもある。

そんな私の仏像観をがらりと変えたのが、渡岸寺の十一面観音だった。

友人に連れられて初めてこの仏様にお逢いしたのは、平成14(2002)年の春まだ浅い季節であった。何の期待感もなしに立ち寄った湖北地方のとある寺だった。どのような構えの寺だったか、記憶にまったくない。

もう夕方だった。拝観終了の時間が迫っていた。車から降りて、慌しく拝観料を払い、本堂から廊下伝いに仏像が安置されているという別棟の建物まで急いだ。せっかくこんな遠いところまで来たのだから、とりあえず見ておこう。それくらいの軽い気持ちだった。

ところがそこで私が見たものは、想像もしていなかった妖艶な十一面観音だったのである。

人と人との出逢いも、そんなものかもしれない。

何の意識も先入観もなくふと出逢った人が生涯の友となるような、そんな運命的な出逢いがあることを、私は経験的に知っている。それと同じような出逢いが、早春の湖北地方のとある寺であったのだった。

向源寺、というのが寺の名前である。

JR北陸本線の高月駅から程近いところにある寺である。一般に渡岸寺観音堂の十一面観音と呼ばれているが、正式には向源寺という真宗大谷派に属する寺の所有である。浄土真宗の教義では阿弥陀仏以外の仏像を祀ることが許されていないため、集落の名前であった渡岸寺が一般名称となったようだ。渡岸寺(向源寺)と書かれていたりする。2つの異なる寺の名前が存在しているようで非常に紛らわしくてわかりにくいのは、そのためである。

元々は、聖武天皇の勅願により、流行り病を抑えることを祈願して泰澄に彫らせたのがこの十一面観音だと伝えられている。その後、最澄が伽藍を整備して慈雲山光(こう)眼寺(がんじ)として整えられたが、戦国時代に織田信長と浅井長政との戦いに際して堂宇のほとんどを消失し、後に向源寺として宗旨替えが行われて現在に至っている。

実に数奇な運命を辿っている寺である。

その寺に、想像を絶する美しい十一面観音がおわした。今は空調設備が完備された近代的な観音堂に納められているが、当時は古びた木造のお堂の中に、ひっそりと佇んでおられた。素朴な雰囲気で、どちらかと言うと私は、当時のお堂の中の十一面観音の方が似つかわしくて好きである。

あの時に初めて見た十一面観音との出逢いの驚きを思い出して、感慨深い想いを抱きながら、私は国立博物館の長い列に身を委ねていた。

これだけたくさんの人たちが十一面観音を見るために集まってきている。その事実に私は身震いをさえ感じていた。渡岸寺の十一面観音は、2ヶ月に及ぶ展示期間のうちの後半の主役(1)として、多くの観客の前で惜しげもなく妖艶な姿を披露していた。

当時の渡岸寺の観音堂では実現できなかったことだが、国立博物館に展示されている十一面観音は、360°すべての角度から像を見ることができるように工夫がなされていた。正面や斜め前の角度からはもちろんのこと、背後のお姿をつぶさに拝見することもできて、実に不思議な気持ちがした。

それにしても、十一面観音の前の大観衆を目の当たりにして、誰もが感動している表情を見ることは、私にとって実に快感だった。湖北地方に生まれ、ひっそりと育まれてきたたいせつな宝物が、美に飽食し目の肥えた東京の人たちの心を魅了している。

そう思うと、えも言われぬ喜びが湧きあがってきた。そして、湖北地方の気品に満ちて気高い文化を、我がことのように誇らしく思った。

湖北地方の文化のことを、日本のルネサンスと呼んだ人がいた。人間復興という日本語訳にはそぐわないが、ルネサンス期のイタリア彫刻に比してもけっして引けを取らない美しい像を創り上げた湖北地方の文化を、尊敬の念と誇りとを込めて日本のルネサンスと称したのだろう。

頂上面までの高さが1.95mの平安初期に創られた一木造りの檜の像である。国宝に指定されている7体の十一面観音像(2)のなかでも、最も気品が高く、妖艶で美しい像だと言って過言ではない。

蓮花座の上にすっくと立ち、すらりとバランスよく伸びた体躯。左手には首長の水瓶を持ち、右手は今にも手を差し伸べようとするかのように手のひらを前にして垂らされている。その手に天衣が纏いつく。

ふくよかな肉付きのボディラインにまとわりつくように密着した薄い天衣。腰を左側にきゅっと捻った姿がえも言われぬ妖艶さを醸し出している仏像だ。

じっと下方を眺めるようにして瞑想する控えめな眼差しに慈悲の深さを感じる。上品な雰囲気を湛えながら静かに立ち尽くす像を見ていると、心がすうっと落ち着き洗われていくような思いがする。

無条件に美しい仏様である。

像に沿って正面から向かって左側面(そくめん)へと、右回りに回ってみる。見る角度の違いによって、受ける印象が少しずつ変化していく様がおもしろい。この後、興福寺の阿修羅像の展示などでも同じ試みが行われた東京国立博物館の新しい展示手法だ。

正面から見たのではよくわからなかった天衣の流れるような衣紋が目を奪う。普段人の目に触れることのない後ろ姿にも、手を抜くことなく精密な彫りが施されていることがよくわかる。

十一面ある小面に目を向けてみると、正面に立つ菩薩の全身像を手始めとして、左右に3面ずつの小面が配置されている。さらに両耳の後ろに据えられているのが、やや大きめの「牙上(げじょう)出面(しゅつめん)」(3)で、真後ろに置かれた「暴悪大笑面(ぼうあくだいしょうめん)」(4)と、それに頂上部にある小面を合わせて全部で十一面となる。

頂上にある小面は、仏面(如来の相)であるのが一般的なのだが、向源寺の十一面観音像は宝冠をつけた菩薩の相である。学術的にも特徴のある独自の制作様式であることが興味深い。

東京国立博物館の新しい展示方式のお陰で、私は十一面あるすべての小面をゆっくりと堪能することができた。

像の周りをゆっくりと2周した後に再び正面に戻ってきた私は、ごった返すような混雑の中でも時が経つのを忘れて、いつまでも渡岸寺十一面観音像の前に立ち尽くしていた。

 東京での再会から3年半の歳月が流れた。

 私は再び、向源寺を訪れた。春まだ浅き3月の湖北の空は鉛色の雲が低く垂れ込め、一瞬青い空が見えたかと思うと、一転して吹き抜けていく冷たい風にあられが混じるあいにくの空模様だった。

 初めて訪れた時には拝観終了間際の時間帯であったため、周囲の建造物を見る心の余裕がなかった。今回は時間の制約はないので、観音堂だけでなく境内の隅々の風景までをじっくりと見渡すことができた。

 向源寺の境内には寺域を仕切る塀がなく、開放的なスペースのなかに建造物が点々と配置されているイメージである。入り口にあたる仁王門の前の、通行を妨げるかのように斜めに立つ松の木が印象的だ。

仁王門仁王門

 正面には入母屋式の瓦屋根を頂く本堂がどっしりとした姿で立ち尽くしている。

そうだ、前回ここを訪れた時には、拝観料を払ってこの本堂に上がり、本堂の内陣を見ることもなく急ぎ足で、廊下伝いに向かって左手にある観音堂へと赴いたのだった。

本堂渡岸寺拝殿

 あの時の時間の切迫感とともに、忘れていた記憶がほんのりと思いだされる。木像だった観音堂は今はコンクリート造りでコンピュータ制御の空調設備を持つ洒落た建物に建て替えられている。本堂に上がることなく、直接観音堂の入り口に向かった。

 久しぶりの、私にとっては3回目の対面となる。このお堂の中に十一面観音像がおわすと思うと、自然と心が緊張してくる。

 十一面観音の新たな住まいである観音堂は、驚いたことに三重の扉により外界の空気と隔てられていた。3枚目の扉が静かに開くと、正面に懐かしい観音像が姿を現した。最初に古い観音堂でお会いした時とも、二度目に東京でお会いした時とも違う不思議な対面だった。

新観音堂新しい観音堂

 私にとっては、最初に訪れた時の素朴な木像の観音堂が、十一面観音には一番相応しくしっくりとくるように感じている。経過した時の重さを感じさせる観音堂は、純朴な観音像に最もフィットした舞台だったのではないだろうか。

 すっかり近代的な住まいと化してしまった新しい観音堂は、耐震施設や空調設備など現代の技術の粋を極めたものであり、観音様を長く安全に保存していくという目的には最も好ましい環境なのであろうが、一抹の寂しさを感じてしまうのを禁じ得ない。

 とは言え、観音像の妖艶な美しさは、時と場所とを選ばない。

3年半前の東京では、たくさんの観客のなかの一人として、まるで満員電車のなかで押し合いへしあいするようにしながら見た観音像を、今は誰もいない堂内で私一人が独占している。

 得も言われぬ幸福感に私は包まれている。

 久しぶりに見る今日の十一面観音像は、妖艶なお姿というよりは、慈悲深く神々しいお姿が強調されて私の目に映った。

 見ている人の心を落ち着かせるどっしりとした安定感。奥行きの深い瞑想の世界。見る人をして心のうちで跪かせるような強力な力が、このお堂の内部に漲っているように感じられた。

 ただ美しいとばかり思っていた仏様が、こんなにも力強いパワーを秘めていたのかと驚かされた瞬間だった。

 東京国立博物館での展示方式を採用したのか、新しい観音堂では360°あらゆる角度から観音像を見ることができるような構造が採られていた。私は何度も観音像の周囲を巡っては、この慕わしい御像を心に焼きつけようとするかのように熱い視線で凝視し続けた。

 至福の時間とは、今の私の、このような時間のことを言うのだろう。

 どのくらいの時間をこの御堂の中で過ごしたのか、心のさざ波が穏やかな鏡の面のように滑らかになった私は、満たされた気持で観音像に別れを告げた。

 どこまでも神秘的で美しい観音像であるので、古来篤い信仰の許に大切に守られてきたものと思っていたが、実はこの像が土の中に埋められていたという受難の時期があったと聞いて驚いた。

 信長と長政とが姉川で争った時(元亀元(1570)年)のことであるという。この美しい十一面観音を戦火から守るために、付近の住民たちが観音像を土中に埋めて焼失するのを阻止したと伝えられている。

 実際に向源寺の境内には、「御尊像埋伏之地」という石碑が建立されている。

御尊像埋伏之地御尊像埋伏之地

近くの説明板によると、信長は敵対関係にあった天台宗の寺院に対して特に厳しい対決姿勢を見せており、当時は宗旨替えが行われていて浄土真宗の寺院であったものの、元々の経歴が天台宗の寺院であったことから攻撃の対象となり、巧圓という僧が中心となって門徒衆と共に命懸けで観音像などの仏像をこの地に埋めて難を免れたという。

 今の優雅な姿からは、この像が土中に埋められていたことなど想像すらできないが、こうした住民や門徒たちのまごころを込めた慈しみの行動があって初めて、今の時代の私たちが妖艶なこの像の美しさを堪能することができるということなのだ。

 仏像との不思議な縁を感じざるを得ない。

 そして、この地の先人たちのまごころに、感謝の念を禁じ得ない。ほのぼのとした思いで、私は渡岸寺を後にした。

(1) 東京国立博物館 特別展「仏像」 一木にこめられた祈り

 平成18(2006)年10月3日~12月3日

 第一期 10月3日~11月5日 京都・宝菩提院願徳寺・菩薩半跏像(国宝)

 第二期 11月7日~12月3日 滋賀・向源寺・十一面観音菩薩立像(国宝)

(2) 国宝の十一面観音像

室生寺・法華寺・聖林寺(奈良)、道明寺(大阪)、観音寺・六波羅蜜寺(京都)、渡岸寺

(滋賀)

(3) 牙上出面

 十一面観音像の頭部にある小面のうちの一種類。牙を剥いている面。渡岸寺十一面観音

像の場合、やや大きめの牙上出面が両耳の後ろに置かれているのが特徴である。

(4) 暴悪大笑面

 十一面観音像の頭部にある小面のうちの一種類。真後ろに置かれ笑った顔の小面。