(付記) 「大依山(おおよりやま)砦(とりで)跡の現地説明会」同行記

(付記) 「大依山砦跡の現地説明会」同行記

DSCN2228 大依山砦跡への入口

2010年5月2日(日)の湖北地方は、快晴の天候に恵まれた。ゴールデンウィークの真っただ中にあたるこの長閑な日曜日に、姉川の合戦再見実行委員会主催の「大依山砦跡の現地説明会」に飛び入り参加するために、私は新横浜を6時11分に発車する「のぞみ」に飛び乗った。

 集合時間の午前9時。集合場所である浅井文化スポーツ公園の駐車場には多くの参加者が山歩きのできる服装で集合していた。ご年配の方が多い。しかしみなさんとても元気で、中には前日に浅井氏の支城の一つである山本山城祉に登ってきたという方もいらして、驚いた。

 湖北の地は、歴史ファンには堪らない戦国史の宝庫である。行こうと思えばいつでも気軽に城址や戦場跡を訪ねることができるロケーションを羨ましく思った。

 今日の特別ゲストは、この4月に長浜城歴史博物館の館長に就任されたばかりの中世城郭研究の第一人者である中井均館長と、浅井長政や石田三成など湖北が生んだ武将たちに関する多数の著作を著わされている同じく長浜城歴史博物館の太田浩司さんのお二人である。中井さんは山歩きの熟練者らしく、熊避(よ)けの金の鐘を首から下げての参加であった。歩く度に澄んだ鐘の音色が周囲に響き渡り、これなら熊に襲われる心配もない。

 お二人とも、私のなかでは著書を通じて(一方的に)お馴染みとなっている方なのだが、実際にお会いするのはこの日が初めてで、このような著名な専門家の方の解説を直接お伺いしながら史跡を訪れることができる幸せをつくづく感じた。

 最初に太田さんによる挨拶を兼ねたガイダンスが行われる。渡された資料は『信長公記』である。今日は山に登るものだとばかり思っていたのに、いきなり古文の解読から始まったことに驚かされる。しかし、ただやみくもに登るのではなく、信頼できる文献により当時の状況を確実に頭に入れてから実際に現地を訪ねることは重要なことだ。

 今私たちが立っている場所が、大依山の南端にあたる。

浅井・朝倉軍は、織田軍に襲われ孤立している横山城まで2㎞の距離にあるここ大依山に陣を置き、合戦直前の4日間(元亀元年(1570年)6月24日~6月27日)をこの山中で過ごしている。そのことが、『信長公記』に明確に記載されているのだ。

最初にこの山に陣取ったのが朝倉の8,000人である。そこに浅井の5,000人が加わり、合計13,000人もの大軍がこの山に4日間も帯陣していたことになる。

戦の記録を読んでいるとこういう場面にはよく出くわすが、実際に陣を置いた現地を訪れて当時の状況を体験してみるという経験は初めてのことである。当時の武将たちがどのようにして4日間もこの山中に潜んでいたのか、太田さんの解説を聞いて私は、好奇心でますます胸が躍る思いがした。

 いよいよ、登山である。私たちは、駐車場の隅にある神社の参道をしずしずと登り始めた。

 よく整備された坂道をしばらく登り続けると、祠のある平坦地に辿り着く。山の中腹の見晴らしのいい場所である。正面に見える山が、浅井氏の支城である横山城があった横山丘陵である。驚くほどにくっきりと見える。

 なるほど、浅井・朝倉軍は、どの山でもよかったのではなく、大依山が横山城をしっかりと見渡すことができる絶好の場所にあることをはっきりと認識していて、敢えてここに陣を置いたのだということがよくわかった。

 後で地図を見て驚いたのだが、合戦が行われた「野村」の地は、大依山と横山丘陵とを結んだ直線上のちょうど真ん中にある。

 この場所で、中井さんから今日最初の解説が行われた。今後、ポイントごとに中井さんや太田さんの解説をお聞きすることになる。途中で歩きながらつぶやかれるちょっとした言葉の端々(はしばし)でさえも私にとっては新鮮な知識ばかりで、生きた情報がシャワーのように降り注がれてくるこんな幸せで贅沢な体験はなかなかできないだろうと思った。早起きをしてはるばる新幹線で来てよかったと心から思った。

 ここでの中井さんの話を要約すると、おおよそ以下のような内容になる。

 そもそも姉川の合戦は、浅井氏と織田氏とが雌雄を決するために戦ったものではなく、長政にとっては、織田軍の攻撃を受けている横山城を助けるための戦いであった。横山城に籠っている味方の援軍として織田氏の軍を挟撃する。長政の軍はいわゆる「後詰」であった。

 長政自身、横山城を見捨てて小谷城に籠ったとしても、後詰(挟撃してくれる援軍)がない以上勝てる見込みはない。したがって、横山城を助けるために姉川に打って出た長政の行動は、軍事理論的に適っている。

 大依山は、目の前に横山城を眺望できる絶好のポジションにある。横山城に何か動きがあれば、即座に察知して出撃することが可能な場所であった。

 今、神社の祠のあるこの平坦地から横山城祉を望む眺望を得ることができるのは、南方斜面の木を伐っているからである。陣を置くに際して真っ先に行うことは、眺望を確保するために山の木を伐ることである。

 伐った木は、柵にしたり簡易な小屋などとして活用する。まさに一石二鳥である。

 一般に戦国期の山城は、山の上部2~3割くらいまではすべて木が伐採されていて、赤茶けた土の地肌が見えていたはずである。今見る横山丘陵は全山緑の木々に覆われているが、当時は山の上部に木は生えていなかった。実際に見えていたであろう景色は、今とはずいぶん異なっていたものと考えられる。

 以上が(私が理解し得た)中井さんの解説の概要である。

 整備された山道は祠のある平坦地までで途絶えている。この先には道がない。これからどうするのだろう?訝しく思っていたら、太田さんが木々の間を掻き分けるようにして山林の中に入って行くのが見えた。

 今まで湖北地方を中心として幾多の山道を歩いてきたが、程度の差こそあるものの、人の力によって整備された山道ばかりだった。ところが太田さんが分け入った林には道などない。手で目の前の枝を掻き分けながら、まるで木の間を泳ぐようにして道なき道を歩いていく……。

 大依山は後世の人たち開発の手が入っていないため、姉川の合戦当時の貴重な遺跡がほとんどそのままの状態で残っていると事前に聞かされてはいたが、開発の手が入っていないというのはなるほどこういう状態だったのかと、改めて実感した。

 やがて、平坦地に辿り着く。206.9mの一等三角点が認められる。ここでの解説は、以下のとおりである。

 この平坦地は、明らかに人工的に削って造られた平地である。おそらくは、古くから存在していた古墳(前方後円墳)の後円部の頂上部分を削ったものと思われる。今は木が生い茂っていて眺望が利かないが、木を伐採すれば、おそらく横山丘陵が真正面に望めるはずである。

 この辺りに浅井軍はベースキャンプを置いたのだろう。

 砦として考えてしまうとエッジが弱い(後述)との印象を免れないが、わずか4日間のためのものとしてはこれでも十分と思われる。

 さらに藪を手で掻き分けながら道を登り続けると、また別の平坦地が現れる。自然の地形ではこのような平地が連続的に存在することは考えにくい。ここには明らかに人の手が加えられていることが確認できる。

 こうして地図を片手に山中を歩いてみると、浅井氏の陣地は大依山の尾根伝いに点々と設けられていたことがわかる。

 再び中井さんの言である。

 このような平坦地には、それほど多くの兵士が潜めるわけではない。現に本日の参加者約30人が同時に集うと、それだけで息苦しくなるほどの密集度である。こういう過ごしやすい場所には、大将クラスの武将のみが帯陣した。

 では一般の兵士たちはどのようにしてこの山中に潜んでいたのだろうか?13,000人という人数は、現実的には想像を絶する人数である。僅かに造られた平坦なスペースに居ることを許されない無名の兵士たちは、山の尾根にへばりつくようにして4日間を過ごしたと言う。

 大依山全山が、浅井・朝倉の兵士たちで埋め尽くされていたと考えても過言ではない。人が入山することさえ極めて稀な今の大依山からは想像することもできないような不思議な光景である。

 結果的に、私たちは大依山の稜線伝いに縦走したことになる。その間に、いくつかの平坦地を目にしたが、そのいずれもが前方後円墳や円墳の頂上部を削って造ったものだということが中井さんや太田さんの解説によりわかった。

 浅井・朝倉連合軍が籠った大依山も、織田・徳川連合軍が依拠した横山丘陵や龍が鼻も、いずれも古墳を加工して陣としたものであると言う。もちろん、当時の人たちはそれが古墳であるということなどは知る由もない。適度に盛り上げられた盛り土の部分を削って、一時的な帯陣ができるように加工しただけである。

 それにしても、素人の私には、丸く盛り上がった土地が古墳であるのか自然の地形であるのかさえ、はっきり言ってよくわからない。一瞬にして、この地形が古墳であることを言い当てる中井さんや太田さんは、さすがプロの学者だと恐れ入った。

 前方後円墳のくびれ部分が明瞭に残されている古墳があった。大依山に遺された古墳のなかで最も大規模な古墳である。あるいは浅井連の祖の地方首長クラスの墳墓ではないかとも言われている立派な墓である。

 この古墳を目にした時の中井さんの反応がとても印象的だった。まるで山中で宝物を見つけた時の少年のように瞳を輝かせて、これは前方後円墳だ、ここまで見事にくびれ部分が遺されている前方後円墳はそうは見られない!とかなりの興奮度で話されていた。

 高名な歴史学者であるのに、ここまで純粋に感動を体現される中井さんに、私は素直に好感を持った。まるで子供のように無邪気な喜びようであった。

 大きな前方後円墳の次に、丸い墳丘がそのまま残されている円墳があった。この円墳の頂上部分が削られていないのは、この地点からは横山丘陵を望むことができないため、陣を置くには適していなかったからであるという。なるほど、そういうことだったのか。

 歴史学者は何もかもお見通しである。今日は私は、普段経験することができない本当にすてきな体験をさせていただいている。そしてこんなすばらしい機会を与えてくださった姉川の合戦再見委員会のみなさんに感謝の気持ちで一杯である。

 円墳の麓に落ちている石を見て、これは円墳の葺き石であると言われた時には驚いた。中世城郭研究の第一人者とのイメージが強かった中井さんだが、古墳についても相当に詳しい。

 角が取れて丸い石は、河原石である。首長の墳墓を造るために、わざわざ河原から人々が運び上げて葺いた石の名残りなのだそうである。私にはどこにでも落ちているただの石にしか見えないものが、歴史学者の目を通して見ると正確な史実として認識される。ただただもう、脱帽である。

 私にとっては本当に楽しい時間だった。

 あっという間に時間が過ぎ去ってしまい、気がつけばいつしか山を降りて、元の駐車場に戻っていた。山登りとしては、高い山に登ったわけではない。歩いた距離もそれほどの距離ではない。体力的には、道なき山中を歩いたという困難さを除いては、厳しくはなかった。

 しかし私の心は、様々な新しい知識を満喫することができて、こんな充実した時間はなかった。何事にもあらまほしきは先達なり、であるということを痛感した。中井さんと太田さんという、当世第一の歴史学者のガイドを得て、知的好奇心を満喫する至高の時間を過ごすことができた。

 最後にまとめとして、次のような話をお伺いすることができた。

 締めくくりも、『信長公記』である。

 『信長公記』のなかで、著者である太田牛一は「陣」と「取出(=砦)」とを厳密に書き分けている。

 「陣」は、いわゆる一時的なベースキャンプであり、前線基地である。恒久的な施設ではないから、土塁、空掘り、堀切などの防御設備は普通は造られない。

 一方の「砦」は、恒久施設なのでこれらの設備が作られている。砦において最も重要な防御策は、「切岸」(きりぎし)と呼ばれるもので、山の斜面を切って下から這い登られないようにすることだ。

 『信長公記』における姉川の合戦のくだりでは、たしかに「其日はやたかの下に野陣(・・)を懸けさせられ」、「信長公はたつがはなに御陣(・・)取(・)」、「家康公も御出陣候て、同竜が鼻に御陣(・・)取(・)」、「朝倉孫三郎(中略)彼(かの)山に陣取る(・・・)なり」……と書かれているので、織田・徳川方も浅井・朝倉方も、「砦」ではなく「陣」に滞在していたことがわかる。

 そういう目で今日歩いた大依山を見てくると、土塁や空掘りなどは認めることができなかった。頂上の平坦部で中井さんと太田さんがさかんに「エッジが弱い」とおっしゃられていたのは、「切岸」がなされていないということを指摘されていたのだと思い当り、納得した。

 わずか4日間の帯陣であったから、砦に見られるような恒久的な軍事設備を造る必要性がなかったということであろう。

 『信長公記』をこのように厳密な目で読んだことはなかった。文献の正確な理解の下に、現地に行って実際に記述を確かめてみる。中井さんや太田さんの学問をほんの入口の部分だけであるが垣間見たような気がした。

 こういう丹念な仕事を積み重ねて来られた結果が、今のお二人の顕著な研究成果として世に著されているということなのだと理解した。

 そういう意味では、今日のこの会のタイトルも、「大依山砦(・)跡の現地解説会」ではなくて、「大依山陣(・)跡の現地解説会」というのが正確な表現なのだろう。

 大依山の上空の空は、抜けるように青かった。山は、深い色の針葉樹に浅い緑の新緑が混ざり合って、不思議なまだら模様を織りなしていた。ほんの2時間程度の短い時間であったのに、私の心は充実感で満たされていた。

 こういうすばらしい機会を与えてくださった姉川の合戦再見実行委員会のみなさんと、深い造詣の一端を示していただいた中井さん、太田さんに心から感謝をする次第である。次の催しにも、是非とも参加したいという思いを強くして、私は大依山を後にした。