6.石田町(今も生き続ける三成の魂・石田三成出生地)

6.石田町(今も生き続ける三成の魂・石田三成出生地)

 湖北地方が生んだ偉大な歴史上の人物と言えば、誰を思い起こすだろうか?

 私は、浅井長政、石田三成、そして井伊直弼の名前がすぐに頭に浮かんでくる。三人とも、日本の歴史を語るうえでは欠くことのできない重要な人物である。

前作(『井伊直弼と黒船物語』)で私は、井伊直弼の生涯を丹念に追った。日本を開国に導き、横浜が国際都市として発展する礎を築いた偉大な人物だ。

「姉川古戦場跡」と「小谷城祉」の章では、悲劇の武将として浅井長政の足跡を辿った。信長の妹であるお市の方を娶り、将来を約束された身でありながら、朝倉氏との盟友関係を選択した義の人物である。

私にとって最もわからないところの多い謎の人物が、石田三成であった。

 それにしてもテレビの影響というのは凄まじいものだ。これまで、関ヶ原の戦いに敗れ、大将としての器に欠けていたなどと芳しくない人物評が専らであった三成だが、NHK大河ドラマ「天地人」で俳優の小栗旬さんが今風のカッコイイ三成を演じて以来、若い女性を中心に三成人気が急激に高まっているという。

 たしかに、あんな男前の三成がいたら、女性のみならず男性でさえも、三成の信奉者は増加すること間違いない。

 私は、いままでの三成は過小評価され過ぎていたのではないかと思い、今現在の三成は過大評価され過ぎているのではないかと思っている。正確な三成像を確かめてみたい。そんな思いもあって、まずは三成出生の地とされる長浜市石田町を訪ねてみることにした。原点を知ることは、大切なことだと思う。

 石田三成の出生地である石田町は、長浜駅前の道をまっすぐ西に5㎞ほど行ったところにある。途中、道の両側に大きな家が点在しているのに気づくかもしれない。この辺りはベルベットの生産で栄えた街であり、裕福な家が多いのだそうだ。

 ベルベットは別名を天鵞絨と言いビロードとも呼ばれている、上品で柔らかな手触りと光沢のある高級服地だ。フォーマルな婦人服に使われているほか、劇場の緞帳などにも使用されている。

 元々当地は絹糸の産地であったところに、イギリスから最新の製法を持ち込み、特産品として逆にイギリスに輸出して利益を挙げたという。

石田町の交差点をほんの少し過ぎたところに、近江ベルベットの本社工場がある。レンガ造りの可憐な建物で、今でも見る者の心をやさしく和ませてくれる。石田町を訪れる機会があったら、是非とも訪ねてみたいスポットだ。

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 また、石田町に向かう途中の道路には、中央付近に色の違った部分が帯のように続いていることを不思議に思うかもしれない。よく見てみると、帯のように道の中央を走る幅30㎝くらいの部分には、小さい点のようなものが一定間隔で埋め込まれている。

 これは、冬の降雪期に雪を融かすために地下水を噴水する設備である。

長浜市辺りは、冬は日本海式の気候となることを多くの人は知らないだろう。地図で見るとよくわかるのだが、長浜市は日本海側と太平洋側の中間点よりもやや日本海側に位置している。冬になると低く雲が垂れこめた日々が続き、相当量の積雪があるということを、この地域のことを考える場合には念頭に置いておかなければならない。

三成の出生地である石田町へは、長浜駅前から道なりにまっすぐ進んできた道を右に曲がる。「石田三成公邸跡 是より南へ入る」という石柱が建っているので、わかりやすいと思う。先程登場した近江ベルベットの本社工場まで行ってしまったら少し行き過ぎなので戻らなければならない。

そして、ひとたび道を右に曲がった瞬間から、何とも言えない不思議な雰囲気が漂っているのを感じ取ることができるだろう。三成の屋敷があったところや石田神社を中心とした石田町一帯が、神々しい雰囲気を湛えた特別な街なのである。こういう場所を、崇敬の念を込めて聖地と呼ぶのだろう。

石田町への入口に設置されている姉川の合戦再見委員会の説明板によると、三成の父である石田正継(まさつぐ)は浅井長政の家臣で、この石田村を本拠地とする地侍であったという。この入口から南側に連なる1町4反の地域は小字を「冶部(じぶ)」と称し、石田家の屋敷があった場所であると伝えられているのだそうだ。

余談になるが、なぜこの地に姉川の合戦再見委員会の説明板があるかと言うと、石田町のすぐ東側に存する横山丘陵の山頂にかつて小谷城の支城であった横山城があって、この横山城を織田信長の軍勢が包囲したことが姉川の合戦の発端となったためである。

話を元に戻す。1町4反という広さがピンとこないと思うが、石田町入口が石田家屋敷の北端で、今では三成関係の資料が展示されている石田会館あたりが南端であるというから、おおよそ100m四方の広さであったものと推測できる。

永禄3年(1560年)、三成はこの広大な石田屋敷の中で石田正継の次男(三男との説もある)として生まれた。長政の家臣であった石田家が、姉川の合戦、小谷城の戦いを経てどのようにして生き延びたのかはわからない。三成の名が歴史に登場してくるのは、次章で書くことになる観音寺における羽柴秀吉との出逢いまで待たなければならない。

 神々しい雰囲気に包まれた石田町で私が最初に訪ねたのは、石田氏の氏神として信仰を集めている八幡神社と、八幡神社の奥にひっそりと佇む石田神社である。

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 八幡神社は、それほど大きな神社ではない。石造りの鳥居と、その奥に小さな社殿があるだけの、どこにでもあるようなささやかな神社だ。その八幡神社の社殿の裏側にスペースがあり、「石田三成公一族及家臣供養塔」が祀られている。

 石の柵で囲まれた7m四方くらいの狭い敷地の中央に新しくてやや大きめの五輪塔が一基と、その周囲にたくさんの小さな五輪塔が並べられている。小さな五輪塔はどれも、角(かど)が取れて丸みを帯びている。これらの石が、ただならぬ長く険しい時を経ていることを無言のうちに物語っている。

 これらの供養塔は昭和16年(1941年)、隣接する八幡神社の境内の地中から発見されたものだ。「永禄五年」「天正十四年正月十四日」「妙性霊位」「缶禅定門」などと書かれた文字が認められるこれらの石は、石田三成およびその一族と深い関係がある墓石であることが推測されている。

 関ヶ原の戦いの後、徳川方の執拗な追及を免れるために、里人たちが密かに神社の裏側の地中に埋(うず)めたものではないかとの推測である。土地の人々は、これに触れると腹が痛くなるとの言い伝えを作り上げて、すべての人から墓石を守り続けてきたと言う。

 石田三成公事蹟顕彰会の手で発掘された後も30年余りの歳月を仮の墓所で供養を続けてきたが、昭和48年(1973年)11月に現在の場所に整備し直したものなのだそうだ。そして毎年11月6日の三成の命日には、墓前にて厳粛に法要が執り行われるという。

 これらの苔むして丸みを帯びた石の群れには、石田三成の無念の怨霊が宿っているに違いない。

 地元のご婦人が一人、地面に蹲るようにして祈りを捧げていた。石のように固まってしまったのではないかと思われるほど、その女性は長い間微動だにしないで祈り続けていた。嘘偽りのない祈りの姿を見て、私は心打たれた。

 塵ひとつ落ちていないほどに掃き清められた敷地内に一人佇んで祈りを捧げているご婦人。ここでは石田三成のことを、よそ者のように「三成」と呼び捨てにはしない。尊敬の気持ちを込めて、「三成さん」あるいは「三成さま」と呼ぶのだそうだ。

 ご婦人は毎朝長い時間、三成の供養塔の前に佇んで、祈りを捧げているのだろう。そしてこの石田町には、このような人たちがたくさんいるに違いない。

 石田三成は、石田町の住人の中では、いまだに生きている。

 石田町に足を踏み入れた瞬間から感じていた何かとは、このことだったのだと、私は確信した。三成が没してから410年近くの時が経つというのに、このように敬虔な気持ちで敬い続けられている石田三成という人物をどう考えればいいのだろうか?

 私は、この事実を具に見て、徳川を中心とした後世の三成像が悪意を込めて作りあげられた虚像の三成像であったことをはっきりと悟った。

 残紅葉 

散り残る紅葉は ことにいとおしき

 秋の名残は こればかりぞと

 供養塔の傍らには2基の歌碑が建てられている。

 

そのうちの一つ、三成直筆の文字で刻まれた歌は、深まりゆく秋の景色の中で最後まで木に留まって輝き続ける残紅葉を讃える歌である。三成は、最後の一葉となろうとも何としても生き延びて、再起を図りたかったのだろう。いつの作かはわからないが、生への執念を感じさせる凄まじい歌だ。

そしてもう一つの歌碑は、

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と

ともに消えゆく わが身なりけり

 辞世の歌である。

 三成の無念な思いがひしひしと胸の奥に伝わってくる心の叫びの歌だ。正しい者が勝つとは限らない。強い者が勝利するとも限らない。時に運なく敗れた者の最期は、いつも虚しく哀しい。

 石田町の人々は、400年以上にわたって、この三成の無念さをずっと背負い込んで生きてきた。三成のこの無念な思いを共有しながら生きてきた。そう思い至った時、これはすごいことだと思った。

 供養塔のある神域に一本の背の高い木があった。ちょうど、村人たちが墓石を地中に埋めた辺りに立つ木だ。赤いピンポン玉大の実を付け、その実が三つにはじけて中から種が落ちていた。

 先程供養塔に跪いていたご婦人に聞いてみると、椿の木の実だそうだ。

 椿の木がこんなに大きくなるということも、椿の木がこんな実を付けるということも、私は知らなかった。艶々と光沢のある実をいくつか拾って、私はポケットにそっと放り込んだ。

 石田神社から程近い場所に、石田会館という建物がある。

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 この場所こそが、石田氏の屋敷があった南端であり、「石田冶部少輔出生地」と刻まれた石碑と石田三成公と書かれた台座に正座する三成像が建立されている。ここはまさに、三成の原点のような場所だ。

 石田三成像は、彦根市の龍潭寺でも見た。こちらの像も、端座している三成像だ。普通は銅像というと立っているものが多いが、二基の三成像ともに正座しているところが偶然とは思えず、私には不思議に思われた。

この石田会館の像は、平成2年(1990年)に三成の390回忌に際して建立されたもので、高岡市の喜多敏勝さんという彫塑家が、京都・大徳寺三玄院に葬られている遺骸と、青森・杉山家に伝わる三成の肖像画を参考にして制作されたものであるという。

よくよく比較してみると、龍潭寺の三成像の方が凛々しくて男前である。抜け目のない才子然としている三成像は、ある意味正確な三成の面影を表しているような気もする。一方の石田会館の三成像は、より柔和な表情をしている。からだ全体から力みが消えた自然な姿が印象的だ。それでいて折りたたんだ扇子をしっかりと握る右手が力強い。

どちらの三成像もすばらしく、とても興味深く拝見させていただいた。

 三成像のすぐ南には、小さな池がある。どこにでもあるようなごく普通の小さな池なのだが、堀端池(冶部池)と呼ばれて、元は石田屋敷の堀の一部だったと言われている。そう言われて改めて見てみると、どことなく風情が感じられてしまうから、人間の目などいい加減なものだと思ってしまう。

 石田会館前の庭にはこれらの他にも、吉川英治さんの句碑や「関ヶ原軍記を読む」と題された西郷隆盛の七言絶句碑が建立されているので、ここで紹介しておきたい。

 吉川英治さんの句碑は、昭和16年(1941年)8月17日に徳明寺において催された石田三成を語る座談会に臨席した時に詠んだ句で、

 愛民孤忠の政将石田三成の冤を惜みかたりあふて

 冶部どのも

    今日

 瞑すらむ

 蝉しぐ禮

  於石田徳明寺

    吉川英治

 と吉川英治さん自身の筆跡で刻まれている。

 西郷隆盛の七言絶句は、

  関原読軍記

    西郷隆盛

 東西一決戦関原       東西一決関ヶ原に戦う

 鬢髪衝冠烈士憤       鬢髪冠を衝き烈士憤る

 成敗存亡君勿問       成敗存亡 君問う勿れ

 水藩先哲有公論       水藩の先哲 公論あり

 「水藩の先哲」とは水戸光圀のことであり、徳川家に属する人間でありながら石田三成を讃えた故事に依っているのであろう。

 歴史小説の大家である吉川英治さんも、明治維新の元勲の一人である西郷隆盛も、『大日本史』を編纂した水戸光圀も、心ある人はみな、三成の本当の力を認め、素直に評価をしているということだ。

 これだけの証拠を突きつけられたら、よほどの意志の持ち主でない限りは、三成に心を寄せるであろうこと必定だ。しかしそれが心地よく感じられてしまうところが、石田町の不思議な雰囲気なのかもしれない。

 石田会館の中には、三成に所縁(ゆかり)のある品々が展示されていた。

 八の字に向かい合う鳩を描いた石田家の家紋「鳩八」が付いた裃の写真、赤と黒の二領の鎧兜、大徳寺三玄院にある三成の墓から発掘された頭蓋骨の写真、その頭蓋骨から復元された三成の顔の想像図など、小さな展示室の割には貴重な情報が満載なことに驚いた。

 復元された三成の顔は、小栗旬が扮する三成像を想像している世の女性たちにとって、どのように映ることだろうか?

と言うか、小栗旬の三成を想像していない私でさえ、あの三成像にはちょっと…である。もう少し精悍な顔つきにはできなかったものだろうか?学術的にこれが事実だと言われてしまえばそれ以上反論のしようもないのだが、私にはちょっとお人好しで冴えないおじさんの顔にしか見えない。

 復元された三成の顔はともかくとして、私は石田町に来てよかったと心から思っている。土地の人たちの敬虔な立ち居振る舞いに接して、三成に対する見方がガラッと変わった。

 自分もあやかろうとして、人生において成功した人を崇(あが)め祀ることはよくあることだ。あるいは祟(たた)りを恐れるがために非業の死を遂げた人を祭り崇(あが)めることも古来からよく行われてきた。

ところが、石田町の人たちの三成に対する祈りは、現世の利益を求めるものでなく、また祟(たた)りを鎮めるためのものでもない。そこには、三成を尊崇する純粋な気持ち以外には何ものも存在していない。

400年以上も、代々こうして三成を慕い続けてきた人たちの誠に、私の心は痛いほどに打たれたのであった。これはもう、ますます三成を追いかけてみたくなった。しばらくは私と一緒に三成を訪ねる旅にお付き合い願いたい。