6. 長浜城祉(羽柴秀吉居城)

6. 長浜城祉(羽柴秀吉居城)

 小谷城の攻略で戦功著しかった秀吉が北近江三郡を賜り小谷城に入ったことは前の章で書いた。その後、湖に近い今浜の地を長浜と改め、新たに城を築城したことにも触れた。今回の旅で私は、その秀吉が造ったという長浜の街と城を歩いてみたいと思っている。

 JR北陸線長浜駅に降り立つと、背後の湖側に白亜の天守が屹立しているのに目を奪われるだろう。この城が、羽柴秀吉が造った長浜城である。長浜城4

 

 と言っても、現在建てられている眩しいばかりの天守は後世再建されたもので、秀吉が築城した当時のものではない。

 秀吉は天正元年(1573年)に小谷城に入った後、翌天正2年の夏頃にはすでに、当時の今浜に築城を開始している。近江の国が信長の手中に収まった後は、街道の要衝にはあるものの城下町を発展させるのには不便な山城の小谷城よりも、海運の便に恵まれ広大な後背地を擁する今浜の地に新しい城を構築したほうが合理的との領国経営を考えての判断が秀吉にあったものと考える。

 しかしながら残念なことに、秀吉が築城した当時の長浜城に関する記録は、資料も絵図もほとんど残されていない。現在私の目の前に存する五層の天守は、東京工業大学名誉教授の藤岡通夫さんの設計により、昭和58年(1960年)に再建されたものである。天正の頃の天守様式を再現したとはいうものの、秀吉築城当時そのもののデザインではない。そういう意味では、この辺りにこのような城があったのだろう、程度と考えておかなければならないということだ。

 中は長浜市立長浜城歴史博物館となっていて、長浜を中心とする湖北地方の歴史が簡潔にわかりやすく紹介されているので、それはそれでたいへん参考になる。さらに最上層である5階の展望台からの眺望は秀逸である。

 東西南北各方面に案内図が設置されているので、それぞれの目標物と今私がいる長浜城との位置関係が手に取るようにわかる。

 例えば北側の面からは、前の章で惨劇を目撃してきた小谷城祉がなだらかな稜線として遠望できる。やや距離を置いた左側(西側)には、浅井氏を裏切って秀吉方に付いた阿閉貞征の守る山本山城が円錐型の山容をくっきりと際立たせて見えている。山本山城の右側に隣接するように連なるなだらかな山稜は、これから訪れることになる賤が岳である。さらに、山本山のはるか左手の湖上に浮かぶ島が、竹生島だ。

 視線を反対側(南側)に移せば、湖に隣接する山の頂にちょこんと彦根城の天守が小さく乗っているのを確認することができる。その左側に隣接しているのが、佐和山城祉である。

すでに訪れた土地、これから訪れる土地それぞれに思いを馳せて、暫しの間、最上級の眺望を楽しんだ後、私は長浜城の天守を後にした。

長浜駅の裏手にあたるこの長浜城天守を中心とした広大なエリアは、今では豊公園という公園となり、市民の憩いの場として、また観光名所としてきれいに整備されている。国民宿舎やレストランの他、テニスコートやプールなどもあり、一大文化エリアとなっているのが、今現在の長浜城周辺の表情である。

その豊公園の一角である天守の周囲を廻ってみると、天守の裏側、湖との間の広場に衣冠帯束姿の秀吉の銅像が「長浜城天守閣跡」という石柱とともに建立されているのを発見した。敢えて厳めしい表情で関白秀吉の威厳を作り出そうとする意図はよくわかるが、それが却って滑稽で下卑て見えるのは、晩年の秀吉の人間性のせいだろうか。

 長浜城はその後、信長なき後の清州会議(天正10年(1582年))にて一旦は柴田勝家に譲られたものの、早くも同年12月の賤が岳の戦いにおいて秀吉が奪い返し、賤が岳の戦いにおける重要な拠点として活用されている。

 秀吉の居城だったのはこの天正10年頃までで、その後天正13年(1585年)から18年までの5年間は山内一豊が城主となっている。一豊はこの長浜城主時代に、天正大地震(天正13年11月29日)により一人娘の与祢姫を失っている。

 一豊が掛川城主として移封された後は、徳川家康の異母弟である内藤信成やその子の信正が城主となって城の改修に努めたが、元和元年(1615年)に摂津の高槻城に移封となった後に廃城となった。

 長浜城が城として機能していたのが僅かに40年あまりでしかなかったという事実は、私にとって非常に意外だった。小谷山城といい長浜城といい、後世に讃えられる名城でありながら、なんと短命だったことか。

 長浜城が担っていた北近江の統治権は、井伊直政が拝領した佐和山城(後に彦根城)へと移り、長浜城の遺構は彦根城や長浜市内の寺院等へと運び去られていった。

 彦根城に残る重要文化財の天秤櫓は、この長浜城の遺構であると伝えられている。また、後に訪れることになるが、長浜市内に残る大通寺台所門も元は長浜城の大手門であったのだそうだ。どちらの遺構もどっしりとした木の重量感があり、そう言われれば納得してしまう立派な造りの建造物であることがわかる。

 秀吉の造った城を見た後は、秀吉が造った街を見に行くことにした。

 出発点は再び、長浜駅である。

 長浜駅前の広場には、目を引く銅像が建てられている。まずは、この銅像から見ていくこととしたい。

 その銅像は、何か茶碗のような物を差し出している子供と、腰に刀を差して立ち尽くす袴姿の男性の二人の像だ。見ただけでは二人の人物の関連性もわからないし、二人とも無表情で無気味な感じがする。何とも不思議な銅像だ。

長浜駅前三成像

 傍らの説明書きがなければ、私はすっきりしない気分のままで長浜の市街を歩かなければならないところだった。

 その像は、「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」と題されていた。長浜城主であった羽柴秀吉が石田三成と出逢った場面を象徴的に表しているのだそうだ。二人の出逢いについては、後に「観音寺」の章で書くのでここでは書かない。なんとなく少しだけ合点して、私は長浜の街の探索に出発した。

 駅前から線路に沿って左手に進む道に、「長浜開町四百年記念碑」と書かれた一枚岩の大きな石碑があった。この石碑は、秀吉が長浜に拠点を移してから400年になることを記念して、昭和48年(1973年)に長浜城の家臣団の屋敷があった当地に建立したものだそうだ。

 君が代も わが世も共に 長濱の

      真砂のか須(ず)の つき屋(や)らぬまで

 石碑には、長浜の地名の由来となった竹中半兵衛の歌が刻まれている。当時の今浜は、琵琶湖の岸に沿って長く白砂の浜辺が続く穏やかな土地柄だったのであろう。

 この地を新しい城地と定めた秀吉は、小谷の城下から寺院や商家をこの長浜に移して城下町を形成した。また、楽市楽座を許し、町屋敷の年貢米三百石を免除するなどの経済優遇策を施して街の振興に努めた。

 長浜の街が秀吉から得たこの特権は、徳川幕府にも引き継がれた。今でも「これより東 長浜領」などと書かれた長浜の街の境界線を示す石標が残されているのは、その時の名残である。

 戦国時代の武将は、もちろん軍事力がなければそもそも成り立たないが、それが名将と呼ばれる十分条件ではない。領土として獲得した土地の民たちの人心を引きつけ、領民たちの生活を豊かにする領国経営に長けていて初めて、名将と呼ばれるものだ。

秀吉が優れた大将であったのは、単なる武芸一辺倒で台頭してきた武闘派の武将ではなく、このような経済政策を効果的に打ち出すことで街全体が潤うように腐心した点である。長浜の街は、秀吉の加護のもとで大いに豊かになり、自由で活気に満ちた雰囲気が街中に溢れていたことだろう。

 駅前通りをまっすぐ進んだ左側に、江戸時代の街道を想起させるような雰囲気のいい街並みが突然現れる。

 北国街道の街並みの一部である。

北国街道1

 彦根の少し手前にある中山道の鳥居(とりい)本(もと)宿を起点として、近江の国と越前の国とを結ぶ重要な街道がこの北国街道である。長浜から福井へ向かう道程は、意外と近い。一乗谷を本拠とする朝倉氏と小谷城を本拠とする浅井氏とが親しい関係にあったのも、この街道を通じて交通の行き来が容易であったことも影響しているものと思われる。

黒板塀を基調として、二階部分に白い漆喰を配した倉庫風の建物や、紅殻と呼ばれるしっとりとした色合いの赤い塗料を施した格子窓を擁する家など、風情のある家並みが続いている。江戸時代にタイムスリップしたような懐かしさを感じさせる街並みだ。

これらの建物はみな、古い外観はそのままに残し、内装だけを今風に改良して土産物屋や食事処として再生している。そんな家々を一軒ずつ覗きながら歩いて行くのは、旅人にとっては楽しいことだ。

こうして北国街道の雰囲気を味わいながらそぞろ歩いて行った私は、直角に交差する曳山博物館へと続くアーケード街(長浜大手門通り)へと道を右に折れた。北国街道ほどではないものの、こちらのアーケード街も相当にレトロな雰囲気を醸し出している。

そんな商店街の一角で近江牛のステーキ重を食べた私は、道の左手にある曳山博物館に入って行った。

曳山まつりは、4月9日の線香番という行事から4月17日の御幣返しの儀と呼ばれる行事までの9日間に亘って行われる、長浜を代表する春の祭りである。

京都の祇園祭、飛騨高山の高山祭など山車を用いた祭りは日本全国に案外と多いが、長浜の曳山まつりも、「曳山」と呼ばれる豪華な山車を使った壮麗な祭りである。諸説あるのだろうが、日本三大山車祭りの一つに数えられるとの説もある。

この曳山まつりの起源も、秀吉の時代にまで遡るという。

曳山まつりが行われる長浜八幡宮に伝わる由来書によると、秀吉が、八幡宮に由緒のある源義家の後三年の役の凱旋の様子を表した「太刀渡り」を行わせたのが祭りのはじめであると伝えられている。果たして真実のほどはいかばかりか、定かではない。

博物館には、実際にまつりに使われる本物の曳山が2台、展示されている。

間近に見る曳山は、大きくて豪華だ。このような曳山を幾台も建造し保持できる財力は並大抵のものではない。こんなところにも、長浜の町衆が伝統的に受け継いできた繁栄の遺伝子を私は強く感じた。これもまた、太閤秀吉の遺産であるのかもしれない。

曳山博物館を後にした私は、街中を流れる清らかな小川を渡り、アーケード街が尽きるところを左折した。街並みの向こう側に見えてきた大きな二層の門が、大通寺の山門である。

大通寺1

大通寺は、正式名称を真宗大谷派長浜別院大通寺という。慶長7年(1602年)に本願寺の第十二世住職の教如上人を開基として、長浜城内に創建された古刹だ。慶長11年(1606年)(一説には寛永16年(1639年))に現在の場所に移設されたものであるという。元長浜城にあったところから、別名を長浜御坊とも呼ばれている。

総欅造りの山門は、江戸時代末期の1841年の建立であると伝えられている。周囲に細やかな彫刻を施し、堂々とした高さを誇る格調高い山門である。

山門をくぐると広い前庭を隔てて正面に見えてくる大きな建物が、本堂である。江戸時代初期に建立された入母屋造り本瓦葺きの建物で、伏見城の遺構とも言われている。

その本堂の左側、渡り廊下でつながれているのが書院造りの大広間だ。本堂と対で京都の東本願寺から移築されたものであり、桃山風御殿の華やかさを今に伝えている。この大広間に後から付けられた玄関は、宝暦10年(1760年)に彦根藩主井伊直(なお)惟(のぶ)の息女数(かず)姫(ひめ)によって建立されたことが記録されている。

大通寺は彦根藩井伊家とも深いつながりがある。幕末に彦根藩を治めた第13代藩主の井伊直弼がまだ部屋住みの身で埋木舎に住まわっていた(天保14年(1843年))頃、この大通寺の法嗣に迎えたいとの申し出を行ったことがあった。

直弼自身も大いに乗り気であったと伝えられているが、当時彦根藩の世嗣であった井伊直元に子がなかったため、直弼が世嗣となる可能性を考慮し始めていた彦根藩は、この申し出を認めなかった。

桜田門外の変で非業の死を遂げた井伊直弼は、一歩運命が異なっていれば、この大通寺で平穏な生涯を過ごした可能性があったことを想うと、複雑な思いがしてくる。

大通寺は、早春には馬酔木展が、秋にはきもの大園遊会が開催される寺としても、市民に広く親しまれている。MBU3E768WVLwM_2.jpg 園遊会

なかでも10月に行われる、「長浜きもの大園遊会」は圧巻だ。秀吉が足軽から太閤にまで出世したことにちなんで始まった「長浜出世まつり」の一環として毎年開催されている華やかな催しだ。日本全国から1,500人もの着物姿の艶やかな女性がこの大通寺の境内に集合し、そして着物姿で長浜の街の散策を楽しむ。YytUJoiX7kuvI_2.jpg きもの園遊会

そもそも長浜市は繊維産業で栄えた街である。養蚕業の歴史は特に古く、聖徳太子の時代にまで遡ると言われている。当地で採れる絹の糸は練り絹と呼ばれ、どこの産地の絹よりもずっしりと重みのある上質のものであったため、昔はその多くが天皇家に献上されていた。当時の一般民衆は、「娘や孫娘にもきれいなべべ(=着物)を着せてやりたい。」という願いを「叶わぬ夢」として心に抱きながら、一生懸命に蚕を飼い、機を織り続けていたのだった。

自分たちが立派な練り絹と呼ばれる最高級の生地を作っているにもかかわらず、我が娘や孫娘にはそれらを着せてあげることができない。でも、いつかは着せてやりたい…。そういう長浜市民の先祖たちの愛情に満ちみちた願いが、「長浜きもの大園遊会」という形で実現しているのではないかと考えると、実に感慨深いものに思えてくる。

休日の大通寺の広い境内には、家族連れが憩い、子供たちの歓声が絶えることなく聞こえていた。格式の高いお寺でありながら敷居の高さを感じさせない。このお寺の空間は、長浜市民共有の空間として溶け込んでいるのだと思った。

最後に、長浜城の大手門を移築したと言われている台所門から外に出て、大通寺を後にした。この台所門のことは、先に長浜城のところでも少し触れた。門扉には、本能寺の変に応じて京極軍が長浜城を攻めた際の矢や銃弾の跡が残されているとも言われている。

最後に、長浜城の大手門を移築したと言われている台所門から外に出て、大通寺を後にした。この台所門のことは、先に長浜城のところでも少し触れた。門扉には、本能寺の変に応じて京極軍が長浜城を攻めた際の矢や銃弾の跡が残されているとも言われている。

 長浜には、まだまだ訪れたい場所が街のそこかしこにある。明治33年に百三十銀行長浜支店として建てられた黒壁ガラス館、珍しいオルゴールを一堂に集めた長濱オルゴール堂、滋賀県初の小学校として明治4年に開校した開知学校、現存する最古の駅舎を保存する長浜鉄道スクエア、毎年1月20日から3月10日頃まで盆梅展が開かれる慶雲館など、枚挙にいとまがない。

 季節を彩るまつりや行事も多くあり、様々な表情を見せる長浜の街を、私は何度でも訪ねてみたいと思った。

 長浜は秀吉が造った街である。駅の裏には広大な豊公園が整備され、街のそこここに太閤とか秀吉と書かれた看板や屋号などを見ることができる。実際に長浜の街を歩いてみて、今でも長浜の人々にとっては秀吉がごく身近な存在であり、また心から慕われているということを実感した。

この街にとっては、すべての出発点が秀吉であり、秀吉の行った経済緩和措置を含む積極策による領国の運営が長浜の繁栄を長く支えてきたということだろう。

秀吉にとっては初めての領国経営だったにも拘わらず、このように後々の世にまで住民から慕われている秀吉の、政治家としての手腕の鮮やかさを私は思わないわけにはいかなかった。

秀吉が天下を取ることができたのも、信長へのおべっか使いや戦(いくさ)上手だけが要因だったのではなくて、このような領民統治能力に秀でていたことが大きなアドバンテージをもたらしたものと考える。

今でも、長浜の街には活気が感じられる。黒壁ガラス館を中心とする歴史地区の商店街の活動は活発だ。春先に慶雲館で行われる盆梅展、大通寺の馬酔木展、そして曳山まつり…。季節の巡り合わせを感じさせる行事も目白押しである。

京都や大阪からも新快速一本で来ることができる手頃な距離感。久しぶりにおもしろい街に出逢ったと思った。今日一日回っただけでは足りず、まだまだ見るべき場所はたくさん残されている。できるだけ早い機会に是非再び長浜という街を訪れてみたいものだと思った。

ただし一つだけ、長浜の街では気をつけなければならないことがある。

それは、ある時間になると商店街の店という店が一斉に店仕舞いを始め、ほんの数分でこれが同じ街か?と思うほどに閑散とした街に変身してしまうことである。お土産は最後に買おうという行為は、長浜の街では禁物である。