比叡山一日回峰行挑戦の記

 

一日回峰行 下り(居士林~横川~律院)

 

外の空気は冷たかった。

居士林の玄関を出た途端に、刺すような空気が露出している顔に突き刺さる。

先導される僧の指示に従い、居士林前の空き地に集合し、きれいに4列に整列して並ぶ。

参加人数の関係で男性班と女性班とに分けられていたから、いま集まっているのは男性のみだ。総勢51人の集団である。

男性が2時に出発し、30分遅れて女性が2時30分に出発することになっていた。

いよいよかと思うと、途端に緊張感が高まってくる。無事に帰って来ることができるだろうか?不安はあるが、自分が選択した道だから、前に突き進む以外に選択肢はない。

ヘッドライトを点けてみたら、空中に白いものがたくさん浮いて見えた。

最初はこの季節なのにちいさな虫が飛んでいるのかと思ったけれど、よく見てみたら雪だった。

積もるような雪ではなかったが、雪がちらつくほどに冷え込んでいるということだ。

しかしこの寒さだというのに、引率の僧は、薄い作務衣だけの軽装だった。

きれいに剃り上げた頭には、帽子さえ被っていない。さすがに草鞋ではなく運動靴を履いていたけれど、寒さに対して完全武装で臨んでいる自分を恥ずかしく思った。

修行を積んでいくと、雪がちらつく寒さの中でも薄着でいることができるようになるのだろうか?

全員揃ったところで、出発する。

出発前に言われていたことは、これから1列でないと歩けないような狭い山道に入っていくので、前の人との間隔を空けないようにするということだった。付いていけないと思ったら、後ろの人に先に行ってもらうようにすること。

聞いた時には、それほど難しい注意事項ではないと思った。

 

すぐに釈迦堂前に至る。

当然のことだが、内陣の特別拝観で昼間にはたくさんの参詣客で賑わっていた釈迦堂前の広場に、人っ子一人いない。

ここで立ち止まり、一礼して手を合わせた後、最初の般若心経読経を行う。

引率の僧から釈迦堂についての解説を聞く。

ここは西塔地区の中心建造物で、比叡山で最も古い建物になるのだそうだ。

と言っても、創建当初のものではない。信長による焼き討ちにより、山内の建物は全て灰燼に帰してしまったからだ。

今の釈迦堂の建物は、信長の死後に豊臣秀吉が大津の園城寺(三井寺)から移築したものだという。

貞和3年(1347)に建てられたものだというから、それでもなかなかに古くて風格のある建物である。

ここ釈迦堂をスタート地点として、私たちは引率の僧に従って比叡山の山中に分け入って行くことになる。

いきなり、細い上りの道となった。

それまで2列で歩いていた列を1列にして進んで行く。

街灯もなくなり、完全に真っ暗な山道となる。

新たに購入し持参したヘッドライトの効果は歴然で、これから踏み出そうとする我が足元をピンポイントで照らしてくれた。

木の上などで寝ている鳥や動物たちの安眠を妨げないために、ライトを上方に向けて照らしてはいけないと言われていた。

思っていたよりも足元はよく見えた。反対に、ヘッドライトで照らされている足元以外は、真っ暗で何も見ることができない。

自分が今どこを歩いているのか、道の向こう側は林なのか平地なのかそれとも池なのか、さっぱりわからない。

とにかく自分の目の前にある道を誤たずに歩くことだけに意識を集中せざるを得なかった。

山道を歩き始めてわかったのだが、歩くスピードが相当に速い。上り下りの変化の激しさもあるけれど、前の人との間隔を空けずに歩くことがとても難しかった。

とにかく遅れないようにと、そのことだけを考え、前の人との間隔を常に注意しながら、足元に集中して歩いた。

私には、平坦な道を歩くのはそれほど速くはないけれど、山道を歩くのはけっして遅い方ではないとの自負があった。

その私がついて行くのがやっとなのだから、先頭を行く引率の僧は相当のスピードで歩いているに違いない。

私たちのことを斟酌して速度を落とすということをしないで、僧が普段歩いている速さで歩いているのだと思う。

そのスピードを体感して、改めて僧の凄さを実感した。

おそらく千日回峰行の行者は、もっと速く比叡山の山中を歩き巡るのだろう。

以前に見たDVDで千日回峰行に挑戦中の酒井師は、ほとんど走るようにして山を駆け巡っていたことを思い出した。

真っ暗な中で山道を歩いていると、いろいろなことを考える。

もしかしたらこのことが、千日回峰の行を深夜に行うことの一つの理由(わけ)なのかもしれないと思った。

いま私が見えるものは、ヘッドライトの光に照らされた足元のほんの限られたスペースでしかない。

その限られたスペースにすべての注意力を集中しないと、私は足を踏み外して転けてしまうだろう。

運が悪ければ奈落の谷底に転落して一命を落としてしまうかもしれない。

だから、余念を排して足元のただ一点だけを見続けている。

暗闇の中を歩くということは、景色だとか周囲の地形だとかそういう情報一切を遮断することと同義となる。

遮断したくなくても、何も見えないのだから自分の力では如何ともしようがない。

そういう状況の中に自分の身を置くことによって、余念を排し自然と足元にすべての神経を集中させることができるのだろう。

次の一歩をどこに踏み出すか。

簡単なことのようだけれど、実はこれが難しい選択であることを知った。

次に私が足を置こうとしている石は浮き石ではないだろうか?あるいは、右の石と左の石とどちらの方がより安全だろうか?

次の一歩を踏み出すまでのごく短い時間の間に、私はいろいろな可能性と危険性とを考え、また実際の足元の状況を観察して、決断を下す。

その決断の一つ一つはちいさな決断かもしれないけれど、そのことの積み重ねがなければ一日回峰行は成し遂げられない。

平坦な道を歩いているのであれば、次の一歩をどこに踏み出そうとそれほど大きな問題にはなり得ない。

ところが真っ暗な山道では、極端に言えば踏み出した一歩が命取りにもなり得るのだ。

次に足を置こうとしている石は頑丈な石だろうか?苔で滑ったりはしないだろうか?落ち葉を踏んで滑るようなことはないだろうか?

そんなことを一歩一歩考えながら歩いて行くのは、なかなか気持ちが疲れることだった。

しばらく一列になって歩いて行くと、おもしろいことに気づいた。

完全に転ばないまでも、ズリッと滑って転びかけることがたまにある。

大抵はそこで踏みとどまって転ばないのだが、ズリッと滑って転びそうになる人は、何度も滑ることに気がついた。

滑らない人は全然滑らないのに、滑る人は何度も滑る。そしてその延長線上として、必ず転ぶ。

何度か転びそうな危ない目に遭うと、どこかで本当に転ぶ可能性が高いので、そういう場合にはよくよく注意をしなければならないということなのだろうと思った。

やがて、広場のようなところに到着して、ストップがかけられた。

真っ暗なのでよくわからないけれど、ここは狩籠の丘と呼ばれるところで、伝教大師最澄が延暦寺を建立するに際して、魑魅魍魎たちを岩で作った結界の中に封じ込めた神聖な場所なのだそうだ。

今もあるという三角形を形成(かたちな)す三つの岩の間の場所には、悪霊たちが封じ込められているという。

この狩籠の丘に限らず、夜の比叡山には特に、どこにでも魔物が潜んでいそうな気がする。

狩籠の丘を過ぎるとまた暫くは上ったり下ったりの山道が続く。

一段と速さを増してきた引率の僧のスピードに負けないように、必死になって足元を見つめながら歩いていく。

次に一行が止まった場所は、止まった理由がすぐにわかった。居士林を出発してから50分が経過していた。

それまでずっと遠くの視界が見えない真っ暗闇の中の歩行だったのだが、引率の僧が立ち止まった小さなスペースからは宝石のような街の灯火(ともしび)が見えた。

京都の街の灯である。

左の方に四角い真っ暗な空間が見えるのは、御所だそうだ。

千日回峰行の行者は、回峰行の行程中で唯一、石に腰掛けて休むことが許される場所でもあるという。

こんな深夜にも拘らず、京都の街の灯はチラチラと輝いて美しかった。あの灯火の下で、京都の街の人たちはぐっすりと深い眠りについているのだろう。

暗くてよく見えなかったが、ここには杉の木があるのだそうだ。

行者は、この京都の街の灯を眺めながら、漆黒の闇のような御所に向かって玉体の健やかならんことを祈るのだという。

玉体とは、天皇のことである。

従って、ここに生えている杉の木は、玉体杉と呼ばれている。

そして行者は、天皇の安泰とともに、京都市民の健康と安全とを祈願するのだそうだ。

千日回峰行の行は、最初の700日までは自利行と言って自分のための修行であるのだが、堂入りを経て701日目からは利他行と言って他人のための修行になるのだという。

そこが大乗仏教たる天台宗の教えの面目躍如たるところでもある。

この眺めがすばらしい玉体杉のもとで、千日回峰行の行者は天皇と京都市民の健やかな生活を祈る。

玉体杉に立つと、なるほど比叡山が京都の表鬼門である京都の北東の場所に位置しているということがよくわかる。

今私たちが立っているところで、外部から都に侵入して来ようとする悪霊たちを食い止めているというのだ。

しかしそのことをよく考えてみると、悪霊たちはこの比叡山の外側にいることになる。

つまり、悪霊たちが棲んでいるのは何と近江国ということになるではないか。

今までそういう目で見たことがなかったけれど、近江国側からの視点で考えてみたら、そうなる。

差し当たり、比叡山の東側の麓の坂本辺りは、都への潜入を謀んでいる悪霊たちの魔の巣窟ということになりはしないだろうか?

この考え方は、近江国の人たちにとっては実に迷惑な考え方だと思った。しかし当時は都中心の考え方だから、致し方ない。

今でも京都の人と滋賀の人とはあまり仲がよくないのは、単に隣接しているライバルだからというだけではなく、過去からのこういう経緯(いきさつ)もあったのかもしれない。

京都の街の灯火を見ることができたのは、玉体杉からの眺望だけだった。

この後は、木々の間から街の灯が見え隠れしている場所はいくつかあったけれど、あのように街の景色を一望のもとに見渡せる場所というのはなかった。

行者道は、途中で何度か比叡山のハイウェイを横切りながら続いていく。

私たちの一行は、独力で深夜の比叡山を歩いているように見えるけれど、実は多くの関係者の方々のサポートを受けていた。

引率の僧も、先頭を行く僧だけではなくて、最後尾にも僧がついてくれているし、前と後ろだけでなく遊動軍のような形でサポートしている僧がさらに2人もついている。

2人の僧は、トランシーバーのようなもので頻繁にどこかと連絡を取りながら歩いている。

千日回峰行の行者は文字通り孤独な独り旅であるけれど、私たち一日回峰行の一行は、陰に陽に多くの僧たちに見守られての行であることを強く感じた。

本質的なものが全然違う。

千日回峰行のほんの表面的なものに触れただけだということを、強く自覚しなければならないと思った。

それでも、何にも触れないよりはまだずっといい。

やがて突然、見覚えのある舗装された広場に出た。

横川のバス停がある広場である。時計を見ると、3時20分だった。玉体杉を出てからちょうど30分歩き続けたことになる。

誰もいない真っ暗な駐車場に1台のワゴン車が止まっていた。そのワゴン車は居士林の車で、中には温かいお茶が用意されていた。

一日回峰行に参加している私たちのためにわざわざお茶を用意して待っていてくれたものである。

寒い山道をずっと歩いてきたので、こんなところで温かいお茶を飲めるとは思っていなかっただけに、とてもありがたかった。

と同時に、千日回峰行の行者はこんなところで温かいお茶など出されることはないので、私たちの一日回峰行は保護された鳥籠の中を歩いているだけのものであることを強く自覚した。

やっぱり本物の行者とは違うのだ。

しかしそうは思っても、寺の好意はうれしかったし、ありがたくお茶をいただいた。

湯気が上がるお茶を口に含みながらふと空を見上げると、オリオン座が妖しい光で輝いて見えた。

周りに灯りも何もないから、星がとても美しくくっきりと見えた。星ってこんなにきれいだったんだと、改めて思った。

暫しの休憩の後、私たちは駐車場から横川中堂まで移動して、ここで再び般若心経を読み上げた。

横川中堂を出て真っ直ぐに進むとやがて突き当たりとなる。

ここを左に行くと、例の元三大師御廟に至る道となるのだが、ここを右に曲がる。

こちらは、恵心堂がある方向だ。

恵心堂に続く曲がり角のところで立ち止まり、引率の僧から恵心僧都の母の逸話を聞く。

恵心は幼い頃に父と死に別れ、母の教えに従ってここ比叡山に入った。

小さい頃から聡明だった恵心はやがて帝の前で説教をすることになり、その弁舌の鮮やかさに感銘を受けた帝から褒美の品を賜った。

喜んだ恵心は帝からの下賜品を母に送った。母もきっと喜んでくれると思ったからだ。

ところが、母からは一首の和歌とともに送った品がそのまま送り返されてきた。

その和歌とは、

 

世の中を渡す橋とぞ思いしに

世渡る僧となるぞ悲しき

 

である。

お前はいつからそんな思い違いをするようになってしまったのか?

私はお前をそんな賤しい性根の僧にするために比叡山にやったのではありません。世のため人のためになる立派な僧になるようにと比叡山に送ったのです。

世俗に紛れ帝に褒められたことで有頂天になるようなお前の心根に私は落胆しました。

もっとしっかりと修行を重ね、どうか立派な僧になるよう一層の精進をしなさい。

この和歌を読んだ恵心は我が道心の浅はかであったことを悟り、その後は一心に仏道の修行に励み、のちには『往生要集』という著述を著わすなどの功績を残し立派な僧になったという逸話である。

恵心の教えはやがて法然の浄土宗の教えへと発展していく

この僧にしてこの母あり。

私は浅学にして恵心僧都の母の話を知らなかった。引率の僧からこの話を聞いて、深く感動した。

この話には後日談がある。

それから25年以上後のことである。恵心の許に母の危篤を知らせる姉からの手紙が届いた。恵心は15歳の時に母と別れて比叡山に入ってから一度も故郷に帰らず仏道の修業に明け暮れていた。

病に臥した恵心の母は、自分の命の灯が長くはないことを悟り、うわごとで頻りに恵心の名を読んだ。たまりかねた姉が恵心への手紙を書いたのであった。

恵心は取るものもとりあえずに母の臥す故郷へと急いだ。

故郷に着いて母の病床を見舞うと、母は恵心の顔を見て一瞬、生気を取り戻した。母の求めに応じて恵心は阿弥陀仏の本願を説いた。母は目に涙を浮かべながら恵心の仏法を聞き、安堵した表情を浮かべながら極楽へと往生したという。

私は恵心堂の方角に向かって手を合わせ、深々と頭を下げた。

一日回峰行は、体力トレーニングのための場ではない。道中にある祠や霊木霊水霊石などに祈りを捧げながら自らを律するために歩く修行の場である。

延暦寺の堂宇だけでなくこの比叡山には様々な霊が籠っている。その霊の一つ一つを崇めることがこの行の一つの目的である。

私たちは行の途中で度々立ち止まって、手を合わせ頭を垂れる。

 

これまでは比叡山の峰道に沿って歩く上り下りの道であったけれど、恵心堂を過ぎると、日吉大社に向けての本格的な下り坂となる。

真っ暗な急坂をヘッドライトの僅かな灯りだけを頼りに、ひたすら下っていく。一日回峰行の行程のなかで最も危険な場所にさしかかった。

転ばぬ先の杖と言うけれど、持って行った登山用のスティックがとても役に立った。

降りる前に降りる地点に先に杖を突くことにより、一度杖で衝撃を受け止めておいてから足を着くことができるので、より安全でよりソフトに着地が可能となる。

そう言えば千日回峰行の行者も、手に長い杖を持って回峰行を行っている。

こういう道具をうまく使うことも、大切なことなのだということを思った。

降りる途中で木々の間から向こう側の街の灯が垣間見える時があるけれど、先程玉体杉のところで見た京都の街の灯の光量とは全然ちがう。

あぁ、今私は京都側から琵琶湖側に向かって降りつつあるのだなぁということを実感した。

急な下り坂をずっと下り続けていたら、突然、石段が現れて建物のある場所に出た。3時40分に恵心堂を出て今が4時45分だから、ほぼ1時間の間、休まずに下り続けたことになる。

大きな岩が御神体になっていて、その大岩を祀るためなのだろうか、岩の左右にお堂が建てられている。

ここは日吉大社の奥の院にあたる社で、御神体の大岩は金大巌(こがねのおおいわ)と言い、左右の社は三宮宮と牛尾宮と言うのだそうだ。

眼下には琵琶湖の景色が拡がっていた。美しい眺めに、疲れも忘れて暫しの間見入る。

ここは昨日、JRの比叡山坂本駅からケーブルカー駅に向かって歩いて行く時に、山の中腹に建物があるのを見つけたその建物に違いないと思った。

<三宮宮・牛尾宮>

その時にはまさか自分がそこに降りてくるとは思っていなかったので、あぁあんな山の中腹に大きなお堂が建っているんだなぁと他人事のように思っただけだった。

昨日坂本の街から見上げたその場所に今自分がいるということが不思議に思えた。

三宮宮・牛尾宮からは、参道のようになっている道を下って行った。しばらくは広い坂道が続き、その後は石段が現れる。坂道はずるずると滑りそうになるし、石段は大きな石で組まれていて歩幅と合わないしで、どちらにしても降りにくい道だった。

しかしながら、毎年4月に行われる日吉大社の山王祭では、大きな神輿を担いでここから下の日吉大社まで降りるというから、まさに驚きである。

杖を使いながら何とか転ばずに降りて行って、15分ほどで日吉大社の本宮に降り着いた。ついに比叡山の麓にまで降りてきたことになる。平坦な道になって、やっと緊張感がほぐれていく。

日吉大社は、全国に約2000社あると言われる日吉神社・日枝神社・山王神社の総本社である。元は日枝山(比叡山)にあったものだが、崇神天皇7年(紀元前91)に現在の地に移されたとされている。

延暦寺を創建した最澄は、比叡山の地主神である日吉大社を比叡山および天台宗の守護神として崇めた。

日吉大社には2つの本宮があって、まずは東本宮に詣でる。

東本宮は、大山咋神を祭神として祀る神社で、本殿は国宝に指定されている。

拝殿の前でこの日3度目の般若心経を唱え、神社の儀礼に合わせて柏手を打った。

延暦寺は寺なのに、僧が神社に詣でて柏手を打つというのはいかにも奇妙なことのように思われるかもしれない。しかし、神仏分離とか廃仏毀釈などと言って訳のわからない主張をしたのは明治維新になってからのことで、それまでは本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)のもとで神も仏も一緒に祀られていた。

だから少しも奇妙なことではない。少しずつ夜が白みかけてきた日吉大社の境内を西本宮に移動して、同じように般若心経を唱えて柏手を打った。

さすがに何度も般若心経を唱えてきたので、ほぼ間違わずに唱えることができるようになってきた。

<日吉大社境内図>

 

日吉大社には、2つの本宮のほかにたくさんの末社があり、その前を通る度に手を合わせ一礼をした。

日吉大社を後にする頃には、もうほとんど夜は明けていた。

私たちは里坊の一つである律院の門を入って行った。

すでに門前を修行の僧が箒できれいに掃き清めている。

お寺の朝はとにかく早い。

律院に着くと、朝食が配られた。

おにぎり2個とペットボトルのお茶が1本だ。

おにぎりは、居士林の厨房で作られたものかと思っていたら、何とセブンイレブンのおにぎりだったのは意外だった。

具が何も入っていない塩むすびが一つと、中に梅干しが入って海苔が巻かれたおむすびが一つだった。当然のことながら、動物性の材料は何も入っていない。

一日回峰行の最中だからなのか、昨日の夕食時のように「食前観」を唱和することもなく朝食が始まった。

食事の後で、30分後に出発した女性の班が律院に到着し、全員揃ったところで千日回峰行を成し遂げられた叡南大行満大阿闍梨から講話を聞きご加持をいただいた。

ご加持というのは、跪いて頭を垂れたところに数珠か何かで後頭部に触れていただき、大阿闍梨様のお力を分けていただくことだと理解した。

千日回峰行のDVDを見ると、行者が通る道端に信者たちが祈りを捧げるように手を組んで跪き、行者が一人一人の頭に触れながら歩いていく様子が映されている。

信者たちは、行者からのご加持をいただいてありがたい思いで頭を垂れる。

叡南師は、もうかなりのお歳だと思われるが矍鑠(かくしゃく)としておられて、生気というのだろうか、強いオーラを感じた。

私たちが横一列になって整列しているところに、叡南師は右側から一人ずつ頭に手を触れながら近づいて来られた。

そしていよいよ私の番だ。

後頭部に何か硬いものが当たる強い衝撃を感じた。それは単に触れるというソフトな感触ではなくて、予想していたよりもはるかに強い衝撃だった。

叡南師の生の力(パワー)とでも言えばいいのだろうか?後頭部を震源地として、何かが私の身体の中に拡がっていくのを感じた。

叡南師から生きる力を分けていただいて、私は暫くの間、ただぼうっとその場に佇んでいた。

 

叡南師のご加持をいただいて私たちは、いよいよ一日回峰行の後半戦であり最大の難所である無動寺坂の登りに挑まなければならない行程に突入した。