比叡山一日回峰行挑戦の記

比叡山一日回峰行挑戦の記

一日回峰行の前に

千日回峰行の祖と呼ばれる相応和尚(そうおうかしょう)は、天長8年(831)に近江国浅井郡の北野で生まれ、延喜18年(918)に比叡山内無動寺谷の十妙院にて阿弥陀仏の名号を唱えながら88歳の生涯を閉じられた。

千日回峰行とは、7年間で1000回にわたって比叡山の山中や東麓の坂本、反対側の京都市街などを歩き、聖地・聖石・聖木などに祈りを捧げる修行である。厳しい修行で知られる延暦寺の修行のなかでも、十二年籠山行と双璧をなす荒行である。

総歩行距離は地球一周に匹敵する4万キロメートルに及ぶ。

深夜の2時に出発して比叡山の山中を巡る。台風が来ても雪が降ってもやめることはできない。怪我をしたり病気になったりしても休むことは許されない。

「行ならずんば死あるのみ」

途中で行を止めることは許されず、その場合には自ら命を断たなければならない。まさに命懸けの修業が千日回峰行なのである。

 

今年(平成29年(2017))は、その相応和尚の没後1100年の御遠忌の年に当たる。

この記念すべき年に私は、千日回峰行の行者が廻るのと同じ時間に同じ道を歩くという比叡山延暦寺の一日回峰行に参加する機会を得た。

何たる幸運なことか!

湖北の地に生まれた相応和尚に興味を持ち、相応和尚が創設した千日回峰行について調べ、2年前に私は『湖北残照』拾遺という作品のなかの一章として「千日回峰行」という文章を書いた。

自分なりに苦労して書いたものの、いわゆる机上の空論であり、私にとって千日回峰行は想像の中での産物の域を出るものではなかった。

千日回峰行の行者はどんな道を歩き、そこでどんなことを考えているのだろうか?真っ暗な山道を歩くというのはどういう感覚なのだろうか?書きながら湧き上がってきた数々の疑問に答えるためには、自分で同じ道を歩いてみるしかない。

ずっと、そう思っていた。

ところが、大まかなコースは示されていても詳細な道がわからない。そもそも、深夜に比叡山の険峻な山中を独力で歩くことなど、ほとんど自殺行為に等しい危険に満ちみちた行為だ。

千日回峰行の行者が歩くのと同じ道を歩くことができる修行がある!

延暦寺が一般人を対象とした修行の一環としてそのような研修メニューを用意していることを知った私は、小躍りする思いで参加の申し込みをした。

たとえ一日だけでも行者が歩くのと同じ道を自らの足で歩くことができたら、相応和尚の千日回峰行に少しでも近づくことができるのではないか。

申し込んだ後も私は、この日が来るのを心待ちにしていた。

 

そしてついに、その日が訪れた。

平成29年(2017)11月11日(土)は、朝から今にも雨が降り出しそうな天気の一日だった。

6時前に横浜市の自宅を出た私は、早朝の新幹線に乗って京都に向かった。京都駅からは湖西線で比叡山坂本駅に行き、駅を降りてからは坂本の街を速足で突っ切ってケーブル坂本駅を目指した。

この日の大津地方の天気予報は雨のち曇り。雨が上がった後は寒気が強くなるということだった。しかしまだ雨は落ちていなかった。

9時30分発のケーブルカーは、折しも紅葉シーズン真っ只中ということもあり、座席は満席となり坐れない人が多数立っているような混雑状況だった。

しかしこの喧騒も、ケーブル延暦寺駅を降りてからは静寂に変わる。

と言うのは、ケーブルカーを降りた人たちは皆、駅から望む琵琶湖の眺望をしばらく眺めた後には、すぐに根本中堂のある東塔(とうどう)地区を目指して歩いて行ってしまうからだ。次のケーブルカーが到着するまでの時間、駅は静寂に包まれる。

私はその静寂をしばらく楽しんだ後、根本中堂とは反対側の無動寺へと続く坂道を降り始めた。

私のように無動寺へと坂道を降りて行く人間は他にいなかった。

しかし私にとって無動寺は、相応和尚を偲ぶ聖なる場所であり、比叡山の中で最も神聖な場所なのである。

延暦寺から送付されてきた「比叡山一日回峰行参加受付完了のお知らせ」には、「受付は、当日11月11日(土)午後4時から居士林(こじりん)研修道場にて行います」と記載されていた。午後4時までに西塔地区にある居士林という研修道場に行けばいいのだが、せっかく比叡山に来たのだからその前に可能な限り諸堂を訪れておきたい。

明日の一日回峰行でも比叡山の諸堂を巡ることになるのだろうが、深夜か早朝の時間帯なので堂内に立ち入ることはできないものと思われる。だから、前以て見られるところは見ておきたいと思ったのだった。

そして私は、比叡山を訪れたなら真っ先に訪ねるのは無動寺と心に決めていた。

幸い無動寺は、ケーブル延暦寺駅からバスなどを利用しないで歩いて行ける場所にある。

駅舎を出て左手方面に向かうと「無動寺参道」と彫られた石柱と「大辯才天女」という額が掲げられた鳥居がすぐに目に入ってくる。間違って迷い込んでしまう観光客を稀に見かけるが、無動寺に詣でるためにこの鳥居を潜る人は稀である。

ただし、私のような無動寺の熱烈な信奉者も皆無ではない。迷い込んだ観光客か熱烈な信奉者かは、足取りを見れば一目瞭然である。前者は心許なげにパンフレットなどを眺めながら覚束ない足取りで歩いている。後者は脇目も振らずに谷へと降りて行く。

偉そうなことを言っているけれど実は私も2年前に初めてこの地を訪れただけなので、信奉者の中ではごく初心者である。

とは言え、一度訪れたことがあるので迷うことも不安になることもなく坂道をずんずんと降って行く。以前は厳しい山道だったのだろうが、今は舗装されてよく整備された道である。

ただし、どんなに道が整備されても、傾斜のきつい坂道であることだけは如何ともしがたい。

つづら折りに何度か折り返しながら、杉の木立が連なる山深い参道を私はひたすらに降り続けた。

えも言われぬ静寂が辺りを支配している。

途中で2つ目の石の鳥居を潜る。

そして3つ目の石の鳥居を潜った右手奥にあるのが、「閼伽井(あかい)」である。

<閼伽井>

ここは、「堂入り」*の苦行を行っている行者が一日一回午前2時に、仏様にお供えする水を汲むために訪れる聖なる井戸である。

井戸の前には門が設えられていて、部外者の侵入を頑なに拒んでいるかに見える。その門の隙間から覗く井戸は華美な飾りなど一切ないけれど立派な石の井桁と覆い屋を持っている。おそらくは、千日回峰行の信奉者が心を籠めて寄進したものなのであろう。

千日回峰行の行者はこの井戸を前にして、日々次第に掠れゆく意識のなかで何を考えるのだろうか?

直近の事例で言うと、千日回峰行者である釜堀浩元さん(当時41歳)が9日間の堂入りを満行したのは、平成27年(2015)10月21日未明のことであった。

今からほぼ2年前のことである。

井戸の門の前に佇み、私は静かに手を合わせて祈った。

ここから無動寺明王堂までは200mほどの距離である。五体満足な状態であれば何でもない距離だが、不飲不食かつ不眠不臥の状態で9日間の修行を行っている行者にとっては、果てしなく遠い距離に感じられたに違いない。

途中、右手に行くと弁天堂となる分かれ道を真っ直ぐに進み、すぐ左手の石段を登って明王堂に至る。

 

<無動寺明王堂>

2年前にこのお堂を訪れた際には、今年行われる相応和尚1100年の御遠忌の準備のために修繕中で、堂内に入ることができなかった。

その御遠忌法要も11月2日に無事に終わったばかりだ。前庭には「南無南山建立大師相應和尚壹千百年御遠忌報恩謝徳攸」と墨書された木柱が毅然とした姿で建立されている。

今回は明王堂の中に入ることができる。

堂前には、「御自由にお参り下さい」との立て看板が置かれていた。2年前に釜堀さんが堂入りした際の舞台となった明王堂の中に「御自由に」入ることができるのである。

御自由にと書かれていても、自然と私の心の中に緊張感が走る。

木製の階段を登り入口で靴を脱ぎ、恐る恐る正面の引き戸を引いて堂内に入った。

想像していたよりも中は広く感じられた。手前に信者たちが祈るためのスペースがあり、その奥の内陣にご本尊の不動明王が祀られている。ご本尊のお姿は暗くてよくわからない。

しかしながらこの場所で、あの壮絶な堂入りの荒行が行われていたのかと思ったら、胸が詰まった。

一切の飲と食とを断じ、不眠不臥で五体投地を続け、不動明王の真言を10万回唱え続けるという想像を絶する修行である。そんな状態のなかで生きていること自体が不思議に思えてしまう。強い精神力が要求される修行なのだ。

堂入り中の行者は、薄れゆく意識のなかで何を考えるのだろうか?どんな苦しみを抱いてこの景色を眺めるのだろうか?

そして、9日間の苦行を無事に満行した時、行者はどんな新境地を拓くことができるのだろうか?

壮絶という言葉以外には何も思い浮かばない。世の中にこんなに激しい修行が存在すること自体が、私にはとても信じられないことだった。

今の明王堂は、ここがそのような厳しい修行が行われた現場であることを感じさせない穏やかな空気が支配している。

それだからこそ余計に、堂入り中の張り詰めた雰囲気を想像してしまう。

堂入りが始まる時には、比叡山の高僧がこの明王堂に集結し、堂入りを行う行者と一緒に食事を摂る。これが最後の食事になるかもしれないとの思いを、行者も高僧たちも噛み締めながらの食事である。

「生き葬式」とも呼ばれるこの食事が終わると、やがて高僧たちが一人二人と明王堂から立ち去っていき、最後に行者一人のみが堂内に残される。

そこから、孤独で壮絶な9日間の堂入りが始まるのだ。

堂入り中の行者は、みるみるうちに頬が削げ、無精ひげが顔を覆う。

途中からは瞳孔が開き、死臭が漂い、幻影を見るという。生と死との紙一重の状況にまで我が身を追い詰め、ひたすら不動明王と対峙する。

一日一回深夜の2時に、仏様に供える水を汲むため先程通った閼伽井に出向くが、僅か片道200mほどの道を往復するのに、最後の方は30分以上の時間を費やすと言われている。

衰弱しきった身体に鞭打って、行者は9日間の行を務める。

その時の行者のことを想像し、私は打ちひしがれたような思いで、明王堂を出た。

ふと視線を上げると、明王堂の前庭には思いがけないほどの美しい琵琶湖の景色が拡がっていた。方角的には大津の市街地なのだろう。ホテルの高いタワーなどを望むことができる。

相応和尚の頃にはもちろんホテルのタワーはなかったけれど、心に沁みる琵琶湖の景色が今と変わらぬ佇まいで眺められたことだろう。

相応和尚がこの無動谷の地に明王堂を建立されたお気持ちが少し理解できたように感じた。

明王堂の前庭には琵琶湖を見降ろす場所に一本の楓の木が赤く色づいていた。この秋に比叡山で見た最も赤くて最も美しい楓の木が、この無動寺の楓だった。赤く色づいた楓の葉越しに望む琵琶湖の光景はまた格別だった。

<相応和尚像>

明王堂の向かって右手奥には、小さな石造りの像が建てられている。

右手に長い杖を持ち、左手には数珠と何やら円筒形の物体を提げ、変わった形の被り物を被り直立している不思議な像だ。

この像こそが、千日回峰行の行者姿の相応和尚である。

左手に提げているのは、夜の峰道を歩く際に足許を照らす提灯であろう。頭に被っているのは、蓮の葉を模った千日回峰行者独特の笠である。

像の傍らに建つ板碑に相応和尚の略伝が彫られていたので、以下にそのまま転記する。

 

北嶺行門始祖

相應和尚略伝

孝徳天皇の末裔で 天長八年(八三一)近江国に生まれる 十五才のときに比叡山に

登って傳教大師の高弟 慈覚大師円仁仕え 止観遮那両業の学問を尽く収め 宗祖の遺

訓にもとづく山のおきてに従い籠山十二年の修業を始め苦修練行 薬師如来の夢のお告

によって霊感をうけ 比叡山三塔の諸峰を巡拝して鎮護国家万民豊楽を祈り 北嶺回峰

行の基礎を打ち立てた たびたび宮中に招かれて参内 天皇 皇后をはじめ 高官の病

を加持し 郷に民衆の災難消除を祈祷 霊験は顕著なものがあった 今に伝えられる回

峰行大行満の土足参内の儀はこの相應和尚の先駆に習って行われている 貞観七年には

無動寺を建立して不動明王を祀り回峰行の根本道場としたので 建立大師ともいう 傳

教 慈覚の両大師號宣下を奏請したのも相應和尚であった

延喜十八年(九一八)十一月三日 西方に向って念佛を唱えながら 同日夜半従容と

して入寂した このとき紫の雲が叡南の峰(無動寺渓の山)にたなびき 異香は全山に

満ちて 山上の僧も山下の郷民もみな慈父を失ったように悲しみに號泣したと和尚伝は

伝えている ときに八十八才であった

 

明王堂を背にして左手にある急な石段を降りる。

この石段は、NHK特集『行~比叡山・千日回峰』(昭和54年(1979)1月5日放送)の番組のなかで酒井雄哉大阿闍梨が堂入りを終えた直後、僧侶に抱きかかえられるようにして降りた石段だ。

この番組は後にDVDになり、私も何度か見たことがある。

番組を見た時にはよくわからなかったけれど、実際に降りてみると非常に厳しい斜度をもった階段であったことがわかる。堂入りを終えたばかりの行者が自分の足で降りるには、あまりに急すぎる階段だ。

石段の脇に「相應和尚壹千百年御遠忌記念」と刻まれた真新しい石柱が建てられていた。おそらくは、相応和尚の1100年御遠忌を記念して、この石段に取り付けられている手摺りが新調されたのだろう。

よく見ると、以前は真ん中に一つだけあった手摺りが、今は両脇に据えられている。こうして少しずつ、参拝者の便利がよくなるように熱心な信者たちによって無動寺は整備されて続けていることがわかる。

石段を降り切った道を左に曲がってさらに坂道を降りて行くと、大乗院という建物が見えてくる。入口の大きな石柱には「親鸞聖人御修行蹟」と彫られている。

ここは、親鸞が10歳から29歳までを過ごした寺として知られていて、親鸞が自ら彫ったとされる蕎麦喰木像が安置されているそうだが、中を拝観することはできない。

さらに道を降りて行くと、変わった形の2階建ての黒い門が特徴的な玉照院に辿り着く。ここは回峰行の本院であり、2年前に訪れた時には軒下にたくさんの履き潰された草鞋が掛けられていた。

当時まだ千日回峰行を続けられていた釜堀浩元さんが履かれていた草鞋ではなかったかと推測している。

「天真らんまん流尼僧ブログ」というブログの2015年10月12日のところに、ブログの作者である尼僧が堂入りを翌日に控えた釜堀さんを玉照院に訪ねて行く場面が掲載されている。

千日回峰行に挑んでいた当時の釜堀さんが玉照院を拠点としていたことが窺えるエピソードである。

 

<草鞋>

勝手口の戸の脇に「火元責任者 釜堀浩元」と書かれた札が貼られているので、今でも釜堀大行満大阿闍梨は玉照院と関係があるのかもしれない。勝手口には、ほかに「叡南」と書かれた大きな表札も掛けられていた。叡南さんも、千日回峰行を満行された大行満大阿闍梨である。

2年前に来た時にもそう感じ、今回もまったく同じように感じられたのだが、玉照院に至る道の少し手前の坂道から、周囲が実にきれいに掃き清められていた。

箒の跡が模様を成していて、その掃き清められた道を土足で歩くのが申し訳なく思えるほどに掃除が行き届いた道である。

修行の第一歩である掃除に少しも手を抜かない誠実さと厳しさとを感じた。

道は、玉照院までしかない。いわゆる行き止まりである。

正確に言うと、玉照院の門前を通過したところから無動寺坂を通って坂本まで続いていると思われる細い山道があるのだが、この道を降りてさらに下まで行く勇気はなかった。

私は玉照院で折り返し、再び明王堂へと向かう坂道を登り始めた。

ここで、一つの奇跡が起きる。もしかしたら、相応和尚が私のことを招き寄せてくれたのかもしれない。

先程訪れた大乗院に至る手前の右手に、本道から分岐して後方へと上っていく道があった。

案内板も何もなかったし上り坂だったのでそのまま通り過ぎてしまうところだったのだが、何気ない気持ちでふと登ってみようと思った。道はそれほど長そうはなくて、一段上の場所に広場のような土地が見えたからだ。

私はその広場に至って、言葉を失った。

なぜなら、位置的には大乗院のちょうど裏手にあたるその広場の中央に一つの真新しい石碑が建てられていて、その石碑には「相應和尚入寂之地」と刻まれていたからだ。

<相応和尚入寂の地>

まったく知らずに通り過ぎてしまうところだった。

相応和尚は延喜十八年十一月三日の夜半に、無動寺谷の十妙院で「西方に向って念仏を唱えながら」入寂されたと伝えられている。

先の明王堂脇の相応和尚像の傍らにあった石碑によると、紫の雲が無動寺谷の山々に立ち込め、香しい香りが全山を覆ったと伝えられている。

生前に数々の奇跡を起こした相応和尚らしい、和尚最後の奇跡だったのだろう。

その場所が、今私が立っているこの場所だというのだ。

長浜の北野の地で生まれた相応和尚が、厳しい修行を自ら課し様々な奇跡を起こして朝廷からも篤い帰依を受け、千日回峰行という今に受け継がれる厳しい修行を編み出し輝かしい足跡を残しながら八十八歳でこの世を去ったその場所が、ここなのだった。

今からちょうど千百年前のことである。私は石碑の前に佇んで、そっと手を合わせた。

石碑の裏側には、

 

平成二十九年十一月三日

相應和尚一千百年御遠忌記念

建立 法曼院

 

の29文字が刻まれていた。

法曼院とは、明王堂からの急な石段を降りる途中にある断崖の上に建つ寺院だ。

それにしても、何の案内表示もないこんなところに相応和尚入寂の地があるなんて。私は驚きを隠せなかった。

しかし何はともあれ、期せずして相応和尚が入寂した神聖な地を訪れることができたことに、なにがしかの相応和尚とのご縁を感じ心から感動した。

相応和尚入寂の地を後にした私は、明王堂への石段を登らずにそのまま真っ直ぐに進み、白蛇伝説が伝わる弁天堂へと歩を進めた。

無動谷は観光地でないからか親切な説明版がほとんどないので詳しいことはよくわからないのだが、明王堂とはまた別の意味で弁天堂は無動寺谷のなかで重要な役割を果たしている場所であることは間違いない。

崖を削って捻出したような狭い土地に、赤い献灯で飾られた弁天堂を中心にたくさんの小さな社や祠が建てられている。

崖の下には清らかな水が流れ、龍の口を模った水路から一条の水の流れが滝となって落ちている。いかにも龍神が棲んでいそうな不思議な雰囲気に満ちた場所だった。

 

* 「堂入り」とは、千日回峰行のなかでも最も厳しい修行と言ってもいい9日間に

わたる苦行である。7年1000日の修行のうちの5年700日の修行が満行したとこ

ろで、ここ無動寺明王堂にて執り行われる。

堂入りの間行者は、食べ物を口にすることも水を飲むことも許されない。不眠

不臥で五体投地を繰り返し、ひたすらに真言を唱え続けるという想像を絶する修

行である。

 

無動谷から東塔地区に戻る山道で、ついに空から冷たいものが落ち出した。天気予報では雨のち曇りだったが、予報よりも少し遅れて雨が降り出したらしい。

それでも私は、無動寺にいる間だけでも傘をささずに済んだことを感謝しなければならないと思った。これも相応和尚のお力かもしれない。

雨は思っていたよりも本降りとなり、傘なしではとても歩けないほどに強くなっていった。と同時に、吹き付ける風が急に冷たくなって、傘を持つ手がかじかんできた。

比叡山の厳しい気候を目の当たりにして、この雨が夜半まで上がらなかったら明日の一日回峰行は困難を極めるのではないかと、そのことが不安でならなかった。

傘をさしながら、東塔の中心地というか延暦寺の中心である根本中堂をはじめとして、文殊院、大黒堂、大講堂、戒壇院、東塔、阿弥陀堂などの堂宇を拝観した後、西塔地区を素通りしてシャトルバスで横川(よかわ)地区に向かった。

西塔地区を飛ばしたのは、本日の一日回峰行の集合場所である居士林が西塔地区にあるからで、集合時間に合わせて最後に回った方が時間の調節ができるし効率的だと判断したからだった。

東塔から西塔まではシャトルバスに乗るとそれほどの距離ではなかったけれど、西塔から横川まではバスでもかなりの乗りでがある道だった。

今夜は間違いなくこの距離を自分の足で歩いて行かなければならないと思い、次第に重圧を感じ始める。

横川地区では、横川中堂に参った後に虚子の塔を経て元三大師(がんさんだいし)堂に詣でる。

元三大師こと良源は、相応和尚と並んで私が尊敬する比叡山を代表する名僧の一人である。良源は、延喜12年(912)9月3日に近江国虎姫に生まれた。相応和尚の生誕地である北野とは目と鼻の近さである。

相応和尚が生まれた80年後に、良源のような名僧が再び湖北の地から輩出されたのは、単なる偶然だろうか?

良源は、火災などで荒廃していた延暦寺の堂宇を再建し、乱れていた僧の風紀を正したことから延暦寺中興の祖とされる名僧であり、延暦寺の第18代座主(ざす)を務めている。また、今の社寺に広く伝わる「おみくじ」の創始者としても知られている。

その良源が住した定心房跡に建てられたのが今の元三大師堂であり、堂内には良源像が祀られている。

元三大師堂に参った後には、さらに山道を歩いて元三大師御廟(みみょう)に詣でた。元三大師堂まではかなりの数の参拝客で賑わっていたけれど、元三大師御廟にまで足を延ばす人はまずいない。

天台僧になるための修業の場である比叡山行院の前を通り過ぎ分岐する道を左に取ると、急に鬱蒼と木が茂る寂しい道になった。周囲の空気が一変するのがわかる。

分岐点からすぐのところの路傍には、先日の台風による大風のせいなのだろう、太く高い木が根元から折れてそのままの姿で倒れていた。殺伐として無気味な風景を目の当たりにして立ちすくむ。

実は、元三大師御廟は比叡山の三魔所の一つと言われている場所なのである。

と言うのは、比叡山は京の都から見て鬼門である北東に位置していて、そこに建てられた延暦寺は、京の都を魑魅魍魎たちから守護する役割を担って建立された寺だとされている。つまり、延暦寺はいわゆる悪霊封じのための寺としての顔を持った寺なのである。

その都の鬼門にあたる延暦寺のなかでも横川地区は北東部に位置しており、延暦寺の鬼門となる場所にある。

さらにその横川地区のなかで最も北東の端に建立されているのが、元三大師御廟なのである。つまり元三大師御廟は、鬼門の鬼門の鬼門に位置し、最も最前線で悪霊たちから京の都を、延暦寺を、そして横川の地を守護していることになるのだ。

どことなく無気味な「気」が漂っているように感じられるのには、そういう理由(わけ)がある。

元三大師は自らの意志でこの地に埋葬されることを望んだという。死してなお、京の都を、延暦寺を、そして横川を自らの力によって守ろうとする強い意志を持っていた。だからこそ私は、相応和尚の無動寺と同じくらい、元三大師御廟に詣でることに拘っていた。

実はこの道は、前回初めて元三大師御廟を訪ねるために通った時に、突如として転倒してしまった道なのだ。次のシャトルバスまであまり時間がなくて、でも元三大師御廟には何としても詣でたくて、小走りに走っていた時のことだった。

ここ十年来、こんなに激しい転び方をしたことはなかった。手にしていたカメラは疵ついて使えなくなってしまったし、膝を地面に強く打ちつけ、足首を捻ってあまりの痛さにしばらくまともに歩くことができなかったほどだった。

地面から石が突き出ていたわけでもない。もちろん舗装はされていなかったけれど、普通の平坦な道を走っていたはずだった。

やっぱりこの道には怖ろしい魔物が潜んでいるのかもしれない。

その時の記憶が鮮明に蘇ってきた。しかも今日は雨で道がぬかるんでいる。私は今回ばかりは走らずに、慎重に歩いていくことにした。

たしかに魔物が棲んでいると言われても疑問に思われないくらい、寂寥とした道である。ただし今回は初めて通る道ではないので、道を間違えるという心配はなかった。

やがて石でできた鳥居と小さなお堂が見えてきた。元三大師の御廟は、このお堂の裏側にある。

<元三大師御廟>

 

四囲を石柱で囲まれた立派な基壇の中に不思議な形をした石の柱があった。まっすぐでなく少しだけ曲がった柱の上にちょこんと円盤状の石が乗っている。まるでキノコのような形をしたものが、元三大師の墓石なのだ。

不思議な空間に不思議な物体を見たような思いだ。

私は元三大師の墓石に手を合わせた後、元来た道を転ばないように細心の注意を払いながら歩いて戻った。

再び行院の前を通り、そのまままっすぐに進むと恵心堂に至るのだが、その手前の道を横川中堂の方へと右折してバス停まで無事に戻った。

この後はいよいよ、最後の訪問地である西塔である。私はシャトルバスに乗って西塔へと向かった。

 

西塔地区には最澄の廟所である浄土院*があるが、西塔地区の中心的建造物と言うとやはり釈迦堂になるだろう。

今年は相応和尚の1100年の御遠忌を記念して、延暦寺史上で初めて釈迦堂の内陣が一般公開され秘仏となっているご本尊の釈迦如来像が開帳されているという。

普段はけっして見ることができない内陣を見てご本尊の釈迦如来像を拝することができることを幸せに思った。これも相応和尚とのご縁かもしれない。

弁慶が左右のお堂を肩にかけて担いだとの伝説が残っている「にない堂」の左右の建物をつなぐ廊下を潜り石段を降り始めると、釈迦堂の大きな建物が見えてくる。

信長による比叡山焼打ちの後、豊臣秀吉によって大津の園城寺(三井寺)から移築されたもので、比叡山の建築物のなかで最も古い建物になるそうだ。

釈迦堂の中は大勢の参詣者で賑わい、内陣拝観のために堂内で長い列ができていた。

相応和尚の御遠忌による記念公開ということから、堂内には千日回峰行者の白装束に蓮の葉を模った笠をかぶった像が展示され、相応和尚の生涯が紹介されたパネルなどが壁に掛けられていた。

この釈迦堂をはじめとして、今年の比叡山は全山で相応和尚が主役になっていた。数々の名僧を輩出した延暦寺において、相応和尚の業績がいまだに高い評価を得ているということであり、そのことが私には何よりうれしかった。

東塔の根本中堂と同じ造りで、釈迦堂の内陣も外陣より一段低く作られている。寺僧からお清めを受けた後、しずしずと内陣に足を踏み入れた。

内陣の中はがらんとしていて、四天王像や文殊菩薩像などが疎らに配置されている。普段は中に入ることを許されず間近で見ることもできない仏像をこうして拝むことができることを不思議に思った。

外陣の喧騒が嘘のように静寂が支配するうす暗い内陣をしずしずと歩いて一回りした後、再び外の喧騒の世界に戻った。

釈迦堂を出た後、中途半端な時間だったので少し迷ったけれど、これから少し離れた浄土院まで行って集合時間ギリギリに居士林に駆け込むよりも、余裕を持って受付を済ませた方がいいと思い、釈迦堂から真っ直ぐに居士林に向かうことにした。

居士林に入ってしまえば、その瞬間から私の一日回峰行の修業が始まる。

私の緊張は、急速に高まっていった。

 

*  西塔地区と東塔地区の間にあり厳密に言うと東塔地区に属するが、バス停で

は西塔からの方が近いように思われる。