高島篇 朽木 その3 (祝 高島&長浜観光締結)

木地師

 

岩瀬の志古淵神社を後にしたのち、「くつき温泉てんくう」というところで朽木名物の鯖寿司膳の昼食をいただいた。

てんくうは、朽木の街を見下ろす小高い山の上に建てられた、食事処、温泉、スポーツ施設などを併設する総合レジャーランドである。

丘のすぐ麓を鯖街道とも呼ばれている国道367号線が通っており、昔から若狭で採れた鯖がこの道を通って京まで運ばれてきた土地である。

その名産の鯖寿司と温かいうどんがセットになった鯖寿司膳は、たいへん美味だった。

お腹の欲求を満たした私たちは、朽木の街の中心部と言ってもいいのだろう、朽木市場地区に向かった。

市場地区の象徴とされるのが丸八百貨店という名の百貨店の建物なのだが、その丸八百貨店に行く前に、私たちは向かいにある小さな建物の戸を引いた。

それほど広くない店内には、木切れなどの材料や漆器などの商品が所狭しと置かれている。ここは、木地師の伝統を受け継ぐ方の店舗兼作業所なのだそうだ。

木地師とは何か?

普段あまり耳にしない言葉である。『広辞苑』第六版によると、木地屋に同じとあり、木地屋の項目を見てみると、

 

轆轤などを用いて木材から盆や椀などの日用器物を作る人。きじし。ろくろし。

 

とある。

身近に存在する木材を材料にして、轆轤を使って日常生活で使用するための盆や椀などの食器を作る人のことを木地師というのだそうだ。

朽木に来て以来、筏、杣、志古淵神社など「木」に関係する様々なものを見てきたが、木地師もまた木と密接に結びついた存在であることを思った。

朽木はどこまでも、木によって生き、また木によって生かされている町なのだという意を強くした。

 

木地師の実力を実演により見せていただいた。

轆轤というと、陶芸で使う大きな回転台がありその上で粘土を形造っていくような光景を想像するが、現代の木地師は工作機械のようなものに小さな立方体の木片を固定し、その木片を回転させながら鑿で削っていった。

かつてイタリアのヴェネチアで、ヴェネチアングラスの職人が真っ赤に熱せられたガラスの塊からピンセットのような工具を使ってあっという間に馬の像を造り出す技を見たことがある。

熱いガラスの塊の中から前脚が引っ張り出され、続いて後脚が姿を現し、そしてやや太くて長い首が引き出されたら、それはもう立派な馬の姿だった。

時間を測っていたわけではないが、一頭の仔馬が造り出されるまでに1分もかからなかったのではないかと思う。

その時と同じような光景が、我が眼前で繰り展げられていた。


何の変哲もない小さな立方体の木片が、みるみるうちに小さなキノコの姿へと変貌を遂げていったのである。

それはまるでマジックを見ているようなものだった。

あるいは、元々、木片の中にキノコが潜んでいて、木地師の操る鑿によってその姿が現実の姿として浮かび上がったとでも思えるような、見事な手捌きであった。

ほんの短時間のうちに、単なる木の塊からキノコが姿を現す。木地師の方は、固定していた工作機械からキノコを取り出すと、私たちに手渡してくれた。

滑らかな手触りと鮮やかな木目が印象的だった。キノコ自体はキーホルダーや携帯のストラップになるような小さなものだったが、私にはキラキラと輝く宝石のようにさえ思えた。

先にも書いたとおり、木地師はいわゆる芸術作品を創る工芸家ではない。むしろ芸術の世界とは対極にある日常世界の食器を作る極めて生活に密着した存在である。

身の回りにあるブナや栃の木などの木材を使用して、椀や盆などの身近な食器を削り上げていくのだ。

室内に雑然と積まれている木片が材料となるのだろう。

よく見ると、その木材には、山桜、カツラ、ブナ、ナラ、トチ、カエデ、ケヤキ、水目、カキ、ホオなどとマジックで木の名前が書かれている。

輪切りになった小振りで厚めの円筒形の木片は椀を作る材料となり、薄くて広めの立方体の木片は盆の材料となるのだろう。それぞれの出来上がりの姿を想像して材料としての木片が準備されていた。

その傍らには、製品となった椀や盆が並べられている。

これらの椀や盆は「朽木椀」、「朽木盆」と呼ばれ、日常使いの食器類とは言え、朽木地方の漆工芸品が高い技術力を持ったものであることを物語っている。

そのなかでも特徴的なのが盆で、黒、朱、緑などの漆が塗られたうえに、どれも菊の文様が描かれている。

あるものは盆の面全体に大きく、またあるものは盆の面の一部に小さく描かれているが、いずれも皇室の紋章と同じ16枚の花弁をもつ菊の文様で飾られている。このことについては後述しなければならない。

木地師は木を削って椀や盆の形を作るまでが受け持ちで、その上に漆を塗るのは塗師(ぬし)と呼ばれるまた別の職人が行うのだそうだ。完全分業制である。

これも後にまた触れるが、朽木には「木地山」と呼ばれる山がある。木地師は主にその木地山などの山間部を本拠とし、移動しながら良質な木材を求めていたようである。

明治以降はそのような特権は失われていったが、木地師は山の7合目以上の木を自由に伐採できるという「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持していた。この綸旨は全国どこの山でも有効であったという。

こうして木地師は、山から山へと点々とする生活を送っていたようである。

一方の塗師は、先程私たちが筏や志古淵神社などを見てきた安曇川の畔の岩瀬の辺りに定住していたと言われている。

木地師の轆轤技術と塗師の漆の技の合作が、素朴な朽木の日常食器になっている。

 

滋賀は全国の木地師発祥の地と言われている。

それは、悲劇の皇子と呼ばれる小野宮惟喬(これたか)親王伝説と結びついている。

惟喬親王は、承和11年(844)に第55代文徳天皇の第一皇子として生まれた。いずれは天皇位を継ぐべき立場であった。ところが文徳天皇は、第一皇子である惟喬親王を差し置いて第四皇子の惟仁親王を皇太子として立てた。

惟仁親王の母が藤原氏の系列に属する明子であったのに対し、惟喬親王の母が紀氏であったためとも言われている。

皇太子になることができなかった惟喬親王は、天安2年(858)に太宰権帥として大宰府に赴いた後、常陸太守、上野太守など都から遠い辺境の地を点々とし、貞観14年(872)に30歳に満たない若さで失意のうちに出家した。

その後、小野、山崎、水無瀬などに移り住んで寛平9年(872)に54歳で亡くなったと伝えられている。

惟喬親王の逸話は、『伊勢物語』の第81段と第82段にも書かれている。有名な

 

世のなかに絶えて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし

 

という歌は、その第81段に掲載されている歌である。

 

京都府左京区大原上野町に、惟喬親王の墓と言われる五輪塔が遺されている。

ところが滋賀には、惟喬親王にまつわるもう一つ別の伝説が伝わっている。それが木地師の伝承と深く結びついているのだ。

すなわち、惟喬親王が近江国蛭谷(現東近江市)に隠棲し、そこで地元の住民たちに木地師の轆轤技術を拡めたという言い伝えである。この伝承を以て、蛭谷地区を含む小椋谷一帯は木地師発祥の地と称されている。

蛭谷は、愛知川の上流にある名刹永源寺をさらに遡ったところにある。秋には見事な紅葉が流域を彩る美しい地域である。

蛭谷という地名は今も当地に残っている。

八風街道と呼ばれる国道421号線を愛知川に沿って遡り、途中から左手に折れて愛知川支流の御池川に沿って県道34号線を進んでいく。

政所、箕川という集落を過ぎると、やがて目的地である蛭谷に辿り着く。

かの白洲正子さんが「かくれ里」として紹介した小椋谷は、政所、其川、蛭谷、君ヶ畑、九居瀬、黄和田、筒井などの集落から成る広範な地域であるが、まさにかくれ里と呼ばれるにふさわしい山深い土地である。

興味深いことに、今も書いた通り、小椋谷一帯には政所、君が畑という地名が存在している。また、高松御所、筒井公文所、大皇器地租(おおきみきじそ)神社と呼ばれる場所などがある。

まるでかつてこの地に天皇か天皇に准ずる皇族が住んでおられたかのような土地の名がここ小椋谷に点在しているのだ。

土地の言い伝えによると、隠棲された惟喬親王は君ヶ畑にある金竜寺にお住まいになられていたという。この金竜寺のことを土地の人たちは高松御所と呼んでいる。

金竜寺の本堂には菊の御紋が掲げられている。君ヶ畑という地名も、元は小松畑という名だったそうだが、親王がお住まいになられたことから君ヶ畑と呼ばれるようになったのだという。

高松御所のすぐ近くにある大皇器地租神社は、祭神として木地師の祖先としての惟喬親王を祀る神社であり、明治以前は大皇大明神という名前で呼ばれていた。

かつてこの地には木地師を統率するための役場が設置されていて、その役場のことを筒井公文所と呼んでいた。

木地師は全国に散らばり良質な木材を求めて移動しながら生計を立てていたため、木地師を登録して統制を保つとともに、彼らの身分を保証してやる必要があったものと考えられている。

こうして小椋谷には、正史とは別に惟喬親王伝説が存在し、今でも土地の人たちは、惟喬親王が小椋谷に住まわれ、木地師たちに轆轤の技術を伝えていたと信じているのである。

先に惟喬親王の墓は京都の大原にあると書いたが、ここ小椋谷にもある。

県道34号線沿いの筒井峠付近に、惟喬親王御陵がひっそりと佇んでいるのがそれだ。

 

小椋谷における惟喬親王隠棲伝説は、かつて『湖北残照』文化篇で紹介した菅浦における淳仁天皇伝説と相通ずるものがあるように思われる。

どちらも白洲正子さんがかくれ里として紹介された土地であることは単なる偶然であろうか?

醜い政争に巻き込まれ、自らの意志ではどうにもならない権力に翻弄され、不本意な生涯を終えた淳仁天皇と惟喬親王。

しかし庶民たちは彼らの正当性を理解し、支持していた。

そんな誠実な想いが伝説となり、正史とは別の物語を成立させているのだろうか。非常に興味深い事実である。

親王のやりきれない哀しい想いを、庶民たちは信じていた。

 

本題の朽木を離れ、かなりの紙面を割いて東近江市の小椋谷のことを書いてきた。惟高親王の無念を想うとともに、惟喬親王一派による木地師の技術伝播が朽木繁栄の礎を築いたと思ったからだ。

近江国小椋谷を源とする木地師の轆轤技術は、木地師が諸国の山林に散らばっていったがために、文字通り日本全国へと拡がっていった。

同じ近江国のなかにあり良質な木材を産する朽木のムラに木地師の技術が伝えられていったことは、想像に難くない。

近江国と若狭国との境に、木地山という山がある。この山こそが、文字通り朽木の木地師が拠点としていた山だと考えていいのではないか。

朽木の木地師の仕事の特徴として、菊の紋章が意匠された盆が有名であることを先に書いた。

これは他の地域にはあまり見られない朽木の盆だけの特徴であり、そこには、惟喬親王との並々ならぬ結びつきを認めざるを得ない。

皇室の御紋の使用は一般庶民にはけっして許されることがなかったと思われるからだ。朽木の木地師たちは、あるいは小椋谷に隠棲されたと伝えられる惟喬親王と直接関係があった人たちであったのかもしれない。

一枚の盆から、様々な想像を巡らせることができる。

まさに歴史におけるミステリーであるのだ。

 

丸八百貨店

 

木地師の店を出た私たち一行の関心は、木地師の店とは細い道を挟んだ反対側に建つ丸八百貨店のモダンな建物に向かわざるを得なかった。

しっとりとした純日本風の古風な趣を今も醸し出している朽木の街に、突然ぽかんと洋風の洒落た建物が姿を現しているのだ。

この街には場違いとも思われる洋風建築は、いつ誰が何のために建てたものなのか?興味が湧かないわけがない。

落ち着いた薄い黄色を主調とした石造りの三階建ての建物の上部には、三角形を組み合わせて帯のようにした装飾が施されていて、実にお洒落なデザインだ。

建物の角に設けられたエントランスの上には大きく「丸八百貨店」という文字が掲げられている。ここが元は百貨店であったことがすぐに伺える。

調べてみると丸八百貨店は、この地で下駄屋を営んでいた大鉢捨松という人が昭和8年(1933)に百貨店として建てた建物であることがわかった。

今は三階建てであるが、創業当時は二階建ての建物で、一階には本業の下駄のほかに雑貨、本、新聞などが並べられ、二階では呉服が売られていたという。

三階が増設されたのは昭和18年(1943)頃で、森林組合の事務所や村営の授産施設が置かれたりした。

今もだが、当時としては目を瞠るようなハイカラな建物であり、そのデザインの斬新性において朽木の人たちの心を鷲掴みにしたのではないだろうか。当時の繁盛ぶりが窺える。

滋賀県でモダンな洋風建築というとすぐに頭に浮かんでくるのがヴォーリズである。年代的には重なっているし高島市にはヴォーリズが建設した建物もあるのだが、丸八百貨店は残念ながらヴォーリズが建てた建物ではない。

大工は比良の清水一左ヱ門という人で、左官は京都の沢本浅之丞という人が造った建物であるそうだ。二人とも大鉢捨松氏の親戚筋にあたる人であるという。大鉢氏の一族は芸術的才能に満ちた一族であったのかもしれない。

丸八百貨店の店名の由来には諸説があるようだ。

京都の大丸百貨店を真似たとする説や、当時は百貨店の名前に丸の字を付けるのが流行っていたので、大鉢の「鉢」を「八」に変えて丸八としたという説などがあるが、真相はわからない。

市場地区という朽木の街のなかでも最も賑わう中心部に立地し、目を引くモダンな建物であるので、先程も書いたとおりさぞかし繁盛したであろうと思われるが、残念なことに平成のはじめ頃に最後の店子が亡くなり百貨店は閉店となったという。

半世紀強に亘って朽木の街の人たちに商品を提供し続けてきた丸八百貨店であったが、閉店後は旧朽木村が土地と建物とを買い取り、「鯖街道まちづくり委員会」が一階を書店と無料休憩所として開放し、二階にはパブを作り、三階は会議スペースとして使用したという。

個人的には是非、二階のパブでちょっと気取った気分でお酒を飲んでみたかった。

平成9年(1997)にはこの丸八百貨店の建物は国の登録有形文化財に指定されている。県で3番目の指定である。

平成14年には「鯖街道まちづくり委員会」が撤退し、平成16年から「睦美会」という地元の女性グループが管理と運営に当たっている。

私たちが行った日はたまたま休館日であったため、扉が閉ざされていた。無情にも「おやすみ」と墨書された木札が扉に掛けられ、入口には「準備中 丸八百貨店」と書かれた看板が立てられていた。

せっかく来たのだから中に入ってみたい。建物の中はどのようになっているのだろうか?自然な欲求である。

残念な思いで建物の周囲をうろうろしていたら、「扉を開けましょうか?」と地元の女性が声を掛けてくれた。

先に書いた、この建物を管理している女性グループの方のようだ。20人もの他所者が建物を取り囲んで周囲をうろうろしている様子は、ただならぬものがあったに違いない。

私たちはその女性のご好意で丸八百貨店の建物の中に入ることができた。

一階から二階にかけてが吹き抜けの構造となっている。眩しいくらいの壁の白い色に窓枠や梁の木の色が映えて鮮やかだった。

今は丸八カフェとして、コーヒーや紅茶などの飲み物の他に、うどんやそばなどの軽食を提供している。予約をすると、当地名物の鯖そうめんや鯖寿司などを食べることもできるそうだ。

このようなステキな場所で地元の名物に舌鼓を打つ。想像しただけでも心がうきうきしてくる。

内装自体は開業当時のままではないと思うが、今の内装もしっとりと落ち着いていて上品な雰囲気を醸し出している。当時の店内の様子がどんなものだったのか、見てみたかった気がする。

私たちはしばらくの間、建物の中を歩き回りモダンの香りを思い切り吸い込んで、丸八百貨店を後にした。

 

先に、丸八百貨店がある市場地区は朽木の街の中心部にあると書いた。

市場という地名からも容易に想像できるように、この地には古く室町時代から市が立っていたという。

モノが集まればヒトが集まる。かつての朽木の中心部市場地区には商家が建ち並び、人々が往来し賑わいを見せていたことだろう。

若狭国と京とを結ぶ鯖街道のちょうど中間地点に位置し交通の要衝でもある当地には、江戸時代に朽木氏の陣屋が置かれていた。

朽木氏は1万石以上の大名ではなく旗本であったのでその居所も城とは言わずに陣屋と呼ぶが、私たちに馴染みやすい言葉で言えば朽木は朽木氏の城下町であったと表現してもいいだろう。

近くに国道367号線が新たに通されたため、かつての街道は今は旧道となっている。丸八百貨店周辺の道もそうだが、道が不自然に鉤型に曲がっているところがある。これは「鍵曲(かいまがり)」と言って、城下町に特有の防御のための仕掛けである。

敵が一気に攻め込んでくるのを妨げるために、道を意図的に直角に曲げる。曲がった道は目の前の視野を遮る効果もある。そしてその曲がった角には敵を迎え撃つための兵士を潜ませておくことができる。

彦根の城下町にも、同様の目的で「どんつき」と呼ばれる鍵型に曲がった道が今でも残されている。まさにかつての城下町としての面影を感じる部分だ。

また、市場地区の旧街道を歩いていると、道の傍ら、用水路の脇にレンガ造りの立方体の煙突のようなものが目に入ってくる。

これは、「立樋(たつどい)」と呼ばれるもので、用水路の水を取り込みサイフォンの原理を利用して各家庭に水を引き入れる装置である。

古い街並みにレンガ色がお洒落なアクセントを作り出している。

道の傍らに清らかな水の流れがあるのが滋賀の街並みの特長の一つであるのだが、市場地区もその例外ではない。

今回の私たちの旅のメインテーマは、日本遺産に認定された琵琶湖とその水辺景観を巡る旅であった。

ここ朽木においても、水と密接に結び付いた生活風景の一端を垣間見ることができる。

用水路に沿って道を歩いて行くと、流れの水位まで降り立つことができる階段状の施設を目にする。

これは、「川戸」と呼ばれるもので、住民たちが洗い物をしたりするために設けられたものである。用水路は住民たちの日常生活と密接に結び付いた存在であることがよくわかる。

用水路の水は、防火用水として、また積雪時の融水用の水としても使用されるのだという。

市場地区にはその他にも、藩の御用商人として造り酒屋や醤油の醸造を行っていた熊瀬家の住宅や昭和13年(1938)にヴォーリズが設計して建てた旧郵便局の建物などが遺されている。

いつか時間の制約なくじっくりと歩いてみたいステキな街である。