高島篇 朽木その2 (祝 高島 & 長浜 観光締結)

安曇川と筏

 

筏と言うと私は、ディズニーランドのアトラクションの一つである「トムソーヤ島いかだ」くらいしか思い浮かべることができなかった。

ディズニーランドでは、対岸のトムソーヤ島に行くための乗り物として、太い丸太を横に何本も並べて作った平たい舟のような乗り物が「いかだ」と呼ばれ使われている。

興聖寺を出た私たちは、徒歩で安曇川に沿った道を川下の方へと歩いていった。

この先に、地元の方が私たちのために作ってくれた筏が係留されているというのだ。

その時には、ここでどうして筏が登場してくるのか、私にはよくわからなかった。やがて川を横断する水道橋が見えてきて、その袂に細長い木の塊(かたまり)が水に浮かんでいるのが見えてきた。

これが筏なのか?

私が描いていたイメージとはちょっと違っていた。

と言うか、私はこれまで本物の筏というものを見たことがなかったという事実に初めて気がついた。

私が目にしたものは、丸太を数本横に束ねて、それを縦に3連(れん)繋いだ細長い木の塊(かたまり)だった。

きれいに皮が剥がされた丸太は、1本1本はそれほど太いものではないけれど、どれもみなまっすぐで光沢があった。私は木に関してはまったくの素人であるけれど、そんな素人が見ても良質の木材であることが一目瞭然だった。

これらの丸太はみな、朽木の山林で切り出されたものだという。

そう言えば、京都から朽木まで、バスはずっと山道を走ってきた。道の両側の斜面は、見渡す限り木々で覆われていた。朽木は、豊かな山林資源に恵まれた土地柄であったことを改めて認識した。

朽木の人たちにとって、林業は重要な産業であるのだ。木とともに生き、木と共に暮らす。朽木の人たちと木との間には、切っても切れない関係が存在している。

伐採した木々を運び出す手段として重要な役割を果たしていたのが、筏だった。

川は自然の恵みである。長く重い丸太を陸路で運ぶのには多大な労力を必要とするけれど、水の流れに乗せて流していけば楽に運ぶことができる。

朽木の筏は、ディズニーランドのアトラクションのように人を乗せて運ぶものではなく、伐り出した木を安曇川の流れを利用して下流の琵琶湖に運ぶためのものだったのだ。

川が狭くて流れの速い場所もあるだろうから、横に広いトムソーヤ島のいかだのような形状では、途中で引っ掛かってしまうだろう。

朽木の筏は、川の流れの中でも事故なくスムーズに木を運ぶことができるように工夫されたものだということを理解した。

丸太と丸太とを繋ぐものは、植物の蔓(つる)である。

これも山の中に自然にあるものを使っている。すべてが理に適っていることに感嘆した。

朽木の筏は人を運ぶものではないけれど、人が乗って行先をコントロールする必要があるのだろう。人が握る舵取り棒のような木が筏に括りつけられている。

この棒を使って巧みに舵を切りながら、朽木の人たちは安曇川の河口まで筏を運んでいったのだろう。

実際に筏を流しているところを見ることはできなかったけれど、最盛期には安曇川の流れにたくさんの筏が浮かび流れていく壮観な光景を想像した。

 

朽木における木の歴史は古い。

「朽木杣(くつきのそま)」という言葉がある。

「杣」とは、『世界大百科事典』によると、「古代律令国家や荘園領主が,造都や寺院などの巨大造営物の建設用材を確保するために指定した山林」だそうだ。

大きな寺院や貴族の邸宅などを造営するためには、大量の木材が必要となる。また、造営した寺院や邸宅を維持していくためにも継続的に木材の供給を欠かすことができない。

そこで古代の寺院や貴族たちは、自分たちの建物を造営・維持するための木材を確保する手段として、畿内の各地に専用の山林を所有するようになった。

その山林のある山のことを「杣」と言い、杣で木材の伐り出しに従事する人のことを「杣人」、杣から伐り出される木材のことを「杣木」と言った。

杣は組織的に管理され、杣の運営を司る杣頭、張付などと呼ばれる管理者が置かれていた。

その杣の一つが、朽木杣である。

高島には、安曇川に沿って朽木杣のほか子田上杣(こだかみのそま)、三尾杣(みおのそま)、石田川に沿って河上荘(かわかみのしょう)などの広大な地域に杣が営まれていた。

11世紀初頭には、山城国寂楽寺(白川寺喜多院)造営のために近江国朽木杣が営まれたとの記録が文献にある。

杣と杣との間には微妙な力関係が存在していたようで、朽木杣は隣接する子田上杣に対して従属関係にあったと言われている。朽木杣の人たちは、杣に入るために「山手」と呼ばれる手数料を子田上杣に支払わなければならなかったし、伐り出した木を筏に組んで安曇川に流すためには「津料」と呼ばれる通行料を支払っていた。

子田上杣は藤原氏の権力を背景とした宇治平等院の杣であったから、山城国寂楽寺と比較すると格式が高かったためにそのような力関係が生じたのかもしれない。

しかし朽木杣も手を拱いて子田上杣に従っていたわけではなかったようだ。

通行料を支払わず杣道を塞いで子田上杣の伐採を妨害したり、勝手に人夫を入れて木の伐採をしたりして紛争となり平等院が天皇に宛てて訴え出たことなどが、今津町酒波の日置神社に遺されている古文書に記録されている。

木材の伐採で生計を立てていた杣人たちにとって、木の1本1本が生きていくための重要な資源であり、少しでも多くの木材を得るために様々な努力が行われていたことの一つの痕跡なのではないだろうか。

安曇川の筏を見ていて、そんな古代からの朽木の人々の「木」にかける思いの強さをしみじみと想った。

 

志古淵神社

 

筏が係留されていた場所から程近いところに、志古淵神社と呼ばれる神社があった。「志古淵」と書いて、「しこぶち」と読む。

珍しい名前の神社である。

志古淵、志子淵、志故淵、思古淵、思子淵、信興淵など充てられる漢字は異なるものの、高島には安曇川沿いに「しこぶち」神社と呼ばれる神社が多数存在するという。

高島市のWebサイトによると、実に15社もの「しこぶち」神社が紹介されている。そのうちの主要な「しこぶち」神社が七社あり、それらを総称して「七シコブチ」と呼ばれている。

七シコブチとは、以下の七社を言う。

久多・思古渕社(志古淵神社)

京都府京都市左京区久多中。この神社に古くから伝わる「花笠踊」は、無形文化財に

指定されている。

小川・思子淵神社

滋賀県高島市朽木小川。毎年輪番に宿を決めて集まり、床の間に「思子淵神社」と書

かれた神軸を掛けてお供えをし、赤飯を炊いて会食する思子淵講と呼ばれる講があっ

た。境内に建つ本殿、蔵王権現、熊の社の3社は14世紀後半建立の貴重な建造物であ

り、国の重要文化財に指定されている。

坂下・思子渕大明神

滋賀県大津市葛川坂下。大岩の上に鎮座する小さな祠に祀られている。

坊村・信興淵大明神

滋賀県大津市葛川坊村町。地主神社の境内社として祀られている。湖北出身の比叡山

の名僧相応和尚が創設した葛川明王院の創始にまつわる伝承が伝わっている。

梅の木・志子渕神社

滋賀県大津市梅の木町。近年まで、陰暦十月七日が祭日であった。

岩瀬・志子淵神社

滋賀県高島市朽木岩瀬。志子淵神を「筏流しの神様」として祀り、毎年志子淵講が行

われる。もとは北側の小字畑福に鎮座していたが、寛文2年(1662)の大洪水により

流され、現在地に遷されたと伝えられている。

中野・思子淵神社

滋賀県高島市安曇川町中野。七シコブチのなかで最も下流に立地するシコブチ神社。

筏流しにとって特に危険な場所はここよりも上流ということになる。

 

一方で、高島以外の地方には「しこぶち」神社という神社は存在しないという。

古来から高島地方に坐(いま)します土地の神様の名前なのだろうか?それとも、この地方に住みついた渡来人が信仰していた異国の神の名だろうか?不思議な聞きなれない名前に、何の根拠もないけれど、様々な憶測が頭に浮かんでくる。

案内をしてくれた高島市の職員の方の説明によると、しこぶちの「しこ」とは強いとか恐ろしい場所という意味で、「ぶち」とは川の淵、すなわち川が大きく曲がっている場所や深く水が澱んでいる場所のことを示す言葉なのだそうだ。

前述のとおり、林業を生業とし木材の伐採により生計を立ててきた高島の人々にとっては、伐り出した木材を安曇川の流れを使って安全に琵琶湖に運ぶことはたいへんに重要なことだった。

流量が十分にコントロールされている今の安曇川の流れとは異なり、自然の流量に任せる以外に方法がなかった昔の人たちにとっては、安曇川の流れはありがたい存在であると同時に時には危険な存在となることもあった。

一歩間違えば死傷事故にもつながりかねない危険な川の流れ。当時の人たちにとって安曇川の流れは諸刃の剣で、無事に木材を琵琶湖まで流すことができればこんなありがたい存在はないが、一方でそれは死と隣り合わせの危険な作業でもあったのだ。

自然、そこは神頼みということになる。

どうか無事に筏を琵琶湖まで流してほしい。筏乗りたちの切実な願いであった。そう言えば、山本兼一さんの『火天の城』という小説のなかに、安土城を築城するために木曽の山から大きな丸太を伐り出し木曽川を使って運搬する光景が描かれた場面があった。

その丸太が川の淵をうまく曲がりきることができず岩に激突し、作業を指揮していた頭が亡くなるという凄惨な事故の場面が描かれていたことを思い出した。

これは小説の中だけの出来事ではなく、実際に起こり得る事故であったということを改めて実感した。

先に私たちは、安曇川に係留されている筏を見た。そしてそこから程近い志古淵神社を訪れて、この筏と志古淵神社とが深い関係を有していることを知った。

インターネットで安曇川に浮かぶ筏の古い写真を見ることができる。先程見た筏よりももっと幅が広くて、いくつもの筏を長く連ねた立派な筏が写っている。

安曇川の水量も今より多く向こう岸まで一杯の水が流れていて、一つの長い筏に何人かの筏師が乗って、長い竿を操って筏を操縦している。

こんなに長くて大規模な筏を操縦することは容易なことではなかっただろう。これでは、川の流れの状態によっては、いつ筏が岸や淵に激突して筏から放り出されるかわからない。まさに筏乗りは命懸けの仕事であったことが理解される。

 

興味深いことに、この志古淵信仰は、水に関わる想像上の動物である河童の伝説とも関わっている。

滋賀県小学校教育研究会国語部会が編集した『読みがたり 滋賀のむかし話』という本のなかに、「しこぶちさん」という昔話が収録されている。要約すると、以下のような内容である。

昔むかし、朽木村に「しこぶちさん」という名の筏師がいた。

山から伐り出した木で筏を組み、息子とともにその筏に乗って安曇川を下って行くと、続が原の日ばさみというところで筏が岩角にぶつかり立往生してしまった。

これは困ったことになったと途方に暮れていると、一緒に筏に乗っていたはずの息子の姿が見当たらないことに気づいた。

川面を見ると、一匹の河童が息子を小脇に抱えて水の中に引き入れようとしているではないか。

驚いたしこぶちさんは持っていた竿で河童を叩き、息子を救い出した。川太郎という名のこの河童は、もう悪さはしませんと言ってすごすごと引き下がっていった。

ところが、しこぶちさんが中野の赤壁というところまで筏を進めていくと、再び筏が大きな淵に当たって動かなくなってしまった。

しこぶちさんが川の中を覗いてみると、先程の河童の川太郎が川底から筏の航行を邪魔しているではないか。

大いに怒ったシコブチさんは、川太郎をこてんぱんに叩きのめした。

ついに観念した川太郎は、もうこれからは筏師には一切手を出しませんと誓い、そのしるしとして、手にしていた杉の枝を逆さにしてしこぶちさんに向かって突き出した。

その杉は、中野のさかさ杉と呼ばれる大きな杉の木になった。

しこぶちさんは河童の川太郎を許し、川太郎はその後、筏師の守り神として安曇川を下る筏が遭難しないように守護したと伝えられている。

 

私が訪れた興聖寺の近くにある志古淵神社は、先に紹介した七シコブチのうちの岩瀬の志子淵神社であった。

旧道に面して志子淵神社と刻まれた古い石柱が自然石の台座の上に建てられている。一部が黒く変色した太くて高い石柱だ。

その奥には一段高くなった場所に石の鳥居が見える。

説明版などは何もない。ここが観光の対象ではなく村人たちの生きた信仰の場所であることを物語っているのだろう。

不思議なことに社殿は鳥居を潜った正面にではなく、左に直角に曲がった場所に鎮座ましましている。

社殿は、鳥居が建つ広場よりもさらに一段高くなった場所に築かれていて、背後には鎮守の杜が厳かに控えているのが見える。神社がある一帯は民家が建ち並んでいる旧街道の一角なので、周囲で木々があるのはこの鎮守の杜だけだ。厳かな気配が漂っているのは背後のこの杜のせいかもしれない。

積年の風雪による損傷から保護するためなのだろうか、石垣の上に石柱が張り巡らされた敷地の中に建つ社殿には覆い屋が掛けられていて、それがかえって神々しさを増幅させているようにも思われる。

覆い屋は、主殿の左右に従えている末社をも覆い、非常に複雑な構造を成している。けっして豪華なものではなく、しかも社殿もだが覆い屋自体もかなりの年輪を感じさせる古いものであり、今にも朽ち果てそうな佇まいがある。

神寂びたという言葉がいかにも似つかわしい趣のある神社だった。

今回私は、七シコブチと言われる志古淵神社のうちの一社を訪れただけであるが、残りの六社についてもいつか詣でてみたいと思った。それぞれに特徴をもった不思議な神社であるに違いない。

杣、筏、そして志古淵神社。朽木という土地のことを考えるときに欠かすことのできないそれぞれに関連しあっているキーワードを、私は改めて頭の中で整理してみた。

すべては、木にまつわるものである。

朽木という土地が、昔からいかに木と密接な関係のうえに成り立っている土地であったかということを強く考えた。