高島篇 朽木 その1 朽木街道 (祝 高島 & 長浜 観光締結)

旅のはじめに

 

平成24年(2012)12月に『湖北残照 文化篇』を上梓した。

その後、まだ本にはなっていないが、『湖北残照 拾遺』を書き上げた。これで『湖北残照』としては、「歴史篇」「文化篇」「拾遺」の三部作が完成した。もういいだろう。新境地を求めて他の地域についても書いてみたい。

「拾遺」を書き終えた時にはそう思っていた。

ところが、「湖北」には、まだ広大な地域が手つかずのまま残されていた。高島地区である。

一般に「湖北」と言うと、琵琶湖の北東の地域のことを言う。具体的な市町村名で言えば、長浜市が該当するだろう。

ところが、琵琶湖の北西の地区はなぜか「湖北」とは呼ばれないが、同じ琵琶湖の「北の方」であることに変わりがないという事実に、ある日ふと心が留まった。

地元の方は「湖北」と呼ばないかもしれないが、他所者である私にとっては、湖の北東も北西も湖の北の方という意味において「湖北」であることに変わりはないと思ったのだ。

関東の人間にとって、琵琶湖の玄関口は東海道新幹線の米原駅になる。ここを起点に考えると、湖の向こう側に位置する高島市は交通の便として最も行きにくい場所にある。それが今まで私が高島市に足を踏み入れたことがなかった最大の理由でもあった。

今回は縁あって、京都駅から出発する高島市の日本遺産*を巡るバスツアーに参加することになった。

この際、私にとってのもう一つの湖北をじっくりと見て体感しておきたい。私はわくわくする思いで、京都駅南口の集合場所に向かった。

琵琶湖を、いつも見るのとは反対側から見るということにも興味があった。長浜方面から見ると夕方の太陽が琵琶湖に沈んでいくのだが、反対側の高島方面からは朝日となって昇ってくる。

長浜とは対照的な世界がそこには拡がっているのだ。

高島から見た長浜は、どのように見えるのか?私の興味はどんどん大きく膨らんでいった。この旅を最初の一歩として、高島の魅力を味わっていきたい。そんな想いから、私は『湖北残照』高島篇を書いてみることにした。

そんなことで、まだまだ私は「湖北」から卒業できないでいる。

*日本遺産とは、以下のように定義されている(高島市作成のパンフレットより転記)。

地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として文化庁が認定するものである。

ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。

 

平成28年現在で37件の日本遺産が指定されているが、そのうちの1件として「琵琶湖とその水辺空間-祈りと暮らしの水空間」というストーリーで、大津市、彦根市、近江八幡市、高島市、東近江市、米原市、長浜市の7市が指定を受けている。

 

 

 

朽木 その1

朽木街道

歴史好きには、「朽木」と聞くと織田信長のことを思い浮かべる人が多いのではないだろうか?

元亀元年(1570)4月27日、越前・朝倉氏を攻めるために信長が敦賀の金ヶ崎を攻略していた時のことだった。

突然、北近江の浅井氏が信長の退路を断つ形で背後から攻撃を仕掛けようとしているという報告がもたらされた。

「そんな馬鹿なことはない。」

信長は最初、その報告を誤報と決めつけて取り合わなかったという。

なぜならば、織田家と浅井家とは同盟関係を結んでおり、浅井家当主長政の許には信長の妹であるお市の方が嫁入りをしていたからである。

長政とお市とは夫婦仲がよく、二人の間にはすでに茶々と呼ばれる長女が誕生していた。次女の初も元亀元年の生まれであるから、この時すでに誕生していたか少なくともお市の方のお腹の中にはいたはずである。

固く結ばれた織田家と浅井家とのことを考えれば、長政が信長に反旗を翻すことなど考えられない。信長が最初の報に接して信じなかったのも宜(むべ)なるかな、である。

ところが、その報告は誤報ではなかった。

次々と信長の許に寄せられてくる続報に接した信長は、長政の攻撃を信じないわけにはいかなかった。

前方には朝倉氏が、そして後方には浅井氏が迫ってきているとなれば、まさに信長は袋の鼠だった。

即座に退却を決断した信長は、金ヶ崎から琵琶湖西岸の朽木を通って命からがら京へと逃げ帰ったのであった。

世に言う「金ヶ崎の退き口」である。

信長の人生において最大の危機だったと言われるこの時の逃走劇において重要な役割を演じたのが、一人は殿(しんがり)を務めた木下藤吉郎であり、そしてもう一人が朽木の領主であった朽木元網である。

朽木氏は、近江佐々木源氏の流れを汲む高島氏の支族である。

鎌倉時代初期に近江守に任じられていた佐々木信綱の4人の子が信綱の死後に領地を分割して与えられ、長男の重綱が大原氏、次男の高信が高島氏、三男の泰綱が六角氏、四男の氏信が京極氏をそれぞれ名乗った。

その高島高信の次男頼綱の代に、近江国高島郡を領有する高島氏から朽木谷の地を領地として拝領し、朽木氏と名乗ったのが始まりである。

信長の時代の朽木氏の当主が元網であった。

何としても生き延びて京に辿り着きたい信長は、朽木谷に沿って走る朽木街道を通って京に逃げ帰る道を選択した。

この道は、今ではいわゆる「鯖街道」と呼ばれる若狭と京都とを結ぶ重要な街道となっている。安曇川の流れに沿い山中を通る道である。

この朽木街道のほぼ中心に位置している朽木を領有していたのが、朽木元網であった。

朽木街道を通って京に戻るためには、朽木を通らないわけにはいかない。しかし朽木元網は信長の領内通過を許容してくれるかどうかわからない。

信長は、同行していた弾正松永久秀を交渉役として元綱の許に遣わした。

その間信長は、朽木の領内に入る手前の岩陰に隠れて久秀からの朗報を待っていたと言われている。

その信長が隠れていたという岩が「信長の隠れ岩」として今も残されている。多少のニュアンスの違いはあるが簡潔にまとめられているので、近くに設置された説明版の内容を以下に書き写してみた。

 

戦国武将・織田信長は元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討伐するために敦賀

へ侵攻していましたが、妹婿であった浅井長政が裏切ったとの情報を得て急きょ撤退を

決意、同日30日に京都へ引き返します。その退路として通ったのが今津町保坂から大津

市葛川へ抜ける裏ルート「朽木越え」でした。

信長が来ることを知った当地の領主・朽木元網は、甲冑姿で出迎えようとしました。

この武装姿に驚いた信長は、同行の松永久秀と森三左衛門(可成)に元網の真意を確か

めに行かせます。

そして元綱に敵意がないことを確認するまで、ここ三ツ岩の石窟に身をひそめて待機

したと伝えられています。

平服に着替えた元網は、信長を下市場の圓満堂(えんまんどう)でもてなした後、朽木城に宿泊させ、

翌日京都までの警備役も務めました。

(圓満堂跡はここから南へ1キロの下市場の集落内にあります)

~朽木・群・ひとネットワーク 朽木地域まちづくり委員会~

 

元網は、永禄9年(1566)に浅井長政に攻め込まれて降伏し、一時長政の勢力圏に組み込まれていたことがある。その後、隷属関係は解消となっているものの、果たして信長にすんなり領内通過を許すかどうかはわからない。

信長の大きな賭けだった。

交渉役として派遣された松永久秀が元網相手にどのような交渉を行ったかは、わからない。しかし久秀もここで元網を説き伏せられなければ信長同様命がない状況にあったので、必死の交渉が行われたであろうことは想像に難くない。

交渉上手であった久秀が信長の陣中に居合わせていたことは、信長に幸いした。

後に信長に背き壮絶な死を遂げる久秀であったが、この時は命懸けで元網を口説き、信長の命と自らの命とを救った。

信長にとっても大きな賭けだったが、元綱にとっても突然訪れた大きな試練だったに違いない。

信長の将来性と浅井・朝倉連合軍の可能性とを短時間のうちに秤にかけて、元網は信長の将来性を採ったということなのだろう。

一歩間違えば自らの地位や命をも危うくする局面で元網が選んだ選択肢は、信長に味方することだったのである。

信長が命からがら京に辿り着いたのは、3日後の4月30日であったと伝えられている。

 

その時に信長が辿った道を、私は反対に京都からバスで辿っている。

雑踏の朝の京都の街を抜け出し、出町柳で二手に岐(わか)れる鴨川を右側の高野川に沿って北へと進んでいく。

今年の紅葉は例年より早くてすでに大方は散ってしまっていたけれど、沿道のところどころにはまだ名残りの紅い葉がちらりと望まれる。

朽木への道は、途中までは大原へ行く道と同じである。大原までは何度か来たことがあるので、なんとなく見覚えのある風景を辿っていく。

その大原を過ぎると、景色が一段と山深くなってきた。道が峠を越えると、そこが京都府と滋賀県との県境になっていて、バスは滋賀県大津市へと入っていった。

大津市と言うと琵琶湖南端の湖に面した平坦な土地を想像するけれど、実は市域が非常に広くて、おおよそ琵琶湖西岸の南半分は山側まで含めて大津市の行政区分になっている。ちなみに琵琶湖西岸の北半分が高島市となる。

バスは安曇川上流の流れに沿ってそのままずっと北へと山中を進んでいく。かの信長は、どこまで南下して来たところで自らの生還を確信したのだろうか?などと考えながら、私は車窓の景色を眺めた。

いつしかバスは大津市から高島市へと入っていった。

 

興聖寺

 

この旅の私たちの最初の立ち寄り地は、興聖寺であった。

京都から1時間あまり、山道をバスに揺られながらの道中だった。

あいにくの曇り空で今にも降り出しそうな晩秋の空の下、バスを降りた私たち一行は、目の前にある小高い山へと登っていく坂道を歩き始めた。

駐車場の辺りには何もなく殺風景な景色だったので、こんなところにお寺なんてあるのだろうか?そんな思いを抱きながら登っていったのだが、意外にもそれほど登らないうちにすぐ、私たちは興聖寺の入口に立つことができた。

そこには、低いが重厚な石垣が築かれていて、まるで坂本や湖東三山にある寺々のような趣を呈している。

いつの頃に造られた石垣かはわからないが、野面積みの苔むした佇まいに時の流れを感じる。


興聖寺は、朽木の領主であった佐々木信綱が承久の乱で戦死した一族の供養を行うために、兼ねてから深く帰依していた道元禅師を招いて建立した曹洞宗の寺である。

朽木の地形が、道元の住持していた宇治の興聖寺の地形と似ていたことから、道元が自ら興聖寺と命名したと伝えられている。

その後、享禄元年(1528)から3年間、室町幕府第12代将軍足利義晴が、細川晴元、三好元長らの反乱から逃れるために当時の朽木氏当主であった朽木稙綱(たねつな)を頼って興聖寺に滞在したことが、この寺を一躍有名にしている。

この期間、言わば室町幕府はここ朽木にあったとの説を唱える学者もいて、彼らは朽木幕府なる言葉を世に送り出した。

こんな山の中に3年間も室町幕府の将軍が住んでいたなんてとても不思議な感じがするけれど、政権基盤が弱かった足利氏の歴代将軍は、しばしば京を抜け出して似たような山中に籠っている。

以前、『湖北残照』歴史篇のなかの観音寺城の章で紹介した桑実寺も、まさにその一つであった。この観音寺城のすぐ間近にある桑実寺に逃げ込んだのも、足利義晴であった。

義晴は桑実寺にも3年間滞在していたそうだから、25年間に及ぶ将軍在位期間の約4分の1にあたる6年間は京を離れて山中に逃げていたことになる。

義晴の子で第13代将軍である足利義輝もまた、家臣の細川幽斎(藤孝)を従えて6年半ここ朽木に滞在したと言う。

室町幕府の将軍家である足利氏は、何とも不思議な将軍である。将軍がこのような体では、国が乱れて戦乱の世となるのも頷ける。

 

朽木に滞在する将軍足利義晴のために、稙綱は「岩神館」と呼ばれる館をこの地に建てた。眼下に安曇川を望み、朽木街道が一望のもとに見渡せる絶好の立地である。

館とあるけれど、むしろ砦であったと考えた方がいいだろう。

側面と背後にあたる南側と西側にはそれぞれ29mと56mの土塁が築かれ、その外側には空堀が設えられている。

西側の土塁は、今でもほぼ完全な形で遺っている。

こうして見てみると、岩神館は非常に堅固な造りの「館」であったことがわかる。

現在の本堂の南側に位置するこの岩神館が建てられていた場所は、今では興聖寺の墓地となっている。将軍が居住していた館跡が墓地になっているというのは、私には非常に不思議な気がする。

それはともかくとして、心ならずして朽木の山中に逃げ込んだ足利将軍義晴の塞いだ心を慰めるためにと、佐々木一族のほか京極高秀、浅井亮政(すけまさ)、朝倉孝景ら近隣の有力大名が協力して造営したと言われているのが、ここ興聖寺の庭園である。

作庭は管領細川高国と言われている。

高国は、京の慈照寺(銀閣)の庭を参考にしながら、朽木の地形を巧みに活かした名庭を造り上げた。


残念ながら、紅葉の季節にはほんの少しだけ遅かった。

それでも、枝に残った紅葉や緑の苔の上に落ちた真っ赤な楓の葉を見ているだけで相当に風情があり美しい景色であるので、紅葉真っ盛りの時に訪れていたなら、さぞかし感動的だったに違いない。

庭園は、池に鶴島と亀島を浮かべた蓬莱式の回遊庭園である。

江戸時代の大名庭園のような計算され洗練された美しさというよりは、素朴で原初的なおおらかさが心地よい庭と言ったらいいのだろうか。

大ぶりの庭石がさりげなく随所に配置されていて、どの角度から眺めてみても妙に心が落ち着く素適な庭である。

小高い山の上にあるから、庭の向こうには安曇川の流れと比良山系の山々の連なりとが借景となって風景に取り込まれている。

池に渡された2本の石の橋を渡りながら庭を巡っていると、心が穏やかに落ち着いてくる。敵に追われて逃げてばかりいた足利の将軍様も、この庭を眺めている時ばかりは浮世の憂さを忘れて心を和ませたことだろう。

 

興聖寺には美しい庭園のほかに、本尊である重要文化財の釈迦如来坐像と楠正成の念持仏と伝えられている不動明王坐像などが安置されている。

釈迦如来坐像は、平安後期に後一条天皇の皇子が幼少にして亡くなられた際に、天皇の叔父にあたる藤原頼通がその供養として三仏を彫らせたうちの一体であると伝えられている。

桧の寄木造りで、作者は不明ながら宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像を造った定朝の様式をよく顕している柔和なお顔の仏像である。

平等院を建立したのが頼通であり、その頼通に縁(ゆかり)のある仏像であることを考えると、定朝の流れを汲む一流の仏師の作である可能性が高いのではないか。宇治とは元々、寺の創建時から深い関係にある。

不動明王は、朽木時経が北条高時の命により千早城の楠正成を攻めた時に、戦火に遭い焼失せんとするところを持ち帰ったものと伝えられている。

いかにも正成の念持仏らしく精悍な顔つきで、時経が思わず火中から救い出したのも頷ける迫力ある不動明王である。

この不動明王は、「縛り不動明王」と呼ばれている。

昔、盗人がこの不動明王を盗み出そうとしたところ、金縛りに遭って動けなくなったとの言い伝えがあるところからいつしか縛り不動明王と呼ばれるようになったのだそうだ。

住職が寺の歴史や庭の見どころなどをわかりやすく説明してくれるのを聞きながら、私は改めて、朽木における朽木氏の歴史と役割りとを想った。

朽木の歴史は、朽木氏の歴史であるのだ。