井伊直弼生誕200年によせて 将軍継嗣問題

井伊直弼生誕200年によせて

 

 

将軍継嗣問題

 

時は経過して、直弼は彦根藩の第十五代藩主に就任した。

先々代藩主であった井伊直中の十四男だった直弼がどうして彦根藩の藩主になることができたのか?

そこには数々の幸運が作用した。

十三人いた兄たちは、あるいは他の大名家の養子となり、あるいは家臣の家に養われ、あるいは早世したりしていた。

直中の跡は三男の直亮(なおあき)が継いだが、直亮には子がなかった。直亮は直中の十一男である直元を世子としたもののその直元にも子がなく、直元は子がないままに若くして亡くなってしまった。

その時点で井伊家に残っていた直中の嫡男で最年長だったのが直弼だったのである。

奇跡が起こった。

弘化3年(1846)1月に直元が37歳で亡くなると、藩主直亮は直弼を世子として幕府に申請した。直弼32歳のときである。

江戸へ呼び寄せられた直弼は、15年間住み続けた埋木舎を後にして、慌ただしく江戸に向かった。

井伊直弼

世子時代の直弼が住んだ彦根藩中屋敷跡(現ホテルニューオータニ)

 

世子となった後も、養父である直亮との間で直弼はつらい目に遭う。

詳細はここでは触れないが、直弼は事ある度に直亮から辛く当たられ、意地の悪い仕打ちを受けた。直中から彦根藩主の地位を譲られてから34年が経過しており、直亮は独裁的で気難しい藩主だったようである。

当然のことながら、江戸城内における幕閣からの評判もよくなかった。

そこへ、常識的センスを持った苦労人の直弼が国許に帰った直亮の名代として政治に参加したために、彦根藩の江戸城における名声は復活した。

そういう噂も彦根にいる直亮にもたらされていたのだろう。独裁政治にどっぷりと浸かっていた直亮にとっては、おもしろくなかったに違いない。

しかしそんな忍耐の時代も嘉永3年(1850)10月1日の直亮の死によってついに終焉を迎えた。

直弼は晴れて彦根藩の藩主となったのであった。

彦根城

彦根城天守

 

 

彦根藩の藩主になっただけでも奇跡であったのに、さらにその8年後の安政5年(1858)4月23日、直弼は将軍家定から大老就任の命を受けた。

大老とは老中の上に位置する臨時の職で、実質的な幕府の最高責任者である。臨時職ではないが、今で言えばさしあたって内閣総理大臣にあたる権力を手にしたと言ってもあながち間違いではないだろう。

ではなぜ、直弼は大老にまで昇り詰められたのか?

一つには、井伊家が大老に就任できる家柄であったことが挙げられる。大老になれる家は、井伊家のほか酒井家、土井家、堀田家の4家に限定されていた。直弼が井伊家に生まれたというのも、何かの星の巡り合わせだったのかもしれない。

それともう一つの理由は、当時の緊迫した社会情勢にあった。

嘉永6年(1853)に突然浦賀沖に姿を現した4隻の黒船は、日本を混乱の渦に巻き込んでいた。一旦は日米和親条約の締結(嘉永7年(1854))で急場をしのいだ幕府であったが、その後、アメリカ総領事のハリスから日米修好通商条約の締結を強く働きかけられ、開国か鎖国かで日本の世論を二分する大きな政治問題となっていた。

直弼が大老に就任した時期とは、そんな時期だったのである。

 

よこはま

日米和親条約調印の碑(横浜)

 

 

いよいよ、この章の本題に入る。

大老に就任した時点で、直弼は2つの喫緊の課題に直面していた。

一つは将軍継嗣問題であり、もう一つは今書いた日米修好通商条約締結問題である。

直弼はほとんど解決不可能とも思われたこの難題を、就任後僅か2ヶ月で二つとも解決してしまったのだ。

何という辣腕だろうか。

ただし、どちらも日本の世論を二分する大問題でありかつ難題である。解決にあたっては様々なドラマがあった。

まずはこの章で、将軍継嗣問題について詳らかに見ていくこととしたい。

 

事の発端は、第十三代将軍家定が病弱で子がなかったことに起因する。

家定というのは、NHKの大河ドラマで有名になったあの篤姫の旦那さんである。

病弱なうえに、奇行も目立っていたらしい。

徳川将軍家には、時たまそういう将軍が出る。

どうしてもっとまともな人物を将軍にしないのかと言うと、それが家康以来の将軍継嗣ルールであるからなのだ。

二代将軍秀忠と正室江との間には、長男の家光と次男の忠長という二人の男子がいた。

将としての器は次男の忠長の方が断然上で、秀忠も江も家光より忠長を溺愛していた。

当然次の三代将軍は忠長であると誰もが思っていたところに、家康は三代将軍に家光を指名した。

なぜだろうか?

家光の乳母であった春日局が政治的手腕を駆使して家康に工作したからだと言われているが、私はそうは思わない。

家康は、春日局の工作によってではなく、徳川幕府が末長く続くための最良の方策として家光を三代将軍に指名したのだと考えている。

跡目を巡って兄弟や一族が骨肉の争いを繰り展げるということは、古の世から度々行われてきたことである。

徳川の世でそのようなことが起これば、虎視眈々と好機到来を待ち構えている他の有力大名たちに、たちまちにして政権を奪われてしまうに違いない。

そうならないように、家康は暗黙のうちに将軍継嗣のルールを示したのだ。

それは、長子相続のルールである。長幼が大事であって、人物の出来不出来は不問としたところが、家康の凄いところだ。

人物本位で、候補者のなかから最も賢い人物を将軍に選ぶというのは、一見合理的な選択方法のように思える。

しかし、賢いかどうかの判断は人の主観によるものであって、必ずしも評価が一定にはならない。そうなると政治的な思惑や個々人の利害関係が複雑に絡み合ってきて争いとなること必定である。

長子相続を基本とし、長子がいない場合でも血縁の近さで次期将軍を決めるのであれば、客観的な基準であるから意見の分かれようがない。

家康はこのような深謀遠慮から、将軍継嗣ルールを長子相続と定めたものと考える。

仮に血筋により暗愚な人物が将軍になったとしても、老中などの幕閣が将軍を支える体制が構築されていて、完璧なバックアップが可能なようになっていた。

ところが幕末も近くなって、このルールに横槍を通そうとする一派が現れた。水戸藩である。

当時の水戸藩主であった徳川斉昭は、直弼とは犬猿の仲、水と油の存在だった。事あるごとに直弼と対立してきたが、今回の場合も次期将軍継嗣を巡って直弼と斉昭とは真っ向から対立した。

斉昭は、実子で一橋家に養子に出している一橋慶喜こそが次期将軍にふさわしいとして、賛同者を集めて強力に下工作を行っていた。

慶喜は若い時から聡明との評判が高い人物であり、ペリー来航という未曽有の国難に面している今こそ、真に将軍たるにふさわしい器の人物が将軍となり、率先して国政にあたるべきとの論拠である。

一方で、斉昭の心中には我が子を将軍に据えて自身が将軍の父として実権を掌握したいとの野心が見え隠れしていて、文字面だけでは捉えられない危険が内在されていた。

この慶喜派には、斉昭のほか、福井藩主の松平慶永や薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城、土佐藩主の山内豊信などが名を連ねていた。後に幕末の名君として数えられている藩主ばかりである。

直弼は、本来の将軍継嗣ルールに則り血筋が一番近い紀州の徳川慶福(よしとみ)が次期将軍に就くべきと思っていたが、最終的には現将軍である家定の意思が一番重要だと考えていた。

直弼にとって幸いなことに、日頃から威圧的で横暴な言動が目立っていた徳川斉昭は、大奥で大いに嫌われていた。

もしも斉昭の息子の慶喜が将軍になろうものなら私は自害する、と生母の本寿院が家定に直訴したとも伝えられていて、家定は紀州の徳川慶福を次期将軍とする旨の意思を密かに直弼に示したとされている。

家定の意思に沿い、かつ、血筋も家定に近い徳川慶福が次期将軍として定められたのは、極めて幕府の秩序に則った妥当な結論だったのである。

ちなみに、徳川慶福は当時まだ13歳の若さではあったが、幸いにして暗愚ではなかった。将軍に就任した後、難局に当たって積極的に政治に携わり、日本の行く末をリードした。

政略結婚により朝廷から和宮を迎え入れたけれど、二人は心から尊敬しあい、仲睦まじい夫婦であったと伝えられている。

徳川慶福を次期将軍に決定し諸大名に告知したのが安政5年6月25日で、将軍家定が亡くなったのが7月6日だったから、まさに間一髪のタイミングでの決断だったことがわかる。

増上寺

14代将軍徳川家茂墓(増上寺)