14.古橋(敗者・石田三成の最期を追う)

14.古橋(敗者・石田三成の最期を追う)

ずいぶんと多くの紙面を割いて石田三成の生涯を追ってきてしまった。こんなに長くなるとは私自身も思っていなかった。調べて行くうちに、あるいは三成の足跡を追って旧跡を訪ねていくうちに、いつしか三成の魅力に惹き込まれていったというのが正直な私の心情である。最後に三成の最期について触れて、総括としたい。

 関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の麓を経由して、最後は単身で母方の故郷である木之本の古橋に向かった。樵(きこり)の姿に身をやつし、木の実などを食べながらの悲惨な逃亡だったという。茶畑で動けなくなっているところを地元の住人に助けられたりしながらの苦行であった。

 そこまでして三成が「生」に拘ったのはなぜだったのだろうか?

 武運なく、志空しくして戦いに敗れた侍大将は、潔く自らの命を絶つのが当時の慣行ではなかったのか。敗戦後の戦国武将として三成が取った行動は、極めて稀な行動であったと言わざるを得ない。

 前著『井伊直弼と黒船物語』でその生涯を見てきた井伊直弼の最期の潔さと比べたら、まさに正反対の行動である。同じ湖北の地に輩出し、共に湖北の地を代表する人物でありながら、その対照性が非常に顕著であることが興味深い。

歴史に仮という言葉はあり得ないけれど、もしも井伊直弼が石田三成の立場であったならどうしていただろうか?直弼は間違いなく、関ヶ原の地において自決していたであろうと私は思う。

目を覆わんばかりの往生際の悪さである。

でも私は、三成の気持ちがわからないでもない。

彼の発想は、私たちのような現代の人間の発想と同じなのではないかと思う。命をけっして粗末にしない。潔さが正義なのではなく、命を軽く扱うことが美徳でもない。たとえ僅かであっても可能性があるのであれば、無駄に命を捨てることなく、最後の最後まで望みを諦めない。

 生き恥を去らすことはみっともないことではあるけれど、大望のためであれば敢えて甘受する強い精神力。自らの名誉のためであったら、三成は関ヶ原において自決していただろうと私は思う。

 自分の命への執着ではなくて、世の中を変えていきたい、変えなければならないという強い使命感。敢えて三成が選択した道は、むしろ茨の道であった。

散り残る紅葉は ことにいとおしき

 秋の名残は こればかりぞと

 あらためて、三成が詠んだ「残紅葉」の歌を思い出した。

先に私はこの歌を、三成の生への執念と書いた。三成生誕の地で見た時にはそう思えたこの凄まじい歌だが、三成の最期に及んで再びこの歌について考えてみると、また違った意味合いに見えてくるような気がする。

最後の一枚となって散り残っている真っ赤な紅葉の葉は、三成の命そのものではない。秋の陽光を浴びて輝く赤い紅葉の葉は、豊臣時代に三成が築こうとした新しい世の中への希望の光だったのではないだろうか?

理想の社会を創ることを目指して日々戦いだった三成の人生。やがて最後の一枚の葉が、静かに音もなく散っていく……。

 三成は、徳川方の武将である田中吉政の手の者によって捕らわれた。吉政は、三成と同じ湖北地方(浅井郡宮部村・三川村)の出身者で、三成とは旧知の間柄であった。土地勘もあり、三成の行動を正確に予測しえた唯一の人物であったに違いない。

捕縛時の正確な状況は、諸説があってわからない。

古橋は、母方の故郷である。若き日に三成自身が法華寺三珠院にて修行を行っていた土地であったかもしれない。三成を守り匿おうとした人々が多数いた一方で、吉政に情報を密告した人間がいたということであろう。

 三成が隠れ潜んでいたと言われている洞窟がある。

 「大蛇(おとち)の洞穴」と呼ばれている洞窟が、それだ。己高庵から急峻な山道を1時間も歩かないと辿り着くことができないのだそうだ。冬場は深い雪に埋もれていて、近づくことさえままならないという深い山あいのなかにある。

 途中の道が険しくて、また自力での洞窟内への出入は困難だとも聞かされて、私は洞窟を訪ねることを躊躇せざるを得なかった。内部には夥しい数の蝙蝠(こうもり)が棲息しているとも言われている。

 どうしたものかと思案していたところに、地元の人たちが案内をしてくれるというツアーが企画されていることを知った。長浜市・彦根市・東近江市の旅行業協会の若手会員と行政とがタイアップして立ち上げた「近江屋ツアーセンター」のツアーである。

私にとっては、渡りに船だった。

雪が融けるのを待って、私は大蛇の洞穴を巡るツアーに参加した。独力で訪れることが極めて難しい歴史的な旧跡を、確かな知識と経験を持つ地元の有識者に案内してもらえる企画は、実にありがたい。

いくら昨今の石田三成ブームとは言え、こんな辺境の地を自分の足で訪ねゆくツアーなんて、よほどの暇人かオタクでない限りは参加しないのではないかと思っていたのだが、意外と多くの参加者がいることにまずは驚いた。

前日まで降り続いた雨で、催行が直前まで決まらなかった。連日の雪や雨により洞窟までの山道がぬかるみと化していると言うのだ。それでも私は行きたかった。このチャンスを逃したら次はいつ行けるかわからないので、たとえ泥まみれになろうとも、私はどうしてもこの機会に大蛇の洞穴に行きたかった。

私の祈りが通じたのか前日までの雨が上がって、青空が顔を覗かせる天気となった。米原駅で集合した私たちは、バスでまっすぐに木之本町古橋に向かった。古橋は、三成の母方の故郷であることは、先に書いた。

己(こ)高庵(こうあん)でバスを降りた私たち一行は、現地ガイドを務めてくれるボランティアの方と一緒に、大蛇の洞穴に向かった。

ここ古橋は、「近江のまほろば」と呼ばれているのだそうだ。

案内板によると、「まほろば」とはすぐれたよい場所を示す「マホラ」という言葉から来ていて、山や丘に囲まれた中央部のすぐれた良い所の意だそうだ。マホラな場所がマホラ場であり、転化して「まほろば」となった。

そう言われてみるとたしかに、己高庵がある場所は三方を山に囲まれ南側に開けた平地の中央にあり、しっとりと心が落ち着く風景である。古くから大陸文化が伝来した場所のようだ。石器時代の遺跡が出土し、6世紀末から7世紀前半にかけて鉄を生産した痕跡を残す遺跡が確認されている。奈良時代には多くの寺院が建立され、平安期にかけて全盛期を迎えた鶏足寺、飯福寺、法華寺など仏教文化の中心地でもあった。

これらの寺々のことは、いずれこの作品の中で書くことになるであろうから、ここでの紹介はこのくらいにして、歩を先に進めることにしたい。

大蛇の洞穴までの道程の前半は、緩やかな登り坂が続く林道である。

洞窟への登り道  洞窟への登り道

険しい道を行くと聞いていたのでやや拍子抜けの感じだったが、美しい規則性をもって左右に立ち並ぶ杉の木立を見上げ、時折山肌から流れ落ちてくる清水の清らかな流れに見入り、右手に流れる谷川のせせらぎの音に耳を傾ける。

清らかな水の流れ 清らかな水の流れ

三成が隠れていた洞窟を訪ねるという目的を抜きにして単に風景を楽しむための山歩きとして考えても、心が休まる楽しい散策のひとときとなること間違いない。

常に水の存在を五感に感じながら歩いて行く風景は、なぜか心がしっとりと落ち着く。白い水飛沫(みずしぶき)を盛んに上げながら流れていく谷川の水を見ていると、心までもが洗われるように爽やかな気持ちに包まれてくる。

道端にはショウジョウバカマがピンク色の可憐な花を付けそこここに咲いている。羊歯(しだ)の緑が水に濡れて瑞々(みずみず)しく輝いて見える。こんな気持ちのいい散歩道を歩いていることが、私にはたまらなく爽快に思えた。

ショウジョウバカマ ショウジョウバカマ

30分近く歩いただろうか?私たちは道の左手に設置された1枚の案内板の前で立ち止まった。「大蛇(おとち)(おろち~オトチ)の岩窟と石灰工場跡」と書かれた案内板である。せっかくなので全文を引用することにする。

  関ヶ原の合戦に敗れた西軍の将石田三成は少年時代の師を訪ねて法華寺三珠院へ逃れ

来て、旧知の友人余次郎によって一時匿われたと伝えられるオトチの岩窟である。(現在

一部の岩が崩れ土砂が入り込んでいるが、かつては二五㎡前後の岩窟であった)標高約

四百米の岩窟まで約二㎞あるが、その手前は石灰岩地帯であり、江戸時代末期から明治

中期まで石灰岩を焼いた高さ三~四㍍の焼き窯三基が残っている。またすぐ近くには近

年まで風穴があって地下遠く水の流れる音と共に冷風が吹き上げていたが、現在は危険

防止のため入口を砕石、土砂なので閉鎖している。

 いよいよここからが本格的な山登りの始まりである。

 いきなり急角度となった狭い山道に面食らう。右下に谷川の流れを見下ろしながら、必死の思いで私たちは坂道を登って行った。幸いにして道はぬかるんではおらず、昨日までの雨の影響はほとんど感じられない。

 三成が洞窟に隠れていた間、村の人たちはこの道を通って三成に食料を送り届けたという。一往復するだけでも苦しい山道を、わざわざ三成のために何度も往復したのだろう。三成に対する村人たちの尊敬と愛情が痛いほど胸に伝わってくる。

 途中、地面に30㎝程度の地面が削り取られたような穴があった。ガイドさんの話によると、イノシシの足跡だそうだ。私たちはけもの道のようなところを歩いているということなのだと納得した。

 しばらく進むと、明らかに人工の工作物である石垣が積まれた広場に出た。ここが、先程の案内板にあった石灰岩の加工場跡なのあろう。野面積みの石垣は苔むして、崩れかけているものも多い。長い年月の間に訪れる人も稀となり、次第に風化し滅びていく過程の光景を見る思いがした。

この辺り一帯の岩は石灰岩でできているため、全体的に白っぽい灰色の石が目立つ。石灰岩は水に溶けやすいから、長い年月をかけて少しずつ岩が融けて空間が拡がっていく。大蛇の洞穴と呼ばれる洞窟も、きっとそのような成り立ちでできた地中の空間なのではないか。

石灰岩の加工場を過ぎると、道は再び急角度の登り坂となる。

洞窟への登り道2 洞窟への登り道 

途中、どこから湧き出たものか水でぬかるみ、大いに登るのに難儀した箇所が一ヶ所だけあった。しかし三成もこの道を通ったのであろうと思うと、いとおしさのみが先に立ち、一刻も早く洞窟を見たい一心から、私は構わずに道を急いだ。

この山の一部は、今日私たちを大蛇の洞穴まで案内してくれているボランティアガイドさんの所有地だと聞いて驚いた。山頂と二つの谷とで囲まれた三角形の面積を一人の持ち分として、複数の所有者で山を共有しているのだそうだ。

子供のころから慣れ親しんできた山をとても慈しみ、まるで我が子を見るような眼差しで木々を見ている姿がとても印象的だった。私にとってはただ険しいだけの、単なる通り道でしかないこの山道が、彼にとっては木の一本一本までを識別している自分の庭の一部なのだということを強く感じた。

先程まで右手を流れていた谷川は、いつしか姿を消してしまった。ガイドさんの言によると、おそらくは私たちが立っている地面の下は大きな空洞となっていて、山に降った雨はすぐに沁み込んでその空間に集められ、それが山の中腹から谷川となって流れ出ずるのだろうということだった。

滑ったり転びかけたりしながら登って来た山も、次第に上の方が見通せるようになってきた。ふと木々の合間から遠くを眺めると、琵琶湖の湖水が平らな湖面を覗かせているのが見えた。随分と高いところまで登って来てしまった。

私たちはやっと目的地である洞窟の入口まで辿り着いた。

傍らの細い木の幹に申し訳程度に「石田三成の隠岩窟」と手書きで書かれた札が括り付けられているのが、唯一の表示である。

三成の洞窟を示す札 三成の岩窟を示す札

登り口の案内板にも書かれていたが、土砂の流入や陥没、それに岩の落石などにより、洞窟の形状そのものは三成が潜んでいた当時とは異なってしまっているらしい。

しかし洞窟は自然のものなのだから、自然の力によって形が変わってしまうことはやむを得ないものと考える。たとえ多少形が変わってしまったとしても、三成が同じこの山道を歩いて登って来て、この洞窟に潜んでいたということに私は限りない感動を覚えている。

洞窟の入口にはいまだに結構な量の残雪が残っている。大きな岩と岩の間から僅かに顔を覗かせている空間から中に入るしかなさそうだ。私は意を決してその僅かな岩と岩とでできた開口部へと降りていった。

洞窟の全景1 岩窟全景 with 残雪

ガイドさんが先に降りて、ロープを据え付けてくれた。まさに命の綱である。その綱を手に握りしめながら、私はうつ伏せで穴に入って行った。

穴の中にはアルミの梯子が据え付けられていて大いに助かったが、一番狭いところは体がかろうじて入るくらいの高さの余裕しかない。お腹を下の岩に摺り付けるくらいにしてやっと、背中が上の岩の天井すれすれを通過するような際どさだった。

恐るおそる洞窟の底に足を着ける。

入口の狭さに比較すると、内部は思ったよりも広かった。20数人は一度に入ったことがあるとの話をガイドさんから聞いて驚いた。中は真っ暗で、ひんやりとして澱んだ空気が頬を刺す。こんなところにあの三成がじっと潜んでいたのかと思うと、いたわしくて気の毒で、涙を禁じ得ない。

ガイドさんが持って来てくれた懐中電灯で中を照らすと、なるほど蝙蝠(こうもり)が寄り集まって天井からぶら下がっているのが見えた。前評判どおりである。今は冬だから冬眠をしているのだそうだ。こんなに至近距離で蝙蝠を見たことはなかったし、私たちが中に入って来たことにより蝙蝠が冬眠から目覚めて洞窟内を飛び回りでもしたらどうしようと思って不安だったが、幸いにして蝙蝠たちは静かに眠り続けてくれていた。

洞窟内のコウモリ 冬眠中のこうもり

日本の国土のなかに、こんな不思議な空間があったということに、私は非常に驚いている。この洞窟の中に隠れている限りは、どうやっても三成は見つかりっこないとしか私には思えなかった。

そんな疑問をガイドさんにぶつけてみると、ガイドさんは大きく首を横に振って次のように答えた。

「三成は、この洞窟で捕えられたのではありません。三成がこの洞窟に隠れていたのはせいぜい3日間ほどのことで、彼は古橋の村に戻ってそこで捕まったのです。」

三成が捕獲された時の様子が実は後世に伝わっていない。それは、古橋の人々が徳川氏からの追求を恐れて、何も文書としての記録を残さなかったか、あるいは残されていた文書類をことごとく廃棄したからではないか、とガイドさんは言う。

肯(むべ)なるかな、である。一村皆殺しなど平気で行われていたような戦国時代の世のことであるから、村の存続のために村民が一致団結して、止むにやまれぬ思いで行ったことではないのだろうか。

文書として残らない村の記憶は、村民の間に口伝で後裔たちに伝えられていった。その過程で記憶間違いも生じたかもしれないし、多少の脚色が加えられて伝わって行ったかもしれない。

様々な異説があって真実が定まらない背景には、そのような村の事情があったのではないかと推測される。

そうであっても、古橋の人たちは終始三成の味方だった。ある意味、命を懸けて三成を匿った。

先程も書いたとおりに、村人たちは洞窟まで30分はかかる険しい山道を、三成のために密かに食事を運び続けたと伝えられている。見つかれば、三成はもちろんのこと、自分の命もない。そんな危険を冒してまでも、村人たちは三成を守り続けたのである。

実際に行ってみるとよくわかるのだが、こんな所に隠れていれば、絶対に見つかるようなことはない洞穴である。いくら土地勘のある田中吉政の家来であっても、自力でこの洞窟を探し当てることはほぼ不可能であるように私には思える。

ではどうして三成は見つかったのだろうか?

この村出身のガイドさんは自信を持って、先程書いたように三成はこの洞窟を出て古橋で捕獲されたと断言した。捕獲された場所もわかっているのだと言う。

三成はこの洞窟にはわずか3日間潜んだ後に古橋に戻り、村人たちに対して三成の存在を田中吉政に伝えるよう指図をしたというのが、古橋の人たちに伝わる三成捕縛時の状況である。

なぜ三成は安全と思われる洞窟を後にしたのだろうか?

一つには、村人たちが三成のことを匿っていたことが徳川方に知れて村全体に類が及ぶことを恐れての行動だったと彼らは言う。

そしてもう一つには、三成の首に懸かっていた莫大な懸賞金のことを聞き及び、匿ってもらったお礼として村の人たちに懸賞金を得させるためであったとも言われている。少なくとも古橋の人たちは今でも、そのように信じている。

すなわち、三成は自らの意思であの洞窟を出て、そして縛についたということが彼らの結論だ。

あれほど崇高な志を掲げ、強い信念を持って逃亡生活を続けてきた三成が、ここまで耐え忍んできた努力を無にするような行為をしたという説を、私はどうしても素直に受け入れることはできない。

処刑場に向かう道で喉の渇きを訴えた際に、差し出された干し柿を見て、胆の毒だからと言って食べなかったという伝説の残る三成である。死の直前まで生きようとしていた男が、簡単に自ら投降したしたという地元の言い伝えを、感覚的に私は受け入れられないでいる。

心情的には、古橋の人々の真心を込めた待遇に深く感じ入っていたであろうことは疑う余地のないことであると思う。これ以上彼らの厚意に甘えてしまって、彼らの立場を貶めてしまってはいけないとの責任を強く感じていたであろうことも想像に難くない。

私の気持ちは、三成が自ら洞窟を出てきたという地元の人たちが信じている説よりは、もう一つの可能性として、村の中に裏切り者がいて田中吉政の手の者に密告したという密告説の方にやや傾いているのだが、いずれにしても正確な史料が残されていない以上は、真実は闇の中ということになってしまう。

それにしても、話には聞いていたけれど、想像していた以上に凄まじい洞窟だった。

辿り着くまでの山中の険しさも想像を遥かに超えていた。洞窟の中に入るのも、まさに命懸けの秘境探検隊になったような気分だった。

このような素敵なツアーを企画してくれた近江屋ツアーセンターと、地元のボランティアガイドを務めてくださったガイドさんには、本当に感謝をしたいと思う。

湖北地方に住んでいても、大蛇の洞穴に行ったことがあるという方はごく少数であると聞いた。このようなツアーを通じて、私と同じような体験をされる方が一人でも多く現れることを願ってやまない。

大蛇の洞穴は、関ヶ原後の三成の行動を語るうえでのいくつかある説のうちの一つの説に過ぎない。しかし実際に大蛇の洞穴を訪れた人なら誰でも、文句なしにこの説を信じるであろうことは請け合いだ。

私はなんとなく少しだけ三成に近付けたような気がして、熱い何かを胸に抱きながら、今度はきつい下り坂となる元来た道を慎重な足取りで降りていった。

洞窟付近では消えていたせせらぎの音がいつの間にか復活して、折しも逆行となる陽光を反射してキラキラと輝いていた。実に長閑で、清々しい山里の風景であった。

9月21日に田中吉政の手の者によって捕縛された三成は、25日に大津に滞陣していた家康のもとに送還された。家康は三成を厚くもてなしたという。単身で捕えられ、すでに籠の鳥となっている三成のことを、家康は何も恐れることはなかった。余裕を持って、あるいは優越感を持って遇したにすぎない。

一歩間違えば、反対の立場に立っていたかもしれないなどとは、微塵も思わなかったに違いない。勝者としての全幅の余裕をもって、家康は三成を扱った。

26日には家康とともに大坂入りをして、大坂、堺、京都の市中を引き回された後、10月1日に三成は京都の六条河原にて処刑された。41歳の波乱に満ちた短い生涯であった。

 勝負は時の運とよく言われる。勝てば官軍という言葉もある。これらの言葉は、関ヶ原の戦いにおける三成のことを想う時、まさにぴったりと当てはまる。三成が勝っていた可能性だって十分にあった。いやむしろ、序盤戦において有利に戦いを運んでいたのは三成の方だった。

 あの寝返りさえなければ、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

 しかし一方で、小早川秀秋をあそこで寝返らせたのも家康の策略であり、家康の実力でもあるのだ。武力で戦うことのみが戦(いくさ)ではない。人の心を捉えること、そういうことも全部ひっくるめて、相手よりも勝(まさ)った者のみが歴史において勝者の称号を与えられる。

信義で動く人間は美しく、策略を弄する人間は汚い。日本人の倫理観であると思う。しかしながら、美しい者が常に勝者となるとは限らないのが、歴史におけるまた一方での真実でもある。誰も小早川秀秋が取った行動を非難することはできない。小早川秀秋にあのような行動を取らせた家康のことも、非難することはできない。

戦いにおいて敗れた男は、ただ歴史の舞台から去っていくのみである。

そして敗れた者の悲しさは、後世に自らの正当性を主張することができないことである。歴史は、真実を記録したものではない。勝者が、勝者の論理のみを記録したものである。今の世のスポーツとは違うので、敗者のことを思いやり、敗者を讃えることなどあり得ない。

むしろ、勝者が自らの正当性を主張するために、敗者を必要以上に悪者扱いするのが世の常である。後世の人たちからの批判や非難を恐れて、勝者は徹底的に敗者を悪人にしたててゆく。

何も知らない後の世を生きる私たちは、記録として残された歴史を真実であると信じ込み、それを常識と思い込む。三成の足跡を追って歩き続けてきた私は今、そういった歴史の恣意性を痛いほどに感じている。

歴史には表と裏の二面性があるものだから、私たちはよくよく慎重にその両面を理解して、自らの判断を下さなければならないのだと思う。

家康によって作られた三成像をまったく否定するつもりはないし、それはそれで間違っていると思うけれど、家康が故意に墨を塗った部分を丹念に消し去っていくと、いつも見ていた絵が、思ってもみなかった別の絵に変わっていくことがわかるだろう。

歴史を探求するということは、そういう作業を根気よく積み重ねていくことなのかもしれない。

湖北における三成を巡る一連の旅で私は、新たな三成像を探し当て、そして三成の魂に触れることができたような気がした。最後に改めて三成の辞世の歌をここに繰り返して、三成の締めくくりとしたい。

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と

ともに消えゆく わが身なりけり