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2010-01
15. 彦根城(井伊直弼の城下町と国宝の天守)
- 2010-01-07 (木)
- 湖北残照
15. 彦根城(井伊直弼の城下町と国宝の天守)
関ヶ原の戦いが終わり、佐和山城が落ち、そして石田三成が処刑された。秀吉亡き後の混乱の世の中は、急速に徳川家康の下に収束されようとしていた。
徳川四天王の一人井伊直政は、関ヶ原の戦いにおける戦功により、石田三成の居城であった佐和山城を賜った。敵方の大将の所領を賜ったのだから、並み居る徳川方の武将たちの中でも最大級の評価を受けたと言って間違いないだろう。
直政は、先陣を任されていた福島正則らの外様大名に戦功を譲ることを潔しとせず、抜け駆けをして先陣の功を得た。本来であれば抜け掛けは軍規を乱す行為であるので反対に処罰の対象となるものだが、福島正則らの外様大名を先鋒に指名したこと自体が、家康の本意ではなかったのであろう。家康の真意を知っていて、敢えて直政は抜け掛けの禁を犯したと考えた方が、恩賞結果と合致する。
さらに直政は、中央突破を図って敗走する島津義弘軍を追走し、佐和山城攻めでも軍監を務めるなど、関ヶ原の戦い全般において第一級の軍功を挙げ、上野国高崎12万石から北近江15万石と上野国3万石の領主となった。
井伊家の石高はその後、大坂の陣などでも加増されて、最終的には35万石の大大名へと成長していくことになる。
直政が佐和山城に入ったのは、慶長6年(1601年)1月であった。しかしながら直政は、島津義弘を追撃する際に銃弾を受け、その傷がもとで翌年2月1日に死去した。わずかに40年の短い生涯であった。
彦根城築城の計画は、直政存命中から練られていたようである。直政自身が三成をひどく嫌っていたこと、三成の記憶を城もろともに消し去る必要があったこと、さらに、秀頼のいる大坂方面への抑えとしてより機能的な城が求められていたことなどがその理由であると考える。
彦根城築城は、慶長9年(1604年)、家康の承認のもとに幕府主導で開始された。
幕府からは6人の公儀奉行が派遣されたほか、近江近国の大名28家および旗本9家が動員され、急ピッチで築城工事が進められていった。発足したばかりの徳川幕府にとっての重要な軍事的戦略プロジェクトの一つだったことが窺える。
2年後の慶長11年(1606年)には早くも天守が完成し、慶長12年頃までには城の主要部分が完成している。大坂冬の陣(慶長19年)、夏の陣(慶長20年)を挟んでさらに工事は続けられて、最終的な完成を見るのは元和8年(1622年)頃であった。
急いで造らなければならなかったことから、彦根城の建造物には他の城などからの転用が目立つ。
重要文化財に指定されている天秤櫓は、長浜城から移築されたと言われている。本丸に向かってさらに進んだところにある太鼓門櫓は、彦根城を築城する以前に彦根山に建立されていた彦根寺の山門を利用したものと伝えられている。国宝に指定されている天守さえも、大津城の天守を転用したとの説がある。
石垣に至っては、佐和山城、長浜城、安土城の石垣の石が使用されていると言う。言ってみれば彦根城は、廃物を利用しての寄せ集めの城である。しかし廃物利用のリサイクルの城だからと言って城の価値が下がるものではない。彦根城はそういった構成要素の過去の来歴を感じさせない、城としての統一感と堅牢性とを兼ね備えている。
第一に、美しい。
高い石垣の上に、白壁の櫓や門などの建造物群が眩(まばゆ)い光を放ちながら聳(そび)えている。天秤櫓に通じる高い橋桁を持つ木製の橋(廊下橋)は、荒々しく野趣に満ちている。そして本丸に鎮座する三層の天守は、小ぢんまりしたなかにも抜群の存在感を示している。千鳥破風と唐破風を巧みに配し、軒端には金の装飾を施した外観は、実にお洒落な佇まいだ。
そこには、計算され尽くした美の意識が息づいている。
短い工期を余儀なくされ、材料としては他の建造物を転用するという制約の下で、しかも軍事的に堅固な城を築きあげなければならない。そのような状況下にありながらも、よくぞこれほどの美しさを保ち得たものだと、感嘆の言葉を禁じ得ない。
第二に、堅牢である。
濠に面した石垣は、いわゆる腰巻石垣と腹巻石垣を併用している。すなわち、濠から立ち上がる部分に石垣を配し(腰巻き)、その上に土塁を積み上げ、最上部にさらに石垣を重ねている(鉢巻き)。三層構造となった石垣は、江戸城の石垣と同じ構造であり、江戸城以外にはほとんど類例を見ない。
天秤櫓の下の、廊下橋をくぐるように交差する狭い道は、堀切である。道の両側を高い石垣で塞ぎ、下の道を通って攻め込もうとしている敵兵に対して、矢を射かけたり鉄砲を撃ったりして上から攻撃を仕掛ける。これはたまったものではない。
それでも先に敵が進んで行けば、先程の廊下橋を焼き落してしまえば、本丸は完全に独立した空間となる。山の地形を巧みに利用した心憎いばかりの縄張りである。
彦根城は、様々な制約の下での築城であったにもかかわらず、質と実とを兼備した機能的な城であることがよくわかると思う。天下に名城と謳われる所以である。徳川幕府の中で大老職を仰せつかってきた数少ない大名であり、「常溜り」と呼ばれる譜代の大藩としては稀有の地位を与えられた井伊家の居城として、彦根城は実に相応しい城である。
彦根城の生い立ちを追ってきたが、それでは早速、実際に彦根城を訪れてみることにしよう。
JR琵琶湖線の彦根駅は、東海道新幹線の米原駅から京都方面にわずか一駅の立地にある。 駅舎の2階から眺めると、真正面に彦根城の天守を望むことができる。駅前の雑多なビルが目障りではあるが、小高い山の頂上で存在を主張する彦根城の姿は、旅人の心を強く引きつける。
余談だが、彦根城の姿は、新幹線の車窓からも確認することができる。米原駅を出てすぐ、京都方面に向かって右側の景色を目を凝らして見ていると、遠く小高い丘のような小山の上に、ちょこんと乗った彦根城の天守が遠望できる。米粒のように小さな姿だが、これは意外と感動ものであるので、是非お試しあれ。
さて、駅前の広場では、井伊直政の騎馬像が私を迎え撃つ。甲冑姿に身を包み、両脇に長い角を模(かたど)った飾りをつけた兜をかぶり、高い馬上から見下ろす姿は、凛々しい戦国武将そのものだ。鋭い眼光に、思わず射すくめられるような思いがする。徳川四天王の一人として幕府の創建に君臨した直政の功績を想いながら、駅前の道をまっすぐに城へと進んでいく。
城下町には、どこか独特の雰囲気がある。
言葉ではうまく表現することができないのだが、街の空気に含まれている気品というか緊張感というのだろうか。武家の街の凛とした気配が、そこここに感じられるのである。その空気の行き着くところ、求心力の焦点に、城がある。
駅前からまっすぐの道は、一度行き止まりに突き当たる。いわゆる「どんつき」と呼ばれている、城下町にはよくある街の構造である。敵方に一気に攻め込まれないように、道のあちこちにこのような行き止まりやかぎ型を設けるのが、城下町の常識である。
一度左へ曲がり、すぐにまた右に曲がると、目の前に大きな松の並木と濠が見えてくる。いろは松と呼ばれる松並木の向こう側には、白壁が美しく映える佐和口多聞櫓が待ち構えている。この櫓も、一度右へ曲がりすぐに左に曲がる桝形の構造を持っている。
佐和口多聞櫓のすぐ手前の小道を濠に沿って右折すると、井伊直弼が青年期を過ごした埋木舎に至るのだが、ここのことは後で触れるとして、道を先に急ぐことにする。
佐和口多聞櫓を過ぎると、濠に突き当たる。この濠に沿って右に行くと、彦根城第二郭にあたる玄宮園方面となる。反対に左に行くと、本丸に向かう表門橋が見えてくる。橋を渡ったところにあるのが、表御殿を模して造られた彦根城博物館である。
かつてこの地には、彦根藩の藩政の中心である表御殿があった。厳密な発掘調査をもとに、彦根市制50周年記念事業として彦根市が復元したのが、彦根城博物館である。外観は当時の表御殿そのままとし、内部には井伊家の歴史を中心とした貴重な資料が多数展示されている。
当時の風俗を描いた国宝「彦根屏風」も、その一つである。実物は思ったよりも小さな屏風だが、金箔のうえに庶民の様子が生き生きと描かれている傑作だ。
博物館の一部には、表御殿の内部が庭園とともに復元されている。「御殿」と名がつけられていても、意外と質素な佇まいであったことがわかる。
彦根城博物館を出ると、いよいよ本丸に向かう上り坂となる。
狭くて急な坂道を息せき切って登っていく。周囲には木々が生い茂り、鬱蒼とした森の中を進んでいくような感じだ。鳥のさえずる声が心地よく鼓膜を刺激してくれる。
しばらく行くと、やがて左右を高い石垣に阻まれた狭い道が現れ、目の前に古風な木製の橋が出現する。廊下橋である。なんと風流な橋なのだろう、なんて感心していてはいけない。今私が立っている場所こそが、先程書いた堀切の底であり、戦いのさなかであれば私は、上方のあらゆる角度から矢や鉄砲を見舞われてこの場に倒れているはずである。
逃げ場のない空間に敵を誘いこんで、一網打尽に叩きのめす。背筋がぞっとするほど恐ろしい仕掛けが、何気なく仕込まれている。
廊下橋をくぐりぬけて回り込むようにして坂道を上ると、鐘の丸と呼ばれる広場(廓)に出る。先程上方に見上げていた廊下橋と同じ高さである。廊下橋を渡りきったところに接続している門のような構えをした白壁の櫓が、長浜城から移築されたと伝わる重要文化財の天秤櫓である。
天秤櫓を抜けてもまだ登り坂が続く。
幅広の石段を登り続けていくと、こちらも重要文化財の指定を受けている太鼓門櫓が見えてくる。こちらは、元々彦根山にあった彦根寺の山門とのことだが、どう見ても城門以外のものには見えない構造をしている。
桝形になった門を抜けると、いよいよ天守が聳える本丸広場に辿り着く。
ついに彦根城の頂点に到達である。ここまで来るのに、いくつの城門をくぐり、どれだけの坂道を登ってきたことだろうか?天守までの道程は、実に遠く険しかった。井伊直政が構想し、井伊直継によって完成された彦根城を、私は自分の心と体とで体感した。
天守は本丸の真ん中に鎮座しているわけではなく、北西の隅に位置している。と言うのは、本丸には天守だけでなく、藩主の居館であった御広間(おんひろま)や宝蔵、それに着見櫓などの建造物が建っていたからである。
これらの建造物群が現存していたら、本丸の景色もさぞや賑やかであったことだろうと思う。それ以外の建物は取り壊されてしまい、今は広々とした空間に天守のみがポツンと取り残されている。
彦根城の天守は、姫路城や大坂城の天守などを想像すると、小ぢんまりしていて物足りないかもしれない。しかし彦根山の頂上に建つ天守を城下町から見上げると、えも言われぬ存在感を誇示して見える。城下のどこからでも、またさらに遠方からでも眺めることができるように、ちょうどいい大きさに計算して造られているのが、彦根城の天守であると言える。
そういう意味で彦根城は、山全体を混然一体として眺めるべきである。
京極氏の大津城を移築したと伝えられる三階三層の天守は、入母屋屋根に唐破風と千鳥破風を巧みに配し、複雑な外観を造り上げている。窓には装飾性に富んだ花頭窓を採用し、軒端には金の飾りを施す姿は、戦いを目的とした城というよりは、風流をより強く感じさせる可憐な城である。
戦場においても粋な赤備えの具足に身を包んで戦った井伊家一流の美学が、城にも息づいているのであろうか?彦根城は無条件に美しい。
優雅な外観とは対照的に、天守の内陣は質実剛健そのものである。太い柱と板敷の床。天井を見上げれば、反りのある太い木材が何本も組み合わされながら渡されている梁。木の冷たい感触がそのまま伝わってくるような、重厚な造りの内部だ。
急な階段を手摺を頼りに上っていくと、やがて最上層に辿り着く。彦根城の天守から眺める眺望は、すばらしい。
目の前一面に拡がる琵琶湖の碧い湖水。風に吹かれてさざ波立つ湖面。築城前に没した井伊直政はこの景色を見ること能わなかったけれど、直継以下の歴代の藩主たちはきっと、この雄大な景色を堪能したに違いない。
幕末の大老・井伊直弼も、いく度(たび)かは今私が佇む場所に立って、飽かず琵琶湖の湖水を眺めたかもしれない。あるいは、甍が並ぶ美しい彦根の城下を満足げに見渡したかもしれない。そう思うと、感慨もひとしおである。
天守からの風景を心に納めて、私は城を後にした。主がいなくなっても、城が毅然として存在し続けていることが、健気に思えてきた。
幸いにして彦根城は、実戦の経験を持っていない。しかし一歩間違えば戊辰戦争の時の会津のように、戦いが現実のものになっていた可能性もある。無数の砲弾を浴び、廃墟のようになりながらも立ち尽くしていた鶴ヶ城の写真を見ると、彦根城が同様の運命を辿らなくてよかったと、心から安堵する。
それにしても、守りの美学とでも言うのだろうか。実際には使われなかったものの、守備のための設備や仕組みをふんだんに備えながら、彦根城はなお美しさを湛えている。追求され尽くした城の機能美を満喫しながら、この後は彦根の城下町を探訪してみることにしたい。
彦根の城下町は、彦根城築城と同時に建設に着手された。芹川の流れを付け替えて濠の役割を持たせるなど、大きな土木工事を伴うものであった。たしかに、よく見てみると、城の南西を流れる芹川は、不自然にまっすぐな流れになっているのがわかる。
彦根の城下町は、大きく4つの区域に分けることができる。
第1郭は、彦根城の中心部分である。先程見てきた天守を中心として、多聞櫓、表御殿などが配置され、内堀と高い石垣で区画されている。
第2郭は、第1郭を取り巻くように内堀と中堀に挟まれた区域で、内曲輪および二の丸と呼ばれている。ここまでが、いわゆる彦根城だ。家老などの上級藩士の広大な武家屋敷が並び、槻御殿や玄宮園など藩主の別邸や庭園、それに藩校などが置かれていた。
今では、藩校の流れを受け継ぐ彦根東高校や地方裁判所、それに玄宮園と命名された庭園として整備されている。上級藩士の武家屋敷の大部分は、残念ながら明治維新に際して解体されてしまった。今では、筆頭家老・木俣家の屋敷、黒板塀に白壁が映える西郷家の長屋門、なまこ壁が美しい脇家の長屋が残るくらいである。
第3郭は、中堀と外堀に囲まれた区域で、内町と呼ばれている。中堀の外側と外堀の内側に面して中級藩士の武家屋敷が立ち並び、その間に町人の居住区であった町屋が設けられているサンドイッチのような構造になっている。
今でも、夢京橋キャッスルロードの北西側の本町2丁目・3丁目、城町1丁目辺りには、町屋の遺構が比較的多く残されている。当時の町名で見てみると、東内大工町、紺屋町、上魚屋町、職人町、桶屋町など、そこにどんな町人が住んでいるかが一目で理解できる町名になっていることがわかる。
旧職人町に隣接する旧連着町の辺りであろうか、何気なく歩いていると、「腹痛石」という不思議な石が路傍に置かれているのに出くわした。この地方でよく見られるお地蔵様のように前掛けを掛けられた、腰の高さくらいの石だ。上には、いわくありげに数珠が置かれている。
藤原時代の昔からこの地にあると言い伝えられてきた石のようで、不届き者が石を持ち去らないように、この石に触れると腹が痛くなると言われてきた。触れると腹が痛くなるというフレーズに私たちは、先に見てきた石田町の八幡神社境内に埋められた三成一族の墓石のことをすぐに思い出す。昔の人々は、こうして大切なものを守ってきたのだろう。
こんな思いがけない見つけものをするのも、伝統ある街並みを歩く楽しさではないだろうか。厳かな武家屋敷とは違う町屋を歩く気楽さみたいなものが、またうれしい。
第4郭は、外堀の外側で、外(と)町(まち)と呼ばれている区域だ。下級藩士や足軽の組屋敷などが設けられ、町人も居住していた。今の彦根駅辺りは、この第4郭と言えるだろう。
この地域で今でも特徴的に確認することができるのは、足軽の組屋敷である。夢京橋キャッスルロードを突き抜けてまっすぐに、芹川に向かって細い道を歩いて行くと、立て横に細かく区画された不思議な町割の中にいることに気づくだろう。芹橋1丁目・2丁目辺りだ。
ここはかつて、彦根藩善利組の組屋敷があったところである。外堀と芹川に挟まれた城下町の最外部に位置する場所で、ここに足軽組の組屋敷を配備することで、城の最前線における防御を意図していた。
かつては700戸もの屋敷が存在していたが、今でも比較的良く当時の雰囲気を伝えている街並みだ。江戸時代の建物も、十数軒程度は残されている。これらの建物は、小規模ながらも武家屋敷としての体裁を保っており、江戸の昔にタイムスリップしてしまったような郷愁を覚えるお勧めの散歩道である。
彦根の城下町は、彦根山の麓に新しく一から造り上げた街なので、計画的でかつ機能的な城下町を作ることができた。こうして、城と城下町とが混然一体となって、街全体で敵からの攻撃を防御するコンセプトが徹底された。
築城当時の街割りは今でもよく窺うことができる。街を歩いていると、そこここで行き止まりやカギ型に曲がる路地に出会う。敵の攻撃時に、まっすぐ侵入されることを防ぎ、道の曲がり角に籠って防戦の機会を作ることを目的としている。最終局面である街路におけるゲリラ戦を想定している用意周到さだ。
敵が攻めにくい街の構造ということは、そこに住む人間にとっても同様に住みにくい環境にあるということを意味している。彦根市に住む人々は、築城以来数百年もの長い年月にわたって、この住みにくさと同居しながら生きてきたのである。
江戸時代ももう少し時代が下ってからの築城であれば、もっと生活しやすさに重点を置いた街づくりができたのだろうが、彦根城築城当時の徳川幕府はまだ黎明期であり、大坂城には豊臣秀頼が存命しており、緊張感のある時代であった。
そんな時代背景などに思いを馳せるのも、城下町散策の楽しみ方だと思う。
最後に、旧花街だった袋町あたりを巡って、彦根城下町の散策を締めくくることにする。
長い雨季の終り。
夕空は久しぶりに、伊吹山の山頂まで、くっきりと晴れわたって見えたが、芹川の水
は、見違えるほど水嵩(みずかさ)を増して居た。岸から二尺あるかないかで、水勢はいつになく鋭
い。
さっきから、堤の上を往ったり来たりして居る浪人風の男があった。歩いたかと思う
と、ふと立ち止まって、水の面に、目を注ぐ。そうかと思えば、首を上げて、涯(はて)しない
大空を遠く眺めた。
堤の東は、袋町の花街である。ことによったら、堤を下りて、この郭(くるわ)の揚屋(あげや)に、登楼
しようという客が、暫(しば)しの時を消すために、堤の上をそゞろ歩きして居るとも思われな
いことはない。しかし、よく見ると、人態風俗、郭通いの粋客とは、どうしても受取れ
ぬ。
年の頃は二十七、八。細長の顔で、眉は太く長いのが特長だ。然(しか)し目は切れ長で、色
は白く、鼻筋が通って居るから、理知的ではあるが、柔い相である。
堤のすぐ下に、軒を並べた娼家の窓から、たか女は、川の水嵩を見ようとして顔を出
した時、堤の上の、その男の姿に目を惹(ひ)かれた。
見馴れない男だと思った。他国者にちがいない。物騒な時代だけに、藩士達は他国者
の入国には必要以上に神経過敏となって居る。よく、あんなところを、ブラブラ、やっ
ていられると、意外な気がした。
向こうでは、まだ、こちらが見ているとは気がつかない。桜の立木の下に居て、ジイ
ッと水面を見下ろしながら、何か深い黙想にふけって居るらしい。
ここに突然引用したのは、舟橋聖一さんの名著『花の生涯』の冒頭部分である。井伊直弼の生涯を題材とし、NHKの歴史大河ドラマの栄えある第一回作品に選定されたのが、この『花の生涯』であった。
堤の上を往ったり来たりしている浪人風の男こそが、後に京都の大老と呼ばれ志士たちに恐れられた長野主(しゅ)馬(め)(後の主膳)である。娼家の窓から芹川の堤を眺めていたのが、井伊直弼の愛人となり、後に主膳とともに京都で諜報活動に身を投じることになる村山たか女である。
長野主馬が初めて井伊直弼にお目通りする日、お忍びで直弼のもとを訪れるために日が暮れるのを待っていた光景から、物語が始まる。
彦根の城下町を歩くのなら、有名なこの作品の冒頭に表されている袋町を訪ねてみたい。そう思っていた。元は彦根城の外堀であったところを埋め立てて作られた大きなバス通りを南に歩き、古い商店街である銀座街を抜けると、花しょうぶ通りという趣のある商店街に達する。この通りの右手(西側)こそが、旧袋町の花街跡である。
今では河原2丁目という地名に変わっているが、花街の面影を色濃く残した飲み屋街として今も健在だ。昔は娼家だったかもしれない洒落た紅柄格子の旅館などが軒を並べ、『花の生涯』を彷彿とさせる。
長野主馬は、この辺りをそぞろ歩きながら時間を費やして、やがて暗がりの中を井伊直弼が寓居する埋木舎を訪れたのだろう。
旧袋町界隈は、できれば日が暮れてから訪れてみたかった。きっと昼間の顔とはまた違った、むしろ往時の花街を想起させる街の姿が垣間見られることだろう。
城下町には、武家屋敷の顔があり、町屋の顔があり、そして花街の顔がある。これらの異なる街の「顔」が計画的に整然と割り振られ、全体として一つの街としての機能を維持している。
彦根城と彦根の城下町を探訪した最後に、どうしても触れておかなければならないのが、井伊直弼のことである。築城当時から時代はかなり下るが、彦根と言えば井伊直弼のことを抜きにして語ることはできない。
井伊直弼は、彦根城第2郭にあたる玄宮園に隣接する彦根藩の下屋敷にあたる槻御殿で生まれた。文化12年(1815年)10月29日のことである。
槻御殿は今も現存している。井伊家の豊富な財力を駆使して槻の木材をふんだんに使用した豪華な建物だ。城の北東に位置する御殿からは、玄宮園の広々とした回遊式庭園を望むことができる。大名文化の粋を集めた贅沢な空間だ。
ところが直弼は、前藩主である井伊直中の十四男として生まれた。生まれながらにして藩主になる可能性がゼロに等しい男だったのだ。槻御殿での優雅な暮らしは、長くは続かなかった。
父・直中の死去に伴い直弼は、弟の直恭とともに槻御殿を退去し、第3郭にある尾末町屋敷に移り住んだ。直弼が17歳の時のことであった。
この尾末町屋敷のことを、後世の人たちは「埋木舎」と呼ぶ。
世の中を よそに見つつも 埋れ木の
埋もれておらむ 心なき身は
直弼は我が身の上を、自嘲するかのようにこうに詠んだ。
花も咲かず実も付けないままに埋もれていく木とは、藩主になる可能性が限りなくゼロに近い直弼そのものだった。
しかもその翌年、他の大名家への養子縁組を求めて弟の直恭とともに江戸に出たものの、直恭のみ養子縁組が決まり、直弼は失意のうちに一人で埋木舎に戻らなければならなかった。自暴自棄になり道を踏み外してしまってもおかしくない状況であるのに、直弼はそれでも気持ちを切らすことなく勉学に励んだ。
いわゆる捨て扶持である。300俵の扶持米を与えられて直弼は、いつ果てるともない部屋住み生活を続けた。しかし直弼の心には、希望の光は消えていなかった。
1日4時間の睡眠時間だったと言う。明日がない身であるにもかかわらず、直弼は自分自身を磨き続けた。
武道では、居合いの道で新派を興せるほどの腕前だった。学問も、洋学も含めてひと通りのことは身に付けた。そのほかにも、歌道、茶道、禅、能、焼き物(湖東焼)と、文化にも非常に深い造詣を示した。
茶道では、千利休以来の茶人との評価も高く、『茶湯一会集』という書物を著している。「一期一会」という言葉は元々は利休が唱えた言葉だが、世に拡めたのは直弼であると言われている。
禅の道では只管打座(しかんたざ)。ひたすら坐って無の境地を追い求めた。
能の世界では、埋木舎時代に「筑摩(つくま)江(え)」という謡曲を自ら創作している。伊勢物語に想を得た作品で、横浜の掃部山にある能楽堂で平成19年(2007年)11月27日、160年ぶりに上演されたことで話題になった。
どの分野を採り上げても、一流人である。口で言うだけなら簡単だけれど、それを実践することは、並大抵の人間にできることではない。
直弼は、32歳までの15年間をこの埋木舎で過ごした。そして弘化3年(1846年)、世嗣であった井伊直元が亡くなると、藩主である兄・井伊直亮の養嗣子として世嗣となり、江戸の藩邸へと移っていった。
13人もいた兄たちは、あるいは亡くなり、あるいは他家に養子に行き、あるいは僧籍に入るなどして、たまたまこの時に藩主の跡目を継ぐことができる状態にいたなかでは、直弼が最適な人材であったのだった。
世の中は、本当にわからないものだ。
しかし、世嗣の座を引き寄せたのは、私は直弼自身であったと思う。直弼が可能性がないにもかかわらず15年間も精進を続けた蓄積が、最後は自らを援けたと思わずにはいられない。
直弼が再び彦根に戻ってくるのは、その5年半後、藩主直亮の死去に伴い、第13代彦根藩主としての帰国時(嘉永4年(1851年))である。この時には、今では彦根城博物館となっている表御殿が、直弼の居場所だったのだろう。万感の思いを込めて、天守から琵琶湖の湖水や城下町を眺めたかもしれない。
私は、直弼の埋木舎での15年間にもわたる耐乏生活のことを知って、感動して『井伊直弼と黒船物語』を書いた。直弼の人生から教えられたことは、数限りない。しかし時代は、直弼を彦根藩主としてのみに止めておくことを許さなかった。直弼が藩主に就任したわずか2年後(嘉永6年(1853年))にペリー率いる黒船が来航し、日本は欧米列強の開国圧力の前に風前の灯状態となるのである。
未曾有の国難に際して、直弼は大老職を仰せつかって事の収拾に努めた。そして就任わずか2ヶ月で、日米修好通商条約締結という大事業をやってのけたのである。この間の事情の細かいニュアンスについては、それが目的ではないのでここでは触れない。
ここでは、欧米列強の侵略の魔手から日本を守り、日本を近代国家へと導いた恩人として、直弼のことを尊敬してやまないということを述べるに止めておきたい。井伊直弼は、彦根が生んだ最も偉大な人物である。
なお、彦根城の周辺には、埋木舎のほかにも直弼を偲ぶものが残されている。
玄宮園に近い公園には、衣冠束帯姿の直弼像と、舟橋聖一さんの花の生涯の記念碑が建立されている。不思議なことに、石田三成というと坐像なのだが、井伊直弼というと衣冠束帯姿の立像である。同じく衣冠束帯姿の立像が、横浜の掃部山公園に建立されている。
また、埋木舎ちかくのいろは松の並木には、直弼の歌碑が建てられている。
あふみの海 磯うつ浪の いく度(たび)か
御代にこころを くだきぬるかな
直弼は桜田門外の変で亡くなる2ヶ月前、衣冠束帯姿(坐像)の絵を狩野永岳に描かせ、自詠のこの歌を書き添えて井伊家の菩提寺である清涼寺(後述)に奉納した。この時にはすでに、直弼は死を覚悟していたに違いない。直弼は自らの命に代えても、日本という国を救おうとしていたことがわかる。この歌は、言わば直弼辞世の歌と言ってもいいかもしれない悲壮なまでの決意が込められた歌である。
ほかに直弼所縁(ゆかり)の寺としては、城下になるが、龍潭寺、清涼寺、天寧寺などがあるので、こちらも是非訪ねてみたいお勧めの場所である。
佐和山の麓にある龍潭寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で、井伊家の菩提寺である。枯山水の庭園と、佐和山を借景とした回遊式庭園が美しいことで知られている。敷地内には、直弼の母であるお富の方の墓所がある。
龍潭寺から程近いところにある清涼寺は、直弼が座禅の修行のために通った寺として有名である。清涼寺も井伊家の菩提寺で、初代藩主の井伊直政はここに葬られている。残念ながら非公開であるため、詳細を知ることはできない。
天寧寺は、直弼の父に当たる直中が建立した曹洞宗の禅寺である。桜田門外の変の後、現場付近に散在していた血染めの土や遺品を四斗樽に詰めて運び、ここに埋めたと言う。その上には井伊直弼供養塔が建つ。また同じ境内には、「長野義言之奥津城」と刻まれた大きな碑が建っている。長野主膳の墓である。主膳は直弼亡き後も彦根藩の藩政に関与していたが、反論が一転し、捕えられてろくな詮議もないままに断罪となった。文久2年(1862年)8月27日のことであった。
長々と彦根城と城下町を見てきた。まだまだ紹介しきれないたくさんの魅力を擁した街だが、そろそろ彦根の街を後にしようと思う。江戸時代の歴史を活かし、これから彦根の街がどのように発展していくのか、興味が尽きない。
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12.佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城)
- 2010-01-07 (木)
- 湖北残照
12.佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城)
世に、三成には過ぎたるものが二つあったと言われている。一つは居城の佐和山城であり、もう一つは家臣の嶋左近だそうだ。
連続3回に及んだ三成探訪の旅の最終回として私は、三成には過分のものと揶揄された一つである佐和山城祉を訪ねてみることにしたい。
佐和山城は、現在の近江鉄道本線の鳥居(とりい)本(もと)駅と彦根駅との間に存する標高232.5mの佐和山に造られた山城である。石田三成の居城として知られるが、実は三成が佐和山城主であった期間はほんの5年程度の期間に過ぎず、それ以前は湖北地方と湖南地方との接点にある城として、戦国武将たちの争奪目標となっていた。
古くは京極氏、六角氏、浅井氏が三つ巴で覇権を争っていたが、その後浅井氏が支配するようになり、重臣の磯野員(かず)昌(まさ)がこの城を守った。浅井長政と同盟を結ぶ織田信長も、当時の拠点であった岐阜と京都を結ぶ交通の要所として佐和山城をよく利用した。
琵琶湖を背にする立地は、琵琶湖の水運を利用した京方面への移動や物資の運搬を容易にした。城の正面にあたる大手筋(鳥居本方面)には、江戸時代の中山道の原形となる東山道が走っていた。東国と京とを結ぶ接点として、また北国街道を介して北陸方面ともつながりのある、まさに交通の要衝にあったのが佐和山城であった。
名城として世に知られていないのは、関ヶ原の合戦で三成が敗れた後、佐和山城を賜った井伊直政によって徹底的に破壊されたためである。
「破城」という言葉がある。
私は、佐和山城のことを調べるまで、この言葉を知らなかった。なんとも恐ろしい響きと字面(じづら)とを持った言葉だと思う。初めてこの言葉を聞いた時、私は戦慄で背筋がぞっと冷たくなるのを感じた。
破城とは、二度と軍事目的のために使用することができないように、徹底的に城の機能を破壊することを言うのだそうだ。具体的には、天守をはじめとした数々の建造物を取り壊し、濠を埋め、石垣を崩すことが主な作業と思われる。
そして破壊した城の材料そのものを、ほとんど残らず佐和山から運び出した。単に破壊しただけであれば、石垣の石などはゴロゴロと周囲に残されていることと思う。そこに石垣があったということさえ今はわからないほどに、完全に城の姿は消し去られたのであった。
先に訪れた小谷山にもほとんど城としての面影が残されていなかったのは、やはり羽柴秀吉らによって破城を受けたからだろうと私は考えている。
そこまで徹底的に消し去らなければならなかったのは、実は佐和山城そのものではなくて、石田三成という人の名声だったのではないか。私はそのように思えて仕方がない。家康は、三成を亡き者にしただけでは事足りず、なおも三成を異常なまでに恐れていたのではないだろうか?
後世の人たちが家康を賞することなく三成の遺徳を讃えるようなことがあってはならない。家康が本当に恐れていたのは、私はこのことだったのだと思う。
だから、三成に関わるものは徹底的に破壊した。物理的な物も人の思いも破壊し尽くそうとして、井伊直政をして人々の記憶から三成の存在を完全に消し去ろうとした。佐和山城の破城とは、そういうことだったのではないかと、私は思っている。
さらに、佐和山城が完全に消え去ってしまった背景には、城の機能を消去し石田三成の記憶を抹消するという軍事的戦略のほかに、現在ほど物資が豊富に存在しているわけではなかった戦国時代から江戸時代初期においては、廃物利用、今で言うところのリサイクルの精神が普通に存在していたという側面もあったのではないかと考えている。
特に、関ヶ原の戦いが終わったもののまだ大坂城に豊臣秀頼が存在していた当時の状況では、大坂城への睨みを効かす存在として彦根城を急いで築城する必要があった。だから、ゼロから作るよりも既存の施設を転用した方が効率的であったという合理的観点もあったに違いない。
石田三成の怨念が籠っている石を彦根城の石垣に転用するというのはあまり心地のいいことのようには思えないが、昔の人はそのあたりの感覚には比較的おおらかだったのかもしれない。城の石垣の材料として墓石が転用されたという話も聞いたことがある。
それでは、石田三成の居城であった佐和山城とはどんな城であったのだろうか?時代を天正年間に戻して、想像力を働かせながら当時の佐和山城の様子を見ていくことにしよう。なにしろ破城に遭っているため、正確な佐和山城の姿を復元することは誰にもできない。様々な説があるなかで、私が最も素直に受け入れることができる説を取捨選択しながら、復元を試みてみることにしたい。
石田三成が佐和山城に入った時期は、天正18年(1590年)7月とも文禄4年(1595年)7月とも言われていたが、近年の研究でやっと、天正19年(1591年)4月であったことが確定している。
こんな基本的な事実でさえなかなか確認できないところに、石田三成の神秘性が感じられる。石田三成が正規の歴史に登場するのは賤が岳の戦いを待たなければならないし、その後も諸説紛々としていて、関ヶ原の戦いで敗戦したのちに田中吉政の手の者に捕獲された状況に至るまで、正確なところがわからない。
佐和山城の正面にあたる大手は、城の東方の鳥居本側にあった。
佐和山の山頂に向かって東から西へ、2本の谷が伸びている。今の近江鉄道本線が通るやや広い谷がメインの谷で、中級以上の侍屋敷が立ち並んでいた地域と思われる。この谷を囲むように、佐和山の稜線上に三ノ丸、二ノ丸、本丸、太鼓丸が⊂の字型に並べられている。
もう1本の谷はメインの谷の北側にあり、やはり侍屋敷があったと伝えられている。
一方の城の西側は、石田三成が入城した当時は山際まで入江内湖が入り込み、背面を琵琶湖と琵琶湖に続く内湖とにより守り固める地形であったのではないかと言われている。
佐和山を取り巻く現在の街の状況から、大手口は佐和山の西側にあったと思い込んでいた私であったが、西側が発展するのは彦根城が築城される時期以降のことであるらしい。この時期に大手口が佐和山の東側から西側に付け替えられた可能性を主張する学者もいる。
佐和山城には五層の天守が聳えていたとの説がある。名城と謳われた城の頂上には美しい天守がよく似合う。真っ赤な夕焼けの空を背景に黒板張りの五層の天守が燃えるように聳える様を想像するだけで、胸がわくわくしてくる。実際の佐和山城は、どんな天守を擁していたのか?興味は尽きない。
ところが、佐和山城の天守について記述された信頼できる文献や絵画は一切残されていない。佐和山城の記憶は、徹底的に抹消されてしまっているのである。
一般に、山城の天守はそれほど大きなものはないと言われている。巨大な天守が登場するには信長の安土城の出現を待たなければならないし、平山城や平城と違って縄張り自体がすでに十分な高さにある山城には、五層の天守を必要としない。
浅井長政の小谷城の天守も、非常に簡易なものではなかったかと言われている。佐和山城の天守も、どちらかと言えば質素なものであったと考える方が、残念だが正しいかもしれない。平時は山の麓で政務を執り、非常時のみ山の上に籠ったのであろうから、立派な天守の必要性は極めて低かったのではないかと考える。
佐和山城が落ちた時、山は炎に包まれて、女たちが城の石垣から身を投げて果てたという悲しい言い伝えが残っている。今でも本丸の南にある女郎ヶ谷と呼ばれる谷が、その時の谷であったと言われている。
ぞっとするような凄惨な光景が想像されるが、実は近年の研究によると、佐和山城はほとんど抵抗らしい抵抗をすることもなく開城したのではないか、とする説が有力だ。
三成が関ヶ原の戦いに出陣している留守を守っていたのは、三成の父・正継と兄・正澄であった。秀吉の命に従って全国を飛び回らなければならず佐和山に留まることができなかった三成に代わって、平時から佐和山の領民たちを統治していたのは、正継や正澄であったと言われている。
関ヶ原の戦いで三成率いる西軍が敗れたことは、城中にいる正継や正澄にもすぐに伝わったに違いない。緊迫した城内の様子が想像される。
家康は時を移さず小早川秀秋や田中吉政らをして佐和山城に遣わしめ、城を完全に包囲した。関ヶ原の戦いからわずか2日後の9月17日のことであった。天下の大勢がすでに決してしまった今となっては、城兵たちの戦意を掻き立てることはもはや不可能だったに違いない。
守兵はわずかに2,800人。一方の寄せ手は1万5,000人である。内部から徳川軍への内応者も出て、正継や正澄もなす術がなかったのだろう。本丸を守っていた正継と三ノ丸を守っていた正澄は自刃して果てた。こうして、名城と謳われた佐和山城は、さしたる抵抗もできないままに呆気なく落城したのであった。
落城に際して、琵琶湖を背景に真っ赤に燃えあがる佐和山の姿が想像されるが、佐和山城は炎上しなかったというのが最近の通説のようである。落城が開城に近い状態であったこと、本丸や二の丸に残されている瓦に火災の痕跡が認められないこと、関ヶ原の戦いの武功により佐和山城を賜った井伊直政が速やかに入城した事実などから、学者たちは佐和山城炎上説を否定している。
落城後の佐和山城は、井伊直政らによってほとんど痕跡を残さないほど徹底的に解体されたが、丹念に見ていくと、彦根やその周辺に「面影」を色濃く残していることがわかる。佐和山城が炎上しなかったことを証拠づけることにもなると思うのだが、元佐和山城の建造物と伝えられる遺構が転用されて彦根市街やその近辺に存在している。そんな佐和山城の痕跡を探し訪ねて彦根の街を歩くことも、私の楽しみの一つだ。
城下町の町屋の雰囲気を再現した新しい街並みが立ち並ぶ夢京橋キャッスルロードのちょうど真ん中に位置する赤い門の大きな寺が、宗安寺である。この深みのある朱色を湛える門こそが、佐和山城の大手門を移築した門であるという。
宗安寺の表門はいかにも城門らしく、馬に乗って出入が可能なように敷居が設けられていない。元禄時代に起こった彦根の街の大火でも奇跡的に焼け残り、往時の姿を今に伝えている。
よく見ると、太い門柱には継ぎ接ぎ補修の跡が残り、門扉には横に引っ掻かれたような傷跡が窺える。伝承が正しければ、長い間佐和山城と彦根の街の歴史を見続けてきた貴重な遺構ということになる。
宗安寺のほかにも、佐和山城の痕跡はいくつか残されている。
彦根城の西側の栄町一丁目にある蓮成寺は、佐和山城の法華丸の建造物を移築したものであると伝えられている。法華丸は、三成が若き日に修行の場としたと伝えられる古橋にある法華寺が、三成のために普請したものである。ここにも三成の熱い魂が籠っている
また、花しょうぶ通りにある妙源寺の本堂と庫裏は三成の佐和山御殿を、山門は佐和山城の城門を移したものと言われている。
さらに、鳥居本宿にある専宗寺の太鼓門の天井には佐和山城の用材が使用されている。前著『井伊直弼と黒船物語』で紹介した高源寺の山門は、佐和山城の裏門であると言われている。
こうして見てくると、徹底的な破城に遭ったとは言うものの、佐和山城の面影は三成の魂とともに、今もなお彦根城下に色濃く残されていることがわかる。三成の記憶を完全に消し去ることは、徳川家康や井伊直政を以てしても、結局は能(あた)わなかったということなのだろうと思う。
佐和山城と、佐和山城落城にまつわる悲話を見て来た機会に、ここで三成の功績について考えてみることにしたい。
侍大将としての器量はともかくとして、官僚としての三成の能力は当時の武将の中では群を抜いていて、実は徳川幕府260年の礎を築いたのは三成であったとは、先に紹介した歴史学者太田浩司さんの言である。
意外に思う方も多いと思うので、少し詳しく語ることにする。
ここからは尊敬する太田さんの受け売りである。これまでは石田三成のことは、豊臣秀吉の恩義を忘れずに奸臣徳川家康に挑んだ「忠臣」という側面のみが強調されて評価を受けていたが、太田さんは三成のことを「構造改革を断行した男」と捉えている。
三成をどう見るかは、もちろん個人の自由であるが、私は彼を「忠義の臣」として捕(ママ)え
るのは、正しくないと思っている。江戸時代の三成評を否定しようとしている我々が、
江戸時代の儒教思想に基づいた「君に忠」の思想に呪縛されてどうするのであろう。そ
もそも三成が有能な政治家であり、官僚であれば、新たな日本の国家像について、明確
な方針を持っていたはずである。高い志を掲げる政治家や官僚が、「忠義」という二文字
だけで果たして行動するであろうか。私は三成を、そんな姿に矮小化したくない。
さらに続けて、
小和田哲男氏は三成を、豊臣政権の官房長官として、政策通の仕事ぶりを高く評価す
る。それはもっともだが、私はさらに進んで、三成は戦国という世が持っていた社会構
造を打破し、その上に新たな政治・経済システムを構築した政治家として評価したい。
もちろん、この仕事は彼のみで行ったわけではないが、彼が中心であったことは、これ
から述べるさまざまな状況証拠から明らかである。つまり、三成がいなければ、古い権
利におかされた戦国時代とは決別できず、江戸時代という新しい社会は生まれなかった
のである。
と述べている。長くなるが、もう少しだけ、太田さんの文章の引用をお許しいただきたい。
本質は、三成と家康の国家構想をめぐる戦いだったと結論できる。この戦いの後、三
成が目指した豊臣家による先鋭な中央集権国家は生まれず、地方分権にも重きをおく温
厚な中央集権国家が出来上がった。政治的にはそうであったが、経済的・社会的なシス
テムは、三成らの秀吉政権が造り上げてきたものを踏襲する。江戸時代は、三成ら豊臣
政権の「構造改革」の上に花開いたのである。
前掲書の巻頭で太田さんは、渾身の力を込めてこのように述べられている。今まで三成のことをこのような観点から評価した人はいなかったのではないだろうか。太田さんの説は、私にとって非常に新鮮で、かつ素直に頷けるものだった。
太田さんは著書のなかでこの考えを歴史学者らしい正確さで一つ一つ論証されているが、そこまで引用していくと本を丸々引用してしまうことになるので、要点のみを簡単に紹介していくに止めることにする。
三成が中心となって敢行した「構造改革」は、具体的には「惣(そう)無事令(ぶじれい)」と「喧嘩(けんか)停止令(ちょうじしれい)」、および「刀狩り」と「太閤検地」に代表されている。そしてこれら4つの施策は、互いに密接に関連し合っている。
「惣無事令」は大名に対して、「喧嘩停止令」は百姓に対して出されたものだが、いずれも趣旨は同じで、「私戦」を禁止するものである。それまでは、紛争解決の手段として武力による解決が一般的だった。
大名同士の領土紛争にしても、百姓同士の水の利権や山の所有権をめぐる争いにしても、強いものが勝つのが当然の帰結であった。争いに勝つためには、多量の武器を保有しておく必要があるし、戦うための人材を確保しておかなければならない。
三成は、これらの「私戦」を禁止して、訴訟による平和的解決を求めた。豊臣氏を裁く立場に置くことにより地位を確実なものとするとともに、私戦を根絶させることにより不要な武器や侍を駆逐することができる。「刀狩り」や「太閤検地」にも通じていく施策であることが理解されると思う。
後述する刀狩りと太閤検地は有名だが、「惣無事令」と「喧嘩停止令」は日本史の教科書には出てこない。しかしながら、この2つの法令によって初めて、豊臣の地位が臣下である他の大名とは一線を画することを可能にしたのである。
現に、天正15年(1587年)の島津征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐など秀吉の名の下に行われた「征伐」は、禁じられた「私戦」を行ったことに対する秀吉の「制裁」であった。
さらに三成は、征伐の対象となった島津氏や佐竹氏を「指南」して秀吉の許しを取りつけることにより、彼らに恩義を与えることにも成功している。これらの恩義が後の関ヶ原の戦いにおける西軍の構成要素にもなっていくのだが、反対に三成が秀吉の腰巾着であるような悪いイメージを持たれてしまうのは、秀吉への取り次ぎ役としての印象のみが後世に強く意識され過ぎてしまった結果なのかもしれない。
刀狩りと太閤検地については、歴史上有名な施策であるので、内容自体の説明は不要と思われる。農民から刀などの武器を取り上げて武力蜂起ができないようにするとともに、全国の耕地を実測することにより生産高を正確に把握するための施策である、というところまでは誰も異存はないだろう。
ところが、そういった表面的な目的だけではなく、刀狩りと太閤検地にはもっと重大な意図が籠められていた。
刀狩りは、農民を抑圧するための施策ではなく、農村から武力を放逐し、法に基づいた秩序ある農民社会を作るために行われたものであった。ここで言う「武力」とは、刀や槍などの武器のことのみを言っているのではなく、村に居住する「侍」を追放することも併せて意味している。そのことは、次に説明する太閤検地と合わせて考えると、より鮮明に理解ができるだろう。
太閤検地は、生産高を正確に把握することを意図したものであったが、実はそのこと以上に、村に存在していた「侍」の経済的権益を否定して、耕地を真の耕作者に開放することを最大の目的としていたのである。
村には、農民とも侍ともつかない者が多数存在していた。平時には耕作に従事しているが、一朝事ある際には武力を行使して侍となる輩(やから)である。彼らは、農民から小作料を搾取していた。太閤検地における検地帳には、これらの侍たちの権利に関する記述は一切なされておらず、真の耕作者の氏名のみが記載されていた。これによって、耕作者の権利が公的権力によって保証されたのである。
太田さんは言う。太閤検地は、戦国の「農地解放」とでも言える政策である、と。
なるほど、そういうことだったのかと、目から鱗が落ちたような感激に浸ったのは、私だけだろうか?ここから先は、さらに重要な内容となるので、再び太田さんの記述を引用することをお許しいただきたい。
この結果、経済的基盤を失った「村の侍」、すなわち秀吉政権の武士たちは、村に住め
なくなった。それでも住む者は、武力も特権もない百姓になったのである。村に住めな
くなった武士たちは、村を出て城下町に集住するようになる。江戸時代の社会には、農
村は生産を行う農民が住む場所、町は消費を行う武士が住む場所という、区域的な住み
分けが存在した。この仕組みは刀狩や太閤検地の結果、初めて成立したのである。これ
は考えてみれば、自己犠牲をともなう大変な「構造改革」であった。政権内部にいる武
士たちの権益を、同じ政権内の武士が否定してく作業だからだ。当然反発も多い。江戸
時代の大名や家臣が、形の上ではその所領を持ち得たのは、この反発を背に負った家康
による反動が影響している。三成らの改革がそのまま進めば、明治政府のように、大名
は中央からの任命制となっていたかもしれない。
このように、三成ら豊臣政権が行った経済・社会改革は、二つの武力を村落から追放
することだったのである。そのことによって、武士と農民が分離され、武力を独占した
中央政権によって、村落の秩序を保つことができるようになった。兵農分離の意味する
所である。村に武器があり隣村と戦い、「村の侍」が住み、絶えず住民が合戦に駆り出さ
れる状況では、安定的な経済発展は望めないことを、三成ら豊臣政権の奉行は痛いほど
わかっていた。(中略)この三成の主導した豊臣政権の改革は、まさに日本近世への「構
造改革」であり、これなくして、日本は新たな時代を迎えることはできなかった。
社会は「忠義」や「友情」では動かない。社会を正そうとする「正義」のみが、国や
社会を変えていくと私は信じたい。三成には、それがあったのである。
太田さんが熱く語ってくださった言葉は、私にとってすんなりと心に沁み込んでいく言葉であり、本質を捉えた言葉であると思う。
反対に、そのような世の中の構造を変え得る人物だったからこそ、家康は三成亡き後も三成の名声が世に拡まることを極度に恐れ、佐和山城とともに三成の記憶を人々の脳裏から抹消することに躍起になっていたのではないかと思い当った。
ずいぶんと長く三成のことを見てきてしまった。
最初はこんなに長くなるつもりはなかったのだが、見ていけばいくほど、石田三成という人物の奥の深さが感じられて、興味が泉のように後からあとから湧き上がってくる思いだった。
この章の最後に、石田三成の最期について触れて、総括としたい。
関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の麓を経由して、最期は単身で母方の故郷である木之本の古橋に向かった。樵(きこり)の姿に身をやつし、木の実などを食べながらの悲惨な逃亡だった。茶畑で動けなくなっているところを地元の住人に助けられたりしながらの苦行であった。
そこまでして三成が「生」に拘ったのはなぜだったのだろうか?
武運なく、志空しくして戦いに敗れた侍大将は、潔く自らの命を絶つのが当時の慣行ではなかったのか。敗戦後の戦国武将として三成が取った行動は、極めて稀な行動であったと言わざるを得ない。
前著『井伊直弼と黒船物語』でその生涯を見てきた井伊直弼の最期の潔さと比べたら、まさに正反対の行動である。同じ湖北の地に輩出し、共に湖北の地を代表する人物でありながら、その対照性が非常に顕著であることが興味深い。
歴史に仮という言葉はあり得ないが、もしも井伊直弼が石田三成の立場であったなら、直弼は間違いなく、関ヶ原の地において自決していたであろう。
目を覆わんばかりの往生際の悪さである。
でも私は、三成の気持ちがわからないでもない。
彼の発想は、近代の人たちの発想と同じなのではないかと思う。命をけっして粗末にしない。たとえ僅かであっても可能性があるのであれば、無駄に命を捨てることなく、最後の最後まで望みを諦めない。
生き恥を去らすことはみっともないことではあるけれど、大望のためであれば敢えて甘受する強い精神力。自らの名誉のためであったら、私は三成は関ヶ原において自決していただろうと思う。
自分の命への執着ではなくて、世の中を変えていきたい、変えなければならないという強い使命感。敢えて三成が選択した道は、むしろ茨の道であった。
散り残る紅葉は ことにいとおしき
秋の名残は こればかりぞと
あらためて、三成が詠んだ「残紅葉」の歌を思い出した。
先に私はこの歌を、三成の生への執念と書いた。三成生誕の地で見た時にはそう思えたこの凄まじい歌だが、三成の最期に及んで再びこの歌を見てみると、また違った意味合いに見えてくるような気がする。
最後の一枚となって散り残っている真っ赤な紅葉の葉は、三成の命そのものではない。秋の陽光を浴びて輝く赤い紅葉の葉は、豊臣時代に三成が築こうとした新しい世の中への希望の光だったのではないだろうか?
理想の社会を創ることを目指して日々戦いだった三成の人生。やがて最後の一枚の葉が、静かに音もなく散っていく……。
三成は、徳川方の武将である田中吉政の手の者によって捕らわれた。吉政は、三成と同じ湖北地方(浅井郡宮部村・三川村)の出身者で、三成とは旧知の間柄であった。土地勘もあり、三成の行動を正確に予測しえた唯一の人物であったに違いない。
捕縛時の正確な状況は、諸説があってわからない。
古橋は、母方の故郷である。若き日に三成自身が法華寺三珠院にて修行を行っていた土地であったかもしれない。三成を守り匿おうとした人々が多数いた一方で、吉政に情報を密告した人間がいたということであろう。
9月21日に捕縛された三成は、25日に大津に滞陣していた家康のもとに送還された。家康は三成を厚くもてなしたという。単身で捕えられ、すでに籠の鳥となっている三成のことを、家康は何も恐れることはない。余裕を持って、あるいは優越感を持って遇したにすぎない。
一歩間違えば、反対の立場に立っていたかもしれないなどとは、微塵も思わなかったに違いない。勝者としての全幅の余裕をもって、家康は三成を扱った。
26日には家康とともに大阪入りをして、大坂、堺、京都の市中を引き回された後、10月1日に京都の六条河原にて処刑された。41歳の波乱に満ちた短い生涯であった。
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