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2009-06

浅井三姉妹(茶々、江、初)姫が育てられた小谷山 実宰院(じっさいいん)

 

3月料理 浅井盆梅 実宰院 0193月料理 浅井盆梅 実宰院 016

3月料理 浅井盆梅 実宰院 014

須賀谷温泉からそれ程遠くない距離のところに、平塚という20戸足らずの小集落がありその中ほどに実宰院という曹洞宗のお寺があります。

ここには、浅井長政の腹違いの姉、昌安見久尼が開基して住んでいました。     

 小谷落城(1573年8月)の前夜、浅井長政は、妻お市の方と、茶々、お初、お江の娘3人を小谷山東部の「嫁落としの岩場」から「梯子岩」を経て池奥へ逃れさせ、ここで、用意させておいた野良着に変装させ、坂を経て、北野を通り田川堤を下って、平塚の実宰院に逃れさせ、長政の姉、昌安見久尼がお市の方と娘たちをかくまったのです。    

かくまわれたというだけあって、須賀谷温泉から近いといえども、とても行きにくい、わかりにくい場所にあります。

さて、この浅井三姉妹、父である長政を小谷落城で失い、母お市の方も、その後再婚した柴田勝家とともに、北之庄城(福井)で死んで、全くのみなしごとなってしまったのですが、この三人娘を命がけで守り立派に育て上げたのが    彼女達のおばさんにあたる  昌安見久尼  だったのです。彼女は子育て名人として知られています。仏教の信仰も厚く、また、学問教養にもすぐれていた 見久尼は、兄長政から託された3人の娘の養育のため、日夜心をくだき、数々の努力を重ねたようです。    寺の中に閉じ込めて学問を子どもに押し付けるのでは、人間として成長できないと考えた見久尼は、戦国の乱世の底辺で骨身を削って働く農民の姿を見せ、農民と和合させることも大切だと考えました。また、この近辺には、天然記念物(戦国時代にはモチロン指定されていなかった!!!)であるハリヨが今も泳いでいますが、浅井三姉妹もきっと、ハリヨを川で採ったり、タンポポを摘んだり、浅井の恵まれた自然の中ですくすくと育ったことでしょう。 

 この浅井での心豊かな暮らしがあったからこそ、浅井三姉妹は、後に歴史に名を残す賢明な女性となったのでしょう。    

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ほたる

DSC_0152 (1)メ-ル補正

6月11日22:00 米原三島池付近 120ミリ f5.6 7分

6月11日ご宿泊の山田様が送って下さいました。とても素敵な写真をありがとうございました。

写真左下に小川が流れていて、その向こうに木立が見えます。

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石田三成ゆかりの地(再起を信じて辿った山中の道 谷口)

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谷口の杉林の道。三成は関が原に敗戦後、この道を逃げ、母の里(木の本の古橋)へと向かいました。どんな気持ちだったのでしょう。三成の残した功績は、秀吉の刀狩令、太閤検地を実施したという点にあります。当時農村には刀が氾濫しており、罪のない農民が武士に殺されてしまうことが多かったのですが、三成は、武士に刀を捨てて平民になるか、中央に行って武士を続けるかの選択をさせ農村と中央部とを分離したのです。これは、今でいう構造改革なのです。  DSCN1637

 

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三成は母の里(古橋)へ逃げる前の晩、谷口にある民家にかくまってくれるように頼みました。その家の人たちは、三成を丁重に迎え入れ、畳をまくって床下に三成をかくまりました。三成はこの家の人たちがしてくれた親切に感謝し、石田の姓を与え、以後末永く、石田姓を守ってくれるようにと言いました。同時に、身につけていた短刀と鳩の家紋も与えました。今も谷口には石田さんがおられ、その家では三成が居た場所はもったいなくて近寄れないとし、石田神社(右)として今も祀っておられます。

 

 

 

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