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2009-02

Ⅲ.京都編 1. 金福寺・圓光寺(たか女終焉の地・墓所)

 錦秋の京都に行きたいと思った。

 京都に行くなら真っ先に行きたいと思っていた場所がある。金(こん)福寺(ぷくじ)と圓(えん)光寺(こうじ)だ。いつか機会があったら、たか女が晩年を過ごした金福寺とたか女の墓所のある圓光寺を訪れたいと、ずっと思っていた。

 ついに念願が叶う時が来た。新幹線で京都駅に到着した私は、取るものもとりあえず叡山電車の出発地である出町柳に直行した。折しも紅葉が一番美しい季節である。出町柳の駅も2両編成の小型のワンマン電車も、平日だというのに大勢の観光客でごった返していた。なぜかお年寄りが多い。

 私が目指す「一乗寺駅」は、出町柳から3駅目。思ったよりも近い。乗客の大部分が鞍馬を目指しているので、一乗寺で降りる乗客は比較的少なかった。それでも、私の希望よりはるかに多くの数の人がこの駅で降りた。

 金福寺への道は、線路と垂直に交わる道をまっすぐ山側に向かっていく。途中、宮本武蔵と吉岡一門との決闘の舞台になったと言われている一乗下り松を通る。この下り松を過ぎて真っ直ぐに進むと、紅葉で有名な詩仙堂がある。金福寺に行くには、細い道を右に折れる。

 観光客も、詩仙堂までは足を運ぶものの、金福寺を訪れる人は少ない。さらに細くなっていく道をもう一度右に曲がると、やがて左手前方に金福寺の小さな門が見えてくる。周囲は閑静な住宅街だ。こんなところにお寺があるのかと途中訝しく思えてしまうほど、寺は周囲に溶け込むようにひっそりと建てられていた。

 十段ほどの石段を昇ったところに先程見た門があり、門の左手に大振りな楓の木が赤く色づいていた。まるで私のことを手招きしているように、楓の木の赤い色が私の眼を射た。京都に着いて最初に目にした紅葉に、私はしばしの間、足を止めて見入った。

 clip_image002 金福寺弁天堂

その楓の木の傍らに、「村山たか女創建の弁天堂」という小さな建物があった。いきなりたか女の足跡に接することができて、心が熱くなった。お堂の傍らの説明書きには、

  此の弁天堂は、舟橋聖一作花の生涯のヒロイン、村山たか女(妙壽尼)が慶応三年に

創建したものです。

  たか女は文化六年(一八〇九年)己巳(きみ)の年に生まれました。巳(白い蛇)は、

弁天様の御使ひとされて居るので、たか女は、弁天さんを深く信仰して居たものと思

われます。

  井伊大老が、櫻田門外で遭難してより二年後の文久二年たか女は、金福寺に入り、尼

僧として行いすまし、明治九年九月三十日当寺に於いて、六十七才の生涯を閉じたの

でした。

  法名、清光素省禅尼

 とある。いかにもたか女らしい慎ましやかな弁天堂だ。「辯財天女」と書かれた剥げかけた額が、たか女が生きていた時代との時の隔たりを感じさせる。ふと、大洞の弁天像のふくよかなお姿を思い出した。たしかに、たか女には弁天さまがよく似合う。

 一番の盛期をほんの少し過ぎてしまっていたが、庭のそこここに配置された紅葉が枯山水の庭に鮮やかなアクセントを加えている。白砂に映える赤い色、緑の木々とのコントラスト、苔に上に落ちた楓の鮮烈さ。すべてが庭という小さな世界の中に、計算され尽くして配置されている。たか女もこの紅葉を見たであろうと思うと、心が救われる思いがした。

 それほど大きくない本堂と小さな枯山水の庭と裏山とからなる寺の規模も、いかにもたか女が余生を過ごした場所として相応しいと思った。すべてを失い無となった彼女が人生の最後の時間を過ごした場所が、このささやかな空間だった。

 本堂には、たか女に所縁(ゆかり)のある遺品の品々が展示されていた。直弼の書や主膳の肖像画なども興味を引いたが、中でも私が一番心惹かれたのは、長野主膳に宛てたたか女直筆の密書である。あまりの流麗な筆であることに、驚いた。一方、楷書で書かれた弁天堂の棟(むね)札(ふだ)は実に端正な筆づかいで書かれている。三味線や和歌の道にも通じ、直弼や主膳と思想を共にしたたか女の教養の高さが窺える一品である。

 clip_image004 たか女の遺品

これまでは、たか女が生まれた家の跡であったり、たか女が訪れたであろう神社仏閣であったりで、私にとってたか女は、間接的にしか感じられない存在だった。金福寺を訪れてたか女が実際に手にした物に初めて接することができて、胸が詰まった。

直弼も主膳も忽然として世を去った後、たか女は何を心のよすがとして自らの余生を生きたのか?我が眼前にある彼女の遺品が、答えを語ってくれているような気がする。14年間の歳月は、けっして短い年月(としつき)ではない。私はこの金福寺でのたか女の生活に、涙する思いで心を馳せた。

clip_image006 金福寺本堂と楓

 金福寺は、村山たか女が亡くなるまでの時を過ごした寺としてよりは、むしろ与謝蕪村の墓のある寺として有名である。松尾芭蕉とも関係が深かった縁があり、「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」の句を芭蕉もこの寺で詠んでいる。古くから文人に愛された土地柄だった。たしかに京の街の中心部からやや離れ、静寂に支配された山の佇まいは、文人たちの心に安らぎを与えたに違いない。

世の喧騒から隔絶されていながら、鄙(ひな)ではない。そんな絶妙のバランスに裏打ちされた洗練された雰囲気を感じさせるところが、金福寺の魅力ではないかと考える。同じような雰囲気は、光悦寺あたりでも感じられる。いわゆる芸術家が集まりやすい環境なのかもしれない。

 京都の北山を一望のもとに見渡せる裏山に昇ると、蕪村の墓をはじめとして数々の文人の墓や碑があり、また芭蕉庵なる趣深い小屋(しょうおく)が建立されている。たか女もこの庵の傍らに佇んで、京の街を遠望したかもしれない。

 

 金福寺を後にした私は、詩仙堂を経て、圓光寺に向かった。

clip_image002[1] 圓光寺山門

 圓光寺は、徳川家康が開基の寺だけあって、金福寺よりよほど大きな寺域を有している。庭園の規模も本堂の規模も、金福寺をはるかに凌駕している。たか女の墓がどのような経緯で圓光寺に作られたのかを私は知らないが、たか女の墓であるのなら、慎ましやかな金福寺の方が似つかわしく思えた。

 たか女の墓のことは後に書くとして、まずは本堂の廊下に腰を降ろして、大規模な庭園を眺めることにする。

clip_image002[3] 圓光寺庭園

 残念ながら、紅葉の美しさでは、金福寺も圓光寺も先に見てきた詩仙堂に及ばない。観光客の多さがその差を如実に物語っている。鮮やかな紅色の楓がふんだんに散りばめられた詩仙堂の庭園は、紅葉を愛でる庭としては高度に洗練されている庭だ。丸く刈り込まれた手前の緑の植え込みとその向こう側の楓の赤とが見事に調和し、絶妙とも言える風景を作り上げている。

 圓光寺の庭園は、すでに紅葉がピークを過ぎていたこともあるが、そこまでの洗練された美しさはない。自然を模した楓の疎林の中に石や灯篭や苔を巧みに配してそれなりの雰囲気を作ってはいるが、雑然とした感は否めない。

 あるいはもう少し楓が鮮やかに色づいていればまた印象も変わったのかもしれないが、やや物足りなさを感じながら、庭園をしばし歩いた後、寺域の裏側にあるたか女の墓に向かった。

 たか女の墓は、表示がなされているのですぐにそれと知れた。

clip_image002[5] たか女墓

 何の変哲もない三段に石が組まれた普通の墓だ。裏側には何も刻まれておらず、表に「清光素省禅尼」と法名のみが彫られている。直弼の墓に供花が絶えなかったことや、主膳の墓の大きかったことと比べたら、花もなく何と質素なことか。そう思うと、涙がこぼれそうになった。

 数奇な人生を生きた一人の女性。それは、運命と歴史の渦とに翻弄された波乱に満ちた人生だった。むしろそれだからこそ、今は誰に邪魔されることもなく、ひっそりと眠っていてほしいと思った。

 私以外にも、数は多くはないけれど、たか女の墓を訪れる人は後を絶たなかった。彼女のファンは、案外と多いのかもしれない。たか女の生涯を追って、多賀大社から彦根を経てついに京都まで来てしまった。秋の彩り豊かな景色のなかで、私は不思議な思いでたか女の墓を見つめ続けていた。

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3月のお献立

☆★:∴: 弥生のお献立 :∴☆★

~季節の会席のご紹介~

【小鉢】 蓬豆腐 土筆 雲丹 山葵 花弁百合根 

【前菜】 子鮎甘露煮 蛍烏賊黄身辛子かけ 三段串打ち蝦 蛸柔煮 花丸胡瓜諸味噌 

     一寸豆 蕗ノ葉上品煮 豆腐田楽焼き のし梅 卯の花和え 鯛手毬寿司

【刺身】 牡丹蝦 鯛 ヨコ輪 芽物色々

【煮物椀】 桜蒸し 筍菜の花 山葵 梅の花びら 淡豆

【焼物】 鰆蕗味噌焼き 蛤新緑焼き 葉地神キャラ蕗

【鉢物】 鯛荒焚き 豆腐 木の芽

【台物】 鴨鍋

【止椀】 麦味噌汁

【食事】 近江米

【香味】 糟漬け

【水物】 蕨餅 苺 キィウィ

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Ⅱ.江戸編 7. 掃部山公園(桜木町)

clip_image002[6] 掃部山公園直弼像

横浜で直弼に逢えるとは、思ってもいなかった。

桜木町に掃部山公園という公園があることは知っていたけれど、これまで実際に行ってみたことはなかったし、それが井伊掃部頭の「掃部」であることにまでは、考えが結び付かなかった。

桜木町の駅を降りて横浜駅方面に少し戻り、そこから直角に山側に上っていく坂がある。紅葉坂という。有島武郎の「或る女」にも登場する趣のある坂だ。坂の途中、ユースホステルのところを右に曲がってまっすぐに行くと、小山に突き当たる。そこが掃部山公園である。

みなとみらいの高層ビル群が見渡せる眺めのいい高台に、ひっそりと直弼の銅像が建っていた。衣冠帯束姿の厳めしい表情をした直弼だ。どうしてこんなところに?予期せぬ人に偶然出くわしたような気持ちで、私は直弼の銅像に問いかけた。

 掃部山公園のある一帯は、明治5年(1872年)に新橋-横浜間で開通した日本で最初の鉄道を建設した外国人技師たちの官舎があった場所だという。鉄道建設の父と呼ばれているエドモンド・モレルもここに住んでいたとのこと。当時としては最先端技術者集団の華やかな暮らしの場だったのかもしれない。今でも山の斜面には、ブラフ積みと呼ばれるモダンな洋風の石積みが残っている。

その後明治14年に、横浜正金銀行の松井十三郎ら旧彦根藩士によって一帯の土地が買い取られ井伊家の所有になったところから、掃部山と呼ばれるようになった。公園の敷地内の一角には横浜能楽堂がある。明治8年(1875年)に東京・根岸の旧加賀藩主前田斉(なり)泰(やす)邸に建てられ、その後東京・染井の松平頼(より)寿(なが)邸に移築されて昭和40年まで使用されていた関東最古の舞台を復元したものだ。公演が行われていない日には無料で舞台を見学することができる。どこからか稽古の笛の音や鼓の響きが聞こえてきて文化の匂いがふんぷんと漂う雰囲気は、茶道に精通し能楽にも造詣が深かった直弼に似つかわしい。

 今見ている直弼の像は昭和29年(1954年 )に開国100周年を記念して横浜市が制作したものだそうだが、実はこの直弼像は二代目で、初代直弼像は明治42年(1909年)に横浜開港50年を記念して旧彦根藩有志が建立したものだと言う。残念ながら初代の直弼像は、戦時中の金属回収(昭和18年)により取り壊され、溶解されてしまった。

 この初代直弼像を掃部山(当時は戸部の丘と呼ばれていたらしい)に建立するに際しては、当時の世相にはなお直弼を良しとしない者も多数存在していて、建立推進派の旧彦根藩士らと建設反対派との間で抗争があった。恐ろしいことに直弼像の首は、これら反対派の人々によって除幕式の翌日に切り落とされたと言う。

死してなお直弼は、その是非を世に問われていると言うことか。まさに数奇な人生だったと言わざるを得ない。

これらの事実を以って、世に直弼は三度殺されたと言われている。

 一回目は、言わずもがなの桜田門外の変である。二回目が、この初代直弼像の首が落とされたこと。そして三回目が戦時中の金属供出。数々の悲劇を乗り越えて今の直弼像があるという事実に、直弼の執念のようなものを感じたのは私だけだろうか?

 そんな忌まわしい過去の歴史を超越するかのように、直弼像は屹然として青い空の下、港に向かって立っている。直弼と向かい合うように、172mと日本一の高さを誇るランドマークタワーが対峙する。さしもの直弼も、これほどの横浜の発展までは、予見できなかったに違いない。

 今では神奈川県の県庁所在地は横浜であり、一般には神奈川と横浜は同義語のように思われているかもしれないが、江戸時代までは神奈川と横浜は別の街だった。と言うよりも、街だったのは東海道五十三次の三番目の宿場町であった神奈川のみであり、横浜は東海道から外れた寂しい漁村だった。

この横浜に目をつけたのが、一説には直弼であったと言われている。直弼の像が横浜に建つ由縁でもある。日米修好通商条約において神奈川を開港地とすることにしたものの、外国人に神奈川から東海道を通って江戸に攻め込まれるリスクを考慮して、敢えて東海道からは少し外れた場所にある横浜を開港地としたのだと言う。それは反対に、急進的な攘夷派から居留外国人を隔離して守る役割も果たしていたかもしれない。

大阪に近い神戸もまた同様だったらしい。条約上では開港地は兵庫だが、実際の港は神戸に作られた。外国人たちから約束が違うではないかと言われないように、明治4年(1871年)の廃藩置県に際して、横浜がある土地を神奈川県、神戸のある土地を兵庫県と称したのだと言う。

神奈川でなく横浜を開港地とする判断を直弼が行ったとの話を明確に記載した歴史書は私が知る限りは見当たらないが、舟橋聖一さんの「花の生涯」では、直弼が横浜の地を開港地と定めたことが書かれている。直弼自身が考えたことだったかどうかは定かでないが、直弼が幕府の責任者だった時代に決定されたことであることは間違いない。

 そういう意味で私は、横浜と直弼とのつながりを重要なものとして位置づけたい。

2008年は日米修好通商条約が締結されて150年目にあたる年であり、翌2009年は日米修好通商条約に従って横浜が開港されて150年目の年である。

2008年の彦根では、その前年の彦根城築城400年の記念イベントに続いて、日米修好通商条約締結150周年の記念イベント(井伊直弼と開国150年祭)が華々しく開催されている。井伊直弼の偉業を讃えるイベントだ。

2009年の横浜では、開港150周年の記念イベントが着々と準備されている。国際貿易港として目覚ましい発展を続ける横浜市は、人口で大阪市を抜いて東京に次ぐ日本第2位の都市となっている。その礎を築いたのが、この日米修好通商条約であり、井伊直弼である。

 この2つの都市のイベントは、2008年8月23日と24日に実施された「彦根・横浜友好交流ウイーク」でつながった。

 日米修好通商条約の締結なくして横浜開港はなかった訳であり、そういう意味で直弼と横浜とはつながっているということか。そういうことが、一般の市民レベルで意識されるようになることは、好ましいことであると思う。

clip_image002[8] 掃部山公園直弼像

 彦根から始まった直弼を訪ねる旅は、最後に横浜で終えることにする。井伊直弼という、いろいろな意味で毀誉褒貶のある幕末を生きた大名の足跡を追ってきた。私は歴史学者ではないから、私が書いてきたことが歴史の真実であるかどうかはわからない。私が知りうる範囲内で、私の想像力を駆使して、直弼の生涯に迫ったつもりである。

 彦根時代は、直弼とともにたか女や主膳との華やかな交友関係に思いを馳せた。江戸時代は、桜田門外の変を中心に彼の政治思想面にスポットライトを当てて考察を試みた。最後にあたって、私なりの直弼像について総括することにする。

直弼には世界が見えていた。しかしながら、直弼は極めて開明的な君主ではあったものの、あくまでも幕府を中心とした幕藩体制の枠から発想をはみ出させることはできなかった。それはむしろ、直弼の人間的能力の限界ということではなくて、直弼は大名中の大名であり、大名としての立場の限界だったのではないか。

幕末に彗星のごとく現れた名臣として私が尊敬してやまないのが、勝海舟である。海舟は同じように世界が見えていた。世界の見え方自体は直弼とさほど変わらなかったのではないと思う。しかし決定的に異なるのは、海舟は清貧を極めた貧乏旗本の出身であり、幕府という枠に捉われる必要が最初からなかった。幕府の枠に捉われる必要がなかった分だけ、自由な発想を確保し得たのではないか。

先に私は安政の大獄は直弼の意志ではなくて、長野主膳の功名心によって引き起こされたのではないかと述べた。たしかに最初はそうであったかもしれない。しかし次第に安政の大獄の惨状が明らかになっていく過程において、直弼であれば止めようと思えば止められたはずだ。それを止めなかった、あるいは止められなかった背景には、直弼自身が心のどこかにおいてこの行為を是認していた事実があったにほかならない。

権力者であれば誰もが陥る誤謬。それは力に対する妄信と言い換えてもいいのかもしれない。直弼は図らずして幕府の中枢権力者となっていた。幕府の権威を守らなければならない立場、役割を彼は担っていたのだ。彼の発想の中では絶対的であり崩すことができない、いや、崩してはいけない江戸幕府という枠組みを守るためであったら、幾多の人々の命を犠牲にしたとしても、それはやむを得ないとの判断だったのではないか。

歴史に「たられば」はあってはならないものだが、もしも直弼が相も変わらず埋木舎での部屋住み生活を続けていたとしたら、果たして同じような判断を下したかどうか。安政の大獄という苛政は、直弼が幕府大老という役職に立って初めて出来(しゅったい)した発想だったのではないか。

それにしても、強い意志を持った人だった。その意志は、最後まで変わることがなかった。自分の与えられた役割を最後まで全うした直弼の生き方を、私は潔いと思う。太く短い人生の中に、直弼という人間の良いも悪いもすべてが凝縮された人生だった。

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