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2008-12

★☆★たる酒でおもてなし★☆★

平成21年 お正月 001   平成21年 お正月 008 平成21年 お正月 013ロビー風景 その3 005

今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

新春は、地元の酒蔵のたる酒をご用意し、皆様のご来泉をお待ち申し上げております。

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Ⅱ江戸編 2. 彦根藩中屋敷跡(ホテルニューオータニ)

 

東京は坂が多い町である。由緒のある主要な坂には、東京都の教育委員会が坂名の由来となったエピソードなどを記した標柱を設置しており、それらを見ながらぶらぶらと気の向くままに歩いてみるのも、私の東京の街の楽しみ方の一つである。

赤坂から四谷に向かう谷沿いの道を進むと、紀尾井坂という標識が目に入る。地名も、同じく千代田区紀尾井町である。元々江戸にあった地名とは思えない不自然な地名である。たしか江戸時代にこの地域にあった3つの大名屋敷の頭文字を取り、明治の時代になってから作られた地名であると記憶していた。

「紀」は紀州であり、「尾」は尾張であることは即座に思い浮かんだ。どちらも徳川御三家である。では最後の「井」はどこか?不覚にも私は、即座に思い浮かべることができなかった。しかしそれが井伊家の「井」であることに思い到った時に、私はすべての事情を了解した。

半蔵門に程近く、甲州街道のほぼ起点に位置するこの土地は、徳川幕府にとってと言うか江戸城にとっては、搦め手を守備する戦略的重要地域であった。そこを最も信頼できる御三家と譜代大名に守備させる必要性があったということに説明の余地はない。

ならばいっそのこと、紀尾井ではなく紀尾水とすれば良さそうなものであるが、御三家の水戸藩に代わって井伊家が据えられたところに、徳川の井伊に対する篤い信任があったのであろうと想像する。

余談になるが、紀尾井町にある清水谷は、自然の湧水があることから付けられた地名だろうが、今でも都会のオアシスとして、清らかな水と青々とした緑の安らぎを供給してくれている。都会の喧騒に疲れた心を一時の間癒すには、もってこいの場所である。

clip_image002 大久保利通哀悼碑

この清水谷は、明治11年(1878年)5月14日に明治の元勲大久保利通が暗殺された場所としても知られている。今も「贈右大臣大久保公哀悼碑」と書かれた6mを越す大きな顕彰碑が建立されているので、すぐにそれとわかる。当時は人通りも疎らな、鬱蒼と木々が生い茂る場所であったのかもしれない。

紀尾井町には、大きな建物が3つある。赤坂プリンスホテル、ホテルニューオータニ、それに上智大学だ。江戸時代のこの辺りの地図と見比べてみると、現在の姿と見事なまでの一致を見る。私は、こうして江戸時代の地図と現在の地図とを見比べ重ね合わせ、当時の江戸の街並みを想像しながら歩くのが好きだ。

すなわち、今の赤坂プリンスホテルの敷地がほぼそのまま紀州徳川家の麹町邸があった場所であり、ホテルニューオータニが彦根藩の中屋敷、そして上智大学が尾張徳川家の屋敷があった場所となる。江戸時代の町割りがそのまま今にも残っているところが、おもしろい。

先に私は、永田町にある彦根藩の上屋敷跡に赴いた。そして今は、中屋敷跡にいる。上屋敷が江戸に出ている諸藩の公邸であるとすると、中屋敷は私邸の位置づけになるものか。直弼が彦根藩主として居住していたのは上屋敷である。世子であった頃には中屋敷に住んでいたことが、小説に書かれていたように記憶している。それが真実であれば、今はホテルニューオータニとなっているこの地にも、直弼の足跡が刻まれていたことになる。

clip_image004 ホテルニューオータニ

地方の大名が江戸に上屋敷、下屋敷などいくつもの屋敷を保有していた背景には、地震等の災害で上屋敷にもしものことがあった際に、そのバックアップとしての役割が期待されていたようである。建物等に大きな被害が生じた場合に、今以上に復旧までに莫大な時間を要していたので、すぐにでも上屋敷の代替となるべき別の建物が必要だったということであろう。

この中屋敷にはどのような人が住んでいたのか?小説の中では直弼の妾が住んでいたように記憶しているが、私には詳細な情報がない。今後はその辺りの事情を研究してみることも、面白いのではないかと思っている。

憲政記念館や国会前庭洋式庭園となっている上屋敷跡と比べて、わずかに彦根藩の屋敷跡としての面影を残しているのが、ホテルニューオータニの日本庭園である。この日本庭園そのものは井伊家から伏見宮に移り、戦後外国人の手に渡るところをホテルニューオータニ創業者の大谷米太郎氏が譲り受け、整備し直したものだそうで、直弼が見たであろう庭園の姿そのものではない。

clip_image006 ニューオータニ庭園

しかしながら、日本庭園内に点在する幾多の石灯籠のなかには、当時の面影を伝えているものもあるとの由で、私は起伏に富んだ散歩道を上下しながら、ひたすら石灯籠を求めて歩き回った。

特に説明書きはないけれど、どれも大きくて威容のあるものばかりであり、このうちのいくつかを直弼も見たかもしれないと思うだけで、胸がじーんと熱くなるのを感じた。ホテルニューオータニの日本庭園は、宿泊者でなくても誰でも散策することができるので、是非お勧めしたい場所のひとつだ。

彦根から歩を始めて、直弼の足跡を辿って江戸に来た。彦根に生まれ育った直弼にとって、江戸の街や人々はどのように映ったであろうか?公人として、あるいは私人として直弼が過ごしたであろう土地を訪ねて、改めて直弼の数奇な人生を想った。

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20周年を迎えました

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この地方は、観音の里としても有名で、渡岸寺の国宝十一面観音をはじめ、数多くの重要文化財が点在しております。どの観音様も、庶民の手でずっと守られて来られたものです。

この土地柄もあり、当館にも十一面観音像が祀られています。この観音様は、めずらしく座っておられる十一面観音です。この観音様が温泉に来た由来は、初代社長が、湯治に来る人のために薬師如来様がいてくれたらなぁと、余呉にある全長寺というお寺のお坊さんに相談に行ったところ、大切にして世の中の人々の目にも触れさせてもらえるのなら喜んでと快諾してくださり、この観音様をお預かりすることになったものです。

今年ではや20年になります。その間毎月18日、余呉からお坊さんが般若心経を唱えに来て下さいました。20年間、毎月通い続けて下さったお坊さんも今年で95歳をお迎えになられました。お元気です。とても味のあるすばらしい般若心経です。もし、機会があれば18日、のぞいてみてください。

また、18日に限らず、拝観希望の方は、フロントにお申し付けくださいましたらご案内致します。

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Ⅱ. 江戸編 1. 彦根藩上屋敷跡(憲政記念館)

ある日の私は、国会議事堂にすぐ隣接している小高い丘を散策していた。深い緑に囲まれた広大な敷地は起伏に富み、鳥たちの囀りが心を和ませてくれる。眼下を見渡すと、深い緑色の水を満々とたたえた濠の向こう側に、江戸城がすぐ間近に見える。

この辺りから眺める江戸城の姿が一番うつくしい、と私は思う。緩やかに湾曲した緑の土手が濠から競り上がり、その上に低いが堅固な石垣が垂直に屹立している。俗に「鉢巻土居」と呼ばれる江戸城に固有の築城法だ。土手の上に石垣が鉢巻を巻くように配置されている。

そしてその向こう側に白を基調とした江戸城の城門が窺える。緑の背景の中で城門の白さが一段と際立って見える。なんと雄大で平和な光景だろうか。私は時間の流れを忘れて、暫しの間その場に立ち尽くす。

もしも歴史の知識が何もなければ、私の心はこの長閑で美しい景色を満喫できただろうと思う。しかしどうしても私は、心を穏やかにしてこの小高い丘から江戸城の景色を眺めることはできない。

clip_image004 憲政記念館から桜田門を望む

なぜならば、今私が立っている場所こそが、井伊直弼が主(あるじ)であった彦根藩上屋敷の跡であり、向こうに見える白い門こそが、桜田門であるからだ。

距離にしたらおそらく500mくらいの距離であると思う。こうして目の当たりにしてみると、ほんの目と鼻の先の距離であることがよくわかる。万延元年(1860年)3月3日の朝、ここから500mの地点で、あの事件は起こったのだった。

そんな150年前のことを知ってか知らずか、今では憲政記念館と国会前庭洋式庭園として整備され一般公開されているこの広大な公園で、幾組ものカップルや家族連れが休日の昼下がりの時間を満喫している。

憲政記念館は、議会開設80年を記念して昭和47年(1972年)に開館したもので、議会制民主主義の歴史をつぶさに学ぶことができる。館内には憲政の神様として知られる尾崎行雄氏の業績を称えた尾崎メモリアルホールが併設されている。

clip_image002憲政記念館

尾崎行雄と言えば、若い頃に「人生の本舞台は、常に将来に在り」という言葉に感銘を受けた。すなわち、

人間は、齢を重ねれば重ねるほど、その前途がますます多望なるべき筈のものだとい

うのが、私の最近の人生観である。

人間にとっては、知識と経験ほど尊いものはないが、この二つのものは年毎に増加し、

その直前が二つ共最も多量に蓄積された時期である。故に適当にこれを利用すれば、人

間は、死ぬ前が、最も偉大な事業、または思想を起こし得べき時期であるに相違ない。

若い頃は我が眼前に広大な「本舞台」が存していたが、あれから25年ほどが経過した今となっては、「本舞台」の余地は極めて限定的に狭められてしまっている。しかしだからと言って諦めることなく、放り出すことなく、これまでに得た知識と経験とを駆使して自分なりの足跡を残したい。

尾崎行雄のこの言葉は、むしろ今の方がありがたくわが心に沁みわたる。

国会議事堂前庭洋式庭園には、小さなローマ神殿風の不思議な建物が存在する。周囲の自然のなかで異彩を放つというか、そこだけ独特の雰囲気を作り上げている。これは、日本水準原点である。日本国内各地に存在する水準点の原点がここにあるのだ。

clip_image006 日本水準原点

水準点とは、土地の標高を決める基になるもので、この建物の中に据えられている水晶版の目盛りの標高は、24.4140mを示しているという。井伊の殿様の屋敷内に、奇妙なものが設置されてしまったものだ。

公園内のどこを歩いても、今は井伊家の上屋敷の痕跡を残すものは見当たらない。周囲の道端にひっそりと建つ「井伊掃部頭邸跡」と標された標柱以外には、ここで直弼が生きた証を見ることはできなかった。

古くはこの地は、大田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかくふじの高根を軒端にぞ見る」と詠んだ松原の一角に連なっていた土地であり、江戸幕府開府の頃には加藤清正の屋敷があった土地とも言われている。

そういう風光明媚で要衝の地に、井伊家の上屋敷があったということに、私は江戸幕府における井伊家の位置づけの重要性を思う。このことは、次の項(彦根藩中屋敷跡)でも触れることになるだろうと思う。

余談だが、安政の大地震(安政2年(1855年)10月2日)が江戸の街を襲った際、元々江戸城築城時の埋立地であった丸の内や八重洲、日比谷辺りの大名屋敷では百人を上回る多数の死亡者が出るなどの甚大な被害が発生したそうだが、麹町台地の強固な岩盤の上に建つ彦根藩上屋敷では、門や塀は崩れたものの死者はおろか怪我人もなく、被害は些少であったそうだ。

それにしても、ここから桜田門までは、本当に近い距離である。どうしてこんな近距離にもかかわらず、直弼の家臣たちは直弼を守ることができなかったのか?私の疑問はますます強まってきた。このことについては、別の項(桜田門)で考えてみたい。

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☆★☆長浜盆梅展始まります★☆★ 2009.1.10~3.10

長浜盆梅展は昭和27年からはじまり、平成21年で58回目を迎えます。 毎年1月10日から2ヶ月間、新春の風物詩として開催しており、歴史・規模ともに「日本一の盆梅展」として親しまれています。

長浜盆梅展は開花時期に応じ、300鉢の中から約90鉢を純和風の座敷にずらりと展示されます。
中には、高さ3m近い巨木や樹齢400年を超える古木もあります。

売店の商品 003 今年のポスターです。

有名な盆梅をご紹介します。

Gfuck[1].63HpnA6_2.jpg 盆梅展3

命名 「さざれ岩」

命名の由来:

「さざれ石の巌となりて」の詩の如く力強く生きている様から

 

 

 

3onYRBMYw7aDE_2.jpg 盆梅展5

命名 「不老」

命名の由来:
長浜の盆梅の中で、最も齢を重ね、不老長寿を感じさせる

 

 

 

waNLh_GJG41eo_2.jpg 盆梅6命名 「花音 KANON」

毎年一つずつ、公募により名前が決まります。

昨年度は、これでした。

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5. 天寧寺

私にとって天寧寺は、妙に艶めかしいイメージが付きまとう寺だ。

それもこれも、諸田玲子さんの小説「奸婦にあらず」のせいである。埋木舎での15年間の忍耐の末に彦根藩主となった井伊直弼が、お忍びでたか女との逢瀬の舞台として選んだのが、ここ天寧寺ということになっている。

もちろん小説の中での話ではあるが、さもありなんとの思いもする。天寧寺は、彦根城と多賀大社とを結ぶ道の中間地点にあるからだ。二人がどんな想いでこの天寧寺を訪れ、この建物のどこかで語り合い、愛を確かめ合ったのか。そんな想像をするだけでも楽しいではないか。

そもそもの寺の縁起が、直弼の父である十一代直中が、腰元の不始末を責めて手打ちにしたものの、不義の相手が我が息子であったことが後にわかり、その腰元と初孫の供養のために建立した寺と伝えられる。男女の間にまつわる因縁の深い寺なのだ。

しかもここ天寧寺には、井伊大老供養塔、長野主膳の墓、村山たか女之碑の豪華3点セットが揃っている。ちょっと出来過ぎの感がしないでもないくらいだ。今で言うところの三角関係と言ってしまっては下世話過ぎるか。三人の関係を想像することも、また歴史のおもしろさである。

clip_image002[9]clip_image002[5]

井伊大老供養塔                                                   長野主膳墓

井伊大老供養塔は、桜田門外の変で暗殺された直弼の血染めの土や遺品を四斗樽に入れて埋めたものであると言われている。東京の豪徳寺にある本物の墓よりもこちらの供養塔の方が墓らしくて立派なくらいだ。残された彦根の人々が直弼の突然の死を悼み、直弼を偲ぶ唯一のよすがとして、心を籠めて建立したものに違いない。その時の人々の悲しみがひしひしと伝わってくる。

長野義言之奥津城と刻まれた主膳の墓は、生い茂る楓の緑に囲まれて全貌が見えない。墓と言うよりは記念碑のような大きな墓石だ。直弼亡き後の主膳は、虎の威のなくなった狐よろしく、追い落とす立場から追い落とされる立場に境遇が一転した。最後は直弼の後を継いだ直憲の命により打ち首となったと伝えられる。死してなお藩民から慕われた直弼とは対照的に、主膳は彦根藩によって処刑されたことになる。

clip_image006たか女之碑

たか女之碑は、直弼の供養塔や主膳の墓石と比較して小さなもので、ひっそりと建てられている。説明板も何もなくて、建立の由来がわからない。天寧寺がたか女ゆかりの寺であることは確かであるのだろうが、誰が何のために建てたものなのか、ついぞわからなかった。何の変哲もない石碑であった。

 

私の中での天寧寺はこれら三人が主人公である寺なのだが、一般に天寧寺は、むしろ五百羅漢のある寺として世に知られている。例の直中が自らの過失により葬ってしまった腰元と孫の霊を鎮めるために京都の名工駒井朝運に命じて作らせたものと伝えられている。

「奸婦にあらず」のなかでも諸田さんは、直弼、主膳(主馬)、たか女の三人をこの羅漢堂に赴かせている。その一節を以下に引用する。

三人は回廊伝いに羅漢堂へ赴く。小坊主が堂の入口で恭しく出迎えた。扉を開けて中へ誘い、外から扉を閉ざす。 次の瞬間、四方の壁いっぱいに居並んだ羅漢像が、鈍い光彩を放ちながら、圧倒的な威容で迫ってきた。これまで何度かお詣りしているたかでさえ感嘆の吐息をもらす。ましてや、はじめて足を踏み入れた主馬は、荘厳な眺めに我を忘れているようだった。

今は入口に小坊主はおらず、セルフサービスで御堂の扉を開けるシステムとなっているが、扉を開けた瞬間の驚きと感動は、まさに諸田さんが書かれたそのままである。光背を擁した極彩色の羅漢像が一斉に私に向かって語りかけてくる圧力。 何万人も入るスタジアムの真ん中に自分がいて、スポットライトを浴びながら観客である羅漢から凝視されているような、そんな錯覚にも陥った。静寂が支配する広いお堂の中で、羅漢と自分の真剣勝負が演じられている。心地よい緊張感に私は酔いしれた。

clip_image002[1] 紀行文写真file 283五百羅漢像

天寧寺の裏庭からは遠く彦根城を望むことができる。今では高い建物が並び立ち、必ずしも美しい景色とは言えないが、直弼がここから見たであろう彦根城は孤高の高さを天に誇っていたことと思う。彦根城の遠景を見ていると、なぜか心が落ち着いてくる。大洞弁財天から見た彦根城も、天寧寺から見た彦根城も、みなうつくしい。

直弼とたか女を慕って彦根とその周囲を経て巡った。一旦ここで、彦根における私の小さな旅を終わることとする。次は、舞台を江戸(東京)に移して、再び直弼の足跡を追ってみたい。その前に、直弼についてごく簡単に私なりの総括をしておく。

一般に、安政の大獄を断行した首謀者として、直弼のイメージはすこぶる悪い。桜田門外で横死したことも、滅びゆく徳川幕府の象徴として印象づけられ、事実直弼の死から歴史は大きく討幕へと流れが切り替わっていくことになる。桜田門外の変から明治維新までの時間が僅か8年でしかないことを考えると、この事件が徳川幕府にとってはまさにターニングポイントであったことがわかる。

直弼が推進した日米修好通商条約の締結とそれに基づく横浜や神戸等の開港は、後の歴史の流れを眺めてみれば紛れもない正解であり、直弼の判断が正しかったことに疑いの余地はない。ではその実現手段としての安政の大獄が、果たして選択し得る唯一の手段であったかどうか。

そもそも安政の大獄とは何だったのか?直弼は、そこまでして力による弾圧を強行しなければならなかったのか?安政の大獄がなかりせば、これほどまでに直弼の名が天下に貶められることはなかったであろうに。

私には、日米修好通商条約を締結した直弼と、安政の大獄を実行した直弼とが、どうしても同一人物には思えない。あるいは英明な君主の一面と冷徹な為政者の一面の両面を持ち合わせていたと考えられなくもないけれど、私はそのようには思いたくない。埋木舎での15年間の忍耐と、その間気持ちを切らすことなく自己精進を続けた強い意志力は、並大抵のものではない。人の苦労と人生の悲哀とを熟知した直弼が、いとも簡単に何人もの尊いはずの人命を奪ってしまうようなことが、本当にできたのだろうか?

そこで湧き起こってくる疑問が、安政の大獄は本当に直弼の意志によるものだったのか?という疑問だ。何の根拠があっての説ではないが、直感的に、そこには直弼と主膳との間のディスコミュニケーションがあったように私には思えてならない。あるいは、主膳の独走というか暴走だったのではないか。

主膳の行動の中には、単なる国学者としての活動に止まることなく、強い立身出世欲と野望とが見え隠れしているように思える。もう少し言葉を悪くして言えば、どこかに胡散臭さがあるのだ。直弼を利用して自らの思いなすところを実現せしめる。私の直感が正しいかどうかの結論は、もう少し長野主膳という人物に焦点を当てて調査研究を行った後でなければ下すことができない。

たとえ主膳に原因があったとしても責任は主(あるじ)である直弼に存するものであり、それを知る直弼は従容として死に赴く。逃げ隠れすることなく、実直なまでに生きてそして死んだ直弼という人間の苦悩と意地と責任とを想った。

雪の桜田門外に置かれた駕籠の中で、断末魔の直弼は何を思って死んだのか。もしかしたら、うつくしい彦根の町並みとたか女のことだったかもしれない。

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4. 大洞弁財天・龍潭寺・井伊神社

彦根城からこんなに近い場所に、こんな不思議な場所があるということを、私は知らなかった。

大洞(おおほら)弁財天の存在を知ったのは、諸田玲子さんの著書である「奸婦にあらず」によってであった。本書では、直弼の愛人として知られる村山たか女は多賀大社の坊人であるとの設定であり、加えてたか女は弁財天の加護を篤く受けていたことが書かれている。悲しいことやつらいことがある度に通ったのが、この大洞弁財天であった。

弁財天は、佐和山城のあった佐和山から連なる大洞山の中腹にある。

どこにでもあるような弁財天の像を想像して、さして期待感もなしに参道となる急な坂道を昇っていった私であったが、昇り詰めたところに意外と立派な伽藍が出現したので、まず驚いた。琵琶湖を背景とした彦根城を遠望できる風光明媚な立地に、二層から成る立派な山門が建立されている。その山門と対峙するように建てられた本堂とともに、細かな彫刻が彫り廻らされている。

さらに、本堂に昇る階段の前に立って中の御本尊を仰ぎ見た時、私は思わず驚きの声を挙げた。薄暗い空間の向こう側に、金色(こんじき)の光に彩られた大きな弁財天が鎮座しておられたからだ。それは、私の想像を遥かに超えた大きさだった。大きさでご利益を計れるものではないが、この大きさは圧倒的な力で私を支配した。文句なしに、凄い。clip_image002 紀行文写真file 210 大洞弁財天

小説の中でたか女が、この弁財天の化身として、心から帰依していることも素直に頷けた。

木製の格子に隔てられ、金色の帳の向こうにおわします弁財天は、右手に剣を携え左手に宝玉を持ち、実に神々しいお姿をされている。訪れる人も稀な静かさの中に、白いお顔が浮き出て見える。

直弼も、見たであろうか?

きっと見たに違いない。彦根城からここまでは、目と鼻の距離である。訪れていないと考える方が不自然である。この御堂の麓には、直弼が参禅のために通った清涼寺もある。

なんとも神々しい気持ちになって弁財天のある大洞山を降りた。降りきったところに、龍潭寺(りゅうたんじ)がある。この辺り一帯は、佐和山城下だったところで、石田三成や島左近の屋敷があったという。寺に向かう入り口に、何かを語りかけているかのように端正に正座した三成の像が建立されている。ここの土地は今でも、井伊家のお膝元である以上に、石田三成の居城があった、三成ゆかりの土地なのだ。

龍潭寺は、しっとりと落ち着いたお庭がきれいな寺だ。方丈に入ってまずは、枯山水の庭園を、縁側に腰かけてじっくり観る。流れる水を表すような砂の白い色と石の周囲の苔の緑とが溶け合って、なんとも清々しい。有名な京都竜安寺の石庭よりも石の数も緑の割合も多くて、その分親しみやすく心にすうっと沁み込んでくるようなお庭だ。clip_image004 紀行文写真file 263 龍潭寺庭園

暫しの間、静かで贅沢な時間を過ごす。

龍潭寺には、背後の佐和山を借景とした回遊式の庭園もあり、こちらは斜面に生える木々と池とが調和して、枯山水とは異なった趣を見せてくれる。名刹と呼ぶにふさわしい、立派な寺院である。

龍潭寺の左手に、井伊神社という神社があった。入口の説明板によると、直弼の兄であり先代彦根藩主であった直(なお)亮(あき)が、井伊家の始祖である井伊共保の750回忌にあたり、遠州引佐郡にある井伊谷八幡宮から井伊大明神を分霊して祀ったものであるという。井伊神社と書かれた額が掲げられている石造りの鳥居をくぐり、草深き参道を本殿に向けて歩を進めた。

すると、弁財天や龍潭寺を見てきた後の私には、異様とも思える光景が眼前に現われてきた。なんと、鳥居の奥に建立されている井伊神社の本殿は荒廃が著しく、保護のためなのかフェンスで覆われていて、それ以上中に進むことができなかった。

clip_image006 井伊神社紀行文写真file 228

直亮が建立した神社であるのだから、160年ちょっとしか経っていないというのに、どうしてこんなに荒れ果ててしまっているのか?隣接する龍潭寺や弁財天の整備された伽藍と比較すればするほど、疑問は高まる。そういうことも含めて、この場所一帯は、初めて訪れた私にとって、不思議な空間であった。

先にも少しだけ触れたが、この地域には井伊家の菩提寺である清涼寺という寺もある。寺域は元々は石田三成の武将であった島左近の屋敷跡と言われ、関ヶ原の戦いで戦功を挙げて井伊家繁栄の礎を築いた直政の墓所がある寺としても知られている。

残念ながら清涼寺は一般公開されていないが、幕末に直弼が参禅のために何度となく足を運んだことは先に書いた。

古くは石田三成の城下として栄え、その後は井伊家の聖地として祀られ、崇められてきたのがこの地域なのだと知った。ほんのりと直弼やたか女の面影を感じとりながら、この不思議な場所を後にした。次に来る時には、三成の気持ちになって佐和山の頂上に昇ってみたいと思った。

 紀行文写真file 271 紀行文写真file 273

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2008年12月のお献立

☆★:∴: 師走のお献立 :∴☆★

~季節の会席のご紹介~

師走の料理 001

【小鉢】 粒貝辛子酢味噌掛け  菜の花

【前菜】 金柑蜜煮 子持鮎甘露煮
     人参カステラ 干し柿チーズ鳴門巻き
     鯛皮煮凍り 鮭寿司 墨蓮根

【刺身】 牡丹蝦 鯛 ヨコ輪 芽物色々

【椀物】 養老汁 蟹の身 鶯菜

師走の料理 003

【焼物】 柚子釜焼き 葉地神 柚大根

【煮物】 鯛荒焚き 豆腐 木の芽

【台物】 鴨鍋

【止椀】 麦味噌汁

【食事】 近江米

【香味】 糟漬け

【水物】 栗羊羹 梨

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冬の訪れと秋の名残り・・・

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今朝も、粉砂糖のように雪が舞い、午前中は厚い雲で被われていた伊吹山が、午後には、うっすら雪化粧して青空の下にお目見えしました。こちらでは、伊吹山に3回雪が降ると地上にも雪が降るといわれています。

ふと小谷山に行ってみたくなりました。一週間前は紅葉の錦絵につつまれていた山がどんな風になっているか、みてみたいと思いました。小谷山は途中まで車で登れます。

 

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「望笙峠(ぼうしょうとうげ)」と言って琵琶湖に浮かぶ竹生島が一望できる素敵な場所があります。今日は晴れてるから、竹生島もきっときれいに浮かんでるはずと期待しながら、車のギヤをローに入れて上っていきました。

紅葉はすでに終わっていましたが、自然はどんなときも、その時そのときの美しさを保つものだなぁと感激しました。過ぎ行く秋に寂しさを感じている旅人の心を癒してくれるかのように、かれんなもみじがさりげなく迎えてくれました。

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ことしも、わたり鳥がやってきました。

冬期、多い時には1000羽を越える水鳥が羽を休めています。ヒシクイやカモをはじめとする渡り鳥が多く、ヨシの中には、サギ類も潜み、定住しているオシドリが30羽ほどいて地元の人たちが大切にしています。またオオヒシクイの日本南限の飛来地でもあり、学者をはじめ多くの愛鳥家が訪れ、バードウォッチングが楽しめます。

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