そんな中、紫陽花の花がすっかりと元気よくきれいに咲いています。やはり梅雨空に似合う紫陽花です(^0^)
「全長寺さんの紫陽花♪」
だるま寺として有名な全長寺は綺麗なあじさいを鑑賞できるお寺として有名です。門前のあじさい道には色とりどりの花が咲き、来訪者を歓迎してくれますよ♪
日々の幸せを祈願してふと傍らに目をやると美しく咲くあじさいに癒やされます。花と人と心のふれあいですね!!!
写真のお花はガクアジサイと言います。花言葉=「謙虚」。日本にもともとあったあじさいの原種、西洋あじさいのような華やかさはありませんが、和の佇まいに合うこのあじさいにはぴったりな言葉ですね♪
当館もこのお花のように謙虚な姿勢で、お客様に満足して頂けるようベストを尽くして参ります。
]]>日本は四季のある美しい国である。
春夏秋冬、それぞれに趣きのある風情を私たちに見せてくれるその四季に一度ずつ、私は百済寺町を訪れた。
春の田植え、夏の成育状況視察、秋の稲刈り、そして今、冬の新酒利き酒である。
百済寺樽プロジェクトの今年の行事全4回が無事に終わり、今は大いに安堵している。
と言うのは、7月に私自身の中に深刻な病気が見つかって、一時は稲刈りや今日の新酒利き酒会に出席することができないのではないかと懸念したからだ。その試練を乗り越え、無事に今日の日を迎えられたことに、まずは感無量である。
今日(2019年1月20日(日))は朝9時から、総祈祷(そぎと)という百済寺本町に400年間に亘って伝わっている伝統行事を隣の部屋から見学させていただいた。
百済寺町は信長の焼き討ちに遭って町全体が火災の大きな被害を受けた。二度とこのような火災の被害を受けないようにとの町民たちの願いを受けて始まったのが、この総祈祷という行事なのだそうだ。
総祈祷の様子
総祈祷というのは、百済寺の住職による3時間にも及ぶ「仁王般若経」読経がメインの行事となる。百済寺本町の各戸から一人ずつ代表者が参加して行われるものだそうだ。
ご住職の読経により、七難即滅七福即生、無病息災が祈念される。
冬場に住民が総出で公民館に集まって行う祭りというと、私はすぐに湖北地方の「オコナイ」を思い出す。
オコナイを一言で言ってしまえば、鏡餅を作って神に祀り、向こう一年間のムラの無病息災と作物の豊年満作とを神に祈る行事であるが、総祈祷はひたすら百済寺の住職が読経するという行事のようだった。ただしそこには、住民と百済寺との堅い結びつきを感じることができる。
最近は参加者も少なくなる傾向にあり、次第に簡略化されて読経の時間も短くしてきているのだそうだ。今日の住職の読経は、約半分の1時間15分ほどだった。
住職の読経が終わると、住職を中心として町民のみなさんが部屋の壁に沿って年齢順に坐り、盃に注がれた日本酒を順番に飲んでいく。
日本酒は全部で5升と決められていて、そのうちの1本が「惣御神酒」で、残りの4本が普通の御神酒だ。
昨年は初めて、惣御神酒として百済寺樽が使われた。今年は5本とも百済寺樽という豪華さだった。これは、百済寺樽プロジェクトから提供したものではなくて、百済寺本町の方々から総祈祷で百済寺樽を使いたいとの依頼があったものと聞いている。
地元と密着したプロジェクトが町の人たちにも認められて、町の伝統行事とも一体化して成熟していくことは、とてもいいことだしうれしいことだ。
大きな鉄製の鍋のような酒器が2つ用意されている。惣御神酒の日本酒の瓶と酒器には水引きの飾りがつけられている。
最初に惣御神酒の日本酒1升を片方の酒器に注ぎ込み、次にその日本酒をもう一方の酒器に注ぐ。
酒器にはそれぞれオスとメスとがあるとのことで、オスの酒器に注いだ日本酒を酒器内でよく攪拌した後に、メスの酒器に移し替えてまたよく攪拌する。
下座から当番の方が口上を述べて、酒宴が始まる。
介添え役の方が2人いて、一人が順番に盃に日本酒を注ぎ、続いてもう一人がつまみを供する。つまみとしては、牛蒡と大豆とお米が供される。
最初に百済寺のご住職が酒を飲み、その後は左右に坐った年長の人から順番に盃をあけていく。
一つの盃(実際には会の効率的運営のために盃は2つ使用していたが)を皆で回し飲みするという行為は、町人たちが一つの社会の一員であることの象徴的現れだろうと思った。同じ盃から同じ酒を呑み合って、町としての一体感を毎年認識する。
ひとしきり参加者に惣御神酒が行き渡ったところで、次に残り4升の御神酒が振舞われる。
最初の惣御神酒は一人ずつ順番だったが、御神酒は全員に日本酒が行き渡るまで待って、皆で一斉に日本酒を飲む。今回はお行儀よく全員が注ぎ終わるのを待っていたが、例年は待ちきれずに先に飲んでしまう長老もいるとのことで、厳かな雰囲気の中にも和やかさを感じ取ることができる場面でもあるようだ。
皆に日本酒が注がれるのを待つ間に、皿に盛られた辛味(唐辛子)、刻み牛蒡、刻み昆布の皿が運ばれる。
私たちは隣の部屋から襖を少し開けて会の様子を見させていただいたのだが、私たちはもちろんのこと、町の方々でも一家に一人と定められた今日の出席者以外はたとえ百済寺本町に住んでいる人であっても、会場の大広間に一歩たりとも入ることが許されない。
控えの間にいる人は大広間には入れないので、つまみの皿も部屋の境のところで大広間にいる出席者に手渡すという徹底ぶりだった。
この儀式は、一昨年までは女人禁制だったそうだが、昨年から女性でも参加することができるようになったそうである。当地に400年間続く伝統行事ではあるけれど、時代に合わせて少しずつルールは変わってきているらしい。とは言え、今年は女性の参加は一人もいなかった。
この総祈祷の行事は、百済寺の町の中でも百済寺本町に住んでいる住人だけが参加される行事で、他の町では行われていない。あるいは、百済寺本町と同様にかつては類似の行事が行われていたものの次第に衰退し、今は百済寺本町のみに遺されている行事なのかもしれない。
先にも触れたが、参加できるのは一家で一人のみと決められている。たいていは親が参加するので年齢層が高くなる。
それでも、全部で100戸くらいある総戸数のうちの、今日の参加者は半分以下とのことだった。
私たちも隣の部屋で、肴として供されている辛味(唐辛子)、牛蒡、刻み牛蒡を少しずついただいて、もちろん日本酒はなかったけれど総祈祷の雰囲気を少しだけ味わわせていただいた。
特に辛味は、町に伝わる唐辛子の種から栽培して、唐辛子とみかんの皮だけで作るこの町特有のものである。みかんの皮を入れるのは、おそらくは香りをよくするためだろう。
オレンジ色一色の唐辛子の色がとても眩しい。少しだけ手のひらに取って口に含んでみると、頭のてっぺんにツンとくるような辛さが響く。
辛いもの好きな私でさえ辛く感じるのだから、相当な辛さである。
でもスッキリとした辛さなので、後味はけっして悪くはない。確かにこの辛味だけでも十分日本酒がおいしく飲めるだろうと思った。
辛味以外の牛蒡も、酢が適度に効いていてこれまた日本酒とは相性抜群だと思った。食べなかったけれど刻み昆布もきっと同様に日本酒にピッタリな味なのだろう。
これらの肴を食べながら町の人同士で語り合う時間は、とても貴重な時間になるのだと思う。
普通は他所者には公開することがないこのような行事を快く見せてくださった百済寺本町のみなさんに深く感謝したい。
他の人たちがおいしそうに日本酒を飲んでいる光景を日本酒を飲まずに眺めているのは、精神衛生的にはあまりいいものではない。
次は喜多酒造で私たちが出来たばかりの百済寺樽をいただく番だ。
野菜花(のなか)という野菜料理専門のお洒落な店でみんなで昼食を摂り、愛東町マーガレットステーションで再びジェラートに挑戦した後、私たちはいよいよ喜多酒造へと向かった。
その前に、ジェラートのことだけはどうしても触れておきたい。
前回の稲刈りの章で、マーガレットステーションで大盛りのジェラートを食べたものの、すぐに溶けて滴り落ちてくるジェラートに大いに悩まされたことを書いた。
今回はそのリベンジだった。
さすがに冷たい雨が降りしきるこの気温では、前回のようなことはあるまいと思ってはいた。しかし改めて見るジェラートのボリュームに、私は内心少したじろいだ。
今回は何と、「みずかがみ」と「ホウレンソウ」という非常にレアな、おおよそジェラートの材料とはなり得ないような味のジェラートに挑戦した。
みずかがみとは、滋賀名産のお米の品種である。
東京・日本橋の「ここ滋賀」で、昨年みずかがみの新米を購入して食べたことがあった。ふっくらとしてとてもおいしいお米だった。
しかし、お米として食べるのなら理解できるけれど、ジェラートとして食べるとなるとどんな味なのか皆目見当がつかない。
ホウレンソウにしたって、みずかがみほどではないにしても、事前に想像することが難しい味だ。
溶けないように素早く食べながら、なおかつ不思議な味をしっかりと味わわなければならない。なかなか難しいチャレンジだった。
みずかがみは、ほんのりお米のつぶつぶ感を感じながら、味はあっさり系の味だった。
ホウレンソウは、思っていたようなエグさがなくて、とてもマイルドな甘さで食べやすい味だった。
最初のうちはいくら食べても全然減らなくて嫌な予感が一瞬漂ったけれど、さすがにこの気温の中では、雫を垂らすこともなく完食することができた。
シャーベットも食べてすっかり心もお腹も満ち足りた私は、車に乗せていただいて、みんなと一緒に喜多酒造へと向かった。
喜多酒造は、名神高速道路の八日市インターチェンジと紅葉の名所として名高い永源寺の中間くらいにある、八風街道沿いにある酒蔵だった。
この道は秋の紅葉シーズンに何度も通ったことがある道なのに、喜多酒造がここにあるということを私は今まで気がつかずにいた。
八風街道を挟んだ反対側の駐車場で車を降りると、同じ駐車場に石川ナンバーの車が何台も駐められていた。今日は石川方面からの蔵見学の人たちが多いのかと思ったら、みんな杜氏の車だということが後からの社長の説明の中でわかった。
八風街道を渡り、喜多酒造の敷地内を横断して、敷地の反対側から一旦外に出る。
正面側の八風街道と比べたら大変に狭い道だが、実はこの道が旧の八風街道だったのだそうだ。車が1台すれ違えるかどうかの道幅なのに、昔はこの道をバスが通っていたとは喜多社長の言である。
従って、喜多酒造の玄関もこの旧街道に面している。
「喜楽長」のロゴが染め抜かれた由緒ありそうな赤茶色の大きな暖簾を潜り、すぐ右側の部屋に通される。今日の新酒利き酒会場となる場所だ。部屋の中央に長机が置かれていて、すでにその中央にプロジェクターが用意されている。
今日の喜多酒造でのスケジュールは13時40分から16時20分までと事前に知らされていたので、2時間半以上も利き酒が楽しめるのかと思っていたら、そうではなかった。
最初に社長から日本酒造りについての「授業」があって、その後に酒造所の見学があって、最後の最後に百済寺樽の新酒にありつけるというスケジュールになっていることがわかった。
部屋の中が暖かかったのと、前日の睡眠不足とがたたって、社長の授業が始まったらすぐに睡魔が襲ってきた。社長の話はおもしろかったし私が知りたいことがたくさん散りばめられていたのだが、今朝もその前の朝も早起きをしなければならなくて、私には睡眠時間が絶対的に不足していた。
なので、ここでは社長の貴重な話をあまり記載することができない。
喜多酒造の看板商品は、「喜楽長」というちょっと変わった名前の日本酒である。この喜楽長という銘柄名は、呑む人に「喜び、楽しく酒を飲みながら、長生きしてもらいたい」という思いを込めて命名したものなのだそうだ。
百済寺樽の酒米は、「玉栄」である。滋賀県に特有の銘柄であると言ってもいい。
社長の説明により、酒米の種類によって稲の背の高さが違うということを初めて知った。いくつかの種類の酒米の穂が付いたままのサンプルを見比べることができた。
玉栄は長くもなく短くもなく標準的な長さの品種のようだったが、酒米としてよく知られている「山田錦」は非常に背が高い品種であることがわかった。
背が高いと風の影響を受けて倒れやすくなるそうで、農家にとっては栽培が難しくなるそうだ。近畿地方に莫大な被害をもたらした昨年9月の大型台風の時にも我が玉栄が無事だったのは、あるいはこの背の高さが幸いしたのかもしれない。
収穫後、これを磨いていく。
磨く前の100%のコメと、80%精米のコメと、60%精米のコメの3種類のサンプルを見せていただいた。こうして比べてみると、1粒の大きさの違いも当然だが、コメの輝き度合いの違いに驚かされる。
100%の磨く前のコメは白い色をしているけれど、80%精米を経て60%精米になると周囲の白い部分が削り取られてまるで宝石のように透明で輝いて見えた。濁ったものを取り除いて澄んだコメの中心部分だけで造った日本酒は、まさに贅沢品だと言えるだろう。
20俵のコメを60%にまで精米するためには30時間もの時間が必要なのだそうだ。材料も贅沢に削り取るけれど、時間も贅沢に使っての作業であることを実感した。
水は鈴鹿山系愛知川の伏流水を使用している。
水質は軟水で、やわらかくて含みのある味わいを醸し出すのに最適な水である。この水を自家の井戸から汲み上げて使用している。
いいコメといい水とその素材のよさを最大限に引き出すいい杜氏の三つの条件が揃って初めて、旨い日本酒を造ることが可能になる。
先程も少し触れたが、喜多酒造では代々能登杜氏により酒造りを行っている。
酒造りの最高責任者である「杜氏」と酒蔵を経営する「蔵元」とは強い信頼関係で結び付けられている。車の両輪というか、一心同体にならなければ旨い酒を造ることができない。喜多社長は力強くそう宣言した。
能登杜氏への信頼感は、酒造りに対する真摯な姿勢と常により良い日本酒を追い求めるという探求心とにあると社長は言い切る。杜氏と蔵元とがまさに強力なタッグを組んで日々努力精進し結実したものが、私たちが口にする喜楽長の酒ということになる。
ますます早く新酒を飲みたくなるような熱い社長の口上が続く。
現在の杜氏は四家(しやけ)裕(ゆたか)さんという昭和32年生まれの方が務められている。
喜多酒造における能登杜氏の歴史を見ていくと、戦前から昭和29年までは天保勇さんが杜氏を務め、昭和30年からは天保さんの息子の天保正一さんがその後を継いだ。平成18年からは家修さんに代わり、そして平成26年から四家裕さんが杜氏に就任して今に至っている。
四家さんの体制となった平成26年からは何と4年連続で全国新酒鑑評会で金賞を受賞している。通算では18回目というから、喜多酒造は金賞受賞の常連である。従前からいかにいい酒を造っていたかということがよくわかる。
その四家さんのもとで社長の実のお嬢さんの喜多麻優子さんも杜氏として酒造りに従事しているとのことだった。
最近は女性杜氏誕生の話もちらほらと聞かれるようになってきたが、麻優子さんは将来は社長として喜多酒造を継ぐことをすでにお父様である現社長に宣言されているそうだ。そう話す社長の口元が緩む。
どこの会社でも社長にとって後継者問題は深刻で、現に喜多酒造でも長男は喜多酒造を継がずに東京に出ているとのことだった。なかなか親の思う通りにはならないのが難しいところである。
次に私たちは、日本酒の製造過程について喜多社長の「授業」を受けた。
日本酒の製造工程は、以下の手順による。
①玄米
②白米
③洗米
④漬米
⑤蒸米
⑥麹米 + 水
⑦酛
⑧醪(もろみ)麹米+酛+蒸米
⑨上糟
⑩清酒
⑪濾過
⑫殺菌貯蔵
⑬熟成
⑭瓶詰
⑮出荷
蔵元見学の後、いよいよ待ちに待った新酒の利き酒会となった。
すでに17.8度の百済寺樽の原酒は出来上がっていて、この原酒は現時点では喜多社長だけしか飲んでいないとのことである。
私たちは喜多社長の次に、今年できたばかりの百済寺樽を口にする栄誉を与えられたことになる。
今日の利き酒会では、17.8度の原酒に若干の仕込水を入れて味を落ち着かせる試みを行うとの説明を受けた。
原酒に加水することを「割り水」と言う。度数1%までの割り水であれば原酒と表示することができるのだそうだ。ほんの僅かではあるけれど水を加えることによって原酒の味がどう変わるかを体感することが今日の私たちの狙いである。
その前に、秋の稲刈り時に絵入れをした盃が配られた。私にとっては悪夢の再来であったが、下手な絵を描いた責任は100%私にあるので、その悪夢は甘んじて享受しなければならない。
せっかくの旨い酒が、盃の絵のために台無しになってしまうけれど、自業自得なので仕方がない。
まずは、できたての原酒を試飲用の小さなグラスに注いで新酒の味を確かめてみた。
今年の百済寺樽の原酒は、17.8度である。昨年より少しアルコール度数が低いそうだ。
今年の百済寺樽の成分等の情報は、以下のとおりである。
原料米 玉栄
精米歩合 60
日本酒度 +2.6
アルコール度数 17.8
酸度 1.8
アミノ酸度 1.0
一升瓶から試飲用グラスに新酒を注ぐと、グラスからふくよかな香りが漂ってくる。鼻の奥に静かに浸透していき脳を刺激する、たまらない香りだ。
そっと口に含んでみる。口の中に日本酒の香りが拡かっていく。少し遅れて日本酒の味わいが舌先に伝わってくる。
思っていたよりも硬い味わいというか、かなりしっかりとした味がした。
硬いと感じたのは、割り水をしていない原酒のままの日本酒を飲んだことがなかったからかもしれない。
これからこの原酒に割り水をして、まろやかな風味へと微修正を加えていくのが、今日の私たちに課された課題である。
が、その前にどさくさに紛れて?1杯と言わず何杯か原酒のままの百済寺樽をいただいてしまった。
原酒のアルコール度数が17.8度だったので、私たちは17.4度と17.0度の2種類の割り水を試してみた。
ここは蔵元なのに、理科の実験で使うようなロートや三角フラスコなどが用意されていることにまず驚いた。
17.8度の百済寺樽500ccに対して、17.4度と17.0度になるように加水する仕込水の量を計算し、試験管で測って三角フラスコに入れた500ccの百済寺樽に注ぎ入れてよく撹拌する。
試飲用のグラスに注いで口に含んでみる。
最初に17.4度の百済寺樽を試してみると、17.8度の原酒と比較してまろやかな味わいに変わっていたので驚いた。
僅か0.4%のアルコール度数の違いなのに、こんなにも味わいが変わるものかと思った。
次に17.0度の百済寺樽を試してみた。
17.8度 → 17.4度 → 17.0度ときたからある程度必然の結果だったかもしれないが、17.0度の百済寺樽はかなり飲みやすい味に変わっていた。
私たちの結論は、それほど日本酒好きでない普通の人には、17.0度の方が親しみやすいのではないかとの結論に達した。
けれど、私たちが製品にしてほしいのは、17.4度の百済寺樽であるということも、ほぼ全員の意見だった。
今日ここに集まっている人たちは、私ももちろん含めてだが、日本酒好きの人たちである。日本酒好きの人たちにとっては、飲みやすさよりも深い味わいをより重視するので、17.4度の方がよりおいしいと感じる。
ちなみに、17.8度の原酒の味もやっぱり捨て難い。原酒を製品化するべきと主張する人もいた。
ということで、製品化するのには17.4度というのが私たちの結論で、ただし17.8度の原酒も私たちだけには何らかの手段により提供してほしいとの要望事項付きの結論となった。
実に虫のいい結論である。ただし実現されるかどうかは、保証の限りではない。
今日の私たちの意見は、百済寺樽プロジェクトのオーナーのあくまでも参考意見として社長の胸に留め置かれるだけで、実際には喜多酒造のプロの人たちの会議にて決定されるとのことだった。
すっかり酔ってしまった私たちは、気持ちよく喜多酒造を後にして、路線バスで八日市駅に向かった。
バスは、ほとんど私たちだけの貸し切りバスのようだった。
バスの車窓から、手を振り見送ってくださる喜多社長の人懐こい温和な笑顔がうれしかった。
八日市駅近くの「魚や楓江庵」という雰囲気のいい洒落た居酒屋で1年間の成果を祝う打ち上げに参加して私は、19時39分発米原駅行きの近江鉄道に乗って八日市駅を後にした。
この後、約4時間の時間をかけて横浜の自宅に戻った私は、翌日からの仕事に備えて急いで睡眠に就いた。
こうして、1年間に亘って参加してきた私の百済寺プロジェクトがすべて終わった。
田植え、稲刈りをはじめとして、初めて経験することばかりのプロジェクトだった。60歳を間近に控えたこんな歳になってから始めて経験するというのも恥ずかしい話ではあるが、人生はいくつになっても勉強なので、これからも常に新しいことに興味を持って生きていきたいと思っている。
文中にも何回か書いたけれど、私が百済寺町を訪れた4回というのはあくまでも「点」であって、その間、一日も休まずに「線」で成長していく稲の手入れをし続けてくださった地元の農家の皆さんのサポートがなければ、とても成し遂げることができなかったことである。
いつも百済寺町を訪れる私たちを最高の笑顔で迎えてくださった地元の皆さんに、まずは心からお礼の言葉を申し述べたい。
皆さんのおかげで、私自身貴重な経験をさせていただくことができた。
完成した百済寺樽が私の手許に届くのは2月中旬ということなので、まだ少しだけ先のことである。1年間の想い出がたくさん詰まった今年の百済寺樽は、私にとってまた格別な味がするに違いない。
さまざまなことを想い、心から百済寺樽を味わいたいと、今からとても楽しみにしている。
2019年1月28日
]]>第三弾と第四弾は、男性女性の白湯(ぬる湯)に置かせて頂きました。1枚目は女性の大浴場、2枚目は男性の大浴場です。源泉の方は、最近史上最速で100連勝した藤井聡太七段にあやかって将棋の「駒」にさせていただきました。白湯も同じく駒で行こうと思っていましたが、駒ばかり並んでいてもあまりに芸がないと感じました。
【読み】 | ひょうたんからこまがでる | 【意味】 | 瓢箪から駒が出るとは、思いもかけないことや道理上ありえないことが起こること。また、冗談半分で言ったことが現実になること。 |
故事ことわざ辞典より
上記の言葉が突然浮かんできました。意味的に見ても、ぴったりくるので早速製作に取り掛かりました。
しかし、すぐに言い出したことに後悔しました。一つは瓢箪らしい形がデザインできない。最初は大きい円と少し小さめの円を重ねました。コンパスで描いた円は人工的過ぎて、全然瓢箪とは思えないのです。仕方なくフリーハンドで、描きちょっと上部を傾けてみました。少し瓢箪らしくなりました。男性風呂の瓢箪は少し細めに、女性風呂の瓢箪はゆったりとした感じに作りました。もう一つは、曲線を掘るのは機械が使用できなくて倍以上の手間がかかることです。厚さが6センチ以上もある立派なヒノキです。電動手のこで少しずつ切り刻み、グラインダーで形を整え、ペーパーで仕上げました。
置いてからまだ、1週間ほどです。ヒノキの良い匂いがします。嘘だと思う人はすぐお出で下さい。お待ちしています。
]]>
2018年11月25日 日曜日
百済寺樽のプロジェクトとは直接の関係はないけれど、今年は春先から何度も百済寺を訪れているので、秋の紅葉の季節の百済寺も是非見ておきたいと思い、個人的に百済寺を訪ねてみた。
かつては毎年のように紅葉の季節になると湖東三山を訪れていたのだが、滋賀県だけでも美しい紅葉の名所がたくさんあって、ここ数年はなかなか湖東三山を訪れる機会がなかった。
友人に入口の駐車場まで送ってもらって、観光客の人の流れに乗って百済寺の境内を歩いて回った。
5月の田植えの時にも7月の生育状況視察の時にも、ほとんど参拝客が疎らで静かだった百済寺が、今日はとても大勢の人で賑わっていた。
静かな百済寺の方が心が落ち着けて好きだけれど、秋の季節にはこの賑わいがやっぱり似つかわしい気もする。
かつて私たちが腰掛けてお弁当を食べた本堂裏側の縁側を眺めながら、拝観料の600円を払った。
道順は、まずはお庭の拝見からである。人の流れに沿うようにして、フクロウの焼き物が出迎えてくれる柱の間をくぐる。
目の前には、見慣れた池とその向こう側の築山が見える。本堂の前から池越しに見る紅葉は、それほど赤くはなかった。
それでも、あの若々しい緑一面だった百済寺の庭がしっとりと秋色に染まっている光景を見ていると、一年のなかでの時の移り変わりをしみじみと感じる。
あの時に見たモリアオガエルは、どこへ行ってしまったのだろうか。
私は本堂の縁側に腰掛けて、暫しの間、穏やかな時間の余韻を楽しんだ。この廊下に非毛氈の絨毯を敷いてもらって、私たちは写仏と読経をしたのだった。
やがて飛び石伝いに池の向こう側に渡り、天下遠望の庭の方へと池の背後の築山を登っていった。
池の右奥、ちょうど築山の登り鼻あたりに一本の赤い楓の木があった。光線の関係で池側から見ると普通の楓の木だったものが、山側に転じてから振り返って見てみると、本堂の甍を背景に逆光の光を受けて赤やオレンジに輝いて見えた。
木の幹の間からは池の水面がきらめいている。
なかなかに美しい写真をカメラに収めることができて、私はうれしかった。
その先の左手にちょっとした平らな土地があって、その入り口に1本の背の高い楓の木が立っていた。
ここもかつては僧坊が建てられていた場所なのだろう。その僧坊に住む僧が、入り口に目印となる楓の木を植えたのかもしれない。
百済寺の紅葉
ちょうど本堂の方角から太陽の光が射し込んでいて、下から見上げる感じで陽の光を通して見る紅葉は絶妙の色のバランスで、とても美しかった。
百済寺の紅葉は、いわゆる深紅に燃えるような色の紅葉は少ない。やや薄めの赤い色なのだが、一つの色で統一されているのではなくて、赤い色からオレンジ色を経て黄色い色まで、様々な色の葉が一本の楓の木に寄り集まって一つの色を構成している。
そういう意味ではとてもやさしい色づかいの紅葉だと言えるだろう。背が高い木が多くて、自然と下から見上げる形になる。今日のようにきれいに晴れた日には逆光の位置で太陽の光を通して紅葉を見ることになり、光の加減によって楓の葉が輝いて見えて美しい。
私は少しずつ角度を変えながら、何枚もカメラのシャッターを押し続けた。
百済寺の紅葉
その一本の楓の木からさらに細い道を登って行くと、天下遠望の展望台に至る。ここから望む景色は、いつ見ても心が洗われる思いがする。
ご住職の濱中さんによると、この方向の延長線上にかつての百済国があったという。日本に帰化した百済の人たちが遠く我が故郷である百済の国を望む望郷の景色だったのだそうだ。
百済国は660年に唐によって国が滅ぼされてしまったから、この地から百済の方角を眺めたという百済の人たちにとっては、国が滅亡してしまった後にかつて在りし日の百済の国を偲び、万感の想いを胸に抱いての望郷となったのであろう。
単に距離が離れていて帰りたくても帰れないのではない。もちろん距離も離れているけれど、彼らにはもう帰るべき国そのものが無くなってしまったのだ。自分の故国がないということほど悲しいことはない。
天下遠望の庭の眺望図
今は、遠くに比叡山を望み、微かに琵琶湖を認めながら太郎坊宮を眺め、豊かに拡がる湖東平野を愛でる絶景を展望できる場所になっている。
湖東三山はどれも高い山の上に建てられているけれど、これほどの眺望が楽しめる寺は百済寺だけである。
心ゆくまで百済寺の展望を楽しんだ後、私は本尊の植木観音が祀られている本堂に向けて山道を歩いて行った。
途中の仁王門に奉納された大きな草鞋が目を惹く。
この草鞋はつい最近、地元の有志の方の手によって何年振りかで新調されたばかりのものだ。
大草鞋の下に奉納者の名前が列挙されている木の看板が掲げられていた。ほとんどの人が山本さんなのでおかしくなってしまった。
ここは江戸時代には山本村という名前の村で、山本村に住む人はみな山本さんであったことは、以前も書いた。
百済寺仁王門
本堂も大勢の参詣客で賑わっていた。百済寺の本堂は、ご住職の粋な計らいで靴を脱がずに土足のまま外陣まで入ることができる。
ほんの少しのことだけれど、靴を脱いで本堂に上がるのはなかなか煩わしいものだ。ご住職のやさしいお気持ちが本当にうれしい。
百済寺本堂
ご本尊の植木観音は秘仏のために拝見することができないけれど、お前立ちの仏様を拝み、脇仏である如意輪観音(膝立半跏思惟)像と聖観音(拈華微笑)像およびその横の聖徳太子孝養像を拝み、私は本堂を後にした。
ご本尊である植木観音は、聖徳太子が立ち木のままの状態で彫られたとの言い伝えが残る十一面観音像で、天正元年(1573)4月7日の信長による焼き討ちに際しては、その前日に東へ8キロも離れた奥の院に遷座させて難を免れたと伝えられている。
2メートル60センチ(蓮台を入れると3メートル20センチ)もある大きな仏様だそうだから、差し迫っている信長の攻撃を前にして急ぎ遷座させるのはさぞかし難儀なことであっただろうと想像される。
脇仏としてご本尊の左右に控えるのは、左に如意輪観音像、右に聖観音像である。いずれも明応8年(1499)および明応7年(1498)に仏師の院祐が制作した名品である。信長による焼き討ちの時には、ご本尊の植木観音とともに堂外に持ち出されて難を免れている。
ここ百済寺をはじめとして、太郎坊宮、教林坊などこの辺り一帯には聖徳太子の旧蹟が多数存在している。火のないところに煙は立たずと言うけれど、きっと聖徳太子の時代にこの地域と聖徳太子との間に何らかのつながりがあったであろうことは想像に難くない。
ご本尊の植木観音の右隣の厨子に収まっているのが、極彩色の聖徳太子孝養像である。この像は、百済寺再建を命じた3代将軍徳川家光が本堂の落慶を記念して奉納したものと伝えられている。
元は、家光の乳母である春日局が大奥で拝んでいた像であったと言われている。
本堂裏手のもう一段高くなった場所に、旧本堂跡と五重塔跡の礎石とが残っているようなのだけれど、五重塔跡に通ずるであろう本堂に向かって右側の道は通行止めとなっていた。
旧本堂跡に通ずるであろう現本堂に向かって左側の道は特に通行止めにはなっていなかったので、試みに石段を登ってみた。
しかしその石段は途中で終わっていた。凹凸のある足場の悪い場所を渡り、何とか現本堂の裏手にあたる広い平坦な場所まで行くことはできたのだけれど、そこが旧本堂跡かどうかを確認する術がなかった。
旧本堂跡?
その場所は、木と草とに覆われて岩が点在している荒れ果てた場所だった。
旧本堂は信長の焼き討ちによって焼失したもので、今の本堂のある場所の10倍の広さを持つ土地に、今の本堂の4倍もある7間4面2層の大規模な建造物が建立されていたと伝えられている。
今はその3分の2の面積が土砂崩れのために埋もれてしまい、往時の面影を想起することは叶わなくなってしまっているそうだ。
百済寺には、こうした未整備の場所がまだたくさん残されている。改めて信長が行った焼き討ちの残酷さを想うとともに、失われたものは百済寺樽だけではなくてたくさんあったということを改めて思い知った。
一つ一つ整備をしていくだけでも、膨大なエネルギーを必要とする作業になるだろう。
誰も訪れることのない静寂の世界から、鐘撞堂のある喧騒の世界へと再び戻った。
だらだらと緩やかな下り坂が続く道を歩いて、本堂のあるところまでさらに戻ってきた。
この後、湖東三山の金剛輪寺と西明寺に行きたいのだが、シャトルバス乗り場がわからなかった。交通整理をしていたガードマンに尋ねてみたところ、シャトルバスは下の赤門のところから出るとのことだった。
ただし、始発便が12時50分発だと聞いて、私は唖然とした。まだ1時間半以上あるではないか。これから百済寺を見るのであればちょうどいい時間なのだが、すでに百済寺を見終わってしまった人間にとっては、途轍もなく長い時間に思える。
とは言え、まずは赤門まで降りてみることにした。
この道は、7月に比嘉さんによる寺子屋学習の一環としてみんなで登ってきた道の反対ルートになるから、迷うことなく赤門まで行くことができた。
百済寺赤門
赤門に到着して、12時50分発のバスが出る前に何とかして金剛輪寺まで行く方法はないだろうかと考えた。
周囲を見回してみたけれど、タクシーの姿など見当たらない。携帯のアプリを使ってタクシーを呼び出そうとしたけれど、応答しない。タクシー会社に電話をしてみたけれど、空きのタクシーがないと断られる。歩いて八日市駅に出るには時間がかかり過ぎる。
いろいろ試みてみた結果、何もしないでおとなしくここでバスが出るのを待つのが最良の方法だとの結論に至った。
せっかくなので、赤門の周りを何度も巡ってじっくりと観察をした。それはそれでとても勉強になることだった。
夏の時の復習を十分に行って、私は赤門の近くの石に腰掛けてバスの発車時間がくるのを待った。
通行止めになっているが、よく見ると赤門を背にして左手に伸びていく道があって、その道の入口には、峻徳院殿御墓道と彫られた石柱が建てられていた。
井伊直滋墓所の石柱
あぁ、ここが井伊直滋(なおしげ)の墓所へと続く道なのか。私の心は思わずさざめき立った。
井伊直滋は、井伊家2代藩主井伊直孝の長子として生まれたが、父直孝との間での折り合いが悪く、藩主となることを許されず廃嫡のうえ百済寺に預けられ、寛文元年(1661)に当地で50歳の短い生涯を終えられた人である。
亡くなったのちにも彦根藩の意向を慮ってか、長いこと葬儀が行われなかったとも伝えられている。
つい最近、葬儀が行われた永源寺にて直滋の甲冑が発見されたとして話題になった。その甲冑の兜に付けられた天衝(てんつき)(角のような飾り)は、兜の脇に立てられた藩主の格式を示すものであったという。
井伊家に纏わる話でありとても興味があるので一度は墓所に詣でたいと思っているのだが、普段は立ち入り禁止となっているために実現させることができない。
長らく赤門の前で待った後、やっとシャトルバスが発車する時間になって、私は無事に次の金剛輪寺に行くことができた。
穏やかに晴れた暖かな初冬の一日で、こうして何もしないで赤門の前で時間を過ごすのも、とても贅沢な時間の使い方だと思った。
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いよいよ実りの秋の到来だ。
2018年9月22日(土)、私は稲刈りのために三度目の百済寺を訪れた。
夏頃から体調を崩していた私は、過去二回と同様に夜行バスでの移動はできなかったため、朝早い新幹線で米原まで行き、友人の車でいつもの百済寺町公民館まで送ってもらうことにした。
これだと前日自宅でぐっすり眠ることができるので、多少朝が早いとしてもとても楽に百済寺町公民館に着くことができる。やっぱりこの歳でのこれまで二回の夜行バスはきつかったなと、改めて思った。
今日は心待ちにしていた稲刈りである。
今年は例年になく気候が異常で、大雨や台風や酷暑などが続いたために稲の状態が心配ではあったけれど、成長しているであろう稲の光景が見られるかと思うと、一刻も早く稲を見たい気持ちで気が逸った。全員が集合した後、早速私たちが田植えをした田んぼまで歩いて行くことにする。
稲刈りを待つ私たちの田
玉栄という品種の私たちの稲は、先日の台風の影響も受けず、見事に成長して大粒の実をつけてくれていた。茎や葉が黄金色に色づき、収穫を待っている様子がありありと見て取れる。
私たちは稲刈り用の鎌を渡され、サポートをしてくれている農家の方から稲刈りの仕方を教えていただいた。
左手で稲の上の方をしっかりと掴んで、右手に持った稲刈り用の鎌で根元の部分に力を込めて一気に引くと、稲は見事に切り離された。農家の方はとても簡単そうにやられているけれど、私たちがやった場合に果たしてあんなにうまく、あんなに簡単にできるだろうか?
何事も、初めてやることには不安が付きまとう。
さらに農家の方は、刈り取った稲の何株分かを束ねて、藁紐で括っていく作業も実演して見せてくれた。しっかり括らないと稲がばらばらになってしまうので、これも力が要る難しい作業のように思われた。
説明はほどほどにして、早速、稲刈りが始まる。
たわわに実る稲
比嘉さんから渡された鎌の刃にはギザギザが付いていて、鎌を引いた時に稲をより刈り取りやすいようにできていた。
子供の頃、自宅の庭の草刈りで手にしたことがある鎌には、ギザギザは付いていなかったと思う。稲刈り用との違いなのか、それとも昔の時代のことだったからなのかは、よくわからない。
いよいよ稲を刈ることになるのだが、今回私は手抜きをして長靴を持ってこなかったために、田の中に入るのを少しの間躊躇った。収穫の時期なのでもっと完全に水が抜かれているものと勝手に都合よく想像していたのだが、実際にはまだ田には結構水が残っていて、土もかなりぬかるんでいたのだった。
他のメンバーのみなさんはちゃんと長靴を用意されていたので、躊躇なく田の中に入っている。
私の場合は遠くから来ているので、少しでも荷物を少なくしたいとの思いもあって、今回は苦渋の選択で田植え用長靴を持ち物から外したのだったが、やっぱり長靴は持ってくるべきだったと反省した。
と思ってもすでに手遅れである。意を決して、なるべく水に浸らないように気をつけながら、恐る恐る田の中に入ってみる。滅多に入らないからだろうか、田に入る時にはいつも緊張感が伴う。
まずは左足を畦道から田の土の上にそっと降ろす。次にバランスを取りながら右足を続ける。自分の体重によりずぶりと土の中に足がめり込んだけれど、幸いにして靴の中にまでは水が入らずに済んで、ホッと胸を撫で下ろす。
早速、稲を刈ってみた。まずは一番手前にある稲の数株を左手に取り、根元の部分に釜の刃を入れて手前に引いてみる。思っていたよりも簡単に稲の束が根元から分離され、後の土には切り株が残った。稲刈りの作業がそれほど難しい作業ではないことに安堵する。
刈り取った稲の束を畦道に置き、次の株に取り掛かる。同じように、思ったよりもスムーズに刈ることができた。この調子だ。
同じ作業を3回ほど繰り返した後、畦道に置かれた刈り取った稲の束を藁紐で束ねる作業に移る。
稲の束が少し太すぎたようで、なかなかひと束にできない。やっとのことで稲の束の裏側にまで藁紐を回して、力を込めて縛り上げることができた。
稲を刈る方はそれほどの力は要らないけれど、こちらはなかなか力が要る作業だった。
稲を刈り始めてすぐに、腰が痛くなった。田植えの時もそうだったけれど、田んぼの作業はどうしても腰を屈めて行う作業が多くなってしまう。普段からこういう姿勢での作業には慣れていないし、最近は特に体調を壊して運動不足でもあったから、情けないことだがすぐに腰が痛くなってしまった。
一度腰が痛くなると、回復させることは難しい。私の稲刈りの作業は、いきなり腰との戦いの様相を呈することになった。
時折思い切り身体を後ろにそらして伸びをしたり、刈り取った稲を束ねる時には完全に腰を降ろしてしゃがんだ状態で束ねたり、少しでも腰の緊張が持続しないように工夫をしながら、刈り取りと刈り取った稲を束ねる作業とを交互に進めていった。
隣の、稲刈りを手伝いに来ている女子大生の動きが私に比べて俊敏に見えたのは気のせいだろうか?改めて農作業が年配の人間には重労働であることを実感する。
今日は雨が心配された微妙な天気だったけれど、稲刈りが進むにつれて次第に空の一部に青い部分が見え始めてきて、どうやら雨の心配はなくなったようだった。
百済寺町公民館から琵琶湖の湖水が見えるようになると雨が上がるのだそうだが、先程公民館から僅かだが琵琶湖の湖面が見えていた。なるほどその通りになったと思って感心した。
腰の痛みはあったものの、稲刈り自体は順調に進んでいき、私自身も大いに楽しむことができた。夏に生育状況の視察をした後で体調を崩してしまったため、もしかしたら稲刈りに来ることができないかもしれないと思っていただけに、無事に稲刈りに参加することができたことをうれしく思いながら稲を刈った。
春先にはあんなに細くて弱々しげに見えた稲の苗が、僅か半年ちょっとでこんなにもたわわに稲穂を実らして、太く逞しく成長してくれたことに驚くとともに、一日も欠かさず手間をかけて稲を守り続けてくださった農家の方たちに感謝の思いを強くした。稲の苗は、自分たちだけで勝手に成長することはけっしてない。
皆が刈り取った稲の束がみるみるうちに畔に積み上がっていく。
畦道の脇に長い木の棒が何本も置かれていたのが気になっていたのだが、ある程度稲の束が積み上がってくると、農家の方たちがその長い木の棒を地面に突き立て始めた。それに横の棒を交差させて藁で括ると、あっという間に稲の束を掛けておく棚に早変わりした。稲刈りの後に田んぼでよく見かける光景が忽然と目の前に現れた感じだ。
刈り取られた稲
そして、刈り取られたばかりの稲の束が次々と掛けられていく。
私はそんな光景を尻目に見ながら、ただ黙々と稲を刈り、刈った稲を束ねては畦道に運ぶ作業を繰り返していた。
腰はすでに限界に達していたけれど、騙しだまししながら作業を続けた。
いつの間にか青空が支配する天気に変わり気温も上昇して、快い汗が額を流れる。
稲を刈り取る時の勢いで、首から掛けていたカメラに泥が飛び散っていた。レンズにだけ気をつければ、外側の汚れは後で拭いて取り去ることができるだろう。そう思っていたから、カメラが汚れることは気にしなかった。と言うよりも、気にするほどの余裕がなかったと言った方がより正確な表現かもしれない。
しかし、手も指も泥だらけになっていたため、自分が稲を刈っている姿を自分のカメラに収めることはできなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか?そろそろ上がって記念写真を撮りましょうか、という比嘉さんの神の声が聞こえた。
稲刈りと言っても広い田んぼ全面の稲を手で刈り取るわけではなくて、稲刈り体験というか、予め定められた時間内でできるところまで手で刈って、刈り残した稲は後から機械で刈り取っていくことが最初から決まっていたのだと思う。
刈り取った稲の束が掛けられている畦道に集合して、田を背景にみんなで記念写真を撮った。
生まれて初めての田植えをして、生まれて初めての稲刈りもして、今年は本当に想い出に残る一年になった。
しばらく休んでいたところへ比嘉さんから、もう一段上の田に集合の号令が出された。稲刈りは終わったと思っていたのに、もう一回稲刈りをしなければならないのだろうか?一瞬だが緩みきっていた心に緊張が走った。
上の田に行ってみると、比嘉さんからの説明は稲を刈るのではなくて、稲の間に自生している粟などの雑穀を刈ってほしいとのことだった。
言われるまでは気付かなかったけれど、田の中をよく見てみると、田一面を覆っている稲の中に、稲より少し背が高く淡い緑色をした別の植物が点在していることがわかった。それが、粟なのだそうだ。
どうして稲の中に粟が生えているのか?と不思議に思った。この粟は人が栽培しているものではなくて、自生しているもののようだ。粟も植物だから花を咲かせて実を付ける。その実が田んぼの土に落ちて年を越す。そして次の年に稲とともに成長して実を付けるということになるのだそうだ。
今の段階で刈り取ってしまえば、実が土に落ちることがなくなるので、翌年は生えてくることがない。
稲が取る養分を粟が取ってしまうと稲の成長が悪くなるので、稲にとって粟はよくない植物になるらしい。これで来年は、稲が一段と元気に成長するだろうとのことだった。
比嘉さんは、私たちの労働力を利用して、この粟の一掃作戦を考案したらしい。
私たちは私たちで、稲刈りとはまた違った趣で、楽しみながら粟を刈っていったので、比嘉さんの作戦にうまく乗せられた感じである。
今日の稲刈りには朝日新聞の記者さんが取材に来られていた。ちょうど粟の刈り取りをしている時に、畦道にいた比嘉さんから呼ばれた。何でも、記者さんからのリクエストで、一番遠くから参加している人にインタビューをしたいとのことで、私が呼ばれたものだった。
私は記者さんに問われるままに、百済寺樽のオーナーに応募した経緯について話し、今日の感想などを伝えた。記者さんは簡潔にまとめられて、私の名前とともに記事で紹介してくださった。
きれいに粟も刈り取ることができて、私たちは颯爽と歩いて百済寺公民館まで戻った。労働した後のお昼ごはんはとてもおいしい。充実した一日を実感しながら、寛いだ気持ちで午後の作業が始まるのを待った。
身体を動かしてお腹も満腹になって、今、「寛いだ気持ちで」と書いたばかりなのだが、実は私には一つだけ、心からは寛げない理由があった。
それは午後に予定されている作業と関連していた。
午後には、お猪口の絵付けが予定されていたのだ。
来年1月の新酒お披露目会の時に、自分が絵付けをしたお猪口で新酒を飲むというのは、とても魅力的なことだと思った。さすがはアイデアウーマンの比嘉さんだと感心した。
去年は藁を使って草鞋づくりをしたと聞いている。滅多に経験できることではないから草履作りも悪くはないけれど、酒飲みたちにとっては、自分が制作に関わったお猪口で新酒を飲めるなんて、その光景を想像しただけでも垂涎ものだ。
ところが私には一つだけ、大きな問題があった。
それは、私の絵ごころの無さである。
自慢ではないが、私の絵ごころはまったくないと言っても少しも大袈裟ではない。小学校以来、図工や美術の成績は一貫して5段階中の3評価だった。2や1にならなかったのは、偏に図工や美術の先生のお情けの賜であった。
前回の写仏の時にも一瞬肝を冷やしたけれど、これは紙の上から筆ペンでなぞるだけでよかったので、なんとか誤魔化すことができた。しかし今回はお猪口への絵付けである。もう逃れようがない窮地に、私は一気に追い詰められたような気持ちだった。
時間になり、今日の講師をされる地元八日市市の工芸家である中野亘さんの説明が始まる。
中野さんは、京焼の八代目高橋道八氏に師事して陶芸を学ぶ傍らで、南米ペルーでプレインカの研究に取り組むなど、ユニークな創作活動を行っている陶芸家だ。昭和60年(1985)に東近江市に工房を設立し、「土の息吹を感じとりながら、土の造形と土の音が織りなす響きに独自の世界を見出して」*いるという情熱的な陶芸作家さんであった。
今日の作業は、中野さんが下薬を塗って焼かれたお猪口に、紅殻の塗料で上絵を書き付けていくという作業になるらしい。
一人一人に手渡されたお猪口は中野さんの作品で、縁の一部に変化がつけられていて、デザイン的にもおもしろいし、実用的にも飲みやすいお猪口だと思った。
下薬を塗っただけの「真っ白」なお猪口にどのような絵を入れていくのか?と言われても、頭の中には何も思い浮かばなかった。自分の絵ごころのなさを改めて痛感した。
何か文章を書いてみろと言われれば、何らかの文章を書くことはできる。でも、何でもいいから絵を描いてみろと言われても、私は何も描くことができない。
予め配られた白紙の紙と鉛筆が長い間テーブルの上に置かれたままだった。
周りの人たちを見渡すと、それぞれの思いを具象化するべく、紙の上を鉛筆が忙しそうに動いている。携帯を取り出して、何かいい絵柄やデザインがないかとカンニングを試みたけれど、それもいいアイデアが出てこない。
ほとんどお手上げ状態だった。
最後には、全面を塗り潰すという奥の手が残っていたけれど、それは最後の手段として取っておいて、できる限りは頑張ろうと思った。
その時に僅かに頭に浮かんだのが、家紋だった。
我が家の家紋は丸に橘で、それは江戸時代の当地の藩主であった井伊家の家紋と同じであった。私と当地との共通項である丸に橘の家紋を描けたら記念になるのではないかと思ったのだ。
ところが、いざ描こうとしてみるとなかなかに難しい。今まで一度も描いたことがなければ、描こうと思ったこともなかった図柄であった。
橘の花は、バランスが非常に難しい。それは裏返して言えば、それだけ洗練されたデザインであるということだと思った。
下書きで四苦八苦しているところに先生が通りかかって、悪魔の囁きをする。
「なかなかいいじゃないですか。いや、大変にすばらしい!」
そんなはずはない。先生、少し褒めすぎではないですか?と心の中で呟いた。
「焼き物の絵は、あまり上手過ぎない方が、かえって趣のあるいいものになるのですよ!」なるほど、そういうことか。
先生は暗に私の絵は上手くないということを言ったうえで、そう言って私のことを勇気づけてくれていたのだ。下手な人でもその気にさせる、なかなかすばらしい先生を比嘉さんは連れてきてくれたと思った。私は心の中で比嘉さんと先生に感謝した。
最悪の場合、失敗したら塗料を水で洗い流せばゼロクリアーでやり直すことができると聞いて、私の決意は固まった。
それに、失敗しても、それもまた後から思えば楽しい思い出になる。
塗料は、近江で民家の建物などに特徴的に使用されている紅殻という鮮やかな赤色の塗料だった。とても上品な色合いで、私の好きな色の一つである。
絵筆に紅殻の塗料を含ませて、慎重にお猪口の内側に最初の赤を入れる。緊張の瞬間だ。そこから、お猪口の縁に沿って線を伸ばしていくと、やがて最初に書き入れた線のところに戻ってきて、不恰好だが丸い円になった。
丸に橘の、丸の部分の最初の原型ができたことになる。手書きなので、あまり厳格な円形には拘らなかった。と書くと立派に聞こえるけれど、実際は厳格な円形などとても描くことができない。
歪(いびつ)な一本の細い円がお猪口の内側に描かれた。その線を、なるべく均一な太さとなるように注意しながら、少しずつ太くしていくと、やがて家紋の外枠となる円が完成する。
次はいよいよ、中の橘を描くことになる。
橘の花は普段から描き慣れていないとかなり難しい。案の定、もっと丸みを帯びてふくよかな形に描かなければならなかったところが、妙に痩せた橘の花になってしまった。
しかし一度描いてしまった痩せた橘を今さら太らせることはできない。
下手な絵ほど趣きがあるとの先生の言葉を信じて、このまま痩せた橘で貫き通すことにした。
周りの人たちを見てみると、みなさんまだ熱心に絵を描き続けている。私のようにいい加減な人間は、特に絵にはほとんど何の執着もないものだから、下手な絵でもとにかく一度描き終えたらもうそれっきりで修正などしない。
今日は地元のテレビ局の取材の方も来ていてとにかく恥ずかしいので、この私にとっては拷問のような時間が早く終わってくれることばかりを祈っていた。
出来上がったみんなのお猪口を窓際の棚に並べて写真を撮った。
絵入れ後のお猪口
私のお猪口がダントツで下手だけれど、たくさんのお猪口に紛れて、悪い意味での存在感が薄まってくれて助かった。遠くから眺めると、拙い絵が目立たなくなって、それなりに全体のなかでは調和しているようにも感じられた。
このお猪口は、一旦は先生が持ち帰られて仕上げの焼きを入れられて、1月の新酒お披露目会の時に各々そのお猪口で新酒を飲むことができるようにしてくれるとのことだった。
私の場合、新酒の味を悪くするような出来映えのお猪口ではあるけれど、それはそれで楽しみでもある。とにかく、悪夢のような時間が終わって、心からホッとした。
稲刈りの会はここで終わりとなり、私のほか何人かは車で近江八幡の駅まで送っていただいた。
途中、東近江市内にある道の駅である、あいとうマーガレットステーションに立ち寄ってもらって名物のジェラートを食べた。
2種類のジェラートが選べて350円という価格はとても安いと思った。しかもメニューを見てみると、しぼりたて牛乳、あいとう梨、かぼちゃパイ、オクラ、豆乳、マーブルチョコ、はちみつシナモン、赤ワイン、カスタードプリン、まいたけなど、地元の野菜や名産品などを使った、ジェラートメニューとしては聞いたこともないようなユニークで楽しいメニューがたくさん並んでいた。
私は散々迷った揚げ句に、ワインと抹茶の2種類を選択した。比較的おとなしいメニューになってしまったのは、初めて食べるのにさすがにオクラやまいたけを注文する勇気がなかったからだった。
コーンに山盛りにシャーベットを盛り付けてくれたので、店の外に出て記念に写真を撮った。そこまではよかったのだが、写真を撮っている間にポタポタとシャーベットが溶け始めて、収拾がつかない状態に陥ってしまった。
周囲を見ると、仲間の人たちも皆同じ状況で、まぁ大の大人がポタポタポタポタと大粒のジェラートの雫を地面に落としながら必死に食べている様は、何ともおかしくて心から笑ってしまった。
ボリュームたっぷりジェラート
そういうことなので、正直言ってジェラートの味を味わうような心の余裕はまったくなかった。とにかく一刻も早く、少しでも垂らさずにジェラートを食べきることに全精力を傾けてジェラートと格闘をした。
無事に食べ終えて地面を見ると、各々がこぼしたジェラートの雫が汚く地面を汚していた。
手もベタベタで、そのまま洗面所に駆け込んで手を洗った。
最後はとんだハプニングとなってしまったけれど、それもこれも、マーガレットステーションのジェラートのボリュームが多かったがためのハプニングであり、ある意味うれしいハプニングであった。
こうしてすっかり百済寺での一日を楽しんだ私たちは、次回の再会を約して、近江八幡の駅で別れた。
次はいよいよ、待ちに待った1月の新酒お披露目会である。
* 「中野亘陶展」の案内ハガキから転記
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風薫る5月の田植えから2ヶ月半が経過した7月21日土曜日の朝、私は再び百済寺町の公民館前に立っていた。
田植えの時とまったく同様に、夜行バスに乗り早朝名古屋に着いて、名古屋から名神高速道路の路線バスに乗り換えて百済寺バス停で下車する、という強行プランだった。
ただ一つ違ったことは、夜行バスが高速道路の事故渋滞に巻き込まれて大幅に遅れてしまったことだ。午前3時半の時点でまだ神奈川県から静岡県に入ったばかりの足柄サービスエリアにいたのだから、7時15分に名古屋を出発する高速路線バスに間に合うかどうかは予断を許さない状況だった。
当然、気が気でないから眠れない。元々夜行バスでぐっすり眠れるような性格ではないところへこの遅れだったため、途中で何度も携帯の地図アプリで現在地を確かめては、名古屋への到着時間を勝手に推測した。
推測したところでどうなることでもなくて、運転手さんの運転に任せるしかなかったのではあるが、心配性の性格はこういうところで損をする。
運よく7時ちょっと過ぎに夜行バスが名古屋駅の在来線口に到着した。7時15分にバスが出る新幹線口は駅の反対側となるため、バスを降りて名古屋駅の在来線口から新幹線口へと通ずるコンコースを走った。
15分あったので間に合うとは思ったけれど、こういう時にも少しでも早く目的地に着いていないと安心できない性質(たち)なので、ほぼ全力で走った。
そんなこんなで今回の百済寺行きは、スムーズにいった前回とは異なり、最初からアクシデントに見舞われてのスタートとなった。
8時50分頃に百済寺のバス停を降りた私は、百済寺町公民館を目指して、誰もいない静かな山道を歩き始めた。
2ヶ月半前と同じ、雲一つない青空だった。そして、私の目の前にはあの時と同じ緩やかな上り坂が続いている。
しかしあの時とまったく違ったのが、降り注ぐ太陽の光の強さだった。
ここまで来てしまえば、集合時間の9時40分までには確実に百済寺町公民館に着くことができる。暑いので無理をしないように、ゆっくりと一歩一歩足取りを確かめるようにしながら、私はずっと上り坂になっている公民館への山道を上って行った。
そして、歩き始めてから約20分の後に、見覚えのある大きな切り妻屋根の公民館の前に立つことができた。
強烈な真夏の太陽からの熱線を浴びて、すでに私の額からは大粒の汗が滴り落ちていた。今年の夏の暑さは、今までに経験したことがないような異常な暑さだ。
今日は、稲の生育状況を確認することを目的の一つとして百済寺町を訪れたのだが、その後で百済寺にて厳しい?修行が待っているという話を比嘉さんからお聞きした。
今回のテーマは「寺子屋」だそうで、作務衣に着替えて百済寺でみっちり勉学に励むとのことだった。
どんな修行なのか不安があったけれど、まずはメンバーの皆さんとの久しぶりの再会に心が和む。私にとっては田植えの時以来の再会となるのだが、2ヶ月半の時間の隔たりを全く感じないくらいに自然と心が打ち解けている。
今回は、比嘉さんが名札を用意してくれたので、唯一不安だった名前についても解決となった。この歳になると物覚えが悪くなってしまって、なかなか人の名前を覚えることができないのが悩みの種だった。
再会して最初に皆が口にするのが、今年の夏の異常な暑さのことだった。
つい数日前に広島や岡山などで雨による大きな災害が発生したばかりで、それに追い打ちをかけるようにして、梅雨が明けて今度は猛暑が襲い掛かってきた。
平成になって最大規模とも言われる先日の水害と過去に例を見ないような40度に迫る猛暑の中で、果たして私たちが植えた稲はどのような状態になっているのだろうか?皆の関心は、その一点に集中していた。
比嘉さんたちから、今のところ稲は順調にすくすくと育っているとの話を聞いて、一同まずはホッと胸をなでおろした。
太陽の光は稲の生育にとって無限の恵みとなる。しかしその一方で、田に引く水が枯渇したり、あるいは太陽の熱で水の温度が上昇してお湯のようになるような事態になると、稲にとって大きな影響が出てしまう。
水温が上昇すると稲に病気が発生したり、あるいは害虫の大量発生を誘発する虞があるのだという。
そうでなくても今後は、稲の大敵であるカメムシが発生しやすい時期を迎えるのだそうだ。カメムシは、生育中の稲の実(コメ)のエキスを殻の外から吸い取ってしまい、稲を台無しにしてしまう恐ろしい害虫だという。
しかも田舎のカメムシは都会で見るカメムシよりも一回り大きくて屈強な体格をしているらしい。
これからは、そういった病気や害虫という新たな障害による被害を受けやすくなるようなので、これまで順調に育ってきたからと言ってまだまだ安心はできないことがよくわかった。
全員が揃ったところで、いよいよ田んぼに向かう。
公民館から田んぼまでは下り坂だしそれほどの距離でもなかったので、暑いけれど当然歩いていくつもりでいたところ、田んぼまで軽トラックで運んでもらえることになった。
前回の田植えの時に初めて軽トラックの荷台に載せていただいて、すっかりその気持ちよさの虜になってしまった私は、今回もお言葉に甘えて軽トラックの荷台に飛び乗った。
車が動き出すと、心地よい風が体に当たる。それまで体に纏わりついていた熱い空気が瞬く間に吹き飛ばされていく。荷台なので普通の車に乗るよりも一段高い位置から景色を眺めることになり、これがまた気持ちがいい。
ほんの少しの時間だったけれど「田園のオープンカー」を満喫しているうちに、私たちは見覚えのある田んぼに到着した。
そこは一面、輝く緑の世界だった。
真っ青な空の下(もと)で、稲の若々しい緑の葉が田の全面を覆い尽くしている。
ほんの2ヶ月半前にはまだ細くて弱々しい稲の苗が心もとなげに列をなしていて、茶色い土の色を映した水が田の全面を支配して見えた。今は水がほとんど見えなくなって、すっかり成長した稲の茎と葉とで覆い尽くされている。
思いの外に成長した稲を見て、感無量だった。
もちろん、自然にこのように成長するはずがない。草取りをしたり肥料を撒いたり害虫駆除をしたり、晴れの日も雨の日も毎日欠かすことなく稲の面倒を見てくださった地元の生産者のみなさんの協力があってこそのことであることを忘れてはならない。
飛び出し坊主 後ろが、私たちが田植えをした田
道端には、百済寺樽の瓶を持った僧の姿をした「飛び出し坊主」が立てられていた。
特注品で、かなりの製作費がかかった代物とのことだ。目印として、わざわざ私たちが田植えをした田んぼに比嘉さんたちが立ててくれたものだそうだ。
とてもかわいらしいので、みんなで順番に写真を撮った。
外から田んぼを眺めているだけではよくわからないので、持参した田植え用長靴を履いて、田んぼの中に入ってみた。まさか田植え以外の時期にも田植え用長靴を使用することになろうとは、思っていなかった。
田の中では太く成長した稲が土の中でしっかりと根付き土のスペースが少なくなっていたので、どこに足を置けばいいのか迷うくらいだった。あんなにスカスカだった田植えの時と比べて、稲の成長を実感することができた。
まだ外見からではわからないけれど、稲の茎の内部にはすでに小さな稲穂が成長しつつある。農家の方が1本の稲を手折って、茎の内部を剝(む)いて見せてくれた。
すでに稲の茎の内部には、2センチほどの稲穂の原型ができあがっているのを見て取ることができた。この稲穂の原型は、1日に1ミリくらいずつの速さで成長していくのだそうだ。茎の中から稲穂が顔を出す日もそう遠くはないだろう。
田んぼのあぜ道から機械を使って農薬を噴霧する作業もデモンストレーションで見せていただいた。小さな霧となった農薬が田の中央の稲までも確実に届くように、美しい放物線を描きながら放射されていった。
これからもたくさんの障害が成長していく稲に襲い掛かっていくのだろうが、経験豊富な農家の方たちのサポートがあるので、そういった障害を乗り越えて、きっと見事な酒米へと成長していってくれるものと、私は確信した。
昨年は1丁程度だった田の面積を、百済寺樽の好調な売れ行きを反映し、今年は1丁半にまで増産しているのだそうだ。滋賀県に特有の「玉栄」という銘柄の酒米が、14枚の田で栽培されている。見渡す限りの生命感溢れる光景が目に眩しい。
燦燦と降り注ぐ真夏の太陽の恵みを思い切り吸収して、私たちの玉栄はすくすくと成長を続けている。
すっかり満足し、また安心して、私たちは再び田園のオープンカーに運ばれて百済寺町公民館まで戻った。
ここからは、百済寺での厳しい?修行が私たちを待ち構えている。
比嘉さんたちが用意してくれた思い思いの色の作務衣に着替え、私たちは百済寺に向かった。すっかり気に入ってしまった軽トラックの荷台に乗り、見慣れた百済寺の本坊近くまで坂道を上ってきたところで、なぜか軽トラックは下りの坂道へと方向を変えて下り続けていく。
坂道を下っていくということは、その分をどこかで上らなければならないということを意味している。やっぱり修行だから、そうそう楽な道は歩ませてもらえない。
私たちを乗せた軽トラックは、本坊からかなり下ったところにある赤い山門の前で停まった。今日の修行の始まりは、どうやらこの赤い色をした山門からスタートすることになっているらしい。
山門の袂に一人の男性が佇んでいた。
比嘉さんの紹介で、その方は東近江市の歴史編纂に携わられている山本一博さんであることがわかった。百済寺町には山本姓の方が非常に多いが、山本さんもその一人である。
これから1時間半くらいの時間を使って、山本さんの説明をお聞きしながら百済寺についての知識をより深める勉強をすることになる。
山本さんは百済寺の歴史について非常に正確で詳しい知識を持たれた方で、これまで上滑りをした知識しか持ち合わせていなかった私の欠陥を大いに補っていただけたありがたい存在となった。
百済寺の辺りは、江戸時代には山本村と呼ばれていたそうで、今も山本姓が非常に多いのはそのせいなのだそうだ。みんな山本さんだから、苗字ではなく名前で呼んで区別していたとのことである。
その後、明治時代になって百済寺町となり、山の上の方から順に甲乙丙丁と区切られていった。つまり、百済寺甲、百済寺乙、百済寺丙、百済寺丁といった具合だ。
そう言われてみると、阪神高速道路の百済寺バス停を降りて百済寺町公民館を目指して歩いている途中の山道に消火ポンプの設備が設置されていて、真っ赤に塗られたその扉に白い文字で「百済寺丁」と書かれていたことを思い出した。
「百済寺丁」と書かれた消化ポンプ
今の地名でも山の一番高いところは「百済寺甲町」の地名が残っており、百済寺のある辺りが「百済寺町」、その門前が「百済寺本町」となっている。
そんな町名にまつわる話をイントロダクションとして、私たちは山本さんの話に引き込まれていった。
山本さんが比嘉さんから依頼を受けた今日のお題は3つあるのだそうだ。
一つ目がいま私たちがいる赤門について、二つ目が今回のプロジェクトの主題である百済寺樽について、そして三つ目がこれから写仏をすることになるという弥勒菩薩についてであるという。今日はこの3つの項目を中心に、山本さんから貴重なお話をお伺いすることになる。
早速赤門の間近まで移動して、山本さんの解説に耳を傾ける。
百済寺の伽藍図を見ると、一番上に植木観音が安置されている本堂があり、そこから下って庭園や遠望台がある本坊の喜見院があり、さらにずっと下ったところにこの赤門があるという伽藍配置になっている。
赤門は、広い百済寺の境内の入り口であり、非常に重要な寺の建造物であるということがわかる。赤い紅殻(べんがら)で塗られているから赤門と通称されているが、正確には総門と呼ばれる類の門であるそうだ。
百済寺赤門
本堂と同時期の慶安3年(1650)の再建であり、長らく厳しい風雪に晒され続けていたために老朽化が著しく、昨年から修復工事が行われていたが、私たちが田植えをする2日前の5月3日に修復が終わり開門式が行われて、鮮やかな赤色の姿が復活したばかりであるとのことだった。
修復前の赤門の写真を見ると、僅かに赤色が残る古風な門の風情があり、それはそれで趣があったと思うのだが、門に塗られた紅殻は近江国を代表する美しい色であり、生き生きとした色合いがやはり美しい。
山本さんのお話によると、こういう文化財を修復する場合、常に議論となるのが「どこまで修復するか」ということの問題なのだそうだ。
その辺りの考え方はヨーロッパなどの海外と日本とでも異なる。
基本的に石造りの海外の建造物は、そのままの姿かたちで残すことが基本方針となる。一方で木を建材として使用している日本の建造物は、どうしても「そのまま」残すということができない場合がある。木は時間の経過とともに腐ったり、あるいはシロアリ等害虫の被害を受けたりするからだ。
だから、使用に耐えうる部分はそのまま残し、腐敗が進行したりして次世代までそのままの状態で残すことが困難な部分のみを切り取って新しい部材で補強する。
よく見てみると、赤門の柱にも、部分的に切り取られて継ぎ足された箇所が何か所かあることが認められる。
事前の調査で、思ったよりもシロアリによる被害が拡大していて、新しい材料で補わざるを得なかった箇所が多くなったとのことだった。
また、古い建物になればなるほど、過去に何回もの修復が行われている。どの時代の修復にまで戻せばいいのかも、非常に難しい問題なのだそうだ。
そう言えば、改修が済んだばかりの姫路城がイメージよりも白くなり過ぎていて周囲の不評を買っていたことを思い出した。また、同じく修復なった日光東照宮の陽明門がきらびやか過ぎてやや下品な印象になってしまっていたことも記憶に新しい。
仏像も、当時は極彩色の装飾が施されていたようで、CGにより復元された奈良・新薬師寺の十二神将像などを見ると、色使いがけばけばしくて、幾星霜を経て落ち着いた色合いのイメージが180度変わってしまう。
やがて時間が経過していくにしたがってそういう違和感は薄れていくのかもしれないが、修復に携わる方々が常に抱えている悩みであり矛盾である。
ともあれ、赤門は色鮮やかに復元された。
門を構成している個別のパーツ毎に山本さんから詳細な説明を受けた。この門は4本の主たる柱から成るいわゆる四脚門であるが、2本の親柱だけでなく残り2本の控柱まで丸い形の柱となっているのは、稀なケースなのだそうだ。控柱の左右には袖塀が併設されていてより重厚さを増している。
門の前に置かれた下乗と彫られた石は、小野道風の筆跡と伝えられている。
私たちは静々と門をくぐり、緑のトンネルのような青もみじのなかを上へと参道を登って行った。
楓の木々によって太陽の光が遮られているので照り付けるような暑さではなかったけれど、反対に坂道を登っていくので全身に力を入れなければならず、途中で立ち止まると汗が体中から噴き出してくる。
かなり登ったところで川を渡る橋があって、私たちはその橋の袂で再び山本さんの話をお伺いする機会を得た。
今度は2番目のテーマである百済寺樽に関する話である。
この百済寺境内を流れているやや深い渓谷のような川は「五の谷川」と呼ばれているそうだ。山本さんの説によると、一の谷川から順番に五の谷川まであるのではなくて、大雨が降って川が増水した時などに、上流から大きな岩がゴロゴロと転がってきて、その音が擬音化されてごろごろ川となり、それが転訛して五の谷川になったのではないかとのことである。
等々力(とどろき)という地名なども、川の水が流れる音から来ているということを民俗学者の柳田(やなぎた)国男さんの本(『地名の話』)で読んだ記憶がある。
山本さんがこの場所で立ち止まられたのは、水がポイントになっている。
百済寺の山に降った雨水が豊富に流れ込むこの川の水こそが、日本酒造りに非常に重要な役割を果たしているということである。
旨い日本酒造りには、良質の酒米と水とが欠かせない要素になっている。
酒米は、米どころ近江のお米であるので問題はない。
百済寺は湖東平野の水源地帯に建てられた寺なのだそうだ。したがって水も、鈴鹿山脈系統の山々に降り注いだ良質の水が供給されるため、心配は無用である。
百済寺には、旨い酒が造られる要素が揃っていたことになる。
酒造りと言うと、今は金属製のタンクの中で醸造される様子をイメージするのではないかと思われる。あるいは、もう少し昔ながらの製法だと、大きな樽に満々と湛えられた麹菌の入った酒の素を木製の長い柄杓のようなもので杜氏がかき混ぜている光景を思い浮かべるかもしれない。
私も同じ口だったのだが、山本さんの説明によると、百済寺樽を造っていた当時には、金属製のタンクは言うに及ばないが、木製の大樽を作る技術もまだ確立されてはおらず、備前焼や常滑焼などの固く焼き締められた大きな壺をいくつも並べて、壺の中で酒を造っていたとのことである。
現に百済寺の境内からは、壺がたくさん並べられた状態で出土した例がいくつかあるのだそうだ。それらの壺がすべて百済寺樽の醸造に使用されていたものかどうかはわからない。もしかしたら、酒以外にも味噌や醤油を造っていたものかもしれない。
しかし間違いなく百済寺樽は、大きな樽ではなくて、たくさん並べられた壺で造られていたということがわかった。
私には初耳の、たいへん参考になる話だった。
そう言われてみてなるほどと思ったことだが、先日テレビを見ていたら鹿児島県で黒酢を製造している光景が映し出されたことがあった。そこには広い敷地一面に甕が並べられていて、その甕の一つ一つで黒酢が醸造されていたのだ。
酒も酢も基本的な製造方法があまり変わらないことを、高島市の淡海酢という酢の醸造元の見学をした時に学んでいる。
少しだけ百済寺樽醸造の光景がより確かなイメージとなって私の脳裡に描かれていった。
しかしそうであるならば、「百済寺樽」という表現は少し正確ではなくて、むしろ「百済寺壺」とでも表現しなければならなかったのではないか?との新たな疑問が私の頭の中に湧いてきた。でも百済寺壺だとあまり魅力的なお酒をイメージすることができない。百済寺樽はやっぱり百済寺樽のままでいいと改めて思った。
百済寺樽は、思わず飲みたくなってしまうような、すてきな名前だと思う。
次に私たちは、通行止めの鎖をまたいで、普段は通ることができない道を山本さんの案内で歩いて行った。もちろん、事前にご住職から通行の許可をいただいているそのことである。
この道の先の方に、発掘済の僧坊跡が残されているそうなので、まずはその見学に行くためだった。
300坊と称された百済寺の僧坊跡の一つがかつて発掘調査されて、当時の様子を窺い知ることができるとのことで、山本さんの解説をお聞きしながら当時の僧坊での僧たちの生活について想像を逞しくさせた。
発掘調査されたと言っても、素人の私たちが見る分には、単なる平らに区画された草茫々の空き地にしか見えない。ところが山本さんの説明を聞いていくうちに、その草茫々の空き地の中に僧坊の建物がイメージされて、僧たちの生活ぶりの一端を垣間見ることができるようになったのだから、まったく不思議だった。
この僧坊跡は、僧坊としてはあまり大きくはなく、師となる僧とその弟子が2人くらいの少人数で暮らしていたものと思われるとのことだった。
百済寺には女性は住んでいなかったと言われている。そのことの証拠として、彦根の大洞(おおほら)弁財天の建立に当たって藩内の一般庶民から一人一文の寄進を募った際に、百済寺からもまとめて寄進があった。その際の奉加帳に女性の名前が一人も記載されていなかったことから、そのように理解されているそうだ。
僧坊跡
僧坊跡の背後には高い石垣が築かれていた。その石垣の手前に今ではわかりにくいけれど、井戸が一つ掘られていた。山での生活にとって、水は貴重な資源であったことがわかる。
僧坊の手前にも小さな窪地があって、そこにも水が溜められていたものと推測されている。敷地自体がそれほど広くはないので、僧坊そのものも比較的ささやかなものであったのだろう。
そこで寄り添うようにして師弟が日夜仏教の修行に明け暮れていた。そんな光景を瞼の裏に思い描いた。
厳しい修行の合間に、もしかしたらここの僧坊に住んでいた僧たちも、百済寺樽の恩恵に浴していたかもしれないと思うと、ますます僧たちに親近感が湧いてくる。
その僧坊跡からさらに山道を上がっていった上の比較的広い僧坊跡から、いくつもの常滑焼の壺が整然と並べられた状態で発掘されたという。
壺は動かないように下部を土中に埋められて使用されていたようだ。この地点よりももっと下方の今の本坊近くでも、同じような壺がいくつも並べられているのが発掘されているとのことだ。
広い百済寺の境内の何ヶ所かで、密かに?百済寺樽が造られていたかもしれないと思うと、ミステリアスな雰囲気が芬々(ふんぷん)としてくる。当時の様子を想像力を逞しくして想起してみることは、なかなかにおもしろい。
百済寺樽を醸造していた跡かもしれない多数の壺の出土地点を後にして、私たち一行は本坊近くまで戻り、弥勒半跏石像が建立されている広場で足を止めた。
この弥勒半跏像は、座高1.75メートル、全高が3.3メートルもある石造で、紀元2000年を記念して百済寺の秘仏とされている金銅製の弥勒像を拡大して制作されたものだそうだ。
弥勒半跏石像
秘仏の実際の大きさは、27センチメートルのたいへんに小さなものである。
上野の国立博物館に法隆寺宝物館という建物がある。東京国立博物館のなかでも非常にユニークな展示館で、明治11年(1878)に法隆寺から皇室に献納され、戦後になって国へ移管された法隆寺の宝物が300点余り保管され展示されている。
そのなかで、6世紀から8世紀までに制作された金銅仏がざっと60体以上展示されている不思議な部屋がある。同じような仏像が一体ずつ同じような展示ケースに入れられて、一つの部屋の中にびっしりと並べられているのである。
概ね30センチくらいの金銅仏ばかりで、そのなかに菩薩半跏像が10体ほど含まれている。百済寺も聖徳太子に所縁のある寺であるから、おそらくは東京国立博物館の法隆寺宝物館に展示されているような菩薩半跏像のうちの一体が百済寺にも伝わったということなのではないかと想像している。
右足を左膝の上で組み、右膝の上に肘を乗せた右腕の人差し指を右頬につけるようにして思索に耽っているお姿の像である。
半跏思惟像と言うと、京都・広隆寺の半跏思惟像と奈良・中宮寺の半跏思惟像をすぐに思い浮かべるのではないだろうか。
どちらの像も、神秘的な笑みを浮かべて何かを考えていらっしゃるような表情をしていて、慈愛に満ちた美しくて優しい雰囲気を持った菩薩像である。両仏ともに、日本を代表する仏像であると言って過言ではないだろう。私も大好きな仏像の一つだ。
弥勒半跏像は日本だけでなく、韓国でも見ることができる。平成28(2016)年に上野の国立博物館で奈良・中宮寺の半跏思惟像が展示された時、韓国からも韓国国立中央博物館所蔵の銅製の半跏思惟像が対峙する形で展示されて話題となった。
百済寺の弥勒半跏像は、どちらかと言えば中宮寺の半跏思惟像よりは韓国の半跏思惟像の系統に属している像のように思われる。
とても温和なお顔をされていて心もちふっくらとした姿かたちの観音様である。これからお昼ご飯を挟んで、私たちは百済寺のお庭に面した本堂の廊下で、この弥勒半跏像を写仏しなければならない。果たしてうまく描けるかどうか、心許なく思いながら弥勒半跏像のある広場を後にして、本堂へと向かった。
それにしても、今年の夏は本当に暑い。
広い百済寺の山中を歩き回り本堂に辿りついた時には、着ていた作務衣が汗でびっしょりになっていた。夏だから暑いのは当たり前ではあるのだけれど、今年の夏は格別な気がする。
それでも、山中を歩き回った後なので、本堂の裏側の縁側に腰掛けて食べたお弁当はとてもおいしかった。
楓の木々の緑色が眩しくて、生命の源のようなその鮮やかな緑色を眺めながらお弁当を食べることができるなんて、とても贅沢なことだと思った。
暑いけれど、そよ風が建物と建物の間を縫うようにして吹いていく。そのわずかな涼感を肌に感じることにも、幸せな気持ちを味わうことができた。
ちょうどお弁当を食べ終わったころ、どなたかが庭に面した本堂の板戸に緑色のカエルが張り付いている、と言って教えてくれた。
これだけ自然が豊かな百済寺の境内なので、カエルの一匹や二匹くらいいても不思議はないと思ったが、そのカエルというのが国の天然記念物に指定されているモリアオガエルであるということを聞いて、すぐに私の身体が反応した。
モリアオガエル
詳しいことは知らないけれど、モリアオガエルというカエルは水に面した木の上に卵を産むという珍しいカエルであるということは知っていた。木の上で孵化したモリアオガエルのオタマジャクシは、水中に落下して水中で成長する。
私の知っていることと言えばその程度のものでしかなかった。もちろん、実物を見たことはなかったので、逃げてしまう前に是非ともお姿を拝見しておかなければと思い、急いで本堂の庭側に回ってみた。
ぴょんぴょん跳ねて逃げていくカエルを想像していたので急いだのだが、モリアオガエルは身動き一つしないで本堂の廊下の板戸に張り付いていた。
アマガエルのようなもっと小さなカエルを想像していたら、意外と大きいことにまず驚いた。トノサマガエルをさらにひと回り大きくしたようなサイズだろうか。色は鮮やかな緑色をしていて、目がとても大きいことが特徴的だった。
人が寄ってきても恐れる様子はなく、前足の手のひらを大きく拡げてじっと板戸に張り付いたままでいる。これがモリアオガエルなのか。想像していたカエルとは違っていて愛くるしいので、何枚も写真を撮ってしまった。
背後の板戸にモリアオガエルが張り付いた状態のまま、時間となり午後の百済寺での寺子屋の授業が始まった。
本堂の庭に面した廊下に緋毛氈を敷いて、その上に長机が並べられていた。
百済寺では通常このようなことはやっていないそうなので、私たちのためだけに準備された特別な仕様ということになる。ご住職のご厚意をつくづく感じる。
最初にご住職のお話をお聞きした後、早速、写仏の作業に取り掛かる。昨年は般若心経を写経して、その後でその般若心経を読経したのだそうだが、2年連続で参加されているオーナーさんもいることから、今年は少し趣向を変えて写経の代わりに写仏となったとのことだった。
ご住職からは、ひと線ひと線に心を込めて描いて、けっして疎かにすることがないように、との戒めの言葉をいただいた。
まったくその通りだと思った。
それはそうなのだが一方で、仏様の絵など今まで描いたこともなければ描こうと思ったこともなかったので、果たして私に描けるものだろうかと、不安の方が先に立った。
写仏用に弥勒菩薩の絵が2枚配られた。1枚は弥勒菩薩全身像が描かれた線画で、もう一枚は弥勒菩薩のお顔だけが描かれたちょっと複雑な絵であった。2枚配られたのは、最初に全身像の方から着手して、時間に余裕があればお顔の絵にチャレンジするようにとの趣旨だそうだ。
私は、字を書くこともけっして人に誇れるレベルではないけれど、絵を描くことに比べたらそれでも数倍マシなほどに絵を描くことが苦手である。
写仏と聞いて最初、仏像を見せられて、その仏様を写してみるようにと言われたらどうしようかと内心絶望的な気持ちになっていたのだけれど、弥勒菩薩の線画を上から写すだけと聞いて、これなら絵の描けない私でも何とかなるかもしれない、と少しだけ安心した。
ただし、そもそも筆ペンを使うこと自体が日常生活では皆無と言ってもいい。筆ペンの使い勝手を体得するだけでも最初は難しいことかもしれない。
まずは弥勒菩薩の頭の部分から、恐る恐る筆を下ろしていく。
軽くと思って筆先を紙面に触れただけなのに、筆先から思った以上の墨が紙の繊維に染み出してしまって、慌てて紙から筆を離す。相当繊細に筆先をコントロールしていかないと、細い線を描くことが難しいことを、いきなり思い知らされた。
私は細心の注意を払いながら右手の筆先に神経を集中させた。
線を描き進んでいくに従い、少しずつ筆ペンの扱いにも慣れてきて、上から順に弥勒菩薩の像が次第に形づくられていった。
考えてみれば、原画があってその線を上からなぞっているだけなのだから、小学生の子どもでもできることをしているに過ぎない。
むしろ子どもたちの方が、こういう作業には慣れているだろうし得意かもしれない。大の大人が情けないことだと思った。しかしそういう気付きがあったということだけでも、今日の写仏は私にとって大きな成果があったと言える。
慣れてきても、ご住職の教えの通りに、ひと筆ひと筆を疎かにしないようにと自らを戒めながら筆を進めた。
自分でも意外なほど、スムーズに描けたと思った。
心は極度に集中しているのだけれど、そういう状態の方がかえって、不思議と池の鯉が跳ねる音や水の流れる音がはっきりと聞こえるものだということを知った。
ひと通り書き上げて周りを見ると、まだほとんどの人は半分も進んでいないような状況だった。
左が原紙 右が写仏
私は思い切って、2枚目の弥勒菩薩像の写仏への挑戦を始めた。
線の太さがほぼ均一だった1枚目の線画と異なり、2枚目の絵は線の太さが自在に変化し、墨の濃淡が表現されている。より高度な技術が要求される絵だった。
しかし私は、何事にも挑戦することがたいせつなことだと思った。全部を写し取れなくても、写せるところだけでもいいではないか。
私は迷うことなく2枚目の絵の写仏に取り掛かった。
2枚目の絵は、弥勒菩薩の全身像ではなくお顔の部分のみを大写しにした絵である。まずはお顔の輪郭の部分を中心に、太い線の上をなぞっていく。
意外といけそうだ。
線の太さが自在に変わっている絵なのでまったく同じようにはとても写しきれないけれど、そこはあまり気にしないで、自分が描ける太さでお顔の輪郭をなぞっていった。
続いて、目と鼻と口を入れたら、それなりに弥勒菩薩のお顔になってきた。
私の机の前を通られたご住職が、「きれいに描けていますね。」と声をかけてくださった。
絵のことで人に褒められたことなど、私の人生のなかで一度もなかったことなので、恐縮してかえって筆を握る手が固くなってしまった。
薄いぼかしのところは難しくて私の技術の及ぶところではなかったけれど、できる限りの「抵抗」は試みてみた。
やがて時間となり、ご住職を中心に描いた絵を示しながら、みんなで記念写真を撮った。板戸に張り付いたままのモリアオガエルも一緒に写真に収まってくれた。
その後、ご住職の声に合わせて、皆で般若心経を読経した。
由緒ある百済寺の本堂の廊下で、池に面した庭に向かって般若心経を読経するなんて、なんて贅沢なことをさせていただいているのだろう、と感動した。
強い陽射しが照りつける暑い一日の行事であったけれど、稲が着実に成長している様子を自分の目で確かめることができた。また、百済寺についてより深い知識を得ることができて、さらに写仏や読経をして身も心も豊かにまた清らかになって、百済寺を下山することができた。
次にここを訪れるときは、秋の収穫の時である。
その時まで、病気や害虫の害に遭わず、台風や大雨の被害も受けず、順調に稲が育っていってくれることを祈って、私は百済寺を後にした。
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公民館から田植えをする田んぼまではそれほど遠くはないそうだ。長靴のままぶらぶらと公民館前の坂道を降りて行った。
やがて右手に水を張ったまだ田植えをしていない田が見えてきた。手前の畔道にはこれから植える苗の塊りが並べられている。思っていたよりも広いことに緊張感が走る。こんなに広い田んぼを果たして苗で満たすことができるのだろうか?
田の向かいの農家で早乙女姿に変身した女性陣も加わり、いよいよ田植えが始まる。
最初に地元の農家の方から苗の植え方の説明を受ける。
苗の塊りから3~4本の苗を親指と人差し指とでちぎり取り、それに中指を添えて地中に差し入れる。それだけなのだそうだ。とは言え、実際にどんな感じなのかは田んぼの中でやってみないことには実感がわかない。
私たちは、左右に分かれて恐る恐る田んぼの中に入っていった。
最初の第一歩は特に緊張した。田んぼの水面が畔から一段下がっているので、その分、自然と勢いがつく。ずぶずぶっという不思議な感触を感じながら長靴を履いた足が土中にめり込んでいった。
続いて畔に残っているもう一方の足をバランスを崩さないように細心の注意を払いながら田んぼの中に踏み入れる。
これで完全に両足が田んぼの中に入ったことになる。まだ長靴の長さには余裕があった。もっと深く沈み込むのではないかと想像していたのだが、思ったよりは土中にめり込んでいないことに安堵した。
田植え用の苗
スタッフの人たちは、不慣れな私たちがまるでお笑い芸人のように田んぼの真ん中でバランスを崩して転ぶ姿を密かに期待していたようである。そんなハプニングが起きれば、たしかに場は大いに盛り上がるに違いない。
しかし田の中で転んだりしたら泥を取り除いたり服を乾かしたりと後の処理が大変そうなので、少なくとも私自身が被害者になることがないように田の中での移動は慎重のうえにも慎重を期した。
私たちはこれから植えていく方に背を向け、田の畔に向かって等間隔となるように横一列に並んだ。列の途中ところどころに地元の農家のおばちゃんたちがライン参加してくれているのが心強かった。
目の前の畦道に田の左右から1本の紐が渡されていて、その紐には等間隔で赤い結び目が付けられている。この赤い結び目が苗を植える際の目安になるのだそうだ。私たちは、左右から渡された紐に付けられたこの赤い結び目の真下に苗を植えていけばよい。
横一列に苗を植え終えたら、みんなで後ろ(これから田植えをする方向)に一歩ずつ下がり、紐も15センチほど後ろに移動する。そこが次に私たちが苗を植えるラインになる。
こうしてみんなで横一列になって紐の赤い結び目を頼りに一斉に苗を植えていけば、自然と縦にも横にもきれいに整列した形で苗が植えられていくことになる。
田植えをした田んぼ
自分が受け持つのは縦の1列だけかと思っていたのだが、田の幅に対して田植えをする人の数がそれほど多くはないので、一人で4~5列を受け持たなければならなかった。素早く苗の塊りから植え付ける苗をちぎって、赤い結び目の目印の下に苗を植えていく。
苗の塊りは苗同士が互いに固く根を張り巡らせているので、簡単にちぎり取ることができない。手間取っていると、周りの人たちに遅れてしまう。自分の守備範囲の苗を植え終えた人は、他の人たちが植え終わるのを待つ状態になる。
一人一人が素早く自分の受け持ち部分の苗を植えてタイミングを合わせないと、全体のリズムが崩れることになってしまう。
「もうええか~?」
両端で紐を持つ人が頃合いを見計らって呼びかける。
「は~い。もういいで~。」
田の中から応答があると紐が一段後ろにずらされる。時には、
「ちょっと待ってぇ~。」
という答えが返ってくる時もある。誰かが手間取っていてまだ所定の場所に苗を植えきれていない場合だ。そうすると、残りの皆が一斉に腰を上げて「もういいで~。」という声が返ってくるのを待つ。
自分の受け持ちは概ね4列から5列なのだが、厳密に責任分担が定められているわけではない。余力があれば左右の人の列の分まで植えてあげる場合もあれば、反対に自分の列を植えてもらう場合もある。
互いに協力し合い補い合って1段ずつ、苗が植えられていく。和気あいあいとした長閑な光景であり、大空の下で自然に囲まれながら静かに時が流れていくのを実感することができた。
田の中には、いろいろな生き物が棲息している。
一番よく目にしたのは、赤い色をした糸のようなミミズだった。田の土の中に潜んでいて、私たちが苗を植えようとすると驚いたように蠢(うごめ)く。畔には小さな緑色をしたカエルがぴょんぴょん飛び跳ねていた。
青い空と土と水、それに澄んだ空気。
田植え自体は終始腰をかがめ低い姿勢を保っていなければならない重労働ではあるものの、実に気持ちのいい充実した一日を過ごしているとの満足感を味わうことができた。
誰かが後ろを振り返って、
「だいぶ進んだと思っていたのに、まだ残り(の距離)がこんなにあるんだ!」
と叫んだ。
「後ろを振り返っちゃだめだめ。」
別の人がやり返す。
たしかに、目の前には植えられた苗の列が長くなってきていることを実感できていたので、田植えは順調に進んでいるものと思っていた。ところが、振り返ってみると実際にはまだまだ先が長いことを思い知らされた。
田植えはそんなに甘くないということだ。
中腰の姿勢を長く続けていたために次第に腰が重くなってくる。一歩後ろに下がる毎にぬかるむ泥の中から足を抜いて、転ばないようにバランスを取りながら再び泥の中に足を踏み入れなければならない。足にも次第に疲労が伝わっていく。
田植えとはなかなか過酷な作業だということを、自分が実際にやってみて痛感した。しかし、いま私がこうして植え付けている苗がやがて根を張り成長して黄金色の実を付けるのだ。その実(米)から旨い日本酒が醸造されるであろうことを思うと、私のモチベーションは非常に高い状態のままで保ち続けられた。
いつの間にか2時間の時間が過ぎていた。
和気あいあいと、しかし一歩ずつ着実に距離を伸ばしてきた私たちの田植えは、
「そろそろ2時間になるのでここで終わりにしましょう。」
という比嘉さんの一言で終了となった。まさに神の声だった。
思ったよりも蛇行しないで苗の列がまっすぐになっているのは、赤い結び目のある紐のお蔭だろうか?
最後まで行き着けなかったのは少し心残りであったけれど、それでも1枚の田んぼの7割以上は進むことができたのではないだろうか。初めての田植えにしては上々の出来だったと自画自賛した。
最後の最後でお笑い芸人にならないように慎重に畦道に上がり、最初に説明を受けた道端に移動した。
道の端の溝に勢いよく水が流れていて、その流れで長靴に付着した土を洗い流す。土の肌理が細かくて、靴の表面にこびりついた土をきれいに洗い落とすのには苦労した。気がつけば爪の間にも土が入り込んでいて、水で洗い落とそうとしてもなかなか落ちない。
そうなることを想定して爪は短く切り揃えて田植えに臨んだのだけれど、それでも爪の間に入り込んだ土は落ちなかった。
私たちが長靴の土落としに躍起になっている頃、植え残された田んぼに田植え機を入れて田植え機による田植えが行われていた。
車の後ろの部分に苗の塊りをセットして、トラクターを運転するような感覚で田んぼの中を進んでいくと、きれいに苗が植えつけられていく。
そのスピードといい正確さといい、わざわざ私たちが不慣れな田植えをしなくても、最初から田植え機を使って田植えをすればもっと楽でスムーズに田植えができたはずだ。
でもそれではおもしろくない。少しの区画にしても、自分たちの手で苗を植えたことに価値があるのだと思い直した。私たちの魂の籠った苗が、やがて陽の光を浴びて成長し、秋にはたわわな実を結んでくれることだろう。
その米の一粒一粒から冬に旨い酒が造られる。
まだまだ先のことであるけれど、と言うか先のことだからこそ余計に、その瞬間が待ち遠しい。今年は一年間、百済寺樽の完成を待ち焦がれながら過ごす一年になることだろう。
私たちは公民館に戻り、服を着替えた。
ひと仕事終えた後は、とても気持ちがいい。ちょうどお腹も空いてきたところで昼食となった。一階の広間に四角く机が並べられていて、その机の上にお弁当が置かれていた。
身体を動かした後だから何を食べてもおいしい状態だったけれど、用意されたお弁当は心づくしのもので、地元の食材をふんだんに使ったおいしいお弁当だった。これにお酒があれば言うことがないのたが、これから私たちは百済寺に詣でる予定になっていたので、飲み物はお茶で我慢だった。
食べながら一人一人自己紹介をして、和やかな昼食になった。
昼食を食べてすっかり元気を取り戻した私たちは、比嘉さんたちの先導により徒歩で百済寺に向かった。
百済寺は、公民館から坂道を15分ほど登って行ったところにある。
これまで紅葉の季節以外には来たことがなかったので、百済寺と言うと参拝客による交通渋滞のイメージが先に立つけれど、ゴールデンウィーク期間中であるにも拘わらず参拝客の数は驚くほど少なかった。
紅葉の季節であれば、すでにこの辺りは駐車場に入るための車の長い列ができている場所である。ところが今は車の列どころか車が通ることさえ稀で、歩くにはやや広い車道が曲がりくねりながら続いている。
見上げると、青い空を背景にして楓の若葉が眩しいくらいに光を放って見える。陽の光を透かして見ると、重なり合った葉が微妙な陰影を作り、複雑な光の世界を作りあげているのがわかる。以前メールで比嘉さんが「新緑の百済寺もとてもきれいですよ!」と書いてくれたが、なるほどその通りだと思った。
本坊の入口のところまで住職の濱中亮明さんがわざわざ出迎えてくださった。脚を痛めていらっしゃるようで杖を突きながらのお姿は痛々しかったが、それでも飛びっきりの笑顔で私たちを迎えてくださり、寺の歴史や百済寺樽復活の経緯などを自ら語ってくださった。
百済寺には従前から、境内のあちらこちらに丁寧な解説版が設置されていて、初めて寺を訪れた人でも容易に寺の歴史や見どころなどを理解できるように配慮がなされていた。
それらの掲示板もみな、ご住職が作られたものだった。研究熱心で情熱を持ったご住職である。
ご住職は最初に、ディスプレイ用の百済寺樽の四斗樽が3つと解説版が設置されている場所に私たちを導いて、百済寺樽の歴史と僧坊酒について語られた。
百済寺樽のことはこの作品の最初の章で書いたので、ここでは繰り返さない。
信長の焼き討ちによって途絶えてしまった百済寺樽の復活を念じていたご住職の秘めたる熱意を比嘉さんが感じ取って、熱い情熱と強力な行動力とで実現させたのが、昨年の百済寺樽復活プロジェクトであったということだけを、書き留めておくのみとする。
その後、ご住職の案内で本坊である貴見院の池泉式庭園と「天下遠望の名園」と呼ばれる庭とを見て巡った。
ご住職は、古い文献などを丹念に調べ上げられていて、たくさんの示唆に富んだお話を私たちに語ってくださった。
なぜ「くだらじ」と読まずに「ひゃくさいじ」と読むのか?という問いに対しては、元々「百済」を「くだら」と読むのは日本独特の偏った読み方であり、「ひゃくさい」と読むのが本来の正しい読み方だというお話をいただいた。
百済寺は、緯度で言うとちょうど北緯35.1度の線上にあって、その35.1度線をずっと西に辿っていくと、太郎坊宮(八日市市)-比叡山(延暦寺)-次郎坊宮(鞍馬寺)-百済(光州)が一直線に連なって位置していることがわかる。
ご住職の話によると、これらの事実はけっして偶然の一致ではなくて、これらの建造物がある目的を持って意図的に造られたことの結果であるというのだ。
百済から日本に渡ってきた渡来人たちは、最初は日本海に面した若狭に入り、そこから湖北-湖東のルートを辿って京(山城国)へと定着しながら進んでいった。その過程で、遠い故郷である百済を偲んで、近江国や山城国の特定のポイントを選び、そこから百済がある方角を崇め祀ったものと考えられる。
ご住職の語らい
推古10年(602)に来日し日本に暦、天文学、陰陽道などの知識をもたらした観勒(かんろく)という百済の僧は、日本で初めて大僧正となった名僧であるが、彼が百済寺創建のための選地や方位決定等に深く関わったと考えられている。
聖徳太子とも親しい関係にあり、先進的な技術を持った百済僧である観勒らの関与によって百済寺が創建されたと考えるとき、ご住職が語られた一見荒唐無稽のようにも聞こえる北緯35.1度線の話は、大いなる説得力を伴って私の頭の中にインプットされる。
池泉式庭園に隣接して築かれた築山を上っていくと、天下遠望の名園と称される見晴らしのいい展望台に出る。ご住職は、杖を突きながら高い位置にある展望台にまで足を運んでくださった。
ここから西の方角を望むと、正面に太郎坊宮が見え、僅かに顔を覗かしている琵琶湖の水面を隔てて比叡山を望むことができる。そしてそこからさらに800キロのはるか先には、かつての百済が存在していたことになる。
ご住職はこの北緯35.1度の線を「百済望郷線」と呼んでいるのだそうだ。毎年春と秋のお彼岸には、太陽が比叡山の山頂付近に沈んでいくという。まさに神秘的な光景だ。
眼下には、名神高速道路と新幹線が通り、この地が今でも交通の要衝であることが見て取れる。外見的には見えないけれど、東日本と西日本とを結ぶ情報ネットワークの基幹回線網もこの地を通っている。
今でも交通の要衝であると書いたが、昔も今と変わらずこの地は交通の要衝であった。近江を制するものは天下を制する、という言葉がある。信長も秀吉も家康も、この地を通らなければ京に上ることができなかった。
百済寺の庭が「天下遠望の名園」と称される由縁は、百済寺の立地が戦国武将たちが天下を目指すうえで重要な戦略的拠点にあったということをも意味している。
戦国時代の百済寺は多くの石垣で外敵から守られており、一種の城塞化した存在でもあった。最盛期には境内に300坊あったと伝えられる僧坊は、それ一つ一つが石垣で区切られた小さな平地であり、城で言えば「曲輪(くるわ)」にあたる構造をなしている。
百済寺を信長が徹底的に焼き討ちにした理由は、百済寺に敵方の勢力が籠って信長に抵抗しようとする芽を早い段階から潰しておきたいとの狙いがあったものと思われる。
百済寺を焼き討ちにした後、信長は安土に新たな城を築くために、百済寺の石垣に使用されていた石を安土まで運んだ。
その道が、石曳の道と呼ばれる道である。
百済寺には、「石曳図額」と呼ばれる額絵が遺されている。横183cm縦96cmの板に描かれた大きな額だ。
この図によると、大きな車輪のついた牛車に巨石を乗せ、一等の黒い牛とともに24人の石曳人夫が懸命に綱を引いている様子が窺える。運ばれる岩の上には緞子が被され、人夫頭が軍扇を拡げて石曳たちを鼓舞する様子が生き生きと描かれている。
牛車の向こう側の路傍には、当時の今風の若者や修験者と思しき人たちが、口惜しそうに石が曳かれていくのを眺めている。
石曳の道は、百済寺から北西方向に約10キロ続いて大門というところで旧東山道に至り、そこから南西の方向に方角を転じてさらに6キロほど運ばれて安土に到着したものと推測されている。
百済寺の石垣の石が曳かれていったこの石曳の道は、実は同時に、それまでは百済寺樽が寺の外に運ばれた際に使われた道と同じであったと言われている。
百済寺から大門に至る道を、百済寺では石曳の道と言わずに「樽酒の道」と呼び、大門から安土までの道を「石曳の道」と呼んで意図的に区別している。
安土城の石垣は相当短期間のうちに急いで築かれたもののようで、石仏や墓石などがそのままの姿で転用されている。これらの石仏や墓石は、もしかしたら百済寺からこの石曳の道を通って安土に運ばれたものだったのかもしれない。
ルイスフロイスの『日本史』によって「多数の相互に独立した僧院や座敷と庭園・築山を備えた僧坊が建ち並びまさに地上の楽園」と称された百済寺は、こうして信長の手によってこの世から消し去られてしまったのであった。
ご住職からの貴重なお話をお伺いした後、私たちは本坊よりさらに高いところにある本堂を目指して長い石段を登っていった。
途中、大きな草鞋が奉納されている仁王門を潜り、さらに石段を登って行くと本堂に辿り着く。
途中の楓の若葉が美しくて、何度も上を見上げてはその景色を写真に収めた。この緑が秋には真っ赤に染まるのだから、その美しさといったら言葉に表すことができない。
百済寺の新緑
百済寺の本堂は、先にも少し触れたとおり慶安3年(1650)に再建されたものであり、平成16年に国の重要文化財の指定を受けている。
入母屋造りのこの本堂の中に、別名を「植木観音」とも呼ばれるご本尊であり秘仏の十一面観世音菩薩立像が安置されている。2.6メートルもあるという大きな観音様だそうだ。
焼き討ちで消失する前の元の本堂は、今の本堂の位置よりもさらに高い場所に建てられていたようで、約10倍の広さの敷地に約4倍の大きさの本堂が建てられていたというから、想像を絶する規模であったことがわかる。
今では土砂崩れにより敷地の三分の二が埋まってしまい、その上に木々が生い茂っているため、広大な土地が存在していたことさえ確認することが難しい。
さらに旧本堂の右手には五重塔もあったとのことで、今でもその礎石が遺されているという。
少し歩いただけではまだ十分に見尽すことができないほどに、かつての百済寺の伽藍は広大であったことを改めて想った。
そんな由緒ある近江国を代表する古刹である百済寺の日本酒造りに縁あって関わることができたことを、心からうれしく思った。
これから一年間、私は百済寺と様々なかたちで関わり合いながら生きていくことになる。次は7月に田の草取りをして百済寺で写経することが予定されている。秋にはたわわに実った稲を収穫し、そして年が明けた1月頃には収穫した米から芳(かぐわ)しい日本酒が誕生するのを楽しむことになるだろう。
私の今年の一年は、百済寺とともに歩む一年になるものと思われる。今からとても楽しみな一年である。
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田植えの前に
約2週間前の4月25日に、百済寺樽プロジェクトの最初のイベントとなる田植えの案内メールが届いた。
ところが、比較的簡単な文面の比嘉さんからのメールを見て、私は考え込んでしまった。
田植えの予定日は5月5日(土)で、雨天の場合は翌6日(日)に延期になるとのことが書かれていた。
雨が降らずに予定通り5日(土)に田植えができればまだいいけれど、雨の影響で翌6日(日)に日程がずれ込んだ場合、ゴールデンウィークのさなかのことであるので交通機関の予約が難しくなる。
しかし天候のことを今あれこれ考えても仕方がない。今私ができることは、まずは5日に田植えが行われることを前提に交通機関の予約を取ることだと思った。
ところが、いきなり難題が私の前に立ちはだかる。
集合時間が9時40分とのことだったので、まずは9時40分に間に合うように名古屋駅からの高速路線バスの運行時刻を確かめた。
バスは名古屋駅の新幹線口から1時間に1本、毎時15分に出ていることがわかった。
8時15分発のバスに乗ると百済寺のバス停到着時刻が9時44分となり、集合時間の9時40分には間に合わない。始発の7時15分のバスに乗らなければいけないことがわかった。
ところが新横浜を6時に出発する一番早いのぞみ号に乗ったとしても名古屋駅に着くのが7時24分になってしまうから、間に合わないではないか。
朝一の新幹線でも間に合わないということは、前日から行って泊まるか夜行バスを使うかしかない。
あいにく、前日の夜には予定が入っていた。そうなると体力的には非常にきついけれど、その予定が終わった後に夜行バスで名古屋に向かうしかない。
夜行バスを調べてみると、東京-名古屋間で驚くほどたくさんの便が出ていることがわかった。しかしゴールデンウィーク真っ只中の期間のバスをほんの2週間前に予約しようというのだから、相当に無理があった。
予約しようとするバスはどれも満席で、全然予約することができない。このままでは田植えを欠席せざるを得ない。
田植えの日程をもっと早く知らせてもらえていればとの思いが頭をよぎったが、苗の生育具合を見極めての日程決定であることを考えると、2週間前というのはやむを得ないと思い直した。
いきなりの田植え欠席も仕方がないか…。
それでもなお諦めきれずに、私は検索サイトを変えて名古屋行きの夜行バスを検索した。そうしたら、1台だけ、23時20分に東京駅鍛冶橋駐車場を出て翌朝5時35分に名古屋駅に到着する夜行バスに僅かだが残席があるのを見つけた。
急がないとその席も埋まってしまうと思い、すぐにカード決済をして席を確保した。最近は3列のゆったりとしたスペースでプライバシーも確保された座席レイアウトの夜行バスも多いのだが、私が予約したバスは従来型の4列のバスだった。
しかしこんな時なので贅沢を言ってはいられない。まずは行きの交通手段が確保できたことに安堵した。
これで雨さえ降らなければ、田植えに参加できることが確実になった。
次は帰りである。
終わりの時間がわからないので、名古屋までの高速路線バスを予め予約しておくことができなかった。タクシーでJRの能登川駅まで行き、米原駅から新幹線で帰るコースを選択した。
予想通り新幹線はすべて満席だった。どうしても当日の夜に帰らなければならない用事があったため、選択の余地はなかった。自由席で帰るしかない。
前日夜行バスで移動し、日中は田植えをして帰りは新幹線で立ったままかもしれないというのは、来年60歳になる私にとっては非常に厳しい行程となるが、それでも田植えに参加したいとの思いの方が強かった。
ただし、不運にも5日が雨になり田植えが6日に延期となった場合は、もう完全にお手上げである。払い込んだ夜行バス代は戻ってこないし、5日夜の夜行バスを予約することは現時点ではもう完全に不可能である。
運を天に任せるしかなかった。
ちなみにこの時点でインターネットによるゴールデンウィークの天気予報を見てみると、5月5日は雨の予報となっているサイトもあれば晴れの予報となっているサイトもあり、要するによくわからないという状況だった。
百済寺へのアクセスの問題以外にも、対処しなければならない課題があった。それは長靴である。
田植えをするので長靴が必須のアイテムであるとは元々思っていた。今どき家に長靴なんてないから、買わなければならないとは考えていた。
ところが、比嘉さんからのメールには、普通の「長靴」ではなく「田植え用長靴」を持ってくるようにとの記載があった。
長靴のほかに田植え用長靴というものが世の中にあることを初めて知った。
比嘉さんからいただいたメールによると、田植え用でない長靴だと田の中で足が抜けなくなってしまうのだそうだ。裸足での作業ももちろん危険とのこと。
田植え用の長靴はどこで売っているのだろうか?
そもそも田植え用長靴の存在を知らなかったくらいだから、どこで売っているのかもわかるわけがない。
私は恐る恐るインターネットで「田植え用長靴」を検索してみた。
検索でヒットがないのではないかと心配だったのだが、意外なことに山ほどヒットした。世の中にこんなに田植え用長靴なるものがあるということを初めて知った。しかもピンからキリまであって、2.000円前後のものから10,000円近いものまで様々な種類のものがあった。
値段の違いがどこにあるのかわからなかった。私はまったくの初心者であるし、来年以降田植えに参加できるかどうかもわからない状況なので、まずは一番安い長靴を注文することにした。
ところがまた問題が発生する。
最初に注文しようとした一番安いサイトの納期を確かめてみたら、自宅を出発する5月4日までには到着しないことが判明した。在庫があってすぐに発送すれば十分間に合うはずなのに、間にゴールデンウィークが挟まるからだろうか?
せっかく交通手段の予約が取れても、長靴が手に入らなければ田植えはできない。
仕方がなく、他のサイトを探してみた。いくつか探していくうちに、すぐに発送してくれそうなサイトがあったので、一番安い値段ではなかったけれど、そこで田植え用長靴を注文した。
とにかく初めてのことなので、戸惑うことが多かった。
その他の持ち物は、タオルや着替えや帽子などだったので、問題になるものはない。田植え用長靴も無事に到着して、あとは当日に雨が降らないことを祈るだけとなった。
ちなみに田植え用長靴とはどんなものか、試しに履いてみた。
当然のことだが、長さは普通の長靴とは異なり、膝の下くらいまである長い靴だった。脛の部分は柔らかくて薄い素材でできている。素足のままで履いてみようとしたけれど、なかなか足が入らなかった。
もしかしたら小さいサイズの靴を注文してしまったのではないかと一瞬不安が頭をよぎったが、完全に足が入ってしまうと足元の大きさにはそれなりの余裕があった。
黒いゴムのバンドが付属で付いていた。足首の辺りとつま先とを絞るようにして押さえつけて脱げないようにするものと思われる。
こんなものかと感触がわかったので脱ごうとしたら、脛の部分が長いので容易に脱げない。靴下を履いていればもう少し滑らかに脱げるのかもしれないが、慣れないこともあり当日は長靴の着脱にもかなり苦労するかもしれないと思った。
百済寺樽
いざ、百済寺へ
事前の準備にかなり苦労をしたけれど、出発してから集合場所である百済寺町公民館まではスムーズな行程となった。
当初はサイトによって結果がまちまちだった天気予報も、5月5日が近づくにつれて精度を増していき、ほぼ雨は降らないであろうとの予報に集約されていった。
5月4日(金)の夜、私は指定された夜行バス乗り場がある東京駅鍛冶橋駐車場に向かった。東京駅という名前は付いているけれどむしろ隣の有楽町駅の方が近いくらいの場所で、JRの線路を挟んで東京国際フォーラムがすぐ正面に見える場所にあった。
東京駅の長距離バス乗り場と言うと八重洲口の駅前をすぐに想像するのだが、八重洲口だけでは需要を賄うことができず比較的最近になって鍛冶橋駐車場が使用されるようになったのではないだろうか。
私は鍛冶橋駐車場の存在を今まで知らなかった。
こんなところに本当にバス乗り場があるのだろうか?不安な気持ちになりながら歩いていくと、突然、大勢の人が吸い込まれるように広場の入口のようなところに入っていくのが見えてきた。
そこが東京駅鍛冶橋駐車場だった。夜の遅い時間帯だというのに、そこには驚くほどたくさんの人たちが出発するバスを待っていた。夜行バスを利用する人がこんなにも多いことに私は驚いた。
出発案内の掲示板には、名古屋だけでなくいろいろな都市に向かって発車する予定のバスの便が数珠つながりに表示されている。同じ時刻に出発する行先の違うバス便がたくさんあったので、乗り場を間違えないようにする必要があった。
私が乗る予定の23時20分発名古屋行きのバスの到着がコールされた。
指定された乗り場に行き、係の人から座席番号を告げられ、私は夜行バスに乗り込んだ。夜行バスに乗ることなどほとんどなかったので、少し不安があったが、同時に好奇心もあった。
どんな人が夜行バスを利用するのだろうと思って乗り込んでくる人たちを観察していると、若い人が圧倒的に多い。飛行機や新幹線より値段が安いことが彼らにとって大きな魅力なのだろうと思った。
カップルでバスに乗り込んでくる男女も多かった。
体力はあるけれどお金はない。そういう若い人たちにとっては、夜行バスは便利な長距離移動手段なのかもしれない。
そんななかに60歳を目前にしたおじさんが一人で深夜バスに乗っているのは、反対に彼らから見たら奇異な存在に思われたかもしれない。
バスはほぼ定刻に東京を出発し、途中横浜や海老名などで更なる乗客を乗せて、深夜の高速道を名古屋に向かってひた走っていった。窓には遮光カーテンが掛かっていて、運転席と客席との間もカーテンで遮断されていたから、今どこを走っているかはわからない。
途中2ヶ所のサービスエリアで休憩を挟み、バスはほぼ定刻で名古屋駅前に到着した。
熟睡できなくて十分な睡眠が取れた状態とは言いがたかったが、それはある程度予想していたことだった。
バスを降りると、朝の光が眩しかった。思いのほか順調に名古屋まで来られたことにまずは安堵した。次の百済寺までの高速路線バスの発車が7時15分だからまだ1時間半以上の時間の余裕がある。
さすがに名古屋駅も人通りは疎らで、朝ごはんを食べられるような店が開いている気配もない。新幹線口の駅前に唯一開いていた24時間営業の吉野家で朝の定食を食べ、開いたばかりの高速路線バスの切符売り場で予約していた百済寺バス停までの切符を買い、バス乗り場でバスが来るのを暫く待った。
名古屋駅新幹線口発京都行きの高速路線バスは、7時15分が始発である。その後、毎時15分にバスが出る。名古屋から京都に行くのなら新幹線を使えばいいので、高速路線バスに乗る人はみな、私のように途中のバス停で降りる人なのだろうと思った。
やがて出発時刻が近づいてくると、思っていたよりも多くの人がバス停に並んだ。ほとんどが女性であることに驚いた。このうちの何人かは私と同じ目的で百済寺樽の田植えに参加する人なのだろうか?
持ち物や服装からでは判断がつかない。どの人が一緒なのかなと思いながらバスに乗り込む。
高速路線バスに乗るのは初めてだった。名古屋から名神高速に乗り、岐阜を経由して滋賀に入る。いつもの新幹線の車窓から見ているのとはまた違う景色で、私にはとても新鮮だった。
途中の関ヶ原から向こう側は何度か訪れたことがある土地であり、名神高速道路も走ったことがあった。
多賀のサービスエリアで一時休憩をして、再び走り出してから百済寺のバス停まではすぐだった。
驚いたことに、百済寺のバス停でバスを降りたのは、私一人だった。
名古屋のバス停で一緒に田植えをするのかと私が(勝手に)思っていた人たちは、どこへ行く人たちだったのだろうか?
私以外にも名古屋方面から田植えに参加する人がいるだろうと思っていたので、百済寺のバス停でバスを降りたのが私だけだったことは非常に意外だった。このバスに乗っていなければ集合時間に間に合わないから、名古屋方面からの参加者は私一人ということになる。
心細さを感じながら、バス停から百済寺町公民館に向かう山道を歩いて行った。案内によると歩いて20分ほどのところだと書いてあったが、その間ずっと上り坂だとは書いていなかった。
百済寺バス停
道端に薄桃色の山つつじの花が散見された。ややピークを過ぎていたけれど、新緑の木々の合間にいいアクセントとなって咲いている。長閑でほのぼのとした山道だ。道端に咲く芯が黄色で白い花びらの花はマーガレットだろうか。
それにしても、雲一つない真っ青な空に遠くの山々の緑が鮮やかに輝いて見える。
いつしか私は坂道を上っているということも忘れて、目の前の景色に目を奪われながらゆっくりと流れていく時間を楽しんでいた。
やがて「足湯カフェ」の看板が見えてきて、その先に明らかに民家ではない切妻屋根の大きな建物が見えてきた。ここが百済寺町公民館なのだろう。
近づいていくと、その入口のところに一人の女性が佇んでいた。
比嘉さんに違いない。インターネットでしかお顔を拝見したことがなかったけれど、すぐに比嘉さんだとわかった。
挨拶をして自己紹介をする。感じのいい人だ。初対面でもすぐに仲良くなれるような人を引き付けるものを持っている。
しばらく会話をしているうちに、今日の田植えに参加する人たちが三々五々集まってきた。ほとんどが車で来られた方だったけれど、中には八日市駅から約10キロの道を1時間かけてランニングして来られたという男性もいた。
百済寺町公民館
今年のオーナーは全部で17人で、そのうち今日は11人が参加予定とのことだった。
大半が滋賀県内に在住の方であるが、なかには福井県から車で来られた方もいた。地元のスタッフの方たちは、胸に「百済寺樽」と書かれた水色のTシャツを着ていた。私にとっては全員が初対面の方たちなので、一度紹介されただけでは誰が誰なのか頭の中に覚え込むのは難しかった。
昨年から引き続いて参加していてすでに顔見知りの関係にある人も多くいて、その輪の中へ後から飛び込むのはなかなか勇気が要ることなのだが、比嘉さんの笑顔がそんな心理的障壁を瞬時にして解消させてくれた。
それに、今日集まった人たちの間には共通項がある。みんな日本酒が好きだということである。8ヶ月後の新酒試飲を楽しみにして集まってきた酒好きだから、最初は硬い挨拶から始まっても打ち解けるのに時間はかからない。
やがて集合の9時40分になった。
男性は公民館の2階に案内されて田植えの服装に着替える。私は汚れてもいいように運動用の短パンとシャツに着替えて日除けのための帽子を被った。そして玄関で例の長靴を履く。
真っ青な空の下の公道を長靴を履いて歩くというのは不思議な感覚だった。
女性は比嘉さんたちが用意した早乙女の衣装に着替えるために、一足先に田んぼに向かっていた。
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それから440余年の星霜が過ぎていった。
平成29年(2017)のことである。失われた百済寺樽を復活させたい。一人の女性が立ち上がった。比嘉彩夏さんである。
私は比嘉さんのことをよくは知らない。
比嘉さんのことを知ったのは、クラウドファンディングのホームページにおいてであった。
何気なくインターネットの画面を見ていたら、「百済寺樽」という言葉が私の目を引いた。
百済寺は、秋になると毎年訪れている紅葉が美しい寺である。その百済寺の樽とは何だろうか?よくよく読み進んでいくと、織田信長の焼き討ちにより壊滅的被害を受けた百済寺でかつて造っていた日本酒を復活させるプロジェクトだという。
酒米の栽培から始め、昔の技法を復元させて当時と同じ味の日本酒を醸造したいという比嘉さんの気持ちに感動した。
少しでもお役に立てればと思い、私は即座に活動資金を送金した。正直に言うならば、役に立ちたいという気持ちは嘘ではないが、それよりも返礼品として送っていただける百済寺樽を飲んでみたかったというのが偽らざる気持ちであった。
資金を送金して暫くしてから、比嘉さんからの手紙が届いた。クラウドファンディングへの出資のお礼の手紙だった。
驚いたことに、印刷された手紙ではなく直筆だった。
私が出資した別のクラウドファンディングでは、約束された返礼品でさえなかなか送られてこなくて、こちらから督促してやっと送られてきたといった事例もあった。
それは極端にひどかった例であるけれど、そこまでいかなくても、お礼状は印刷されたものが普通である。
百済寺樽に出資した人は私の他にも何十人といたはずなのに、一人一人に直筆でお礼状を書いてくれる比嘉さんとはいったいどんな方なのだろうか?
比嘉さんはその後も、節目節目で稲の生育状況などをホームページでレポートしてくれた。そしていよいよ平成30年1月に見事に百済寺樽が完成した。
実際に百済寺樽が送られてくる前に、インターネットのニュースで百済寺樽の完成を知った私は、比嘉さんにお祝いのメッセージを送った。丁寧な返信がすぐに返ってきたことは言うまでもない。
それから少しして、百済寺樽の四合瓶2本が送られてきた。
私は逸る気持ちをぐっと抑え、そのうちの1本を冷蔵庫で数日間しっかりと冷やした。そして満を持して百済寺樽の封を切った。
透明でやや粘り気のある液体が口の中でふくよかな香りを伴いながら拡がっていった。最初に舌先に強いインパクトを残しながら、次第に口中に沁み渡っていく深い味わいを私は心地よい気持ちで味わった。
飲み干した後に幽かに残る爽やかな余韻。想像していた以上に旨い酒だった。
日本酒の味わいは千差万別であり、旨いかそうでないかは最終的には個人の好みの問題に属するものである。
キリリとした辛口を好む人もいれば濃厚で芳醇な味を好む人もいる。だからこれはあくまで私個人の感想であり、私の好みに合っているかどうかということなのだけれど、一言で言えば百済寺樽の味は私の好みにかなり合っている。
正直言って、ここまで旨い酒になるとは思っていなかった(比嘉さん、失礼!)。
しっかりとした味を持ちながらすっきりとしていて後味がよく、そして雑味がない。と書いたところで、酒の味を言葉で表現することは難しい。いくら言葉で表したところで、「百聞は一飲に如かず」である。
先に私は、昔の技法を復元させて当時と同じ味の日本酒を醸造すると書いたけれど、厳密に言うと、昔の技法のままに百済寺樽を復活させたわけではない。遺された文献などを研究して昔の技法を研究したうえで、現代の最新の技法を加味して平成の百済寺樽を復活させたと書いた方がより正確な表現になるだろうと思う。
比嘉さんたちは、地元の喜多酒造の協力を得ながら復活させる百済寺樽の味についての検討会を何度も重ねた。こうして出来上がったのが、百済寺樽なのである。
実際に飲んでみないことには百済寺樽の旨さを理解すること能わずであるのだが、残念ながら平成29年度の百済寺樽は、平成30年2月10日に地元東近江市内にある道の駅「あいとうマーガレットステーション」で販売されたものの、僅か30分で完売してしまったという。
四合瓶で1,250円、一升瓶で2,500円という値段も、破格の安さであると言わざるを得ない。
封を切った四合瓶がすぐに空になってしまったことは言うまでもない。しかしその後私は、もう1本残された四合瓶に手を付けることがどうしてもできないでいる。
復活最初の年であり、どんな酒ができるかもわからなかったし、果たして売れるかどうかも予測できないなかで、いきなり大量の酒を造ることには大きなリスクがあった。
だから初年度は、一升瓶に換算して1,600本分の分量しか造らなかったのだという。
それはそうだろう。まずは440年余も途絶えていた百済寺樽を復活させることに意義があるのであり、増産はその次の課題となる。
従って、来年になり百済寺樽の新酒が出来上がるまでは、私たちは百済寺樽を口にすることができない。私が2本目の瓶の封を切ることを躊躇する理由である。
そうこうしているうちに、再び比嘉さんからWebサイトを通じてメッセージが届いたのは、平成30年4月10日のことだった。
今年の百済寺樽プロジェクトをスタートさせるので、オーナーとして参加しないかとのお誘いのメッセージだった。
オーナーとなるためには3万円の出資金が必要になる。その代わりに、5月の田植え、7月の草取り、10月の稲刈り、そして翌年1月の新酒披露の4回、百済寺樽の製造過程に参加することができるのだそうだ。
横浜に住んでいる私にとって、百済寺はかなり遠い。
純粋な距離の問題だけではなくて、百済寺の最寄り駅から百済寺まで行くための交通手段がほとんどないことが、私が躊躇した真の理由だった。
百済寺へはほぼ毎年、紅葉を見るために赴いているので、周囲の交通事情については手に取るようにわかっていた。秋の季節は湖東三山巡りのシャトルバスがJR彦根駅などから出ているのでまだいいのだが、紅葉シーズン以外となるとバスも1日にほんの数本しかなくてアクセスが非常に難しくなる。
決め手となったのは、名神高速バスで京都や名古屋から1時間のところにある「百済寺」のバス停から徒歩20分で行けるという情報だった。
高速道路を走る路線バスというものにこれまで乗ったことがなかったけれど、名古屋からバスで1時間ほどで行けるのなら何とかなるかもしれない。
私はすぐに応募フォームに必要事項を記載し3万円を送金し、参加の申し込みをした。こうして、私は復活2年目の百済寺樽プロジェクトにオーナーとして参加することになったのだった。
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