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直弼の史跡を訪ねて Archive

Ⅲ.京都編 1. 金福寺・圓光寺(たか女終焉の地・墓所)

 錦秋の京都に行きたいと思った。

 京都に行くなら真っ先に行きたいと思っていた場所がある。金(こん)福寺(ぷくじ)と圓(えん)光寺(こうじ)だ。いつか機会があったら、たか女が晩年を過ごした金福寺とたか女の墓所のある圓光寺を訪れたいと、ずっと思っていた。

 ついに念願が叶う時が来た。新幹線で京都駅に到着した私は、取るものもとりあえず叡山電車の出発地である出町柳に直行した。折しも紅葉が一番美しい季節である。出町柳の駅も2両編成の小型のワンマン電車も、平日だというのに大勢の観光客でごった返していた。なぜかお年寄りが多い。

 私が目指す「一乗寺駅」は、出町柳から3駅目。思ったよりも近い。乗客の大部分が鞍馬を目指しているので、一乗寺で降りる乗客は比較的少なかった。それでも、私の希望よりはるかに多くの数の人がこの駅で降りた。

 金福寺への道は、線路と垂直に交わる道をまっすぐ山側に向かっていく。途中、宮本武蔵と吉岡一門との決闘の舞台になったと言われている一乗下り松を通る。この下り松を過ぎて真っ直ぐに進むと、紅葉で有名な詩仙堂がある。金福寺に行くには、細い道を右に折れる。

 観光客も、詩仙堂までは足を運ぶものの、金福寺を訪れる人は少ない。さらに細くなっていく道をもう一度右に曲がると、やがて左手前方に金福寺の小さな門が見えてくる。周囲は閑静な住宅街だ。こんなところにお寺があるのかと途中訝しく思えてしまうほど、寺は周囲に溶け込むようにひっそりと建てられていた。

 十段ほどの石段を昇ったところに先程見た門があり、門の左手に大振りな楓の木が赤く色づいていた。まるで私のことを手招きしているように、楓の木の赤い色が私の眼を射た。京都に着いて最初に目にした紅葉に、私はしばしの間、足を止めて見入った。

 clip_image002 金福寺弁天堂

その楓の木の傍らに、「村山たか女創建の弁天堂」という小さな建物があった。いきなりたか女の足跡に接することができて、心が熱くなった。お堂の傍らの説明書きには、

  此の弁天堂は、舟橋聖一作花の生涯のヒロイン、村山たか女(妙壽尼)が慶応三年に

創建したものです。

  たか女は文化六年(一八〇九年)己巳(きみ)の年に生まれました。巳(白い蛇)は、

弁天様の御使ひとされて居るので、たか女は、弁天さんを深く信仰して居たものと思

われます。

  井伊大老が、櫻田門外で遭難してより二年後の文久二年たか女は、金福寺に入り、尼

僧として行いすまし、明治九年九月三十日当寺に於いて、六十七才の生涯を閉じたの

でした。

  法名、清光素省禅尼

 とある。いかにもたか女らしい慎ましやかな弁天堂だ。「辯財天女」と書かれた剥げかけた額が、たか女が生きていた時代との時の隔たりを感じさせる。ふと、大洞の弁天像のふくよかなお姿を思い出した。たしかに、たか女には弁天さまがよく似合う。

 一番の盛期をほんの少し過ぎてしまっていたが、庭のそこここに配置された紅葉が枯山水の庭に鮮やかなアクセントを加えている。白砂に映える赤い色、緑の木々とのコントラスト、苔に上に落ちた楓の鮮烈さ。すべてが庭という小さな世界の中に、計算され尽くして配置されている。たか女もこの紅葉を見たであろうと思うと、心が救われる思いがした。

 それほど大きくない本堂と小さな枯山水の庭と裏山とからなる寺の規模も、いかにもたか女が余生を過ごした場所として相応しいと思った。すべてを失い無となった彼女が人生の最後の時間を過ごした場所が、このささやかな空間だった。

 本堂には、たか女に所縁(ゆかり)のある遺品の品々が展示されていた。直弼の書や主膳の肖像画なども興味を引いたが、中でも私が一番心惹かれたのは、長野主膳に宛てたたか女直筆の密書である。あまりの流麗な筆であることに、驚いた。一方、楷書で書かれた弁天堂の棟(むね)札(ふだ)は実に端正な筆づかいで書かれている。三味線や和歌の道にも通じ、直弼や主膳と思想を共にしたたか女の教養の高さが窺える一品である。

 clip_image004 たか女の遺品

これまでは、たか女が生まれた家の跡であったり、たか女が訪れたであろう神社仏閣であったりで、私にとってたか女は、間接的にしか感じられない存在だった。金福寺を訪れてたか女が実際に手にした物に初めて接することができて、胸が詰まった。

直弼も主膳も忽然として世を去った後、たか女は何を心のよすがとして自らの余生を生きたのか?我が眼前にある彼女の遺品が、答えを語ってくれているような気がする。14年間の歳月は、けっして短い年月(としつき)ではない。私はこの金福寺でのたか女の生活に、涙する思いで心を馳せた。

clip_image006 金福寺本堂と楓

 金福寺は、村山たか女が亡くなるまでの時を過ごした寺としてよりは、むしろ与謝蕪村の墓のある寺として有名である。松尾芭蕉とも関係が深かった縁があり、「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」の句を芭蕉もこの寺で詠んでいる。古くから文人に愛された土地柄だった。たしかに京の街の中心部からやや離れ、静寂に支配された山の佇まいは、文人たちの心に安らぎを与えたに違いない。

世の喧騒から隔絶されていながら、鄙(ひな)ではない。そんな絶妙のバランスに裏打ちされた洗練された雰囲気を感じさせるところが、金福寺の魅力ではないかと考える。同じような雰囲気は、光悦寺あたりでも感じられる。いわゆる芸術家が集まりやすい環境なのかもしれない。

 京都の北山を一望のもとに見渡せる裏山に昇ると、蕪村の墓をはじめとして数々の文人の墓や碑があり、また芭蕉庵なる趣深い小屋(しょうおく)が建立されている。たか女もこの庵の傍らに佇んで、京の街を遠望したかもしれない。

 

 金福寺を後にした私は、詩仙堂を経て、圓光寺に向かった。

clip_image002[1] 圓光寺山門

 圓光寺は、徳川家康が開基の寺だけあって、金福寺よりよほど大きな寺域を有している。庭園の規模も本堂の規模も、金福寺をはるかに凌駕している。たか女の墓がどのような経緯で圓光寺に作られたのかを私は知らないが、たか女の墓であるのなら、慎ましやかな金福寺の方が似つかわしく思えた。

 たか女の墓のことは後に書くとして、まずは本堂の廊下に腰を降ろして、大規模な庭園を眺めることにする。

clip_image002[3] 圓光寺庭園

 残念ながら、紅葉の美しさでは、金福寺も圓光寺も先に見てきた詩仙堂に及ばない。観光客の多さがその差を如実に物語っている。鮮やかな紅色の楓がふんだんに散りばめられた詩仙堂の庭園は、紅葉を愛でる庭としては高度に洗練されている庭だ。丸く刈り込まれた手前の緑の植え込みとその向こう側の楓の赤とが見事に調和し、絶妙とも言える風景を作り上げている。

 圓光寺の庭園は、すでに紅葉がピークを過ぎていたこともあるが、そこまでの洗練された美しさはない。自然を模した楓の疎林の中に石や灯篭や苔を巧みに配してそれなりの雰囲気を作ってはいるが、雑然とした感は否めない。

 あるいはもう少し楓が鮮やかに色づいていればまた印象も変わったのかもしれないが、やや物足りなさを感じながら、庭園をしばし歩いた後、寺域の裏側にあるたか女の墓に向かった。

 たか女の墓は、表示がなされているのですぐにそれと知れた。

clip_image002[5] たか女墓

 何の変哲もない三段に石が組まれた普通の墓だ。裏側には何も刻まれておらず、表に「清光素省禅尼」と法名のみが彫られている。直弼の墓に供花が絶えなかったことや、主膳の墓の大きかったことと比べたら、花もなく何と質素なことか。そう思うと、涙がこぼれそうになった。

 数奇な人生を生きた一人の女性。それは、運命と歴史の渦とに翻弄された波乱に満ちた人生だった。むしろそれだからこそ、今は誰に邪魔されることもなく、ひっそりと眠っていてほしいと思った。

 私以外にも、数は多くはないけれど、たか女の墓を訪れる人は後を絶たなかった。彼女のファンは、案外と多いのかもしれない。たか女の生涯を追って、多賀大社から彦根を経てついに京都まで来てしまった。秋の彩り豊かな景色のなかで、私は不思議な思いでたか女の墓を見つめ続けていた。

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Ⅱ.江戸編 7. 掃部山公園(桜木町)

clip_image002[6] 掃部山公園直弼像

横浜で直弼に逢えるとは、思ってもいなかった。

桜木町に掃部山公園という公園があることは知っていたけれど、これまで実際に行ってみたことはなかったし、それが井伊掃部頭の「掃部」であることにまでは、考えが結び付かなかった。

桜木町の駅を降りて横浜駅方面に少し戻り、そこから直角に山側に上っていく坂がある。紅葉坂という。有島武郎の「或る女」にも登場する趣のある坂だ。坂の途中、ユースホステルのところを右に曲がってまっすぐに行くと、小山に突き当たる。そこが掃部山公園である。

みなとみらいの高層ビル群が見渡せる眺めのいい高台に、ひっそりと直弼の銅像が建っていた。衣冠帯束姿の厳めしい表情をした直弼だ。どうしてこんなところに?予期せぬ人に偶然出くわしたような気持ちで、私は直弼の銅像に問いかけた。

 掃部山公園のある一帯は、明治5年(1872年)に新橋-横浜間で開通した日本で最初の鉄道を建設した外国人技師たちの官舎があった場所だという。鉄道建設の父と呼ばれているエドモンド・モレルもここに住んでいたとのこと。当時としては最先端技術者集団の華やかな暮らしの場だったのかもしれない。今でも山の斜面には、ブラフ積みと呼ばれるモダンな洋風の石積みが残っている。

その後明治14年に、横浜正金銀行の松井十三郎ら旧彦根藩士によって一帯の土地が買い取られ井伊家の所有になったところから、掃部山と呼ばれるようになった。公園の敷地内の一角には横浜能楽堂がある。明治8年(1875年)に東京・根岸の旧加賀藩主前田斉(なり)泰(やす)邸に建てられ、その後東京・染井の松平頼(より)寿(なが)邸に移築されて昭和40年まで使用されていた関東最古の舞台を復元したものだ。公演が行われていない日には無料で舞台を見学することができる。どこからか稽古の笛の音や鼓の響きが聞こえてきて文化の匂いがふんぷんと漂う雰囲気は、茶道に精通し能楽にも造詣が深かった直弼に似つかわしい。

 今見ている直弼の像は昭和29年(1954年 )に開国100周年を記念して横浜市が制作したものだそうだが、実はこの直弼像は二代目で、初代直弼像は明治42年(1909年)に横浜開港50年を記念して旧彦根藩有志が建立したものだと言う。残念ながら初代の直弼像は、戦時中の金属回収(昭和18年)により取り壊され、溶解されてしまった。

 この初代直弼像を掃部山(当時は戸部の丘と呼ばれていたらしい)に建立するに際しては、当時の世相にはなお直弼を良しとしない者も多数存在していて、建立推進派の旧彦根藩士らと建設反対派との間で抗争があった。恐ろしいことに直弼像の首は、これら反対派の人々によって除幕式の翌日に切り落とされたと言う。

死してなお直弼は、その是非を世に問われていると言うことか。まさに数奇な人生だったと言わざるを得ない。

これらの事実を以って、世に直弼は三度殺されたと言われている。

 一回目は、言わずもがなの桜田門外の変である。二回目が、この初代直弼像の首が落とされたこと。そして三回目が戦時中の金属供出。数々の悲劇を乗り越えて今の直弼像があるという事実に、直弼の執念のようなものを感じたのは私だけだろうか?

 そんな忌まわしい過去の歴史を超越するかのように、直弼像は屹然として青い空の下、港に向かって立っている。直弼と向かい合うように、172mと日本一の高さを誇るランドマークタワーが対峙する。さしもの直弼も、これほどの横浜の発展までは、予見できなかったに違いない。

 今では神奈川県の県庁所在地は横浜であり、一般には神奈川と横浜は同義語のように思われているかもしれないが、江戸時代までは神奈川と横浜は別の街だった。と言うよりも、街だったのは東海道五十三次の三番目の宿場町であった神奈川のみであり、横浜は東海道から外れた寂しい漁村だった。

この横浜に目をつけたのが、一説には直弼であったと言われている。直弼の像が横浜に建つ由縁でもある。日米修好通商条約において神奈川を開港地とすることにしたものの、外国人に神奈川から東海道を通って江戸に攻め込まれるリスクを考慮して、敢えて東海道からは少し外れた場所にある横浜を開港地としたのだと言う。それは反対に、急進的な攘夷派から居留外国人を隔離して守る役割も果たしていたかもしれない。

大阪に近い神戸もまた同様だったらしい。条約上では開港地は兵庫だが、実際の港は神戸に作られた。外国人たちから約束が違うではないかと言われないように、明治4年(1871年)の廃藩置県に際して、横浜がある土地を神奈川県、神戸のある土地を兵庫県と称したのだと言う。

神奈川でなく横浜を開港地とする判断を直弼が行ったとの話を明確に記載した歴史書は私が知る限りは見当たらないが、舟橋聖一さんの「花の生涯」では、直弼が横浜の地を開港地と定めたことが書かれている。直弼自身が考えたことだったかどうかは定かでないが、直弼が幕府の責任者だった時代に決定されたことであることは間違いない。

 そういう意味で私は、横浜と直弼とのつながりを重要なものとして位置づけたい。

2008年は日米修好通商条約が締結されて150年目にあたる年であり、翌2009年は日米修好通商条約に従って横浜が開港されて150年目の年である。

2008年の彦根では、その前年の彦根城築城400年の記念イベントに続いて、日米修好通商条約締結150周年の記念イベント(井伊直弼と開国150年祭)が華々しく開催されている。井伊直弼の偉業を讃えるイベントだ。

2009年の横浜では、開港150周年の記念イベントが着々と準備されている。国際貿易港として目覚ましい発展を続ける横浜市は、人口で大阪市を抜いて東京に次ぐ日本第2位の都市となっている。その礎を築いたのが、この日米修好通商条約であり、井伊直弼である。

 この2つの都市のイベントは、2008年8月23日と24日に実施された「彦根・横浜友好交流ウイーク」でつながった。

 日米修好通商条約の締結なくして横浜開港はなかった訳であり、そういう意味で直弼と横浜とはつながっているということか。そういうことが、一般の市民レベルで意識されるようになることは、好ましいことであると思う。

clip_image002[8] 掃部山公園直弼像

 彦根から始まった直弼を訪ねる旅は、最後に横浜で終えることにする。井伊直弼という、いろいろな意味で毀誉褒貶のある幕末を生きた大名の足跡を追ってきた。私は歴史学者ではないから、私が書いてきたことが歴史の真実であるかどうかはわからない。私が知りうる範囲内で、私の想像力を駆使して、直弼の生涯に迫ったつもりである。

 彦根時代は、直弼とともにたか女や主膳との華やかな交友関係に思いを馳せた。江戸時代は、桜田門外の変を中心に彼の政治思想面にスポットライトを当てて考察を試みた。最後にあたって、私なりの直弼像について総括することにする。

直弼には世界が見えていた。しかしながら、直弼は極めて開明的な君主ではあったものの、あくまでも幕府を中心とした幕藩体制の枠から発想をはみ出させることはできなかった。それはむしろ、直弼の人間的能力の限界ということではなくて、直弼は大名中の大名であり、大名としての立場の限界だったのではないか。

幕末に彗星のごとく現れた名臣として私が尊敬してやまないのが、勝海舟である。海舟は同じように世界が見えていた。世界の見え方自体は直弼とさほど変わらなかったのではないと思う。しかし決定的に異なるのは、海舟は清貧を極めた貧乏旗本の出身であり、幕府という枠に捉われる必要が最初からなかった。幕府の枠に捉われる必要がなかった分だけ、自由な発想を確保し得たのではないか。

先に私は安政の大獄は直弼の意志ではなくて、長野主膳の功名心によって引き起こされたのではないかと述べた。たしかに最初はそうであったかもしれない。しかし次第に安政の大獄の惨状が明らかになっていく過程において、直弼であれば止めようと思えば止められたはずだ。それを止めなかった、あるいは止められなかった背景には、直弼自身が心のどこかにおいてこの行為を是認していた事実があったにほかならない。

権力者であれば誰もが陥る誤謬。それは力に対する妄信と言い換えてもいいのかもしれない。直弼は図らずして幕府の中枢権力者となっていた。幕府の権威を守らなければならない立場、役割を彼は担っていたのだ。彼の発想の中では絶対的であり崩すことができない、いや、崩してはいけない江戸幕府という枠組みを守るためであったら、幾多の人々の命を犠牲にしたとしても、それはやむを得ないとの判断だったのではないか。

歴史に「たられば」はあってはならないものだが、もしも直弼が相も変わらず埋木舎での部屋住み生活を続けていたとしたら、果たして同じような判断を下したかどうか。安政の大獄という苛政は、直弼が幕府大老という役職に立って初めて出来(しゅったい)した発想だったのではないか。

それにしても、強い意志を持った人だった。その意志は、最後まで変わることがなかった。自分の与えられた役割を最後まで全うした直弼の生き方を、私は潔いと思う。太く短い人生の中に、直弼という人間の良いも悪いもすべてが凝縮された人生だった。

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Ⅱ.江戸編 6. 豪徳寺(墓所)

最終目的地である豪徳寺に行く前に、今日はちょっと寄り道をしてみたい。

スタート地点は三軒茶屋。ここから路面電車に毛の生えたようなキュートな電車である東急世田谷線に乗る。もうそれだけで、遠足気分でルンルンになる。少し前まではイモ虫のような緑一色の電車が走っていたものだが、今では赤色や緑色を基調とした近代的なデザインの車両に変わっている。個人的には、かつてのイモ虫電車が懐かしい。clip_image002 東急世田谷線

それにしても、沿線の家や木々がなんと電車に近接していることか。民家の庭を車窓の借景にしながら、歩くようなスピードで電車は進んでいく。遊園地にあるミニ列車に乗っているような感覚でしばらく行って、松陰神社前で降りる。

駅前の道を少し行くと、目指す松陰神社の鳥居が見えてくる。神社名からわかるように、この神社は幕末の思想家であり教育家であった吉田松陰を祀った神社である。菅原道真ほどの知名度はないが、受験シーズンともなれば、合格祈念の親子連れで賑わうという。神域の一角には吉田松陰が萩で開いた松下村塾のレプリカが建立されていて、萩に行かなくても当時の様子を偲ぶことができる。

実は吉田松陰の墓が、松陰神社の中にある。

案内板に従い、向かって左側にある墓地を進んでいくと、「吉田寅次郎藤原矩方墓」と刻まれた比較的小さな墓標に辿り着く。こここそが、吉田松陰の墓所である。

説明書きに曰く。

松陰先生墓所

文久3年(1863年)正月9日、高杉晋作は千住小塚原回向院より伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等同志と共に、この世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に頼三樹三郎、小林民部も同じく回向院から改葬した。

 これから訪れる井伊家の菩提寺である豪徳寺もそうだが、世田谷には大名の領地の飛び地が多数存在していたらしい。松陰神社がある土地は、江戸時代に毛利家の別邸があった地だそうで、安政の大獄により江戸の小伝馬町で斬首され千住小塚原の回向院に葬られていた吉田松陰の遺体を、弟子であった高杉晋作らがここに移葬したものと伝えられている。

 直弼の墓に詣でる前に松陰の墓に詣でるというのも、複雑な思いがする。clip_image004 吉田松陰墓

 小伝馬町の牢に囚われた後も松陰は、自らの運命を楽観的に考えていたようである。一説によると松陰を死に追いやったのは、過激な思想をもち行動力抜群の松陰を持て余していた長州藩の意向が強く働いていたとも言う。歴史の真相はわからないが、松陰は安政6年(1859年)10月27日、30歳の太く短い生涯を閉じた。

 牢舎があった小伝馬町には、「松陰先生終焉之地」の石碑が建っている。その傍らには、

 身ハたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 畄(とどめ)置(おか)まし大和魂

の歌碑が刻まれている。志半ばで世を去らなければならなかった松陰の気持ちを思うと、さぞ無念な死であったことと思う。最後に、松陰の辞世の歌をここに記載して松陰神社を後にすることとしたい。

 親思ふ こころにまさる親ごころ けふの音づれ 何ときくらん

 松陰神社の前の道をほぼまっすぐ西に10分ほど進んでいくと、住宅街の中に突然のごとく世田谷城址公園の小高い山が見えてくる。本当に住宅街の真ん中にあって、不思議な感じだ。

この街中にある城跡の存在は、遠藤周作さんの「埋もれた古城」という本によって知るようになった。

 東京の中でも屈指の伝統的住宅街である世田谷に、城があったなんて。遠藤周作さんの本を初めて読んだ時、私はまず純粋に驚いた。この城跡は、赤穂浪士で有名な吉良上野介とも血縁のある世田谷吉良氏が治めていた居城だそうで、豊臣秀吉の小田原城攻めで廃城となるまで存していたそうだから、比較的最近まで機能していた城ということになる。

 今でもカラ濠や土塁などの城の遺構が残されていて、中世の城郭の構造を知るうえでの貴重な資料である。

 自然の小山を丸々利用した城跡は、今では散歩道として整備され市民の憩いの場となっている。私は山頂に据えられたベンチに腰を降ろし、遠藤周作さんの「埋もれた古城」の文庫本を取り出して読んでみた。時折吹きぬけていく風が心地よい。

 その場所で読む文章というのは、またひとしおだ。それほど長くない文章なので、一気に私は世田谷城の部分を読み終えてしまった。

 世田谷城址公園から豪徳寺までは、ほんの5分の距離である。

 松陰神社から来た道をそのままさらに西に歩き続ければ、豪徳寺の山門から続く参道と交差する。彦根の埋木舎から歩き始めた私の直弼を訪ねる旅も、ついに墓所のある豪徳寺まで来てしまった。

 文字通り埋木舎で埋もれて朽ちていったかもしれない一人の男が、歴史の表舞台に躍り出ていった。それも、誰もが尻込みするような史上例を見ない未曾有の難局での登場である。その時の直弼の置かれた立場や状況を考えると、私たちの日常の悩みなんて小さなものに思えてしまう。まさに直弼は、命をかけて日本という国の方向性を定めたのだ。

 あの直弼が、ここに眠っている。自然と緊張感が全身を包み込む。

 これまでにも、江戸における広大な屋敷跡を見てきて井伊家の強大な権力を目の当たりにしてきたが、豪徳寺も、井伊家の家格と威光に相応しい規模と格式とを備えた寺である。

 山門から正面に見える建物が仏殿で、延宝5年(1677年)の建立というから、当時のままの建物である。直弼も見たに違いないものだ。左手には白木の三重塔があり、仏殿の後ろには後世の建造物だが本殿が建立されている。広大な寺域を持つ堂々たる伽藍だ。

 直弼の墓のことは後で書くとして、豪徳寺と言えばもう一つ、どうしても書いておかなければならないのが招き猫のことである。井伊家は猫と縁が深い。2007年に彦根で築城400年の記念イベントが催されたが、このイベントを盛り上げたのが、ひこにゃんと呼ばれている猫のキャラクターである。

2本の黄色い大きな角を携えた赤い兜をかぶった白い猫のキャラクターは愛らしくて、ひこにゃんの名前と顔は全国的にも有名になった。ひこにゃんの成功にヒントを得て、全国のイベントでいろいろなキャラクターが誕生したが、本家を上回るキャラクターは今だに現れていない。

 このひこにゃん、豪徳寺に伝わる招き猫の言い伝えと関係している。

 時は二代藩主の直孝の時代、鷹狩りでこの寺の近くを通りかかった直孝が夕立に見舞われた際、お寺の門前で手招きをする猫を見つけて近づいて行った。その直後に、もと直孝がいた場所に落雷があった。猫の手招きがなかったならば、直孝は雷に打たれて落命していたところであった。

 命拾いをした直孝は、それまでは先程の世田谷城主であった吉良氏が建立した小さな寺であったものを、豪徳寺と改名したうえで井伊家の菩提寺として再建し、多くの堂宇を寄進して整備を図ったという。

clip_image006 豪徳寺の招き猫

 以来、豪徳寺と言えば招き猫ということになり、今でも社務所に行くと大小様々な大きさの招き猫が販売されている。右手をちょこんと挙げて大きな瞳で見つめる姿は、実にかわいらしい。私もご多分にもれず、思わず家へのおみやげにと小さな招き猫を買ってしまった。境内には招き猫を収納するための棚も用意されていて、これだけの招き猫が一堂に会している光景は、それはもう壮観である。

 いよいよ私は、直弼の墓所に足を運ぶ時を迎えた。

 招き猫などを見ていて和んでいた心が、一気に引き締まるのを覚えた。井伊家歴代の藩主の墓は、門を入って左手にあたる豪徳寺墓域の中でも、特に奥まった所に配置されていた。

 戒名しか彫られていない同じ形をした墓石が立ち並ぶ中で、直弼の墓はすぐにそれと知れた。直弼の墓の前にだけ、色とりどりの花が供えられていたからだ。

 直弼の墓は、井伊家歴代藩主の墓のなかでも一番奥に位置していた。「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と書かれたかなり大きな墓石がひっそりと建っていた。ここに本物の直弼の遺体が埋まっているのだと思うと、胸が詰まった。

 私は時が経つのも忘れて、直弼のことをいつまでも考え続けていた。混雑するほどではないけれど、ひっきりなしに訪のう人が絶えない。彼らはどんな思いで直弼の墓を詣でているのだろうか?

clip_image008 井伊直弼墓

 安政の大獄の加害者と言ってもいい直弼の墓と被害者の一人である松陰の墓が、わずかに歩いて15分ほどの距離にあるという事実に、私は歴史の皮肉と言うか不思議を感じた。さらに言えば、直弼の遺体も松陰の遺体も、ともに首と胴体とがくっついていない遺体である。

 今私は加害者と被害者と書いたが、果たしてこの表現は的確かどうか。歴史という大きな流れの中では、直弼も松陰もどちらも被害者だったのではないか。歴史とは時に残酷なものだと、やりきれない思いで世田谷の地を後にした。

※ちょっと足を伸ばして

  ちょっと足を伸ばして、世田谷ボロ市が開かれるボロ市通りを歩いてみよう。

  世田谷通りから一本奥に入った道には、世田谷代官屋敷として知られる重要文化財大

場家住宅が現存している。大場氏は、井伊家領世田谷の代官職を務めた家で、江戸時代

中期の母屋と表門等が残されている。隣接して区立郷土資料館もあって、世田谷の歴史

を学習することができる。

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Ⅱ.江戸編 5. 桜田門

桜田門を訪れた私にとって非常に意外だったことは、日本史の中でも極めて有名な事件であるにも拘わらず、桜田門の周辺には事件について記述された説明板や標柱等がどこにも見当たらなかったことである。

誰もが知っている事件だからであろうか?

それにしても、何らかの「痕跡」が残されていてもよさそうなものであるのに…。clip_image002 桜田門

安政7年(1860年)3月3日は、太陽暦で言うと3月24日にあたるという。春分の日も過ぎて、普通の季節であれば春の訪れを感じる季節であろうが、この日は朝からしんしんと雪が降っていた。

一説によると、この日の早朝、井伊家には直弼襲撃の企てがあるとの情報が寄せられていたとも言われている。そうでないとしても、当時の江戸幕府の高度な情報収集能力から考えれば、危険の兆候はかなりの確度で察知されていたものと考える。

病気と称して江戸城への出勤を取りやめることもできたであろうし、増やそうと思えば供回りの人数を増やすこともできたのではないか。あるいは替え玉を使うことだって不可能ではなかったはずである。本当に命を惜しむのであれば、いろいろな回避策を取れたはずなのに、直弼は敢えて、いつもとまったく同じようにして上屋敷を出立した。

井伊家の門からは、やむことなく降り続ける雪が視界を遮って、目と鼻の先にある桜田門でさえ見えなかったかもしれない。

早朝に愛宕神社に詣でた水戸浪士等は、8時頃には桜田門に到着していたようである。今と違って長靴もなければ使い捨てのカイロなどもない時代である。雪の降りしきる屋外に長時間滞在するだけで彼らの体温は奪われ、さぞかしつらい時間を過ごしたことと想像する。もっとも、これから彼らが起こす企てのことを思えば、興奮と緊張とで寒さなど眼中になかったかもしれない。

当時は江戸城に出勤する大名行列を見物することが江戸の一つのブームのようになっていて、見物に便利なようにと大名の家紋が記載された武(ぶ)鑑(かん)という小冊子まで発行されていたそうである。今で言うところのプロ野球の選手名鑑のようなものだろうか。

だから桜田門の周辺で武士が屯(たむろ)していても、一般にはそれほど怪しい風景には映らなかったのではないかと言われている。それにしても雪がしんしんと降り続く日に大名行列を見物するのは、あまり普通の光景とは思われない。ましてや、殺気立った雰囲気はきっと周囲にいた人ならば察知できたに違いない。

彼らは目立たないようにばらばらとお濠側と大名屋敷側とに分かれ、時を待った。

午前9時。直弼の行列がちょうど今の桜田門交差点に差し掛かったところで、突然事件が勃発した。clip_image004 直弼襲撃地点付近の現在

水戸浪士の一人である森五六郎が訴状を掲げて隊列の先頭に近付いた。狼藉者だ。にわかに緊張が走る。そして一発のピストルが発せられてからは、猛烈な切り合いが始まった。

直弼の供回りは60人と伝えられている。それに対して水戸浪士たちは僅か18人。圧倒的な数的有利を直弼サイドは活かすことができなかった。雪の中の行進であったがために、刀の柄に覆いがかけられていて即座に刀が抜けなかったためと言われている。それにしても、三分の一以下の数の敵に対してなす術もなく殿様の首を取られた彦根藩士の弱さは、目を覆わんばかりである。

そこには、井伊の赤備えと称して恐れられた藩創建当時の精兵のイメージはない。長年続いた太平の世の中で、実戦経験もないままに、武士そのものの魂と戦闘術が弱体化していったものと考える。恐ろしさのあまり、殿様の一大事にも拘わらず持ち場を離れ、逃げ去った家来が複数いたことがわかっている。

一方の水戸浪士側も、実際のところは決して褒められた戦闘とは言えなかったようであるが、そこは直弼に対する怨念を強く持っていた分、彦根藩の藩士たちよりは気力において勝(まさ)っていたものと思う。

やがて水戸浪士の稲田重蔵が行列中央に置かれた駕籠に向かって白刃を突き刺した。そして唯一薩摩藩から参加した有村次左衛門が駕籠の扉を開けぐったりとしている直弼を引き出して、首級を挙げた。

直弼はどうして戦わなかったのか?

桜田門外の変のシーンは幾多もの映画やドラマで演じられているが、どれを見ても直弼は駕籠の中でじっと坐ったまま無抵抗である。自分の家来を最後まで信じてじたばたしなかったのか?もちろん、それもあると思う。直弼ほどの胆力のある人であれば、この期に及んでうろたえることなどなかったはずだ。

もう一つ考えられることは、敢えて直弼は水戸浪士らに自分の命を与えようと考えたのではないか?安政の大獄を断行して多くの尊い人命を奪った罪は、直弼自身が一番よく承知していたはずだ。彼らに命を与えることが解決になるとは私は全然思わないが、直弼はこの日が来ることを予め予期していて、自ら従容として死に就いた気がしてならない。

舟橋聖一さんの「花の生涯」では、襲撃の合図となった最初の一発の銃弾が直弼に命中した説を採っている。その可能性も非常に高いと私も思っている。

いずれにしても、たった15分程度の戦闘で、すべてが終わった。

すべてが終わったと同時に、新しい何かがここから急速に始まっていく。clip_image006 桜田門から彦根藩邸跡を望む

直弼の首級を挙げた有村は、追いすがる彦根藩士に後ろから袈裟掛けに切られながらも、直弼の首を抱えたまま逃げ続けた。今で言うところの皇居前広場を濠に沿って駆け続け、大手門の手前、遠藤但馬守の屋敷前で自刃したと伝えられている。今のパレスホテルの辺りであると思われる。本人にとっては極めて不本意であったろうが、有村と一緒に直弼の首は、ずいぶんと遠くまで運ばれてしまったものだ。

直弼の首は、遠藤但馬守邸から飯びつに入れられて戻ってきたそうである。その後、藩医によって胴体と縫合されたと伝えられている。大名は後継ぎがないままに死亡した場合お家取り潰しとなるため、井伊家は直弼の死をひた隠しに隠した。そのための窮余の策が藩医による縫合だったのであろう。

急を聞いて彦根藩邸から藩士たちが駆け付けた時には、すでに水戸浪士たちの影はなかった。直弼の突然の訃報に接した彦根藩邸の人々の驚きと悲しみはいかばかりだったことだろうか。彼らはこみあげてくる悲しみと怒りを堪(こら)え、無残に散らかっている遺品を集め、藩邸に収容したに違いない。この時の血染めの土などを彦根に運んで埋めたのが、前に書いた天寧寺の井伊大老供養塔である。どんな形であれ、直弼の最期に所縁(ゆかり)のあるものを形見として彦根に伝えたいという江戸詰の藩士たちの気持ちであったのだろう。

それにしてもどうして、こんなに藩邸から近い距離での襲撃が可能だったのか?私の疑問は依然として残る。降雪という気候条件が水戸浪士側に幸いしたことは言うまでもない。それに先にも書いたが、歴史的に有名なこの戦闘はたった15分で終わったという。今と違って携帯電話もない時代だから、雪の中を援軍を求めて藩邸に駆け戻ったとしても、時すでに遅しだったのかもしれない。せめてあと15分でも持ち堪えることはできなかったものか?

実に呆気ない最期だった。

一国の宰相が、こんなに簡単に命を落とすことがあってもいいものか?直弼の生涯をずっと追い続けてきた私にとっては、実に残念でならない結末である。類まれな胆力と忍耐力でここまで上り詰めてきた人にしては、なんと淡白な終幕であったことか。

直弼の最期の潔さは、本能寺の変で逝った信長のそれに似ているかもしれない。信長があともう少し生きていたら安土桃山時代の歴史は別のものになっていたかもしれないのと同様に、直弼がなお存命であったならば幕末の歴史もまた変わっていたに違いない。

しかし歴史の残酷さは、埋木舎からはるばる長い旅をしてきた直弼を突然に歴史の大舞台から葬り去った。直弼の役割は、ここまでの運命にあったということか。

今の桜田門に事件を物語る何の痕跡もなかったものだから、ついつい想像のみで桜田門外の変の様子を長く綴ってしまった。直弼が落命した場所は、今は警視庁前の中央分離帯となっている辺りだろうか?

そんな恐ろしい事件があったことなど関係ないとでも言うように、市民ランナーたちがひっきりなしに桜田門の前を通過していく。その光景は、平和そのものである。深い緑色をたたえるお濠の水も緩やかな土居を埋める草々も、心に馴染んでうつくしい。

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Ⅱ江戸編 4. 旧品川宿(土蔵相模)・愛宕神社(水戸浪士集結の地)

時はやや飛ぶが、桜田門外の変の前夜の江戸となる。すでに井伊直弼は大老に就任し(安政5年(1858年)4月23日)、日米修好通商条約が締結され(同年6月19日)、安政の大獄が断行されている(安政5年~安政6年)。

今回は視点を変えて、井伊直弼を桜田門外で害する水戸浪士たちの前夜からの足跡を追う旅をしてみた。

17人の水戸浪士と1人の薩摩藩士は、品川宿にある旅籠屋「土蔵相模」に集結していた。彼らはここから黎明に愛宕山にある愛宕神社に詣でて企てが成就することを祈念した後に、桜田門に向かったという。

私は、彼らが桜田門に達する前に立ち寄った2つのスポットに焦点を当てて、訪れてみることにした。

旧品川宿は、今では幹線道路である国道15号線から1本、海側に外れた細い道沿いにある。厳密に言えば、旧東海道は今も昔も変わらずこの細い道であり、むしろ国道の方が旧道を避けて新しく作られただけである。

品川宿の入口は今の品川駅ではなく、京急線北品川駅である。品川駅の一つ南側にあるのに北品川という駅名なのがおもしろい、と言うか紛らわしい。ここからさらに南側に連なっているのが、旧品川宿である。品川宿は、目黒川で2つに分かれている。目黒川の北側を北品川宿と言い、南側を南品川宿と言うのだそうだ。先程の「北品川」駅は、北品川宿にあるから「北品川」と命名されたのであろうが、今の品川駅を中心とする品川の繁華街は、さらにそれよりも北にできてしまっている。

有名な東海道五十三次では、品川宿が最初の宿場であり、日本橋を出立した江戸時代の旅人は、まず最初の品川宿に到着して安堵し、旅の行く末を思いやったにちがいない。

旧品川宿は、最近静かな脚光を浴びている。沿道の関係者の尽力により案内板などが設置され、江戸時代の面影を残す町並みとして整備されつつあるからだ。都会に近い立地でありながら、下町情緒がたっぷり味わえるのもうれしい。clip_image002[4] 品川宿土蔵相模跡

私が目指す土蔵相模の跡は、北品川宿の入口から比較的近い場所にあった。今ではマンションとなっている街道沿いの建物の一角に、木で作られた説明板が据えられていた。その説明板によると、ここにあったのは旅籠の相模屋で、外壁が土蔵のような海鼠壁であったところから、一般に「土蔵相模」と呼ばれていたとのこと。

桜田門外の変に関連してこの土蔵相模を訪れる人は、ごくごく稀ではないだろうかと思う。土蔵相模が有名なのは、文久2年(1862年)、高杉晋作や久坂玄瑞らがここで密議を凝らして英国公使館(高輪・東禅寺)を焼き打ちしたことだろう。土蔵相模は、そんな浪士たちの溜まり場となっていた旅籠である。

長州藩がおかしな藩だと思うのは、高杉晋作などが藩の公金を借り出しては土蔵相模などで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをして浪費してしまっているのに、お咎めなしであるばかりか追加で資金を供出しているところだ。飲んでしまう方も飲んでしまう方だが、それを許す方も許す方だ。そういうおおらかさが、この藩の革新性を根底から支えていたのかもしれない。

土蔵相模は、単なる宿泊を目的とした旅籠屋というよりは、むしろ現代の感覚で言えば妓楼と言った方が正確ではないかと思う。泊まるだけでなく、お酒も出れば女性もいる。これこそが粋というのだろうか。明日の早朝には命がけの義挙に打って出るという決死の覚悟でいる彼らが選んだ集合場所が、旅籠ではなく妓楼であるところに、当時の武士たちの時代感覚を窺うことができる。

前日に土蔵相模に集結した水戸浪士は13人。彼らは翌3月3日の早朝に土蔵相模を出発して、最終集合地点である愛宕神社に向かう。すでに雪がしんしんと降りしきり、寒気が身に沁みる。今の駅で言うと、ルートは若干異なるが、品川駅から田町駅、浜松町駅を経て新橋駅まで行くくらいの距離であったと思う。

最終集合地点である愛宕神社に集結したのが午前7時。愛宕神社は愛宕山の中腹にあり、そこまでは一名を出世坂とも呼ばれている急峻な男坂の石段が聳えている。深い雪の中を浪士らはこの石段を昇って行ったのだろうか?そんな想像をするだけで、にわかに緊張感が湧き上がる。

clip_image002[6] 愛宕神社水戸浪士石碑

時折しも、私が訪れた愛宕神社は桜の花が咲き誇る季節であった。愛宕神社は都内でも有名な桜の名所でもある。神域のそこここに植えられた薄ピンク色の桜の花弁が優しい雰囲気を醸し出している。平和な桜の景色のなかで血気にはやる彼らのことを思いやるのは、場違いな気がした。

雪が降っていなければ、当時であればここから桜田門が見えたのではないか。愛宕山自体は標高26mの低い山であるけれど、比較的平たんな江戸の中では、街を一望のもとに見渡せる立地にあったものと考える。今では、高いビルが立ち並び、眺望はごくごく限られてしまっている。

愛宕神社は、三田の薩摩屋敷での歴史的会談の前に、西郷隆盛と勝海舟がここ愛宕神社で江戸の市街を見渡しながら会談して、この街を戦火に晒してはいけないとの基本的認識を得たとのことが神社の案内板等にて紹介されている。官軍と幕府軍の両者が対峙し一触即発の状況下で、はたして両軍の責任者である西郷と勝がさしたる警備も伴わずに会談することが可能であったかどうか?私は疑う気持ちを持っているが、ホームページや案内板で公式に記述されているので、神社の主張を紹介しておく。

また愛宕山には、NHKの放送博物館が建てられている。残念ながら私が訪れた日は休館日であったため見学することができなかったが、ここに大正14年(1925年)7月にNHKの最初の放送局が設置されたことから、それを記念して昭和31年(1956年)に建設されたのが放送博物館だ。貴重な放送機器等が展示されており、放送の歴史やNHKの番組の歴史等を楽しみながら学習できるそうである。

博物館前の広場には、何の花だろうか?桜の一種なのかもしれないが濃いピンク色をした花が咲いていて、背後の愛宕山レジデンスの高層ビルを背景に強い存在感を示していた。

話を幕末の水戸浪士に戻す。

襲撃メンバー18人全員は、今は現存しないが敷地内にあったという絵馬堂に勢ぞろいして、神前に彼らの義挙が成就することを祈念した。櫻田烈士愛宕山遺蹟碑と書かれた大きな石碑が今でも存在する。

愛宕神社は、慶長8年(1603年)に徳川家康の命により江戸の防火の神様として建立された社である。彼らは彼らの論理として、今回の桜田門外での行為は徳川幕府のための義挙であるとの主張なのであろうから、正当性を主張するうえでも地理的にも愛宕神社に詣でたことは、ある意味必然だったのかもしれない。

clip_image002[8] 愛宕神社水戸浪士額絵

三つ葉葵の帳が降りる本殿の内陣にも、降りしきる雪の中を愛宕神社に集結した水戸浪士たちの姿を描いた額絵が飾られていて、愛宕神社が徳川幕府にとっても浪士たちにとっても所縁(ゆかり)のある土地であることを主張していた。

ここまで来れば、桜田門は意外と近い。浪士たちは積もる雪を踏みしめながら愛宕山を降りて、一路桜田門を目指した。次回は事件の現場となった桜田門に赴いてみたい。

※ちょっと足を伸ばして

ちょっと足を伸ばして、品川宿を横浜方面に歩いてみよう。

旧東海道からほんの少し山側にずれるが、近くには岩倉具視や越前藩主松平慶永(春

嶽)の墓がある海晏寺(非公開)、土佐藩主山内容堂の墓がある品川区下総山墓所などが

並んでいる。

また、京急平和島駅の手前には、鈴ヶ森刑場跡を示す石碑が建てられている。八百屋

お七が火炙りの刑に処せられた時の心棒を立てた石の土台(火炙台)や、丸橋忠弥が磔

の刑に処せられた石の土台(磔台)などが残されていて、かなりリアルである。

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Ⅱ.江戸編 3. 彦根藩下屋敷(明治神宮)

久しぶりにJRの原宿駅で降りた。駅前は相変わらず、若い女性たちでごった返していた。竹下通りを中心とした一角は、いまだに全国の若者たちのメッカになっている。私にはとてもついて行けない感覚だが、駅に降り立った瞬間から独特のパワーが漲っているのが、原宿駅である。

原宿駅には、若者たちのほかに、外国人も多い。彼らのお目当ては竹下通りではなく、線路の反対側にある明治神宮のようだ。外国からの観光客が多いようだが、国内に住んでいる外国人も結構来ているのではないか。

clip_image006 明治神宮大鳥居

東京で日本らしさを感じられるスポットの一つが、明治神宮なのであろう。たしかに、広大な敷地を進んでいくと、神々が降臨した太古からこうであったであろうと思わせるような神々しい気持ちになってくる。

鬱蒼と生い茂る木々の間に玉砂利が敷き詰められた広い参道を歩き、金色の菊の御紋が眩しい大鳥居を潜ると、神宮のこの森の奥の社には尊い神様がおわすに違いない。思わずそんなふうに思えてくるから不思議だ。

明治神宮は、正月三が日の初詣の参詣客数が日本で一番多い神社仏閣として有名である。どのようにして数字を算出しているのかよくわからないが、警察庁が発表する参詣者数では毎年300万人を越える人出で、もう何年も連続でダントツ1位をキープしている。

そんな日本人にも外国人にも極めて親しい場所が、明治神宮なのである。

しかしながら、この明治神宮こそが、彦根藩井伊家下屋敷跡であったということは、ほとんどの人が知らないのではないだろうか?かく言う私でさえ、この文章を書くために調べものをするまでは知らなかった。

clip_image004 明治神宮御苑

航空写真で見ると、明治神宮一帯は広大な森である。この森は江戸時代よりもはるか以前から存在していたものと思い込んでいた。なにせ神々が宿る森なのだから。ところが実際は、明治天皇を偲んで大正9年(1920年)に創建されたというから、まだ100年も経っていないという事実にまず驚く。今では、樹齢何百年かというような太くて高い木々が随所に見られ神寂びた雰囲気を作り出しているが、大正4年(1915年)の造営前の写真を見ると、木々は疎らで畑や荒地であったことがわかる。

「歴史」も「神」も、人工的に作ろうと思えば100年足らずで作れてしまうという事実に、私は恐ろしさを感じた。

実際に尋ねてみてわかったのだが、江戸における彦根藩の屋敷は、上屋敷も中屋敷も下屋敷も、いずれもかつては加藤清正が領していた屋敷であった。加藤家は、清正の子の忠広の代に改易となり、その後に井伊家がそのまま土地と屋敷を拝領し、幕末に至った。安易と言えば安易な幕府の対応である。

加藤清正は元々が豊臣家の家臣であり、関ヶ原の戦いでは徳川方に付いたものの、譜代の井伊家と違って徳川家にとっては所詮は外様であったということなのであろう。二代目の忠広が暗愚であったことも災いした。九州の雄は、いとも簡単に歴史の舞台から抹消されてしまった。

明治神宮には、ここが彦根藩の屋敷跡であったことを示す痕跡は私が知る限り何もないが、かつて加藤家や井伊家の庭園であったと言われる明治神宮御苑には、清正井という井戸が残されている。加藤清正本人が掘った井戸であるかどうかは定かでないが、江戸時代の屋敷跡を知る唯一と言っていい遺構だ。

明治神宮御苑の中に入るには、入場料が必要となる。そのせいで、あれほど参道を歩いていた人の群れは御苑内ではほとんど見られず、静寂が周囲を支配する。森のように見える明治神宮の敷地の中でも最も中心に位置し、最も自然が残されているのが明治神宮御苑なのである。

ここには加藤清正の時代からの庭園が残されている。それ以外の場所は、直弼亡きあとの造営であるが、もしかしたらこの庭園だけは直弼が見たかもしれない風景なのだ。そう思うと、目に入ってくる緑の木々も清らかに流れる水も、特別なものに思えてくる。

clip_image002 清正井

清正井と呼ばれる井戸は、縦に細長い御苑の最も北のはずれに位置している。今でもこんこんと澄んだ水が湧き出(い)でている。訪れる人は誰も、丸い井桁の中に手をかざして、冷たい水の感触を確かめる。清正の時代から絶えることなく湧き続ける自然の水の恵みに驚かされる。

この清正井から流れ出た澄んだ水が水源となり、豊かな水を満々と湛える南池を構成している。上流には山里の長閑さを思わせるような風景の中に菖蒲田が作られ、池の周囲にはいくつかのあずまやが配されている。今私は、東京の都会の真ん中にいるのだという事実をすっかり忘れている。こんなに豊かな自然に囲まれた世界があったということに、素直に驚いている。

残念ながら、ここ明治神宮では、直弼の足跡を見つけることはできなかった。もしかしたら、御苑の一部は直弼が見た風景だったかもしれない。しかし、せいぜいそれだけだ。ここは明らかに、後世になってからある意図をもって作り上げられた「聖地」であると思った。敷地の広さや建造物の大きさで物事の価値を決めることはできない。抹殺という言葉が正しいのではないだろうか。それは直弼に対する冒涜である。上から黒いもので塗り潰されてしまった古書を見るような、そんな思いを抱いて私は人々の喧騒から離れていった。

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Ⅱ江戸編 2. 彦根藩中屋敷跡(ホテルニューオータニ)

 

東京は坂が多い町である。由緒のある主要な坂には、東京都の教育委員会が坂名の由来となったエピソードなどを記した標柱を設置しており、それらを見ながらぶらぶらと気の向くままに歩いてみるのも、私の東京の街の楽しみ方の一つである。

赤坂から四谷に向かう谷沿いの道を進むと、紀尾井坂という標識が目に入る。地名も、同じく千代田区紀尾井町である。元々江戸にあった地名とは思えない不自然な地名である。たしか江戸時代にこの地域にあった3つの大名屋敷の頭文字を取り、明治の時代になってから作られた地名であると記憶していた。

「紀」は紀州であり、「尾」は尾張であることは即座に思い浮かんだ。どちらも徳川御三家である。では最後の「井」はどこか?不覚にも私は、即座に思い浮かべることができなかった。しかしそれが井伊家の「井」であることに思い到った時に、私はすべての事情を了解した。

半蔵門に程近く、甲州街道のほぼ起点に位置するこの土地は、徳川幕府にとってと言うか江戸城にとっては、搦め手を守備する戦略的重要地域であった。そこを最も信頼できる御三家と譜代大名に守備させる必要性があったということに説明の余地はない。

ならばいっそのこと、紀尾井ではなく紀尾水とすれば良さそうなものであるが、御三家の水戸藩に代わって井伊家が据えられたところに、徳川の井伊に対する篤い信任があったのであろうと想像する。

余談になるが、紀尾井町にある清水谷は、自然の湧水があることから付けられた地名だろうが、今でも都会のオアシスとして、清らかな水と青々とした緑の安らぎを供給してくれている。都会の喧騒に疲れた心を一時の間癒すには、もってこいの場所である。

clip_image002 大久保利通哀悼碑

この清水谷は、明治11年(1878年)5月14日に明治の元勲大久保利通が暗殺された場所としても知られている。今も「贈右大臣大久保公哀悼碑」と書かれた6mを越す大きな顕彰碑が建立されているので、すぐにそれとわかる。当時は人通りも疎らな、鬱蒼と木々が生い茂る場所であったのかもしれない。

紀尾井町には、大きな建物が3つある。赤坂プリンスホテル、ホテルニューオータニ、それに上智大学だ。江戸時代のこの辺りの地図と見比べてみると、現在の姿と見事なまでの一致を見る。私は、こうして江戸時代の地図と現在の地図とを見比べ重ね合わせ、当時の江戸の街並みを想像しながら歩くのが好きだ。

すなわち、今の赤坂プリンスホテルの敷地がほぼそのまま紀州徳川家の麹町邸があった場所であり、ホテルニューオータニが彦根藩の中屋敷、そして上智大学が尾張徳川家の屋敷があった場所となる。江戸時代の町割りがそのまま今にも残っているところが、おもしろい。

先に私は、永田町にある彦根藩の上屋敷跡に赴いた。そして今は、中屋敷跡にいる。上屋敷が江戸に出ている諸藩の公邸であるとすると、中屋敷は私邸の位置づけになるものか。直弼が彦根藩主として居住していたのは上屋敷である。世子であった頃には中屋敷に住んでいたことが、小説に書かれていたように記憶している。それが真実であれば、今はホテルニューオータニとなっているこの地にも、直弼の足跡が刻まれていたことになる。

clip_image004 ホテルニューオータニ

地方の大名が江戸に上屋敷、下屋敷などいくつもの屋敷を保有していた背景には、地震等の災害で上屋敷にもしものことがあった際に、そのバックアップとしての役割が期待されていたようである。建物等に大きな被害が生じた場合に、今以上に復旧までに莫大な時間を要していたので、すぐにでも上屋敷の代替となるべき別の建物が必要だったということであろう。

この中屋敷にはどのような人が住んでいたのか?小説の中では直弼の妾が住んでいたように記憶しているが、私には詳細な情報がない。今後はその辺りの事情を研究してみることも、面白いのではないかと思っている。

憲政記念館や国会前庭洋式庭園となっている上屋敷跡と比べて、わずかに彦根藩の屋敷跡としての面影を残しているのが、ホテルニューオータニの日本庭園である。この日本庭園そのものは井伊家から伏見宮に移り、戦後外国人の手に渡るところをホテルニューオータニ創業者の大谷米太郎氏が譲り受け、整備し直したものだそうで、直弼が見たであろう庭園の姿そのものではない。

clip_image006 ニューオータニ庭園

しかしながら、日本庭園内に点在する幾多の石灯籠のなかには、当時の面影を伝えているものもあるとの由で、私は起伏に富んだ散歩道を上下しながら、ひたすら石灯籠を求めて歩き回った。

特に説明書きはないけれど、どれも大きくて威容のあるものばかりであり、このうちのいくつかを直弼も見たかもしれないと思うだけで、胸がじーんと熱くなるのを感じた。ホテルニューオータニの日本庭園は、宿泊者でなくても誰でも散策することができるので、是非お勧めしたい場所のひとつだ。

彦根から歩を始めて、直弼の足跡を辿って江戸に来た。彦根に生まれ育った直弼にとって、江戸の街や人々はどのように映ったであろうか?公人として、あるいは私人として直弼が過ごしたであろう土地を訪ねて、改めて直弼の数奇な人生を想った。

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Ⅱ. 江戸編 1. 彦根藩上屋敷跡(憲政記念館)

ある日の私は、国会議事堂にすぐ隣接している小高い丘を散策していた。深い緑に囲まれた広大な敷地は起伏に富み、鳥たちの囀りが心を和ませてくれる。眼下を見渡すと、深い緑色の水を満々とたたえた濠の向こう側に、江戸城がすぐ間近に見える。

この辺りから眺める江戸城の姿が一番うつくしい、と私は思う。緩やかに湾曲した緑の土手が濠から競り上がり、その上に低いが堅固な石垣が垂直に屹立している。俗に「鉢巻土居」と呼ばれる江戸城に固有の築城法だ。土手の上に石垣が鉢巻を巻くように配置されている。

そしてその向こう側に白を基調とした江戸城の城門が窺える。緑の背景の中で城門の白さが一段と際立って見える。なんと雄大で平和な光景だろうか。私は時間の流れを忘れて、暫しの間その場に立ち尽くす。

もしも歴史の知識が何もなければ、私の心はこの長閑で美しい景色を満喫できただろうと思う。しかしどうしても私は、心を穏やかにしてこの小高い丘から江戸城の景色を眺めることはできない。

clip_image004 憲政記念館から桜田門を望む

なぜならば、今私が立っている場所こそが、井伊直弼が主(あるじ)であった彦根藩上屋敷の跡であり、向こうに見える白い門こそが、桜田門であるからだ。

距離にしたらおそらく500mくらいの距離であると思う。こうして目の当たりにしてみると、ほんの目と鼻の先の距離であることがよくわかる。万延元年(1860年)3月3日の朝、ここから500mの地点で、あの事件は起こったのだった。

そんな150年前のことを知ってか知らずか、今では憲政記念館と国会前庭洋式庭園として整備され一般公開されているこの広大な公園で、幾組ものカップルや家族連れが休日の昼下がりの時間を満喫している。

憲政記念館は、議会開設80年を記念して昭和47年(1972年)に開館したもので、議会制民主主義の歴史をつぶさに学ぶことができる。館内には憲政の神様として知られる尾崎行雄氏の業績を称えた尾崎メモリアルホールが併設されている。

clip_image002憲政記念館

尾崎行雄と言えば、若い頃に「人生の本舞台は、常に将来に在り」という言葉に感銘を受けた。すなわち、

人間は、齢を重ねれば重ねるほど、その前途がますます多望なるべき筈のものだとい

うのが、私の最近の人生観である。

人間にとっては、知識と経験ほど尊いものはないが、この二つのものは年毎に増加し、

その直前が二つ共最も多量に蓄積された時期である。故に適当にこれを利用すれば、人

間は、死ぬ前が、最も偉大な事業、または思想を起こし得べき時期であるに相違ない。

若い頃は我が眼前に広大な「本舞台」が存していたが、あれから25年ほどが経過した今となっては、「本舞台」の余地は極めて限定的に狭められてしまっている。しかしだからと言って諦めることなく、放り出すことなく、これまでに得た知識と経験とを駆使して自分なりの足跡を残したい。

尾崎行雄のこの言葉は、むしろ今の方がありがたくわが心に沁みわたる。

国会議事堂前庭洋式庭園には、小さなローマ神殿風の不思議な建物が存在する。周囲の自然のなかで異彩を放つというか、そこだけ独特の雰囲気を作り上げている。これは、日本水準原点である。日本国内各地に存在する水準点の原点がここにあるのだ。

clip_image006 日本水準原点

水準点とは、土地の標高を決める基になるもので、この建物の中に据えられている水晶版の目盛りの標高は、24.4140mを示しているという。井伊の殿様の屋敷内に、奇妙なものが設置されてしまったものだ。

公園内のどこを歩いても、今は井伊家の上屋敷の痕跡を残すものは見当たらない。周囲の道端にひっそりと建つ「井伊掃部頭邸跡」と標された標柱以外には、ここで直弼が生きた証を見ることはできなかった。

古くはこの地は、大田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかくふじの高根を軒端にぞ見る」と詠んだ松原の一角に連なっていた土地であり、江戸幕府開府の頃には加藤清正の屋敷があった土地とも言われている。

そういう風光明媚で要衝の地に、井伊家の上屋敷があったということに、私は江戸幕府における井伊家の位置づけの重要性を思う。このことは、次の項(彦根藩中屋敷跡)でも触れることになるだろうと思う。

余談だが、安政の大地震(安政2年(1855年)10月2日)が江戸の街を襲った際、元々江戸城築城時の埋立地であった丸の内や八重洲、日比谷辺りの大名屋敷では百人を上回る多数の死亡者が出るなどの甚大な被害が発生したそうだが、麹町台地の強固な岩盤の上に建つ彦根藩上屋敷では、門や塀は崩れたものの死者はおろか怪我人もなく、被害は些少であったそうだ。

それにしても、ここから桜田門までは、本当に近い距離である。どうしてこんな近距離にもかかわらず、直弼の家臣たちは直弼を守ることができなかったのか?私の疑問はますます強まってきた。このことについては、別の項(桜田門)で考えてみたい。

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5. 天寧寺

私にとって天寧寺は、妙に艶めかしいイメージが付きまとう寺だ。

それもこれも、諸田玲子さんの小説「奸婦にあらず」のせいである。埋木舎での15年間の忍耐の末に彦根藩主となった井伊直弼が、お忍びでたか女との逢瀬の舞台として選んだのが、ここ天寧寺ということになっている。

もちろん小説の中での話ではあるが、さもありなんとの思いもする。天寧寺は、彦根城と多賀大社とを結ぶ道の中間地点にあるからだ。二人がどんな想いでこの天寧寺を訪れ、この建物のどこかで語り合い、愛を確かめ合ったのか。そんな想像をするだけでも楽しいではないか。

そもそもの寺の縁起が、直弼の父である十一代直中が、腰元の不始末を責めて手打ちにしたものの、不義の相手が我が息子であったことが後にわかり、その腰元と初孫の供養のために建立した寺と伝えられる。男女の間にまつわる因縁の深い寺なのだ。

しかもここ天寧寺には、井伊大老供養塔、長野主膳の墓、村山たか女之碑の豪華3点セットが揃っている。ちょっと出来過ぎの感がしないでもないくらいだ。今で言うところの三角関係と言ってしまっては下世話過ぎるか。三人の関係を想像することも、また歴史のおもしろさである。

clip_image002[9]clip_image002[5]

井伊大老供養塔                                                   長野主膳墓

井伊大老供養塔は、桜田門外の変で暗殺された直弼の血染めの土や遺品を四斗樽に入れて埋めたものであると言われている。東京の豪徳寺にある本物の墓よりもこちらの供養塔の方が墓らしくて立派なくらいだ。残された彦根の人々が直弼の突然の死を悼み、直弼を偲ぶ唯一のよすがとして、心を籠めて建立したものに違いない。その時の人々の悲しみがひしひしと伝わってくる。

長野義言之奥津城と刻まれた主膳の墓は、生い茂る楓の緑に囲まれて全貌が見えない。墓と言うよりは記念碑のような大きな墓石だ。直弼亡き後の主膳は、虎の威のなくなった狐よろしく、追い落とす立場から追い落とされる立場に境遇が一転した。最後は直弼の後を継いだ直憲の命により打ち首となったと伝えられる。死してなお藩民から慕われた直弼とは対照的に、主膳は彦根藩によって処刑されたことになる。

clip_image006たか女之碑

たか女之碑は、直弼の供養塔や主膳の墓石と比較して小さなもので、ひっそりと建てられている。説明板も何もなくて、建立の由来がわからない。天寧寺がたか女ゆかりの寺であることは確かであるのだろうが、誰が何のために建てたものなのか、ついぞわからなかった。何の変哲もない石碑であった。

 

私の中での天寧寺はこれら三人が主人公である寺なのだが、一般に天寧寺は、むしろ五百羅漢のある寺として世に知られている。例の直中が自らの過失により葬ってしまった腰元と孫の霊を鎮めるために京都の名工駒井朝運に命じて作らせたものと伝えられている。

「奸婦にあらず」のなかでも諸田さんは、直弼、主膳(主馬)、たか女の三人をこの羅漢堂に赴かせている。その一節を以下に引用する。

三人は回廊伝いに羅漢堂へ赴く。小坊主が堂の入口で恭しく出迎えた。扉を開けて中へ誘い、外から扉を閉ざす。 次の瞬間、四方の壁いっぱいに居並んだ羅漢像が、鈍い光彩を放ちながら、圧倒的な威容で迫ってきた。これまで何度かお詣りしているたかでさえ感嘆の吐息をもらす。ましてや、はじめて足を踏み入れた主馬は、荘厳な眺めに我を忘れているようだった。

今は入口に小坊主はおらず、セルフサービスで御堂の扉を開けるシステムとなっているが、扉を開けた瞬間の驚きと感動は、まさに諸田さんが書かれたそのままである。光背を擁した極彩色の羅漢像が一斉に私に向かって語りかけてくる圧力。 何万人も入るスタジアムの真ん中に自分がいて、スポットライトを浴びながら観客である羅漢から凝視されているような、そんな錯覚にも陥った。静寂が支配する広いお堂の中で、羅漢と自分の真剣勝負が演じられている。心地よい緊張感に私は酔いしれた。

clip_image002[1] 紀行文写真file 283五百羅漢像

天寧寺の裏庭からは遠く彦根城を望むことができる。今では高い建物が並び立ち、必ずしも美しい景色とは言えないが、直弼がここから見たであろう彦根城は孤高の高さを天に誇っていたことと思う。彦根城の遠景を見ていると、なぜか心が落ち着いてくる。大洞弁財天から見た彦根城も、天寧寺から見た彦根城も、みなうつくしい。

直弼とたか女を慕って彦根とその周囲を経て巡った。一旦ここで、彦根における私の小さな旅を終わることとする。次は、舞台を江戸(東京)に移して、再び直弼の足跡を追ってみたい。その前に、直弼についてごく簡単に私なりの総括をしておく。

一般に、安政の大獄を断行した首謀者として、直弼のイメージはすこぶる悪い。桜田門外で横死したことも、滅びゆく徳川幕府の象徴として印象づけられ、事実直弼の死から歴史は大きく討幕へと流れが切り替わっていくことになる。桜田門外の変から明治維新までの時間が僅か8年でしかないことを考えると、この事件が徳川幕府にとってはまさにターニングポイントであったことがわかる。

直弼が推進した日米修好通商条約の締結とそれに基づく横浜や神戸等の開港は、後の歴史の流れを眺めてみれば紛れもない正解であり、直弼の判断が正しかったことに疑いの余地はない。ではその実現手段としての安政の大獄が、果たして選択し得る唯一の手段であったかどうか。

そもそも安政の大獄とは何だったのか?直弼は、そこまでして力による弾圧を強行しなければならなかったのか?安政の大獄がなかりせば、これほどまでに直弼の名が天下に貶められることはなかったであろうに。

私には、日米修好通商条約を締結した直弼と、安政の大獄を実行した直弼とが、どうしても同一人物には思えない。あるいは英明な君主の一面と冷徹な為政者の一面の両面を持ち合わせていたと考えられなくもないけれど、私はそのようには思いたくない。埋木舎での15年間の忍耐と、その間気持ちを切らすことなく自己精進を続けた強い意志力は、並大抵のものではない。人の苦労と人生の悲哀とを熟知した直弼が、いとも簡単に何人もの尊いはずの人命を奪ってしまうようなことが、本当にできたのだろうか?

そこで湧き起こってくる疑問が、安政の大獄は本当に直弼の意志によるものだったのか?という疑問だ。何の根拠があっての説ではないが、直感的に、そこには直弼と主膳との間のディスコミュニケーションがあったように私には思えてならない。あるいは、主膳の独走というか暴走だったのではないか。

主膳の行動の中には、単なる国学者としての活動に止まることなく、強い立身出世欲と野望とが見え隠れしているように思える。もう少し言葉を悪くして言えば、どこかに胡散臭さがあるのだ。直弼を利用して自らの思いなすところを実現せしめる。私の直感が正しいかどうかの結論は、もう少し長野主膳という人物に焦点を当てて調査研究を行った後でなければ下すことができない。

たとえ主膳に原因があったとしても責任は主(あるじ)である直弼に存するものであり、それを知る直弼は従容として死に赴く。逃げ隠れすることなく、実直なまでに生きてそして死んだ直弼という人間の苦悩と意地と責任とを想った。

雪の桜田門外に置かれた駕籠の中で、断末魔の直弼は何を思って死んだのか。もしかしたら、うつくしい彦根の町並みとたか女のことだったかもしれない。

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4. 大洞弁財天・龍潭寺・井伊神社

彦根城からこんなに近い場所に、こんな不思議な場所があるということを、私は知らなかった。

大洞(おおほら)弁財天の存在を知ったのは、諸田玲子さんの著書である「奸婦にあらず」によってであった。本書では、直弼の愛人として知られる村山たか女は多賀大社の坊人であるとの設定であり、加えてたか女は弁財天の加護を篤く受けていたことが書かれている。悲しいことやつらいことがある度に通ったのが、この大洞弁財天であった。

弁財天は、佐和山城のあった佐和山から連なる大洞山の中腹にある。

どこにでもあるような弁財天の像を想像して、さして期待感もなしに参道となる急な坂道を昇っていった私であったが、昇り詰めたところに意外と立派な伽藍が出現したので、まず驚いた。琵琶湖を背景とした彦根城を遠望できる風光明媚な立地に、二層から成る立派な山門が建立されている。その山門と対峙するように建てられた本堂とともに、細かな彫刻が彫り廻らされている。

さらに、本堂に昇る階段の前に立って中の御本尊を仰ぎ見た時、私は思わず驚きの声を挙げた。薄暗い空間の向こう側に、金色(こんじき)の光に彩られた大きな弁財天が鎮座しておられたからだ。それは、私の想像を遥かに超えた大きさだった。大きさでご利益を計れるものではないが、この大きさは圧倒的な力で私を支配した。文句なしに、凄い。clip_image002 紀行文写真file 210 大洞弁財天

小説の中でたか女が、この弁財天の化身として、心から帰依していることも素直に頷けた。

木製の格子に隔てられ、金色の帳の向こうにおわします弁財天は、右手に剣を携え左手に宝玉を持ち、実に神々しいお姿をされている。訪れる人も稀な静かさの中に、白いお顔が浮き出て見える。

直弼も、見たであろうか?

きっと見たに違いない。彦根城からここまでは、目と鼻の距離である。訪れていないと考える方が不自然である。この御堂の麓には、直弼が参禅のために通った清涼寺もある。

なんとも神々しい気持ちになって弁財天のある大洞山を降りた。降りきったところに、龍潭寺(りゅうたんじ)がある。この辺り一帯は、佐和山城下だったところで、石田三成や島左近の屋敷があったという。寺に向かう入り口に、何かを語りかけているかのように端正に正座した三成の像が建立されている。ここの土地は今でも、井伊家のお膝元である以上に、石田三成の居城があった、三成ゆかりの土地なのだ。

龍潭寺は、しっとりと落ち着いたお庭がきれいな寺だ。方丈に入ってまずは、枯山水の庭園を、縁側に腰かけてじっくり観る。流れる水を表すような砂の白い色と石の周囲の苔の緑とが溶け合って、なんとも清々しい。有名な京都竜安寺の石庭よりも石の数も緑の割合も多くて、その分親しみやすく心にすうっと沁み込んでくるようなお庭だ。clip_image004 紀行文写真file 263 龍潭寺庭園

暫しの間、静かで贅沢な時間を過ごす。

龍潭寺には、背後の佐和山を借景とした回遊式の庭園もあり、こちらは斜面に生える木々と池とが調和して、枯山水とは異なった趣を見せてくれる。名刹と呼ぶにふさわしい、立派な寺院である。

龍潭寺の左手に、井伊神社という神社があった。入口の説明板によると、直弼の兄であり先代彦根藩主であった直(なお)亮(あき)が、井伊家の始祖である井伊共保の750回忌にあたり、遠州引佐郡にある井伊谷八幡宮から井伊大明神を分霊して祀ったものであるという。井伊神社と書かれた額が掲げられている石造りの鳥居をくぐり、草深き参道を本殿に向けて歩を進めた。

すると、弁財天や龍潭寺を見てきた後の私には、異様とも思える光景が眼前に現われてきた。なんと、鳥居の奥に建立されている井伊神社の本殿は荒廃が著しく、保護のためなのかフェンスで覆われていて、それ以上中に進むことができなかった。

clip_image006 井伊神社紀行文写真file 228

直亮が建立した神社であるのだから、160年ちょっとしか経っていないというのに、どうしてこんなに荒れ果ててしまっているのか?隣接する龍潭寺や弁財天の整備された伽藍と比較すればするほど、疑問は高まる。そういうことも含めて、この場所一帯は、初めて訪れた私にとって、不思議な空間であった。

先にも少しだけ触れたが、この地域には井伊家の菩提寺である清涼寺という寺もある。寺域は元々は石田三成の武将であった島左近の屋敷跡と言われ、関ヶ原の戦いで戦功を挙げて井伊家繁栄の礎を築いた直政の墓所がある寺としても知られている。

残念ながら清涼寺は一般公開されていないが、幕末に直弼が参禅のために何度となく足を運んだことは先に書いた。

古くは石田三成の城下として栄え、その後は井伊家の聖地として祀られ、崇められてきたのがこの地域なのだと知った。ほんのりと直弼やたか女の面影を感じとりながら、この不思議な場所を後にした。次に来る時には、三成の気持ちになって佐和山の頂上に昇ってみたいと思った。

 紀行文写真file 271 紀行文写真file 273

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