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歴史にまつわる話 Archive
石田三成ゆかりの地(再起を信じて辿った山中の道 谷口)
谷口の杉林の道。三成は関が原に敗戦後、この道を逃げ、母の里(木の本の古橋)へと向かいました。どんな気持ちだったのでしょう。三成の残した功績は、秀吉の刀狩令、太閤検地を実施したという点にあります。当時農村には刀が氾濫しており、罪のない農民が武士に殺されてしまうことが多かったのですが、三成は、武士に刀を捨てて平民になるか、中央に行って武士を続けるかの選択をさせ農村と中央部とを分離したのです。これは、今でいう構造改革なのです。 ![]()
三成は母の里(古橋)へ逃げる前の晩、谷口にある民家にかくまってくれるように頼みました。その家の人たちは、三成を丁重に迎え入れ、畳をまくって床下に三成をかくまりました。三成はこの家の人たちがしてくれた親切に感謝し、石田の姓を与え、以後末永く、石田姓を守ってくれるようにと言いました。同時に、身につけていた短刀と鳩の家紋も与えました。今も谷口には石田さんがおられ、その家では三成が居た場所はもったいなくて近寄れないとし、石田神社(右)として今も祀っておられます。
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桶狭間と武田信玄
- 2009-04-19 (日)
- 歴史にまつわる話
永禄3年梅雨のころ、駿遠三の領主今川義元が尾張遠征の途、桶狭間で倒れたのは、戦国時代最大のニュースのひとつであったろう。武田信玄にとってもきわめて重大な出来事であった。当時の天下の情勢を考慮すれば、義元の死で最も得をするのが信玄ではなかったか。
今川家は、義元を失ってそれそれこそ大混乱であったであろう。後継の氏親が暗愚なので、なおさらだったであろう。大原崇孚も既になかったし。信玄が領内へ攻め込んできたならたちまち崩れたのではあるまいか。
信玄の動きを牽制できるものがあったであろうか。義元を打った信長は急いで戦場から逃げ帰った。たった34位の兵力で何万もの今川の大軍に包囲でもされたら、それこそ終りだったろう。逃げるしかなかった当時の信長はまだ尾張一国もまともにはまとめ切れていなかったかもしれない。家康に至っては、義元の死によってようやく人質の身分から解放されたばかりというありさまだ。
信玄の宿敵 長尾景虎はその目が関東を向いていた。翌永禄4年にかけて上野うまや橋にあって関東の名将を集め、北条方の勢力を撃破して小田原城を囲んだ。天下の名城は落ちなかったが、鎌倉で関東管領就任式をはなばなしく施行して越後へひきあげた。北条親子(氏康・氏政)は、この景虎の猛攻の前に小田原城を修理して必死でたてこもった。
というわけで信玄の動きを牽制できる者はなく、絶好の機会が永禄4年の夏秋の川中島の合戦まで続いていたわけである。この空前絶後の好機になぜ信玄が今川領を攻めなかったのであろうか。信玄の目は北信濃へ向いていたのか。川中島に海津城を築き前述の如く翌年上杉謙信(長尾景虎)と一大決戦を行うことになる。あるいは、義元の嫁を正室にしていた信玄の嫡男義信が今川攻めに反対したのか。ともかくこの空前の好機は失われ、今川領は人質から解放された家康が信長と同盟をむすんで三河を中心に急速にまとめて行き、信玄の力をもってしてもたやすく奪取できないようになっていく。
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曳山タペストリーの謎
4月中旬には、長浜祭りが行われます。
長浜城主だった秀吉によって始められ、秀吉の男児誕生を祝って配られた金を
もとに町衆たちが舞台の付いた曳山をつくり、舞台では子ども歌舞伎が演じら
れるようになりました。
曳山の後面には見送り幕と呼ばれる大きな幕がかけられていますが、12基ある
曳山のうち、翁山と鳳凰山の2基の見送りには、16世紀後半にベルギー地方で
織られたタペストリーが使われています。
翁山の方は2人の武将を中心とした図柄、鳳凰山の方は4人の貴婦人を中心と
した図案です。鳳凰山の法は祇園祭鶏鉾の見送幕や霰天神山の前掛等と本来一
枚のタペストリーだったものを分割、切断した一部であることがわかっており
トロヤ戦争を題材に製作された王連作のうちの一枚だということが解明され
ています。
作者もブリュッセルの二ケイズ・アエルツという職人だとわかりました。翁山
のものも鳳凰山のものも、おそらく桃山時代から江戸時代初期にヨーロッパか
らもたらされたものでしょう。それが長浜の町衆の手に渡ったのは19世紀初
めの文化・文政の頃と言われています。
しかしながら、誰がどのようにしてヨーロッパから持ち込んだものか、そして
、日本へ来てから200年間どこにどのようにしてつたわったものか、謎は、
まだまだ尽きません。
それにしても、秀吉ゆかりの長浜祭りに、秀吉と同時代のヨーロッパで作られ
たタペストリーが飾られているということは、偶然なのでしょうか。秀吉の時
代、日本はヨーロッパと共に歩んでいました。南蛮船が来航し、ヨーロッパの
文物が入ってきて文明開化のような刺激を受けた当時の日本。ヨーロッパと接
しながらも劣等感も感ぜずに豪華絢爛たる安土桃山文化を現出した日本。
その後、徳川時代になり、残念ながら鎖国が始まり、日本は自らの殻の中に閉
じこもってしまいますが、あの輝かしい時代の形見ともいうべきタペストリー
が、今なお秀吉ゆかりの長浜祭りに花を添えているのはなんとも、感慨深いも
のがあります。
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片桐且元公の里 須賀谷という地名の由来
五大山城の一つ、小谷城は城主浅井亮政・久政・長政 3代の居城であった。
浅井長政は築城の折、この地を家臣の屋敷地と定め地名を選んだ。
家臣の片桐孫右衛門(且元の父)は、この谷に鷹の巣をかける岩があることから巣ヶ谷と改めた(今の須賀谷)。片桐且元公は、1556年(弘治2年)に生まれこの里で育った後、羽柴秀吉の小姓として仕え賎ヶ岳の戦功をはじめ豊臣家の重臣として多大の功績を残し大坂夏の陣後、京都で病死(60歳)、京都の玉林院に葬られる。
神明宮:城主の久政が天文17年(1548年)に建立し現在は当地の氏神として崇拝されている。
観音堂跡は、小谷城3代の守り本尊である仏像が落城での難を避けるため且元公らが城主長政の命を受けこの地に運び降ろし後、ここで祀った堂跡とその石積である。
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小谷山 実宰院(じっさいいん)
須賀谷温泉からそれ程遠くない距離のところに、平塚という20戸足らずの小集落がありその中ほどに実宰院という曹洞宗のお寺があります。
ここには、浅井長政の腹違いの姉、昌安見久尼が開基して住んでいました。
小谷落城(1573年8月)の前夜、浅井長政は、妻お市の方と、茶々、お初、お江の娘3人を小谷山東部の「嫁落としの岩場」から「梯子岩」を経て池奥へ逃れさせ、ここで、用意させておいた野良着に変装させ、坂を経て、北野を通り田川堤を下って、平塚の実宰院に逃れさせ、 長政の姉、昌安見久尼がお市の方と娘たちをかくまったのです。
かくまわれたというだけあって、須賀谷温泉から近いといえども、とても行きにくい、わかりにくい場所にあります。
さて、この浅井三姉妹、父である長政を小谷落城で失い、母お市の方も、その後再婚した柴田勝家とともに、北之庄城(福井)で死んで、全くのみなしごとなってしまったのですが、この三人娘を命がけで守り立派に育て上げたのが 彼女達のおばさんにあたる 昌安見久尼 だったのです。彼女は子育て名人として知られています。仏教の信仰も厚く、また、学問教養にもすぐれていた 見久尼 は、兄長政から託された3人の娘の養育のため、日夜心をくだき、数々の努力を重ねたようです。 寺の中に閉じ込めて学問を子どもに押し付けるのでは、人間として成長できないと考えた見久尼 は、戦国の乱世の底辺で骨身を削って働く農民の姿を見せ、農民と和合させることも大切だと考えました。また、この近辺には、天然記念物(戦国時代にはモチロン指定されていなかった!!!)であるハリヨが今も泳いでいますが、浅井三姉妹もきっと、ハリヨを川で採ったり、タンポポを摘んだり、浅井の恵まれた自然の中ですくすくと育ったことでしょう。
この浅井での心豊かな暮らしがあったからこそ、浅井三姉妹は、後に歴史に名を残す賢明な女性となったのでしょう。
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