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湖北残照 Archive

一日回峰行同行記

一日回峰行同行記

 平成22(2010)年5月30日、湖北の空は青く澄んでいた。 DSCN7738

 ちょっと早めに着いてしまったかもしれないと思い躊躇したのだが、集合場所である「五先賢の館」には、すでに多くの参加者がディパックに登山用のスティックなどを携えて、思い思いの恰好で集まっていた。

 雨で一週間延期しての、待ちに待っての一日回峰行がいよいよ始まる。

 最初に五先賢の館の広間で、長浜城歴史博物館の太田さんから今日のコースの概略や三姉妹に関する貴重な話を伺った。太田さんの説明は、歴史の素人にもわかりやすいように、いつも平易な言葉で語りかけてくださるのでありがたい。DSCN7737

 これから私たちが訪れるコースは、天正元(1573)年に織田信長の攻撃により小谷城が落城した際に、浅井長政の妻であったお市の方と三人の姫たちが城から落ち延びたと思われるルートをちょうど反対に辿り、小谷城祉まで登り行くコースである。

 小谷城の城下町や城の正面にあたる追手道、それに平時における長政や家臣団の屋敷が建ち並ぶ清水(きよみず)谷(だに)など、いわゆる城の表側はすでに信長軍によって占領されており、お市の方らが落ちていくとすれば、城の搦め手にあたる月所(げっしょ)丸(まる)からであったろう、というのが大方の推量である。もちろん、脱出ルートに関する正確な文献は残されていない。

 その後についても諸説があるが、最終的にお市の方は北の庄(現在の福井市)で夫の柴田勝家と最期を共にし、残された三姉妹は秀吉のコントロール下に置かれることになる。

 信長の血筋を継承し、お市の方の美貌を受け継ぎ、今や自分の意のままに扱うことができる三姉妹のことを、秀吉は政治的道具として最大限に活用した。

 すなわち、長女の茶々は側室として手許に置いて自分のものとした。このあたりは、まことにもって抜け目がない。次女のお初は、北近江の名門でありかつての浅井氏の当主筋にあたる家柄の京極高次に嫁がせている。三女のお江は、秀吉の意思で結婚、離婚を繰り返させた末に三人目の結婚相手として徳川第二代将軍となる秀忠の正室に落ち着かせている。

 当時の秀吉を取り巻く政治情勢を勘案し、バランスを考慮しながら、碁盤の目に正確に碁石(いし)を置いて行くようにして、姫たちの意思とはまったく無関係に政争相手に当てがっていった。

 三姉妹は、その後訪れる大坂冬の陣・夏の陣にて、長女の茶々(淀君)が豊臣方に、三女のお江が徳川方となり、戦を回避するために両者の間を次女のお初が行き来してとりなすという数奇な運命を辿ることになる。

 そんな三姉妹が生まれ育った小谷山に、彼女たちの脱出ルートの逆を辿って登って行くというのが、今日の一日回峰行のコースであった。

 一日回峰行の話をする前に、今私がいる「五先賢の館」について触れておかなければならない。

 五先賢の館は、旧東浅井郡浅井町が生んだ五人の賢人を表彰するために建てられた慎ましやかな資料館である。今は浅井町が長浜市と合併したために、長浜市立の資料館となっている。

 五人の賢人とは、相応和尚(831年~918年、比叡山の高僧)、海北友松(1533年~1615年、狩野派の代表的画家)、片桐且元(1556年~1615年、賤ヶ岳七本槍の名武将)、小堀遠州(1579年~1647年、茶道・造園美術建築の巨匠)、小野湖山(1814年~1910年、漢詩・書道の大家)の五人である。

 これから登る小谷山登山への期待感で一杯の参加者たちの目にどれだけ映っているかと考えると極めて残念ではあるのだが、太田さんの話を伺っているこの広間にも、湖山の書が額装されてさりげなく飾られている。本当はとても贅沢なことである。

 館前の広場でラジオ体操をした後、私たちは小谷山への登山口を目指して五先賢の館を後にした。

 最初の訪問地は、五先賢の館からすぐの田んぼの中にある小さな四輪塔である。元々五輪塔であったものだが、一つ失われて四輪塔となっている。

 いわくありげにひっそりと祀られている四輪塔は、お市の方と三人の姫たちが小谷城から落ち延びていく際に、乳飲み子であった三女のお江を抱いて逃げた浅井家の侍女の墓であると地元では言い伝えられている。 

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 城の南東にある実宰院という寺院まで無事に姫たちを送り届けた侍女は、すでに小谷城が落城してしまったために城に戻ることができず、この地で浅井家の菩提を弔い続けたのだという。その侍女の墓と伝えられているのが、この四輪塔である。

 いきなり、落城にまつわる悲話に接した。

続いて、五賢人の一人である相応和尚の生誕地である来生寺に立ち寄る。

菅原道真とも親交が深かったと言われている相応和尚だが、その事実を証するかのように、本堂に向かって右手にある小さな祠の中に道真自らが彫ったと伝わる道真像が、本堂から少し離れたもう一つの祠には鏡が、納められている。

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普段は扉が閉じられていて見ることができないものであるが、一日回峰行が催される今日だけは、参加者が見られるように扉が開放されている。

 来生寺を出ると、いよいよ小谷山への登りとなる。

 立志坂という看板が、登山口の目印である。ほんの2ヶ月ほど前にここを訪れた時には古びた看板であったのだが、僅かの間に真新しい看板に変わっていることに驚かされる。来年のNHK大河ドラマの舞台となることから、整備が急速に進められているのだろう。

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 いきなりの急峻な上り坂である。

 見上げると青い空を背景として透き通るように輝く新緑の中を、一歩一歩地面を踏みしめながら山道を登って行く。一人で歩くと寂しくて辛い上り坂だが、こうして大勢で登っているととても心強い。前後の人たちと短い会話を交わしながら歩いて行けば、急な山道もそれほど苦にはならない。

 足元を見つめながら歩いていた目をふと遠方に向けてみると、登山口付近の田んぼがはるか下方に見えてくる。短時間の間に随分と高度を上げたことが実感される。

 続いて克己坂と書かれた看板が現れる。

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 登りはじめて以来、坂道は私たちを休ませないで容赦なく上り続けている。額から汗が滲み出てくる。しかしこの汗は、心地よい汗だ。小谷山の頂上を目指して登っているという充実感を私は体全体に感じながら、己に克つと命名された急な坂道を登り続けて行った。

 どのくらい登っただろうか。ほとんど直登に近いような坂道から、ようやくなだらかな道が混じる坂道に変わってきた。ここから先は、少し登っては平坦に近い道で疲れを回復させながらの道が続いて行く。

 さらに登って行くと、万華坂という坂を経て、

DSCN7753 小谷山の最高地点である大嶽(おおづく)に続く道と、本宮(ほんぐう)の岩屋に通ずる道との分岐点に至る。今回の行程では結局どちらにも行くことになっているのだが、まずは道を左に折れて本宮の岩屋を目指す。

 本宮の岩屋は、壁のような2枚の大きな岩に挟まれた狭い空間を通り抜けた先にある洞窟で、蘇我氏との戦いに敗れた物部守屋が潜んだとの伝説が伝えられる神聖な場所である。小谷山の麓にある波(は)久(く)奴(ぬ)神社の本体のお宮という意味で「本宮」の岩屋と呼ばれているのだそうだ。

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 太っている人は2枚の岩の間をすり抜けることができないと聞いていた。そうは言っても多少の余裕はあるだろうと楽観的に考えていたのだが、左右に壁のように立ちはだかる大岩の間に挟まれて、狭い空間の中で前にも後ろにも進めなくなった時には、このまま脱出不能になるのではないかと真剣に恐怖心に襲われた。

 もがくようにして必死に手足を動かし、何とか少しずつ前進した私は、やっとの思いで洞窟の中に入ることができた。家に帰ってから気づいたのだが、私の腕にはこの時に出来たとしか思えない擦り傷が何か所も付いていた。

 入口の狭さに比べると、内部は思ったよりも広い。懐中電灯で照らすと夥しい数の蝙蝠が無気味な姿で天井からぶら下がっているのが見える。凄まじいところに来てしまったものだと思った。

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 得がたい経験をした。小谷山の山麓にこんな不思議な洞窟が存在していて、浅井氏が居城とするはるか以前から地元の人々の信仰の対象となっていたことを知って、小谷山の奥深さの一端に触れた思いがした。

 覚めやらぬ興奮を胸に、元来た道を先程の分岐点まで戻り、今度は一路、標高495mの大嶽を目指す。

 浄心平というやや広々とした平坦地を経て、道はアップダウンを繰り返す。左手の遥か遠方に見える広々とした平坦な風景は琵琶湖の湖面だろう。好天に恵まれた今日は、遠くの景色までクリアーに見渡すことができる。小谷山が琵琶湖の傍らにある山であることを改めて実感させられる。

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 この季節の山中は、新しい命の息吹きがそこここに感じられて、本当に清々しい気持ちになることができる。

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足許を見れば、種から生え出した木々の芽が、覚束ない姿で育ち始めている。楓の芽などは、すでに楓の葉の形をしているからすぐにそれと知れる。

 植物は自ら生きる場所を選択することができない。風に吹かれて種が落ちた場所が、そのまま彼らの生きる場所となる。登山道の傍らに落ちた種は安全かもしれないが、登山道の真ん中に落ちた種はやがて人に踏みつけられるか、さもなくば抜き取られる運命にある。

 今私が目にしている若々しい木々の芽のなかで、後々まで残る木となる芽はほんの僅かでしかない。山を歩いていると、そんな余計なことまで考えてしまう。

 大嶽までの本格的な上り坂となる前に、こんな案内板が新たに設置されていた。

  小谷城は戦国の山城として「戦国五名城」の一つである。平城は満々と水をたたえた

水堀と石垣に代表される。山城は空堀と土塁と曲輪の三要素からなっている。この3つ

をどの様に配置するか、山の自然地形に制約され乍ら、攻められにくく、守りやすい城

に築くことがポイントである。山城歩きの楽しみはそこにある。

 短く平易な言葉の中に、山城の見方が凝縮されて説明されているいい案内板だと思った。

DSCN7817 石垣

DSCN7812 土塁

 私たちは城と言うと、大坂城や姫路城などの石垣と堀に囲まれた豪壮な天守を思い浮かべるかもしれない。しかしこれらの城の姿は、もっと後世の、言わば完成形としての城の姿であって、戦国時代の山城には満々と水を湛える堀もなければ、堅固な石垣の姿を見ることもほとんど稀である。

 案内板にあるごとく、戦国時代の山城は、地面を掘って造った空掘と、反対に土を盛り上げた土塁とが防御の双璧である。これらを組み合わせて曲輪と呼ばれる閉じられた空間に籠って敵の襲撃に対抗した。

 空堀も土塁も見た目には自然の地形と区別がつきにくいから、素人にはわかりにくい。山城を歩くのには最低限の知識は必須である。

 この案内板の後、私たちが行く登山道には、少なくとも3か所にわたって空掘りの一種である「堀切」が横切っているのが確認できた。

DSCN7786 堀切

 月所丸を経て、道は大嶽への長く厳しい上り坂に転じる。

 どこまでも続くまっすぐな木の階段。道としてはよく整備されているのだが、一段一段の高さが高いために極端に登りにくい。一度引いていた汗が、再び滲み出す。大嶽までの道程の最後の試練だ。

 一歩ずつ、ゆっくりだが休まずに、私は気の遠くなるような厳しい坂道を登って行った。やっとのことで急な坂道を登りきったところに、小谷山の本城全体を眺めることができる展望ポイントがある。ここまで来れば、大嶽の山頂はもう少しだ。

 山頂で、待ちに待った昼食の時間となる。

 私は、竹生島が見渡せる見晴らしのいい場所に腰を降ろして、持参したおにぎりを頬張った。青空の下、厳しい山登りの後に食べるおにぎりの味には、他のどんな御馳走も及ばない。見上げれば、風にそよぐ楓の葉の緑が心に沁みる。

DSCN7800

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 しばしの休憩ですっかり元気を取り戻した私は、一気に六坊跡までの下り坂を降りて、小谷城の本城となる本丸を目指して再び山道を登って行った。

 春の山桜咲く小谷山も、秋の錦繍の小谷山も本当に美しいが、新緑の小谷山には生命の生きる力が漲っている。小谷山の自然や景色から生きるエネルギーを分けてもらったような気がした。

 私にとって、山王丸から小丸、京極丸、中丸、そして本丸へと続く小谷城址の一連の曲輪は、もうお馴染みの光景だ。季節を変え、何度となく訪れている場所なので、ここではあまり繰り返さない。

 本丸の石垣跡を背景にみんなで記念写真を撮った後、再び道を引き返して山王丸の下にある大石垣に向かう。羽柴秀吉による破城を受け、ほとんど原形を残さない小谷城の石垣のなかで、最も大規模な石垣が残っているのが、この場所である。

 ここから、下りに急峻な道が伸びているのは一般に知られていない。絶景の岩場と呼ばれる巨石の間を縫うようにして降りて、須賀谷温泉の方へと下山する道が通じている。

 絶景の岩場という命名が奇抜である。

 私にとって初めて経験する道なので、これからどんな絶景が我が眼前に現れるのか、興味津々の思いで私は道を降り始めた。

 絶景と豪語するからには、相当な景色が望まれるのだろう。期待感はいやがうえにも高まっていく。それにしてもこの小谷山は、いくつもの顔を持った山であることを不思議に思った。

 戦国時代の山城としての厳粛な顔がある。一方、清水谷では美しい渓谷美を楽しむことができる。そうかと思えば、朝見てきた本宮の岩屋のような神秘的な洞窟が存在している。そして今度は絶景の岩場である。

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 小谷山は、実に神秘的で味わい深い山であると思った。

 しばらく単調な下り坂を進んで行くと、突然に周囲を巨石に囲まれている場所に行き着いた。ここが、絶景の岩場と呼ばれている場所なのだろう。

 転落を防止するために張られたロープがなかったら、無事に下山することは叶わなかったかもしれない。とにかく険しい岩場であることに、まずは肝を奪われた。

 何とか体勢を確保しながら周囲を眺めてみると、たしかに絶景である。

 岩の割れ目から旺盛な生命力を示して生えている松の枝が見える。その傍らに立ち枯れした木が亡霊のような姿で残っている。その向こう側には西池や須賀谷温泉の白い壁と黒い屋根の建物が見えている。

 なんと雄大な景色であることか。なるほど絶景の岩場と名付けられたことが誇張ではなかったことが、納得感を持って実感させられた。

 心がおおらかになるような景色だった。こんな天気のいい日に、こんな景色を見ることができて、私の心は大満足だった。

 そのまま山道を麓まで降り切った私たちは、当初の予定では右手の須賀谷にある片桐且元の父(孫右衛門直貞)の墓まで行く予定であったのだが、このコースを省略して道を左手に折れ、珀清寺薬師堂にある重要文化財の薬師如来坐像を拝観して、元の五先賢の館まで戻ってきた。

 朝10時に出発して、5時間をかけての大行程だった。

 再び戻った五先賢の館の広間で心づくしの抹茶をいただいた私たちは、ほろ苦い抹茶を啜りながら、今日一日の感動を胸の裡で反芻した。

 比叡山延暦寺に伝わる修行の一つに、「千日回峰行」がある。旧浅井町が誇る五先賢の一人である相応和尚が始めたと伝えられる非常に厳しい修行で、7年間かけて都合千回行われる回峰行であるという。途中で修行を続けることができなくなった時には自害する決意で行われたというから、生半可な修行ではない。長い延暦寺の歴史にも拘わらず、現在までにこの修行をやり遂げた僧は僅かに47人しかいない。

 今日の一日回峰行は、そんな郷土が生んだ名僧である相応和尚の徳を偲んで、その千分の一(にも全然満たないと思うが)だけでも体験することを目的に行われたものである。元々の起こりは昭和の後期にまで起源を遡るようだが、今日のようなコースで春と秋とに定期的に行われるようになったのは、平成8(1996)年の頃からであるらしい。

 貴重な史跡を巡り、小谷山の豊かな自然に触れ合い、日常生活の喧騒から脱却して生きる英気を養う一日回峰行は、多くの関係者の協力のもとで実施されている。

 他所者の私が厚かましく参加させていただき、誰よりも大きな感激を得て帰って来られたのも、相応和尚の存在があり、地元の皆さん方のご尽力があってのことである。末筆ながら感謝の念を表させていただき、同行記の締めくくりとしたい。

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(付記) 「大依山(おおよりやま)砦(とりで)跡の現地説明会」同行記

(付記) 「大依山砦跡の現地説明会」同行記

DSCN2228 大依山砦跡への入口

2010年5月2日(日)の湖北地方は、快晴の天候に恵まれた。ゴールデンウィークの真っただ中にあたるこの長閑な日曜日に、姉川の合戦再見実行委員会主催の「大依山砦跡の現地説明会」に飛び入り参加するために、私は新横浜を6時11分に発車する「のぞみ」に飛び乗った。

 集合時間の午前9時。集合場所である浅井文化スポーツ公園の駐車場には多くの参加者が山歩きのできる服装で集合していた。ご年配の方が多い。しかしみなさんとても元気で、中には前日に浅井氏の支城の一つである山本山城祉に登ってきたという方もいらして、驚いた。

 湖北の地は、歴史ファンには堪らない戦国史の宝庫である。行こうと思えばいつでも気軽に城址や戦場跡を訪ねることができるロケーションを羨ましく思った。

 今日の特別ゲストは、この4月に長浜城歴史博物館の館長に就任されたばかりの中世城郭研究の第一人者である中井均館長と、浅井長政や石田三成など湖北が生んだ武将たちに関する多数の著作を著わされている同じく長浜城歴史博物館の太田浩司さんのお二人である。中井さんは山歩きの熟練者らしく、熊避(よ)けの金の鐘を首から下げての参加であった。歩く度に澄んだ鐘の音色が周囲に響き渡り、これなら熊に襲われる心配もない。

 お二人とも、私のなかでは著書を通じて(一方的に)お馴染みとなっている方なのだが、実際にお会いするのはこの日が初めてで、このような著名な専門家の方の解説を直接お伺いしながら史跡を訪れることができる幸せをつくづく感じた。

 最初に太田さんによる挨拶を兼ねたガイダンスが行われる。渡された資料は『信長公記』である。今日は山に登るものだとばかり思っていたのに、いきなり古文の解読から始まったことに驚かされる。しかし、ただやみくもに登るのではなく、信頼できる文献により当時の状況を確実に頭に入れてから実際に現地を訪ねることは重要なことだ。

 今私たちが立っている場所が、大依山の南端にあたる。

浅井・朝倉軍は、織田軍に襲われ孤立している横山城まで2㎞の距離にあるここ大依山に陣を置き、合戦直前の4日間(元亀元年(1570年)6月24日~6月27日)をこの山中で過ごしている。そのことが、『信長公記』に明確に記載されているのだ。

最初にこの山に陣取ったのが朝倉の8,000人である。そこに浅井の5,000人が加わり、合計13,000人もの大軍がこの山に4日間も帯陣していたことになる。

戦の記録を読んでいるとこういう場面にはよく出くわすが、実際に陣を置いた現地を訪れて当時の状況を体験してみるという経験は初めてのことである。当時の武将たちがどのようにして4日間もこの山中に潜んでいたのか、太田さんの解説を聞いて私は、好奇心でますます胸が躍る思いがした。

 いよいよ、登山である。私たちは、駐車場の隅にある神社の参道をしずしずと登り始めた。

 よく整備された坂道をしばらく登り続けると、祠のある平坦地に辿り着く。山の中腹の見晴らしのいい場所である。正面に見える山が、浅井氏の支城である横山城があった横山丘陵である。驚くほどにくっきりと見える。

 なるほど、浅井・朝倉軍は、どの山でもよかったのではなく、大依山が横山城をしっかりと見渡すことができる絶好の場所にあることをはっきりと認識していて、敢えてここに陣を置いたのだということがよくわかった。

 後で地図を見て驚いたのだが、合戦が行われた「野村」の地は、大依山と横山丘陵とを結んだ直線上のちょうど真ん中にある。

 この場所で、中井さんから今日最初の解説が行われた。今後、ポイントごとに中井さんや太田さんの解説をお聞きすることになる。途中で歩きながらつぶやかれるちょっとした言葉の端々(はしばし)でさえも私にとっては新鮮な知識ばかりで、生きた情報がシャワーのように降り注がれてくるこんな幸せで贅沢な体験はなかなかできないだろうと思った。早起きをしてはるばる新幹線で来てよかったと心から思った。

 ここでの中井さんの話を要約すると、おおよそ以下のような内容になる。

 そもそも姉川の合戦は、浅井氏と織田氏とが雌雄を決するために戦ったものではなく、長政にとっては、織田軍の攻撃を受けている横山城を助けるための戦いであった。横山城に籠っている味方の援軍として織田氏の軍を挟撃する。長政の軍はいわゆる「後詰」であった。

 長政自身、横山城を見捨てて小谷城に籠ったとしても、後詰(挟撃してくれる援軍)がない以上勝てる見込みはない。したがって、横山城を助けるために姉川に打って出た長政の行動は、軍事理論的に適っている。

 大依山は、目の前に横山城を眺望できる絶好のポジションにある。横山城に何か動きがあれば、即座に察知して出撃することが可能な場所であった。

 今、神社の祠のあるこの平坦地から横山城祉を望む眺望を得ることができるのは、南方斜面の木を伐っているからである。陣を置くに際して真っ先に行うことは、眺望を確保するために山の木を伐ることである。

 伐った木は、柵にしたり簡易な小屋などとして活用する。まさに一石二鳥である。

 一般に戦国期の山城は、山の上部2~3割くらいまではすべて木が伐採されていて、赤茶けた土の地肌が見えていたはずである。今見る横山丘陵は全山緑の木々に覆われているが、当時は山の上部に木は生えていなかった。実際に見えていたであろう景色は、今とはずいぶん異なっていたものと考えられる。

 以上が(私が理解し得た)中井さんの解説の概要である。

 整備された山道は祠のある平坦地までで途絶えている。この先には道がない。これからどうするのだろう?訝しく思っていたら、太田さんが木々の間を掻き分けるようにして山林の中に入って行くのが見えた。

 今まで湖北地方を中心として幾多の山道を歩いてきたが、程度の差こそあるものの、人の力によって整備された山道ばかりだった。ところが太田さんが分け入った林には道などない。手で目の前の枝を掻き分けながら、まるで木の間を泳ぐようにして道なき道を歩いていく……。

 大依山は後世の人たち開発の手が入っていないため、姉川の合戦当時の貴重な遺跡がほとんどそのままの状態で残っていると事前に聞かされてはいたが、開発の手が入っていないというのはなるほどこういう状態だったのかと、改めて実感した。

 やがて、平坦地に辿り着く。206.9mの一等三角点が認められる。ここでの解説は、以下のとおりである。

 この平坦地は、明らかに人工的に削って造られた平地である。おそらくは、古くから存在していた古墳(前方後円墳)の後円部の頂上部分を削ったものと思われる。今は木が生い茂っていて眺望が利かないが、木を伐採すれば、おそらく横山丘陵が真正面に望めるはずである。

 この辺りに浅井軍はベースキャンプを置いたのだろう。

 砦として考えてしまうとエッジが弱い(後述)との印象を免れないが、わずか4日間のためのものとしてはこれでも十分と思われる。

 さらに藪を手で掻き分けながら道を登り続けると、また別の平坦地が現れる。自然の地形ではこのような平地が連続的に存在することは考えにくい。ここには明らかに人の手が加えられていることが確認できる。

 こうして地図を片手に山中を歩いてみると、浅井氏の陣地は大依山の尾根伝いに点々と設けられていたことがわかる。

 再び中井さんの言である。

 このような平坦地には、それほど多くの兵士が潜めるわけではない。現に本日の参加者約30人が同時に集うと、それだけで息苦しくなるほどの密集度である。こういう過ごしやすい場所には、大将クラスの武将のみが帯陣した。

 では一般の兵士たちはどのようにしてこの山中に潜んでいたのだろうか?13,000人という人数は、現実的には想像を絶する人数である。僅かに造られた平坦なスペースに居ることを許されない無名の兵士たちは、山の尾根にへばりつくようにして4日間を過ごしたと言う。

 大依山全山が、浅井・朝倉の兵士たちで埋め尽くされていたと考えても過言ではない。人が入山することさえ極めて稀な今の大依山からは想像することもできないような不思議な光景である。

 結果的に、私たちは大依山の稜線伝いに縦走したことになる。その間に、いくつかの平坦地を目にしたが、そのいずれもが前方後円墳や円墳の頂上部を削って造ったものだということが中井さんや太田さんの解説によりわかった。

 浅井・朝倉連合軍が籠った大依山も、織田・徳川連合軍が依拠した横山丘陵や龍が鼻も、いずれも古墳を加工して陣としたものであると言う。もちろん、当時の人たちはそれが古墳であるということなどは知る由もない。適度に盛り上げられた盛り土の部分を削って、一時的な帯陣ができるように加工しただけである。

 それにしても、素人の私には、丸く盛り上がった土地が古墳であるのか自然の地形であるのかさえ、はっきり言ってよくわからない。一瞬にして、この地形が古墳であることを言い当てる中井さんや太田さんは、さすがプロの学者だと恐れ入った。

 前方後円墳のくびれ部分が明瞭に残されている古墳があった。大依山に遺された古墳のなかで最も大規模な古墳である。あるいは浅井連の祖の地方首長クラスの墳墓ではないかとも言われている立派な墓である。

 この古墳を目にした時の中井さんの反応がとても印象的だった。まるで山中で宝物を見つけた時の少年のように瞳を輝かせて、これは前方後円墳だ、ここまで見事にくびれ部分が遺されている前方後円墳はそうは見られない!とかなりの興奮度で話されていた。

 高名な歴史学者であるのに、ここまで純粋に感動を体現される中井さんに、私は素直に好感を持った。まるで子供のように無邪気な喜びようであった。

 大きな前方後円墳の次に、丸い墳丘がそのまま残されている円墳があった。この円墳の頂上部分が削られていないのは、この地点からは横山丘陵を望むことができないため、陣を置くには適していなかったからであるという。なるほど、そういうことだったのか。

 歴史学者は何もかもお見通しである。今日は私は、普段経験することができない本当にすてきな体験をさせていただいている。そしてこんなすばらしい機会を与えてくださった姉川の合戦再見委員会のみなさんに感謝の気持ちで一杯である。

 円墳の麓に落ちている石を見て、これは円墳の葺き石であると言われた時には驚いた。中世城郭研究の第一人者とのイメージが強かった中井さんだが、古墳についても相当に詳しい。

 角が取れて丸い石は、河原石である。首長の墳墓を造るために、わざわざ河原から人々が運び上げて葺いた石の名残りなのだそうである。私にはどこにでも落ちているただの石にしか見えないものが、歴史学者の目を通して見ると正確な史実として認識される。ただただもう、脱帽である。

 私にとっては本当に楽しい時間だった。

 あっという間に時間が過ぎ去ってしまい、気がつけばいつしか山を降りて、元の駐車場に戻っていた。山登りとしては、高い山に登ったわけではない。歩いた距離もそれほどの距離ではない。体力的には、道なき山中を歩いたという困難さを除いては、厳しくはなかった。

 しかし私の心は、様々な新しい知識を満喫することができて、こんな充実した時間はなかった。何事にもあらまほしきは先達なり、であるということを痛感した。中井さんと太田さんという、当世第一の歴史学者のガイドを得て、知的好奇心を満喫する至高の時間を過ごすことができた。

 最後にまとめとして、次のような話をお伺いすることができた。

 締めくくりも、『信長公記』である。

 『信長公記』のなかで、著者である太田牛一は「陣」と「取出(=砦)」とを厳密に書き分けている。

 「陣」は、いわゆる一時的なベースキャンプであり、前線基地である。恒久的な施設ではないから、土塁、空掘り、堀切などの防御設備は普通は造られない。

 一方の「砦」は、恒久施設なのでこれらの設備が作られている。砦において最も重要な防御策は、「切岸」(きりぎし)と呼ばれるもので、山の斜面を切って下から這い登られないようにすることだ。

 『信長公記』における姉川の合戦のくだりでは、たしかに「其日はやたかの下に野陣(・・)を懸けさせられ」、「信長公はたつがはなに御陣(・・)取(・)」、「家康公も御出陣候て、同竜が鼻に御陣(・・)取(・)」、「朝倉孫三郎(中略)彼(かの)山に陣取る(・・・)なり」……と書かれているので、織田・徳川方も浅井・朝倉方も、「砦」ではなく「陣」に滞在していたことがわかる。

 そういう目で今日歩いた大依山を見てくると、土塁や空掘りなどは認めることができなかった。頂上の平坦部で中井さんと太田さんがさかんに「エッジが弱い」とおっしゃられていたのは、「切岸」がなされていないということを指摘されていたのだと思い当り、納得した。

 わずか4日間の帯陣であったから、砦に見られるような恒久的な軍事設備を造る必要性がなかったということであろう。

 『信長公記』をこのように厳密な目で読んだことはなかった。文献の正確な理解の下に、現地に行って実際に記述を確かめてみる。中井さんや太田さんの学問をほんの入口の部分だけであるが垣間見たような気がした。

 こういう丹念な仕事を積み重ねて来られた結果が、今のお二人の顕著な研究成果として世に著されているということなのだと理解した。

 そういう意味では、今日のこの会のタイトルも、「大依山砦(・)跡の現地解説会」ではなくて、「大依山陣(・)跡の現地解説会」というのが正確な表現なのだろう。

 大依山の上空の空は、抜けるように青かった。山は、深い色の針葉樹に浅い緑の新緑が混ざり合って、不思議なまだら模様を織りなしていた。ほんの2時間程度の短い時間であったのに、私の心は充実感で満たされていた。

 こういうすばらしい機会を与えてくださった姉川の合戦再見実行委員会のみなさんと、深い造詣の一端を示していただいた中井さん、太田さんに心から感謝をする次第である。次の催しにも、是非とも参加したいという思いを強くして、私は大依山を後にした。

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13. 関ヶ原(天下の行く方を決した古戦場の跡)

13. 関ヶ原(天下の行く方を決した古戦場の跡)

 ここでまたもや湖北地方から脱線することをお許しいただきたい。

 観音寺城址や安土城祉は湖北地方ではないもののまだ近江の国の所在であったが、今回は隣の美濃の国である。脱線するのにも程があるというものだが、距離的には米原からほんの十数キロしか離れていない。石田三成の生涯を想う時、関ヶ原の戦いを抜きにしてはどうしても語ることができなかったのである。

 一介の百姓からスタートし、持ち前の人懐っこさと旺盛なアイデアとを以て一代にして天下人の地位を築いた豊臣秀吉が伏見城で亡くなった。慶長3年(1598年)8月のことであった。秀吉には、まだ幼い秀頼が遺されているだけである。

 秀吉は、確固たる政権の基盤を確立することができないままに、世を去ってしまった。一代で築き上げたその道程があまりにも急すぎたため、また不幸にして跡取りに恵まれなかったこともあり、秀吉という求心力を失った豊臣政権は、濁流に浮き惑う小舟のような体を様してしまっていた。

 秀吉亡き後の天下はどうなるのか?

 日本全土が固唾を飲んで時代の行方に注目した。間もなく日本は2つの大きな勢力に色分けされていくことになる。徳川家康を総大将に抱く東軍と、石田三成が率いる西軍とである。

 家康は、秀吉亡き後の最大勢力であることを存分に活用して、徳川を中心とする新たな世界を構築することを画策した。三成らによる官僚主導の政治を快く思わない武闘派の大名たちを巧みに自陣営に取り込み、強力な連合軍を組成していた。

 家康が目指した世界とは、徳川氏を中心とした諸大名との連合による緩やかな中央集権国家であった。諸大名に所領の保有を認める代わりに、徳川氏を彼らの頭領(とうりょう)として認めさせること。この微妙な力関係の最上部に徳川氏を据えることにより、家康は徳川の世界を築こうとしていた。

 前章で述べたごとく、三成は村の侍と武器とを農村から追放して武士と農民とを分離し、豊臣政権による強力な中央集権の国家を建設することを目指していた。戦国時代から脱却して、新しい武士の国家を築き上げる。数のうえでは家康に分があったけれど、三成は理想を現実のものとするために、敢えて不利とわかっていた戦いに挑んだのだった。

 両陣営は、大勢を見極めようと様子見している大名に檄文を飛ばして味方に引き込む運動を繰り返すとともに、相手陣営を挑発したり牽制したりする行動を陰に陽に行うなどして、水面下でさかんに駆け引きを行った。

 関ヶ原の戦いの直接の呼び水となったのは、会津の上杉景勝だった。

秀吉の没後、所領の会津に戻った景勝は、居城の改修を行うなどして不穏な動きを見せていた。これを危険視した家康が上洛を命じるが、景勝はこれに従わない。家康にとっては、上杉を討伐する格好の大義名分を得たことになる。

慶長5年(1600年)6月16日、家康は自ら大軍を率いて会津に向かった。名目は上杉景勝を討伐するためであったが、同時に家康は、石田三成がその間に挙兵するであろうことを予想し、そのための時間と場所を敢えて与えたのであった。

家康の見通しは的中した。家康の出陣を知ると、三成は諸将を味方に引き入れるための活動を激化させた。

家康軍に参加して東下しようとした大谷吉継に家康打倒の本心を告げ、味方に引き入れている。三成から話を打ち明けられた吉継は、最初非常に驚き、そして悩んだ。勝ち目のない戦いに加担することは、そのまま、死を意味する。しかし吉継は、三成との友情を選択した。

吉継は、関ヶ原の戦いにおいて最も勇敢に戦い、家康軍を大いに悩ませる働きをした後、壮烈な戦死を遂げている。友情のために死を選ぶ。こんな男気のある武将が我が国に存在したことを、私は誇りに思っている。

大坂の宇喜多秀家も、動いた。生前の秀吉から厚い寵愛を受けていた貴公子は、その恩顧に報いるために立ちあがった。

そして三成らは、中国地方の雄である毛利輝元を総大将に仰ぐことを決め、輝元に上京を促した。この呼びかけに応じて輝元が大坂城に入ったのが、7月17日であった。実質的な西軍の中心は三成であったものの、家康と対等に渡り合って戦うためには、それなりの「頭」が必要であり、輝元はその「頭」に相応しい存在だったのである。

ここに、西軍の陣容がほぼ出揃った。

西軍は、毛利輝元を総大将として、石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家の他、佐竹義宣、島津義久、小早川秀秋、小西行長、増田長盛、長宗我部盛親などが名を連ねた。これに、会津の上杉景勝が加わり、家康の東軍を挟み撃ちにする戦略であった。

挙兵した三成軍は手始めとして、会津征伐のために留守となっている東軍の武将の妻子を人質に取る作戦に出た。細川忠興夫人の細川ガラシャがこれを拒否し殉教の道を選んだ悲話は、後世に語り継がれている。

続いて、鳥居元忠が守る伏見城に猛攻を仕掛け、これを落としている(8月1日)。守る元忠も、元忠に伏見城の守備を託した家康も、この日が来ることを予測していた。わかっていながら依頼した家康もつらかっただろうし、これを受けた元忠も、大谷吉継に勝るとも劣らない男気の持ち主であった。

戦(いくさ)という不毛の愚行は、こうして慈しむべきもののふの心を持った武将たちを、無碍にこの世から消し去ってしまった。返す返すも口惜しいことであったと思う。

 これら三成挙兵の情報が会津征伐のため江戸城に滞在していた家康の許に届けられたのは、7月19日のことだった。家康は遠い江戸の地でこの情報に接し、してやったりとほくそ笑んだに違いない。

 しかし家康は喜び勇んで即座に引き返すことをしない。

 家康の武将としての大きさは、東軍の大将たちの心をさらに確実に掴み取るために、もう一芝居を打てるところにあったと私は思っている。家康は何事もなかったかのように江戸を出発して軍を進め、7月24日に下野国の小山(おやま)に達する。ここで有名な小山評定が行われることになった。

 小山評定とは、会津討伐のために従軍した諸大将を一堂に集めて、三成が挙兵し伏見城が血祭りに挙げられようとしていることを知らしめ、各自の態度を問うたものである。豊臣恩顧の大名たちがどのような反応を示すかが、家康にとっては三成との戦いを勝利するための最大の関心事であった。

 彼らの忠誠心を引き出すことができれば、東軍は一段と結束力を強め、一致団結して西軍に当たることができる。しかしここで彼らに動揺が見られるようなことになれば、東軍の結束力は弱まり自ら瓦解していく。

 家康は、勝利を確実なものとするために、一つの大きな賭けをしたのだった。

 結果は、家康の思い描いた通りになった。武闘派の筆頭格である福島正則が家康への忠誠の意を示すと、他の諸将も正則に倣って相次いで忠誠の意を表明した。ほぼ全員の団結を確認できた家康は、会津の上杉征伐を中止して三成を討伐するために7月26日に陣を払った。

 ここに、関ヶ原の戦いへの道筋が、完全に定まったのである。

 天下分け目の関ヶ原、と言われている。

 白黒決着をつける大事な決戦のことを喩える場合に、必ずと言っていいほど使われる言葉だ。日本史上における最も有名な戦いと言ってもいい。

 今でも関ヶ原は交通の要所であり、難所である。

東国方面から都を目指す旅人は、関ヶ原を通り近江の国を経由して都に辿り着く。重要な土地であるから、関所が置かれた。不破の関である。

 現在の東海道新幹線も、関ヶ原をルートとしている。冬場になるとこの地域に近付くと急に空が暗くなり、一面の雪景色になる。新幹線には極めて不都合な気候であるにも拘わらず、この地域を避けてルーティングをすることができなかった。それだけ、極めて重要な場所であることの証拠と言えるだろう。

 その関ヶ原に東軍と西軍が対峙し刃を交えたのは、慶長5年(1600年)9月15日のことだった。

 関ヶ原の西側の丘陵地に陣を取り、鶴翼の陣で臨んだのは、石田三成であった。鶴翼の陣とは、鶴が翼を拡げたような形でV字型に陣形を整え、突撃してくる敵を翼に譬えられる左右の兵で挟み込む陣形である。

 最も奥まった場所に位置する笹尾山に陣取った三成は、関ヶ原の全体を見渡せる絶好のポジションから全軍を指揮した。

 対する家康軍は関ヶ原の平原の中心部に陣を取り、魚鱗の陣を以て三成軍に対抗した。魚鱗の陣とは、△の形に整えた陣形で、鋭く敵の急所を突き、後から後から精鋭の兵士を繰り出していく戦法である。

 丘陵地に着陣し、上から全体を見渡せる場所で大きく翼を拡げる陣形をとっていた三成軍に対して、平地に位置し、三成軍の翼に囲まれ懐のなかに入り込む形の家康軍の主力隊は、明らかに不利に見える。

 事実、明治になってから両軍の陣形を見たドイツ軍のある少佐は、勝利したのは三成軍だっただろうと言ったという話は有名だ。そういう意味では、三成にも十分に勝機はあったのである。

決戦の朝は、静かに明けていった。

周囲を支配するものは、ただ静寂のみ。時折どこかで聞こえる馬の嘶きが、普通の朝でないことを気づかせてくれるが、それ以外には何もない、恐ろしいほど無気味な静かさのなかで、一日が始まろうとしていた。

静かに明けゆく朝であったが、誰もが、これから始まる一日の重さを、心の底にずっしりと感じていた。

たしかに目前に敵が位置しているのだろうが、深い霧と静寂とが自分たちの視界を遮断させていた。

逸る気持ちと僅かに覗かせる恐怖心とで、将兵たちは得も言われぬ時間を過ごしたことであろう。

かれこれもう2時間も彼らは待っている。霧の中で見えない敵と対峙して、ただひたすらに戦いのきっかけを待っていたのであった。

西方の総大将である治部少輔石田三成は、先程からじっと瞑目して、霧の中の見えない敵の姿を、心の目で捉えようとしていた。目の前に、鶴が大きく翼を拡げたように布陣した我が軍を目指して、▽の形をなした家康軍が果敢に突撃してくる。そして翼のなかにすっぽりと包含されていった。やがて彼らが消えていく様が手に取るように見えてきた。

逃げ惑う家康軍。追う三成軍。谷のそこここで勝利を宣する鬨の声が挙がっている。三成は勝利を確信した。そしてゆっくりと、静かに、目を開けた。

相変わらず目の前には深い霧がたちこめ、いつ晴れるとも見当がつかなかった。しかし間違いなくその時は、目前に迫っていた。

狭溢(きょういつ)な関ヶ原の野原からやがて霧が薄れかけ、朧気(おぼろげ)ながらも次第に前方が見え始めてきた午前8時、にわかに戦端が開かれた。

逸る気持ちを抑え切れずに開戦のきっかけを作ったのは、井伊直政だった。

直政は、物見と称して先鋒を務めることになっていた福島正則隊の脇をするするとすり抜けていった。そしてそのままに、正面に対峙していた宇喜多秀家隊目掛けて突撃していった。

約束が違うではないか!先陣の名誉に浴するはずだった福島正則は烈火のごとく激怒して、直政に遅れじとばかりに宇喜多勢に殺到していった。

ここに、世に名高い関ヶ原の戦いの戦陣が切って落とされたのであった。

まだ霧は十分には晴れやらない。幻想的な谷あいの光景の中で、天下の帰趨を決する戦いが、始まったのである。

 序盤は、三成が思い描いたに近い戦いとなった。

 井伊、福島隊に続けと、徳川方の諸将が怒涛の勢いで各々の正面に対峙する西軍の部隊へとなだれ込んで行く。三成方の諸将が憤怒の形相でこれを迎え撃つ。両軍相混じり、入り乱れての乱戦が繰り展げられた。

 むしろ攻勢だったのは、地形的に有利なポジションを得ていた三成軍の方だった。あれだけ辺りを覆っていた深い霧はいつの間にかどこかへと消え去り、笹尾山の三成の陣地からは、敵を押し返しつつじりじりと前進を続ける味方の兵士たちの姿がくっきりと見届けられた。

 今だ!三成は不敵な笑みを浮かべながら、叫んだ。

 次第に相手を圧倒しつつあるこのタイミングで、翼の右翼にあたる松尾山の小早川秀秋の1万5千の兵が一気に山を駆け降りて徳川方の兵士たちを包み込めば、まさに開戦前に深い霧の中で瞑目した絵姿どおりとなる。

 さしもの家康といえども、なす術はあるまい。

 魚鱗の陣の背後、桃配山に陣取る家康は、じりじりする思いで戦況を見つめていた。次第に霧が晴れゆくにしたがって、家康軍の不利な状況が明らかになりつつある。

このままでは危ない。家康の背筋にぞっとする冷たいものが走った。えも言われぬ恐怖心が顔を出そうとするのを必死の思いで振り払った。

小早川秀秋殿は、いったい何をしていなさるのか?

家康の胸中には、確固たる勝算があった。それは、これまでの調略により、家康軍への寝返りを約束していた西軍の武将たちの存在である。そろそろ、我らのために動き出してくれてもよいものを。

間違いのない約束だとは思っているものの、ここは何が起こったとしても不思議ということのない戦場である。このまま彼らが動かなかったら……。

家康は、頭をもたげようとする不安を打ち消すのに懸命だった。そうこうしているうちにも、我が軍は押され続けている。こうなったら、一かばちかの策に打って出るしかあるまい。

家康は配下の者に命じて、松尾山に陣する小早川秀秋に向かって威嚇のための砲撃を敢行せしめた。秀秋殿がこれを家康からの攻撃と受取って我が軍に攻撃を仕掛けてきたら、家康軍は総崩れとなること必定である。

家康は今や、秀秋と心中するほどの覚悟を決めていた。

 あとひと踏ん張りじゃ。笹尾山の石田三成は、思い描いた通りの戦況に満足気な表情を湛えていた。これで松尾山の小早川秀秋殿が山を駆け降りてきてくだされば、我が軍の勝利は確定的になる。それにしても秀秋殿は、何をしていなさるのであろうか?

 一抹の不安がなかったわけではない。秀秋が寝返るのではないかとの噂が囁かれたことを三成も知っていた。しかし三成は、好転している戦線の状況に気をよくしていて、不穏な状況を見過ごしてしまっていた。そこへ、家康のいる桃配山から大きな砲声が轟いた。

 そして、関ヶ原の戦いの戦局は、家康の陣から放たれた一発の砲声を境として、大転換を遂げたのであった。

 三成が心待ちにしていた小早川秀秋が、ついに動いた。

 しかし秀秋が松尾山から駆け降りた先は、徳川軍ではなく、三成の盟友である大谷吉継の軍であった。

 小早川秀秋が寝返ったことは、大きな衝撃の電波となって瞬く間に関ヶ原の原野を駆け抜けて行った。それまで劣勢に立たされていた徳川勢は、俄然息を吹き返した。あと一息で均衡を打破できるところまで攻め立てていた三成軍は、浮足立った。

 大谷吉継は、それでもよく戦った。吉継は精鋭部隊を秀秋に差し向けて、裏切り者を撃退しようとした。その奮闘ぶりは、関ヶ原の戦いにおける最も勇猛な戦いの一つであった。

 ところが、小早川秀秋が立ち往生しているところへ、追い打ちをかけるように脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らまでが寝返って吉継軍への攻撃を始めたのだった。

 巨大な鶴の翼のうちの右翼が突然にして千切られてしまったようなものだった。片翼を失った鶴は、大空を飛ぶこと能わず、ついに制御不能となり、失速して墜落していった。

小早川秀秋は、日本史上で最も有名な裏切り者として、歴史に名を留めることになってしまった。

前にも書いたとおり、人を裏切った人間の末路は、かなしい。自分では最良の選択をしたつもりでいても、他人の見る目はまた別物だからだ。裏切り者との烙印を押されて、敬遠される。一度他人を裏切ったことのある人間は、また同じように人を裏切るかもしれない。裏切られる相手が今度は自分だと思ったら、誰もその人を信頼し、その人に命を預けることなどしなくなる。

秀秋は関ヶ原の後、岡山に封ぜられたが僅か2年にして死ぬ。そのままお家は断絶となり、藩士は浪人となって路頭に迷ったと伝えられている。関ヶ原の戦いにおける勝利の最大の功労者である秀秋に対して家康が取ったこの仕打ちに、秀秋への評価が直接的に観て取れる。

秀秋の裏切りのインパクトがあまりにも強すぎたため、浪人となった家臣たちに対しても、誰も彼らを雇おうとする者はいなかったらしい。主君の決断が後々まで家臣を苦しめた典型的な事例である。

話が外れた。あの戦いから400有余年の歳月が流れた今、私はその関ヶ原の地に立っている。あれだけ名高い決戦があった場所であるにもかかわらず、実は私は、初めてこの地を訪れたのであった。

私は今、堪らなくこみ上げてくる興奮を、ぐっと心のなかで抑えながら、じっとこの大地に立っている。このけっして広くはない山あいの平地に、当時の日本を代表する武将たちのほとんどが集結して、日本の行方を決しようとした。知力と武力とを駆使しての総力戦が、この場所で行われた。当時のエネルギーのすべてが、ピンポイントでここに集められたのである。凄まじいエネルギーの磁場が生じていたことを思うと、私は興奮を禁じ得ない。

 石田三成が陣を置いた笹尾山に登ってみた。

笹尾山は、関ヶ原の北西に位置する丘陵のような小山であるが、関ヶ原にいればどこからでもすぐにそれと知れる、絶好の位置にある。付近には、「大一大吉大万」と書かれた旗指物がきらめき、二重の矢来や馬防柵が復元されて臨場感を煽っている。

笹尾山・三成陣地 笹尾山 三成陣地

山上には物見台が設置され、「史蹟關ヶ原古戰場 石田三成陣地」、「笹尾山 石田三成陣所古趾」と彫られた古めかしい石碑が建てられている。観光客が後からあとからひっきりなしに登ってくる。関ヶ原の古戦場史跡の中でも三成が陣地としたここ笹尾山は、一番の人気スポットになっている。

笹尾山・三成陣地跡の石碑 笹尾山 三成陣地の石碑

物見台からの眺望は、実にすばらしかった。文字どおりに関ヶ原を一望の下に望むことができる。

笹尾山から関ヶ原中央部を望む 笹尾山から関ヶ原中央部を臨む

向かって右側には、ほぼ一列に西軍の諸将が陣を並べていたのだろう。手前の低い丘辺(あた)りには島津義弘と小西行長らが、その向こう側の小高い丸い山の手前側に宇喜多秀家、山の上には大谷吉継が陣を構えていたものと思われる。以上が鶴の左翼の陣形である。

そして遠く離れたなだらかな山容を見せる松尾山には、右翼の要である小早川秀秋が陣を据えていた。

笹尾山から松尾山方面を望む 笹尾山から松尾山方面を臨む

朝霧が次第に晴れていくに従い、味方の旗印が整然とはためくなかで、西軍の水をも漏らさぬ完璧な陣構えが三成には手に取るように見て取れたに違いない。

一方目を関ヶ原の中央に転じてみると、西軍の左翼に東軍の諸将が挑みかかっている様子を見ることができた。

手前の三成に近い方から、黒田長政、細川忠興、田中吉政らの諸隊が続き、さらにその先には藤堂高虎、福島正則らが宇喜多秀家と交戦している様が窺えた。

家康は、当初はかなり遠方の桃配山に陣を置き、家康らしい慎重な態度で戦いの趨勢を見極めようとしていた。

笹尾山の三成の陣からは、これら関ヶ原で行われている戦闘のすべてが、手に取るように見渡せたにちがいない。三成が指揮を執ったその場所に実際に自分の身を置いてみると、そのことがよくわかる。

笹尾山のすぐ左前のところ、一面の田園の中にほんの数本だが緑の木々が生えた一角が見える。一本の白い旗指物が風に吹かれて揺れている。「決戦地」と呼ばれているこの場所こそが、関ヶ原の戦いにおける最大の激戦が繰り展げられた場所だという。三成の陣地まで、あとほんの僅かという位置である。

さらにそのもう少し先、木がこんもりと茂っている辺りが、「史蹟關ヶ原古戰場 徳川家康最後陣地」である。遠く桃配山にいた家康が戦いの進展とともに前進し、最後に陣を置いた場所と言われている。家康はこの場所で、戦勝の首実験を行った。

最終的には、三成と家康の距離が思っていた以上に近かったことがよくわかる。こんな目と鼻の先で両者が最後の鎬を削っていたということに、私は驚きを隠せなかった。

こんなはずではなかった。

ひとりごちた三成の目は虚ろだった。焦点の定まらない視線を前方に投げかけたまま、まばたきひとつしなかった。

三成には今の状態が正しく理解できなかった。正確に言うと、今の状態を受け入れることを、脳と体が拒絶していたということかもしれない。

まだ下界のそこここで戦闘が繰り展げられており、人々の叫び声や鉄砲のはじける音や馬の嘶きなどが聞こえてきたが、三成の耳には入らない。

音も視野もない不思議な三次元の空間のなかを、三成の意識は浮遊しながらさ迷っていた。

新しい国が、白い靄の向こう側に朧気に見えた。

これだ!

三成の目に一瞬だけ、新しい国家の像がくっきりと見えたような気がした。しかしその像は、どんどんと手の届かない向こう側へと遠のいていって、再び白い靄の支配する世界となった。

次の瞬間に、白い靄の世界が暗転して、今度は闇が支配する世界になった。真っ暗で何も見ることができない。三成は手を伸ばして何かを掴もうともがいた。

どこかから、声が聞こえてくる。誰かが何かを叫んでいる。やがてその声は、定まらなかった焦点が結ばれるように、一つの言葉となって三成の鼓膜を捉えた。

殿。敵が間近まで迫っております。もはや猶予の時はございません。お腹を召されるなら、今が潮時かと。我々が命に代えても時を稼ぎますので、早くお支度を。

三成は振り返らずに、じっと前方にある関ヶ原の方向を見詰めたまま、言った。

わしは、敗れたのだな。この期に及んでは致し方あるまい。最早これまでと覚悟を決めた。しかし、わしは腹は切らぬ。一軍の大将たる者は、そうそう簡単に腹を切ってはならぬものじゃ。わしは逃げる。可能性がゼロになるまでは生きて、再起を図ることこそが、真のもののふと言うものぞ。

たった6時間の戦いだった。天下の行方がこんなにも呆気なく決まってしまうものとは思ってもいなかった。

完膚無きまでに叩きのめされたにも拘わらず、しかし三成の気力は不思議と衰えてはいなかった。滝壺に落ちた水の流れは、しばらくは水中深くに沈み込むが、いつまでも水底に留まっているのではなくて、やがては上に向かう流れとなる。

三成は捲土重来を期した。そのためには、今、この関ヶ原の地で命を捨てることなどとてもできない。

三成は、全軍に退却の命令を出すと、自らも山を降りた。どこへ行くという当てはなかった。ただ、気がついてみたら、足が伊吹山の方向に向かっていた。この山を越えた向こう側まで行くことができれば、そこは三成の生まれ故郷である。三成は、必死の思いで、伊吹山の山中を奥深くへと分け入っていったのであった。

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14.古橋(敗者・石田三成の最期を追う)

14.古橋(敗者・石田三成の最期を追う)

ずいぶんと多くの紙面を割いて石田三成の生涯を追ってきてしまった。こんなに長くなるとは私自身も思っていなかった。調べて行くうちに、あるいは三成の足跡を追って旧跡を訪ねていくうちに、いつしか三成の魅力に惹き込まれていったというのが正直な私の心情である。最後に三成の最期について触れて、総括としたい。

 関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の麓を経由して、最後は単身で母方の故郷である木之本の古橋に向かった。樵(きこり)の姿に身をやつし、木の実などを食べながらの悲惨な逃亡だったという。茶畑で動けなくなっているところを地元の住人に助けられたりしながらの苦行であった。

 そこまでして三成が「生」に拘ったのはなぜだったのだろうか?

 武運なく、志空しくして戦いに敗れた侍大将は、潔く自らの命を絶つのが当時の慣行ではなかったのか。敗戦後の戦国武将として三成が取った行動は、極めて稀な行動であったと言わざるを得ない。

 前著『井伊直弼と黒船物語』でその生涯を見てきた井伊直弼の最期の潔さと比べたら、まさに正反対の行動である。同じ湖北の地に輩出し、共に湖北の地を代表する人物でありながら、その対照性が非常に顕著であることが興味深い。

歴史に仮という言葉はあり得ないけれど、もしも井伊直弼が石田三成の立場であったならどうしていただろうか?直弼は間違いなく、関ヶ原の地において自決していたであろうと私は思う。

目を覆わんばかりの往生際の悪さである。

でも私は、三成の気持ちがわからないでもない。

彼の発想は、私たちのような現代の人間の発想と同じなのではないかと思う。命をけっして粗末にしない。潔さが正義なのではなく、命を軽く扱うことが美徳でもない。たとえ僅かであっても可能性があるのであれば、無駄に命を捨てることなく、最後の最後まで望みを諦めない。

 生き恥を去らすことはみっともないことではあるけれど、大望のためであれば敢えて甘受する強い精神力。自らの名誉のためであったら、三成は関ヶ原において自決していただろうと私は思う。

 自分の命への執着ではなくて、世の中を変えていきたい、変えなければならないという強い使命感。敢えて三成が選択した道は、むしろ茨の道であった。

散り残る紅葉は ことにいとおしき

 秋の名残は こればかりぞと

 あらためて、三成が詠んだ「残紅葉」の歌を思い出した。

先に私はこの歌を、三成の生への執念と書いた。三成生誕の地で見た時にはそう思えたこの凄まじい歌だが、三成の最期に及んで再びこの歌について考えてみると、また違った意味合いに見えてくるような気がする。

最後の一枚となって散り残っている真っ赤な紅葉の葉は、三成の命そのものではない。秋の陽光を浴びて輝く赤い紅葉の葉は、豊臣時代に三成が築こうとした新しい世の中への希望の光だったのではないだろうか?

理想の社会を創ることを目指して日々戦いだった三成の人生。やがて最後の一枚の葉が、静かに音もなく散っていく……。

 三成は、徳川方の武将である田中吉政の手の者によって捕らわれた。吉政は、三成と同じ湖北地方(浅井郡宮部村・三川村)の出身者で、三成とは旧知の間柄であった。土地勘もあり、三成の行動を正確に予測しえた唯一の人物であったに違いない。

捕縛時の正確な状況は、諸説があってわからない。

古橋は、母方の故郷である。若き日に三成自身が法華寺三珠院にて修行を行っていた土地であったかもしれない。三成を守り匿おうとした人々が多数いた一方で、吉政に情報を密告した人間がいたということであろう。

 三成が隠れ潜んでいたと言われている洞窟がある。

 「大蛇(おとち)の洞穴」と呼ばれている洞窟が、それだ。己高庵から急峻な山道を1時間も歩かないと辿り着くことができないのだそうだ。冬場は深い雪に埋もれていて、近づくことさえままならないという深い山あいのなかにある。

 途中の道が険しくて、また自力での洞窟内への出入は困難だとも聞かされて、私は洞窟を訪ねることを躊躇せざるを得なかった。内部には夥しい数の蝙蝠(こうもり)が棲息しているとも言われている。

 どうしたものかと思案していたところに、地元の人たちが案内をしてくれるというツアーが企画されていることを知った。長浜市・彦根市・東近江市の旅行業協会の若手会員と行政とがタイアップして立ち上げた「近江屋ツアーセンター」のツアーである。

私にとっては、渡りに船だった。

雪が融けるのを待って、私は大蛇の洞穴を巡るツアーに参加した。独力で訪れることが極めて難しい歴史的な旧跡を、確かな知識と経験を持つ地元の有識者に案内してもらえる企画は、実にありがたい。

いくら昨今の石田三成ブームとは言え、こんな辺境の地を自分の足で訪ねゆくツアーなんて、よほどの暇人かオタクでない限りは参加しないのではないかと思っていたのだが、意外と多くの参加者がいることにまずは驚いた。

前日まで降り続いた雨で、催行が直前まで決まらなかった。連日の雪や雨により洞窟までの山道がぬかるみと化していると言うのだ。それでも私は行きたかった。このチャンスを逃したら次はいつ行けるかわからないので、たとえ泥まみれになろうとも、私はどうしてもこの機会に大蛇の洞穴に行きたかった。

私の祈りが通じたのか前日までの雨が上がって、青空が顔を覗かせる天気となった。米原駅で集合した私たちは、バスでまっすぐに木之本町古橋に向かった。古橋は、三成の母方の故郷であることは、先に書いた。

己(こ)高庵(こうあん)でバスを降りた私たち一行は、現地ガイドを務めてくれるボランティアの方と一緒に、大蛇の洞穴に向かった。

ここ古橋は、「近江のまほろば」と呼ばれているのだそうだ。

案内板によると、「まほろば」とはすぐれたよい場所を示す「マホラ」という言葉から来ていて、山や丘に囲まれた中央部のすぐれた良い所の意だそうだ。マホラな場所がマホラ場であり、転化して「まほろば」となった。

そう言われてみるとたしかに、己高庵がある場所は三方を山に囲まれ南側に開けた平地の中央にあり、しっとりと心が落ち着く風景である。古くから大陸文化が伝来した場所のようだ。石器時代の遺跡が出土し、6世紀末から7世紀前半にかけて鉄を生産した痕跡を残す遺跡が確認されている。奈良時代には多くの寺院が建立され、平安期にかけて全盛期を迎えた鶏足寺、飯福寺、法華寺など仏教文化の中心地でもあった。

これらの寺々のことは、いずれこの作品の中で書くことになるであろうから、ここでの紹介はこのくらいにして、歩を先に進めることにしたい。

大蛇の洞穴までの道程の前半は、緩やかな登り坂が続く林道である。

洞窟への登り道  洞窟への登り道

険しい道を行くと聞いていたのでやや拍子抜けの感じだったが、美しい規則性をもって左右に立ち並ぶ杉の木立を見上げ、時折山肌から流れ落ちてくる清水の清らかな流れに見入り、右手に流れる谷川のせせらぎの音に耳を傾ける。

清らかな水の流れ 清らかな水の流れ

三成が隠れていた洞窟を訪ねるという目的を抜きにして単に風景を楽しむための山歩きとして考えても、心が休まる楽しい散策のひとときとなること間違いない。

常に水の存在を五感に感じながら歩いて行く風景は、なぜか心がしっとりと落ち着く。白い水飛沫(みずしぶき)を盛んに上げながら流れていく谷川の水を見ていると、心までもが洗われるように爽やかな気持ちに包まれてくる。

道端にはショウジョウバカマがピンク色の可憐な花を付けそこここに咲いている。羊歯(しだ)の緑が水に濡れて瑞々(みずみず)しく輝いて見える。こんな気持ちのいい散歩道を歩いていることが、私にはたまらなく爽快に思えた。

ショウジョウバカマ ショウジョウバカマ

30分近く歩いただろうか?私たちは道の左手に設置された1枚の案内板の前で立ち止まった。「大蛇(おとち)(おろち~オトチ)の岩窟と石灰工場跡」と書かれた案内板である。せっかくなので全文を引用することにする。

  関ヶ原の合戦に敗れた西軍の将石田三成は少年時代の師を訪ねて法華寺三珠院へ逃れ

来て、旧知の友人余次郎によって一時匿われたと伝えられるオトチの岩窟である。(現在

一部の岩が崩れ土砂が入り込んでいるが、かつては二五㎡前後の岩窟であった)標高約

四百米の岩窟まで約二㎞あるが、その手前は石灰岩地帯であり、江戸時代末期から明治

中期まで石灰岩を焼いた高さ三~四㍍の焼き窯三基が残っている。またすぐ近くには近

年まで風穴があって地下遠く水の流れる音と共に冷風が吹き上げていたが、現在は危険

防止のため入口を砕石、土砂なので閉鎖している。

 いよいよここからが本格的な山登りの始まりである。

 いきなり急角度となった狭い山道に面食らう。右下に谷川の流れを見下ろしながら、必死の思いで私たちは坂道を登って行った。幸いにして道はぬかるんではおらず、昨日までの雨の影響はほとんど感じられない。

 三成が洞窟に隠れていた間、村の人たちはこの道を通って三成に食料を送り届けたという。一往復するだけでも苦しい山道を、わざわざ三成のために何度も往復したのだろう。三成に対する村人たちの尊敬と愛情が痛いほど胸に伝わってくる。

 途中、地面に30㎝程度の地面が削り取られたような穴があった。ガイドさんの話によると、イノシシの足跡だそうだ。私たちはけもの道のようなところを歩いているということなのだと納得した。

 しばらく進むと、明らかに人工の工作物である石垣が積まれた広場に出た。ここが、先程の案内板にあった石灰岩の加工場跡なのあろう。野面積みの石垣は苔むして、崩れかけているものも多い。長い年月の間に訪れる人も稀となり、次第に風化し滅びていく過程の光景を見る思いがした。

この辺り一帯の岩は石灰岩でできているため、全体的に白っぽい灰色の石が目立つ。石灰岩は水に溶けやすいから、長い年月をかけて少しずつ岩が融けて空間が拡がっていく。大蛇の洞穴と呼ばれる洞窟も、きっとそのような成り立ちでできた地中の空間なのではないか。

石灰岩の加工場を過ぎると、道は再び急角度の登り坂となる。

洞窟への登り道2 洞窟への登り道 

途中、どこから湧き出たものか水でぬかるみ、大いに登るのに難儀した箇所が一ヶ所だけあった。しかし三成もこの道を通ったのであろうと思うと、いとおしさのみが先に立ち、一刻も早く洞窟を見たい一心から、私は構わずに道を急いだ。

この山の一部は、今日私たちを大蛇の洞穴まで案内してくれているボランティアガイドさんの所有地だと聞いて驚いた。山頂と二つの谷とで囲まれた三角形の面積を一人の持ち分として、複数の所有者で山を共有しているのだそうだ。

子供のころから慣れ親しんできた山をとても慈しみ、まるで我が子を見るような眼差しで木々を見ている姿がとても印象的だった。私にとってはただ険しいだけの、単なる通り道でしかないこの山道が、彼にとっては木の一本一本までを識別している自分の庭の一部なのだということを強く感じた。

先程まで右手を流れていた谷川は、いつしか姿を消してしまった。ガイドさんの言によると、おそらくは私たちが立っている地面の下は大きな空洞となっていて、山に降った雨はすぐに沁み込んでその空間に集められ、それが山の中腹から谷川となって流れ出ずるのだろうということだった。

滑ったり転びかけたりしながら登って来た山も、次第に上の方が見通せるようになってきた。ふと木々の合間から遠くを眺めると、琵琶湖の湖水が平らな湖面を覗かせているのが見えた。随分と高いところまで登って来てしまった。

私たちはやっと目的地である洞窟の入口まで辿り着いた。

傍らの細い木の幹に申し訳程度に「石田三成の隠岩窟」と手書きで書かれた札が括り付けられているのが、唯一の表示である。

三成の洞窟を示す札 三成の岩窟を示す札

登り口の案内板にも書かれていたが、土砂の流入や陥没、それに岩の落石などにより、洞窟の形状そのものは三成が潜んでいた当時とは異なってしまっているらしい。

しかし洞窟は自然のものなのだから、自然の力によって形が変わってしまうことはやむを得ないものと考える。たとえ多少形が変わってしまったとしても、三成が同じこの山道を歩いて登って来て、この洞窟に潜んでいたということに私は限りない感動を覚えている。

洞窟の入口にはいまだに結構な量の残雪が残っている。大きな岩と岩の間から僅かに顔を覗かせている空間から中に入るしかなさそうだ。私は意を決してその僅かな岩と岩とでできた開口部へと降りていった。

洞窟の全景1 岩窟全景 with 残雪

ガイドさんが先に降りて、ロープを据え付けてくれた。まさに命の綱である。その綱を手に握りしめながら、私はうつ伏せで穴に入って行った。

穴の中にはアルミの梯子が据え付けられていて大いに助かったが、一番狭いところは体がかろうじて入るくらいの高さの余裕しかない。お腹を下の岩に摺り付けるくらいにしてやっと、背中が上の岩の天井すれすれを通過するような際どさだった。

恐るおそる洞窟の底に足を着ける。

入口の狭さに比較すると、内部は思ったよりも広かった。20数人は一度に入ったことがあるとの話をガイドさんから聞いて驚いた。中は真っ暗で、ひんやりとして澱んだ空気が頬を刺す。こんなところにあの三成がじっと潜んでいたのかと思うと、いたわしくて気の毒で、涙を禁じ得ない。

ガイドさんが持って来てくれた懐中電灯で中を照らすと、なるほど蝙蝠(こうもり)が寄り集まって天井からぶら下がっているのが見えた。前評判どおりである。今は冬だから冬眠をしているのだそうだ。こんなに至近距離で蝙蝠を見たことはなかったし、私たちが中に入って来たことにより蝙蝠が冬眠から目覚めて洞窟内を飛び回りでもしたらどうしようと思って不安だったが、幸いにして蝙蝠たちは静かに眠り続けてくれていた。

洞窟内のコウモリ 冬眠中のこうもり

日本の国土のなかに、こんな不思議な空間があったということに、私は非常に驚いている。この洞窟の中に隠れている限りは、どうやっても三成は見つかりっこないとしか私には思えなかった。

そんな疑問をガイドさんにぶつけてみると、ガイドさんは大きく首を横に振って次のように答えた。

「三成は、この洞窟で捕えられたのではありません。三成がこの洞窟に隠れていたのはせいぜい3日間ほどのことで、彼は古橋の村に戻ってそこで捕まったのです。」

三成が捕獲された時の様子が実は後世に伝わっていない。それは、古橋の人々が徳川氏からの追求を恐れて、何も文書としての記録を残さなかったか、あるいは残されていた文書類をことごとく廃棄したからではないか、とガイドさんは言う。

肯(むべ)なるかな、である。一村皆殺しなど平気で行われていたような戦国時代の世のことであるから、村の存続のために村民が一致団結して、止むにやまれぬ思いで行ったことではないのだろうか。

文書として残らない村の記憶は、村民の間に口伝で後裔たちに伝えられていった。その過程で記憶間違いも生じたかもしれないし、多少の脚色が加えられて伝わって行ったかもしれない。

様々な異説があって真実が定まらない背景には、そのような村の事情があったのではないかと推測される。

そうであっても、古橋の人たちは終始三成の味方だった。ある意味、命を懸けて三成を匿った。

先程も書いたとおりに、村人たちは洞窟まで30分はかかる険しい山道を、三成のために密かに食事を運び続けたと伝えられている。見つかれば、三成はもちろんのこと、自分の命もない。そんな危険を冒してまでも、村人たちは三成を守り続けたのである。

実際に行ってみるとよくわかるのだが、こんな所に隠れていれば、絶対に見つかるようなことはない洞穴である。いくら土地勘のある田中吉政の家来であっても、自力でこの洞窟を探し当てることはほぼ不可能であるように私には思える。

ではどうして三成は見つかったのだろうか?

この村出身のガイドさんは自信を持って、先程書いたように三成はこの洞窟を出て古橋で捕獲されたと断言した。捕獲された場所もわかっているのだと言う。

三成はこの洞窟にはわずか3日間潜んだ後に古橋に戻り、村人たちに対して三成の存在を田中吉政に伝えるよう指図をしたというのが、古橋の人たちに伝わる三成捕縛時の状況である。

なぜ三成は安全と思われる洞窟を後にしたのだろうか?

一つには、村人たちが三成のことを匿っていたことが徳川方に知れて村全体に類が及ぶことを恐れての行動だったと彼らは言う。

そしてもう一つには、三成の首に懸かっていた莫大な懸賞金のことを聞き及び、匿ってもらったお礼として村の人たちに懸賞金を得させるためであったとも言われている。少なくとも古橋の人たちは今でも、そのように信じている。

すなわち、三成は自らの意思であの洞窟を出て、そして縛についたということが彼らの結論だ。

あれほど崇高な志を掲げ、強い信念を持って逃亡生活を続けてきた三成が、ここまで耐え忍んできた努力を無にするような行為をしたという説を、私はどうしても素直に受け入れることはできない。

処刑場に向かう道で喉の渇きを訴えた際に、差し出された干し柿を見て、胆の毒だからと言って食べなかったという伝説の残る三成である。死の直前まで生きようとしていた男が、簡単に自ら投降したしたという地元の言い伝えを、感覚的に私は受け入れられないでいる。

心情的には、古橋の人々の真心を込めた待遇に深く感じ入っていたであろうことは疑う余地のないことであると思う。これ以上彼らの厚意に甘えてしまって、彼らの立場を貶めてしまってはいけないとの責任を強く感じていたであろうことも想像に難くない。

私の気持ちは、三成が自ら洞窟を出てきたという地元の人たちが信じている説よりは、もう一つの可能性として、村の中に裏切り者がいて田中吉政の手の者に密告したという密告説の方にやや傾いているのだが、いずれにしても正確な史料が残されていない以上は、真実は闇の中ということになってしまう。

それにしても、話には聞いていたけれど、想像していた以上に凄まじい洞窟だった。

辿り着くまでの山中の険しさも想像を遥かに超えていた。洞窟の中に入るのも、まさに命懸けの秘境探検隊になったような気分だった。

このような素敵なツアーを企画してくれた近江屋ツアーセンターと、地元のボランティアガイドを務めてくださったガイドさんには、本当に感謝をしたいと思う。

湖北地方に住んでいても、大蛇の洞穴に行ったことがあるという方はごく少数であると聞いた。このようなツアーを通じて、私と同じような体験をされる方が一人でも多く現れることを願ってやまない。

大蛇の洞穴は、関ヶ原後の三成の行動を語るうえでのいくつかある説のうちの一つの説に過ぎない。しかし実際に大蛇の洞穴を訪れた人なら誰でも、文句なしにこの説を信じるであろうことは請け合いだ。

私はなんとなく少しだけ三成に近付けたような気がして、熱い何かを胸に抱きながら、今度はきつい下り坂となる元来た道を慎重な足取りで降りていった。

洞窟付近では消えていたせせらぎの音がいつの間にか復活して、折しも逆行となる陽光を反射してキラキラと輝いていた。実に長閑で、清々しい山里の風景であった。

9月21日に田中吉政の手の者によって捕縛された三成は、25日に大津に滞陣していた家康のもとに送還された。家康は三成を厚くもてなしたという。単身で捕えられ、すでに籠の鳥となっている三成のことを、家康は何も恐れることはなかった。余裕を持って、あるいは優越感を持って遇したにすぎない。

一歩間違えば、反対の立場に立っていたかもしれないなどとは、微塵も思わなかったに違いない。勝者としての全幅の余裕をもって、家康は三成を扱った。

26日には家康とともに大坂入りをして、大坂、堺、京都の市中を引き回された後、10月1日に三成は京都の六条河原にて処刑された。41歳の波乱に満ちた短い生涯であった。

 勝負は時の運とよく言われる。勝てば官軍という言葉もある。これらの言葉は、関ヶ原の戦いにおける三成のことを想う時、まさにぴったりと当てはまる。三成が勝っていた可能性だって十分にあった。いやむしろ、序盤戦において有利に戦いを運んでいたのは三成の方だった。

 あの寝返りさえなければ、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

 しかし一方で、小早川秀秋をあそこで寝返らせたのも家康の策略であり、家康の実力でもあるのだ。武力で戦うことのみが戦(いくさ)ではない。人の心を捉えること、そういうことも全部ひっくるめて、相手よりも勝(まさ)った者のみが歴史において勝者の称号を与えられる。

信義で動く人間は美しく、策略を弄する人間は汚い。日本人の倫理観であると思う。しかしながら、美しい者が常に勝者となるとは限らないのが、歴史におけるまた一方での真実でもある。誰も小早川秀秋が取った行動を非難することはできない。小早川秀秋にあのような行動を取らせた家康のことも、非難することはできない。

戦いにおいて敗れた男は、ただ歴史の舞台から去っていくのみである。

そして敗れた者の悲しさは、後世に自らの正当性を主張することができないことである。歴史は、真実を記録したものではない。勝者が、勝者の論理のみを記録したものである。今の世のスポーツとは違うので、敗者のことを思いやり、敗者を讃えることなどあり得ない。

むしろ、勝者が自らの正当性を主張するために、敗者を必要以上に悪者扱いするのが世の常である。後世の人たちからの批判や非難を恐れて、勝者は徹底的に敗者を悪人にしたててゆく。

何も知らない後の世を生きる私たちは、記録として残された歴史を真実であると信じ込み、それを常識と思い込む。三成の足跡を追って歩き続けてきた私は今、そういった歴史の恣意性を痛いほどに感じている。

歴史には表と裏の二面性があるものだから、私たちはよくよく慎重にその両面を理解して、自らの判断を下さなければならないのだと思う。

家康によって作られた三成像をまったく否定するつもりはないし、それはそれで間違っていると思うけれど、家康が故意に墨を塗った部分を丹念に消し去っていくと、いつも見ていた絵が、思ってもみなかった別の絵に変わっていくことがわかるだろう。

歴史を探求するということは、そういう作業を根気よく積み重ねていくことなのかもしれない。

湖北における三成を巡る一連の旅で私は、新たな三成像を探し当て、そして三成の魂に触れることができたような気がした。最後に改めて三成の辞世の歌をここに繰り返して、三成の締めくくりとしたい。

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と

ともに消えゆく わが身なりけり

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7. 安土城(天下布武の夢の跡)

7. 安土城(天下布武の夢の跡)

安土城復元

 織田信長が安土に築いた巨大な城を見てみたかった。

 安土と言えば信長だし、信長と言えば即座に安土城を思い浮かべる。織田信長が天下布武を実現するための最終拠点として選んだのが、安土の地だった。

 どうして、安土だったのだろうか?

 そして、安土に築いた城は、どんな城だったのだろうか?

 興味が尽きない。「あづち」という音の響きにさえも、どこか特別なものを感じてしまう。信長が創った安土という城下街の雰囲気にも触れてみたかった。

 さらに、観音寺城を訪れてからは、信長が観音寺城から2㎞と離れていない場所に新たに城を築いた理由も気になった。いろいろな興味が渦巻く不思議な街。私は、わくわくする思いで安土の街を訪れた。

 織田信長は、織田信秀の二男として天文3年(1534年)5月12日、尾張の国・勝幡城に生まれた。天下のうつけ者と言われながらも斬新な発想と先見性でめきめきと頭角を現し、周囲の国々を次々と配下に収めていった。

 勢力拡大に伴って居城も、那古野城、清州城、小牧山城、岐阜城(稲葉山城を岐阜城と改名)と変遷していき、ついに天正4年(1576年)、安土に壮大な城を築く(竣工は天正7年(1579年))。

 安土は、東国および北陸地方から京へ向かう交通の要衝にあり、琵琶湖の水運を活用することができる利にも恵まれている。天下統一を目論む信長にとっては、満を持しての安土築城だったに違いない。

 王手であった。

 尾張の国からじりじりと京ににじり寄ってきて、ついに辿り着いた最終拠点、それが近江の国のほぼ中央に位置する安土であったのだ。

 天下統一を目前に控えた信長が最後に選択した場所が、近江の国の安土であったこと。私はこのことを、非常に重みを持った重要な事実であると受け止めている。近江とは、そういう場所なのだ。

 前代未聞。

 一言で安土城のことを表現するとすれば、このような言葉になるのではないだろうか。残念ながら安土城の天主(安土では「天守」ではなく「天主」と表記)は、本能寺の変とそれに続く山崎の合戦の後、炎上し焼失してしまった。したがって、安土城がどんな城だったのかは、永遠に謎のままである。

 神秘性というのだろうか。安土城には、カリスマ性豊かな城主であった信長の個性がそのまま乗り移っているような気がする。これまでの城のイメージを一変させる不思議な城。しかしながら斬新さの故か、特徴的な要素の大部分はその後の城には引き継がれることがなかった。

 信長が、それまでの戦国武将のイメージとは一線を画する個性豊かな武将であったのと同様に、と言うかそうであるがために、安土城もこれまでの城のスタイルを遥かに超越した城であったのではないかと思う。近年の発掘調査から得られた情報などを基に、想像力を巡らせながら、安土城を見ていくことにしたい。

 安土城祉は、JR琵琶湖線安土駅の北東、約2kmのところにある。かつて城の北面は湖水に接していたとのことだが、昭和に入って琵琶湖の干拓事業が行われた結果、今では湖面は遠く後退してしまっている。

 安土の駅に降り立ったら一刻も早く自分の目で安土城祉を確かめてみたいところだが、逸る気持ちをぐっと抑えて、まずは「滋賀県立安土城考古博物館」と「信長の館」を訪れることをお勧めする。ここで勉強して安土城のことをしっかりと頭に入れてから、実物を見に行くこととしたい。

 さらにその前に、腹ごしらえをすることにする。

 駅前の道をまっすぐ北に進み、安土郵便局前の交差点を右に曲がって歩くこと200m、道の右側に何の変哲もない定食屋さんが見えてくる。気まぐれおばんざい料理「味(み)葦(よし)庵(あん)」である。

 店の外観に比べて、店内は広くて新しい。ここでお勧めなのは、何と言っても「特選玉子かけご飯」である。絶品のこの定食は、月・木・土しか提供されていないので、要注意だ。たかが玉子かけご飯ではないかと思うかもしれない。事実、私もそう思ってさしたる期待感もなく注文したのだ。

 手作りのおばんざいの小皿がたくさん盛られたお盆には、何と赤玉の生玉子が2個乗せられていた。2個はちょっと多いのでは?とコレステロール値が高めの私は、まず思った。恐る恐る1個目の玉子を割ってみると、えも言われぬ鮮烈なオレンジ色をした黄身が現れた。専用の醤油を入れて混ぜた後ご飯に乗せて食べてみると、玉子が2個付いていたわけがすぐにわかった。

こんなにおいしい玉子かけご飯を私は今までに食べたことがなかった。たちまち1杯目を食べ終えてしまい、すぐにお代りのもう一杯を茶碗によそった。その頃にはもう、コレステロール値のことなど私の念頭にはなかった。2杯目は、玉子のコクと甘みをじっくりと味わいながら、時間をかけてゆっくり食べた。

店主とご婦人の人情味溢れる応対もとても気持ちがよかった。

実は後で知ったのだが、「近江牛と野菜の特製トロットロカレー」も絶品なのだそうだ。今度味葦庵を訪れる時には、是非ともこの特製トロットロカレーを注文してみることにしたい。

 お腹の欲求が満たされた後は、いよいよ滋賀県立安土城考古博物館と信長の館を訪れる。JR琵琶湖線を跨ぐ跨線橋を渡り、加賀団地口の交差点を左に曲がってしばらく行くと、田園の中にぽつんと建つユニークな形をした建物群が見えてくる。ここには、滋賀県立安土城考古博物館、信長の館、あづちマリエート、文芸セミナリヨの4つの建物が建てられている。

ちなみに残りの2つの建物、あづちマリナートは西洋の城郭を模した外観を持つ総合体育館、文芸セミナリヨはバロック風の多目的ホールだそうだ。命名と言いデザインと言いユニークな、いかにも信長が好みそうな斬新な発想の文化施設である。

 真中にドームのある教会のような形をした建物が、滋賀県立安土城考古博物館である。

博物館の入口付近から振り返って後方を眺めてみる。こうして実際に安土の地に立って見てみると、安土城のある安土山と観音寺城のある繖(きぬがさ)山との位置関係がよくわかる。

東西に走るJR琵琶湖を挟んで北側(湖側)にあるややなだらかで峰が3つ並んだような山が安土山であり、南側にあるどっしりとした山容の山が繖山である。山の高さは繖山の方が倍以上高い。

安土城の天主は、3つの峰のうちの真ん中の頂に建てられていた。安土の街のどこからでも、黄金色に輝く豪壮な天主の姿を仰ぐことができたであろう。

安土城と観音寺城の位置関係を確認したところで、博物館の中に入る。

ここには、20年間におよんだ安土城の発掘調査から得られた様々な成果をわかりやすく解説した安土城の模型などが展示されている。ここでは、安土城の全体像をしっかりと頭に焼き付けておかなければならない。

 大規模な堀切や縦堀など安土山の地形を巧みに利用して敵の侵入を防ごうとした設備や桝形虎口(こぐち)など、城全体の模型を見ることによって、戦国期に築城された城として、安土城には防御のための様々な仕掛けや工夫がなされていたことがよく理解されると思う。

 続いて訪れた安土城天主「信長の館」で私は、驚くべきものを目にすることになる。

ここには、原寸大で復元された安土城天主の5階・6階部分が展示されているのだ。コロンブスがアメリカ大陸を発見してから500年を記念して、1992年に開催されたセビリヤ万博(スペイン)に出品されたものだという。

 復元された安土城天主の絵や模型は、本などでよく見ることがある。しかし原寸大の建物を目の当たりにすると、その大きさと華やかさにただただ驚愕するばかりである。

5階部分は柱も床も、眩(まばゆ)いほどの鮮やかな朱色の漆で塗りこまれている。内陣はすべて金で飾られており、中央には金地を背景にした釈迦説法図が復元されている。漆も金も光り輝いていて、鏡のように艶やかである。絢爛豪華とは、このことを言うのだと思った。

安土城跡4 5階部分

 最上階にあたる6階部分は、黒塗りの漆に金の内装である。5階部分の朱色と比較して、しっとりと落ち着いて見える。一方で外観は、眩いばかりの金色である。ここまでに豪華な建物だったとは、正直言って思っていなかった。

 言ってみれば、城のてっぺんに京都の鹿苑寺(金閣)が乗っかっているようなイメージなのである。発想も私たちの想像を遥かに超えているし、その豪華さと言ったら他に例を知らない。

安土城復元  最上階6階部分

 そして、金閣をも凌駕するような黄金の空間には、ただ一枚の玉座が敷かれているのみである。信長は、ここで端座し何を考えたのであろうか。

 私はただただ、信長の造った天主の凄さに圧倒されてしまった。

 信長の館で見た原寸大天主の感激をそのままに、いよいよ本物の安土城を訪れる時がやって来た。私の興奮は最高潮に達していた。

安土城の入口に立つと、大手道と呼ばれる大規模な石段がまっすぐに伸びているのがすぐに目に入ってくる。先に小谷城の、攻めにくいように様々な工夫がなされた細くて急峻な本丸への道を見てきている私にとっては、極めて異様な構造に映る。

安土城跡3 安土城跡石段

 道幅7mにもおよぶ大手道は、まさに天主へのメインストリートである。道の両脇には深い側溝が掘られている。

 正々堂々と言うのだろうか。あるいはノーガードという言葉が当てはまるかもしれない。寄せ手の存在を嘲笑うかのように無防備な状態と言ってもよい。

 その広い石段の左右には、立派な石垣を擁した曲輪のような広場が立ち並んでいる。これらのスペースは、羽柴秀吉や前田利家などの邸宅跡であると言われている。安土山の山麓に重要な家臣を住まわせ、信長自らは天主に居住していた。

 これらの壮大な石造物群は、先に見てきた観音寺城址との類似性を見出すことができるのではないだろうか。観音寺城の石段や石垣をさらにスケールアップしたのが安土城である、と表現してもいいかもしれない。信長は、観音寺城から想を得て安土城の構想を練ったに違いない。

 それにしてもおもしろいのは、石段に使われている石のなかに、石仏がいくつも紛れていることだ。発掘調査に当たった滋賀県教育委員会は、私たちがわかりやすいように石仏の所在を案内表示してくれている。神仏を一切信じなかった信長らしいと言えばそれまでなのだが、信長は石段を造るための石材として、石仏さえも使用していたことがわかって興味深い。

 既存の石材である石仏を使ってでも急いで城を築かなければならないほど、信長の天下統一は目前に迫っていたということなのかもしれない。

 どうして信長は、こんな常識を外れた大手道を築いたのか?

 一説には信長は、時の天皇であった正親町天皇をこの安土城に招聘しようとしていたという説がある。その話が本当だとすれば、まさに前代未聞の発想である。先に私は、安土城のことを一言で表せば「前代未聞」だろうと書いたが、城そのものだけでなく発想そのものが、前代未聞なのである。

 天皇の行列がこの大手道の石段をしずしずと上っていく様子を想像してみたら、なんと壮観な時代絵巻であることか。安土城を築城する信長の意識の中には、しっかりと天下が射程距離に捉えられていた。

 しばらく広く緩やかな石段が続いた後、突き当たりを左折すると、ジグザグな石段を経て、道はいよいよ城の中心部分へと入っていく。

安土城跡5

 織田信忠邸跡と伝えられる曲輪を右手に見ながら急な細い石段を登る。黒金門跡の桝形を潜った先に見えてくるのが、二の丸の石垣である。石垣に沿って右側に回り、二の丸へと続く石段を登っていく。

 この二の丸には、織田信長の廟がある。信長は京都の本能寺で明智光秀の裏切りに遭い、49歳の太く短い生涯を閉じているが、光秀の必死の捜索にもかかわらず本能寺から信長の遺体を発見することはできなかった。したがってこの信長廟に信長の遺体が葬られているわけではない。

 しかし信長の霊は、安土山の中腹に建つ摠見寺によって手厚く祀られ続けてきた。切込み接ぎの石垣で囲まれた信長廟の正面にある小さな門から中を覗くと、正面にこれも切込み接ぎの石垣で造られた石の壇が見えた。その奥に、頭だけ出ている石の塔が、信長の墓であろうか?

安土城跡2

天下統一を目前にして無念な最期を遂げたけれど、今ではきっと、自らが築城した安土城の中心部に近いこの場所で、信長の霊は心安らかな日々を送っているに違いない。

 二の丸の東隣、狭くなった虎口をすり抜けた場所が、本丸である。広々とした空間が拡がっている。発掘調査の結果、本丸に残された礎石の配置が御所の清涼殿と一致することが判明した。信長は、ここ安土城の本丸に、御所を模した本丸御殿を造ったのであった。

7mの大手道と言い御所と同じ配置の本丸御殿と言い、天皇行幸を強く意識していた信長の気持が、ひしひしと伝わってくる。

いよいよ、安土城のクライマックスに到達する時がやって来た。本丸の北側にある石段を登り、左手に見えるもう一つの石段を登ったところにあるのが、天主台である。

天主を支えていた礎石が点在しているのが見下ろせる。礎石のあるスペースの周囲は背丈ほどの高さの石垣で巡らされていて、今私が立っている場所が天主の1階部分にあたり、礎石があるスペースが地階になるのだそうだ。

安土城跡1

 今では礎石が点々と残るだけの殺風景なスペースに過ぎないけれど、この場所に壮大なスケールの天主が聳え建ち、その上層部にあの信長が住んでいたことを考えると、得も言われぬ感動が私の身体全体を包み込む。

 私の眼前に整然と並んでいる礎石の上には、先程信長の館で見てきたような金色に輝く天主が建てられていたのだろうか?400数十年前、今見上げている私の頭上に、織田信長が確かに存在していたのだ。それは何とも不思議な感覚だった。

 様々な姿の安土城天主が、学者たちの手によって復元されている。しかしながら、いずれも想像の域を出るものではなく、正確な姿は誰にもわからない。先程見てきた信長の館の天主は内藤昌教授の説に基づいて復元されたもの(後述)であるが、これだって一つの説に過ぎないのだ。これだけ有名な城であるにもかかわらず、正確なことが何一つ知られていない神秘に満ちた幻の城。

 何もわからないということが、反対にロマンを掻き立てる。いかにも信長らしくて、いい。

 往時の安土城の姿を想像するのに、少しだけヒントが残されている。それは、安土城について言及されている当時の文献だ。

 たとえば、ルイス・フロイスの『日本史』の中に記述されている安土城天主の姿。

  信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにお

いて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである。事実、それら

はきわめて堅固でよくできた高さ六十パルモを越える―――それを上回るものも多かっ

た―――石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいず

れも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出

来栄えを示していた。そして(城の)真中には、彼らが天守(テンシュ)と呼ぶ一種の塔があり、我

らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層か

ら成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部に

あっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべて

を埋めつくしている。外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされてい

る。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白

壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは

青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。この天守(テンシュ)は、他のすべての邸宅

と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。

それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取付けがある。屋根に

はしごく気品のある技巧をこらした形をした雄大な怪人面が置かれている。このように

それら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相

当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたとこ

ろから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもその

ようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。

 あるいは、太田牛一が著した『信長公記』にて触れられている安土城の記憶(*)。

牛一は、安土城の姿を各階毎に部屋の広さや柱の数に至るまで詳細に記述している。長文であるため敢えてここでは引用を避けるが、金や漆をふんだんに使い、狩野永徳が存分に絵筆をふるった絵画が各階を飾り、壮大な規模の城であったことが伝わってくる。

 これらの、実際に安土城の天主を見たであろう当時を生きた人たちが書き遺した文献が、私たちが知り得る微かな材料である。

 それともう一つ、「天守指図」と呼ばれる図面がある。

 これは、三菱財閥二代目の岩崎彌之助が蒐集した美術コレクションなどを収蔵する静嘉堂文庫が所有している天守の図である。元は加賀藩大工の池上家に伝わったものと言われている。どこの城の天守であるかは明記されていないが、安土城天主に残る礎石の形状との類似性から、安土城の図面であると考えている学者がいる(内藤昌教授など)。

 もしもこの「天守指図」が安土城の天主を表わす図面だとすると、そこからいろいろなことが想像されてくる。この「天守指図」を巡っては、いろいろな学者が賛成論、反対論を展開している。なんとなくロマンを感じるこの不可思議な城の図面を、私は安土城の図面だと信じてみたい気持ちでいる。以下、内藤昌教授の主張を参考にしながら、私も安土城天主の姿を想像してみることにしたい。

 城の規模としては、5重7階地下1階建てと、山城としては珍しく、極めて大規模な天主を持っていたことになる。外観も内部も構造は複雑で、内陣の上層部には吹き抜け階が存在していた。

5階、6階部分を除いた天主の胴体部分の姿は、烏城との別称で親しまれている岡山城が一番近いのではないかと言われている。秀吉時代の五奉行の一人で秀吉の寵愛の厚かった宇喜多秀家が築いた城だ。秀家は、安土城を模して岡山城を築いたとの説がある。

言われてみると確かに、岡山城の上に信長の館で見てきた5階、6階部分を乗せてみると、内藤教授が復元した安土城に非常によく似てくるからおもしろい。

5階は八角の段と呼ばれる正八角形の造りになっており、朱塗りの柱に金碧の障壁画が描かれていた。6階は正方形の部屋で、黒漆塗りの柱にやはり障壁画が描かれていた。絵はいずれも、当代随一の画家であった狩野永徳の筆になるものだと言われている。

 内藤教授の復元図は諸文献や「天守指図」などを基にした一つの想像に過ぎないが、他の学者が提唱する安土城も大同小異といったところで、空前絶後の特異な形状をした天主であったというのがほぼ共通した意見であると結論づけることができるのではないか。

 この礎石の上に、そんな異様な形状をした天主が聳えていたのだと思うと、実に不思議に思えてくる。

 そもそも、安土城のような山城に巨大な天主は必要だったのだろうか?

 これまで見てきた山城には、小谷城も観音寺城もそれにこれから見に行く佐和山城にも、大規模な天守は存在していなかったというのが通説だ。やや時代が下がるが、平山城に分類される彦根城にしても、天守は3階3層と小ぢんまりしている。

 敵の攻撃を防御するためだけの城であったなら、安土城の天主はもっと別の形をしていたに違いない。ましてや、狩野永徳の障壁画や漆塗りの柱などは戦いを目的とする際には無用の長物だ。

 後に見に行くことになる彦根城天守の、木の素地を剥き出しにした荒々しい内陣とは、実に対照的な姿である。実戦を想定した城の姿としては、彦根城の天守が常識である。現存している城の天守のなかに、金箔を施した障壁画など存在しない。

 明らかに安土城の天主は、信長の力を天下に誇示するためのものだった。

 豪壮・壮麗な天主の存在もそうだが、あの夥しい数の石の存在も、信長の強大な権力を物語る材料となる。安土城は、石の城と言っても過言ではない。見るものを圧倒するような石の洪水。こんなに膨大な量の石材をどこから切り出し、誰がこんなに高いところまで運んで来たのか?工作機械など何もなかった当時の土木技術を考えると、それだけでももう、驚きを禁じ得ないのである。

安土城の石垣築造を請け負った近江国坂本の穴(あの)太(う)衆は、その後石垣造りのスペシャリストとして、全国の城の石垣構築を手掛けていくことになった。

 天下を治める者に相応しい城。信長の心はすでに、天下人であったのだと思う。戦いを目的とせず、むしろ権力を誇示するために造った城。こう考えてくると、安土城の性格が明瞭に浮かび上がってくる。

 天主(天守)が城の象徴として取り扱われるようになるのは、安土城の出現の後のことである。それまでの天守の役割は、望楼の域を超えるものではなかったものと考えられる。

 安土城の後、秀吉の大坂城を筆頭にして、大名たちは競うように美しく巨大な天守を築くようになっていった。しかし後世の天守においても、安土城のような特異な形をした天主は再建されることはなかった。

 ところで、よくよく考えてみると、安土城がこの世に存在していた期間は極めて短い。築城を開始した天正4年(1576年)から数えても僅かに9年間でしかない(天正13年(1585年)廃城)。その短い期間のなかでも信長が実際に住んでいた時間となると、さらに短くなる(約6年間)。長い日本の歴史のなかでは、ほんの一瞬のことである。

 にもかかわらず、安土城の記憶は、主(あるじ)であった織田信長の名前とともに、日本史において燦然と輝いている。それだけ日本人に強烈なインパクトを与えた城であったということだと思う。

 実は30年ほど前に、一度だけ安土城祉を訪れたことがあった。その時の記憶は遠く薄れているので正確なことは言えないが、当時の安土城祉は何もなくて、ただの荒涼とした山を頂上まで登って行ったように記憶している。

 ごつごつした巨石が散在している頂上で撮った写真が、今も私のアルバムに残っている。殺風景な頂上の景色とは対照的に、背後に写っている穏やかな西の湖の湖水が印象的な写真だ。今回再び安土城祉を訪ねてみて、当時の記憶とのギャップに驚いた。

 安土城祉は、平成元年(1989年)から20年間、滋賀県による「特別史跡安土城跡調査整備事業」が進められて、綿密な発掘調査と石垣や石段などの復元が行われた。その成果により、現在の整備された安土城祉となっていることを知った。

20年間の年月を費やし巨額の調査費用を施して進められた歴史的事業であったものの、整備が完了したのは安土城全体の14%に過ぎない。まだ安土城の歴史を完全に解明するには程遠い状態であるという。

 すべての調査を完了させて安土城の全貌を解明するのに必要な時間は、あと50年とも100年とも言われている。しかしながら現在の厳しい経済環境は、この意義ある調査を継続することを許さなかった。

 安土城の完全復元の夢は、後世の人たちに託さなければならない状況である。今は科学の目による復元に頼らず、私たちの力でできる範囲内で、欠けている部分は夢と想像力とで補いながら、往時の安土城の姿を思い描くこととしたい。

 安土城の城郭部分を訪ねた私は、山を下りて信長が創った城下町を歩いてみることにした。信長は奇想天外な新しい城を造っただけでなく、城の基盤となるべき街を同時に作った。斬新な発想による安土城のお膝元には、新たな発想による街が創られた。

 例によって、ルイス・フロイスの『日本史』から、当時の安土の街の様子を引用してみよう。

  彼はそこに、城がある一つの新しい都市を造築したが、それは当時、全日本でもっと

も気品があり主要なものであった。なぜなら位置と美観、建物の財産と住民の気高さに

おいて、断然、他のあらゆる市(まち)を凌駕していたからである。

  その市(まち)は、長さが二十数里、幅は二ないし三里、ところによっては四里もあり、多く

の地点から市(まち)に入りこんでいる、一見海のように大きく豊かな湖を一方にひかえ、他方

ではきわめて豊饒な米作地を多く有する平地に位置している。この市(まち)の端には、形の上

では三つに分れた大きい山が聳えている。これらの山は、樹木と水のために生き生きと

しており、年中、草木におおわれている。その山の辺りを湖水がひたしているので、そ

の場所は非常に美しく堅固であり、中央の山は他に比べて一段高く抜きんでている。

  信長はこの地に(難攻)不落の城をもった新市街を築き、自らのあらゆる栄光を発揮

せんとした。そこで同山の麓の平野に庶民と職人の町を築き、広く真直ぐに延びた街路

―――それは実に長く立派な通りだったので、美しく見事な景観であった―――を有す

るその市(まち)の整備を彼らに担当させた。これらの街路ははなはだよく手入れされていて、

人々の往来がさかんなために、毎日二回、午前と午後に清掃が行なわれていた。すでに

市(まち)は一里の長さにおよび、住民の数は、話によれば六千を数えるという。

 清潔で整然とした安土の街の様子が生き生きと描かれている。そんな活気に満ちた安土の街を想像して歩き始めたが、今の安土の街はルイス・フロイスが書いた信長の時代の安土とは大きく様相を変えていた。

 安土の街は、古くて大きな家が多く、静かでしっとりと落ち着いていた。しかし湖水は遠くに引いてしまい、当時の面影を残す建物もほとんど残されていない。わずかに「安土セミナリヨ跡」と書かれた石柱がひっそりと公園の片隅に建てられているのが、唯一の名残りかもしれない。

 あんなに栄えていた街はいったいどこへ行ってしまったのか?

 信長という求心力を失った安土の街は、やがて安土城の廃城とともに潮が引くようにして消えていったのだろう。栄枯盛衰というけれど、安土の街を歩いてみてしみじみと思うのは、まさにこの言葉だ。

 この街が日本の中心であった時代が、確かにあった。

羽柴秀吉や前田利家など当代の名だたる武将の邸宅が建ち並び、碧い目をした宣教師たちが闊歩していた。全国から商人が集まり、賑やかな市が毎日のように開かれ、人々は争うように商品を買い漁っていた。その事実を今の安土から感じ取ることはできない。

 今の安土は快速列車も止まらずに、各駅停車のローカル列車が1時間にほんの数本停車するだけの、どこにでもある地方の一都市になってしまっている。

 かつて栄えた街が、今もそれなりの繁栄を維持し続けている街がある。例えば、先に見てきた長浜市などがその典型だ。その一方で、当時の面影をまったく残していない街も多い。浅井氏の居城があった小谷山やここ安土などがその典型である。

 この違いは、いったいどこにあるのだろうか?

領主によって意図的または強制的に造られた街が、領主がいなくなった後にも街としての機能を維持し発展を続けられるかどうかは、その街自身が持っている自立性に負うところが大なのではないかと考えるようになってきた。

街を構成する要素のなかで一番大きいのは、そこに住み、またはそこを行き来する「人」である。

街の構成要素である「人」が、領主なき後もその街に魅力を感じ、引き続き居住拠点として、あるいは経済拠点として維持していきたいと思えば、その街は領主がいなくなっても自立的に生き、発展していくだろう。

反対に、領主の存在が大きすぎて、領主の意向にただ従っていただけであったり、領主が打ち出した様々な優遇措置や経済政策のみに高度に依存していた場合には、領主を失ったことが直接の原因となって、街は衰退の途を辿るのだろう。

街の自立性の一番の構成要素は人であるが、他にも地場の経済を支え得る産業であったり、あるいは交通や地形などの立地要因であったりするかもしれない。

時には、小谷城下や佐和山城下のように、後を引き継いだ為政者によって意図的に壊滅させられた街もある。この場合には、街としての存続や再生自体が不可能となる。

もっとも小谷の街の場合には、新たに長浜を拓いた秀吉が、街ごと長浜に持って行った。事実、小谷にある地名がそのまま長浜の町名になっている土地がある。郡上や伊部(いべ)などがその事例だ。

祭り好きな長浜の町衆気質は、もとを糺(ただ)せば小谷から出て行った民のそれだったのかもしれない。そういう意味では小谷の街は、今も長浜の街の中に息づいているということなのかもしれない。

安土の街の場合、天主の焼失とともに城下町も焼かれているから、状況は小谷や佐和山に近いのではないだろうか。加えて、織田信長というカリスマ性を持った大きすぎる領主が忽然として消え去ってしまったことが、この街の将来にとって取り戻すことのできない大きな損失として、重くそして突然に降りかかってきてしまったということなのだと思われる。

街の自立性を確立させるには、相応の時間が必要だ。安土の場合、街を創り始めてから信長他界までの期間があまりにも短すぎた。街が街としての機能を獲得し成熟する前に、言葉を換えて言えば自立性を確立する前に、強力にして唯一の後ろ盾が忽然として消え去ってしまったのだった。

今の安土の街の静かな、過去のことなど何もなかったかのように落ち着いた雰囲気を歩きながら感じていると、そんな思いが沸々と湧いてくる。今の安土はまさに、天下布武の夢の跡である。

 最後に一つだけ、過去に夢馳せるロマンを紹介して安土の街を後にすることにしたい。

 安土城の天主は、本能寺の変以降もしばらくの間は存在していたものの、約半月後に謎の焼失を遂げてしまう。前出のルイス・フロイス『日本史』の記述では、このようになる。

  明智の軍勢が津の国において惨敗を喫したことが安土に報ぜられると、彼が同所に置

いていた武将は、たちまち落胆し、安土に放火することもなく、急遽坂本城に退却した。

しかしデウスは、信長があれほど自慢にしていた建物の思い出を残さぬため、敵が許し

たその豪華な建物がそのまま建っていることを許し給わず、そのより明らかなお知恵に

より、付近にいた信長の子、御本所(ゴホンジョ)(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、なん

らの理由もなく、彼に邸と城を焼き払うよう命ずることを嘉し給うた。城の上部がすべ

て炎に包まれると、彼は市(まち)にも放火したので、その大部分は焼失してしまった。

戦(いくさ)により焼失してしまったのであればまだ諦めもつくが、戦いにおいても残ったものを、信長の子である信雄は、なぜ安土城を焼き払ってしまったのか?返す返すも残念な愚行であったと言わざるを得ない。

 信長が築いた安土城の天主の姿を見てみたかった。誰もが抱く感情であると思う。

 実は、幻の安土城を描いた絵があるのだ。その絵のことは、ルイス・フロイスの『日本史』にも紹介されている。

  巡察師がその訪問から安土山に帰り、信長に別れを告げ、下(シモ)の地方に出発する運びと

なった時、信長はさらに大きい別の好意を示した。その一つは、一年前に信長が作らせ

た、屏風(ビョウブ)と称せられ、富裕な日本人たちが、独自の方法で用いる組立て(式の)壁であ

る。それは金色で、風物が描かれ彼らの間できわめて愛好されている。彼はそれを日本

でもっとも優れた職人に作らせた。その中に、城を配したこの市(まち)を、その地形、湖、邸、

城、街路、橋梁、その他万事、実物どおりに寸分違わぬように描くことを命じた。この

制作には多くの時間を要した。そしてさらにこれを貴重ならしめたのは、信長がそれに

寄せる愛着であった。内裏はそれを見ようとして、彼に伺いを立て、木に入ったので譲

渡されたい、と伝えたが、彼はとりあわず、その希望(をかなえること)を回避した。

ところで、巡察師がまもなく出発することになったことを知ると、信長は側近の者を司

祭の許に派遣し、「伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ね来て、当市に長らく

滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、

予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい。ついてはそれを実見した上で、

もし気に入れば受理し、気に入らねば返却されたい」と述べさせた。ここにおいても彼

は司祭らに対して抱いていた愛情と親愛の念を示したのであった。

ということで、安土城や城下の様子が正確に描かれた屏風が、巡察師であったヴァリニャーノに寄贈されたことが記述されている。文中にある「日本でもっとも優れた職人」とは、狩野永徳であると言われている。

ヴァリニャーノは、「安土城之図」と呼ばれているこの屏風絵を携え、天正の遣欧使節である伊東マンショら4人の少年たちとともに、天正10年(1582年)に長崎を出航した。3年半の歳月をかけてヨーロッパの各地を歴訪した後、バチカンのローマ法王グレゴリオ13世に謁見し、この絵を献上したとされている。

はるばる日本からバチカンにまでやって来た少年たちを法王は大いに歓迎し、最上級のもてなしで迎えたという。献上された屏風絵も、バチカン宮殿内の「地図の廊下」に掲げられたとされているが、その直後にグレゴリオ13世が急死してしまい、新法王となったシスト5世との間で屏風絵がどのように扱われたのかが、不明確になってしまったのであった。

しかしながらこの屏風絵は、いまでもヨーロッパのどこかにひっそりと存在している可能性がある。昭和59年(1984年)、当時の武村正義滋賀県知事が主導して調査団が組成されバチカン市国を訪れたが、屏風の所在を明らかにすることはできなかった。

 それから20年以上を隔てた平成17年(2005年)、今度は安土町がローマに調査団を派遣して、屏風の行方を調査した(2005年屏風絵探索プロジェクト)。津村孝司安土町長自らがバチカン市国に赴きローマ法王に謁見した。法王庁の協力も得て行われた調査であったが、残念ながら今回も屏風の行方を解き明かすことはできなかった。

 今後も安土町は、イエズス会、バチカン美術館、グレゴリオ13世の末裔(ボンゴンパーニ家)の3先に焦点を絞り、引き続き委託調査を継続するという。バチカン美術館やボンゴンパーニ家にはいまだ未整理の資料が多数存在しているため、屏風の行方に関する確かな資料が見つかる可能性はゼロではない。

 もしかしたら、ある日突然に、ヨーロッパで安土城の屏風が発見されたといううれしいニュースが私たちの耳に飛び込んでくるかもしれない。

以上が、安土城を巡っての夢のある話であった。未来に夢をつないで、私は安土の街を後にすることにしたい。

(*)太田牛一著『信長公記』より

安土山(あづちさん)御天主(てんしゅ)の次第

 石くらの高さ十二間余りなり。石くらの内を一重土蔵(つちくら)に御用ひ、是れより七重なり。

 二重石くらの上、広さ北南へ廿間、西東へ十七間、高さ十六間ま中有り。柱(はしら)数(かず)二百四本立。本柱(もとばしら)長さ八間、ふとさ一尺五寸、六尺四方、一尺三寸四方木。御座敷の内、悉く布(ぬの)を着せ、黒漆(くろうるし)なり。西十二畳敷(ジキ)、墨絵に梅の御絵を、狩野(かのう)永(えい)徳(とく)に仰せつけられ、かゝせられ候。何(いず)れも、下より上まで、御座敷の内、御絵所、悉く金なり。同間の内に御書院あり。是れには遠寺(えんじ)晩鐘(ばんしょう)の景気かゝせられ候。其の前に、ぼんさんヲかせられ、次の四でう敷、御棚に鳩の御絵をかゝせられ候。又、十二畳敷、鵝(が)をかゝせられ、則ち、鵝(が)の間と申すなり。又、其の次、八畳敷、奥四でう敷に雉(きじ)の子(こ)を愛する所あり。南に又、十二畳布(じき)、唐(から)の儒者(じゅしゃ)達(たち)をかゝせられ、又、八でう敷(じき)あり。東は十二畳敷、次に三でう布(じき)、其の次に八でう敷、御膳拵(こしら)へ申す所なり。又、其の次に八畳敷、是れ又、御膳拵へ申す所なり。六でう敷、御南(なん)戸(ど)、又、六畳敷、何(いず)れもお絵所(えどころ)金なり。北の方に御土蔵あり。其の次、御座敷、廿六でう敷、御南戸なり。西は六でう敷、次、十でう敷、又、其の次十でう敷、同十二畳敷、御南戸の数(かず)七つあり。此の下に、金灯爐(とうろ)置かせられたり。

 三重め、十二畳敷、花鳥の御絵あり。則ち、花鳥の間(ま)と申すなり。別に一段、四でう敷御座(ござ)の間(ま)あり。同花鳥の御絵あり。次、南八畳敷、賢人(けんじん)の間(ま)に、ひょうたんより駒の出でたる所あり。東は麝香(じゃこう)の間、八畳敷、十二畳敷、御門(ごもん)の上。次、八でう敷、呂(りょ)洞(とう)賓(ひん)と申す仙人(せんにん)、幷(ならび)に、ふえつの図あり。北廿畳敷、駒(こま)の牧(まき)の御絵あり。次に十二でう敷、西王母(せいおうぼ)の御絵あり。西、御絵はなし。御縁二段、広縁なり。廿四でう敷の御置物の御南戸あり。口に八でう敷の御座敷これあり。柱数百四十六本立なり。

 四重め、西十二間に、岩に色々木を遊ばされ、則ち、岩(いわ)の間(ま)と申すなり。次、西八畳敷に龍虎の戦ひあり。南十二間(ま)、竹(たけ)色〱かゝせられ、竹の間(ま)と申す。次に、十二間に松ばかりを色〱遊ばされ、則ち、松の間(ま)と申す。東は八畳敷、桐に鳳凰(ほうおう)かゝせられる。次、八畳敷、きよゆう耳をあらへば、そうほ牛を牽(ひ)いて帰る所、両人の出でたる故郷の体(てい)。次に、御小座布(ざしき)七畳敷、でいばかりにて、御絵はなし。北は十二畳敷、是れに御絵はなし。次に十二でう敷、此の内、西二間の所に、てまりの木(き)遊ばさる。次に八畳敷、庭子(ニハコ)の景気(ケイキ)、則ち、御鷹(たか)の間(ま)と申すなり。柱(はしら)数(かず)九十三本立。

 五重目、御絵はなし。南北の破風(はふ)口(ぐち)に四畳半の御座敷、両方にあり。こ屋(や)の段と申すなり。

 六重め、八角四間あり。外柱(トバシラ)は朱なり。内(ウチ)柱は皆金なり。釈門(しゃくもん)十大弟子等、尺(しゃく)尊(そん)成道御説法の次第、御縁(ごえん)輪(がわ)には餓鬼(がき)ども、鬼どもかゝせられ、御縁輪のはた板には、しやちほこ、ひれうをかゝせられ、高欄ぎぼうし、ほり物あり。

 上七重め、三間四方、御座敷の内、皆金なり。そとがは、是れ又、金なり。四方の内柱には、上龍(ノボリタツ)、下龍(クダリタツ)。天井には天人御影(よう)向(ごう)の所。御座敷の内には、三皇、五帝、孔門十哲、商山四(しょうざんのし)皓(こう)、

七賢などをかゝせられ、ひうち、ほうちやく、数十二つらせられ、狭間(サマ)戸(ド)鉄(クロガネ)なり。数六十余あり。皆、黒漆(コクシチ)なり。御座敷の内外柱、惣々(ソウソウ)、漆(うるし)にて、布(ぬの)を着(キ)せさせられ、其の上、皆黒漆なり。

 上一重のかなぐは、後藤平四郎仕り候。京・田舎衆、手を尽し申すなり。

 二重めより、京のだい阿(あ)弥(み)かなぐなり。

 御大工、岡部又右衛門。漆師首(ヌウシカシラ)刑部。白金(しらかね)屋の御大工、宮西遊左衛門。瓦(かわら)、唐人(とうじん)の一(いっ)観(かん)に仰せつけられ、奈良衆焼き申すなり。御普請奉行、木村二郎左衛門。

抑(そもそ)も、当城は、深山こう〱として、麓は歴々甍(いらか)を並べ、軒を継ぎ、光り輝く御結構の次第、申すに足らず。西より北は、湖水漫々として、舟の出入みち〱て、遠浦(えんぼ)帰帆(きはん)、漁村夕(ぎょそんゆう)照(しょう)、浦〱のいさり火。湖の中に竹(ちく)生島(ぶじま)とて名高き島あり。又、竹島とて峨々(がが)と聳(そび)へたる巌(いわお)あり。奥の島山、長命寺観音、暁夕(あさゆう)ノ鐘ノ声、音信(おとず)レテ、耳に触ル。海より向ふは、高山比良(ひら)の嶽(たけ)、比叡(ひえい)の大嵩(おおだけ)、如意(にょい)がたけ。南は、里〱、田畠平〱、富士と喩(たと)えし三上山。東は観音寺山。麓は海道往還引き続き、昼夜絶スト云ふ事なし。御山の南、入江渺々(びょうびょう)として、御山下門を並べ、籟(ライ)の声生便敷(コエヲビタダシ)。四方の景気、其の員(かず)を尽し、御殿唐様(カラヤウ)を学ぶ。将軍の御館(おやかた)、玉石を研(みが)き、瑠璃(るり)を延べ、百官快(ココロヨ)く貴美を尽し、花落(からく)を移さる。御威光・御手柄、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。

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5. 実宰院(悲劇の三姉妹・もう一つの伝説)

5. 実宰院(悲劇の三姉妹・もう一つの伝説)

実宰院1

 父の浅井長政が小谷城で自らの命を絶った時、お市の方とその娘たち(茶々、お初、お江)は、どのようにして城を抜け出したのか?肉親と今生の別れを告げて、住みなれた城を後に落ちて行かなければならなかった4人の気持ちはいかばかりであったことか。戦国の世の常とは言え、考えるだにつらい、残酷な仕打ちである。後ろ髪引かれる思いとは、まさにこの時の彼女たちの気持ちを表す言葉であろう。

 その後のお市の方と3人の姉妹たちの足取りを記録した資料は残されていない。

 一時伊勢国上野城(現三重県津市河芸町)の織田信(のぶ)包(かね)の許に遣わされた後、尾張国清州城に移ったというのが通説になっている(『総見記』、『浅井三代記』など)。一方で、兄である織田信長の居城であった岐阜城に直接戻されたことが記された資料もある(『以貴小伝』)。しかし、地元である湖北地方には、それらとはまったく異なったもう一つの伝説が伝わっている。

 私は、その湖北地方に伝わるというもう一つの伝説を求めて、実(じつ)宰院(さいいん)という小谷城の南東、今の長浜市平塚町にある小さなお寺を目指して訪ねていくことにした。

 その前に、時代を少し前に戻そう。

 お市の方は、天文16年(1547年)の生まれであると言われている。信長が天文3年(1534年)生まれだから、実は13歳も歳の離れた兄妹だったということになる。ちなみにお市の方と長政とは、長政が2歳の年上である。

誰もが信長の妹君であることを疑わないと思うが、異説がないわけではない。前出の『以貴小伝』には、信長の従兄(いと)妹(こ)であったものを妹と称して浅井氏の許に送ったとの記述がある。しかし他にこの記事を証明する事実はない。

やっぱりお市の方は、信長の妹でないとしっくりこない。

あの信長をして、「もしもお市が男だったら立派な武将になっていただろうに」と言わしめたとも伝えられている才色兼備の女性であった。肖像画に残されているお市の方は、ぞっとするほど無表情な眼差しでうつむき加減にじっと前方を見つめていて、玲瓏な美しさが匂い立つようである。

信長の異母妹として育ったお市の方は、信長の意思により浅井長政の許に嫁ぐことになった。輿入れの時期には諸説があって、永禄10年(1567年)~永禄11年(1568年)という説と、永禄4年(1561年)という説がある。

前者であれば、お市の方は長政の許に嫁いで来た時に20歳または21歳であったことになり、後者であれば、15歳ということになる。この5~6年の間に美濃国の斎藤氏が信長によって滅ぼされている。信長と長政を巡る周囲の情勢も、微妙に変化が生じてくる。

永禄4年に輿入れがあったとすると、美濃の斎藤氏を尾張と近江から挟撃するための同盟であり、永禄10年(1567年)または永禄11年(1568年)の輿入れだとすればすでに斎藤氏は滅亡しているから、南近江の六角氏を抑えるための同盟ということになる。

こんな基本的なことでさえ真相がわからないところに、日本史探求の難しさとおもしろさとがある。明確な証拠がない以上は、あとは想像力と論理の力とで事実を補わなければならない。それは苦しい作業であるとともに私にとっては至上の楽しみをもたらしてくれる作業でもある。

美濃の斎藤氏は意外と強くて、信長にとっては非常に厄介な相手であり、かつ、斎藤氏が居城としている稲葉山城は難攻不落の山城であった。美濃を我が手中に収めるために、美濃の国と国境を接し交通の要衝にあった北近江の浅井氏と手を結ぶことが、信長にとっては最も望まれたことだったのではないだろうか。

お市の方が初婚であったこととも考え合わせると、20歳や21歳での輿入れというのは当時としてはあまりにも遅い。

というような理屈よりも、心情的に早く長政とお市の方を夫婦にしてあげたいという、私の二人に対する思い入れから、この稿では永禄4年の輿入れ説を採ることにしたい。

長政とお市の方が輿入れ後にどのような生活をおくっていたかについても、記録された資料はない。ここも、想像力で補うしかない部分である。二人の住まいは、小谷城の南西に位置する清水(きよみず)谷(だに)の一番奥、「御屋敷」と呼ばれた場所であったことは想像に難くない。

小谷城は山城である。とは言え、戦が行われていない平時においては、領主も家臣も山上に居住していたわけではない。⊃字型の稜線に囲まれた清水谷が、浅井氏や家臣団たちの通常時の住処(すみか)であった。

この御屋敷で、長政とお市の方は仲睦まじく暮らしていたことだろう。政略結婚であったにも拘わらず、包容力のある長政と美しいお市の方とはお似合いの夫婦だった。二人の間には数々の会話が交わされ、様々な想い出が作られていったことだろう。

長女である茶々が生まれた年についても諸説がある。永禄10年(1567年)とする説と永禄12年(1569年)とする説である。どうしてこんな基本的なこともわからないのかと不思議なくらいだが、今と違ってメディアが発展していなかった当時のことだから、確かな情報が記録として残されていないことを事実として受け入れるしかない。

したがって、長女の茶々の誕生年が不確定なことによって、次女のお初の生誕年も確定しない。永禄11年(1568年)説と元亀元年(1570年)説とがある。

三女のお江だけは、天正元年(1573年)生まれで確定している。この年は、信長による小谷城攻めが行われた年である。長政はもちろんのこと、身重のお市の方も山上の大広間にある屋敷に詰めていたと考えられることから、お江のみは小谷城中の生まれということになる。

ちなみに、長政の2人の男子である万福丸と万菊丸については、一般には長政とお市の方の間の子と思われているが、長政のことを研究する学者たちの間では側室の子というのが通説のようである。

たいへん残念なことに、2人の幸せな結婚生活は、しかしながら長くは続かなかった。こともあろうか実の兄と愛する夫とが戦うことになってしまったのだ。

元亀元年(1570年)4月、信長が浅井氏との約束を破り越前の朝倉氏を攻めた時、長政はつらい決断をしなければならなかった。お市の方と血のつながった信長を取るか、祖父亮政以来の盟友関係にあった朝倉氏を取るか。迷った末に長政は朝倉氏を選択したことは先に書いた。

そんな決断をしていようとは夢想だにしないで越前の国深くにまで攻め込んでいた信長が長政の裏切りを知ったのは、お市の方から届けられた小豆袋によってであったとの伝承が残っている。

片方の端を縛り、もう一方の端を開けたままの状態で届けられた小豆袋を見て信長は、長政の裏切りをはっきりと悟ったことになっている。

片方の端を固く縛られた袋の中に入っている小豆は信長自身である。このまま進んで行こうとすれば、もう片方の端を縛られて袋のネズミとなってしまう。縛りきられないうちに兄君よ、早くお逃げになられよ。

お市の方は、そんな難しい謎解きのような行為によって兄の危機を救ったとされている。

事は急を要している。そもそも、本当に兄に危機を知らせたいのであれば、書状や使者により明確に知らせるべきであるし、いくら頭脳明晰な信長であっても、送られてきた小豆袋を見ただけで即座に長政の裏切りを悟ることは難しいように私には思われる。

私が信長だったら、こんな時にお市は何を長閑な遊戯をしているのだろうと小豆袋を捨て置いて、まんまと朝倉・浅井軍の挟み撃ちに遭ってあえない最期を遂げてしまったに違いない。

お市の方が小豆袋を送ったという伝承は出来過ぎた後の世の創作であるように思われるが、事実として信長は間一髪のところで長政の裏切りを悟り、命からがら逃げ帰ることに成功する。

 そして長政がこの決断を下した瞬間から、浅井家は滅亡への道をひた走ることになる。お市の方と3人の姫たち(三女のお江はこの時にはまだ生まれていなかったが)の悲劇も、この時から始まるのである。

 約3ヶ月後に訪れた姉川の合戦では、敗戦を喫したものの小谷城までは攻められずに済んだ。しかしその3年後の天正元年(1573年)8月末、信長は越前の朝倉氏を滅亡に追い込んだ後に小谷城に総攻撃を仕掛け、あえなく浅井久政、長政父子は自刃して3代に亘って北近江の地を支配してきた浅井氏はここに滅んだ。

 長政は小谷城中にある赤尾美作の屋敷で非業の死を遂げたが、お市の方は3人の姫とともに小谷城を脱出した。6歳、5歳(または4歳、3歳)の幼な子と生まれて間もない赤子を抱えての城落ちは、さぞかし難儀であったことと想像される。

城を抜け出ることには成功したものの、命を保証されているわけではない。絶望的な状況の中で、お市の方は長政の姉を頼って城から4㎞ほどの距離にある実(じつ)宰院(さいいん)を目指して落ちて行ったというのが、地元に伝わる伝説である。

結果的にお市の方と3人の姫たちは生き延びることになる。長政の盟友として信長と戦い小谷城落城の直前に滅ぼされた朝倉義景の妻子たちが一人残らず殺戮されたのとは、扱いが大きく異なった。信長の妹君であるのだから、当然の措置と言えば言えなくもないのだが……。

しかし、救出されたお市の方の気持ちはいかばかりであったことか?愛する夫である長政を失った心の動揺はまだ収まっていないけれど、遺された姫たちだけは命を賭しても守っていかなければならない。浅井家の血を後の世につないでいかなければならない。お市の方の胸中には自分のことなど微塵もなくて、3人の姫のこと、浅井の血を絶やしてはいけないという使命感、それだけしかなかったのではないかと推察される。

 そこで私が訪れたのが、実宰院である。

先にも少し触れたように、一般的にはお市の方と3人の姫たちは織田方に救出されて、清州あるいは岐阜に移り住んだとされている。

 ところが地元である北近江地方には、もう一つの別の話が伝えられている。

 実宰院は、田園の中に点在する民家の間に、ひっそりと佇んでいた。切り妻屋根の小ぢんまりとした山門の脇には、「浅井三代開基昌庵見久庵主顕彰碑」と刻まれた大きな石碑が建てられている。

実宰院2 浅井三代開基昌庵見久庵主顕彰碑

 傍らの案内板によると、元々は鎌倉時代以前に創建された実才庵という天台宗の寺であったそうだ。その後、小谷山(しょうこくさん)実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改められたが、いつしか無住の寺となっていたようである。

 長政の姉にあたる阿久姫が仏道修行を志し出家して昌安見久尼と称した際に、当地の庄屋を務めていた平野左近助をして庵を再興させたと伝えられている。天文11年3月5日のことであった。

 寺伝によると御本尊は宇多天皇のご持仏であったという観世音菩薩であり、寺に伝わる尼の像は淀君が寄進した見久尼の像であると言われている。

落城に際して長政は、姉である見久尼に三姉妹の養育を依頼したと伝えられている。実宰院にいる見久尼を頼って、茶々、お初、お江の三姉妹はお市の方とともに城を脱出した。そしてこの庵に匿われた三姉妹を、尼自らが養育したと伝えられている。

 質素な門をくぐると、すぐ正面に木造の本堂が見える。当時のものとは思えないが、落ち着いた風格のある本堂である。この本堂の中に、本尊である観世音菩薩像と淀君が寄進したとされる見久尼の像が安置されているはずだ。

 残念ながら、本堂の外のガラス窓から中を覗いてみたものの、御本尊も見久尼像もよくはわからなかった。

実宰院3 静かな佇まいの本堂

 今は訪れる人とてもなく、ただ静かな空間ががらんと拡がっている。こんなところに三姉妹が匿われていたかもしれないと思うと、不思議な気持ちがする。

 本当にここに三姉妹はいたのだろうか?

 一つの根拠となるのが、淀君が寄進したと伝えられている見久尼の像である。淀君と何の縁もなければ、どこにでもあるような地方のこんな庵に淀君が像を寄進することなどあり得ないのではないだろうか。

 もう一つの根拠と考えられるのが、長束正家、増田長盛、浅野長政、前田玄以という豊臣政権の中枢を担う四奉行が連書した慶長2年(1597年)5月1日付の連書状の存在である。

 お初の嫁ぎ先である京極高次に宛てられたこの連書状は、実宰庵(当時は院号を認められておらず、庵であった)の跡目について、望み次第とするという内容のものであり、しかもそのことは秀吉の許可を得ていることが書かれているという。

 ここまでくると、この小さな庵が豊臣家にとってただならぬ関係にあったものであることが素直に頷けると思う。

 茶々やお初と深い関わりを持つ一地方の不思議な庵。私は地元に伝わっているこの伝説を信じてみたい気持になった。そういう思いで改めて実宰院の境内に立って周囲を見回してみると、小さな門の扉に彫られた二本の閉じられた扇の彫刻も本堂の左に建てられた入母屋造り二階建ての格子扉が美しい母屋も、神々しく見えてくるから不思議だ。

 静かな休日の昼下がり。私の想いは、数奇な運命に翻弄された一人の美しい女性と3人の姫たちのことに釘付けになった。

 この庵に匿われて窮地をしのいだ後、お市の方は柴田勝家に嫁ぎ、そして北の庄城であえない最期を遂げている。

3人の姫のその後の人生も、三人三様で波乱に満ちている。

長女の茶々は、秀吉の側室となり淀君と呼ばれた。やがて秀頼を生んだが大坂の陣にて徳川家康に敗れ、豊臣家と最期を共にした。

次女のお初は、室町時代から続く名門大名である京極氏(高次)に嫁ぎ、高次の死後は出家して常高院と称した。豊臣家と徳川家の間に立って両家の関係改善に尽力したと伝えられる。

そして三女のお江(ごう)は、徳川家の2代将軍秀忠の正室となり3代将軍家光を生んだ。お江が生んだ和子は、東福門院として後水の尾天皇の正室となり、明正天皇を生んでいる。

茶々とお初の血は途絶えてしまったけれど、お江を経由した長政とお市の方の血筋は、今にも面々とつながっているという。物理的遺産である城は滅んでしまったものの、二人のDNAは今も生きているのだ。

NHKは、2011年の大河ドラマを、「江 ~姫たちの戦国~」とすることを決めた。第一回作品「花の生涯」から数えて50作目にあたる記念すべき作品だ。彦根(「花の生涯」)から始まった大河ドラマの流れが、50年の歳月を経て再び近江の国に還ってきたと思うと、感慨もひとしおである。

 このドラマの主人公はお江である。戦国時代を生きた浅井三姉妹の末妹お江の波乱に富んだ生涯を通じて、新たな視点からの人間味溢れるドラマが描かれることを期待している。小谷城や姉川などお馴染みの土地が映し出されるだろうことも楽しみである。

三姉妹にまつわる地元に残された一つの伝説を追って、人里離れた小さな寺院を訪れた。真偽のほどはともかくとして、お市の方も三姉妹も、こうして地元の人々の心の中にしっかりと息づいて生きていることが、私にとっては何よりもうれしく感じられた。

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湖北残照 Contents

湖北残照  目次

 

<第一部 戦国の世の残影を追う>

  1. 須賀谷温泉(桐一葉・片桐且元出生地)

  2. 観音寺城(小谷城と並び称される六角氏の山城)

  3. 姉川古戦場跡(浅井氏と織田氏の激戦の跡)

  4. 小谷城祉(浅井長政終焉の地)

  5. 実宰院(悲劇の三姉妹・もう一つの伝説)

  6. 長浜城祉(羽柴秀吉が創った城と城下町)

  7. 安土城祉(天下布武の夢の跡)

  8. 尼子(藤堂高虎・築城の名人の系譜)

  9. 賤が岳古戦場跡(秀吉と勝家決戦の地)

  11. 観音寺・法華寺跡(秀吉と三成との運命的出逢いの地・2つの三献茶伝説を追う)

  12. 佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城)

  13. 関ヶ原(天下の行く末を決した古戦場の跡)

  14. 古橋(敗者・石田三成の最期を追う)

  15. 彦根城(井伊直弼の城下町と国宝の天守)

 

<第二部 湖北文化の輝きに触れる>  

16. 渡岸寺(妖艶・国宝十一面観音像)

17. 石道寺(素朴・重要文化財十一面観音像)

18. 多賀大社(全国からの情報集積地の謎)

19. 国友鉄砲村(歴史を陰で支えた隠れたる名工の里)

20. 狐蓬庵(小堀遠州・庭造りの匠の譜)

21. 鳥居本宿(中山道64番目の宿場町)

22. 近江八幡(ヴォーリスの面影)

 

<第三部 湖北の自然を慈しむ>

23. 鶏足寺(隠れた紅葉の名所を訪ねる)

24. 伊吹山

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8. 尼子(藤堂高虎・築城の名人の系譜)

8. 尼子(藤堂高虎・築城の名人の系譜)

藤堂高虎4

 別に藤堂高虎のことを調べようと思って降り立った駅ではなかった。

 そもそも、藤堂高虎という人物は知っていたけれど、どんな人で、どこの出身かなどの予備知識は、私にはほとんどなかった。

2009年晩秋。紅葉の名所である湖東三山(西明寺、金剛輪寺、百済寺)を巡ろうと思い降り立ったのが、近江鉄道の尼子(あまご)駅だった。西明寺行きのシャトルバスを待つ間に駅前広場を散策していた時、私は一枚の案内板を見つけた。

  城づくりの名人 藤堂高虎

  戦国時代、甲良町在士出身の藤堂高虎は、その戦の駆け引きのうまさと、城作りの能

力で浅井長政、豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康などから請われて七度も主人をかえまし

た。自分の力と運によって一介の武士から大々名に出世を遂げた英傑です。

 

 どうしてこんなところに藤堂高虎がいるのか?まず不思議に思った。尼子という駅名からして、出雲地方で活躍した尼子氏と関係のある土地であるかもしれないということはある程度想像ができたが、この地が藤堂高虎の出生地であったことは、迂闊にもまったく予期していなかった。

 藤堂高虎と言えば、伊勢の国(今の三重県)にある津藩の藩主としてのイメージが強い。また立派な石垣を擁する伊賀上野城などを築城した経歴からも、てっきり伊勢か伊賀の国の出身だと思っていた。思いがけない場所でひょっこり、思いがけない人物に出会ったような驚きを感じながら、私の興味は次第に、藤堂高虎という人物に向けられていった。

 藤堂高虎は、弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡甲良町在士)にて、藤堂虎高の次男として生まれた。父が虎高で息子が高虎とは、何とも紛らわしい名前である。父である虎高はこの土地の土豪であり、上に長男の高則がいたが、兄は早世しているので、実質的に高虎が藤堂家の跡取りとなっている。

 地方の一小領主に過ぎなかった高虎はその後、次々と主君を変え、数奇な運命を辿りながら、次第に頭角を現していく。先の案内板に記載されていたように、実に7人の主君に仕えたという。

 今の世で言えば、転職を7回繰り返したということとほぼ同義であろうか。一般論で言えば、転職を繰り返す人たちは、大きく2種類に分類される。一つのところに留まることができずに、次々と職場を変えながら次第に没落していくタイプと、前職を踏み台にしながら、前職の経験を活かしてステップアップしていくタイプの2種類である。

 高虎の場合は、間違いなく後者のタイプであった。

 最初の主人は、浅井長政である。それまでの藤堂家は、土豪とは言うものの、度重なる没落が続き、ほとんど農民と変わらない程度にまで落ちぶれた存在であった。そこに、元亀元年(1570年)、姉川の戦いが勃発した。

 浅井側にとっては負け戦となったものの、この戦いにおいて高虎は武功を挙げ、長政から感状を受けている。

 また高虎はこの時、後の主君となる徳川家康との運命的な出逢いを果たしている。戦場において敵味方に相分かれて戦っていた時のことであるから、もちろん直接出逢って言葉を交わしたわけではない。実質的にこの戦いの勝敗を決めることになった家康の戦いぶりをつぶさに見て、敵ながら家康の卓越した戦術眼に尊敬の念を抱いたのだった。

 この時敵と味方に分れて戦った二人が、後に強い信頼関係の絆で結ばれるのだから、歴史というのは複雑で奥が深い。

 やがて天正元年(1573年)の小谷城をめぐる攻防戦で浅井氏が滅亡すると、高虎は浅井氏を裏切った山本山城主の阿閉(あつじ)貞(さだ)征(ゆき)のもとに仕え、続いて浅井氏の旧家臣であった磯野員(いそのかず)昌(まさ)に仕えた。

 この時期の高虎は、まさに綱渡りである。

 浅井氏は信長により滅ぼされ、阿閉氏も信長亡き後に秀吉により討伐され、磯野氏も信長の勘気に触れて高野山に放逐されている。けっして安泰な主君に仕えたわけではなく、一歩「転職」のタイミングを間違えれば一族の破滅に直結する。難しい判断を余儀なくされながらも、しかし高虎はしたたかに生き残っていった。

 その後は、織田信長の甥にあたる織田信澄に一時期仕えた後、羽柴秀長のもとに参じ、次第に豊臣政権の中心に接近していく。秀長は秀吉の弟である。歴史の表舞台にはあまり登場しないものの、実際は秀吉を陰でよく支え、豊臣政権樹立の一番の功労者として評価されている人物である。

高虎はこの秀長の下(もと)で能力を認められ、信頼に裏打ちされた主従関係を構築していった。そして賤が岳の戦いでは大いに戦功を挙げて、1万石の大名に取り立てられるに至っている。

 そして高虎最初の築城となる和歌山城の普請奉行を務めることになる。しかしこの頃はまだ、築城の名人としての高虎の才能が認められての築城ではない。高虎の才能が開花し、次々と城造りを命じられていくのは、徳川の世となってからのことである。

 しかしながら高虎は、この最初の経験であった和歌山城築城において、何物か重要なヒントを得たに違いない。同じ仕事を任されても、単にそれをやり遂げるだけの人間と、そこから得難い大事なものを見出して後の仕事に活かすことができる人間との違い。

 私はこのようなところに、世渡り上手としての高虎の非凡な一面が垣間見られるのではないかと考えている。

 天正19年(1591年)に主君であった秀長が亡くなると、高虎は養子の豊臣秀保に仕え、文禄の役にも出兵している。根っからの武闘派大名である。ところが高虎は、主君であった秀保が早くに亡くなったことに心を痛め、世を捨てる決心をして高野山に出家している。

一般に世渡り上手と言われている高虎だが、まったくの打算のみで主人の間を渡り歩いたわけではなく、主君への忠義に厚い一面も併せ持っていたことがわかる。そうでなければ新しい主人から信頼されるはずがない。

一度は高野山に出家した高虎であったが、秀吉から還俗を命じられて伊予国板島7万石の大名に取り立てられた。伊予国板島とは、今の宇和島である。高虎の才能を、関白秀吉も高く評価していたことが窺える。

 慶長の役にも水軍を率いて参戦した後、高虎は板島の丸串城に大規模な改修を加え宇和島城と改称している。地勢を活かして海水を巧みに引き入れた、海城の様相を呈する名城である。白亜の3層の天守は今も現存している。

この辺りから高虎の築城名人としての名声が高まっていったものと考える。

 まだ秀吉が存命中であったにもかかわらず、慶長3年(1598年)8月頃から高虎は、家康に急接近していく。高虎のこの行為に対しては、後世の人々の評価が分かれている。秀吉に対する裏切り行為なのか、時代の流れを読み先を見据えた行為だったのか、である。

 石田三成を中心とする官僚的な能力に長けた大名が豊臣政権のなかで次第に力を増していく勢力図のなかで、武闘派と呼ばれる大名たちの心が豊臣政権から離れていった事実が一つにはある。

 高虎は、姉川の戦い、賤が岳の戦い、文禄・慶長の役などを通じて一貫して武功により頭角を現してきた大名であった。戦下手で官僚的な大名の台頭に対して、秀吉への不満が募っていたであろうことは想像に難くない。

 その一方で高虎は、先を見通せる鋭い目で、豊臣政権の終焉を正確に予測していたのかもしれない。若いころに弱小な主君の間を渡り歩き、生き延びていく中で培ってきた主君を見る目が大いに役立ったのではないだろうか。

 そんな時に、かつて姉川の戦場で相まみえた家康のことが、高虎の心の中に大きくクローズアップされていったのかもしれない。

 本当の高虎の心理は誰にもわからないが、結果として高虎は、秀吉から家康へ最後のポイントを切り替えた。

 そして関ヶ原の戦いでも東軍の武将として戦勝に大いに貢献し、家康から伊予今治20万石への加増を受けている。

 外様大名でありながら、家康からの信頼は非常に厚かった。その一番の証拠が、江戸城築城の縄張りを高虎が任されたことである。

城の縄張りは、言わば軍事上の最高機密に属する事項である。樹立したばかりの江戸幕府を盤石なものとするために、江戸城築城は家康にとって最重要プロジェクトの一つだったに違いない。その要に当たる事業を高虎に任せたという事実に、高虎という人間への強い信頼と高虎の築城技術に対する絶対的な評価を窺うことができる。

仕える主人を7度も変えた高虎であったが、家康はこの「転職」を前の主君への裏切りとは見ていないで、むしろ高い能力を買われての転職であったと考えていたことがわかる。

高虎が遺したと伝えられる次の言葉には、高虎自身も自分の能力に強い自信を持っていたことが窺える。

  武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ

 一人の主君のみに仕えることの一面性を脱却し、複数の主君から信頼されること。高虎はむしろそのことに自身の価値を見出したのだろう。

 一人の主君に仕えるだけであれば、その主君の考え方や趣味嗜好をよく理解しそれに自分の行動を合わせることで、うまく主君を取り込んでいくことは比較的容易にできるかもしれない。しかし複数の主君から高く評価されるためには、いわゆる主君への迎合だけではとても誤魔化すことはできない。高虎は、どんな主君から見ても相応の評価を得られるだけの実力を持っていたことになる。

 築城の名人としては、熊本城を造った加藤清正も有名である。清正が熊本城に代表される深い反りのある石垣に特長のある城造りをしていたのに対して、高虎の城は高い石垣と濠との調和、および塔層式と呼ばれる天守の構築様式に特長があった。

 海水や湖水を巧みに取り入れて天然の濠として活用する術には目を瞠(みは)るものがある。従来の(入母屋造りの建物の上部に望楼を構築する)望楼式天守に代わり、1階から最上階まで正方形の階を次第に小さくしながら積み上げていく塔層式天守を考案したのは、高虎であると言われている。

 高虎が生涯に築城を手掛けた城の数は、実に17城にもおよぶと言う。代表的な城を列挙すれば、江戸城のほか、三重県の津城、上野城、愛媛県の今治城、宇和島城、大洲城、滋賀県の膳所城、兵庫県の篠山城、京都府の二条城、亀山城、伏見城、和歌山県の和歌山城、奈良県の郡山城など枚挙にいとまがない。

 いずれも、土地の地形を巧みに利用し、堅固な石垣と美しい天守を擁した当世一流の名城であることが共通点である。

 家康の死去に際して枕元に侍することを許されたというから、いかに高虎が家康から高い信頼を得ていたかということが窺える。その後も高虎は、二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え、寛永7年(1630年)10月5日、74歳の生涯を閉じた。

 晩年は目を患い、ほとんど失明の状態であったそうだが、戦乱の世を生き抜き天寿を全うしたという意味において、戦国大名としては稀有の幸福な人生であったと言うことができるのではないだろうか。

 高虎の出生地である滋賀県犬上郡甲良町在士(ざいじ)を訪れてみた。

 近江鉄道本線尼子駅の南東約1㎞、今では甲良町の町役場が建つ町の中心部である。高虎の出生地であることを示す痕跡は、残念ながらあまり多くは残されていない。町役場のやや北に、高虎公園と呼ばれる公園が僅かに存在するだけである。

藤堂高虎4 高虎の騎馬像

 優雅な池を抱く緑豊かな公園には、池の中央に浮かび立つようにして高虎の騎馬像が建立されていた。風もなくて、水面にもう一つの高虎像が線対称となって鮮やかに映しだされている。

 甲冑姿で馬に跨り、右手で前方を力強く指し示す高虎の銅像を見上げていると、戦上手と言われた高虎のイメージが沸々と眼前に湧き上がってくる。高虎は、身長191㎝の大男だったという。幾多の戦いにより指を失い、全身刀傷まみれであったと伝えられているから、文字通りに武闘派の勇敢な武将であったのだろう。

藤堂高虎3 高虎公ゆかりの残念石

道路に面した一角には、「高虎公ゆかりの残念石」と呼ばれるたいへん大きな石が置かれている。説明書きによるとこの石は、元和6年(1620年)に京都府賀茂町の大野山から切り出された石で、約11トンもあるのだそうだ。側面には、藤堂家の普請であることを示す記号(「┓」の字)と寸法(九尺二寸、三尺七寸、三尺九寸と記載)が刻まれている。家康の命により大坂城再建のために使用する目的で切り出したものの、なぜか使用されないまま木津川に取り残されていたものだそうだ。高虎の偉業を顕彰するために、地元の「藤堂高虎公顕彰会」と「在士村づくり委員会」がわざわざこの場所まで運んで来たのだ。

このほかに公園内には、藤堂家に所縁のあるものとして、藤堂家の家紋入り対灯篭と駒止め石と呼ばれる石碑のような石が設置されている。屋敷の遺構等は残されていないものの、甲良町の人たちがいかに高虎に親しみを持ち、高虎のことを誇りに思っているかが伝わってきて、とても気持ちのいい公園であると思った。

思えば、こんな静かな土地に生まれ、自分の才覚だけを頼りに幾人かの主人を渡り歩いた高虎は、随分数奇な人生を歩んだものだ。若い時に仕えた主君が次々と滅んでいく中で、結果的に勝ち組となった徳川家康に辿り着き、戦国武将としては稀に見る成功を収めた人生の出発点が、このけっして裕福とは言えない場所からであった。

どんなところからスタートしても、高い志と他人にはない絶対的な技術と主君を冷静に評価できる目とがあれば、相応の人生を歩むことができるということを、高虎は私たちに教えてくれている。

高虎公園は、周囲に拡がる田園風景のなかにポツンと存在しているような、美しくて長閑な公園だった。この公園の前から西方面にあたる八幡神社までの道を「高虎の道」と呼ぶのだそうだ。道の端には小川(尼子川と言う)が流れ、澄んだ水を素敵な速度で運んでいく。

八幡神社の境内にも、高虎を偲ぶものがあった。

鳥居の左脇に建立されている「藤堂高虎公出生地」の石碑がそれである。

藤堂高虎2 藤堂高虎公出生地の石碑

八幡神社は、応永2年(1395年)に藤堂家の始祖である藤堂三河守景盛が京都の石清水八幡宮を勧請したのがはじまりであると伝えられている。石清水八幡宮は武士の神として藤堂家が篤く信仰していた神であった。

この時に一族の繁栄を祈念して一緒に植えられたのが、一株の紫色の藤だった。その後数百年を経た藤の古木は、今でも鳥居の脇に設けられた藤棚などに見事な花を付け在士の人たちの目を楽しませてくれている。

神社の前からさらに西側へは、敷石で見事に整備された道が続き、古い趣のある民家が立ち並ぶ。静かな佇まいのなかにどこか気品が漂い、清々(すがすが)しささえ感じられる、在士はそんな街であった。

藤堂高虎静かな佇まいの在士

 機会があれば、伊賀上野や津にある高虎が築城した城にも行ってみたいと思った。出生地である甲良町には物証としての高虎の足跡は残されていなかったけれど、高虎が実際に造った城を訪れ、石垣や濠や天守などを眺めながら、改めて高虎の人生について考えてみるのも悪くないと思ったからだ。

 近江が生んだ築城の天才は、どのような気持ちで、それらの城を築いてきたのだろうかと思うと、実に興味深い。

 せっかく尼子(あまご)という名前の駅に来たのだから、最後に尼子氏について簡単に触れておくことにしたい。

 甲良町尼子(あまご)地区は、近江鉄道本線・尼子駅の周囲200ha、人口1,000人弱の小ぢんまりとした地域である。土地の3分の2を水田が占める農村地帯だ。この地に、佐々木源氏・京極氏の流れを汲(く)む佐々木高久(たかひさ)が居住したことから尼子の歴史が始まった。高久は、当地の地名にちなんで尼子姓を名乗るようになる。

 高久の祖父にあたる佐々木高氏(たかうじ)(道誉)は、足利尊氏を支えて室町幕府樹立に大いに貢献した知将であった。自由奔放で派手な性格から婆娑(ばさ)羅(ら)大名との異名を持ち、幕府内で強い影響力を保持していた有力大名だった。甲良町が生んだ三大偉人の一人なのだそうである。ちなみにあとの二人とは、藤堂高虎と、高虎と共に日光東照宮を造営した名工の甲良豊後守宗廣である。町の中心部にほど近い法養寺には、甲良豊後守宗廣記念館が建てられている。

 高久の次男持久が当主であった時代に、宗家である京極氏が守護を務める出雲の守護代として下向したことから、出雲における尼子氏の歴史が始まる。やがて出雲の国人たちを掌中に収め、持久の孫の経久の時代に守護の京極政経を追放して守護大名の座を確立させた。

 尼子氏は、5大山城の一つに数えられる月山富田城(現在の安来市)を拠点とし、出雲から備中、備前、美作、さらに播磨へと勢力拡大を続けていったが、安芸の国(今の広島県)の吉田を拠点に勢力を急拡大していた毛利元就との勢力争いに敗れ、経久から4世の後の義久の時代に第二次月山富田城の戦いにおいて降伏し、尼子氏は高久からわずか6代で滅亡した。

 尼子(現甲良町)を拠点として、二人の男が飛び出していった。一人は尼子氏(持久)であり、もう一人が藤堂高虎である。二人は、結果において大きく明暗が分かれてしまった。

尼子持久は、任国として下った出雲の地で勢力を拡大し、順調に一族の地歩を確立するかに思えたが、毛利元就という中国地方におけるスーパースターの登場に遭い、死闘の末、義久の代にあえなく滅亡となる。

藤堂高虎は、はじめは弱小領主に仕え、次々と主人が滅ぼされていく中で綱渡りの人生を歩んでいたが、やがて羽柴秀長、そして徳川家康という二人の知己の領主に才能を見出され、武勇と築城術とを買われて大大名へと出世していく。

両者の間にどんな違いがあったのか?状況が違うので単純な比較はできない。勝ち負けはあくまでも相対的なものであるから、周囲に強力な敵がいなければ成功するかもしれないし、目前に大きな障害があれば大いに苦戦を強いられることになる。

織田信長や豊臣秀吉の軍と比較して、上杉謙信や武田信玄の兵が弱かったのかと言うと、そういう問題ではない気がする。謙信と信玄は、都から遠いという共通のハンディに加えて、まずはライバルである両者の間で雌雄の決着をつけなければならないという状況に置かれていた。

5度にわたる川中島の戦いにおいて、両者の体力は徒(いたずら)に消耗していった。そして、いざ都を目指そうとした時には、二人はもう十分に歳を取り過ぎていた……。

成功を勝ち取るためには、周囲の状況、年齢、タイミング、いろいろな制約要素が存在し、それらの条件をクリア―した後に初めて、勝利は訪れるものである。

高虎が優れていて、尼子氏が劣っていたとは私は思わない。それぞれ、歴史の大きなうねりの中でもがき、苦しみ、そして戦っていった。その結果として、高虎は周囲の主君にも最後は恵まれて、能力を開花させることができた。

尼子氏は、武運に見放されて、出雲の地に散っていった。

そういうことなのだと思う。なにかわかったようなわからないような結論だが、私は一人うなずいて、尼子から彦根へ戻る近江鉄道のがらんとした列車に乗り込んだ。

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15. 彦根城(井伊直弼の城下町と国宝の天守)

15. 彦根城(井伊直弼の城下町と国宝の天守)

DSCF0219 天守

 関ヶ原の戦いが終わり、佐和山城が落ち、そして石田三成が処刑された。秀吉亡き後の混乱の世の中は、急速に徳川家康の下に収束されようとしていた。

 徳川四天王の一人井伊直政は、関ヶ原の戦いにおける戦功により、石田三成の居城であった佐和山城を賜った。敵方の大将の所領を賜ったのだから、並み居る徳川方の武将たちの中でも最大級の評価を受けたと言って間違いないだろう。

直政は、先陣を任されていた福島正則らの外様大名に戦功を譲ることを潔しとせず、抜け駆けをして先陣の功を得た。本来であれば抜け掛けは軍規を乱す行為であるので反対に処罰の対象となるものだが、福島正則らの外様大名を先鋒に指名したこと自体が、家康の本意ではなかったのであろう。家康の真意を知っていて、敢えて直政は抜け掛けの禁を犯したと考えた方が、恩賞結果と合致する。

さらに直政は、中央突破を図って敗走する島津義弘軍を追走し、佐和山城攻めでも軍監を務めるなど、関ヶ原の戦い全般において第一級の軍功を挙げ、上野国高崎12万石から北近江15万石と上野国3万石の領主となった。

井伊家の石高はその後、大坂の陣などでも加増されて、最終的には35万石の大大名へと成長していくことになる。

直政が佐和山城に入ったのは、慶長6年(1601年)1月であった。しかしながら直政は、島津義弘を追撃する際に銃弾を受け、その傷がもとで翌年2月1日に死去した。わずかに40年の短い生涯であった。

彦根城築城の計画は、直政存命中から練られていたようである。直政自身が三成をひどく嫌っていたこと、三成の記憶を城もろともに消し去る必要があったこと、さらに、秀頼のいる大坂方面への抑えとしてより機能的な城が求められていたことなどがその理由であると考える。

彦根城築城は、慶長9年(1604年)、家康の承認のもとに幕府主導で開始された。

幕府からは6人の公儀奉行が派遣されたほか、近江近国の大名28家および旗本9家が動員され、急ピッチで築城工事が進められていった。発足したばかりの徳川幕府にとっての重要な軍事的戦略プロジェクトの一つだったことが窺える。

2年後の慶長11年(1606年)には早くも天守が完成し、慶長12年頃までには城の主要部分が完成している。大坂冬の陣(慶長19年)、夏の陣(慶長20年)を挟んでさらに工事は続けられて、最終的な完成を見るのは元和8年(1622年)頃であった。

急いで造らなければならなかったことから、彦根城の建造物には他の城などからの転用が目立つ。

重要文化財に指定されている天秤櫓は、長浜城から移築されたと言われている。本丸に向かってさらに進んだところにある太鼓門櫓は、彦根城を築城する以前に彦根山に建立されていた彦根寺の山門を利用したものと伝えられている。国宝に指定されている天守さえも、大津城の天守を転用したとの説がある。

DSCF0207  廊下橋と天秤櫓(と堀切)

石垣に至っては、佐和山城、長浜城、安土城の石垣の石が使用されていると言う。言ってみれば彦根城は、廃物を利用しての寄せ集めの城である。しかし廃物利用のリサイクルの城だからと言って城の価値が下がるものではない。彦根城はそういった構成要素の過去の来歴を感じさせない、城としての統一感と堅牢性とを兼ね備えている。

第一に、美しい。

高い石垣の上に、白壁の櫓や門などの建造物群が眩(まばゆ)い光を放ちながら聳(そび)えている。天秤櫓に通じる高い橋桁を持つ木製の橋(廊下橋)は、荒々しく野趣に満ちている。そして本丸に鎮座する三層の天守は、小ぢんまりしたなかにも抜群の存在感を示している。千鳥破風と唐破風を巧みに配し、軒端には金の装飾を施した外観は、実にお洒落な佇まいだ。

そこには、計算され尽くした美の意識が息づいている。

短い工期を余儀なくされ、材料としては他の建造物を転用するという制約の下で、しかも軍事的に堅固な城を築きあげなければならない。そのような状況下にありながらも、よくぞこれほどの美しさを保ち得たものだと、感嘆の言葉を禁じ得ない。

第二に、堅牢である。

濠に面した石垣は、いわゆる腰巻石垣と腹巻石垣を併用している。すなわち、濠から立ち上がる部分に石垣を配し(腰巻き)、その上に土塁を積み上げ、最上部にさらに石垣を重ねている(鉢巻き)。三層構造となった石垣は、江戸城の石垣と同じ構造であり、江戸城以外にはほとんど類例を見ない。

天秤櫓の下の、廊下橋をくぐるように交差する狭い道は、堀切である。道の両側を高い石垣で塞ぎ、下の道を通って攻め込もうとしている敵兵に対して、矢を射かけたり鉄砲を撃ったりして上から攻撃を仕掛ける。これはたまったものではない。

それでも先に敵が進んで行けば、先程の廊下橋を焼き落してしまえば、本丸は完全に独立した空間となる。山の地形を巧みに利用した心憎いばかりの縄張りである。

彦根城は、様々な制約の下での築城であったにもかかわらず、質と実とを兼備した機能的な城であることがよくわかると思う。天下に名城と謳われる所以である。徳川幕府の中で大老職を仰せつかってきた数少ない大名であり、「常溜り」と呼ばれる譜代の大藩としては稀有の地位を与えられた井伊家の居城として、彦根城は実に相応しい城である。

 彦根城の生い立ちを追ってきたが、それでは早速、実際に彦根城を訪れてみることにしよう。

JR琵琶湖線の彦根駅は、東海道新幹線の米原駅から京都方面にわずか一駅の立地にある。 駅舎の2階から眺めると、真正面に彦根城の天守を望むことができる。駅前の雑多なビルが目障りではあるが、小高い山の頂上で存在を主張する彦根城の姿は、旅人の心を強く引きつける。

 余談だが、彦根城の姿は、新幹線の車窓からも確認することができる。米原駅を出てすぐ、京都方面に向かって右側の景色を目を凝らして見ていると、遠く小高い丘のような小山の上に、ちょこんと乗った彦根城の天守が遠望できる。米粒のように小さな姿だが、これは意外と感動ものであるので、是非お試しあれ。

 さて、駅前の広場では、井伊直政の騎馬像が私を迎え撃つ。甲冑姿に身を包み、両脇に長い角を模(かたど)った飾りをつけた兜をかぶり、高い馬上から見下ろす姿は、凛々しい戦国武将そのものだ。鋭い眼光に、思わず射すくめられるような思いがする。徳川四天王の一人として幕府の創建に君臨した直政の功績を想いながら、駅前の道をまっすぐに城へと進んでいく。

 城下町には、どこか独特の雰囲気がある。

 言葉ではうまく表現することができないのだが、街の空気に含まれている気品というか緊張感というのだろうか。武家の街の凛とした気配が、そこここに感じられるのである。その空気の行き着くところ、求心力の焦点に、城がある。

 駅前からまっすぐの道は、一度行き止まりに突き当たる。いわゆる「どんつき」と呼ばれている、城下町にはよくある街の構造である。敵方に一気に攻め込まれないように、道のあちこちにこのような行き止まりやかぎ型を設けるのが、城下町の常識である。

 一度左へ曲がり、すぐにまた右に曲がると、目の前に大きな松の並木と濠が見えてくる。いろは松と呼ばれる松並木の向こう側には、白壁が美しく映える佐和口多聞櫓が待ち構えている。この櫓も、一度右へ曲がりすぐに左に曲がる桝形の構造を持っている。

DSCF2963 佐和口多聞櫓

 佐和口多聞櫓のすぐ手前の小道を濠に沿って右折すると、井伊直弼が青年期を過ごした埋木舎に至るのだが、ここのことは後で触れるとして、道を先に急ぐことにする。

 佐和口多聞櫓を過ぎると、濠に突き当たる。この濠に沿って右に行くと、彦根城第二郭にあたる玄宮園方面となる。反対に左に行くと、本丸に向かう表門橋が見えてくる。橋を渡ったところにあるのが、表御殿を模して造られた彦根城博物館である。

 かつてこの地には、彦根藩の藩政の中心である表御殿があった。厳密な発掘調査をもとに、彦根市制50周年記念事業として彦根市が復元したのが、彦根城博物館である。外観は当時の表御殿そのままとし、内部には井伊家の歴史を中心とした貴重な資料が多数展示されている。

 当時の風俗を描いた国宝「彦根屏風」も、その一つである。実物は思ったよりも小さな屏風だが、金箔のうえに庶民の様子が生き生きと描かれている傑作だ。

 博物館の一部には、表御殿の内部が庭園とともに復元されている。「御殿」と名がつけられていても、意外と質素な佇まいであったことがわかる。

 彦根城博物館を出ると、いよいよ本丸に向かう上り坂となる。

 狭くて急な坂道を息せき切って登っていく。周囲には木々が生い茂り、鬱蒼とした森の中を進んでいくような感じだ。鳥のさえずる声が心地よく鼓膜を刺激してくれる。

しばらく行くと、やがて左右を高い石垣に阻まれた狭い道が現れ、目の前に古風な木製の橋が出現する。廊下橋である。なんと風流な橋なのだろう、なんて感心していてはいけない。今私が立っている場所こそが、先程書いた堀切の底であり、戦いのさなかであれば私は、上方のあらゆる角度から矢や鉄砲を見舞われてこの場に倒れているはずである。

逃げ場のない空間に敵を誘いこんで、一網打尽に叩きのめす。背筋がぞっとするほど恐ろしい仕掛けが、何気なく仕込まれている。

廊下橋をくぐりぬけて回り込むようにして坂道を上ると、鐘の丸と呼ばれる広場(廓)に出る。先程上方に見上げていた廊下橋と同じ高さである。廊下橋を渡りきったところに接続している門のような構えをした白壁の櫓が、長浜城から移築されたと伝わる重要文化財の天秤櫓である。

天秤櫓を抜けてもまだ登り坂が続く。

幅広の石段を登り続けていくと、こちらも重要文化財の指定を受けている太鼓門櫓が見えてくる。こちらは、元々彦根山にあった彦根寺の山門とのことだが、どう見ても城門以外のものには見えない構造をしている。

桝形になった門を抜けると、いよいよ天守が聳える本丸広場に辿り着く。

ついに彦根城の頂点に到達である。ここまで来るのに、いくつの城門をくぐり、どれだけの坂道を登ってきたことだろうか?天守までの道程は、実に遠く険しかった。井伊直政が構想し、井伊直継によって完成された彦根城を、私は自分の心と体とで体感した。

天守は本丸の真ん中に鎮座しているわけではなく、北西の隅に位置している。と言うのは、本丸には天守だけでなく、藩主の居館であった御広間(おんひろま)や宝蔵、それに着見櫓などの建造物が建っていたからである。

これらの建造物群が現存していたら、本丸の景色もさぞや賑やかであったことだろうと思う。それ以外の建物は取り壊されてしまい、今は広々とした空間に天守のみがポツンと取り残されている。

彦根城の天守は、姫路城や大坂城の天守などを想像すると、小ぢんまりしていて物足りないかもしれない。しかし彦根山の頂上に建つ天守を城下町から見上げると、えも言われぬ存在感を誇示して見える。城下のどこからでも、またさらに遠方からでも眺めることができるように、ちょうどいい大きさに計算して造られているのが、彦根城の天守であると言える。

そういう意味で彦根城は、山全体を混然一体として眺めるべきである。

京極氏の大津城を移築したと伝えられる三階三層の天守は、入母屋屋根に唐破風と千鳥破風を巧みに配し、複雑な外観を造り上げている。窓には装飾性に富んだ花頭窓を採用し、軒端には金の飾りを施す姿は、戦いを目的とした城というよりは、風流をより強く感じさせる可憐な城である。

戦場においても粋な赤備えの具足に身を包んで戦った井伊家一流の美学が、城にも息づいているのであろうか?彦根城は無条件に美しい。

優雅な外観とは対照的に、天守の内陣は質実剛健そのものである。太い柱と板敷の床。天井を見上げれば、反りのある太い木材が何本も組み合わされながら渡されている梁。木の冷たい感触がそのまま伝わってくるような、重厚な造りの内部だ。

急な階段を手摺を頼りに上っていくと、やがて最上層に辿り着く。彦根城の天守から眺める眺望は、すばらしい。

目の前一面に拡がる琵琶湖の碧い湖水。風に吹かれてさざ波立つ湖面。築城前に没した井伊直政はこの景色を見ること能わなかったけれど、直継以下の歴代の藩主たちはきっと、この雄大な景色を堪能したに違いない。

幕末の大老・井伊直弼も、いく度(たび)かは今私が佇む場所に立って、飽かず琵琶湖の湖水を眺めたかもしれない。あるいは、甍が並ぶ美しい彦根の城下を満足げに見渡したかもしれない。そう思うと、感慨もひとしおである。

天守からの風景を心に納めて、私は城を後にした。主がいなくなっても、城が毅然として存在し続けていることが、健気に思えてきた。

幸いにして彦根城は、実戦の経験を持っていない。しかし一歩間違えば戊辰戦争の時の会津のように、戦いが現実のものになっていた可能性もある。無数の砲弾を浴び、廃墟のようになりながらも立ち尽くしていた鶴ヶ城の写真を見ると、彦根城が同様の運命を辿らなくてよかったと、心から安堵する。

それにしても、守りの美学とでも言うのだろうか。実際には使われなかったものの、守備のための設備や仕組みをふんだんに備えながら、彦根城はなお美しさを湛えている。追求され尽くした城の機能美を満喫しながら、この後は彦根の城下町を探訪してみることにしたい。

 彦根の城下町は、彦根城築城と同時に建設に着手された。芹川の流れを付け替えて濠の役割を持たせるなど、大きな土木工事を伴うものであった。たしかに、よく見てみると、城の南西を流れる芹川は、不自然にまっすぐな流れになっているのがわかる。

 彦根の城下町は、大きく4つの区域に分けることができる。

 第1郭は、彦根城の中心部分である。先程見てきた天守を中心として、多聞櫓、表御殿などが配置され、内堀と高い石垣で区画されている。

DSCF0429 復元された表御殿

 第2郭は、第1郭を取り巻くように内堀と中堀に挟まれた区域で、内曲輪および二の丸と呼ばれている。ここまでが、いわゆる彦根城だ。家老などの上級藩士の広大な武家屋敷が並び、槻御殿や玄宮園など藩主の別邸や庭園、それに藩校などが置かれていた。

 今では、藩校の流れを受け継ぐ彦根東高校や地方裁判所、それに玄宮園と命名された庭園として整備されている。上級藩士の武家屋敷の大部分は、残念ながら明治維新に際して解体されてしまった。今では、筆頭家老・木俣家の屋敷、黒板塀に白壁が映える西郷家の長屋門、なまこ壁が美しい脇家の長屋が残るくらいである。

 第3郭は、中堀と外堀に囲まれた区域で、内町と呼ばれている。中堀の外側と外堀の内側に面して中級藩士の武家屋敷が立ち並び、その間に町人の居住区であった町屋が設けられているサンドイッチのような構造になっている。

今でも、夢京橋キャッスルロードの北西側の本町2丁目・3丁目、城町1丁目辺りには、町屋の遺構が比較的多く残されている。当時の町名で見てみると、東内大工町、紺屋町、上魚屋町、職人町、桶屋町など、そこにどんな町人が住んでいるかが一目で理解できる町名になっていることがわかる。

旧職人町に隣接する旧連着町の辺りであろうか、何気なく歩いていると、「腹痛石」という不思議な石が路傍に置かれているのに出くわした。この地方でよく見られるお地蔵様のように前掛けを掛けられた、腰の高さくらいの石だ。上には、いわくありげに数珠が置かれている。

藤原時代の昔からこの地にあると言い伝えられてきた石のようで、不届き者が石を持ち去らないように、この石に触れると腹が痛くなると言われてきた。触れると腹が痛くなるというフレーズに私たちは、先に見てきた石田町の八幡神社境内に埋められた三成一族の墓石のことをすぐに思い出す。昔の人々は、こうして大切なものを守ってきたのだろう。

こんな思いがけない見つけものをするのも、伝統ある街並みを歩く楽しさではないだろうか。厳かな武家屋敷とは違う町屋を歩く気楽さみたいなものが、またうれしい。

 第4郭は、外堀の外側で、外(と)町(まち)と呼ばれている区域だ。下級藩士や足軽の組屋敷などが設けられ、町人も居住していた。今の彦根駅辺りは、この第4郭と言えるだろう。

 この地域で今でも特徴的に確認することができるのは、足軽の組屋敷である。夢京橋キャッスルロードを突き抜けてまっすぐに、芹川に向かって細い道を歩いて行くと、立て横に細かく区画された不思議な町割の中にいることに気づくだろう。芹橋1丁目・2丁目辺りだ。

 ここはかつて、彦根藩善利組の組屋敷があったところである。外堀と芹川に挟まれた城下町の最外部に位置する場所で、ここに足軽組の組屋敷を配備することで、城の最前線における防御を意図していた。

 かつては700戸もの屋敷が存在していたが、今でも比較的良く当時の雰囲気を伝えている街並みだ。江戸時代の建物も、十数軒程度は残されている。これらの建物は、小規模ながらも武家屋敷としての体裁を保っており、江戸の昔にタイムスリップしてしまったような郷愁を覚えるお勧めの散歩道である。

 彦根の城下町は、彦根山の麓に新しく一から造り上げた街なので、計画的でかつ機能的な城下町を作ることができた。こうして、城と城下町とが混然一体となって、街全体で敵からの攻撃を防御するコンセプトが徹底された。

 築城当時の街割りは今でもよく窺うことができる。街を歩いていると、そこここで行き止まりやカギ型に曲がる路地に出会う。敵の攻撃時に、まっすぐ侵入されることを防ぎ、道の曲がり角に籠って防戦の機会を作ることを目的としている。最終局面である街路におけるゲリラ戦を想定している用意周到さだ。

 敵が攻めにくい街の構造ということは、そこに住む人間にとっても同様に住みにくい環境にあるということを意味している。彦根市に住む人々は、築城以来数百年もの長い年月にわたって、この住みにくさと同居しながら生きてきたのである。

DSCF3032 城下から見る天守

 江戸時代ももう少し時代が下ってからの築城であれば、もっと生活しやすさに重点を置いた街づくりができたのだろうが、彦根城築城当時の徳川幕府はまだ黎明期であり、大坂城には豊臣秀頼が存命しており、緊張感のある時代であった。

 そんな時代背景などに思いを馳せるのも、城下町散策の楽しみ方だと思う。

最後に、旧花街だった袋町あたりを巡って、彦根城下町の散策を締めくくることにする。

  長い雨季の終り。

  夕空は久しぶりに、伊吹山の山頂まで、くっきりと晴れわたって見えたが、芹川の水

は、見違えるほど水嵩(みずかさ)を増して居た。岸から二尺あるかないかで、水勢はいつになく鋭

い。

  さっきから、堤の上を往ったり来たりして居る浪人風の男があった。歩いたかと思う

と、ふと立ち止まって、水の面に、目を注ぐ。そうかと思えば、首を上げて、涯(はて)しない

大空を遠く眺めた。

 堤の東は、袋町の花街である。ことによったら、堤を下りて、この郭(くるわ)の揚屋(あげや)に、登楼

しようという客が、暫(しば)しの時を消すために、堤の上をそゞろ歩きして居るとも思われな

いことはない。しかし、よく見ると、人態風俗、郭通いの粋客とは、どうしても受取れ

ぬ。

 年の頃は二十七、八。細長の顔で、眉は太く長いのが特長だ。然(しか)し目は切れ長で、色

は白く、鼻筋が通って居るから、理知的ではあるが、柔い相である。

 堤のすぐ下に、軒を並べた娼家の窓から、たか女は、川の水嵩を見ようとして顔を出

した時、堤の上の、その男の姿に目を惹(ひ)かれた。

 見馴れない男だと思った。他国者にちがいない。物騒な時代だけに、藩士達は他国者

の入国には必要以上に神経過敏となって居る。よく、あんなところを、ブラブラ、やっ

ていられると、意外な気がした。

 向こうでは、まだ、こちらが見ているとは気がつかない。桜の立木の下に居て、ジイ

ッと水面を見下ろしながら、何か深い黙想にふけって居るらしい。

 ここに突然引用したのは、舟橋聖一さんの名著『花の生涯』の冒頭部分である。井伊直弼の生涯を題材とし、NHKの歴史大河ドラマの栄えある第一回作品に選定されたのが、この『花の生涯』であった。

 堤の上を往ったり来たりしている浪人風の男こそが、後に京都の大老と呼ばれ志士たちに恐れられた長野主(しゅ)馬(め)(後の主膳)である。娼家の窓から芹川の堤を眺めていたのが、井伊直弼の愛人となり、後に主膳とともに京都で諜報活動に身を投じることになる村山たか女である。

 長野主馬が初めて井伊直弼にお目通りする日、お忍びで直弼のもとを訪れるために日が暮れるのを待っていた光景から、物語が始まる。

 彦根の城下町を歩くのなら、有名なこの作品の冒頭に表されている袋町を訪ねてみたい。そう思っていた。元は彦根城の外堀であったところを埋め立てて作られた大きなバス通りを南に歩き、古い商店街である銀座街を抜けると、花しょうぶ通りという趣のある商店街に達する。この通りの右手(西側)こそが、旧袋町の花街跡である。

 今では河原2丁目という地名に変わっているが、花街の面影を色濃く残した飲み屋街として今も健在だ。昔は娼家だったかもしれない洒落た紅柄格子の旅館などが軒を並べ、『花の生涯』を彷彿とさせる。

 長野主馬は、この辺りをそぞろ歩きながら時間を費やして、やがて暗がりの中を井伊直弼が寓居する埋木舎を訪れたのだろう。

 旧袋町界隈は、できれば日が暮れてから訪れてみたかった。きっと昼間の顔とはまた違った、むしろ往時の花街を想起させる街の姿が垣間見られることだろう。

 城下町には、武家屋敷の顔があり、町屋の顔があり、そして花街の顔がある。これらの異なる街の「顔」が計画的に整然と割り振られ、全体として一つの街としての機能を維持している。

 彦根城と彦根の城下町を探訪した最後に、どうしても触れておかなければならないのが、井伊直弼のことである。築城当時から時代はかなり下るが、彦根と言えば井伊直弼のことを抜きにして語ることはできない。

 井伊直弼は、彦根城第2郭にあたる玄宮園に隣接する彦根藩の下屋敷にあたる槻御殿で生まれた。文化12年(1815年)10月29日のことである。

 槻御殿は今も現存している。井伊家の豊富な財力を駆使して槻の木材をふんだんに使用した豪華な建物だ。城の北東に位置する御殿からは、玄宮園の広々とした回遊式庭園を望むことができる。大名文化の粋を集めた贅沢な空間だ。

 ところが直弼は、前藩主である井伊直中の十四男として生まれた。生まれながらにして藩主になる可能性がゼロに等しい男だったのだ。槻御殿での優雅な暮らしは、長くは続かなかった。

 父・直中の死去に伴い直弼は、弟の直恭とともに槻御殿を退去し、第3郭にある尾末町屋敷に移り住んだ。直弼が17歳の時のことであった。

 この尾末町屋敷のことを、後世の人たちは「埋木舎」と呼ぶ。

   世の中を よそに見つつも 埋れ木の

埋もれておらむ 心なき身は

 直弼は我が身の上を、自嘲するかのようにこうに詠んだ。

 花も咲かず実も付けないままに埋もれていく木とは、藩主になる可能性が限りなくゼロに近い直弼そのものだった。

 しかもその翌年、他の大名家への養子縁組を求めて弟の直恭とともに江戸に出たものの、直恭のみ養子縁組が決まり、直弼は失意のうちに一人で埋木舎に戻らなければならなかった。自暴自棄になり道を踏み外してしまってもおかしくない状況であるのに、直弼はそれでも気持ちを切らすことなく勉学に励んだ。

 いわゆる捨て扶持である。300俵の扶持米を与えられて直弼は、いつ果てるともない部屋住み生活を続けた。しかし直弼の心には、希望の光は消えていなかった。

1日4時間の睡眠時間だったと言う。明日がない身であるにもかかわらず、直弼は自分自身を磨き続けた。

武道では、居合いの道で新派を興せるほどの腕前だった。学問も、洋学も含めてひと通りのことは身に付けた。そのほかにも、歌道、茶道、禅、能、焼き物(湖東焼)と、文化にも非常に深い造詣を示した。

茶道では、千利休以来の茶人との評価も高く、『茶湯一会集』という書物を著している。「一期一会」という言葉は元々は利休が唱えた言葉だが、世に拡めたのは直弼であると言われている。

禅の道では只管打座(しかんたざ)。ひたすら坐って無の境地を追い求めた。

能の世界では、埋木舎時代に「筑摩(つくま)江(え)」という謡曲を自ら創作している。伊勢物語に想を得た作品で、横浜の掃部山にある能楽堂で平成19年(2007年)11月27日、160年ぶりに上演されたことで話題になった。

どの分野を採り上げても、一流人である。口で言うだけなら簡単だけれど、それを実践することは、並大抵の人間にできることではない。

直弼は、32歳までの15年間をこの埋木舎で過ごした。そして弘化3年(1846年)、世嗣であった井伊直元が亡くなると、藩主である兄・井伊直亮の養嗣子として世嗣となり、江戸の藩邸へと移っていった。

13人もいた兄たちは、あるいは亡くなり、あるいは他家に養子に行き、あるいは僧籍に入るなどして、たまたまこの時に藩主の跡目を継ぐことができる状態にいたなかでは、直弼が最適な人材であったのだった。

世の中は、本当にわからないものだ。

しかし、世嗣の座を引き寄せたのは、私は直弼自身であったと思う。直弼が可能性がないにもかかわらず15年間も精進を続けた蓄積が、最後は自らを援けたと思わずにはいられない。

直弼が再び彦根に戻ってくるのは、その5年半後、藩主直亮の死去に伴い、第13代彦根藩主としての帰国時(嘉永4年(1851年))である。この時には、今では彦根城博物館となっている表御殿が、直弼の居場所だったのだろう。万感の思いを込めて、天守から琵琶湖の湖水や城下町を眺めたかもしれない。

私は、直弼の埋木舎での15年間にもわたる耐乏生活のことを知って、感動して『井伊直弼と黒船物語』を書いた。直弼の人生から教えられたことは、数限りない。しかし時代は、直弼を彦根藩主としてのみに止めておくことを許さなかった。直弼が藩主に就任したわずか2年後(嘉永6年(1853年))にペリー率いる黒船が来航し、日本は欧米列強の開国圧力の前に風前の灯状態となるのである。

未曾有の国難に際して、直弼は大老職を仰せつかって事の収拾に努めた。そして就任わずか2ヶ月で、日米修好通商条約締結という大事業をやってのけたのである。この間の事情の細かいニュアンスについては、それが目的ではないのでここでは触れない。

ここでは、欧米列強の侵略の魔手から日本を守り、日本を近代国家へと導いた恩人として、直弼のことを尊敬してやまないということを述べるに止めておきたい。井伊直弼は、彦根が生んだ最も偉大な人物である。

 なお、彦根城の周辺には、埋木舎のほかにも直弼を偲ぶものが残されている。

 玄宮園に近い公園には、衣冠束帯姿の直弼像と、舟橋聖一さんの花の生涯の記念碑が建立されている。不思議なことに、石田三成というと坐像なのだが、井伊直弼というと衣冠束帯姿の立像である。同じく衣冠束帯姿の立像が、横浜の掃部山公園に建立されている。

 また、埋木舎ちかくのいろは松の並木には、直弼の歌碑が建てられている。

  あふみの海 磯うつ浪の いく度(たび)か

  御代にこころを くだきぬるかな

 直弼は桜田門外の変で亡くなる2ヶ月前、衣冠束帯姿(坐像)の絵を狩野永岳に描かせ、自詠のこの歌を書き添えて井伊家の菩提寺である清涼寺(後述)に奉納した。この時にはすでに、直弼は死を覚悟していたに違いない。直弼は自らの命に代えても、日本という国を救おうとしていたことがわかる。この歌は、言わば直弼辞世の歌と言ってもいいかもしれない悲壮なまでの決意が込められた歌である。

 ほかに直弼所縁(ゆかり)の寺としては、城下になるが、龍潭寺、清涼寺、天寧寺などがあるので、こちらも是非訪ねてみたいお勧めの場所である。

 佐和山の麓にある龍潭寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で、井伊家の菩提寺である。枯山水の庭園と、佐和山を借景とした回遊式庭園が美しいことで知られている。敷地内には、直弼の母であるお富の方の墓所がある。

 龍潭寺から程近いところにある清涼寺は、直弼が座禅の修行のために通った寺として有名である。清涼寺も井伊家の菩提寺で、初代藩主の井伊直政はここに葬られている。残念ながら非公開であるため、詳細を知ることはできない。

 天寧寺は、直弼の父に当たる直中が建立した曹洞宗の禅寺である。桜田門外の変の後、現場付近に散在していた血染めの土や遺品を四斗樽に詰めて運び、ここに埋めたと言う。その上には井伊直弼供養塔が建つ。また同じ境内には、「長野義言之奥津城」と刻まれた大きな碑が建っている。長野主膳の墓である。主膳は直弼亡き後も彦根藩の藩政に関与していたが、反論が一転し、捕えられてろくな詮議もないままに断罪となった。文久2年(1862年)8月27日のことであった。

 長々と彦根城と城下町を見てきた。まだまだ紹介しきれないたくさんの魅力を擁した街だが、そろそろ彦根の街を後にしようと思う。江戸時代の歴史を活かし、これから彦根の街がどのように発展していくのか、興味が尽きない。

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12.佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城)

12.佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城)

世に、三成には過ぎたるものが二つあったと言われている。一つは居城の佐和山城であり、もう一つは家臣の嶋左近だそうだ。

連続3回に及んだ三成探訪の旅の最終回として私は、三成には過分のものと揶揄された一つである佐和山城祉を訪ねてみることにしたい。

佐和山城は、現在の近江鉄道本線の鳥居(とりい)本(もと)駅と彦根駅との間に存する標高232.5mの佐和山に造られた山城である。石田三成の居城として知られるが、実は三成が佐和山城主であった期間はほんの5年程度の期間に過ぎず、それ以前は湖北地方と湖南地方との接点にある城として、戦国武将たちの争奪目標となっていた。

古くは京極氏、六角氏、浅井氏が三つ巴で覇権を争っていたが、その後浅井氏が支配するようになり、重臣の磯野員(かず)昌(まさ)がこの城を守った。浅井長政と同盟を結ぶ織田信長も、当時の拠点であった岐阜と京都を結ぶ交通の要所として佐和山城をよく利用した。

琵琶湖を背にする立地は、琵琶湖の水運を利用した京方面への移動や物資の運搬を容易にした。城の正面にあたる大手筋(鳥居本方面)には、江戸時代の中山道の原形となる東山道が走っていた。東国と京とを結ぶ接点として、また北国街道を介して北陸方面ともつながりのある、まさに交通の要衝にあったのが佐和山城であった。

名城として世に知られていないのは、関ヶ原の合戦で三成が敗れた後、佐和山城を賜った井伊直政によって徹底的に破壊されたためである。

「破城」という言葉がある。

私は、佐和山城のことを調べるまで、この言葉を知らなかった。なんとも恐ろしい響きと字面(じづら)とを持った言葉だと思う。初めてこの言葉を聞いた時、私は戦慄で背筋がぞっと冷たくなるのを感じた。

破城とは、二度と軍事目的のために使用することができないように、徹底的に城の機能を破壊することを言うのだそうだ。具体的には、天守をはじめとした数々の建造物を取り壊し、濠を埋め、石垣を崩すことが主な作業と思われる。

そして破壊した城の材料そのものを、ほとんど残らず佐和山から運び出した。単に破壊しただけであれば、石垣の石などはゴロゴロと周囲に残されていることと思う。そこに石垣があったということさえ今はわからないほどに、完全に城の姿は消し去られたのであった。

先に訪れた小谷山にもほとんど城としての面影が残されていなかったのは、やはり羽柴秀吉らによって破城を受けたからだろうと私は考えている。

そこまで徹底的に消し去らなければならなかったのは、実は佐和山城そのものではなくて、石田三成という人の名声だったのではないか。私はそのように思えて仕方がない。家康は、三成を亡き者にしただけでは事足りず、なおも三成を異常なまでに恐れていたのではないだろうか?

後世の人たちが家康を賞することなく三成の遺徳を讃えるようなことがあってはならない。家康が本当に恐れていたのは、私はこのことだったのだと思う。

だから、三成に関わるものは徹底的に破壊した。物理的な物も人の思いも破壊し尽くそうとして、井伊直政をして人々の記憶から三成の存在を完全に消し去ろうとした。佐和山城の破城とは、そういうことだったのではないかと、私は思っている。

さらに、佐和山城が完全に消え去ってしまった背景には、城の機能を消去し石田三成の記憶を抹消するという軍事的戦略のほかに、現在ほど物資が豊富に存在しているわけではなかった戦国時代から江戸時代初期においては、廃物利用、今で言うところのリサイクルの精神が普通に存在していたという側面もあったのではないかと考えている。

特に、関ヶ原の戦いが終わったもののまだ大坂城に豊臣秀頼が存在していた当時の状況では、大坂城への睨みを効かす存在として彦根城を急いで築城する必要があった。だから、ゼロから作るよりも既存の施設を転用した方が効率的であったという合理的観点もあったに違いない。

石田三成の怨念が籠っている石を彦根城の石垣に転用するというのはあまり心地のいいことのようには思えないが、昔の人はそのあたりの感覚には比較的おおらかだったのかもしれない。城の石垣の材料として墓石が転用されたという話も聞いたことがある。

 それでは、石田三成の居城であった佐和山城とはどんな城であったのだろうか?時代を天正年間に戻して、想像力を働かせながら当時の佐和山城の様子を見ていくことにしよう。なにしろ破城に遭っているため、正確な佐和山城の姿を復元することは誰にもできない。様々な説があるなかで、私が最も素直に受け入れることができる説を取捨選択しながら、復元を試みてみることにしたい。

 石田三成が佐和山城に入った時期は、天正18年(1590年)7月とも文禄4年(1595年)7月とも言われていたが、近年の研究でやっと、天正19年(1591年)4月であったことが確定している。

 こんな基本的な事実でさえなかなか確認できないところに、石田三成の神秘性が感じられる。石田三成が正規の歴史に登場するのは賤が岳の戦いを待たなければならないし、その後も諸説紛々としていて、関ヶ原の戦いで敗戦したのちに田中吉政の手の者に捕獲された状況に至るまで、正確なところがわからない。

 佐和山城の正面にあたる大手は、城の東方の鳥居本側にあった。

 佐和山の山頂に向かって東から西へ、2本の谷が伸びている。今の近江鉄道本線が通るやや広い谷がメインの谷で、中級以上の侍屋敷が立ち並んでいた地域と思われる。この谷を囲むように、佐和山の稜線上に三ノ丸、二ノ丸、本丸、太鼓丸が⊂の字型に並べられている。

 もう1本の谷はメインの谷の北側にあり、やはり侍屋敷があったと伝えられている。

 一方の城の西側は、石田三成が入城した当時は山際まで入江内湖が入り込み、背面を琵琶湖と琵琶湖に続く内湖とにより守り固める地形であったのではないかと言われている。

佐和山を取り巻く現在の街の状況から、大手口は佐和山の西側にあったと思い込んでいた私であったが、西側が発展するのは彦根城が築城される時期以降のことであるらしい。この時期に大手口が佐和山の東側から西側に付け替えられた可能性を主張する学者もいる。

佐和山城には五層の天守が聳えていたとの説がある。名城と謳われた城の頂上には美しい天守がよく似合う。真っ赤な夕焼けの空を背景に黒板張りの五層の天守が燃えるように聳える様を想像するだけで、胸がわくわくしてくる。実際の佐和山城は、どんな天守を擁していたのか?興味は尽きない。

ところが、佐和山城の天守について記述された信頼できる文献や絵画は一切残されていない。佐和山城の記憶は、徹底的に抹消されてしまっているのである。

一般に、山城の天守はそれほど大きなものはないと言われている。巨大な天守が登場するには信長の安土城の出現を待たなければならないし、平山城や平城と違って縄張り自体がすでに十分な高さにある山城には、五層の天守を必要としない。

浅井長政の小谷城の天守も、非常に簡易なものではなかったかと言われている。佐和山城の天守も、どちらかと言えば質素なものであったと考える方が、残念だが正しいかもしれない。平時は山の麓で政務を執り、非常時のみ山の上に籠ったのであろうから、立派な天守の必要性は極めて低かったのではないかと考える。

佐和山城が落ちた時、山は炎に包まれて、女たちが城の石垣から身を投げて果てたという悲しい言い伝えが残っている。今でも本丸の南にある女郎ヶ谷と呼ばれる谷が、その時の谷であったと言われている。

ぞっとするような凄惨な光景が想像されるが、実は近年の研究によると、佐和山城はほとんど抵抗らしい抵抗をすることもなく開城したのではないか、とする説が有力だ。

三成が関ヶ原の戦いに出陣している留守を守っていたのは、三成の父・正継と兄・正澄であった。秀吉の命に従って全国を飛び回らなければならず佐和山に留まることができなかった三成に代わって、平時から佐和山の領民たちを統治していたのは、正継や正澄であったと言われている。

関ヶ原の戦いで三成率いる西軍が敗れたことは、城中にいる正継や正澄にもすぐに伝わったに違いない。緊迫した城内の様子が想像される。

家康は時を移さず小早川秀秋や田中吉政らをして佐和山城に遣わしめ、城を完全に包囲した。関ヶ原の戦いからわずか2日後の9月17日のことであった。天下の大勢がすでに決してしまった今となっては、城兵たちの戦意を掻き立てることはもはや不可能だったに違いない。

守兵はわずかに2,800人。一方の寄せ手は1万5,000人である。内部から徳川軍への内応者も出て、正継や正澄もなす術がなかったのだろう。本丸を守っていた正継と三ノ丸を守っていた正澄は自刃して果てた。こうして、名城と謳われた佐和山城は、さしたる抵抗もできないままに呆気なく落城したのであった。

落城に際して、琵琶湖を背景に真っ赤に燃えあがる佐和山の姿が想像されるが、佐和山城は炎上しなかったというのが最近の通説のようである。落城が開城に近い状態であったこと、本丸や二の丸に残されている瓦に火災の痕跡が認められないこと、関ヶ原の戦いの武功により佐和山城を賜った井伊直政が速やかに入城した事実などから、学者たちは佐和山城炎上説を否定している。

落城後の佐和山城は、井伊直政らによってほとんど痕跡を残さないほど徹底的に解体されたが、丹念に見ていくと、彦根やその周辺に「面影」を色濃く残していることがわかる。佐和山城が炎上しなかったことを証拠づけることにもなると思うのだが、元佐和山城の建造物と伝えられる遺構が転用されて彦根市街やその近辺に存在している。そんな佐和山城の痕跡を探し訪ねて彦根の街を歩くことも、私の楽しみの一つだ。

城下町の町屋の雰囲気を再現した新しい街並みが立ち並ぶ夢京橋キャッスルロードのちょうど真ん中に位置する赤い門の大きな寺が、宗安寺である。この深みのある朱色を湛える門こそが、佐和山城の大手門を移築した門であるという。

DSCF3049 宗安寺(彦根)表門

DSCF3052 宗安寺(彦根)表門(部分)

宗安寺の表門はいかにも城門らしく、馬に乗って出入が可能なように敷居が設けられていない。元禄時代に起こった彦根の街の大火でも奇跡的に焼け残り、往時の姿を今に伝えている。

よく見ると、太い門柱には継ぎ接ぎ補修の跡が残り、門扉には横に引っ掻かれたような傷跡が窺える。伝承が正しければ、長い間佐和山城と彦根の街の歴史を見続けてきた貴重な遺構ということになる。

宗安寺のほかにも、佐和山城の痕跡はいくつか残されている。

彦根城の西側の栄町一丁目にある蓮成寺は、佐和山城の法華丸の建造物を移築したものであると伝えられている。法華丸は、三成が若き日に修行の場としたと伝えられる古橋にある法華寺が、三成のために普請したものである。ここにも三成の熱い魂が籠っている

また、花しょうぶ通りにある妙源寺の本堂と庫裏は三成の佐和山御殿を、山門は佐和山城の城門を移したものと言われている。

さらに、鳥居本宿にある専宗寺の太鼓門の天井には佐和山城の用材が使用されている。前著『井伊直弼と黒船物語』で紹介した高源寺の山門は、佐和山城の裏門であると言われている。

DSCN1539  専宗寺(鳥居本)太鼓門

こうして見てくると、徹底的な破城に遭ったとは言うものの、佐和山城の面影は三成の魂とともに、今もなお彦根城下に色濃く残されていることがわかる。三成の記憶を完全に消し去ることは、徳川家康や井伊直政を以てしても、結局は能(あた)わなかったということなのだろうと思う。

佐和山城と、佐和山城落城にまつわる悲話を見て来た機会に、ここで三成の功績について考えてみることにしたい。

侍大将としての器量はともかくとして、官僚としての三成の能力は当時の武将の中では群を抜いていて、実は徳川幕府260年の礎を築いたのは三成であったとは、先に紹介した歴史学者太田浩司さんの言である。

意外に思う方も多いと思うので、少し詳しく語ることにする。

ここからは尊敬する太田さんの受け売りである。これまでは石田三成のことは、豊臣秀吉の恩義を忘れずに奸臣徳川家康に挑んだ「忠臣」という側面のみが強調されて評価を受けていたが、太田さんは三成のことを「構造改革を断行した男」と捉えている。

 三成をどう見るかは、もちろん個人の自由であるが、私は彼を「忠義の臣」として捕(ママ)え

るのは、正しくないと思っている。江戸時代の三成評を否定しようとしている我々が、

江戸時代の儒教思想に基づいた「君に忠」の思想に呪縛されてどうするのであろう。そ

もそも三成が有能な政治家であり、官僚であれば、新たな日本の国家像について、明確

な方針を持っていたはずである。高い志を掲げる政治家や官僚が、「忠義」という二文字

だけで果たして行動するであろうか。私は三成を、そんな姿に矮小化したくない。

 さらに続けて、

  小和田哲男氏は三成を、豊臣政権の官房長官として、政策通の仕事ぶりを高く評価す

る。それはもっともだが、私はさらに進んで、三成は戦国という世が持っていた社会構

造を打破し、その上に新たな政治・経済システムを構築した政治家として評価したい。

もちろん、この仕事は彼のみで行ったわけではないが、彼が中心であったことは、これ

から述べるさまざまな状況証拠から明らかである。つまり、三成がいなければ、古い権

利におかされた戦国時代とは決別できず、江戸時代という新しい社会は生まれなかった

のである。

 と述べている。長くなるが、もう少しだけ、太田さんの文章の引用をお許しいただきたい。

本質は、三成と家康の国家構想をめぐる戦いだったと結論できる。この戦いの後、三

成が目指した豊臣家による先鋭な中央集権国家は生まれず、地方分権にも重きをおく温

厚な中央集権国家が出来上がった。政治的にはそうであったが、経済的・社会的なシス

テムは、三成らの秀吉政権が造り上げてきたものを踏襲する。江戸時代は、三成ら豊臣

政権の「構造改革」の上に花開いたのである。

 前掲書の巻頭で太田さんは、渾身の力を込めてこのように述べられている。今まで三成のことをこのような観点から評価した人はいなかったのではないだろうか。太田さんの説は、私にとって非常に新鮮で、かつ素直に頷けるものだった。

太田さんは著書のなかでこの考えを歴史学者らしい正確さで一つ一つ論証されているが、そこまで引用していくと本を丸々引用してしまうことになるので、要点のみを簡単に紹介していくに止めることにする。

 三成が中心となって敢行した「構造改革」は、具体的には「惣(そう)無事令(ぶじれい)」と「喧嘩(けんか)停止令(ちょうじしれい)」、および「刀狩り」と「太閤検地」に代表されている。そしてこれら4つの施策は、互いに密接に関連し合っている。

 「惣無事令」は大名に対して、「喧嘩停止令」は百姓に対して出されたものだが、いずれも趣旨は同じで、「私戦」を禁止するものである。それまでは、紛争解決の手段として武力による解決が一般的だった。

 大名同士の領土紛争にしても、百姓同士の水の利権や山の所有権をめぐる争いにしても、強いものが勝つのが当然の帰結であった。争いに勝つためには、多量の武器を保有しておく必要があるし、戦うための人材を確保しておかなければならない。

 三成は、これらの「私戦」を禁止して、訴訟による平和的解決を求めた。豊臣氏を裁く立場に置くことにより地位を確実なものとするとともに、私戦を根絶させることにより不要な武器や侍を駆逐することができる。「刀狩り」や「太閤検地」にも通じていく施策であることが理解されると思う。

 後述する刀狩りと太閤検地は有名だが、「惣無事令」と「喧嘩停止令」は日本史の教科書には出てこない。しかしながら、この2つの法令によって初めて、豊臣の地位が臣下である他の大名とは一線を画することを可能にしたのである。

 現に、天正15年(1587年)の島津征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐など秀吉の名の下に行われた「征伐」は、禁じられた「私戦」を行ったことに対する秀吉の「制裁」であった。

 さらに三成は、征伐の対象となった島津氏や佐竹氏を「指南」して秀吉の許しを取りつけることにより、彼らに恩義を与えることにも成功している。これらの恩義が後の関ヶ原の戦いにおける西軍の構成要素にもなっていくのだが、反対に三成が秀吉の腰巾着であるような悪いイメージを持たれてしまうのは、秀吉への取り次ぎ役としての印象のみが後世に強く意識され過ぎてしまった結果なのかもしれない。

 刀狩りと太閤検地については、歴史上有名な施策であるので、内容自体の説明は不要と思われる。農民から刀などの武器を取り上げて武力蜂起ができないようにするとともに、全国の耕地を実測することにより生産高を正確に把握するための施策である、というところまでは誰も異存はないだろう。

 ところが、そういった表面的な目的だけではなく、刀狩りと太閤検地にはもっと重大な意図が籠められていた。

 刀狩りは、農民を抑圧するための施策ではなく、農村から武力を放逐し、法に基づいた秩序ある農民社会を作るために行われたものであった。ここで言う「武力」とは、刀や槍などの武器のことのみを言っているのではなく、村に居住する「侍」を追放することも併せて意味している。そのことは、次に説明する太閤検地と合わせて考えると、より鮮明に理解ができるだろう。

 太閤検地は、生産高を正確に把握することを意図したものであったが、実はそのこと以上に、村に存在していた「侍」の経済的権益を否定して、耕地を真の耕作者に開放することを最大の目的としていたのである。

 村には、農民とも侍ともつかない者が多数存在していた。平時には耕作に従事しているが、一朝事ある際には武力を行使して侍となる輩(やから)である。彼らは、農民から小作料を搾取していた。太閤検地における検地帳には、これらの侍たちの権利に関する記述は一切なされておらず、真の耕作者の氏名のみが記載されていた。これによって、耕作者の権利が公的権力によって保証されたのである。

 太田さんは言う。太閤検地は、戦国の「農地解放」とでも言える政策である、と。

 なるほど、そういうことだったのかと、目から鱗が落ちたような感激に浸ったのは、私だけだろうか?ここから先は、さらに重要な内容となるので、再び太田さんの記述を引用することをお許しいただきたい。

この結果、経済的基盤を失った「村の侍」、すなわち秀吉政権の武士たちは、村に住め

なくなった。それでも住む者は、武力も特権もない百姓になったのである。村に住めな

くなった武士たちは、村を出て城下町に集住するようになる。江戸時代の社会には、農

村は生産を行う農民が住む場所、町は消費を行う武士が住む場所という、区域的な住み

分けが存在した。この仕組みは刀狩や太閤検地の結果、初めて成立したのである。これ

は考えてみれば、自己犠牲をともなう大変な「構造改革」であった。政権内部にいる武

士たちの権益を、同じ政権内の武士が否定してく作業だからだ。当然反発も多い。江戸

時代の大名や家臣が、形の上ではその所領を持ち得たのは、この反発を背に負った家康

による反動が影響している。三成らの改革がそのまま進めば、明治政府のように、大名

は中央からの任命制となっていたかもしれない。

  このように、三成ら豊臣政権が行った経済・社会改革は、二つの武力を村落から追放

することだったのである。そのことによって、武士と農民が分離され、武力を独占した

中央政権によって、村落の秩序を保つことができるようになった。兵農分離の意味する

所である。村に武器があり隣村と戦い、「村の侍」が住み、絶えず住民が合戦に駆り出さ

れる状況では、安定的な経済発展は望めないことを、三成ら豊臣政権の奉行は痛いほど

わかっていた。(中略)この三成の主導した豊臣政権の改革は、まさに日本近世への「構

造改革」であり、これなくして、日本は新たな時代を迎えることはできなかった。

  社会は「忠義」や「友情」では動かない。社会を正そうとする「正義」のみが、国や

社会を変えていくと私は信じたい。三成には、それがあったのである。

 太田さんが熱く語ってくださった言葉は、私にとってすんなりと心に沁み込んでいく言葉であり、本質を捉えた言葉であると思う。

 反対に、そのような世の中の構造を変え得る人物だったからこそ、家康は三成亡き後も三成の名声が世に拡まることを極度に恐れ、佐和山城とともに三成の記憶を人々の脳裏から抹消することに躍起になっていたのではないかと思い当った。

 ずいぶんと長く三成のことを見てきてしまった。

 最初はこんなに長くなるつもりはなかったのだが、見ていけばいくほど、石田三成という人物の奥の深さが感じられて、興味が泉のように後からあとから湧き上がってくる思いだった。

 この章の最後に、石田三成の最期について触れて、総括としたい。

 関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の麓を経由して、最期は単身で母方の故郷である木之本の古橋に向かった。樵(きこり)の姿に身をやつし、木の実などを食べながらの悲惨な逃亡だった。茶畑で動けなくなっているところを地元の住人に助けられたりしながらの苦行であった。

 そこまでして三成が「生」に拘ったのはなぜだったのだろうか?

 武運なく、志空しくして戦いに敗れた侍大将は、潔く自らの命を絶つのが当時の慣行ではなかったのか。敗戦後の戦国武将として三成が取った行動は、極めて稀な行動であったと言わざるを得ない。

 前著『井伊直弼と黒船物語』でその生涯を見てきた井伊直弼の最期の潔さと比べたら、まさに正反対の行動である。同じ湖北の地に輩出し、共に湖北の地を代表する人物でありながら、その対照性が非常に顕著であることが興味深い。

歴史に仮という言葉はあり得ないが、もしも井伊直弼が石田三成の立場であったなら、直弼は間違いなく、関ヶ原の地において自決していたであろう。

目を覆わんばかりの往生際の悪さである。

でも私は、三成の気持ちがわからないでもない。

彼の発想は、近代の人たちの発想と同じなのではないかと思う。命をけっして粗末にしない。たとえ僅かであっても可能性があるのであれば、無駄に命を捨てることなく、最後の最後まで望みを諦めない。

 生き恥を去らすことはみっともないことではあるけれど、大望のためであれば敢えて甘受する強い精神力。自らの名誉のためであったら、私は三成は関ヶ原において自決していただろうと思う。

 自分の命への執着ではなくて、世の中を変えていきたい、変えなければならないという強い使命感。敢えて三成が選択した道は、むしろ茨の道であった。

DSCN1002 石田神社 残紅葉歌碑

散り残る紅葉は ことにいとおしき

 秋の名残は こればかりぞと

 あらためて、三成が詠んだ「残紅葉」の歌を思い出した。

先に私はこの歌を、三成の生への執念と書いた。三成生誕の地で見た時にはそう思えたこの凄まじい歌だが、三成の最期に及んで再びこの歌を見てみると、また違った意味合いに見えてくるような気がする。

最後の一枚となって散り残っている真っ赤な紅葉の葉は、三成の命そのものではない。秋の陽光を浴びて輝く赤い紅葉の葉は、豊臣時代に三成が築こうとした新しい世の中への希望の光だったのではないだろうか?

理想の社会を創ることを目指して日々戦いだった三成の人生。やがて最後の一枚の葉が、静かに音もなく散っていく……。

 三成は、徳川方の武将である田中吉政の手の者によって捕らわれた。吉政は、三成と同じ湖北地方(浅井郡宮部村・三川村)の出身者で、三成とは旧知の間柄であった。土地勘もあり、三成の行動を正確に予測しえた唯一の人物であったに違いない。

捕縛時の正確な状況は、諸説があってわからない。

古橋は、母方の故郷である。若き日に三成自身が法華寺三珠院にて修行を行っていた土地であったかもしれない。三成を守り匿おうとした人々が多数いた一方で、吉政に情報を密告した人間がいたということであろう。

9月21日に捕縛された三成は、25日に大津に滞陣していた家康のもとに送還された。家康は三成を厚くもてなしたという。単身で捕えられ、すでに籠の鳥となっている三成のことを、家康は何も恐れることはない。余裕を持って、あるいは優越感を持って遇したにすぎない。

一歩間違えば、反対の立場に立っていたかもしれないなどとは、微塵も思わなかったに違いない。勝者としての全幅の余裕をもって、家康は三成を扱った。

26日には家康とともに大阪入りをして、大坂、堺、京都の市中を引き回された後、10月1日に京都の六条河原にて処刑された。41歳の波乱に満ちた短い生涯であった。

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