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周辺のご案内 Archive
嵐の前の猿
- 2009-10-08 (木)
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昨10月7日、台風が来る前のことでした。山から一匹のボス猿(か、ボス猿の側近と思われます)が下りてきて、心配そうに、空の雲の流れを眺めていました。いつもなら、カメラを向けた途端、逃げていくのに、このときは、カメラを向けても全然気にすることなく、じっと空を見つめていました。
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浅井長政公の守護神
- 2009-07-19 (日)
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須賀谷温泉の位置する須賀谷という土地は、昔、浅井長政に仕える武士の集落でした。
須賀谷温泉から歩いて1分足らずのところにある観音堂跡は、小谷城3代の守り本尊である仏像が落城での難を避けるため且元公らが城主長政の命を受けこの地に運び降ろし後、ここで祀った堂跡とその石積です。
戦の後、片桐且元公のご氏族の方が守っておられましたが、あまりにも立派な観音像であるために、浅井町にその保存を託されたとお聞きしております。そのご本尊は、現在、五千賢の館に保管・展示されております。
五千賢の館は、須賀谷温泉から車で約5分ほどのところにございます。是非一度足をお運び下さい。
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西池にはすの花が咲き始めました。
- 2009-07-19 (日)
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このところ、梅雨空続きで蒸し暑い日が続いています。
今朝、久しぶりにお客様と一緒に西池に行って参りました。
涼しげに咲くはすの花に心が洗われる思いが致しました。
朝、森林浴を兼ねて散歩がてらに西池を尋ねられるのも赴きがありますよ。
西池は、こだまが響きわたって、お子様も喜ばれます。
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浅井三姉妹(茶々、江、初)姫が育てられた小谷山 実宰院(じっさいいん)
- 2009-06-18 (木)
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須賀谷温泉からそれ程遠くない距離のところに、平塚という20戸足らずの小集落がありその中ほどに実宰院という曹洞宗のお寺があります。
ここには、浅井長政の腹違いの姉、昌安見久尼が開基して住んでいました。
小谷落城(1573年8月)の前夜、浅井長政は、妻お市の方と、茶々、お初、お江の娘3人を小谷山東部の「嫁落としの岩場」から「梯子岩」を経て池奥へ逃れさせ、ここで、用意させておいた野良着に変装させ、坂を経て、北野を通り田川堤を下って、平塚の実宰院に逃れさせ、長政の姉、昌安見久尼がお市の方と娘たちをかくまったのです。
かくまわれたというだけあって、須賀谷温泉から近いといえども、とても行きにくい、わかりにくい場所にあります。
さて、この浅井三姉妹、父である長政を小谷落城で失い、母お市の方も、その後再婚した柴田勝家とともに、北之庄城(福井)で死んで、全くのみなしごとなってしまったのですが、この三人娘を命がけで守り立派に育て上げたのが 彼女達のおばさんにあたる 昌安見久尼 だったのです。彼女は子育て名人として知られています。仏教の信仰も厚く、また、学問教養にもすぐれていた 見久尼は、兄長政から託された3人の娘の養育のため、日夜心をくだき、数々の努力を重ねたようです。 寺の中に閉じ込めて学問を子どもに押し付けるのでは、人間として成長できないと考えた見久尼は、戦国の乱世の底辺で骨身を削って働く農民の姿を見せ、農民と和合させることも大切だと考えました。また、この近辺には、天然記念物(戦国時代にはモチロン指定されていなかった!!!)であるハリヨが今も泳いでいますが、浅井三姉妹もきっと、ハリヨを川で採ったり、タンポポを摘んだり、浅井の恵まれた自然の中ですくすくと育ったことでしょう。
この浅井での心豊かな暮らしがあったからこそ、浅井三姉妹は、後に歴史に名を残す賢明な女性となったのでしょう。
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ほたる
- 2009-06-13 (土)
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6月11日22:00 米原三島池付近 120ミリ f5.6 7分
6月11日ご宿泊の山田様が送って下さいました。とても素敵な写真をありがとうございました。
写真左下に小川が流れていて、その向こうに木立が見えます。
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石田三成ゆかりの地(再起を信じて辿った山中の道 谷口)
谷口の杉林の道。三成は関が原に敗戦後、この道を逃げ、母の里(木の本の古橋)へと向かいました。どんな気持ちだったのでしょう。三成の残した功績は、秀吉の刀狩令、太閤検地を実施したという点にあります。当時農村には刀が氾濫しており、罪のない農民が武士に殺されてしまうことが多かったのですが、三成は、武士に刀を捨てて平民になるか、中央に行って武士を続けるかの選択をさせ農村と中央部とを分離したのです。これは、今でいう構造改革なのです。 ![]()
三成は母の里(古橋)へ逃げる前の晩、谷口にある民家にかくまってくれるように頼みました。その家の人たちは、三成を丁重に迎え入れ、畳をまくって床下に三成をかくまりました。三成はこの家の人たちがしてくれた親切に感謝し、石田の姓を与え、以後末永く、石田姓を守ってくれるようにと言いました。同時に、身につけていた短刀と鳩の家紋も与えました。今も谷口には石田さんがおられ、その家では三成が居た場所はもったいなくて近寄れないとし、石田神社(右)として今も祀っておられます。
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小谷山の一角 本宮の岩屋巡り 一日回峰行
5月23日、小谷山の一角にある洞窟(本宮の岩屋)への一日回峰行がありました。ここは、物部守屋が蘇我氏と戦って負けて逃げ隠れていたところです。
朝8:30参加者続々登場。聞くところによると、かなりハードとのことで、私はご辞退するはずだったのに私よりご年配のご婦人方に戒められ参加することになってしまいました(泣)。
主催者側が参加者の為に杖を用意してくださってましたが、うちの社長の杖は、自前。魔法使いの杖みたい!!
登山の前の準備体操。ラジオ体操第一よ~うい~!!
いざ出発。地元のテレビ局も取材にきました。このお姉さん、途中までカメラを担いで山を登られました。ご立派!!
まずは、浅井家に仕えた侍女のお墓から。
相応和尚(そうおうかしょう)生誕の地(写真がずれました!!)相応和尚は、比叡山の千日回向の創始者で、もともとこのイベントはこの和尚さんを偲んで始められたものです。
相応和尚(そうおうかしょう)は、菅原道真公と互いに学び支え合う無二の親友だったそうです。菅原道真公が右大臣のとき、左大臣と意見が合わず九州に左遷されることになり、和尚との別れの際、「死んだら、これで弔ってくれ。」といって2品の形見を手渡しました。そのひとつが、菅原道真公自作の肖像です。
もうひとつの形見の品はこの鏡。今も残っているなんてすばらしい!!!
早くも出遅れてます!!さあ、いよいよ登山。もう後へは引けません!
話は変わりますが、向うに見える小さな集落が谷口(たにぐち)。石田三成は、関が原に負けて、写真右手の山道を逃げて、この集落で一夜を過ごしました。
この辺りから、私メは、へばって参りました。写真の数も口数も激減していきます。ごめんなさい。
こじきさかと読みます。ここで、姉川の合戦に負けて逃げてきたお市の方と三姉妹は、乞食の服装に着替えて実宰院(じっさいいん)に逃げこんだといわれています。山なので、坂があるのはしかたない。
松くい虫にやられた松。
ひたすら無言で歩きます。かなりへたばってます。
本宮の岩屋へは、一旦登って、また少し下ります。
おお、いよいよ洞窟が見えてきました。しめ縄がしてる???
立派なしめ縄。しめしめ・・・ジョークを行ってる余裕は全くなし。
メタボ検診ではありません。でも、こんなに狭いところを通らなくてはならないのです。ここの奥が洞窟になっています。
地元の方が、こっちに右足かけて、こっちに左足のせて、一段下がって・・・と誘導して下さって、なんとか、洞窟の中にやってきました。とりあえず真っ暗闇です。とりあえず、シャッターを押したけれど、何がなんだかちんぷんかんぷんです。川西さん(指導員さん)の携帯が鳴りました。なんだか、そんなことでさえ、ほっとします。「こんなとこでも通じるんや。」と川西さんがおっしゃいました。天井に懐中電灯をやってみたら、こうもりが100匹くらいぶら下がってました。ぎゃ!!
物部守屋氏はこんなところに、隠れていたんだ!!村の人たちもここまで、食事を運んであげたのですね。なんだか、じ~んと来てしまいました。洞窟から出てきたある男性は、「心が浄われた気持ちだ!!」とおっしゃってました。すばらしい。
洞窟に別れを告げ、登山を続けること20分。さて、これから以降は、戦国時代の史跡がどんどん現れます。お、これは、須賀谷温泉と同じ色の水たまり・・・。やっぱ、お市の方は、須賀谷温泉のお湯に浸かっていたんだ、ここで確信した次第です。
ちょっと、平坦な場所に出てまいりました。昨日雨が降ったので、木々がきれいです。
写真でわかるかな?べこんと、道が深く掘り下がってました。これは、自然にこうなったのではなくて、敵陣の馬が足をとめるように、わざとやったそうです。
本丸への表示と、刀洗池。
石垣が少し残ってました。
やっと着きました。本丸。ここでお昼ご飯。
赤尾屋敷跡への表示。家来の屋敷で、長政公は自刀(泣)
馬洗池。
首切石って、小さい頃は呼んでた・・・
小谷山にはカモシカも生息しています。
小谷山の麓に広がる西池(ため池)。こだまが響き、幻想的な池です。この池は、物部氏が住民たちの厚い心に感謝し、貯水の方法を伝授したものです。物部氏は西池のほかにも、たくさんのため池をこの地に作りました。そのおかげでこの地は豊作に恵まれました。人々は物部氏に感謝し、物部氏が亡き後も、波久奴(はくぬ)神社に霊を祀り大切に思いました。今もなお、この神社は「はぎのさん」と呼ばれこの地の人々に親しまれています。
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石田三成ゆかりの地(観音寺)
- 2009-05-04 (月)
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豊臣秀吉と石田三成がであった場所が観音寺です。
秀吉が鷹狩りで観音寺に立ち寄った時に、寺の小僧をしていた石田三成(いしだみつなり)との出会いがありました。
鷹狩りの帰り、汗にまみれて、「お茶を一杯飲ませてくれ。」と言ってきた秀吉に対して、三成は、まず一杯目は冷たいお茶を大きな茶碗になみなみとついで差し上げました。「もう一杯くれ。」と言った秀吉に対して、今度は、少しぬるめのお茶を湯のみ半分くらいにして差し上げました。さらに「もう一杯」と言った秀吉に対し、今度は熱くて香り高いお茶の味を愉しんでもらおうと、小さな湯のみに少しだけ差し上げました。このお話は石田三成(いしだみつなり)の「三碗(さんわん)の才」として今も語り継がれています。
三成が秀吉に献上したお茶を点てるために水を汲んだという井戸です。今もちゃんと残ってる、ということは、このお話は本当だったということなのでしょう。
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石田三成ゆかりの地(長浜市石田町)
長浜市石田町(当館より車で20分)は、石田三成の生誕の地です。この地は昔、近江ベルベットという質の高いビロードの生産が盛んでした。この写真(↓)は当時の工場です。レンガが作りでアーチ状の窓など、とても素敵なデザインです。
ここには、石田三成会館や、石田神社があります。訪れる人の誰もが、隅々にまで手入れが行き届いていることに驚かれます。石田三成顕彰会の人たちが長年にわたりこの地を守り続けてこられたのです。
小さな子どもさんも清掃作業に積極的に参加されてました。地元の方々が三成公を大切に供養されていることが伝わってきました。
会館の中は三成ゆかりの資料が展示されています。館内で顕彰会の人にお話を伺う機会がありました。現在、石田三成の末裔の人たちは現在津軽藩(青森県)におられるそうですが、でも、石田町にも、一居さんという方々がおられまして、「石田」という漢字の組み合わせ方を変えると「一居」という文字になり、もしかしたら、一族が身を隠して生き延びていた・・かもしれないという説もあると教えて下さいました。
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