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須賀谷温泉のブログ

近江八幡(ヴォーリズの面影を追って)

1. 近江八幡(ヴォーリズの面影を追って)

 近江八幡は湖北ではありませんよ。

 私にとっては心から尊敬している優秀な編集者であるが、一方で私の著作の最も厳しい批判者でもあるサンライズ出版の矢島さんの声が聞こえてくるようである。

 そんなことはわかっている。わかっているけれど、どうしても私は近江八幡のことを書きたかった。初めてこの街を訪れた時の鮮烈な印象と感動とを私は忘れない。『湖北残照』の1ページとして何としても、私は近江八幡の街のことを書き留めたかったのだ。

 近江八幡の街としての歴史は、豊臣秀吉の時代に始まる。

 織田信長が本能寺の変で倒れた後、信長の居城であった安土城もその城下町も謎の出火により焼失した。ルイス・フロイスの著書『日本史』のなかでは、信長の次男である織田信(のぶ)雄(かつ)が自ら火を放ったように書かれているが、真相は闇の中である。

 焼け残った安土の街ごと、安土の街から4㎞ほど西の八幡山の麓に秀吉の甥であり後に秀吉の後を継いで関白となる豊臣秀次が新しく城下町を創ったのが、今の近江八幡の街の原形となった。

 平成22年3月21日には安土町と合併し、ついに「安土」という町の名前さえも「近江八幡」に吸収されてしまった。

 豊かな琵琶湖の水資源に恵まれ水郷地帯としても知られている近江八幡は、訪れる者をして郷愁を感じさせるに十分な歴史と雰囲気とを持った魅力的な街である。

 その近江八幡の街の中心地にある日牟禮(ひむれ)八幡宮を訪れた。

 

 日牟禮八幡宮は、成務天皇の元年(131)に天皇が高穴穂の宮に即位した時、武内(たけのうち)宿禰(すくね)に命じてこの地に地主神である大嶋大神を祀ったのが最初であるとされている。この伝承を信じれば、1900年近くもの長い歴史を持つたいへんに由緒ある神社ということになる。

 応神天皇の6年(275)には奥津嶋神社からの還幸の際に、応神天皇が社の近くの宇津野々辺に御座所を設けて休憩したとされている。後日その仮屋跡に2つの日輪が現れるという不思議な現象が見られたため、祠を建てて日群之社八幡宮と名付けられた。これが現在の日牟禮八幡宮の名の起こりであるとされている。

 持統天皇の5年(691)には時の為政者であった藤原不比等が参拝し、

天降りの 神の誕生の 八幡かも

ひむれの社に なびく白雲

 という歌を詠んで、比牟禮社と名を改めた。

 正暦2年(991)、一条天皇の勅願により八幡山の上に宇佐八幡宮を勧請して上の社とし、寛弘2年(1005)には山麓に遙拝社を建立して下の社とした。

 その後も、皇室からも武家からも篤い信仰を集め、時の有力武将から社領の寄進を受けるなどして地位を不動のものにしていった。

現在の姿になったのは、天正18年(1590)に豊臣秀次が八幡山の山上に八幡山城を築城することになり、上の社を下の社に合祀したことに伴うものである。

徳川の世になってからも家康や家光などから寄進のための朱印状を得るとともに、当地に源を発する近江商人の守護神としての信仰も一心に集め、社は大いに興隆を続けていった。

 祭神は、誉田(ほんた)別(わけの)尊(みこと)(応神天皇の神霊)、息(おき)長足(ながたらし)姫(ひめの)尊(みこと)(応神天皇の母である神功皇后の神霊)、比賣(ひめ)神(かみ)(田(た)心(ごり)姫(ひめの)神(みこと)、湍津(たぎつ)姫(ひめの)神(みこと)、市(いち)杵島(きしま)姫(ひめの)神(みこと)の神霊。この三姫神は玉依姫とも言う)の三柱を祀っている。

 街中のどこからでも見渡せる八幡山の麓にあり、抜群の存在感を誇っているのが、日牟禮八幡宮である。2層から成る大きな三門を潜ると、正面に入母屋造りの大屋根を持つ拝殿が現れる。

 拝殿の右手には、能舞台が設えられている。

 能舞台自体は明治の建造(明治32年(1899))であるが、古色が滲み出ていて趣の深い味わいを湛えている。この時に能舞台の完成を祝して演じられた「日觸詣(ひむろもうで)」という観世流の能楽は、その後長らく上演されることなく途絶えていたものの、平成5年に93年ぶりに薪能として再演されて、以後は毎年演じられるようになったという。

 拝殿の後ろの一段高くなった平地には本殿が控えている。紅白の紐が括りつけられた大鈴が5個も取り付けられていて、落ち着いた雰囲気の立派な建物である。

 拝殿の後ろ側に一際目を引く金色の鳩が何(いく)つがいか、据えられていた。これらの鳩は金婚式を迎えた夫婦がそのお礼のために寄進したものだという。めでたい鳩の姿に、思わず心が和む。

 ここ日牟禮八幡宮では、2つの有名な祭りが執り行われている。

 一つは、八幡まつりである。

 この祭りの起源は、なんと応神天皇の御代(6年(275))にまで遡るという。天皇が、母である神功皇后の生地である息長村(現米原市)を訪れた際、日牟禮八幡宮の大嶋大神に詣でるために琵琶湖から当地に上陸した。その時に地元の人々が天皇を道案内しようとして湖岸に群生する葦で松明を作り、火を灯して先導したのが祭りの始めであると伝えられている。

 毎年4月14日と15日の両日、八幡町開町以前から存していた旧村落12郷の氏子たちによって執り行われる。

14日の宵宮祭は別名を松明まつりとも言い、各郷からしきたりに従った大小様々な大きさの松明が奉納される。松明と言っても、大きいものは笹を使って10mもの高い柱のように組み上げたものである。これを朝8時半頃から結い上げていく。

大松明以外の松明は、葦と菜種殻を使用して組んでいく。

午後7時頃になると、これらの松明が引き摺られるようにして拝殿前に運ばれてくる。これを宮入り(宵宮)と言う。そして、松明に火が放たれて(これを「奉火」と言う)祭りのクライマックスを迎える。

すべてが、応神天皇を迎えた際の当時の情景をそのままに今に伝えているものだという。

 一夜明けて翌15日の本祭は別名を太鼓祭とも言われる。12郷の大太鼓が宮入りし、拝殿の前でそれぞれの流儀によって打ち鳴らされ、神職からの祝詞を受ける。

 八幡まつりは応神天皇の頃の面影を色濃く残す、古色豊かな祭りである。

もう一つは、左義長まつりである。

左義長まつりは、元々は正月を祝う火祭の行事として漢時代の中国から伝わったもので、正月飾りなどを焼いて1年間の無病息災を祈ったという行事に由来している。三毬杖・三木張・三毬打・爆竹などとも書かれ、この行事自体は今でも全国で普通に行われている。

安土における信長は、毎年正月に自ら奇抜で華美ないでたちで安土の町へ繰り出し、見物衆の耳目を驚かせたことが『信長公記』に記されている。

  黒き南蛮(なんばん)笠(がさ)をめし、御眉(まゆ)をめされ、赤き色の御ほうこうをめされ、唐(から)錦(にしき)の御そばつぎ、

虎皮の御行(むか)膝(ばき)、すぐれたる早馬、飛鳥の如くなり。(中略)

  この外、歴〱、美々しき御出立(いでたち)、思ひ〱の頭巾、装束、結構にて、早馬(はやうま)十騎・廿騎宛

乗らさせられ、後には、爆竹に火を付け、噇(どう)と、はやし申し、御馬ども懸けさせられ、

其の後、町へ乗り出だし、さて、御馬納めらる。見物群衆をなし、御結構の次第、貴賤

耳目(じもく)を驚かし申すなり。

 信長亡き後、豊臣秀次が近江八幡に城を築いて入城した際に、開町以前からの町衆が執り行う八幡まつりを目の当たりにして、一同その荘厳さに度肝を抜かれた。この八幡まつりに対抗すべく行われ始めたのが、近江八幡における左義長まつりの始まりであると伝えられている。

 元からの住人と新興の住人との間のプライドを懸けた激突が目に見えるようである。

 現在の左義長まつりは、毎年3月中旬の土曜・日曜に行われる。以前は14日・15日で日が固定されていたが、今は14日・15日に近い土・日に行われている。

 左義長とは、新藁を12段の段状に積み重ねた高さ2mほどの三角錐の松明のことである。その上に長さ約3mの青竹を立てかけ、竹がしなるほどに大量の短冊型の細長い赤紙を据え付ける。

 左義長の正面には、各町毎に意匠を凝らした「ダシ」と呼ばれる飾りものが取り付けられる。円形、扇形、方形などの様々な形態をした「台」に、その年の干支などに因んだ「虫」と呼ばれる動物が飾られ、この「台」と「虫」とを合わせて、「ダシ」と言う。

 前述の日牟禮八幡宮の能舞台には、織田家の家紋であるモッコウが描かれた真っ赤な酒杯(台)に干支としての勇壮な虎の像(虫)が乗る「ダシ」が飾られている。幽玄な能を舞う舞台に華美な左義長まつりのダシは不釣り合いな気がするが、左義長まつりのダシを間近に見る機会はなかなかないので、それはそれでありがたい。

 華やかに飾り立てられた左義長には、4本の担ぎ棒が通され、ちょうど神輿のように肩に担いで街中を練り歩くことができる。

 祭り初日の土曜日の昼にはすべての左義長が日牟禮八幡宮に宮入りし、その後、左義長は終日町内を思い思いに練り歩く。左義長の周囲には踊子と呼ばれる町衆が取り巻いていて、「チョウサ、ヤレヤレ」「チョウヤレ、ヤレヤレ」との賑やかな掛け声を掛ける。

 踊子の男性が女装をしたり化粧をしたりしているのは、信長が派手な格好で踊り出た故事を踏襲しているのだという。

2日目の日曜日も町内を練り歩いた左義長は、日暮れ時に日牟禮八幡宮に集結し、最後は奉火により神に捧げられる。

 近江八幡の町衆が一月(ひとつき)あまりにもおよび精魂を込めて作り上げた左義長に火が入れられて、日牟禮八幡宮の夜空を真っ赤に染める様は、まさに天下の奇祭と呼ばれるに相応しい豪壮な祭りのクライマックスとなる。

人々の祈りと歓声とため息とが重なり合って、それらすべての思いが煙とともに天に上っていく……。

 湖北地方に纏わる祭りのことは、次章の「曳山まつり」の章でもう少し踏み込んで考察してみたいと思っている。こうして古来から地元に伝わる祭りを見ていくことは、その地方の文化を知るうえでたいへんに貴重な材料を得ることにつながる。

 祭りには、その祭りが始められるに至ったその地に特有の由来があり、その祭りが長い間地元の人たちによって受け継がれてきた歴史があり、そして祭りが維持されるための風土や土壌がある。

 残念ながら私は、まだ実物の祭りを見たことがないので表面的な思考に止まらざるを得ないが、近江八幡の祭りの場合は、どちらも火が重要な要素になっている。

 秀次による近江八幡開町以前からの住民たちによる八幡まつりと、近江八幡開町以後に移り住んできた人たちによる左義長まつりという、新旧2つの祭りのコントラストがおもしろい。

 豪壮な火まつりに想いを馳せながら、ロープウェイで八幡山に上った。

 ゴンドラが高度を上げていくに従って眼下に近江八幡の美しい街並みが拡がっていく様子を見ていくのは、快感だった。緑の木々に覆われていた視界が次第に展けていき、平らな平野に家々の甍が連なっている様子が明らかになっていく。

市街地の外側はすぐに田園地帯となり、さらにその外側にはもう山がちらほらと見られる。小ぢんまりとした近江八幡の街並みが我が眼下に一望されている。

 ロープウェイ山上駅を降りた後、八幡山の山頂まではまだなお歩いて登らなければならない。

 少し坂道を登り始めると、右手に大きな石垣が顔を覗かせてきた。やや粗い積み方の石垣(算木積みと言う)ではあるもののかなりの高さがあり、相当の大規模な石垣であることに驚かされた。

主に4㎞南方の岩倉山の石材を使った石垣とされているが、急な築城であっただろうから、安土城や観音寺城など周囲の城郭の石垣も再利用されたかもしれない。それにしてもこんな高い山上にこれだけの石垣を造った豊臣氏の権力の大きさを改めて思い知った。

私が訪れたのは新緑の季節で、まだ覚束ない透き通るような緑色をした楓の葉が、石垣を背景に差し込む陽光を通して輝くように見えた。秋の季節にはきっと、一面の緑が紅葉で真っ赤に染まることだろう。

途中、出丸跡、西の丸跡などいくつかの曲輪跡を経て、標高271.9mの北の丸跡に辿り着く。ここから望む琵琶湖の景色はとても美しかった。

眼下には田植えが済んだばかりの水田が拡がり、その向こう側に琵琶湖の広い湖面が見える。右側の視界に見える山は、長命寺のある長命寺山である。

北の丸跡を出て、時計回りに遊歩道を歩いて行くと、やがて本丸跡に移築された瑞龍寺の山門に至る。この門があった場所に、かつては本丸の入口にあたる虎口(こぐち)があったものと考えられている。

瑞龍寺は、村雲御所とも称し、日蓮宗唯一の門跡寺院である。秀次の生母である瑞龍寺殿日秀尼が秀次の菩提を弔うために文禄5年(1596)に創建した寺で、元は後陽成天皇から京の村雲の地に寺禄1000石を賜り、村雲御所と呼ばれる門跡寺院となった。

京の地から現在の八幡山城に移転したのは意外と最近で、昭和38年(1963)のことである。瑞龍寺から眺める近江八幡の街並みは、ロープウェイ山上駅よりも一段と高いせいか、より美しく見えた。

八幡山城は、天正13年(1585)に豊臣秀吉が甥である豊臣秀次のために自ら普請の指揮を取って築城した城で、八幡山城の完成とともに秀吉は安土城を廃城している。つまりは、安土城に代わって近江国を治めるために秀吉が新たに造った城が八幡山城であったということになる。

安土城が本能寺の変の後もなお織田氏の城であったことを考えると、秀吉が織田氏に代わって天下を我がものとするために、秀吉らしい巧妙な手口で織田氏の城を豊臣氏の城にすり替えたというのが実情であったと思われる。

八幡山は安土山よりも急峻であったために、山上に戦闘用の構えを築いたものの、平時は麓の秀次の居館で政務を執り行っていたものと考えられている。

秀次の館は、今のロープウェイの麓駅よりもかなり西側に建てられていた。八幡公園のさらに西側に、安土城のようなまっすぐの大手道が通り、その最上部に一段と立派な石垣に囲まれた秀次の館が存在していた。

家臣団は、大手道の左右の山の斜面に居を構えていたから、構造的には安土城に極めて類似した構造だったと言えるだろう。

一般の町民が住む城下町は、それよりさらに南側の平地に拡がっていた格好になる。

ロープウェイの麓駅と秀次や家臣団の館跡の中間に位置する八幡公園の中腹に、秀次の像が建てられている。衣冠束帯姿の立像だ。

台座には「従一位左大臣関白豊臣秀次卿」と彫られているが、八幡山城主時代の秀次はまだ関白ではない。天正13年(1585)の紀州および四国攻めで挙げた戦功により、関白になったばかりの秀吉から賜ったのが、近江八幡の43万石だったからである。

しかし近江八幡における秀次の治世は僅かに5年間でしかなかった。天正18年(1590)には尾張国清州城に移封となり、さらに文禄4年(1595)には謀反の罪を着せられて空しく高野山にて自刃させられこの世を去っているから、人の運命とは儚(はかな)いものである。

豊臣政権を維持するために、秀吉は秀次を後継者に指名して関白の地位を譲り、自らは太閤と称して陰で権力を掌握していた。ところが、そこに秀頼誕生という予期せぬ事態が生じてしまったために、関白である秀次の存在が秀吉にとっては急に疎ましくなってしまった。

難癖をつけて高野山に放逐したもののそれでも安心できず、ついには秀次に自害を強要する。秀吉が相手では勝ち目がないと悟った秀次は、高野山にて従容として死に就く。

その後秀吉によって行われた秀次の妻子や側室などの大量虐殺行為は、秀次の悲劇にさらに拍車をかけるとともに、秀吉の名声を地に貶めることにもなった。

八幡城山主に抜擢された頃の秀次は、10年後に我が身に降りかかる悲劇のことなど思いもよらなかっただろう。すべての出発点がこの八幡山城だったと思うと、秀次のことが一層不憫に思いやられる。秀次の像を前にして、そんなことなどをつらつらと考えていた。

秀次が清州城に移った後の八幡山城へは京極高次が入ったものの、秀次の死とともに八幡山城は廃城となり今に至っている。八幡山城は、築城から僅かに10年間しか使用に供されなかった悲劇の城であった。

 いよいよ、近江八幡の城下町を散策する時間が訪れた。近江八幡は見どころ満載の美しい街だから、街を見ようとすると長時間を要することを覚悟しなければならない。と言うか、夢中で街を歩いているうちに、いつの間にか時間が経過してしまうのが、近江八幡の街の魔力である。

 近江八幡の城下町は、八幡山城の外堀であり運河の役割りをも果たす八幡掘の外側に碁盤の目のように整然と築かれている。八幡山城の築城と同時に新しく造った街なので、計画的な街づくりが可能であったからだ。

 他の典型的な城下町とは異なり、古い日本式の街並みのなかに洋風の建築物が点在し、しかもこれらの洋館が和風の街並みにも融合しているのが、近江八幡の街並みの特徴かもしれない。

 そこにはヴォーリズという建築家の存在がたいへんに大きいのだが、ヴォーリズのことは次の章でゆっくり触れるとして、まずは古くから伝わる純日本風の街並みを歩いてみることにしたい。

 八幡堀に平行して走る道に「京街道」と名づけられた道がある。まずは手始めに、私はこの京街道を歩いてみた。京街道とは、その名のごとく京へと通じている道であったに違いない。

私が最初に京街道を歩くことを選択したのには理由(わけ)があった。それは、この京街道こそが、前章の最後で触れた朝鮮人街道であったからだ。

 中山道の鳥居本宿から分岐した道が佐和山の切通しを越えて彦根城下に至る。彦根の宗安寺で一泊した後、朝鮮通信使の一行はさらに進んでこの近江八幡の街並みへと歩を進めていく。

 市立資料館の前の道に「朝鮮人街道」と刻まれた石碑が建てられている。一行はこの石碑が建つ道を通って、もう少し先にある本願寺八幡別院で昼食を摂るのが習わしであったという。

 朝鮮通信使も通ったという道には、今でも黒板塀の趣のある家並みが続いている。右手に八幡山を望む美しい街並みだ。かつて朝鮮通信使や雨森芳洲も、今私が見ているのと同じ景色を見ていたのかと思うと、胸がわくわくしてくる思いがする。

 京街道は、本願寺八幡別院の少し先のところで願成就寺に突き当たり、直角に左に曲がってさらに続いて行く。

 私はここで引き返して、気の向くままに近江八幡の街並みを歩いてみた。

 縦横無尽に道が走る近江八幡の街並みは、どこを歩いても城下町の趣を残す美しい街だ。紅殻色の格子のある家がある。黒板塀に白壁が美しい家もある。まるで木曽路の宿場町を歩いているのではないかと錯覚してしまいそうな古風な街並みが、木曽路の宿場町の数倍の厚みを伴って我が眼前に存在している様は、壮観でさえある。

 そのなかでもとりわけ立派な建物が建ち並ぶのが、新町通りである。

新町通りは八幡山城から垂直に伸びている通りの一つで、旧西川家の住宅や伴家の住宅などの邸宅が甍を並べている。

 旧西川家は、大文字屋という屋号で主に蚊帳や畳表などを扱っていた近江商人で、江戸、大坂、京都に店を構えて大層な繁栄を誇った名家である。

 現在の建物は、初代の西川利右衛門から数えて3代目が宝永3年(1706)に建てた建物で、築造からすでに300有余年の歳月を経ており、国の重要文化財に指定されている。黒板(くろいた)に白壁を配した建物はどっしりと力強く、豪商としての自信に満ち溢れているように見える。

 開け放たれた門から覗く路地にはまっすぐに敷き石が伸び、奥の土蔵の白壁とも相俟って趣のある空間を作り上げている。

 西川家は昭和初期まで続いたが、昭和5年(1930)に子孫が途絶え、以来土地と建物は市の管理物となっている。

 旧伴家も、西川家と同じく近江の商人で、扇屋の屋号で麻布や蚊帳や畳表などの商いをしていた。

 西川家住宅からはかなり時代が下るが、現在の建物は7代目の伴庄右衛門能伊が文政10年(1827)から天保11年(1840)までの13年間の歳月を費やして構築したもので、2階に窓ガラスを多用したたいへん開放的な日本建築となっている。

 大いに栄えた伴家であったが明治20年に廃絶となり、建造物は当時の八幡町に寄贈された。その後、小学校、役場、女学校、近江兄弟社の図書館、近江八幡市立図書館と実に数奇な運命を辿り、現在は市立資料館の一部として市を訪れる観光客に往時の繁栄ぶりを伝える語り部としての役割を果たしている。

 近江八幡の街並みはどこを歩いても趣があり飽きることがないが、そろそろ私は、この近江八幡の章のハイライトであり主題であるウィリアム・メレル・ヴォーリズの建築について語らなければならない。

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睦月のおしながき

1月のおしながき

お市の舞(グレードアップメニュー)

先附   金海鼠このわた山かけ  菠薐草  いくら

吸物   白魚 せり 短冊人参 卵

 

            蛤グラタン

            さざえう玉焼

旬菜  鶏松風

      活車海老キャビア

      わけぎ金糸巻き

 

煮物   鰆昆布舟蒸し

 

      寒八椿造り

造り   鯛梅造り

     まぐろ 生うに

 

焼物   伊勢海老タルタル焼き

      柚子釜鱈白子

 

変り鉢  ステーキ鉄板 アスパラ

     大根みぞれソース 赤パプリカ

 

鍋物   小谷鍋

御飯   筍御飯

香の物

止椀   大根 生椎茸 うす揚げ 小葱

本日のデザート

 

茶々の華(スタンダードメニュー)

 

先附   氷頭なます 鯛南蛮

吸物    神葉草 京人参 海老芋 うぐいす葉

 

      車海老キャビア

      オクラ数の子寄せ

      サーモン松の実焼き

旬菜   田作り

      甘海老塩辛

      たづな巻き

      えり鮎

 

煮物   ずわい蟹蕪みぞれ煮

      鱈 まい茸 なめこ 菜の花

 

造り   寒八 まぐろ 鯛 うに

 

焼物   鯛真砂子焼 長芋田楽

     むかご 金柑 帆立西京

 

変り鉢  蟹とアスパラ東寺揚げ

      肉じゃが春巻 ふきのとう 蛤フライ

 

鍋物   牛しゃぶ

御飯   近江米

香の物

止椀   大根 生椎茸 うす揚げ 小葱

本日のデザート

 

 江の夢~(ほっこりプランメニュー)

先附   氷頭なます 鯛南蛮

吸物    神葉草 京人参 海老芋 うぐいす葉

 

     車海老キャビア

     オクラ数の子寄せ

旬菜   サーモン松の実焼き

      鶏松風

      甘海老塩辛

 

煮物   ずわい蟹蕪みぞれ煮

      鱈 まい茸 なめこ 菜の花

 

造り   三種盛り

 

焼物   鰤柚庵焼 大根 はじかみ

     むかご串焼き 金柑

 

変り鉢  蟹とアスパラ東寺揚げ

      肉じゃが春巻 ふきのとう 蛤フライ

 

鍋物   牛しゃぶ

飯物   近江米

香の物

止椀   大根 生椎茸 うす揚げ 小葱

本日のデザート

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12月のおしながき

 

 ~お市の舞~ (グレードアップメニュー)

先附   鮃の錦糸巻

      小柱の山芋和え 

吸物   雪見汁 活蛤 白玉 芹

 

      あわびうに焼

      銀杏金柑

旬菜   蟹クリームチーズ焼

      びわ鱒の笹寿司

      エリンギ牛肉八幡

 

煮物   鱈親子蒸し

      ふかひれあん 小松菜

造り   寒八 まぐろ 鯛 うに  

鍋物   あんこう鍋

    水菜 白ねぎ しめじ もち

焼物   甘鯛と帆立のホイル焼

変り鉢  近江牛ステーキ

     フォアグラ 分葱 パプリカ

飯物   近江米 

止椀   車麩 焼しめじ 小ねぎ

香の物           

本日のデザート   

 

 ~茶々の華~ (スタンダードメニュー)

先附   鮃の錦糸巻

      小柱の山芋和え 

吸物   雪見汁 白玉 芹 焼鯛

 

      寒干大根田舎煮

      銀杏金柑

      あられほや子

旬菜   冨有柿クリームチーズ焼

      びわ鱒の寿司

      エリンギ牛肉八幡

      むかごけしの実

 

煮物   海老百合根

      鰤しぐれ

      えび芋 小松菜

造り   寒八 まぐろ 鯛 うに

鍋物   近江牛のしゃぶしゃぶ

      水菜 榎木茸 しめじ つみれ

焼物   鰆ムース包み   

変り鉢  柚子釜雪中蒸し

      分葱 焼里芋 くも子

飯物   近江米 

止椀   車麩 焼しめじ 小ねぎ

香の物           

本日のデザート  チョコムース

 

~江の夢~ (お昼の人気メニュー)

先附   鮃の錦糸巻

      小柱の山芋和え 

吸物   雪見汁 白玉 芹 焼鯛

 

     寒干大根田舎煮

     あられほや子

旬菜  冨有柿クリームチーズ焼

     びわ鱒の笹寿司

     むかごけしの実

 

煮物   海老百合根

      鰤しぐれ煮

      えび芋 小松菜

造り   寒八 まぐろ 鯛

鍋物   ちゃんこ鍋 

焼物   鰆金時焼 大根

 

      からすみ千寿

変り鉢  柚子釜雪中蒸し

      分葱 焼里芋 くも子

 

飯物   近江米 

止椀   車麩 焼しめじ 小ねぎ

香の物   

        

本日のデザート   

 

  ~初のしらべ~ (ちょっと軽めの会席メニュー)

先附   鮃の錦糸巻

      小柱の山芋和え 

蒸し物  茶碗蒸し  かしわ 銀杏 サラダ海老  

おしのぎ ミニちらし寿司  

煮物   鰤大根   小松菜 針柚子

焼物   鮭の味噌グラタン

鍋物   つみれ鍋 国産牛肉

造り    寒八 まぐろ 鯛

変り鉢  あんこう葱間揚げ 

飯物   近江米 

止椀   車麩 焼しめじ 小ねぎ

香の物           

本日のデザート   

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1. 中山道の宿場町から(醒井宿、鳥居本宿)

 

 

私は埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)の出身である。

 浦和は、中山道69次の宿場町のうちの第3番目の宿場町として江戸時代に栄えた町だ。日本橋を出て板橋宿、蕨宿と歩き続けた旅人は、やがて浦和宿に辿り着く。日本橋から24㎞ほどの距離だから、お江戸日本橋を七つ(午前4時)に出発した旅人がそろそろ疲労と空腹とを覚え、どこかで昼食でも摂ろうかと思案する頃合いだったかもしれない。

 すっかり近代化してしまった浦和の街で、今では当時の浦和宿の面影を想起できるような遺物はほとんど残されていないが、僅かに「中山道」という道の名前だけは残っている。

 私にとっての中山道は、南から北に向かって走る1本の道だった。

 この道が、やがて上州路、信州路、木曽路、美濃路と続いていって、ついには近江にまでつながっているということが、私にはとても不思議な気がする。近江路を走る中山道が南北の方向ではなく東西の方向であることも、なんとなく私の感覚にはうまくフィットしていない。

 しかしながら紛れもなく浦和と近江国とは中山道によってつながっていて、近江国には柏原(かしわばら)、醒井(さめがい)、番場、鳥居本(とりいもと)、高宮、愛知川(えちがわ)、武佐(むさ)、守山、草津、大津の10の宿場町が存在していた。

 本稿ではこの10の近江国における宿場町のうち、私が大好きな醒井宿と鳥居本宿を採り上げて訪ねてみたいと思っている。

 中山道第61番目の宿場町が、醒井宿である。

 一言で言うと、清らかな泉の湧き出でる爽やかな宿場町とでも言い表すことができようか。

 

 このことは、「野田沼、上丹生、朝妻」の章でも少し触れた。街のそこここから水が湧き出で、湧き出た水が街道の傍らを流れる水の流れとなって旅人のこころに安らぎと潤いとをもたらしてくれる。

 水にまつわる様々な伝説が生まれ、透明度の高い澄んだ水の中には珍しい魚や植物が生息している。この宿場町に関するあらゆることが、水から始まっているのだ。

 なんて清々しい宿場町なのだろうか。初めてこの街を訪れた時に抱いた私の印象である。

 早速、醒井宿を歩いてみることにしよう。

JR東海道本線・醒ヶ井駅を降りて駅前の道を道なりに歩いて行くとすぐに旧中山道醒井宿の街並みに辿り着くのだが、旅人の気持ちになってこの宿場町を見るためには、宿場の入り口から入るのが王道だろう。

私は駅前を走る国道21号線を左方向の関ヶ原方面に歩いて、この新道から旧道が分離する地点にまで移動した。距離にして1㎞弱の距離であろうか。左手にJR東海道本線を見ながら歩く道だが、車が猛スピードで走り抜けていく国道を歩くのは、味も素気もない。

しかしこれも、これから味わう醒井宿の魅力を堪能するための試練だと思えば苦にならない。

新道と旧中山道との分岐点に近いところに馬頭観世音と刻まれた石が大切そうに祀られている。江戸時代において馬は、人や荷物を運ぶための数少ない動力源の一つとして重用されていた。馬頭観音を祀る石碑は、全国各地で見ることができる。

旧中山道醒井宿は、この馬頭観音碑のある辺りから西側(醒ヶ井駅方面)に続いて行くのだが、少しだけ寄り道をして、急な坂道を直角方向に登って行く。

実はこちらの急な坂道が旧中山道で、不自然に曲がりくねったこの坂道の途中に醒井宿の本当の入り口である見附が設けられていた。

見附は宿場の入り口と出口に設けられていて、それぞれに番所が置かれていた。不自然に道が曲がりくねっているように見えたのは、桝形の構造になっていたからだった。醒井宿は、この東見附から西見附まで、8町2間(876m)に亘って家並みが続いていた。

見附の案内板を右手に見ながらもう少しだけ宿場から離れる方向に坂道を登って行くと、右手に「鴬ヶ端」と書かれた案内板が見えてくる。

江戸方面から旅を続けてきた旅人は、醒井宿に入る直前のこの鴬ヶ端の地で、ホッとひと息ついたのかもしれない。遠景に伊吹山が顔を覗かし、眼下に醒井宿が見渡せる眺望の地は、古来歌枕にも歌われた場所だ。

  旅やどり ゆめ醒井の かたほとり

  初音もたかし 鴬ヶ端

 平安時代の歌人で三十六歌仙の一人にも数えられている能因法師の歌である。

 近くには「佛心水」と刻まれた井戸がある。旅人は、この仏心水の水で喉を潤し、伊吹山の秀峰を眺め、そして醒井宿へと入って行ったのだろう。

 ここで道を引き返して、いよいよ醒井宿へと歩を進めていく。

 宿場町の街並みにはどこか不思議な雰囲気がある。

広い野原を横切り、険しい峠を越え、川の急流を乗り越えて旅を続けてきた旅人にとって、心から休まることができるオアシスのような場所が、きっと宿場町だったのだろう。

私はそんな苦行をしてきたわけではないが、それでも人が集まり集落を形成している場所に身を寄せると、安堵の気持ちが湧いてくる。

古い家並みが多く建ち並んでいることも、旅情を掻き立ててくれる。

よく見ると、窓の桟(さん)や柱などに紅(べん)殻(がら)色の塗料を使った美しい色彩の家が目につく。後の章でも書くことになろうが、紅殻は私のなかでは近江を代表する色彩である。深い朱を湛えたこの色を見ていると、妙に心が落ち着く気がする。

 

 ほかにも、洒落た桟をしたガラス窓を持った家や美しい格子戸のある家なども多数見られ、何気ない生活のなかにも美的なセンスが窺われて、うっとりと足を止めることしばしばであった。

 緩やかに左に曲がり、さらに右に曲がりかけた道の左手に、「居醒の清水」を湛える池が見えてくる。

 

 醒井の地名の起源となったと思われるのが、日本武尊の居醒の清水伝説である。当地に建つ案内板をそのまま引用する。

  景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせておりました。そ

こで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。尊は剣を抜いて、大

蛇を斬り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめま

した。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不

思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名

づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。

 伊吹山の大蛇とは、あるいはこの地域一帯に勢力を持っていた地元の豪族のことであったかもしれない。

 伊吹山の特異な山容とも相俟って、彼らのことを大蛇と表現したものと推測される。いかにも大蛇が棲息していそうな妖しい雰囲気をもった山である。

 彼らとの戦いは激戦だったのだろう。なんとか勝利したものの、日本武尊も大いに傷ついた。その傷を癒したのが、この居醒の清水の澄んだ水だったということではないだろうか?

 何の文献も存在しない神代の時代の出来事をこんなふうに現代風に解釈してみるのも、私には楽しい知的想像作業である。

 池の対岸の丘の斜面には、長く太い剣を杖のようにして左手に持ち、右手を高く翳(かざ)している鬟(みずら)姿の日本武尊像が立てられている。

 その日本武尊像の前に拡がる池は、はっきりと底が見通せるほどに澄んで透明だ。石の橋が渡され、この場所に神が宿っていたかもしれないと思うほどに、神聖な雰囲気に満ちている。

 水が絶えることなく湧き出でる光景には、なぜか心を落ち着かせる作用があるのだろう。 池の傍らには、こんな歌碑も建てられていた。

 明治二十八年、北白川能久親王は、台湾で熱病にかかられ、重体になられました。病床

で「水を、冷たい水を」と所望されましたが、水がありません。付き添っていた鮫島参

謀は、かって醒井に来られた時の水の冷たさを思い起こされ、1枚の紙に

  あらばいま 捧げまほしく

  醒井の うまし真清水

  ひとしずくだに

 と詠んで親王にお見せになると、親王もにっこりされたと伝えられています。

 日本武尊伝説とはまた趣が異なってしみじみと胸を打つ歌である。

鮫島参謀の必死の介護の甲斐もなく北白川宮能久親王は台湾で息を引き取られたが、鮫島参謀の真心に接せられて、親王は心から喜ばれたに違いない。北白川宮能久親王は初めて戦地にて戦死を遂げられた皇族として、日本武尊に擬せられたとも伝えられている。

やはり醒井とは非常にご縁のおありになる方だったようである。

軍服に身を包み騎馬で勢いよく駆け出でる姿の親王像が、東京の北の丸公園にひっそりと建立されている。スピード感のある馬の動きが生き生きと感じられて秀逸な像であると、親王の像を眺めながら毎日、私は朝の散歩を楽しんでいる。まさか醒井の地で親王にお会いするとは、思っていなかった。

 醒井宿の街道脇を流れる清流(地蔵川)には7月になると梅花(ばいか)藻(も)が可憐な白い花を着け、澄んだ水の流れに揺らめく姿を見ることができる。

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 梅花藻とは読んで字のごとく、梅の花弁に似た白い花を着けるキンポウゲ科の沈水植物で、水温15℃くらいの澄んだきれいな湧水を好む長さ50㎝ほどの多年草である。流れに沿ってゆらゆらと水面にたゆとう白い花は、見る者をして神聖な気持ちにせしめる何かを持っている。

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 透明な水の流れの中で太陽光を浴びて生き生きと輝きを増した緑色の葉が眩しい。その緑のなかにまるで小雪が降りかかっているように白いものが点々と見えるのが、梅花藻の花だ。

 

 想像していたよりも小さな花だった。

 そのことが余計に、得がたい尊さとなって心に沁み込んでくる。醒井のこの水があってのこの花でもある。

梅花藻が見られる地域はここ醒井のほかに、富士山に降った雨水が伏流水となって濾過されて湧き出る静岡県三島市の柿田川流域、北アルプスに降った水が清らかな水となって流れる上高地の梓川など、国内でも僅かしかない。

いずれの場所にも共通しているのは、水が澄んでいることである。それも、ちょっとやそっときれいなだけでは条件を満たさない。最高度に澄んだ透明な水でなければ、梅花藻は生育しないのである。

 また梅花藻は、15℃程度の冷水でないと生育しないため、特に温暖な西日本では育ちにくいという。さらに、生育のためには水の流れが必要で、澄んだ水であっても澱んだ水では育たない。流水でも水槽ではまず生育しないというから、梅花藻がいかに繁殖しにくい植物であるかがわかる。

 いくつもの条件が合致したごく限られた場所でないと見ることができないことも、梅花藻をたいへん貴重な存在に昇華させている。

 地蔵川の清らかな流れと水面に浮かぶ梅花藻を眺めながら、趣のあるいかにも宿場町という感じの古びた建物が建ち並ぶ街並みをそぞろ歩きするのは、とても楽しいことである。

 醒井の地蔵川には、梅花藻とともにもう一つ、珍しい生物が生息している。

 それは、ハリヨという名前の小さな魚である。

ハリヨとは、針魚と書かれることもあるトゲウオ科イトヨ属の魚で、滋賀県東北部と岐阜県南西部の水温が20℃以下の湧水に生息している体長4~7㎝ほどの目の大きな可憐な魚だ。

 鱗はなくて、背中に3本、腹部に1対、それに尻びれの近くに1本のトゲがある。この針のようなトゲから針魚と呼ばれるようになり、「はりうお」が転訛して「ハリヨ」になったのかもしれない。

 梅花藻と同様に澄んだ冷たい湧水にしか棲むことができない。そのためか、ここ醒井ではハリヨは梅花藻と共生しながら生きている。

 梅花藻に寄生している水生昆虫はハリヨの好物であり、ハリヨは水中に漂う梅花藻の長い葉の中を潜り抜けながら、生活をしている。

 また、梅花藻により緩やかになった水の流れはハリヨの格好の産卵場所にもなる。ハリヨは水草等でトンネル状の巣を作り、3月から5月にかけてその巣の中で産卵を行う。オスは卵が孵化するまで餌も食べずに卵を見守るというから、なかなかに献身的な魚のようである。

 とても小さな魚なので、地蔵川の中で泳ぐハリヨの姿を確認することはなかなか難しい。うまく泳いでいる姿を見つけることができたら、それはとてもラッキーなことかもしれない。

 そんな魚だけに、ハリヨの神秘性は余計に増してくる。幻のような魚がこの地蔵川の流れのどこかに潜んでいると思うだけでも、不思議な思いにかられてしまう。

ハリヨ

梅花藻とハリヨの存在が、醒井宿を一層魅力ある街にしていることは間違いない。私は満たされた思いでJR醒ヶ井駅へと続く道を歩いて行った。

駅の手前の右側にある洒落た洋館は、ウィリアム・ヴォーリスの設計なる建物だ。大正4年(1915)に旧醒井郵便局として建てられたもので、今は記念館として内部が公開されている。

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ヴォーリスについては次の章で書くのでここでは簡単に触れるに止めておく。純和風の建築物が続く醒井の街並みのなかで特異な存在であるのに、違和感をまったく感じさせない気品を保っているのがとても不思議だ。

 醒井宿は、この章の最初にも書いたとおりに、湧き出でる泉の宿場町である。

 宿場町の中には「居醒の清水」のほかに、「十王水」と「西行水」という2つの泉が湧き出ている。

 十王水は、平安時代中期に天台宗の高僧である浄蔵法師が諸国遍歴の途中で開いた水源と伝えられている。近くに十王堂というお堂があったことから十王水と呼ばれている。

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西行水は、この泉の畔の茶屋で休憩した西行とその西行に恋した茶屋の娘との淡い恋の伝説から名づけられた泉名である。

宿場を外れるが、近くを流れる丹生川を遡っていくと「天神水」、「いぼとり水」、「役の行者の斧割り水」などの湧水が見られ、この地域一帯が湧水の宝庫であることがわかる。

これらの泉は、背後に存在する霊仙山(1084m)の伏流水であると考えられている。霊仙山は山全体がカルスト地形で構成されていて、山に降った雨水が石灰石の地層に沁み入り、濾過されて地表から湧き出てくる。

霊仙山は同時に古来から山岳仏教の修験道場でもあったことから、役の行者や西行など仏教の修験者の名前が伝説と結びついて泉の名前として定着していったのだろう。

今では、丹生川の澄んだ美しい水を利用して丹生川から分かれた宗谷川に東洋一の醒井養鱒場が造られている。

豊かな水を巧みに利用しながら、醒井の町は今なお生き続けている。

 醒井宿の次に私が訪れたのが、中山道第63番目の宿場町である鳥居本宿である。

 醒井宿を出た旅人は、番場の忠太郎で有名な番場宿を経て、鳥居本宿に辿り着く。宿場町に入る手前には、街道随一の名所とされる摺針峠が控えている。

  この峠から見る琵琶湖の眺望はすばらしい。

 長い旅を続けてきた旅人は、ここで初めて琵琶湖の姿を目にするのだろう。海沿いを通る東海道と異なり山の中を歩む中山道を進んできた旅人にとっては、湖といえども大海原に匹敵する琵琶湖の眺望は、感動的だったに違いない。

 

 

 かつて旧東海道を歩いてみたことがある。はるばる日本橋から歩き続けて箱根の石畳の道を息を切らせながら上り詰めた。そして権現坂と名付けられた下り坂まで来たときのことだった。急に目の前が展け遠くに芦ノ湖の青い平らな湖面が見えてきたときの感動を、私は忘れない。

 その時に私が味わったのと同じ感動をおそらくは、中山道を旅してきて摺針峠にさしかかった旅人たちは感じたことだろう。

 摺針峠とは曰くありげな名前である。

 昔、諸国を修行して回っていたある旅の僧がこの峠に差し掛かった時、一人の老婆が一心に斧を石に摺りつけている光景に出くわした。何をしているのですか?とその僧が問いかけると、1本しかない針を誤って折ってしまったので斧を石で摺って針にしようとしているのです、と老婆が答えた。

 斧から1本の針を摺り上げようなどとは、気の遠くなるような作業である。普通の人間なら何を馬鹿なことをしているのかと老婆を嘲るところだが、この僧は老婆の真摯で諦めない姿に我が身を戒められた思いがした。

 慢心していた己が身を大いに恥じてさらに修行に励み、この僧は後に高僧となった。その僧の名を弘法大師と言う。

  道はなほ 学ぶることの難からむ

  斧を針とせし人もこそあれ

 弘法大師は後に再びこの峠を訪れたとき、摺針神明宮に栃餅を供え、杉の若木を植えてこの歌を詠んだと伝えられている。

 その杉の真下に望湖堂という茶屋が建てられていた。たいへんに立派な建物で、江戸時代には朝鮮通信使もこの茶屋で休んで琵琶湖の眺望などを詩にして詠んだ。また、皇女和宮や明治天皇も休息したという由緒のある茶屋だったが、平成3年に惜しくも焼失してしまった。

 かつて望湖堂が建てられていた場所には現在、1軒の建物が建てられている。紅殻色の柱が鮮やかな立派な邸宅だ。

どうぞご自由にご覧ください、と気さくに声を掛けていただいた当家のご婦人の好意に甘えてお庭を拝見させていただいた。

 右脇の狭い入り口を通り抜けると、建物と低い白壁の塀の間の細長いスペースに飛び石が設(しつら)えられている。

 その飛び石伝いに歩いて建物の裏手に回ると、そこには極上の琵琶湖の眺望が用意されていた。 庭に置かれた石灯籠の向こう側、白い塀越しに一面の田園風景が見渡せる。そしてその田んぼの尽きるところに、青く平らな琵琶湖の湖面が穏やかな表情で顔を覗かせている。

 おそらくは朝鮮通信使も和宮も明治天皇も、今私が立っているのと同じ場所から同じ琵琶湖の風景を眺めて、その美しさを心に刻んだに違いない。朝鮮通信使でなくとも、詩や歌などを詠みたくなるような、絶景である。

 摺針峠の眺望を楽しんだ旅人たちは、いよいよ鳥居本宿へと歩を進めていく。

 中山道の前身にあたる東山道では、今の鳥居本宿より南側に位置する小野村に宿場が置かれていたようである。小野村には、この地が小野小町の誕生地であるとの伝説が残されている。

 即ち、出羽郡の小野美実(好美)が京から奥州に下る途中で当地に一夜の宿を求めた。その宿で生後間もないかわいい女児を見染め、貰い受けて出羽国に連れ帰った。この女児こそが、後に美人の誉れ高い小野小町となったという伝説である。

今でもこの地には小町地蔵が祀られる祠が建ち、その傍らには小町塚という塚(石碑)が存在している。

 しかしながら絶世の美女と謳われている小野小町を巡っては全国各地で同様の伝説が語られていて、決め手はないというのが実情のようである。

 それはそうと、今でも小野村(現彦根市小野)には古い由緒ありげな家々が建ち並び、鳥居本宿ほどの密集度ではないものの、趣のある家並みの小集落となっている。鳥居本を訪れる人はいても、小野村まで足を伸ばす人はほとんどいないだろう。

名神高速道路と東海道新幹線とに挟まれ小野川という小川に沿った狭い谷あいの街並みであるが、私は小野村のもつ独特の表情を気に入ってしまった。

 ところで、小野村に置かれていた宿場が鳥居本村に移された背景には、徳川幕府の意向が見え隠れしている。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、通信網と物流の整備を優先政策と考え、いち早く東海道をはじめとする五街道の整備に着手した。中山道もその一つとして慶長7年(1602)に伝馬制が定められた。

ところが当初は小野村に伝馬継所が置かれたものの、すぐにその翌年の慶長8年には小野村で代々本陣を営んでいた寺村家が幕府により鳥居本村へと本陣の移転を命じられている。

ちょうどこの頃、西国への守りを固めるために彦根山に新しい城が築城されようとしていた。この彦根城と中山道とを結ぶ脇街道のルートが定められたのも、この時のことだったと考えられている。彦根道と呼ばれる道が鳥居本宿から分岐して佐和山の南麓に存在していた切通しを通って彦根城へと続いているのがそれである。

小野村と彦根城との間には石田三成の居城のあった佐和山から続く山並みが横たわっているために道を通すことが出来ない。今の彦根カントリー倶楽部となっている山塊がそれである。その山を避けるために宿場町を北側に移したというのが小野村から鳥居本村への宿場移転の実情と考えていいだろう。

山に道を拓くことをしないで、反対に町を移動させることにしたのだから、徳川幕府もかなり乱暴なことをしたものだと思う。もっとも当時の土木技術を考えると、道を切り拓くよりも町ごと移転させてしまった方が容易だったのかもしれない。

かくして、中山道の第63番目の宿場町としての鳥居本宿が成立した。

鳥居本宿は、南端の小野村境から北端の下矢倉村までの長さ13町(約1.4㎞)、人口約1450人、戸数300戸程度(天保年間の「宿村大概帳」による)の宿場町であった。この宿場の中に35軒の旅籠と本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒が置かれていた。

 北側の下矢倉村から鳥居本宿に入った旅人は、まずは大きな店構えの建物を目にすることになるだろう。赤玉神教丸という胃腸薬を製造し販売する店である。

 創業は万治元年(1658)と伝わるから、鳥居本宿が成立してから僅かに半世紀の後のことである。赤玉神教丸の有川家は、鳥居本宿の北の端から350年以上にもわたって鳥居本の歴史を見守ってきていることになる。

 有川家の先祖は、元は磯野丹波守に仕えた郷士で鵡川という姓を名乗っていたが、有栖川宮家への出入りを許されるようになり有栖川宮の「有」の一字を賜って「有川」の姓となった。

 

 鳥居本宿の次の宿場の高宮宿の近くには「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と俗謡に歌われ全国から多くの信者を集めている多賀大社がある。その多賀大社の神教によって調製したという謳い文句が奏功した。

 多賀大社の坊人が全国を巡回して多賀参りを勧進して回る際に、神薬として赤玉神教丸を持ち歩いて宣伝したことも神教丸の名前を拡めることに大いに寄与したことだろう。多賀大社の名声はこれらの坊人たちによって全国津々浦々にまで轟き渡っていたので、効果は絶大だった。

 赤玉神教丸は店舗販売を専らとしていたために、鳥居本宿のこの店舗には、評判を聞きつけて赤玉神教丸を買い求めようとする旅人で大いに賑わった。中山道を旅して鳥居本宿に行ったなら、あの赤玉神教丸を旅の土産として是非とも買い求めよう。そんな思いの旅人たちで店舗はごった返していたことだろう。

 

土産物としても家族に喜ばれるだろうが、何が起こるか分からない旅の途中であるから、道中を無事に過ごすための非常薬としても旅人にとってはこの赤玉神教丸が心強い味方であったに違いない。

 当時の世相を描いた『近江名所図会』にも赤玉神教丸を買い求める旅人で賑わう店舗の様子が生き生きと描かれている。また、十返舎一九の『木曽道中膝栗毛』にも、

  くれないの 花にいみじく おく露も

  薬にならない赤玉という

  もろもろの 病の毒を 消すとかや

  この赤玉も 珊瑚朱の色

 下賤な歌だが、赤玉神教丸を題材とした歌が紹介されている。

 この神教丸も、近江国の賜物であると私は考えている。

 多賀大社との絶妙のコラボレーションで庶民が飛びつきやすい見事なキャッチフレーズを考案した商才も称賛に値するけれど、元々神教丸の歴史は有川家がまだ鵡川の姓を称していた頃に伊吹山の薬草を探索していたことに起因している。

 まさに湖北の自然がもたらしてくれた産物が神教丸であると言うことができるのだ。

 現在の赤玉神教丸本舗の建物は宝暦年間(1751~1764)に建てられたもので、入母屋造りの大きな瓦葺き屋根の下に白壁で塗り込められた2階部分が顔を覗かし、1階部分にはもう一層の庇のような小屋根を設け、大きな格子のガラス戸が6枚嵌め込まれている。

 建物の右端の入り口には左右に「有川市郎兵衛」「赤玉神教丸」、中央には丸の下に一文字のトレードマークが染め抜かれた臙脂色の大きな暖簾が誇らしげに掛けられている。

 ほぼ真っ直ぐな道が続く鳥居本宿のなかで、唯一街道がカーブを描いているのがこの赤玉神教丸本舗の前である。その角地に大きな店構えの立派な店舗を構えていたのだから、赤玉神教丸のことを知らずに通りかかった旅人でさえ、思わず足を止めて見入ったに違いない。

 そんな迫力満点の店内で販売されていたのが、食べ過ぎ、飲み過ぎ、二日酔い、胃のもたれや胸やけなどによく効くという赤玉神教丸である。オウバク(黄柏)、キジツ(枳実)、ビャクジュツ(白朮)など9種類の生薬を配合した小さな丸い仁丹くらいの大きさの薬だ。

 これもおそらくは、有川家のご先祖様が伊吹山の山中を歩き回って効能豊かな薬草を探し求めた賜物であるに違いない。

 神教丸という名前は知らなくても、今でも「赤玉」と言われればあの薬のことかと思い当る人は多いと思う。

 母屋の右手には、明治11年(1878)に明治天皇が北陸巡幸の際に増築されたという建物が接続されている。正面から見ると威風堂々たる店構えだが、右手の増築部分から眺めるとたいへんに複雑な構造を持った建物であることがよくわかる。

 鳥居本宿には、この赤玉神教丸のほかにもう一つ、旅人たちの間で有名だった名産品がある。それが、合羽である。

 

 合羽とは、雨の時に羽織って濡れるのを防ぐ、あの合羽である。

 なぜ、鳥居本で合羽なのだろうか?

 鳥居本宿における合羽製造の歴史を遡っていくと、享保5年(1720)の馬場弥五郎という人物に行き当たる。

 弥五郎は、若くして大坂に奉公に出て合羽の製造方法を学んだ。とは言っても、当時はまだ合羽の製造技術が十分に成熟していたわけではなかった。弥五郎は奉公先の「坂田屋」という屋号を譲り受けて故郷の鳥居本に戻り、さまざまな工夫や改善を重ねながら合羽作りに励んだ。

 なかでも、それまで雨滴をはじくために菜種油を使用するのが一般的だったものを、代わりに柿渋を使用したことが大成功を招く要因となった。柿渋は保温性と防水性・防湿性に優れ、しかも紙を丈夫にする作用があるため、山がちで雨の多い木曽路を旅する旅人たちに大いに重宝されたからだ。

 色合いも、菜種油よりも深い赤味がかかった美しい色をしている。一説には紅殻を混ぜてこの深い色合いを出したとも言われているが、実用性に富んでいただけでなく外見的にも鳥居本宿の合羽は美しかったということになる。

 今の時代と違って車も電車もなかった時代だから、旅人は雨の日でも濡れながら旅を続けていかなければならない。合羽の重要性は現代よりもはるかに高かったと言うことができるだろう。となれば、少しでも高機能で少しでもお洒落な合羽を手に入れることは当時の人たちにとっての必然の需要だったということになる。

 馬場弥五郎が創業した鳥居本宿における合羽製造業者の数は次第に増加し、江戸時代の文化文政年間(1804~1829)には15戸にも達していた。そこには、他では追随できない高い技術と鳥居本の合羽というブランドとが確立していた。

 ここで簡単に合羽の製造方法について触れておく。

 まずは鳥居本合羽の秘密兵器である柿渋の製造方法である。

 柿渋自体は、防腐用、外壁の塗装用、清酒の清澄剤、衣服の染色用などに幅広く使用されており、製造方法が鳥居本の専売特許であったわけではない。熟した柿ではなく、タンニンが多く含まれる青柿を使用した。これを石臼や米突き臼などで砕き、適量の水を加えて桶や樽の中で数日間貯蔵して発酵させる。

 発酵期間が長いほど良質の柿渋が採取されるという。この発酵した柿渋液を圧搾して上澄みを採取したものが柿渋である。

 次に合羽の材料となる紙は、若狭、大坂、土佐、伊予、美濃などの産地から取り寄せた仙花紙がおもに使われた。仙花紙は厚手で丈夫なために、耐久性が要求される合羽の材料として適していた。

 調達した紙を張り合わせて必要な紙の大きさにすることを小継ぎと言う。張り合わせることで紙の大きさを確保するとともに、紙の強度を増すという効果を得ることにもなる。

 張り合わされた紙は、寸法どおりに裁断される。木製の定規を当てて、ヘラのような包丁で紙を切っていくのだ。当然だがこの時、張り合わせるためののりしろを確保したうえで紙を裁断していく。

 裁断した紙の四隅を折り曲げて糊で張り合わせて合羽の原形を作り上げる。張り合わせた糊が剥がれにくくなるように、糸で縫う。これを糸入れと言う。

 合羽の形ができあがると、製造業者の商標印を入れる。鳥居本製の合羽であることを証明する重要なステップであるが、単に版木を押印するだけの単純な作業なので、子供が手伝いで押すこともあったと言う。

 次が紙揉みの工程である。後で塗る柿渋や油の吸収をよくするためには、紙を十分に揉みほぐさなければならない。合羽には硬い仙花紙を使用しているために、紙揉みは熟練を要する重要な作業であった。

 紙揉みが終わると、いよいよ柿渋を塗る。これを渋引きと言う。20㎝くらいの刷毛で柿渋液を満遍なく塗っていく作業である。出荷する地方の嗜好に合わせて柿渋に紅殻を入れたりして独特の色合いを出すのもこの工程における作業だ。

 続いて、油引きと言って、渋紙に薄く油を塗っては乾燥させるという作業を何度も繰り返す。

 油引きが終わった合羽は、天日で干される。合羽干しと呼ばれる作業である。油引き後の合羽はなかなか乾燥しないので注意を要する。

 そして最後の仕上げに四隅または上部の両端に紐を通す穴を開けたりして細部を整えて、完成である。

 簡単に書いたつもりだったのに随分と長くなってしまった。合羽を作る工程は、それだけ複雑で煩雑な作業の積み重ねであるということなのだと思った。馬場弥五郎が初めて鳥居本宿で合羽の製造を行って以来、幾多の改良が加えられながら伝えられてきた技術である。

 鳥居本宿のちょうど真ん中あたり、かつて本陣があった場所の正面に木綿屋という合羽所の建物が現存している。黒板塀に塗り込められた白壁が目に眩しく輝き、趣のある竹格子が立てかけられている格式のある立派な建物だ。

 軒下には、「本家合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた木製の看板が吊るされている。実はこの合羽所・木綿屋は、私が出版でお世話になっているサンライズ出版の岩根社長のご実家であるのだ。

 合羽の製造は現在ではもう行われていないが、岩根家には当時の合羽製造に使われた道具や商標印の版木、それに顧客からの特注で合羽に刷り込んだ模様の型紙などが保管されている。

 それらを拝見させていただきながら一番に私が驚いたのは、合羽そのものである。

 合羽というから、衣服の上から羽織る紙でできた比較的簡単な構造の蓑のようなものを想像していたのだが、私の目の前に現れた合羽はそれとは全然違うものだった。

 時代劇によく出てくる旅ガラスが纏うマントのような形をしていて、しかも木綿でできている。柿渋を塗った雨滴をはじく紙はどこに行ってしまったのだろうか?と訝しげに眺めていると、岩根社長のお母さまの敏子さんがそっと教えてくださった。

 なんと、柿渋を塗った紙は表地と裏地の2枚の生地の間に挟まれて縫い込まれているのだそうだ。これでは外見は普通のマントと何ら変わらない。

しかもこの合羽、表地が紺色にやや薄いブルーの縦縞で、裏地は同じく紺色の地色だが白い縦縞と薄いブルーの横縞の格子模様になっているリバーシブルの合羽なのだ。

実用的でかつ美的センスにも優れていた鳥居本の合羽の真髄を見た気がした。

なるほど、こんなお洒落な合羽だったら、人々が争って購入したというのも素直に頷けると合点した。

それにしても、旧家の文化的蓄積はすごいものがあると思った。

岩根家は宿屋ではなかったものの、中山道を行き来する文人墨客などの文化人が木綿屋に立ち寄り、そして一夜の宿りを借りることも多かったのだろう。そのお礼として彼らがその場で書いて置いて行った書や絵を屏風に設えたものが置かれていた。

 

いずれも見事な出来栄えのものばかりで、日頃から教養の高い文化人との交流を通じて自らの文化をも高めていった旧家の底力を目の当たりにした感じがした。彼らは単に工業製品としての合羽を生産していたのではなかったのだ。

合羽所が転じて、現在は地元の貴重な情報を書籍として世に送り出す出版社となったことにも、納得がいく思いがする。

 ここまでは代表的な名産品である赤玉神教丸と合羽を中心に鳥居本宿を見てきた。この2つ以外にも鳥居本宿には、ヴォーリスが設計した旧本陣寺村家の門扉や、佐和山城の用材が使用されているという専宗寺の太鼓門など歴史的価値のある建築物が多数存在している。しかし何よりも、宿場町としての雰囲気のある街並みを街全体で今によく残してくれていることが、旅人にとっては格別うれしい。

 さらに近江鉄道本線の鳥居本駅は、三角形の赤い瓦屋根がトレードマークのかわいらしい駅である。昭和6年(1931)の開業当初の姿をよく保存しているという駅舎はまるでおとぎの国の駅のようで、鳥居本宿の玄関口として実にふさわしい佇まいである。

 最後に鳥居本宿を通る朝鮮人街道について記述して、長くなってしまったこの章を終えることにしたい。

 朝鮮人街道とは、先に雨森芳洲の章で触れた朝鮮通信使が朝鮮と江戸との往復の際に通った道で、鳥居本宿から分岐して中山道よりも北側の琵琶湖沿いの道を通り守山宿の手前の行畑で元の中山道に戻る全長40㎞あまりの道のことである。

 比較的まっすぐな道として整備されている中山道とは異なり、道が複雑に右折左折を繰り返す道をわざわざ朝鮮通信使一行に歩かせた幕府の意図はよくわからない。

 この道は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が京に上る際に通った吉例の道とされている。その後も将軍上洛の際に使用された道であるが、大名の参勤交代には通行を許されなかった特別な道でもある。

 鳥居本宿の南のはずれに近い四つ角に、「右 彦根道 左 中山道 京いせ道」と刻まれた古い道しるべが建っている。

 ここをまっすぐ南に下って行けば次の高宮宿に辿り着く。右の佐和山方面に曲がって行けば、切通しを抜けて彦根の城下町に向かう道となる。

 朝鮮通信使はここで進路を右に取り、彦根城下の宗安寺で宿泊するのが通例となっていた。朝鮮通信使は徳川時代を通じて12回しか派遣されなかったのにこの道が朝鮮人街道と呼ばれるようになったのは、沿線の住民たちにとって朝鮮通信使の一行がいかに印象強いものであったかを物語っている。

 しかしながら今では、この「朝鮮人街道」という道の名前も道筋も朧気なものとなってしまっていて、地元の人でも朝鮮人街道という名前を知らない人が多くなっているという。

 ましてや、今となっては区画整理などで道が失われてしまっている箇所も多々あり、正確な道筋というものがわからなくなってしまっているというのが悲しい現実のようである。

 そんな幻の朝鮮人街道を実地に歩いて確かめようという滋賀県立彦根東高校新聞部の生徒たちの興味深い研究成果がサンライズ出版から本として出版されている(『淡海文庫「朝鮮人街道」をゆく』(1995年))。

 鳥居本宿の分岐点に立って佐和山方面を見やりながら、私は雨森芳洲と朝鮮通信使たちのことを想った。

 私が歩いたのと同じこの中山道を、幕末には新撰組の隊士たちが江戸から京へと駆け抜けていった。反対に孝明天皇の妹君であられた和宮が、公武合体という重たすぎる使命を帯びて京から江戸へと下っていった。

許嫁との婚約を強制的に破棄させられ、京の皇族から見れば蛮族とも思えるような東国の武家の許に嫁がなければならなかったその時の和宮の悲壮な決意の気持ちを想うと、切に胸が痛む。

 これらの歴史に名を刻んだ人物が歩いたのと同じ道を今、私が歩いているという不思議な感覚。そして、感動を私は噛み締めている。

 女性である和宮が山の中を通る中山道を婚礼の道として選択したことは一見意外なことのようにも感じられるが、幕府の政策により大きな河川には橋が架けられていなかった東海道のほうがかえって女性には歩きにくい道であったとも言われている。

 中山道のことを別名で「姫街道」とも称されているのは、女性が多く選択した道であった事実を物語っているのだろう。

 ここまで来れば、最終目的地の京都までもあと僅かだ。旅人たちの安堵のため息と京都での期待感が伝わってくるような気がする。

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我善坊谷・葬送の道

このブログは、須賀谷温泉に来られた、または須賀谷温泉のブログをご覧になられて江の生涯に興味を持たれたお客様が、江戸での江の足跡または面影を求めて旅をされる際の道案内にでもなれば、との思いで書いた「湖北残照」の番外編である。

 ここ須賀谷温泉のすぐ目の前にある小谷山の上で生を受けた江が、その後の数奇な運命を経て辿り着いた終着点が、徳川幕府の江戸であった。

近江の江から江戸の江へ。

江の波乱万丈の人生の出発点と終着点とを見ると、はるばると人生の旅をしてきた江のことが思いやられて、しみじみとした感慨が湧き起こる。

この湖北の地で江の生まれ故郷を堪能されたみなさんには是非、江戸における江の足跡を訪ね歩かれることをお勧めする。そこには、意外な発見があるかもしれない。

 

我善坊谷・葬送の道

今、私は六本木交差点にいる。

 六本木と言えば、若者の街、あるいは外国人の街という言葉が似合う。または夜の街、眠らない街などという形容詞で語ることもできるかもしれない。東京でも特徴的な街の一つである。

 なぜ、江が六本木なのか?

 実は、江が亡くなって荼毘に付された時の灰を集めて埋めたと言われている「灰塚」が、六本木交差点から歩いて僅か1分ほどのところにある深(じん)廣寺(こうじ)という寺にあるのだ。

clip_image002[1] 深廣寺

 寛永3年(1626)9月15日、江は江戸城西の丸で53年の波乱に満ちた生涯を終えた。この時、夫であり徳川2代将軍である秀忠も、嫡男である家光や忠長も揃って上洛中であり、江にとっては寂しい最期だった。

 江の遺体は9月18日の夜に徳川氏の菩提寺である増上寺に運ばれた。

その後、荼毘に付されたのが10月18日であったことから推測するに、江の葬儀は夫の秀忠や息子の家光の帰着を待って執り行われたと考えるのが自然であろう。

江の火葬場が設けられたのは、「麻布野」であるとも「我善坊谷」であるとも言われている。

麻布野とは、今の六本木付近に拡がっていた広大な原っぱのことであり、我善坊谷とは、麻布野よりもやや増上寺寄り、今の麻布台一丁目にある麻布郵便局裏手の低くなった谷状の土地のことであると推測される。

 今では先鋭的であり高級な都会の代名詞のようになっている六本木や麻布台であるが、当時はまだ随所に空き地が見られる原野や谷あいだったものと考えられる。

 江が火葬された正確な場所はわからない。

 前述の灰塚のある深広寺付近というふうにも考えられるが、『徳川実紀』には我善坊谷と記載されている。いずれにしても、現在の六本木から麻布台にかけての広々とした土地に、江のための盛大な荼毘所が設けられた。

  増上寺から荼毘所までの1000間の間に筵を敷き、その上に白布10反を布いて1間ご

とに竜幡をたて、両側に燭をかかげた。荼毘所は100間四方槍をもって垣をつくり、丹

を塗り筵を敷き、達空、信人、梵行、究竟、の四門をたて、各門に額をかけ、方ごとに幡(ばん)

10本ずつ四方40旒、火屋内構60間、四方の垣外構と同じ。……。

『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』 東京大学出版会

1間は約1.8mであるから、1000間というと約1800mということになる。2㎞弱にもわたって筵が敷かれ、その間、2m弱の間隔で幡が立てかけられていたことになる。荼毘所の広さも180m四方に槍を建てて垣を造ったというから、いかに大規模な設備であったかが記述から窺える。

 先に、江は徳川の15代にわたる将軍の正室のなかで唯一、将軍となる子を産んだ正室であることを書いた。さらに江は、増上寺に埋葬された将軍・正室などの徳川一門の人々のなかで、唯一火葬された人でもあるという。

 どうして江だけが火葬されたのか、私にはわからない。

 江の死が急な死であったこと、秀忠や家光などの男衆が江戸を留守にしている間の死であったこと、それに火葬に付されたことなどの周囲の状況から、毒殺だったのではないかと考えている人もいるようだ。

 当時の貴人は土葬が普通だった。今のような機械設備もない当時は、むしろ火葬を行うことの方が手間暇のかかる行為だったという。わざわざ江が火葬された背景に何か特別な事情があったとの考え方もあるかもしれない。

 江の死が、もしも何者かによって企まれたものであったとしたら、それはあまりにも悲しすぎる事実である。そのような推理が成り立つとしたら、その背後に一人の女性の影が見え隠れしているのもまた事実であるからだ。

 しかし私は、江が毒殺されたとする説には与しない。

『徳川実紀』の記述には矛盾する記述や不正確と思われる記述が多いのでどこまで信じるべきか迷うところではあるが、江が危篤である旨の急報は9月11日には京の二条城に滞在していた秀忠や家光に届いていたこと、秀忠や家光の江戸帰着を待って江の葬儀が行われたことなどから考えると、急死であることも証拠隠滅のために荼毘に付したということも根拠のない説であると考えざるを得ない。

事実は永遠に不明のまま、残念なことにすべては灰と化してしまった。

 今となっては、江の死の真相を知る術(すべ)は何も遺されていない。私は、江の死という事実のみを知るのみである。

 江戸に戻って江の遺体と対面した秀忠や家光や秀長は、どんな思いだったことだろうか?彼らの驚きと悲嘆に満ちた気持ちを想う時、私は涙を禁じ得ない。江が忽然とこの世を去ってしまい、命なき遺体となってしまったという事実を、おそらくは容易に受け容れることができなかったのではないだろうか。

 江の訃報を聞いて、江の化粧料地であった石川村や王禅寺村からも、江を慕う人々が取るものもとりあえず駆けつけてきた。

 実際に江にお目見えしたことはなかったかもしれないが、彼らにとっての江は絶対的な存在であったにちがいない。支配者と被支配者という単純な上下関係ではなくて、彼らの間には信頼に裏打ちされた、あるいは親愛の情がこもった主従の関係が存在していたものと想像される。

clip_image004[1] 我善坊谷の細い路地

 この日の我善坊谷は、悲しく重苦しい空気に包まれていたことだろう。

 先程引用した『徳川実紀』の記述を基に、江の荼毘所が造られたと言われている場所を推理してみた。

 増上寺から1000間(=約1800m)という距離を考えると、我善坊谷では近過ぎてしまう。やはり六本木辺りと考えるのが妥当であろうか?

 しかし私は、『徳川実紀』に記述された距離感には疑問を抱いている。

 別の箇所で、

  沈香を32間余りに積み重ね、一時に火を放てば、香烟10丁余りに及んだ

 という記述があるからだ。

 さすがに没後1ヶ月以上を経た遺体を荼毘に付すにあたって、腐臭を如何ともし難かったのだろう。香木を32間余りに積み重ねたと記されているのだが、先程の計算(1間=約1.8m)で換算すると、32間は57.6mになってしまう。

57mという高さは、京都にある東寺の五重塔の高さと同じである。そんなことはあり得ない。従って、増上寺から荼毘所までの距離が1000間というのも、疑ってかかるべきであると考える。

 この1000間という記述を考慮しなければ、我善坊谷はいかにも荼毘所がありそうな雰囲気に満ちた場所であるように思われる。

 我善坊谷を歩いてみた。

 夕暮れ時に歩いたということもあったかもしれないが、通る人も疎らで、たいへんに寂しい道に見えた。六本木がすぐそこで、東京タワーも間近に見え隠れする都会の真ん中に立地しているのに、喧騒からは隔絶された世界がそこには存在していた。

 王家の谷という言葉がエジプトにあるけれど、死にまつわる場所は洋の東西を問わず陰の世界が相応しい。陽の当たる岡の上よりも、日陰の谷底の方が似つかわしい。

 今では「我善坊谷」という地名さえ、歩き回ったけれどどこにも見出すことができなかった。すでに忘れ去られた世界なのかもしれない。

 荼毘に付された江の遺骨は、墓所である増上寺に向かうためにしずしずと我善坊谷に設けられた荼毘所を出発した。

 葬送の長い列は、細く曲がりくねった道をしめやかに進んでいった。狭い路地を悲しみの行列が通り過ぎていく。

 こんな静かな道を江の遺骨が運ばれて行ったのだと思うと、ちょっと心が疼いた。小谷山で生まれ、波乱に富んだ人生を送り、そしてこんな遠い江戸の地で、夫や子供に看取られることもなく寂しく亡くなった江の人生を想った。

 そして、将軍の御台所の葬送なのにという気持ちと、でも心から江の死を悲しんでくれる人たちに囲まれての葬送の列の方が江にはふさわしいという気持ちとが相半ばして、私の気持ちは複雑に揺れ動いた。

 我善坊谷の坂道を上りきると、目指す増上寺はすぐ目の前である。

 葬送の道を辿る旅の最後に、江の荼毘所に関連したいくつかの寺を訪ねてみた。

 江の遺骸の火葬に携わった寺院は、前出の深(じん)廣寺(こうじ)のほか、教(きょう)善寺(ぜんじ)、光専寺(こうせんじ)、崇(すう)巌寺(がんじ)、正信寺(しょうしんじ)の5つの浄土宗の寺だった。

 これらの寺院は後に、火葬地一帯の麻布野に寺領を与えられた。

 六本木3-14-20の六本木墓苑は、道路拡張のために崇厳寺の跡地に集約されたこれら5寺の共同墓地である。

clip_image006[1] 六本木墓苑

 正信寺は、後に小石川に移転している。

clip_image008[1] 小石川に移転した正信寺

 私は、六本木墓苑を訪れた後、今に残る教善寺、光専寺、それに深廣寺の3つの寺を訪ねてみた。

clip_image010[1] 教善寺

clip_image012 光専寺

 いずれの寺も非公開で、私たちの訪問を頑なに拒んでいるかのようだ。

 建物自体も近世になって建立されたものであり、当時の面影を残してはいない。私は、なんとなく満たされない気持ちで、これら3つの寺院の門前で記念の写真を撮っただけで、そそくさと六本木の街を後にした。

 なお、深広寺の境内には、この章の冒頭で書いたように、江の灰を埋めたという灰塚と呼ばれている石碑が遺されている。せめてこの石碑くらいは拝んでみたいと思うのだが、それも叶わない。

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増上寺・将軍家の廟所

 増上寺・将軍家の廟所

 

三縁山増上寺は、明徳4年(1393)に浄土宗第八祖西誉聖聰上人により武蔵国豊島郷貝塚(現在の東京千代田区平河町から麹町あたり)に開山された寺である。

 開山当初から東国における浄土宗の重要な拠点として位置づけられてきた寺であったが、戦国時代の終わりに関東の地を賜った徳川家康によって、徳川家の菩提寺としての地位を不動のものとした。

家康が時の住職であった源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依していたためと言われている。

その後、慶長3年(1598)に今の芝の地に移転し、三(さん)解脱門(げだつもん)、経蔵、大殿などの諸堂が相次いで建立されて山内は徳川家の菩提寺としての威容を整えていった。

clip_image002 増上寺・三解脱門

こうして増上寺の歴史を見てくると、増上寺は徳川幕府の樹立前から徳川氏との間に深い関係が構築されていたことがわかる。

元和2年(1616)、家康は増上寺にて葬儀を行うことを遺言してこの世を去った。

その後も増上寺と徳川家との良好な関係は幕末に至るまで続き、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍とその正室や側室の墓所が増上寺に設けられている。

ちなみに家康は日光東照宮に、3代、4代、5代、8代、10代、11代、13代将軍は上野の寛永寺に、そして15代慶喜は谷中霊園に墓所がある。

増上寺一寺に絞り込まず、寛永寺と競わせるように菩提寺を2つに分散させたのは、徳川氏の政策によるものであったか。

戦前までの増上寺には、大殿(本堂)の右側と左側に分れて広大な将軍家の廟所が設けられ、将軍毎に豪壮な霊廟が建てられていたという。第二次世界大戦における空襲(昭和20年(1945)3月9日)でこれらの貴重な文化遺産の大部分が灰塵に帰してしまったことはまことに残念であり、慙愧に堪えない。

現在増上寺大殿の右奥にある「徳川将軍家霊廟」は、6代将軍家宣の墓前にあった鋳造の中門(鋳抜門)を入り口の門として、寺内の広い場所に散在していた各将軍や正室などの宝塔や各大名から寄進された灯籠などを移設したものである。

元々の徳川将軍家の廟所は、大殿の左側に拡がる広大な土地に2代秀忠と正室江の廟所が設けられ、大殿の右側の土地にそれ以外の将軍の廟所が寄せ集められるようにして造られていた。

著しくバランスを失するレイアウトであったことに、私は驚きを隠せない。

増上寺における徳川家の墓地の半分のスペースを秀忠と江が独占し、残りの半分のスペースを5人の将軍でシェアーしていたということになる。

想像するに、徳川政権が長く引き継がれ世の中が安定の時代へと推移していくに従い、次第に将軍の墓に対する認識も改まり、類型化、簡素化が進んでいったのではないだろうか。

徳川幕府の草創期であった秀忠の時代には、この後徳川幕府がいつまで続くかなんてわからない先が見通せない時代だった。

後代の将軍のことなどを考える必要もなく、今の徳川家の権威を思う存分に見せつけるための立派な廟所こそが必要だったのではないだろうか。

ましてや、初代将軍の家康は別格の存在で遠く日光に造営した専用の廟所に納まっている。増上寺における将軍の墓所は秀忠が初代となるのだから、後代の将軍廟の見本となるべき墓を造る必要があった。

その後、3代、4代、5代と3代続けて寛永寺に廟所が築かれた後、増上寺に6代将軍の墓所が築かれる頃には徳川の世は十分に安定し、むしろその後も末永く将軍の墓域を確保しておく必要があった。

秀忠と同じ面積を家宣の墓域として使ってしまったら、次の将軍の墓域を増上寺に見出すことが難しくなってしまう。

幕府は方針を転換して、大殿の右側のスペースを後代の歴代将軍の廟所スペースとしたのではないだろうか。

clip_image004 増上寺大殿

以上は私の何の根拠もない想像である。

目を今の時代に戻すと、大殿の左側の秀忠と江の墓域とほぼ一致するエリアが、今ではザ・プリンスのパークタワー東京の敷地となっており、それ以外の将軍家の墓域とほぼ一致するエリアが、東京プリンスホテルの敷地となっている。

徳川将軍家の廟所は、今ではプリンスホテルの敷地に変わってしまっているということになる。

増上寺(中央)を挟んで上側(南)に江と秀忠の廟所が、下側(北)に他の将軍の廟所があった。現在、江と秀忠の廟所はパークタワーとなり、他の将軍の廟所は東京プリンスホテルとなっている。

clip_image006 プリンスホテルの案内図

そこには、政商として陰に陽に活躍した西武グループの創始者・堤康次郎氏の影が見え隠れしている。 そのことは次の章で書くことになるから、ここではこれ以上触れない。

それにしても、徳川将軍家の墓地の跡地にホテルを建てるという発想は、普通の人にはない発想だと思う。寝ていると将軍の霊が夢枕に現れて来そうであまりいい心地がしないだろうと思うのは、私だけだろうか?

幸か不幸か、私は東京を代表するこの高級なホテルに宿泊したことはない。

 江の廟所があったパークタワー東京の敷地を歩いてみた。

 入り口は、前々章でも触れた日比谷通りに面した台徳院惣門である。秀忠の廟所に通ずる最初の門であるというこの門を改めて見てみると、繊細な彫刻こそ施されてはいないものの、堂々としていて実に立派な門であることに気づかされる。

 改修が行われて当時の姿を彷彿とさせてくれているのも、たいへんにありがたいことである。後述するが、他の現存している増上寺にあった将軍家の廟門は、どれもみな長年の雨風に晒されて往時の輝きを失っている。

 博物館の中に納めて劣化を防止するのも寂しいことだし、文化遺産の保存は実に難しい問題を含んでいるとつくづく思う。

 惣門を潜るとそれほど長くはないが石段が続く。

 きれいに整備されたその石段を登りきったところに「惣門跡」の標柱が建っている。何の説明もないからほとんどの人は何も知らずに通り過ぎてしまうが、今潜って来た惣門が元々建てられていたのがこの場所である。

clip_image008 惣門跡の標柱

 どうして日比谷通り寄りに移設されたのかはわからない。奥まったところにひっそりと建てられているよりは、日比谷通りを通る多くの人に見てもらいたいとの思いがあったのかもしれない。

 惣門の手前には水路が造られていた。珍しく詳細な説明板が設置されているので、ここではそのまま引用してみよう。

  ここに並べられた石垣石は、増上寺山内丸山に造営された台徳院-二代将軍徳川秀忠-

霊廟の惣門前に構築された水路に用いられていたものです。台徳院霊廟は寛永9年

(1633)、台徳院の死後まもなく造営が始められ、およそ一年後に竣工したことが記録に

あります。

  水路は砂地の上に組み上げられた石垣を壁としており、これらの石垣石はその建材の

一部です。石垣は平成14年(2002)に行われた発掘調査によって、この石列の真下、地

下およそ8mの位置で発見されました。石垣は、最も良好な箇所で4段検出されました。

石材として、相模から伊豆にかけての地域で切り出された安山岩が用いられていますが、

形や大きさはまちまちです。最下段の石垣には、宝永の火山灰の付着が確認され、刻印

や墨書を認めるものもあります。かつて、旧御成道-現在の日比谷通り-から御霊屋への通

路は、惣門手前でこの水路を渡りました。往時、水路には清らかな水が流れ、発掘調査

では惣門手前に架けられていた橋台の一部も検出されました。

 今では、人工的に切り整えられ平行に置かれたいくつかの石が、説明板の記述により僅かに水路跡の石であることを認識できるにすぎない。その石も、夏草に覆われてほとんど埋もれかけている。

 かつては、台徳院惣門の前には水が清らかに流れていた。廟へ参詣する者は、この水路に架かる石橋を渡って惣門を潜った。

 当時の姿を想像しながら進んでいくと、程なくして右手に「勅額門跡」と書かれた標柱が目に入る。

clip_image010 勅額門跡の標柱

 やはり何の説明もないので、知らない人はかつてあった増上寺の門だと思うことだろう。ところがこの門こそが、秀忠と江の廟所に向かう2番目の門なのである。

 次の章で書くことになるが、この門は都内某所に現存している。

 長い歳月の経過により劣化が進行し往時の姿を十分に残しているとは言い難いものの、それでも、詳細な彫刻が施され、部分的には鮮やかな彩色が今なお残る勅額門は、見事と言うほかない立派な門である。

 その勅額門を心の内に描いてさらに進むと、そこには円形に整えられた芝生の広場が拡がっている。

 この芝生広場には、かつて台徳院廟所の拝殿と本殿とがあったはずである。

 日光東照宮には及ばないものの、そこには豪華な彫刻で飾られ鮮やかな色彩で彩られた建造物群が建立されていたことだろう。私は再び、心の中で想像を逞しくする。

 勅額門を潜ると、目の前に唐門が見える。その向こう側の建物が拝殿で、さらに奥には2層から成る本殿の屋根が顔を覗かせている。いずれも総瓦葺きで、拝殿と本殿は入母屋造りの堂々たる建造物である。

 台徳院の拝殿・本殿の右側の一段やや低いところに、崇源院(=江)の拝殿と本殿とが台徳院の拝殿・本殿と並んで建てられていた。今で言うと、円形の芝生広場を少し右側に外れて増上寺会館裏手の敷地にかかる辺りであろうかと想像する。

 かつて崇源院の拝殿と本殿があったであろう場所を歩いてみると、明らかに人の手によって加工された四角い大きな石が道端に無造作に置かれていた。もしかしたら、崇源院の廟殿のどこかに使われた石だったのかもしれないなんて思うと、そんな何気ないただの石までもが神々しく見えてきてしまう。

現在円形の芝生広場となっているこの辺りに秀忠の拝殿と本殿が建てられていた。

clip_image012 円形の芝生広場

 勅額門を入ってすぐ右側、台徳院の拝殿・本殿から崇源院の拝殿・本殿に通ずる道に建てられていたのが、「丁子門」と呼ばれる小さな美しい門である。

 この門については、次の章で触れる。

 台徳院(=秀忠)の墓所は拝殿・本殿左手の、さらに高まった場所にあった。木製の巨大な宝塔が置かれ、内陣の柱には葵の紋をモチーフにした詳細な装飾が施され、欄間の彫刻では天女が笛を吹きながら宙を舞う姿が描かれていた。

 まさに別世界というか夢の世界である。

日光まで行かずしても、徳川氏の権力と富と文化の結晶であるこの美しい世界を私たちは間近に見ることが出来るはずだった。つい60数年前まではたしかにこの世に存在していたこの世の至宝を、無益な戦争によって失った私たちの損失は計算することができないほどに大きい。

台徳院の墓は木製の宝塔であったために、廟殿ともども灰塵に帰してしまった。

後(昭和33年(1958))に徳川将軍家の墓を移転・改葬するに際して行われた学術調査において、焼失した台徳院宝塔の下、地下2.7mのところに埋葬されていた秀忠の遺体も調査の対象となった。

中期以降の将軍が華奢で貴公子のような体格であったのに対して秀忠は、背丈はそれほど高くはないものの毛深く、骨格はがっしりとしていかにも戦国末期を生き抜いた人のそれであったようだ。

副葬品として葵の紋がついた槍や火縄銃が添えてあったというのも、当時の世相を反映していて興味深い。

台徳院の宝塔があった墓所は、今まさにザ・プリンスのパークタワー東京が建つあたりであると思われる。秀忠の墓も、随分と洒落たビルディングに姿を変えてしまったものだと思う。

私は江や秀忠への熱い気持ちを胸に抱きながら、万感の想いを込めて二人の廟所がかつてあったであろうホテルの敷地を、歩き回った。ここがそんな場所であることなど知る由もなく、結構式を迎えたウエディングドレス姿の花嫁と白いタキシード姿の花婿が、緑の芝生とホテルの建物を背景にして、記念写真を撮っている光景が眺められた。

現在パークタワー東京が建つあたりに、かつて秀忠の墓所である宝塔があった。

clip_image014 ザ・プリンス パークタワー東京

 台徳院の拝殿・本殿の位置と宝塔(=墓所)があった位置はだいたいわかった。崇源院の拝殿・本殿も台徳院の拝殿・本殿の右側に並ぶようにして建てられていたことがわかった。では、崇源院の宝塔(=墓所)はどこにあったのだろうか?

 私は、徳川家霊廟が描かれている地図を目を皿のようにして探した。

 しかし、増上寺の南側に拡がる台徳院と崇源院の廟域からは、どうしても崇源院の宝塔を探し出すことができなかった。

 崇源院の宝塔は元はどこにあったのだろうか?

 私は何度も繰り返して古地図を眺めてみたが、崇源院の宝塔の所在地をどうしても見出すことが出来ない。

 ほとんど諦めかけていた時に、ついに私は崇源院の宝塔があった場所を見つけた。

 まったく想定していなかったのだが、崇源院の宝塔は、増上寺の南側ではなくて北側にあったのだ。

 今で言うと東京プリンスホテルのエントランスのあたりになるだろうか。周囲には、5代将軍綱吉の生母である桂昌院など将軍の正室や側室たちの墓が集中している地域になる。

江の墓所を示す宝塔は、かつてはこの東京プリンスホテルのエントランス付近にあった。

clip_image016 東京プリンスホテル

 しかも、元々は江と秀忠の墓として使われている今の宝塔ではなくて、葬礼当時の江の墓は、高さが5m15㎝もある宝筐印塔であったことが発掘調査の過程で判明した。

慶安のころから塔の破損が激しくなったとの記録があり、改修を繰り返したもののついにこの宝筐印塔を諦め、現在の八角形の御堂形の宝塔に代えられたものと推測されている。

 元の宝筐印塔は5つのパーツに分けられて無造作に江の墓の周囲に埋められていたという。発掘調査ならではの知られざる事実を知って、改めて感慨を深めた。

 不思議なことに、江の遺骨は増上寺の北側に埋められて、そのまま移葬されることはなかったことになる。拝殿と本殿のみが、秀忠の薨去後に家光によって増上寺の南側の墓域に造られたということを知って、非常に複雑な気持ちになっている。

 江と秀忠の遺骸は、ずいぶん長い間、増上寺の北側と南側とに分かれて埋葬されていたのだ。

 戦後の発掘調査に続く改装により、文字通り江と秀忠の遺骨は一つの宝塔の下に納められることになった。それはそれで、二人にとってはよいことだったのかもしれない。

最後に現在の江と秀忠の墓を訪れた。

 上野の寛永寺は将軍家の墓所を公開していないが、増上寺では年に10数日程度ではあるものの将軍家御霊屋を特別に公開している。

 今年(平成23年)は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、4月2日~8日に予定されていた御忌期間中の特別公開が見送りとなったが、その代わり4月15日~11月30日までの長期間にわたって徳川家墓所が特別に公開されている。

 ただし、冥加料として500円が必要である。

 通常は無料公開なので500円はやや高い気もするが、無料公開の時には多数の拝観客でごった返すのに、有料となると拝観客が激減する。静かな雰囲気の中で江や秀忠の墓と対面するのも悪くはない。

 さらに、貴重な焼失前の御霊屋の絵葉書と当時の地図が記念品として用意されている。この文章を書くにあたっても大いに参考にさせていただいた有意義な史料である。

 あれだけ広大な敷地に散りばめられていた将軍家の墓が1000㎡ほどのスペースに閉じ込められてしまったのは残念な気がするけれど、それでも十分威厳に満ちた神聖な雰囲気がこの空間には満ちみちている。

 江と秀忠の墓を示す宝塔は、墓域の一番奥まった場所の右側にある。

 前述のとおりに秀忠の宝塔が木製だったために焼失してしまったことから、秀忠が江の宝塔に同居しているのが、いかにも姉様女房の夫婦らしくて微笑ましい。

 以前お参りした時には、宝塔の右側に単に「台徳院殿二代秀忠公」と書かれた木の立て札が立てられていただけだったのに、今年のNHK大河ドラマ「江」の影響であろう、宝塔の左側に「崇源院殿お江の方」と書かれた立て札が新たに立てられていたのには、失笑を禁じ得なかった。

 そう言えば、前回お参りした時には、同じくNHK大河ドラマ「篤姫」が放映されていた時で、和宮と家茂の墓のみが特別に脚光を浴びていたことを思い出した。その時の秀忠の墓は、その他の将軍の墓の一つでしかなかった。

clip_image018 江と秀忠の墓

 江の墓はいかにも女性の墓らしく、石造りの宝塔はやや小振りで、塔身も屋根も八角形をしている。他の将軍の宝塔が丸い塔身に四角形の屋根であるのと比較するとたいへんに特徴的な宝塔である。

 紆余曲折を経たものの、この中に江と秀忠の遺骨が納められているのだと思うと、身震いするような気持ちがする。

 元々江は火葬であったが、秀忠の遺体も昭和33年(1958)の学術調査の後に、他の将軍の遺体とともに桐ケ谷斎場(品川区西五反田)にて荼毘に付された。そして増上寺の僧侶たちの懇ろな法要を受けて現在の地に移葬されたのであった。

 先に私は、秀忠は背丈はそれほど高くないものの毛深く、骨格はがっしりとしていかにも戦国末期を生き抜いた人のそれであったと書いた。

 江も、波乱万丈の人生を力強く生きてきた割には小柄で、華奢な体格の女性であったようだ。浅井長政の一族は大柄な体格の人が多い家系のように思われるのだが、江は小さな体に溢れんばかりのバイタリティーで波乱に富んだ人生を送ったのかもしれない。

 その後、移葬が行われてから50年以上の歳月が経過している。

 すっかり周囲の景色や草木にも馴染んだ将軍家の墓域は、元からここにあったかのように思えるほどの威厳をもって我が眼前にその姿を見せてくれていた。

 少なくとも私が生まれた時には今の状態になっていたのだから、そう思えることも不思議ではない。無益な戦争により多大なダメージを受けたことを考え合わせると止むを得なかったことかもしれないが、今の姿が江や秀忠にとって必ずしも幸せな形であるかどうかは、私にはわからない。

 やはり本来は、元の埋葬されていた場所に、願わくば焼失前の廟所を復元してほしかった。今の時代であったならば、あるいはそういう動きになったかもしれない。

 高度経済成長を背景に文化財遺産への尊重と尊敬とが軽んじられていた時代背景もあったのだろうが、廟所を破壊するブルドーザーの槌音に急かされるようにして学術調査を行わざるを得なかったという事実を知ると、とても悲しい気持ちになってしまう。

 プリンスホテルの敷地内にはここが徳川将軍家の墓地跡であったという事実を示す説明板がほとんどないことが、一層私の心を痛めている。法律的には適法であり、誰から責められる余地もないものかもしれないが、彼らが行った行為はある意味では文化遺産の破壊であり、そのことは彼ら自身が最もよく認識していたのではないだろうか。

多くを語りたくないために説明板が設置されていないと考えるのは、私の穿ち過ぎだろうか?

clip_image020 貞恭庵

 徳川家の霊廟を後にして大殿の裏側を通ってさらに進むと、貞(てい)恭(きょう)庵(あん)という瀟洒な茶室がひっそりと建てられているのに出くわす。大勢の参詣者で賑わう増上寺においても最も奥まった場所にあり、訪れる人も稀な静寂に包まれた空間である。

 この貞恭庵と呼ばれる四畳半台目の茶室は、皇女和宮に所縁の茶室なのだそうだ。

 貞恭庵という庵名は、和宮の謚である「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」から命名されている。

 この茶室、通常は非公開だが、月に1回だけ中に入ることができるチャンスがある。毎月第4日曜日に茶(ちゃ)雅(が)馬(ま)茶道教室が主催している抹茶と和菓子の会だ。

 和宮の茶室を是非とも見てみたくて、私は8月最後の日曜日に再び貞恭庵を訪れた。平成23年8月28日のことであった。

 たいへん幸運なことに、毎月テーマを決めて行われる茶会の今月のテーマは江であった。9月15日が江の命日であることから、江との関係が深い増上寺塔頭の最勝院に伝わる掛け軸(大和遠州流第2代の小堀篷雪画)が床の間に飾られ、江にまつわる話が語られた。

 時代が違うので、和宮の茶室を見に来て江の話を聞くとは予想していなかった。それだけに、思わずして江の話を聞くことができて、感慨もひとしおだった。

 こんなふうにして何気なく江のことが語られる増上寺という寺は、江にとって非常に身近な寺であったということなのだろうと思った。

 最後に、江は東京タワーのすぐ近くに眠っている。そして東京タワーは、東京のかなり広範囲な場所からでも遠望することができる。

私は東京の街を歩いていて東京タワーを見つけると、あぁあの袂に江の墓があるのだなと思うようにしている。

そうすると一層、東京タワーが愛おしい存在に思えてくる。

秀忠の拝殿・本殿があった円形広場、秀忠の墓(=宝塔)のあったパークタワー東京がよく見える。

clip_image022 東京タワーから見た増上寺

江の墓所を示す宝塔があった東京プリンスホテル方面。

clip_image024 東京タワーから見た増上寺

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芝界隈・江の面影を求めて

芝界隈・江の面影を求めて

 芝は、徳川氏の菩提寺の一つである増上寺があることもあり、徳川氏とはつながりが深い土地柄である。

 江や秀忠をはじめとして、歴代将軍や正室の墓があるのも、増上寺である。増上寺のことは次の章でゆっくり触れることになるだろう。今日は江の面影を求めて、増上寺の周辺を散策してみたいと思っている。

 世の中では世界一の高さに達したスカイツリーが話題を独占しているけれど、私は東京タワーの見える風景が好きだ。周囲の建物や自然の落ち着いた色彩からは際立っているものの、東京タワーが視界に映ると、なぜか見入ってしまうし心が落ち着く。

 私が昔の人間で、小さい時からごく普通に存在していた東京タワーのある風景が、心のなかに自然と焼き付けられてしまっているからかもしれない。

clip_image002 東京タワー

 芝界隈を歩いていると、建物と建物との間に東京タワーが見え隠れする風景に当たり前のように出くわす。ふと足を止めてそんな風景を眺めることも、今回の旅の楽しみの一つでもある。

 増上寺に眠る江も、自分の墓の間近にこんな塔が建とうとは、夢にも思わなかったに違いない。

 増上寺の山門(三(さん)解脱門(げだつもん))を背にして右方向に歩いて行くと、朱塗りの立派な門が現れた。左右に仁王が立ち、門の上部には葵の紋がいくつも飾られている。重要文化財に指定されている台徳院霊廟の惣門だ。

 この門は、寛永9年(1632)に3代将軍徳川家光が台徳院の霊廟門として建立したもので、昭和20年(1945)の東京大空襲でも奇跡的に焼け残った門である。

 台徳院とは、2代将軍であり江の夫であった徳川秀忠の謚(おくりな)だ。

 後の章で詳しく書くが、元々は、現在の惣門が建てられている場所から東京プリンスホテルのパークタワーが建つあたり一帯の広大な土地に、江と秀忠の廟があった。惣門は、二人の廟所に通ずる最初の門にあたる。

 オリジナルは、表通り(日比谷通り)からもっと内側に入ったところに建てられていたものだが、後に通りの近くに移設され、朱の色も鮮やかに修復された。

 入母屋造りの瓦屋根の前と後ろに金色の金具で飾られた唐破風が取り付けられている。徳川将軍の廟門としては、繊細な彫刻などはないものの、力強くて落ち着いた佇まいの門である。

clip_image004 台徳院惣門

 この惣門を過ぎて最初の交差点(芝公園グランド前)を左折する。さらに最初の小道を左折すると、最勝院という寺が見えてくる……はずだった。

 ところが、それほど広くはない道の右側にも左側にも、お寺のような建物は見当たらない。道を間違えてしまったのだろうか?不安になって、来た道を引き返そうとしたその時、最勝院と書かれた看板が目に入った。

 ところが、そこにあるのは単なるマンションの建物のみである。どうやら、寺の敷地はマンションとなり、その一角が寺になっている構造らしい。最勝院は檀家を持たず、墓も持たない特殊な形態の寺院である。残念ながら、拝観は認められていない。

 この寺は、江の位牌を祀る御霊屋(おたまや)の別当寺として、寛永3年(1626)に夫の秀忠によって創建された増上寺の塔頭である。元は最勝軒と称し、かつての増上寺境内の天神谷(先程通った「芝公園グランド前」交差点付近)にあったものだが、明治20年(1887)に当地に移転した。

 最勝軒は、江の法要の際には中心的な役割を担うとともに、江の廟の管理を通じて江を守り続けてきた。

clip_image006 最勝院

 当寺の地下にある仏間には、江の位牌とともに、江が念持仏として所有していたと伝えられる持(じ)蓮華(れんげ)蕾中(かんちゅう)の阿弥陀如来立像(りゅうぞう)が安置されている。拝観が認められていないため、実際に見ることができないのが残念だ。

 写真で見てみると、長い茎の上部に蓮華の花の蕾が膨らみ、その蕾の中に阿弥陀如来の立像が納まっている。とても可憐でお洒落な仏像である。

 今は場所も形もすっかり変わってしまい創建当時の姿を想像することは極めて困難な状況ではあるものの、この寺は江を亡くした秀忠の悲しみが込められた寺である。秀忠は江に先立たれ、どのような気持ちでこの寺を建立したのだろうか?

 芝界隈には、こんな何気ない街の片隅のマンションにも、江と秀忠にまつわる想い出が残っていることが、なんともうれしい。

 ちなみにこの最勝院には、昭和6年(1931)から10年(1935)にかけて、作家の吉川英治さんが借家住まいをされて、代表作である『親鸞』などの作品を書き上げられたというから、なおさら感慨深さが増すばかりである。

 次に私が赴いたのは、増上寺の三解脱門を背にしてまっすぐに進み、大門を潜った交差点を左に曲がったところに位置する芝大神宮だ。

 芝大神宮は、道の右側の高台にある。

 私は、境内の周囲を回り込むようにして造られた参道伝いに、神社の階段下まで歩を進めた。折しも結婚式が執り行われていて、挙式中の新郎新婦と神主が厳かに、緊張した面持ちで目の前に敷かれた赤絨毯の上をしずしずと歩いて行くのが見えた。

 知人ではなくても、若い人の晴れがましい人生の旅立ちの場にこうして出くわすのはうれしい。彼らに幸多かれと心の中で祈った。

 ここ芝大神宮も、江の信仰が篤かった神社の一つである。

 寛弘2年(1005)に創建された古社で、かつては飯倉神明宮、あるいは芝神明宮などと称され、源頼朝からも篤い加護を受けていた。江戸時代になってからも徳川幕府により大いに保護を受けて、「関東のお伊勢様」と呼ばれるほどの盛隆を極めた。

 広重の「東都名所」、「東京名所図会」や豊国の「東京名所江戸自慢三十六與」などの錦絵に度々登場していることでも、江戸時代の賑わいぶりが十分に想像される。

 今では、むしろ商売繁盛の神として、当神社特有の「商(あきな)い守」が参拝者の間で珍重されているようだ。金字で丸に「商」という字がシンプルに描かれたお守りで、白と黒の2種類がある。

 白いお守りは「白星・土つかず」ということで縁起がよく、黒いお守りは黒い生地であることから「黒字」(赤字の反対の意味)につながるとして、どちらも人気があるそうだ。

 主祭神として伊勢神宮と同じ天照皇大御神(内宮)と豊受大神(外宮)の二柱の神をお祀りし、相殿として源頼朝と徳川家康をも祀っている。

clip_image008 芝大神宮

 江は、大坂の陣に際して、徳川氏の戦勝を祈願するために、春日局を自分の名代としてこの芝大神宮に遣わしている。

 嫁ぎ先の徳川氏が勝っても、姉である淀殿が籠る大坂方が勝っても、江にとっては実に辛い戦いだった。心ならずして骨肉相争う状況となってしまった江ではあったが、徳川家の室として、嫁ぎ先である徳川の戦勝を祈願しないわけにはいかなかった。

遠く江戸にいて、自らは何もできないままに歴史の大きな流れを見守るしかない無力感と我が身の不運な定めとを、江はひしひしと感じていたことだろう。その時の江の気持ちを想うと、不憫でならない。

 続いて私が向かった先は、愛宕神社から程近い天徳寺である。

 平成になってからの建造ではあるが(平成17年)、八角形が二層重なった形の洒落た本堂を持つこの寺には、江の三女である勝姫が眠っている。

 天徳寺は、天文2年(1533)に江戸城内の紅葉山に、増上寺7世親誉上人の弟子の緑誉称念上人によって創建された浄土宗の寺である。

その後、天正13年(1585)に桜田霞ヶ関に移転し、さらに江戸城拡張のために慶長16年(1611)に替え地を賜り当地に移転をしている。

 浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして、元和元年(1615)には家康から50石、さらに元和9年(1623)には秀忠から100石の朱印を賜った、いわゆる御朱印寺であった。

 将軍家のほか、越前松平家、出雲松平家など数十にもおよぶ藩の菩提寺として幕末を迎えている由緒のある寺である。

 ここは本当に東京なのだろうか?と思うような木造の古い家が建ち並ぶ不思議な街の一角に、これまた不思議な八角形の形をした本堂が建てられている。その背景には、近代的な高層ビル(パークコート虎ノ門愛宕タワー、愛宕グリーンヒルズ愛宕フォレストタワー)が顔を覗かせているという何ともミステリアスな区域である。

clip_image010 天徳寺本堂

 境内には人影もなく、ここが由緒のある寺であることを説明する案内板もない。けれども、がらんとした空間には葵の紋が刻まれた灯籠が建ち、石碑や石仏が無造作に並べられていて、えも言われぬ高貴な雰囲気を醸し出している。

 江の三女である勝姫は、越前福井藩主の松平忠直に嫁いだ。忠直は、徳川家康の次男である結城秀康の長男であり、秀忠の娘である勝姫とは従兄弟の関係にある。

 忠直は大坂の陣の後、論功行賞の不調などから次第に幕府に不満を持つようになり、ついには秀忠によって隠居を命じられている。菊池寛の小説『忠直卿行状記』は、この松平忠直をモデルとして書かれた小説である。

 江の縁(よすが)を辿る旅は、時にはこのように菊池寛の代表作に行き当たったりもして、思わぬ拡がりを見せてくれる。こうして、私の好奇心はますます膨らんでいくのであった。

 天徳寺の境内にはほとんど案内板がないために、残念ながら勝姫の墓所を探し当てることはできなかった。しかし、数々の名門大名家の菩提寺としての風格というのだろうか、凛とした緊張感を体全体に感じながら、私は満足して寺を後にした。

 芝界隈を巡る旅の最後に私が訪れたのは、天徳寺から表通りの桜田通りに出て南(飯倉)方向に500mほど歩いたところにある西久保八幡神社である。

 西久保八幡神社は、寛弘年間(1004~1012)に源頼信が京の石清水八幡宮から神霊を招じて霞が関あたりに創建したのが最初と伝えられている。石清水八幡宮は武士の神として広く尊崇を得ていた神社であった。以来、江戸時代に至るまで、戦勝を祈願する武士たちにより崇め祀られてきたのだろう。

 太田道灌の江戸城築城に際して、現在の地に遷された(江戸城築城は長禄元年(1457))。祭神は、品陀(ほんだ)和気(わけの)命(みこと)(応神天皇)、息(おき)長帯比(ながたらしひめの)命(みこと)(神功皇后)、帯中(おきなかつ)日子(ひこの)命(みこと)(仲哀天皇)の3柱である。

clip_image012 西久保八幡宮

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際して、江はこの西久保八幡宮に参拝し、戦勝と夫秀忠の無事とを祈念した。

 徳川軍の戦勝はともかく、秀忠自身は信州・上田で真田昌幸を攻めあぐねて関ヶ原の戦いには間に合わなかったので、秀忠が無事に帰ることができたのはこの神社のご霊験かどうかはよくわからない気がする。

 しかし江は徳川軍の勝利と夫秀忠の無事帰還を非常に喜んだ。

 そして、お礼参りのために当社を訪れるとともに、当社を鎌倉の鶴岡八幡宮と同様に崇めるとの最大級の賛辞を贈り、新たに社殿を造営する旨の手紙を認めている。江の喜びぶりが目に見えるようだ。

 もしかしたら、2番目の夫である豊臣秀勝を朝鮮の役で失っている江にとっては、同じような禍(わざわい)が再び自分の許に降りかかってくるのではないかと、極度に不安な日々を送っていたのかもしれない。

 生きて江戸にもどって来た秀忠の顔を見て、江は心の底から安堵したに違いない。

 しかしながら、それほどの喜びようであったにも拘わらず、新しい社殿の造営は江の存命中には実現しなかった。その間の事情を私は知らない。

 社殿の造営が行われたのは、江の死後、3代将軍家光によってであった。

 家光は母の遺志を継ぎ、寛永11年(1634)に西久保八幡宮の社殿を新造するとともに、ご神体である八幡宮坐像・仲哀天皇坐像・神功皇后坐像の3体の木像と不動明王立像・愛染明王坐像の2体の明王像を奉納している。

 家光が寄進したこれらの建造物や木像を見てみたかったが、残念なことに享保8年(1723)に火災により焼失してしまって今はない。

 私が西久保八幡宮を訪れた日は夏の日差しが照りつける暑い日で、奇しくも祭礼(例大祭)のための準備が執り行われている最中であった。

 石段下の石造の鳥居には、「八幡宮祭禮」と書かれた提灯が取り付けられ、「奉納八幡大神」と墨書された幟が風に靡いていた。

 石段の両脇には各町の名前を示す提灯が掲げられ、氏子たちが忙しそうにテントや椅子などの設営を行っていた。

 当社では今年(平成23年)を「御鎮座壱千年」の年と定め、奉祝大祭として殊に盛大に祭りを執り行おうとしている。今年が正確に創建1000年の年であるかどうかは別として、実に長きに渡って江戸の街を守り続け人々の信仰を得てきたことを、私は肌で感じ取ることができた。

 こうして、芝から愛宕山界隈を歩いてみると、江と縁のある神社仏閣が多いことに気づく。数奇な運命を辿って江戸までやってきた江であったが、様々な苦難を経験した結果、深く神仏に帰依する境地に想いが至ったのではないだろうか。

 反対に言えば、強く神仏に頼らざるを得ないほどに、江の気持ちは複雑に苛まれていたのかもしれない。そんな江の心情に想いを巡らせながら、私は今に雰囲気を残す芝あたりの街を縦横に歩き回っていった。

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国友(歴史を陰で支えた隠れたる名工の里)

 国友(歴史を陰で支えた隠れたる名工の里)

国友村の朝は、しっとりと雨に濡れていた。

長浜市街から北へと向かう幹線道路(県道510号線)からほんの一本内側に入っただけなのに、そこには、黒板(くろいた)で覆われた立派な邸宅が建ち並ぶ特別な空間が存在していた。

国友村の名は、鉄砲の生産地として、全国に名を知られている。

種子島に2丁の鉄砲が伝来したのが天文12年(1543)8月25日のことである。そのうちの一丁が、種子島の島主である時尭から、主家にあたる島津義久に渡った。義久はこの不思議な形をした武器を京にいる将軍の足利義晴に献上した。義晴は、何とかして同じ物を国内でも作れないかと思い、侍臣の細川晴元に「種子島」の製作を命じた。

義晴にこの未知なる武器の活用法についての確たるイメージがあったかどうかはわからない。しかし義晴のこの命令が、結果として国友村の運命を、そして日本の歴史を変えることになる。

将軍足利義晴からの下命を受けた細川晴元は、北近江国の守護であった京極氏に相談した。京極氏は、そういうことであれば、領国内に優れた鍛冶の技術を持つ国友村があるので、国友の鍛冶衆に任せてみるのがよかろうと進言をした。

こうして、ついに国友村に「種子島」が辿り着いた。

遠い南海に浮かぶ孤島に流れ着いた鉄砲が、何人もの人たちの手を経てはるばる長い旅を続け、そして近江国にある国友の村に辿り着いた。これも一つの歴史の定めた運命だったのだろうか。

天文13(1544)年2月のことであったと記録されている。

種子島に初めて鉄砲が上陸してからわずかに半年後のことであった。その伝播力の速さには驚かされる。

初めてこの細長い形をした不思議な物体を手にした時の国友村の鍛冶師たちの驚きと戸惑いは、想像するに難くない。

しかも時を経ずして同じものを作らなければならないのである。

おそらくは、町の年寄の屋敷かどこかであったろう。大勢の鍛冶師が一室に集まり、この不思議な物体を目を皿のようにして眺め、そして恐る恐る手に取り、大いに首を傾げたに違いない。

しかし、高い技術と強い責任感、それに旺盛な好奇心を生まれながらにしてもっていた職人集団は、目の前に突き付けられた難題を解くのにそれほど長い時間を必要としなかった。

半年後の8月12日には国産で初の鉄砲が完成したというから、驚くべき職人根性である。無事に期待に応えて鉄砲を作り終えた鍛冶衆たちの、ホッと安堵のため息が聞こえてくるようである。

 国友は、東国や北陸と京とを結ぶ街道が通る交通の要衝にあり、背後には琵琶湖の水運をも利用できる好立地に恵まれていた。

 すぐ北を流れる姉川の豊かな水が稲の実りをもたらし、古代の人々にとっては住みやすく実利にも富んだ土地であったのだろう。朝鮮半島から渡来してきた技術者集団がいつしか住みつき、独特の誇り高き文化をこの街に築き上げていった。

 製鉄の材料となる良質の出雲の鉄材が敦賀に陸揚げされて容易に入手できたことも、この土地で製鉄業が盛んになる大いなる要因を構成していたことだろう。

 国友は今では鉄砲鍛冶の町として有名だが、そもそも鉄砲が伝来するはるか以前から、優れた製鉄技術を持った鍛冶衆が多数住まう町として、近隣の国々から認知されていたのだろう。

 歴史の大きな潮流の転換点がこの小さな村を突然に襲った。

 国友の鍛冶衆たちは英知を結集して、この難題をこの村の飛躍へのチャンスに換えた。それは恐るべき職人魂であった。

 なかでも最も苦戦を強いられたのが、尾栓ねじの製造だった。

 鉄砲の銃身は1本の細長い筒で作られている。銃の尾部を塞いでしまうと、火薬の燃えカスの掃除をするのに不便であるし、銃身の反りを直すことも不可能になってしまう。

 そうかといって銃尾を塞がなければ、弾は前に飛んでいかない。

 種子島に伝来した鉄砲の銃尾には、尾栓ねじが取り付けられていた。ねじであれば、確実に銃尾を塞ぐことができて、かつ容易に外して燃えカスの清掃をしたり覗いて銃身の反り具合を確認したりすることもできる。

 尾栓ねじの機能は国友の鍛冶衆にもすぐに理解できたものの、当時の日本にはねじを作るという発想も技術も存在していなかった。

 尾栓ねじを作ることができなければ鉄砲は完成しない。国友の鍛冶衆は大きな壁にぶち当たって苦しみ悶えた。

 雄ねじは、まだ作ることができる。ねじの表面に溝を彫り付けていけばいい。問題は銃身に刻む雌ねじの製造方法だった。

 国友の鉄砲作りは、この尾栓ねじの製造方法を巡って完全に行き詰った。町の年寄たちは眉間に深い皺を寄せては、ため息をついたことだろう。

 国友のピンチを救ったのは、次郎助という名の若者だった。

 世紀の大発見や大発明というのは、多分に偶然や幸運が関係していることが多いように思われる。次郎助はたまたま、刃が欠けた小刀で大根をくり抜こうとした。するとどうだろう、くり抜かれた大根の内側に雌ねじと同じような溝が刻まれているではないか!

 そういうことだったのか。

 次郎助は、苦り切った表情のまま数日を過ごしていた年寄たちにくり抜かれた大根を見せて説明を行った。でかしたぞ、次郎助。小躍りするようにして鍛冶場へと走って行った年寄たちの姿が目に浮かぶ。

 こうして最後の難関となった尾栓ねじの問題をクリアーした国友の鍛冶衆は、見事に国産の鉄砲を作り上げたのであった。

 国友の街の一角に、「鍛冶 年寄脇 国友次郎助屋敷跡」「次郎助 螺子発明之地」と刻まれた2本の石柱が建てられている。この地こそが、国友の窮地を救った次郎助が住んでいた屋敷のあった場所である。

 今は空き地となっている空間に佇んで、私は450年あまり前の興奮を想像した。一つの明確な目標とそれを成し遂げようという強い意志がある時に、神様は稀にだが大きな恵みを与えてくれるものらしい。

伝来当初から、一発の弾丸で敵を仕留めることができる「種子島」の威力は、野心旺盛な戦国大名たちにとって、畏敬の念を持って見られたことだろう。しかし、この優れものの新兵器を戦闘の場でいかに活用するかについての確たる発想は、どの大名からも得られなかった。

なぜなら、威力抜群のこの新兵器で倒すことができる敵の数は、僅かに1人のみであったからだ。一発の銃弾で目の前にある1人の敵を仕留めることはそれほど難しくないかもしれない。

堅固で立派な甲冑に身を包んだ侍大将であっても、弾を体のどこかに命中させることさえできれば、確実に倒すことができる。画期的な兵器であることは論を俟たない。

しかし鉄砲の威力はそこまでで、次の弾丸発射までに時間を要する鉄砲は、戦場で相手の脅威となる武器にはなり得なかった。一発の銃弾を放った後は、火薬や弾を込めている間に容易に敵の襲撃を受けてしまうからだ。

魅力的である一方で難点のあるこの異国の武器にいち早く着眼したのが、かの織田信長だった。

信長は国友村に500丁もの鉄砲を注文した。

天文18年(1549)7月19日のことであったから、国友で鉄砲製造に成功してから僅か5年しか経っていない頃のことである。

桶狭間の戦いが永禄3年(1560)であるから、まだ信長がまったく無名であった時代にこれだけの先行投資を行っていたことに驚かされる。

鉄砲が戦略的兵器として合戦の場で実用に供されるのは、信長が最初に500丁の鉄砲を注文してから26年も後の長篠の戦い(天正3年(1575))においてである。

大量の鉄砲を他の大名に先駆けていち早く購入したものの、さしもの信長と雖も、活用できるまでには四半世紀あまりを要したということになる。

とは言え、戦国大名にとって国友の町を味方に付けることは、軍事上重要な戦略であった。

己が領内に国友を抱いていた浅井氏は、しかしながら国友の鉄砲作りの恩恵を十分に享受することができなかった。浅井氏の智略が特に劣っていたということではなくて、当時の状況下にあっては、ほとんどの戦国大名がまだ鉄砲の効用を十分には活用しきれていなかったということなのだと思う。

その点において、信長の眼力は鋭かった。

全国各地の大名から国友に対して鉄砲の発注が寄せられたり、あるいは国友の鉄砲鍛冶を家臣に取り立てようとする動きがあるなかで、信長は国友の町衆に対して制限を加え、自由な取引に対して牽制を行った。

長政・久政父子を倒して名実ともに国友の支配権を確立した後は、国友の鉄砲をほぼ独占的に我が手中のものとした。

信長から長浜の地を与えられ湖北地方の統治を任された秀吉は、国友の町に代官職を置いて国友の町と鉄砲とを直接支配下に置いた。

秀吉亡き後、国友は地理的には佐和山城主であった石田三成の配下に置かれていたが、そこに触手を伸ばして大量の鉄砲を注文したのが徳川家康だった。

 家康は、関ヶ原の戦いを前にして、敵を倒すに圧倒的な威力を持つ武器である鉄砲の調達に腐心した。国友の鍛冶衆を敵に回すか味方に付けるかは、勝敗の行方を左右する重要な問題だったのである。

信長、秀吉、そして家康と、天下を志す戦国大名は誰もが、国友の町に着目し、国友の鉄砲を支配しようとした。

国友を制する者が天下を制する。

当時の混沌とした日本の歴史において、まさに天下の行方を国友の町衆が左右していたと言っても過言ではなかった。

国友の鍛冶衆が丹精を込めて作った鉄砲は、大坂冬の陣・夏の陣でも大いにその威力を発揮して、徳川軍の勝利に貢献した。

家康の求めに応じて大量の鉄砲を供給した鉄砲鍛冶としての国友の地位と名声は、この大坂の陣において不動のものとなった。

その一方で、湖北地方が誇る技術と文化の結晶のような国友の鉄砲が、湖北に生まれ数奇な運命に翻弄されながらも必死に激動の時代を生き抜いてきた淀殿を死に追いやったという皮肉な結末に、私は言葉を継ぐことができない。

これも運命というものなのだろうか?そうであるとすれば、あまりにも悲しい運命であると私は思う。

 気持ちを入れ替えて、国友における鉄砲作りの工程について、ここで簡単に触れておきたい。

 国友の街並みのちょうど中央辺りに、国友鉄砲の里資料館という小ぢんまりとした資料館が建てられている。

 

国友の町の歴史や国友の鍛冶衆が制作した多数の鉄砲などが展示されているほか、鉄砲作りの工程が佐野淺夫さんのナレーションと八田一さんの装画とでわかりやすく紹介されている。

 その解説によると、鉄砲鍛冶の仕事ぶりは次のようなことになる。

 

① 鍛える

       鉄を打ち、筒の形にする。

② ひずみを直す

       巣直しといい、曲がりなどを正す。

③ 内側を磨く

       荒揉みといい、モミシノを使って中を仕上げる。

④ ネジを合わせる

       銃身の底はネジでふさぐ。

⑤ 仕上げる

       セン掛けといい、銃身を八角に仕上げたりする。

 鉄の原料は、播磨国(現兵庫県)の「千種」や出雲国(現島根県)の「たたら」から運ばれたものを使用している。日本海にも意外と近く、また琵琶湖の水運を活用して容易に良質の鉄材を入手できる立地に恵まれていたことが幸いした。

 先程の資料館の説明では、①の工程を「鍛える」という言葉で簡単に説明してしまっているが、この部分は重要なのでもう少し詳しく補足しておきたい。

 古来日本には、中が空洞となっている、いわゆる筒というものを鉄材で作る文化は存在していなかったと考えていいだろう。では彼らは、どのようにして鉄材で筒を作っていったのだろうか?

彼らは、真金と呼ばれる心棒に瓦金と呼ばれる細長い矩形の板を熱しながら螺旋状に巻き付けていく。心棒となる真金は、筒の形を生成した後に抜き取る。この真金があった部分が空洞となって、筒が出来上がるという仕掛けである。

 真金に巻き付けていく瓦金も、最初は荒巻にし、次に葛巻とする巻張り工法により、より強靭な銃身へと仕上げられていく。

 真金を外して加熱した後に再び真金を差し込み、金槌で叩いて鍛錬する。この作業を何度も繰り返すことで、鉄は強くなっていく。このあたりの工法は、刀を作る時の工法と変わらない。

 銃孔部分を長い錐で滑らかに仕上げ、焼き入れ・焼き戻しを繰り返し、最後に両端を加工して銃身が出来上がる。

 銃床は、樫の木を使って銃身に合わせて仕上げられる。

 このような工程を眺めてくると、鉄砲作りが日本の伝統的な鍛冶の技術を見事に応用し、しかも短期間の間に製造の熟練度を高めていったものであることを知ることができる。

 ほぼ同じ時代に制作された中国(明)やポルトガルなど外国製の鉄砲は、何発かの銃弾を撃つと銃身が破裂する虞(おそれ)があったという。

 これは、銃身を作るのに鋳型(いがた)に熱した鉄を注ぎ込む、いわゆる鋳鉄(ちゅうてつ)という製法によるものだからだそうだ。

 国友に代表される日本製の鉄砲の銃身は、日本刀と同じように熱した鉄を叩いて鍛える鍛鉄(たんてつ)という製法により作られている。日本刀が硬い刀身を持っているのと同じ理由で、日本製の鉄砲の銃身は硬くて容易に破裂しなかった。

 そういう意味でも、この時代に制作された国友の鉄砲というのは、非常に技術力の高い芸術品であったということが理解されるだろう。

このように、国友において様々な苦心の末にようやく成功した鉄砲作りであったが、国友以外に根来や堺などでも早い時期から鉄砲が作られていたことが知られている。その意味では、必ずしも国友のみが独占的に鉄砲作りを行っていたわけではない。

様々な人がこの目新しい武器に魅力を感じ、他に先んじて鉄砲を我がものにしようとした。

ご本家である種子島にはその後もポルトガル船が入港しては、島民に鉄砲を売り付けていった。製品としての鉄砲だけではなく、なかには製造方法に詳しいポルトガル人もいて、種子島は一種の日本における鉄砲のメッカのような存在になっていたものと思われる。

根来寺の杉之坊監物という人などは、わざわざ種子島まで出向いて鉄砲を入手するとともに、その製法をも学んで帰った。

彼らが作った鉄砲を駆使したたった50人の根来寺の鉄砲隊により、2万人の秀吉軍が大いに苦戦したことは歴史上に名高い。

そういう意味では、鉄砲作りは競争であった。

しかしながら、数ある鉄砲生産地のなかで、当時最高の評価を得ていたのは、やはり国友だった。

国友の鍛冶衆が精魂込めて作った鉄砲は、作りが非常に丁寧で銃身が強かった。伝統に裏打ちされた国友鍛冶衆の技術力と職人魂は、他の鉄砲生産地よりも頭一つ抜きん出た存在であった。

品質の高さにおいては、すでに本家であるポルトガル製の鉄砲をも凌駕していたというから、驚くばかりである。

必然的に国友の鉄砲は堺や他の鉄砲生産地のそれよりも高く取引された。最盛期には70軒の鍛冶屋と500人の鍛冶職人が居住し隆盛を極めた国友であったが、有頂天の時代はそれほど長くは続かなかった。

国友の鉄砲鍛冶衆は、自分たちが精魂込めて作った鉄砲が、精巧で芸術品の域にまで達するすばらしい道具であるという自負をもっていたことだろうが、それと同時に鉄砲は人を殺める道具でもあるという意識と自覚をどれくらい持っていたことだろうか?

同じことは日本刀にも言えることではある。どんなに美しく作っても、その目的は人の命を奪うことにある。

死のための武器作りには、所詮限界があった。

戦国時代が終わり、やがて徳川の世となると、血なまぐさい世相は次第に薄れゆき、平和を謳歌する気風が人々の心を支配していく。

鉄砲の町として幕府から保護を受け、独占的に鉄砲を納め続けてきた国友の町にも、大きな変化が訪れてくる。

人々はもはや、鉄砲を必要としなくなったのである。

国友の鍛冶衆たちは、幕府に鉄砲買い上げの陳情を行うなどして、必死に鉄砲の受注に努めた。

またこういう時には町内の団結力にも乱れが生じがちになる。次第に細りゆく既得権益を自分たちで独占しようとする年寄り衆と、そうはさせじとする新興の若手衆との間で権力闘争が勃発した。

上り坂の時には人心も一つにまとまりすべてが順回転にうまく回っていくものだが、ひとたび頂上を極めた後の下り坂では、各々がそれぞれの立場で主張を始め、組織体が崩壊しながら坂道を転がり落ちていく現象は、歴史の上ではよく見かける光景である。

もしかしたら、今の私たち日本の現状とも符合する事態のようにも思われる。

ともあれ、江戸時代も半ばを過ぎてからの国友は、衰微の途を辿った。

そんななかで、国友の町に彗星のようにひと際輝く人物が現れた。東洋のエジソンとも称される一人の天才発明家、国友一貫斎である。

一貫斎は、安永7年(1778)10月3日に国友の鍛冶師の家に生まれた。僅か9歳で父に代わって九代目国友藤兵衛を名乗り、17歳で年寄脇の職を継いだ。

江戸に出て西洋の学問を学んだ後に帰郷した一貫斎は、国友の町に大きな業績を遺した。

一つは、それまでは秘伝とされ厳しい徒弟制度により限られた者にしか伝授されることがなかった鉄砲作りの技術を、誰でも容易に作ることができるように『鉄砲張立帖』という書物としてまとめたことだ。

そしてもう一つは、彼が遺した発明品の数々である。

一貫斎の実弟にあたる(第八代)国友源右衛門家には、一貫斎が作成した気炮一挺が遺されている。将軍家が所蔵しているオランダ製の気炮(空気銃)からヒントを得て、強力な威力を持つ気炮を作り上げた。

天保年間(1830~1844)には、さらに工夫を重ね、20連発式の早打気炮を完成させている。国友源右衛門家に遺る気炮には、「江州国友藤兵衛能当造之」の銘が刻印されている。

しかし一貫斎の名を最も高めたのは、天体望遠鏡の製作だろう。

文政年間に江戸で反射望遠鏡を見る機会があった一貫斎は、天保3年(1832)6月に自らグレゴリー式の反射望遠鏡を作り始めた。レンズの製作などに大いに苦労しながらも翌天保4年10月には見事完成に漕ぎ着けた。

その自作の望遠鏡で一年以上の長期間にわたり太陽黒点の観察を行うとともに、木星、土星、それに月面などの天体観測も行い、その正確な記録を遺している。

このほかにも、万年筆(懐中筆)、玉燈(照明器具)、距離測定機、灌漑用ポンプなど様々な発明品を創り出し、まさに東洋のエジソンと呼ばれるにふさわしい業績を遺している。

これら一連の一貫斎の作品は、国友の町が代々受け継いできた高度な鍛冶技術をその基盤として、西洋文化の進取性を汲み取り、そこに一貫斎個人の発明センスが結びついて結実したものであろうと考える。

 国友いっかんさい

 一貫斎のほかにも、国友の町が生んだ文化人としては、「能筆の茶人」と称される辻宗(そう)範(はん)のことを忘れてはならないだろう。

 宗範は、宝暦8年(1758)に国友で生まれた。その前半生は謎に包まれているが、幼い頃から漢学を学び、また小室藩の茶頭(さどう)であった冨岡友喜(ゆうき)によって遠州流茶道の奥義を極めたと伝えられている。小室藩と遠州流茶道については、前章および前々章にて少し触れた。

 利休-織部と続いた日本の茶道の継承者であった小堀遠州が創始した遠州流茶道であったが、天明8年(1788)に小堀藩が改易となったことに伴い、流派は中絶の危機にあった。

 文化7年(1810)に宗範は、自らが極めた遠州流茶道の奥義を廃藩後に小堀家当主となった小堀宗中(そうちゅう)に伝授した。師匠にあたる家に流儀を再伝授したことから、「返し伝授」と言われている。

もしもこの時に宗範による返し伝授が行われていなければ、遠州流の茶道は今に伝わっていなかったとも言われている。宗範は遠州流茶道中興の祖として人々の記憶に留められている。

流祖である遠州が、茶道のみならず和歌や書道など諸芸全般に秀でていたように、中興の祖である宗範も、華道、書道、和歌、俳句、絵画、造園など多方面に才能を発揮した人であったらしい。

宗範の姉ミワが一貫斎の母にあたるというから、一貫斎は宗範の血と才能とを知らずしらずのうちに受け継いでいたのかもしれない。

宗範は晩年、尾張藩から高禄での仕官の誘いを受けたがこれを断り、生涯を国友の地で終えた。

  かげ清き 月に向かへばおのずから

  こころのちりを はらふ松風

 屋敷跡から程遠くない道の傍らに、ひっそりと宗範の歌碑が建っていた。清貧のうちに83歳の生涯を閉じた宗範の人柄を彷彿させる清々しい歌であると思った。

 武器としての鉄砲需要が低迷していくなかで、国友もそれなりの変身を遂げてきた。一貫斎や辻宗範のような文化人が輩出されたことも国友の町が変わりつつあったことの現れの一つなのかもしれない。

 注文を受ける鉄砲そのものも、竜門の象嵌を施したり銃身に家紋の象嵌を入れたものなど装飾性が高まり、注文主にとって自分だけの独自の鉄砲を求める傾向が高くなった。

 その技術から転じて、刀の鍔や小柄、鯉口などに象嵌細工や彫金を施したり、変わり種では長浜市の伝統的まつりである曳山まつりに使われる曳山の錺金具(前柱の龍の彫金)や香炉などの仏具、それに錠前などにも彼らの彫金技術が応用されたという。

 国友の街を歩いていると、民家の門前に幾本もの石柱が建てられていることに気がつく。その場所に昔、鍛冶師たちの屋敷があったことを示す石柱である。

 そこには、その屋敷の主の名前とともに、鍛冶師、十人鍛冶、台師、などの役職名が刻まれている。そのなかに、彫金師という役職があることが私の目を引いた。

 例えば、臨川堂充昌、永川堂、藍水堂などの名前が確認される。

彼らの石柱は、鍛冶師の石柱の傍らに建てられていることが特徴的だ。彫金師は独自に屋敷を構えるのではなく、鍛冶師とセットになって鉄砲作りの仕事をこなしていたということなのだろうと想像を巡らした。

象嵌や彫金などの技術の応用のほかに、鉄砲には欠かすことができない火薬についても、国友の人たちは新たな活路を見出そうとした。

鉄砲が伝来するまで、日本には火薬を使うという習慣があまりなかった。鉄砲伝来の後、鉄砲の製造法とともに火薬製造の技術も伝わり、戦国大名たちの間に急速に拡まっていった。

その応用として脚光を浴びたのが、花火だった。

火薬の調合に長けた国友の花火師たちは、関西一円はおろか、遠く岡山や広島あたりまで出掛けては、花火の打ち上げに携わった。彼らの活動は昭和のはじめ頃まで続いていたというから、他の追随を許さない相当な高い技術力を持っていたことを物語っている。

国友の街中に、「天文十三年創業 鉄砲火薬商 國友源重郎商店」と書かれた古風な看板を掲げた店舗を見た。

国友鉄砲村

司馬遼太郎さんが『街道をゆく』のなかでも採り上げられた、「國友源重郎商店」である。同書のなかで司馬さんも書かれているが、天文十三年(1544)というのは鉄砲伝来の翌年であり、国友が初めて鉄砲を作ったまさにその年にあたる。

すでにこの時、火薬を商う商家が同時に誕生していたということに、国友における火薬の歴史の重みと深さとを痛感する。

 国友の街を万感の想いを込めて歩いた。

 しっとりと夜明けの雨に打たれ濡れそぼっていた街並みに陽の光が射しはじめ、街全体が艶めいて見えた。

460年あまり前の国友村は、素朴で静かな、どこにでもあるような普通の村だったのであろう。遠く種子島に流れ着いた鉄砲という武器がこの村に運び込まれて来なければ、この村が歴史に登場してくることもなかったかもしれない。

 しかしそれもまた、歴史の必然であり、この村の定めだったのだろうとも思われる。

 たった1挺の鉄砲から始まって、この村には様々なドラマが生まれた。

今まで見たこともない奇妙な形をした武器を初めて目にした時の国友鍛冶衆たちの驚きと不安とを想像すると、胸が締め付けられるような思いがしてくる。

これと同じものを自分たちは果たして作ることができるのだろうか?

いや、作らなければならないのだ。領主様の命令は絶対である。もしも作ることができなければ、どんな処罰が待っているかわからない。

彼らの不安は、失敗が許されないという重圧感によって増幅されたかもしれない。

一方で彼らは直感として、何とかなるのではないかとの漠然とした勝算を持っていたような気がする。それは、生まれながらにして鍛冶職人として生きてきた彼らの遺伝子に関わる部分であったかもしれない。

水面に投げ入れられた1個の石の衝撃が波紋となってこの街中に拡がっていく。

驚きと混乱のなかで試行錯誤を繰り返してきた国友の鍛冶職人たちは、やがて渺(びょう)たる風景が次第に焦点を結んでいくように、鉄の塊が1本の鉄砲として形づくられていく光景を目の当たりにした。

この瞬間から、国友の町の発展が始まった。

国友は鉄砲の町として全国に名を轟かし、各地から鍛冶職人たちが参集した。国友の街には鍛冶師たちの家並みが所狭しと立ち並び、甍を競ったことだろう。

その後、徳川幕府の下で世の中に平和が訪れると、鉄砲産地としての国友の役割りは低下の一途を辿り、国友にとっては受難の時代が続く。

彫金技術の応用や火薬調合の技術を活用した花火などに活路を見出しながら、国友の町は幕末を迎える。

今でも十分に上品で立派な家並みに見える国友の街並みだが、この街にこんな栄枯盛衰の人間ドラマがあったということは、この町の歴史を振り返ってみないとわからない。

しっとりと濡れそぼった国友の街をそぞろ歩きしながら私は、人生を考え、来し方行く末を想った。

国友鉄砲村2

そんな私の心をいたわるように、黒板塀に白壁が美しい街角の石のベンチに、少女の像がさりげなく置かれていた。

本を手にして中空を見上げるお下げ髪の清楚な少女の像は、今の国友の街の象徴のように見えた。少女の傍らにはちょこんと小首を傾げるようにしたネコの像が寄り添っている……。

ネコと少女

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11月のおしながき

霜月のおしながき

 ~お市の舞~(グレードアップメニュー)

 

 

先附   あん肝豆腐 

      烏貝鉄ぽう和え

 

吸物   甘鯛 大根短冊 金時人参

           松茸 あさつき

 

      茶ぶりなまこ白酢和え

      しめじう玉焼

旬菜   鴨ロース

      秋刀魚寿司

      姫リンゴ伝奉焼

 

煮物   鯛蒸し 竹紙昆布

      南瓜 葉付かぶ 白ねぎ 鱈白子

 

造り   四種盛り

 

焼物   真名がつお法書焼(西京漬け)

      茄子 さつま芋 エリンギ

 

変り鉢  あんこう唐揚げ

      むかご 銀杏 カボス

 

鍋物   小谷鍋 近江牛

      玉ねぎ えのき しめじ 水菜

 

飯物   近江米  

 

止椀   牛蒡豚汁

香の物 

          

デザート チョコムース

 

 ~茶々の華~(スタンダードメニュー)

先附  あん肝豆腐 

     鳥貝鉄ぽう和え

 

吸物  粕汁

 

     小あわび酒八方煮

     茶ぶりなまこ白酢和え

     蕪いくら包み

旬菜  くわいオランダ煮

     しめじう玉焼

     鴨ロース(オレンジソース)

     蟹つめ道明寺あられ

 

煮物  鱈白菜巻 青唐

      南瓜 蕪 もみじ麩白子あんかけ

 

造り  四種盛り

 

焼物  サーモンサラダ焼

     法連草 さつま芋南瓜 茄子

     トマトチップ (アンチョビソース)

 

変り鉢 わかさぎサフラン揚げ

     ゆり根万十

     ホタテ黄味うに焼むかご 銀杏

 

鍋物  豆乳鍋

      水菜 白ねぎ 榎木茸 豆腐

      有頭 つみれ 白身魚 国産牛

 

飯物  近江米 

止椀  牛蒡豚汁

香の物    

       

デザート ホワイトコーヒープリン

 

 ~江の夢~(お昼の人気メニュー)

先附  あん肝豆腐 

           鳥貝鉄砲和え

 

吸物  粕汁 大根 椎茸 あさつき

     焼鰆 金時人参

 

     小あわび酒八方煮

     茶ぶりなまこ白酢和え

旬菜  蕪いくら包み

        くわいオランダ煮

     しめじう玉焼

 

煮物  鱈白菜巻 青唐

     南瓜 蕪 もみじ麩

           白子あんかけ

 

焼物  鰤てり焼き 焼長芋

     山菜花大根

           (ワランボワーズ漬)

 

変り鉢  わかさぎサフラン揚げ

           ゆり根万十(栗入り)

            ホタテ黄味うに焼

 

むかご 銀杏

 

鍋物  豆乳鍋

             水菜 白ねぎ 榎木茸 豆腐

      有頭 つみれ 白身魚 国産牛

 

飯物      近江米 

香の物           

デザート  ホワイトコーヒープリン

 

 

 ~初のしらべ~(お手軽会席)

先附    あん肝豆腐 

       鳥貝鉄ぽう和え

 

蒸し物  茶碗蒸し

       かしわ 銀安 小海老 百合根 三つ葉

 

     秋刀魚柚子煮

旬菜  白ねぎ玉味噌

     栗

 

煮物  京芋のあんかけ

    木くらげ しめじ もみじ麩 青唐

 

強肴  鰤榎木茸はさみ 山茶花大根

 

造り  三種盛り

 

油物   河豚唐揚げ 

      鯛唐揚げ

      赤パプリカ 茄子 カボス

 

鍋物  鱈ちり鍋 国産牛肉

     水菜 九条ねぎ 榎木茸 豆腐

 

飯物  近江米 

 

止椀  牛蒡豚汁

 

小ねぎ 柚子こしょう

 

香の物   

        

デザート ホワイトコーヒープリン

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10月のおしながき

神無月のおしながき

 ~お市の舞~(グレードアップメニュー)

 

先附  菊花和え、有頭海老

    帆立ベーコン 

吸物  土びん蒸し

     松茸 蛤 三つ葉 銀杏 鯛

    柿サーモン寿司

    子持ち鮎甘露煮

    秋茄子の辛子和え

旬菜  秋刀魚酢味噌和え

    青身大根からすみ

    長芋豚バラ巻

    栗の白菊揚

炊合せ 蕪・里芋・かしわ・合鴨

    赤魚・舞茸・ 

焼物  甘鯛杉板焼

     栗、白ねぎ、松茸

造り  近江の宝石 ビワマス 

変り鉢 蟹身春巻揚げ

    紅葉麩磯辺 

    安納芋のクレープ包み

鍋物  戦国小谷鍋

止椀  焼茄子 うす揚げ 小葱

香の物           

飯物  近江米 

デザート りんごプリン 巨峰

 

~茶々の華~(スタンダードメニュー)

 

先附  菊花和え、有頭海老

    帆立ベーコン 

吸物  袱紗ゆば巻き 松茸 貝割れ 柚子

    柿サーモン寿司

    子持ち鮎甘露煮

    秋茄子の辛子和え

旬菜  秋刀魚酢味噌和え

    青身大根からすみ

    長芋豚バラ巻

    栗の白菊揚

炊合せ 蕪・里芋・かしわ・合鴨

    赤魚・舞茸・ 

焼物  鰆吹き寄せ

     大根 木の葉南京 栗 銀杏

     ミニトマト 生椎茸

造り  寒八 まぐろ 鯛 生うに

変り鉢 蟹味噌豆腐グラタン

    ずわい蟹焼 チャービル 

    安納芋のクレープ包み

鍋物  戦国小谷鍋 近江牛

止椀  焼茄子 うす揚げ 小葱

香の物           

飯物  近江米 

デザート りんごプリン 巨峰

 

 

 ~江の夢~ (ご昼食人気メニュー) 

先附  菊花和え、有頭海老

    帆立ベーコン

吸物  袱紗ゆば巻き 松茸 貝割れ 柚子

    柿サーモン寿司

    子持ち鮎甘露煮

旬菜  秋茄子の辛子和え

  秋刀魚酢味噌和え

    青身大根からすみ

煮物  海老芋万十 いんげん 銀あん 

焼物  鰆のミルフィーユ 柚子みそ

造り  寒八 まぐろ 鯛

変り鉢 蟹味噌豆腐グラタン

    ずわい蟹焼 チャービル

    安納芋のクレープ包み

鍋物  戦国小谷鍋

止椀  焼茄子 うす揚げ 小葱

香の物           

飯物  近江米 

デザート りんごプリン 巨峰

 

 ~初のしらべ~(お手軽会席)

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先附  菊花和え、有頭海老

    帆立ベーコン 

蒸し物 茶碗蒸し 

かしわ 銀杏 どんこ

 百合根 三つ葉

    塩辛玉子 大根みぞれだし

旬菜  フルーツサラダ 

  秋刀魚酢味噌和え

煮物  魚の煮付け 里芋 赤こんにゃく

焼物  サーモン紅葉焼

    山芋ふくさ

造り  寒八 まぐろ 鯛

変り鉢 烏賊シューマイ揚げ

    茄子 青唐 なめこあん

鍋物  うどんすき

止椀  焼茄子 うす揚げ 小葱

香の物           

飯物  近江米 

デザート りんごプリン 巨峰

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