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須賀谷温泉のブログ

高島篇 朽木 その3 (祝 高島&長浜観光締結)

木地師

 

岩瀬の志古淵神社を後にしたのち、「くつき温泉てんくう」というところで朽木名物の鯖寿司膳の昼食をいただいた。

てんくうは、朽木の街を見下ろす小高い山の上に建てられた、食事処、温泉、スポーツ施設などを併設する総合レジャーランドである。

丘のすぐ麓を鯖街道とも呼ばれている国道367号線が通っており、昔から若狭で採れた鯖がこの道を通って京まで運ばれてきた土地である。

その名産の鯖寿司と温かいうどんがセットになった鯖寿司膳は、たいへん美味だった。

お腹の欲求を満たした私たちは、朽木の街の中心部と言ってもいいのだろう、朽木市場地区に向かった。

市場地区の象徴とされるのが丸八百貨店という名の百貨店の建物なのだが、その丸八百貨店に行く前に、私たちは向かいにある小さな建物の戸を引いた。

それほど広くない店内には、木切れなどの材料や漆器などの商品が所狭しと置かれている。ここは、木地師の伝統を受け継ぐ方の店舗兼作業所なのだそうだ。

木地師とは何か?

普段あまり耳にしない言葉である。『広辞苑』第六版によると、木地屋に同じとあり、木地屋の項目を見てみると、

 

轆轤などを用いて木材から盆や椀などの日用器物を作る人。きじし。ろくろし。

 

とある。

身近に存在する木材を材料にして、轆轤を使って日常生活で使用するための盆や椀などの食器を作る人のことを木地師というのだそうだ。

朽木に来て以来、筏、杣、志古淵神社など「木」に関係する様々なものを見てきたが、木地師もまた木と密接に結びついた存在であることを思った。

朽木はどこまでも、木によって生き、また木によって生かされている町なのだという意を強くした。

 

木地師の実力を実演により見せていただいた。

轆轤というと、陶芸で使う大きな回転台がありその上で粘土を形造っていくような光景を想像するが、現代の木地師は工作機械のようなものに小さな立方体の木片を固定し、その木片を回転させながら鑿で削っていった。

かつてイタリアのヴェネチアで、ヴェネチアングラスの職人が真っ赤に熱せられたガラスの塊からピンセットのような工具を使ってあっという間に馬の像を造り出す技を見たことがある。

熱いガラスの塊の中から前脚が引っ張り出され、続いて後脚が姿を現し、そしてやや太くて長い首が引き出されたら、それはもう立派な馬の姿だった。

時間を測っていたわけではないが、一頭の仔馬が造り出されるまでに1分もかからなかったのではないかと思う。

その時と同じような光景が、我が眼前で繰り展げられていた。


何の変哲もない小さな立方体の木片が、みるみるうちに小さなキノコの姿へと変貌を遂げていったのである。

それはまるでマジックを見ているようなものだった。

あるいは、元々、木片の中にキノコが潜んでいて、木地師の操る鑿によってその姿が現実の姿として浮かび上がったとでも思えるような、見事な手捌きであった。

ほんの短時間のうちに、単なる木の塊からキノコが姿を現す。木地師の方は、固定していた工作機械からキノコを取り出すと、私たちに手渡してくれた。

滑らかな手触りと鮮やかな木目が印象的だった。キノコ自体はキーホルダーや携帯のストラップになるような小さなものだったが、私にはキラキラと輝く宝石のようにさえ思えた。

先にも書いたとおり、木地師はいわゆる芸術作品を創る工芸家ではない。むしろ芸術の世界とは対極にある日常世界の食器を作る極めて生活に密着した存在である。

身の回りにあるブナや栃の木などの木材を使用して、椀や盆などの身近な食器を削り上げていくのだ。

室内に雑然と積まれている木片が材料となるのだろう。

よく見ると、その木材には、山桜、カツラ、ブナ、ナラ、トチ、カエデ、ケヤキ、水目、カキ、ホオなどとマジックで木の名前が書かれている。

輪切りになった小振りで厚めの円筒形の木片は椀を作る材料となり、薄くて広めの立方体の木片は盆の材料となるのだろう。それぞれの出来上がりの姿を想像して材料としての木片が準備されていた。

その傍らには、製品となった椀や盆が並べられている。

これらの椀や盆は「朽木椀」、「朽木盆」と呼ばれ、日常使いの食器類とは言え、朽木地方の漆工芸品が高い技術力を持ったものであることを物語っている。

そのなかでも特徴的なのが盆で、黒、朱、緑などの漆が塗られたうえに、どれも菊の文様が描かれている。

あるものは盆の面全体に大きく、またあるものは盆の面の一部に小さく描かれているが、いずれも皇室の紋章と同じ16枚の花弁をもつ菊の文様で飾られている。このことについては後述しなければならない。

木地師は木を削って椀や盆の形を作るまでが受け持ちで、その上に漆を塗るのは塗師(ぬし)と呼ばれるまた別の職人が行うのだそうだ。完全分業制である。

これも後にまた触れるが、朽木には「木地山」と呼ばれる山がある。木地師は主にその木地山などの山間部を本拠とし、移動しながら良質な木材を求めていたようである。

明治以降はそのような特権は失われていったが、木地師は山の7合目以上の木を自由に伐採できるという「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持していた。この綸旨は全国どこの山でも有効であったという。

こうして木地師は、山から山へと点々とする生活を送っていたようである。

一方の塗師は、先程私たちが筏や志古淵神社などを見てきた安曇川の畔の岩瀬の辺りに定住していたと言われている。

木地師の轆轤技術と塗師の漆の技の合作が、素朴な朽木の日常食器になっている。

 

滋賀は全国の木地師発祥の地と言われている。

それは、悲劇の皇子と呼ばれる小野宮惟喬(これたか)親王伝説と結びついている。

惟喬親王は、承和11年(844)に第55代文徳天皇の第一皇子として生まれた。いずれは天皇位を継ぐべき立場であった。ところが文徳天皇は、第一皇子である惟喬親王を差し置いて第四皇子の惟仁親王を皇太子として立てた。

惟仁親王の母が藤原氏の系列に属する明子であったのに対し、惟喬親王の母が紀氏であったためとも言われている。

皇太子になることができなかった惟喬親王は、天安2年(858)に太宰権帥として大宰府に赴いた後、常陸太守、上野太守など都から遠い辺境の地を点々とし、貞観14年(872)に30歳に満たない若さで失意のうちに出家した。

その後、小野、山崎、水無瀬などに移り住んで寛平9年(872)に54歳で亡くなったと伝えられている。

惟喬親王の逸話は、『伊勢物語』の第81段と第82段にも書かれている。有名な

 

世のなかに絶えて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし

 

という歌は、その第81段に掲載されている歌である。

 

京都府左京区大原上野町に、惟喬親王の墓と言われる五輪塔が遺されている。

ところが滋賀には、惟喬親王にまつわるもう一つ別の伝説が伝わっている。それが木地師の伝承と深く結びついているのだ。

すなわち、惟喬親王が近江国蛭谷(現東近江市)に隠棲し、そこで地元の住民たちに木地師の轆轤技術を拡めたという言い伝えである。この伝承を以て、蛭谷地区を含む小椋谷一帯は木地師発祥の地と称されている。

蛭谷は、愛知川の上流にある名刹永源寺をさらに遡ったところにある。秋には見事な紅葉が流域を彩る美しい地域である。

蛭谷という地名は今も当地に残っている。

八風街道と呼ばれる国道421号線を愛知川に沿って遡り、途中から左手に折れて愛知川支流の御池川に沿って県道34号線を進んでいく。

政所、箕川という集落を過ぎると、やがて目的地である蛭谷に辿り着く。

かの白洲正子さんが「かくれ里」として紹介した小椋谷は、政所、其川、蛭谷、君ヶ畑、九居瀬、黄和田、筒井などの集落から成る広範な地域であるが、まさにかくれ里と呼ばれるにふさわしい山深い土地である。

興味深いことに、今も書いた通り、小椋谷一帯には政所、君が畑という地名が存在している。また、高松御所、筒井公文所、大皇器地租(おおきみきじそ)神社と呼ばれる場所などがある。

まるでかつてこの地に天皇か天皇に准ずる皇族が住んでおられたかのような土地の名がここ小椋谷に点在しているのだ。

土地の言い伝えによると、隠棲された惟喬親王は君ヶ畑にある金竜寺にお住まいになられていたという。この金竜寺のことを土地の人たちは高松御所と呼んでいる。

金竜寺の本堂には菊の御紋が掲げられている。君ヶ畑という地名も、元は小松畑という名だったそうだが、親王がお住まいになられたことから君ヶ畑と呼ばれるようになったのだという。

高松御所のすぐ近くにある大皇器地租神社は、祭神として木地師の祖先としての惟喬親王を祀る神社であり、明治以前は大皇大明神という名前で呼ばれていた。

かつてこの地には木地師を統率するための役場が設置されていて、その役場のことを筒井公文所と呼んでいた。

木地師は全国に散らばり良質な木材を求めて移動しながら生計を立てていたため、木地師を登録して統制を保つとともに、彼らの身分を保証してやる必要があったものと考えられている。

こうして小椋谷には、正史とは別に惟喬親王伝説が存在し、今でも土地の人たちは、惟喬親王が小椋谷に住まわれ、木地師たちに轆轤の技術を伝えていたと信じているのである。

先に惟喬親王の墓は京都の大原にあると書いたが、ここ小椋谷にもある。

県道34号線沿いの筒井峠付近に、惟喬親王御陵がひっそりと佇んでいるのがそれだ。

 

小椋谷における惟喬親王隠棲伝説は、かつて『湖北残照』文化篇で紹介した菅浦における淳仁天皇伝説と相通ずるものがあるように思われる。

どちらも白洲正子さんがかくれ里として紹介された土地であることは単なる偶然であろうか?

醜い政争に巻き込まれ、自らの意志ではどうにもならない権力に翻弄され、不本意な生涯を終えた淳仁天皇と惟喬親王。

しかし庶民たちは彼らの正当性を理解し、支持していた。

そんな誠実な想いが伝説となり、正史とは別の物語を成立させているのだろうか。非常に興味深い事実である。

親王のやりきれない哀しい想いを、庶民たちは信じていた。

 

本題の朽木を離れ、かなりの紙面を割いて東近江市の小椋谷のことを書いてきた。惟高親王の無念を想うとともに、惟喬親王一派による木地師の技術伝播が朽木繁栄の礎を築いたと思ったからだ。

近江国小椋谷を源とする木地師の轆轤技術は、木地師が諸国の山林に散らばっていったがために、文字通り日本全国へと拡がっていった。

同じ近江国のなかにあり良質な木材を産する朽木のムラに木地師の技術が伝えられていったことは、想像に難くない。

近江国と若狭国との境に、木地山という山がある。この山こそが、文字通り朽木の木地師が拠点としていた山だと考えていいのではないか。

朽木の木地師の仕事の特徴として、菊の紋章が意匠された盆が有名であることを先に書いた。

これは他の地域にはあまり見られない朽木の盆だけの特徴であり、そこには、惟喬親王との並々ならぬ結びつきを認めざるを得ない。

皇室の御紋の使用は一般庶民にはけっして許されることがなかったと思われるからだ。朽木の木地師たちは、あるいは小椋谷に隠棲されたと伝えられる惟喬親王と直接関係があった人たちであったのかもしれない。

一枚の盆から、様々な想像を巡らせることができる。

まさに歴史におけるミステリーであるのだ。

 

丸八百貨店

 

木地師の店を出た私たち一行の関心は、木地師の店とは細い道を挟んだ反対側に建つ丸八百貨店のモダンな建物に向かわざるを得なかった。

しっとりとした純日本風の古風な趣を今も醸し出している朽木の街に、突然ぽかんと洋風の洒落た建物が姿を現しているのだ。

この街には場違いとも思われる洋風建築は、いつ誰が何のために建てたものなのか?興味が湧かないわけがない。

落ち着いた薄い黄色を主調とした石造りの三階建ての建物の上部には、三角形を組み合わせて帯のようにした装飾が施されていて、実にお洒落なデザインだ。

建物の角に設けられたエントランスの上には大きく「丸八百貨店」という文字が掲げられている。ここが元は百貨店であったことがすぐに伺える。

調べてみると丸八百貨店は、この地で下駄屋を営んでいた大鉢捨松という人が昭和8年(1933)に百貨店として建てた建物であることがわかった。

今は三階建てであるが、創業当時は二階建ての建物で、一階には本業の下駄のほかに雑貨、本、新聞などが並べられ、二階では呉服が売られていたという。

三階が増設されたのは昭和18年(1943)頃で、森林組合の事務所や村営の授産施設が置かれたりした。

今もだが、当時としては目を瞠るようなハイカラな建物であり、そのデザインの斬新性において朽木の人たちの心を鷲掴みにしたのではないだろうか。当時の繁盛ぶりが窺える。

滋賀県でモダンな洋風建築というとすぐに頭に浮かんでくるのがヴォーリズである。年代的には重なっているし高島市にはヴォーリズが建設した建物もあるのだが、丸八百貨店は残念ながらヴォーリズが建てた建物ではない。

大工は比良の清水一左ヱ門という人で、左官は京都の沢本浅之丞という人が造った建物であるそうだ。二人とも大鉢捨松氏の親戚筋にあたる人であるという。大鉢氏の一族は芸術的才能に満ちた一族であったのかもしれない。

丸八百貨店の店名の由来には諸説があるようだ。

京都の大丸百貨店を真似たとする説や、当時は百貨店の名前に丸の字を付けるのが流行っていたので、大鉢の「鉢」を「八」に変えて丸八としたという説などがあるが、真相はわからない。

市場地区という朽木の街のなかでも最も賑わう中心部に立地し、目を引くモダンな建物であるので、先程も書いたとおりさぞかし繁盛したであろうと思われるが、残念なことに平成のはじめ頃に最後の店子が亡くなり百貨店は閉店となったという。

半世紀強に亘って朽木の街の人たちに商品を提供し続けてきた丸八百貨店であったが、閉店後は旧朽木村が土地と建物とを買い取り、「鯖街道まちづくり委員会」が一階を書店と無料休憩所として開放し、二階にはパブを作り、三階は会議スペースとして使用したという。

個人的には是非、二階のパブでちょっと気取った気分でお酒を飲んでみたかった。

平成9年(1997)にはこの丸八百貨店の建物は国の登録有形文化財に指定されている。県で3番目の指定である。

平成14年には「鯖街道まちづくり委員会」が撤退し、平成16年から「睦美会」という地元の女性グループが管理と運営に当たっている。

私たちが行った日はたまたま休館日であったため、扉が閉ざされていた。無情にも「おやすみ」と墨書された木札が扉に掛けられ、入口には「準備中 丸八百貨店」と書かれた看板が立てられていた。

せっかく来たのだから中に入ってみたい。建物の中はどのようになっているのだろうか?自然な欲求である。

残念な思いで建物の周囲をうろうろしていたら、「扉を開けましょうか?」と地元の女性が声を掛けてくれた。

先に書いた、この建物を管理している女性グループの方のようだ。20人もの他所者が建物を取り囲んで周囲をうろうろしている様子は、ただならぬものがあったに違いない。

私たちはその女性のご好意で丸八百貨店の建物の中に入ることができた。

一階から二階にかけてが吹き抜けの構造となっている。眩しいくらいの壁の白い色に窓枠や梁の木の色が映えて鮮やかだった。

今は丸八カフェとして、コーヒーや紅茶などの飲み物の他に、うどんやそばなどの軽食を提供している。予約をすると、当地名物の鯖そうめんや鯖寿司などを食べることもできるそうだ。

このようなステキな場所で地元の名物に舌鼓を打つ。想像しただけでも心がうきうきしてくる。

内装自体は開業当時のままではないと思うが、今の内装もしっとりと落ち着いていて上品な雰囲気を醸し出している。当時の店内の様子がどんなものだったのか、見てみたかった気がする。

私たちはしばらくの間、建物の中を歩き回りモダンの香りを思い切り吸い込んで、丸八百貨店を後にした。

 

先に、丸八百貨店がある市場地区は朽木の街の中心部にあると書いた。

市場という地名からも容易に想像できるように、この地には古く室町時代から市が立っていたという。

モノが集まればヒトが集まる。かつての朽木の中心部市場地区には商家が建ち並び、人々が往来し賑わいを見せていたことだろう。

若狭国と京とを結ぶ鯖街道のちょうど中間地点に位置し交通の要衝でもある当地には、江戸時代に朽木氏の陣屋が置かれていた。

朽木氏は1万石以上の大名ではなく旗本であったのでその居所も城とは言わずに陣屋と呼ぶが、私たちに馴染みやすい言葉で言えば朽木は朽木氏の城下町であったと表現してもいいだろう。

近くに国道367号線が新たに通されたため、かつての街道は今は旧道となっている。丸八百貨店周辺の道もそうだが、道が不自然に鉤型に曲がっているところがある。これは「鍵曲(かいまがり)」と言って、城下町に特有の防御のための仕掛けである。

敵が一気に攻め込んでくるのを妨げるために、道を意図的に直角に曲げる。曲がった道は目の前の視野を遮る効果もある。そしてその曲がった角には敵を迎え撃つための兵士を潜ませておくことができる。

彦根の城下町にも、同様の目的で「どんつき」と呼ばれる鍵型に曲がった道が今でも残されている。まさにかつての城下町としての面影を感じる部分だ。

また、市場地区の旧街道を歩いていると、道の傍ら、用水路の脇にレンガ造りの立方体の煙突のようなものが目に入ってくる。

これは、「立樋(たつどい)」と呼ばれるもので、用水路の水を取り込みサイフォンの原理を利用して各家庭に水を引き入れる装置である。

古い街並みにレンガ色がお洒落なアクセントを作り出している。

道の傍らに清らかな水の流れがあるのが滋賀の街並みの特長の一つであるのだが、市場地区もその例外ではない。

今回の私たちの旅のメインテーマは、日本遺産に認定された琵琶湖とその水辺景観を巡る旅であった。

ここ朽木においても、水と密接に結び付いた生活風景の一端を垣間見ることができる。

用水路に沿って道を歩いて行くと、流れの水位まで降り立つことができる階段状の施設を目にする。

これは、「川戸」と呼ばれるもので、住民たちが洗い物をしたりするために設けられたものである。用水路は住民たちの日常生活と密接に結び付いた存在であることがよくわかる。

用水路の水は、防火用水として、また積雪時の融水用の水としても使用されるのだという。

市場地区にはその他にも、藩の御用商人として造り酒屋や醤油の醸造を行っていた熊瀬家の住宅や昭和13年(1938)にヴォーリズが設計して建てた旧郵便局の建物などが遺されている。

いつか時間の制約なくじっくりと歩いてみたいステキな街である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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高島篇 朽木その2 (祝 高島 & 長浜 観光締結)

安曇川と筏

 

筏と言うと私は、ディズニーランドのアトラクションの一つである「トムソーヤ島いかだ」くらいしか思い浮かべることができなかった。

ディズニーランドでは、対岸のトムソーヤ島に行くための乗り物として、太い丸太を横に何本も並べて作った平たい舟のような乗り物が「いかだ」と呼ばれ使われている。

興聖寺を出た私たちは、徒歩で安曇川に沿った道を川下の方へと歩いていった。

この先に、地元の方が私たちのために作ってくれた筏が係留されているというのだ。

その時には、ここでどうして筏が登場してくるのか、私にはよくわからなかった。やがて川を横断する水道橋が見えてきて、その袂に細長い木の塊(かたまり)が水に浮かんでいるのが見えてきた。

これが筏なのか?

私が描いていたイメージとはちょっと違っていた。

と言うか、私はこれまで本物の筏というものを見たことがなかったという事実に初めて気がついた。

私が目にしたものは、丸太を数本横に束ねて、それを縦に3連(れん)繋いだ細長い木の塊(かたまり)だった。

きれいに皮が剥がされた丸太は、1本1本はそれほど太いものではないけれど、どれもみなまっすぐで光沢があった。私は木に関してはまったくの素人であるけれど、そんな素人が見ても良質の木材であることが一目瞭然だった。

これらの丸太はみな、朽木の山林で切り出されたものだという。

そう言えば、京都から朽木まで、バスはずっと山道を走ってきた。道の両側の斜面は、見渡す限り木々で覆われていた。朽木は、豊かな山林資源に恵まれた土地柄であったことを改めて認識した。

朽木の人たちにとって、林業は重要な産業であるのだ。木とともに生き、木と共に暮らす。朽木の人たちと木との間には、切っても切れない関係が存在している。

伐採した木々を運び出す手段として重要な役割を果たしていたのが、筏だった。

川は自然の恵みである。長く重い丸太を陸路で運ぶのには多大な労力を必要とするけれど、水の流れに乗せて流していけば楽に運ぶことができる。

朽木の筏は、ディズニーランドのアトラクションのように人を乗せて運ぶものではなく、伐り出した木を安曇川の流れを利用して下流の琵琶湖に運ぶためのものだったのだ。

川が狭くて流れの速い場所もあるだろうから、横に広いトムソーヤ島のいかだのような形状では、途中で引っ掛かってしまうだろう。

朽木の筏は、川の流れの中でも事故なくスムーズに木を運ぶことができるように工夫されたものだということを理解した。

丸太と丸太とを繋ぐものは、植物の蔓(つる)である。

これも山の中に自然にあるものを使っている。すべてが理に適っていることに感嘆した。

朽木の筏は人を運ぶものではないけれど、人が乗って行先をコントロールする必要があるのだろう。人が握る舵取り棒のような木が筏に括りつけられている。

この棒を使って巧みに舵を切りながら、朽木の人たちは安曇川の河口まで筏を運んでいったのだろう。

実際に筏を流しているところを見ることはできなかったけれど、最盛期には安曇川の流れにたくさんの筏が浮かび流れていく壮観な光景を想像した。

 

朽木における木の歴史は古い。

「朽木杣(くつきのそま)」という言葉がある。

「杣」とは、『世界大百科事典』によると、「古代律令国家や荘園領主が,造都や寺院などの巨大造営物の建設用材を確保するために指定した山林」だそうだ。

大きな寺院や貴族の邸宅などを造営するためには、大量の木材が必要となる。また、造営した寺院や邸宅を維持していくためにも継続的に木材の供給を欠かすことができない。

そこで古代の寺院や貴族たちは、自分たちの建物を造営・維持するための木材を確保する手段として、畿内の各地に専用の山林を所有するようになった。

その山林のある山のことを「杣」と言い、杣で木材の伐り出しに従事する人のことを「杣人」、杣から伐り出される木材のことを「杣木」と言った。

杣は組織的に管理され、杣の運営を司る杣頭、張付などと呼ばれる管理者が置かれていた。

その杣の一つが、朽木杣である。

高島には、安曇川に沿って朽木杣のほか子田上杣(こだかみのそま)、三尾杣(みおのそま)、石田川に沿って河上荘(かわかみのしょう)などの広大な地域に杣が営まれていた。

11世紀初頭には、山城国寂楽寺(白川寺喜多院)造営のために近江国朽木杣が営まれたとの記録が文献にある。

杣と杣との間には微妙な力関係が存在していたようで、朽木杣は隣接する子田上杣に対して従属関係にあったと言われている。朽木杣の人たちは、杣に入るために「山手」と呼ばれる手数料を子田上杣に支払わなければならなかったし、伐り出した木を筏に組んで安曇川に流すためには「津料」と呼ばれる通行料を支払っていた。

子田上杣は藤原氏の権力を背景とした宇治平等院の杣であったから、山城国寂楽寺と比較すると格式が高かったためにそのような力関係が生じたのかもしれない。

しかし朽木杣も手を拱いて子田上杣に従っていたわけではなかったようだ。

通行料を支払わず杣道を塞いで子田上杣の伐採を妨害したり、勝手に人夫を入れて木の伐採をしたりして紛争となり平等院が天皇に宛てて訴え出たことなどが、今津町酒波の日置神社に遺されている古文書に記録されている。

木材の伐採で生計を立てていた杣人たちにとって、木の1本1本が生きていくための重要な資源であり、少しでも多くの木材を得るために様々な努力が行われていたことの一つの痕跡なのではないだろうか。

安曇川の筏を見ていて、そんな古代からの朽木の人々の「木」にかける思いの強さをしみじみと想った。

 

志古淵神社

 

筏が係留されていた場所から程近いところに、志古淵神社と呼ばれる神社があった。「志古淵」と書いて、「しこぶち」と読む。

珍しい名前の神社である。

志古淵、志子淵、志故淵、思古淵、思子淵、信興淵など充てられる漢字は異なるものの、高島には安曇川沿いに「しこぶち」神社と呼ばれる神社が多数存在するという。

高島市のWebサイトによると、実に15社もの「しこぶち」神社が紹介されている。そのうちの主要な「しこぶち」神社が七社あり、それらを総称して「七シコブチ」と呼ばれている。

七シコブチとは、以下の七社を言う。

久多・思古渕社(志古淵神社)

京都府京都市左京区久多中。この神社に古くから伝わる「花笠踊」は、無形文化財に

指定されている。

小川・思子淵神社

滋賀県高島市朽木小川。毎年輪番に宿を決めて集まり、床の間に「思子淵神社」と書

かれた神軸を掛けてお供えをし、赤飯を炊いて会食する思子淵講と呼ばれる講があっ

た。境内に建つ本殿、蔵王権現、熊の社の3社は14世紀後半建立の貴重な建造物であ

り、国の重要文化財に指定されている。

坂下・思子渕大明神

滋賀県大津市葛川坂下。大岩の上に鎮座する小さな祠に祀られている。

坊村・信興淵大明神

滋賀県大津市葛川坊村町。地主神社の境内社として祀られている。湖北出身の比叡山

の名僧相応和尚が創設した葛川明王院の創始にまつわる伝承が伝わっている。

梅の木・志子渕神社

滋賀県大津市梅の木町。近年まで、陰暦十月七日が祭日であった。

岩瀬・志子淵神社

滋賀県高島市朽木岩瀬。志子淵神を「筏流しの神様」として祀り、毎年志子淵講が行

われる。もとは北側の小字畑福に鎮座していたが、寛文2年(1662)の大洪水により

流され、現在地に遷されたと伝えられている。

中野・思子淵神社

滋賀県高島市安曇川町中野。七シコブチのなかで最も下流に立地するシコブチ神社。

筏流しにとって特に危険な場所はここよりも上流ということになる。

 

一方で、高島以外の地方には「しこぶち」神社という神社は存在しないという。

古来から高島地方に坐(いま)します土地の神様の名前なのだろうか?それとも、この地方に住みついた渡来人が信仰していた異国の神の名だろうか?不思議な聞きなれない名前に、何の根拠もないけれど、様々な憶測が頭に浮かんでくる。

案内をしてくれた高島市の職員の方の説明によると、しこぶちの「しこ」とは強いとか恐ろしい場所という意味で、「ぶち」とは川の淵、すなわち川が大きく曲がっている場所や深く水が澱んでいる場所のことを示す言葉なのだそうだ。

前述のとおり、林業を生業とし木材の伐採により生計を立ててきた高島の人々にとっては、伐り出した木材を安曇川の流れを使って安全に琵琶湖に運ぶことはたいへんに重要なことだった。

流量が十分にコントロールされている今の安曇川の流れとは異なり、自然の流量に任せる以外に方法がなかった昔の人たちにとっては、安曇川の流れはありがたい存在であると同時に時には危険な存在となることもあった。

一歩間違えば死傷事故にもつながりかねない危険な川の流れ。当時の人たちにとって安曇川の流れは諸刃の剣で、無事に木材を琵琶湖まで流すことができればこんなありがたい存在はないが、一方でそれは死と隣り合わせの危険な作業でもあったのだ。

自然、そこは神頼みということになる。

どうか無事に筏を琵琶湖まで流してほしい。筏乗りたちの切実な願いであった。そう言えば、山本兼一さんの『火天の城』という小説のなかに、安土城を築城するために木曽の山から大きな丸太を伐り出し木曽川を使って運搬する光景が描かれた場面があった。

その丸太が川の淵をうまく曲がりきることができず岩に激突し、作業を指揮していた頭が亡くなるという凄惨な事故の場面が描かれていたことを思い出した。

これは小説の中だけの出来事ではなく、実際に起こり得る事故であったということを改めて実感した。

先に私たちは、安曇川に係留されている筏を見た。そしてそこから程近い志古淵神社を訪れて、この筏と志古淵神社とが深い関係を有していることを知った。

インターネットで安曇川に浮かぶ筏の古い写真を見ることができる。先程見た筏よりももっと幅が広くて、いくつもの筏を長く連ねた立派な筏が写っている。

安曇川の水量も今より多く向こう岸まで一杯の水が流れていて、一つの長い筏に何人かの筏師が乗って、長い竿を操って筏を操縦している。

こんなに長くて大規模な筏を操縦することは容易なことではなかっただろう。これでは、川の流れの状態によっては、いつ筏が岸や淵に激突して筏から放り出されるかわからない。まさに筏乗りは命懸けの仕事であったことが理解される。

 

興味深いことに、この志古淵信仰は、水に関わる想像上の動物である河童の伝説とも関わっている。

滋賀県小学校教育研究会国語部会が編集した『読みがたり 滋賀のむかし話』という本のなかに、「しこぶちさん」という昔話が収録されている。要約すると、以下のような内容である。

昔むかし、朽木村に「しこぶちさん」という名の筏師がいた。

山から伐り出した木で筏を組み、息子とともにその筏に乗って安曇川を下って行くと、続が原の日ばさみというところで筏が岩角にぶつかり立往生してしまった。

これは困ったことになったと途方に暮れていると、一緒に筏に乗っていたはずの息子の姿が見当たらないことに気づいた。

川面を見ると、一匹の河童が息子を小脇に抱えて水の中に引き入れようとしているではないか。

驚いたしこぶちさんは持っていた竿で河童を叩き、息子を救い出した。川太郎という名のこの河童は、もう悪さはしませんと言ってすごすごと引き下がっていった。

ところが、しこぶちさんが中野の赤壁というところまで筏を進めていくと、再び筏が大きな淵に当たって動かなくなってしまった。

しこぶちさんが川の中を覗いてみると、先程の河童の川太郎が川底から筏の航行を邪魔しているではないか。

大いに怒ったシコブチさんは、川太郎をこてんぱんに叩きのめした。

ついに観念した川太郎は、もうこれからは筏師には一切手を出しませんと誓い、そのしるしとして、手にしていた杉の枝を逆さにしてしこぶちさんに向かって突き出した。

その杉は、中野のさかさ杉と呼ばれる大きな杉の木になった。

しこぶちさんは河童の川太郎を許し、川太郎はその後、筏師の守り神として安曇川を下る筏が遭難しないように守護したと伝えられている。

 

私が訪れた興聖寺の近くにある志古淵神社は、先に紹介した七シコブチのうちの岩瀬の志子淵神社であった。

旧道に面して志子淵神社と刻まれた古い石柱が自然石の台座の上に建てられている。一部が黒く変色した太くて高い石柱だ。

その奥には一段高くなった場所に石の鳥居が見える。

説明版などは何もない。ここが観光の対象ではなく村人たちの生きた信仰の場所であることを物語っているのだろう。

不思議なことに社殿は鳥居を潜った正面にではなく、左に直角に曲がった場所に鎮座ましましている。

社殿は、鳥居が建つ広場よりもさらに一段高くなった場所に築かれていて、背後には鎮守の杜が厳かに控えているのが見える。神社がある一帯は民家が建ち並んでいる旧街道の一角なので、周囲で木々があるのはこの鎮守の杜だけだ。厳かな気配が漂っているのは背後のこの杜のせいかもしれない。

積年の風雪による損傷から保護するためなのだろうか、石垣の上に石柱が張り巡らされた敷地の中に建つ社殿には覆い屋が掛けられていて、それがかえって神々しさを増幅させているようにも思われる。

覆い屋は、主殿の左右に従えている末社をも覆い、非常に複雑な構造を成している。けっして豪華なものではなく、しかも社殿もだが覆い屋自体もかなりの年輪を感じさせる古いものであり、今にも朽ち果てそうな佇まいがある。

神寂びたという言葉がいかにも似つかわしい趣のある神社だった。

今回私は、七シコブチと言われる志古淵神社のうちの一社を訪れただけであるが、残りの六社についてもいつか詣でてみたいと思った。それぞれに特徴をもった不思議な神社であるに違いない。

杣、筏、そして志古淵神社。朽木という土地のことを考えるときに欠かすことのできないそれぞれに関連しあっているキーワードを、私は改めて頭の中で整理してみた。

すべては、木にまつわるものである。

朽木という土地が、昔からいかに木と密接な関係のうえに成り立っている土地であったかということを強く考えた。

 

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 高島篇 朽木 その1 朽木街道 (祝 高島 & 長浜 観光締結)

旅のはじめに

 

平成24年(2012)12月に『湖北残照 文化篇』を上梓した。

その後、まだ本にはなっていないが、『湖北残照 拾遺』を書き上げた。これで『湖北残照』としては、「歴史篇」「文化篇」「拾遺」の三部作が完成した。もういいだろう。新境地を求めて他の地域についても書いてみたい。

「拾遺」を書き終えた時にはそう思っていた。

ところが、「湖北」には、まだ広大な地域が手つかずのまま残されていた。高島地区である。

一般に「湖北」と言うと、琵琶湖の北東の地域のことを言う。具体的な市町村名で言えば、長浜市が該当するだろう。

ところが、琵琶湖の北西の地区はなぜか「湖北」とは呼ばれないが、同じ琵琶湖の「北の方」であることに変わりがないという事実に、ある日ふと心が留まった。

地元の方は「湖北」と呼ばないかもしれないが、他所者である私にとっては、湖の北東も北西も湖の北の方という意味において「湖北」であることに変わりはないと思ったのだ。

関東の人間にとって、琵琶湖の玄関口は東海道新幹線の米原駅になる。ここを起点に考えると、湖の向こう側に位置する高島市は交通の便として最も行きにくい場所にある。それが今まで私が高島市に足を踏み入れたことがなかった最大の理由でもあった。

今回は縁あって、京都駅から出発する高島市の日本遺産*を巡るバスツアーに参加することになった。

この際、私にとってのもう一つの湖北をじっくりと見て体感しておきたい。私はわくわくする思いで、京都駅南口の集合場所に向かった。

琵琶湖を、いつも見るのとは反対側から見るということにも興味があった。長浜方面から見ると夕方の太陽が琵琶湖に沈んでいくのだが、反対側の高島方面からは朝日となって昇ってくる。

長浜とは対照的な世界がそこには拡がっているのだ。

高島から見た長浜は、どのように見えるのか?私の興味はどんどん大きく膨らんでいった。この旅を最初の一歩として、高島の魅力を味わっていきたい。そんな想いから、私は『湖北残照』高島篇を書いてみることにした。

そんなことで、まだまだ私は「湖北」から卒業できないでいる。

*日本遺産とは、以下のように定義されている(高島市作成のパンフレットより転記)。

地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として文化庁が認定するものである。

ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。

 

平成28年現在で37件の日本遺産が指定されているが、そのうちの1件として「琵琶湖とその水辺空間-祈りと暮らしの水空間」というストーリーで、大津市、彦根市、近江八幡市、高島市、東近江市、米原市、長浜市の7市が指定を受けている。

 

 

 

朽木 その1

朽木街道

歴史好きには、「朽木」と聞くと織田信長のことを思い浮かべる人が多いのではないだろうか?

元亀元年(1570)4月27日、越前・朝倉氏を攻めるために信長が敦賀の金ヶ崎を攻略していた時のことだった。

突然、北近江の浅井氏が信長の退路を断つ形で背後から攻撃を仕掛けようとしているという報告がもたらされた。

「そんな馬鹿なことはない。」

信長は最初、その報告を誤報と決めつけて取り合わなかったという。

なぜならば、織田家と浅井家とは同盟関係を結んでおり、浅井家当主長政の許には信長の妹であるお市の方が嫁入りをしていたからである。

長政とお市とは夫婦仲がよく、二人の間にはすでに茶々と呼ばれる長女が誕生していた。次女の初も元亀元年の生まれであるから、この時すでに誕生していたか少なくともお市の方のお腹の中にはいたはずである。

固く結ばれた織田家と浅井家とのことを考えれば、長政が信長に反旗を翻すことなど考えられない。信長が最初の報に接して信じなかったのも宜(むべ)なるかな、である。

ところが、その報告は誤報ではなかった。

次々と信長の許に寄せられてくる続報に接した信長は、長政の攻撃を信じないわけにはいかなかった。

前方には朝倉氏が、そして後方には浅井氏が迫ってきているとなれば、まさに信長は袋の鼠だった。

即座に退却を決断した信長は、金ヶ崎から琵琶湖西岸の朽木を通って命からがら京へと逃げ帰ったのであった。

世に言う「金ヶ崎の退き口」である。

信長の人生において最大の危機だったと言われるこの時の逃走劇において重要な役割を演じたのが、一人は殿(しんがり)を務めた木下藤吉郎であり、そしてもう一人が朽木の領主であった朽木元網である。

朽木氏は、近江佐々木源氏の流れを汲む高島氏の支族である。

鎌倉時代初期に近江守に任じられていた佐々木信綱の4人の子が信綱の死後に領地を分割して与えられ、長男の重綱が大原氏、次男の高信が高島氏、三男の泰綱が六角氏、四男の氏信が京極氏をそれぞれ名乗った。

その高島高信の次男頼綱の代に、近江国高島郡を領有する高島氏から朽木谷の地を領地として拝領し、朽木氏と名乗ったのが始まりである。

信長の時代の朽木氏の当主が元網であった。

何としても生き延びて京に辿り着きたい信長は、朽木谷に沿って走る朽木街道を通って京に逃げ帰る道を選択した。

この道は、今ではいわゆる「鯖街道」と呼ばれる若狭と京都とを結ぶ重要な街道となっている。安曇川の流れに沿い山中を通る道である。

この朽木街道のほぼ中心に位置している朽木を領有していたのが、朽木元網であった。

朽木街道を通って京に戻るためには、朽木を通らないわけにはいかない。しかし朽木元網は信長の領内通過を許容してくれるかどうかわからない。

信長は、同行していた弾正松永久秀を交渉役として元綱の許に遣わした。

その間信長は、朽木の領内に入る手前の岩陰に隠れて久秀からの朗報を待っていたと言われている。

その信長が隠れていたという岩が「信長の隠れ岩」として今も残されている。多少のニュアンスの違いはあるが簡潔にまとめられているので、近くに設置された説明版の内容を以下に書き写してみた。

 

戦国武将・織田信長は元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討伐するために敦賀

へ侵攻していましたが、妹婿であった浅井長政が裏切ったとの情報を得て急きょ撤退を

決意、同日30日に京都へ引き返します。その退路として通ったのが今津町保坂から大津

市葛川へ抜ける裏ルート「朽木越え」でした。

信長が来ることを知った当地の領主・朽木元網は、甲冑姿で出迎えようとしました。

この武装姿に驚いた信長は、同行の松永久秀と森三左衛門(可成)に元網の真意を確か

めに行かせます。

そして元綱に敵意がないことを確認するまで、ここ三ツ岩の石窟に身をひそめて待機

したと伝えられています。

平服に着替えた元網は、信長を下市場の圓満堂(えんまんどう)でもてなした後、朽木城に宿泊させ、

翌日京都までの警備役も務めました。

(圓満堂跡はここから南へ1キロの下市場の集落内にあります)

~朽木・群・ひとネットワーク 朽木地域まちづくり委員会~

 

元網は、永禄9年(1566)に浅井長政に攻め込まれて降伏し、一時長政の勢力圏に組み込まれていたことがある。その後、隷属関係は解消となっているものの、果たして信長にすんなり領内通過を許すかどうかはわからない。

信長の大きな賭けだった。

交渉役として派遣された松永久秀が元網相手にどのような交渉を行ったかは、わからない。しかし久秀もここで元網を説き伏せられなければ信長同様命がない状況にあったので、必死の交渉が行われたであろうことは想像に難くない。

交渉上手であった久秀が信長の陣中に居合わせていたことは、信長に幸いした。

後に信長に背き壮絶な死を遂げる久秀であったが、この時は命懸けで元網を口説き、信長の命と自らの命とを救った。

信長にとっても大きな賭けだったが、元綱にとっても突然訪れた大きな試練だったに違いない。

信長の将来性と浅井・朝倉連合軍の可能性とを短時間のうちに秤にかけて、元網は信長の将来性を採ったということなのだろう。

一歩間違えば自らの地位や命をも危うくする局面で元網が選んだ選択肢は、信長に味方することだったのである。

信長が命からがら京に辿り着いたのは、3日後の4月30日であったと伝えられている。

 

その時に信長が辿った道を、私は反対に京都からバスで辿っている。

雑踏の朝の京都の街を抜け出し、出町柳で二手に岐(わか)れる鴨川を右側の高野川に沿って北へと進んでいく。

今年の紅葉は例年より早くてすでに大方は散ってしまっていたけれど、沿道のところどころにはまだ名残りの紅い葉がちらりと望まれる。

朽木への道は、途中までは大原へ行く道と同じである。大原までは何度か来たことがあるので、なんとなく見覚えのある風景を辿っていく。

その大原を過ぎると、景色が一段と山深くなってきた。道が峠を越えると、そこが京都府と滋賀県との県境になっていて、バスは滋賀県大津市へと入っていった。

大津市と言うと琵琶湖南端の湖に面した平坦な土地を想像するけれど、実は市域が非常に広くて、おおよそ琵琶湖西岸の南半分は山側まで含めて大津市の行政区分になっている。ちなみに琵琶湖西岸の北半分が高島市となる。

バスは安曇川上流の流れに沿ってそのままずっと北へと山中を進んでいく。かの信長は、どこまで南下して来たところで自らの生還を確信したのだろうか?などと考えながら、私は車窓の景色を眺めた。

いつしかバスは大津市から高島市へと入っていった。

 

興聖寺

 

この旅の私たちの最初の立ち寄り地は、興聖寺であった。

京都から1時間あまり、山道をバスに揺られながらの道中だった。

あいにくの曇り空で今にも降り出しそうな晩秋の空の下、バスを降りた私たち一行は、目の前にある小高い山へと登っていく坂道を歩き始めた。

駐車場の辺りには何もなく殺風景な景色だったので、こんなところにお寺なんてあるのだろうか?そんな思いを抱きながら登っていったのだが、意外にもそれほど登らないうちにすぐ、私たちは興聖寺の入口に立つことができた。

そこには、低いが重厚な石垣が築かれていて、まるで坂本や湖東三山にある寺々のような趣を呈している。

いつの頃に造られた石垣かはわからないが、野面積みの苔むした佇まいに時の流れを感じる。


興聖寺は、朽木の領主であった佐々木信綱が承久の乱で戦死した一族の供養を行うために、兼ねてから深く帰依していた道元禅師を招いて建立した曹洞宗の寺である。

朽木の地形が、道元の住持していた宇治の興聖寺の地形と似ていたことから、道元が自ら興聖寺と命名したと伝えられている。

その後、享禄元年(1528)から3年間、室町幕府第12代将軍足利義晴が、細川晴元、三好元長らの反乱から逃れるために当時の朽木氏当主であった朽木稙綱(たねつな)を頼って興聖寺に滞在したことが、この寺を一躍有名にしている。

この期間、言わば室町幕府はここ朽木にあったとの説を唱える学者もいて、彼らは朽木幕府なる言葉を世に送り出した。

こんな山の中に3年間も室町幕府の将軍が住んでいたなんてとても不思議な感じがするけれど、政権基盤が弱かった足利氏の歴代将軍は、しばしば京を抜け出して似たような山中に籠っている。

以前、『湖北残照』歴史篇のなかの観音寺城の章で紹介した桑実寺も、まさにその一つであった。この観音寺城のすぐ間近にある桑実寺に逃げ込んだのも、足利義晴であった。

義晴は桑実寺にも3年間滞在していたそうだから、25年間に及ぶ将軍在位期間の約4分の1にあたる6年間は京を離れて山中に逃げていたことになる。

義晴の子で第13代将軍である足利義輝もまた、家臣の細川幽斎(藤孝)を従えて6年半ここ朽木に滞在したと言う。

室町幕府の将軍家である足利氏は、何とも不思議な将軍である。将軍がこのような体では、国が乱れて戦乱の世となるのも頷ける。

 

朽木に滞在する将軍足利義晴のために、稙綱は「岩神館」と呼ばれる館をこの地に建てた。眼下に安曇川を望み、朽木街道が一望のもとに見渡せる絶好の立地である。

館とあるけれど、むしろ砦であったと考えた方がいいだろう。

側面と背後にあたる南側と西側にはそれぞれ29mと56mの土塁が築かれ、その外側には空堀が設えられている。

西側の土塁は、今でもほぼ完全な形で遺っている。

こうして見てみると、岩神館は非常に堅固な造りの「館」であったことがわかる。

現在の本堂の南側に位置するこの岩神館が建てられていた場所は、今では興聖寺の墓地となっている。将軍が居住していた館跡が墓地になっているというのは、私には非常に不思議な気がする。

それはともかくとして、心ならずして朽木の山中に逃げ込んだ足利将軍義晴の塞いだ心を慰めるためにと、佐々木一族のほか京極高秀、浅井亮政(すけまさ)、朝倉孝景ら近隣の有力大名が協力して造営したと言われているのが、ここ興聖寺の庭園である。

作庭は管領細川高国と言われている。

高国は、京の慈照寺(銀閣)の庭を参考にしながら、朽木の地形を巧みに活かした名庭を造り上げた。


残念ながら、紅葉の季節にはほんの少しだけ遅かった。

それでも、枝に残った紅葉や緑の苔の上に落ちた真っ赤な楓の葉を見ているだけで相当に風情があり美しい景色であるので、紅葉真っ盛りの時に訪れていたなら、さぞかし感動的だったに違いない。

庭園は、池に鶴島と亀島を浮かべた蓬莱式の回遊庭園である。

江戸時代の大名庭園のような計算され洗練された美しさというよりは、素朴で原初的なおおらかさが心地よい庭と言ったらいいのだろうか。

大ぶりの庭石がさりげなく随所に配置されていて、どの角度から眺めてみても妙に心が落ち着く素適な庭である。

小高い山の上にあるから、庭の向こうには安曇川の流れと比良山系の山々の連なりとが借景となって風景に取り込まれている。

池に渡された2本の石の橋を渡りながら庭を巡っていると、心が穏やかに落ち着いてくる。敵に追われて逃げてばかりいた足利の将軍様も、この庭を眺めている時ばかりは浮世の憂さを忘れて心を和ませたことだろう。

 

興聖寺には美しい庭園のほかに、本尊である重要文化財の釈迦如来坐像と楠正成の念持仏と伝えられている不動明王坐像などが安置されている。

釈迦如来坐像は、平安後期に後一条天皇の皇子が幼少にして亡くなられた際に、天皇の叔父にあたる藤原頼通がその供養として三仏を彫らせたうちの一体であると伝えられている。

桧の寄木造りで、作者は不明ながら宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像を造った定朝の様式をよく顕している柔和なお顔の仏像である。

平等院を建立したのが頼通であり、その頼通に縁(ゆかり)のある仏像であることを考えると、定朝の流れを汲む一流の仏師の作である可能性が高いのではないか。宇治とは元々、寺の創建時から深い関係にある。

不動明王は、朽木時経が北条高時の命により千早城の楠正成を攻めた時に、戦火に遭い焼失せんとするところを持ち帰ったものと伝えられている。

いかにも正成の念持仏らしく精悍な顔つきで、時経が思わず火中から救い出したのも頷ける迫力ある不動明王である。

この不動明王は、「縛り不動明王」と呼ばれている。

昔、盗人がこの不動明王を盗み出そうとしたところ、金縛りに遭って動けなくなったとの言い伝えがあるところからいつしか縛り不動明王と呼ばれるようになったのだそうだ。

住職が寺の歴史や庭の見どころなどをわかりやすく説明してくれるのを聞きながら、私は改めて、朽木における朽木氏の歴史と役割りとを想った。

朽木の歴史は、朽木氏の歴史であるのだ。

 

 

 

 

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埋木舎

1.埋木舎

舟橋聖一の名著「花の生涯」は、直弼の生涯の友であり師匠となる長野主馬(後の主膳)が、初めて埋(うもれ)木舎(ぎのや)に寓居する井伊直弼を訪ねるところから始まる。先の彦根藩主井伊直中の十四番目の末子として生まれた直弼は、13人の兄全員が何らかの事情で藩主の座に就かないことにならない限り、藩主となることはできない。可能性がゼロに等しい環境の中で、生まれながらにして失意の人生を歩んでいたに違いない。埋木舎とは、花も実も付けぬままやがて朽ち果てていく我が身を例えて、自嘲的につけた名前ではなかったのか。

彦根城の天守を望むお濠の外側に面した場所に、埋木舎はひっそりと建っている。clip_image002[1]clip_image004

埋木舎表門(写真左) 埋木舎玄関(写真右)

折からの築城400年を祝う祭り気分の華やぎの中で、格調高く聳える天守閣を訪れる観光客は多いのに、メインストリートからほんの僅かだけしか離れていないこの埋木舎を訪のう旅人は、あまりにも少ない。彦根城の天守を直弼の象徴のように思う人は多いのかもしれないが、むしろ直弼の原点はこの埋木舎にある。

初めて私がこの埋木舎を訪れた時に強く心を惹かれたことは、ほとんど可能性のない人生の中で、直弼が気持ちを切らすことなく精進を続けた事実である。30歳を過ぎるまで可能性のなかった男が、その後とんとん拍子に大老まで上り詰めていくことができたのは、埋木舎時代の人間としての蓄積があったからに他ならない。

ここが埋木舎であることを表す看板がなかったら通り過ぎてしまうであろう質素な門。周囲の景色の中に溶け込んだような空間を、私は恐る恐る潜った。安政の大獄の首謀者として恐れられていた長野主膳も、おそらくは何度も潜ったであろう門だ。

直弼の扶持は三百俵であったと言われている。今のお金にしてどのくらいの金額になるのかはよくわからないが、十四男とは言え、前藩主の嫡男である。その割には質素過ぎる佇まいとの印象を受けた。

ふと気がついて周囲を見回すと、建物の周りには様々な木がセンスよく配置されている。失意の直弼を慰めていたのは、あるいはこれらの木々であったのかもしれない。

玄関の左手から建物に沿って庭の奥へと歩を進める。

部屋数はそれなりにあるが、派手な装飾などは皆無で、あくまでも質素な木造の建物である。中に入ることはできないものの、目の前のこの建物に直弼が起居していたということ。しかもそれが、今からまだ150年ほどしか前のことではないという事実が、直弼を身近な存在にする。

部屋には、直弼が愛用していた食器などの品々が展示されている。湖東焼という土地の焼き物が風趣をそそる。ごくごく地味な生活を直弼は心掛けていたのだろう。歴史の大きな流れから取り残されたエアーポケットのような空間が、この埋木舎である。

この埋木舎で直弼は、何を考え、何をしてきたのか?これが私の最大の関心事である。clip_image006 紀行文写真file 125 埋木舎表門

可能性のない人生であり、だからと言ってあくせく働く必要はない身の上であるから、このまま時に流されて気楽に生きていくことは出来たはずである。もしそのような生き方を直弼がしていたとしたら、彦根藩主となることも叶わなかったかもしれないし、ましてや、幕府の最重要職である大老の役職を務めおおすことはできなかったに違いない。

直弼の心の中には、野望の灯が消えていなかった。

足繁く通ったであろう長野主膳から、時宜を得た洗練された情報がもたらされたかもしれない。そこには、たか女との淡い恋ごころも彩りとして添えられていたかもしれない。私は150年前のまさにこの場所で繰り展げられたであろう様々な事々に、想像を逞しくさせた。

読者の皆さんには、名著「花の生涯」を読んでからこの埋木舎を訪れることを是非お勧めする。願わくば、諸田玲子さんの「奸婦にあらず」も読まれることを。これら直弼にまつわる小説を読んでから訪のう埋木舎は、感慨もまた特別なものとなる。

「花の生涯」は、NHKの大河歴史ドラマの栄えある第一回作品でもある。1963年というから、今からもう45年も前のことになる。その後も何度となくドラマの題材になっている。「花の生涯」についてはまた別稿で採りあげる予定であり今はこれくらいに止めておくが、埋木舎の展示の中にはこの「花の生涯」にまつわるものも多くあり、年配の方であれば感慨もひとしおかもしれない。

直弼は、父直中の死去後に御殿を退去して以来、藩主直(なお)亮(あき)の世子直元逝去に伴い直亮の養子として江戸に上るまでの15年間を、この埋木舎で過ごした。年齢にして17歳から32歳までの時期である。他の兄が他藩の養子として井伊家を去ったりしたことも幸運の一端としてはあった。兄であり藩主であった直亮の世子直元が病弱にして早世したことも、直弼に有利に働いた。しかし私は、これらの幸運が偶然の作用だとは思わない。直弼のそれまでの人知れず続けてきた精進が、徳川譜代の名家井伊家当主の座を自ら引き寄せたということが言えまいか。

世の中をよそに見つつも埋木の

埋もれておらむ心なき身は -直弼-

すでに四十代を迎えて未だに将来への展望が展けない我が身を振り返って、志を高く持ち常に心の準備を怠らない直弼の生き方が、心に鮮やかに映った。直弼のようにはいかないけれど、心の準備を大切に守りぬいていけば、私のささやかな人生もまだまんざらでもないかもしれない。

幽かだが満たされた心持ちで、私は埋木舎を後にした。門外の位置からお濠を隔てて見上げる彦根城の天守閣が、眩しかった。

紀行文写真file 122紀行文写真file 137埋木舎庭園

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彦根城

2.彦根城

  • 2008-12-01に投稿したものです。今年は、彦根城築城410年祭ということで、10年前の彦根城のブログを再度振り返ってみました!!

姫路城や松本城など現存する天守閣を持つ城は、全国でも僅かしかない(注1)。その中で、優雅な姿においては、彦根城の右に出るものはないと私は思っている。

clip_image008 彦根城天守閣

2007年は、その彦根城が築城されて400年にあたる年であり、400周年を祝う様々な行事が行われた。市を挙げての一大イベントに、全国から多くの観光客がこの城を訪れた(注2)。JR彦根駅に降り立つと、真正面に天守が聳える彦根山を望むことになる。駅から歩いて行けるロケーションは、ありがたい。

城下町の雰囲気を感じながら次第にお城に近づいていく気持ちは、悪くない。心地よい緊張と期待。途中の和菓子屋に立ち寄って、季節の和菓子などを食べながら歩くのも、旅の気分を盛り上げるのには楽しいかもしれない。やがて緑色の水を満々とたたえる濠が現れ、カギ形に曲がる城門をくぐると、もう城への登り口は近い。

彦根城は、井伊の赤備えとして有名な徳川家康の三河からの側臣である井伊直政の嫡子であり第2代彦根藩主である井伊直継が築城した城である。関ヶ原の戦いで石田光成率いる西軍を打ち破った家康が、その褒賞として井伊直政に佐和山城を与えたのが始まりであると伝えられている。

clip_image004 彦根城佐和口多門櫓

佐和山城は、彦根城からそう遠くはない場所に位置している。城郭的な観点からはむしろ優れていたと言われている佐和山城をそのまま居城とせず彦根に拠点を移したのは、落城した佐和山城があまりにも凄惨であったからだと言う。敗者の常とは言え、女子供までが城壁から身を投げて果てたという光景を想像することは心に苦しい。

呪われた城を捨てて心機一転、直継は彦根山を新たな居城と定めた。

彦根城は、典型的な平山城である。京都にも程近い交通の要衝に位置する彦根城は、関ヶ原に勝利したとはいえまだ秀頼が存命であった築城当時は、徳川幕府にとって重要な戦略拠点であった。さらに言えば、一朝京都で変事があった際には、御所から天子を擁してこの彦根城に匿う秘密の使命を帯びていたとの説まである。その説を裏付けるかのように、普通は城の正門を意味する大手門が、城の西南、京都寄りの位置に置かれている。

琵琶湖を背にするようにして聳え立つ天守までの道程は、長く険しい。不自然に遠回りをしながら、一気に標高差を克服することは、身軽な出で立ちの私たちでさえ容易なことではない。甲冑に刀剣を携えての城攻めは、さぞかし難航を極めるであろうことは想像に難くない。

しかしながら、緑に覆われた山道のような天守への道は、一方で心地よい。心が洗われるような木々の色と長閑に囀る鳥たちの声。流れ出ずる汗さえ、心地よいものとなる。もうすぐ天守に対面が叶うと思うと、苦しさが期待感へと変換されていく。

clip_image006 紀行文写真file 150 彦根城廊下橋

歩を進めていくと、左右を高い石垣に挟まれ谷のように仕組まれた道(掘切と言う)の行く手に、仰ぎ見るように架かる木の橋(廊下橋)が出現する。あと少しで天守閣という位置だ。いよいよ敵が本丸まで肉薄してきた際には、この木橋を焼き落して最後の籠城作戦を展開する魂胆なのであろう。その実戦のための防御施設が、今では周囲の景色に野趣を添えるアクセントとなっているから、またおもしろい。

長浜城から移築したと言われている重要文化財の天秤櫓を越えると、天守閣が優美に聳える本丸に辿り着く。

間近に仰ぐ彦根城の天守閣は、なんとお洒落で優雅なのか。

思わず誰もが足を止めて眺め入る。細部に金色の装飾が施され、戦いの道具として作られたとは思えない艶やかな姿に、400年前の井伊家の武士たちの意匠を感じる。彦根城の天守閣には、春爛漫の桜の花が実によく似合う。あるいは、琵琶湖を背景に真っ赤に空を染める夕暮れの天守閣も心に刻まれる風景であるかもしれない。

そんな淡い恋心のような思いを抱いて城内に入り込むと、思いは一転する。城の中は、戦国時代そのものと言ってもいいかもしれない。太い芯柱、薄暗い採光、手摺がなければ昇れない急峻な階段、石落しや狭間などの実践的な装備。そこには、戦いの目的以外のすべてを排除した厳格さがある。ひんやりとした木の冷たさが、感触として残る。ここは、江戸時代からの400年間を耐え抜いてきた城そのものなのだ。

唯一、そんな私の心を慰めてくれたものは、最上層から見下ろした彦根の街と静かな琵琶湖の湖面であった。井伊直弼も150年前に、こんな風にして琵琶湖を眺めただろうか。彦根の街並みはしっとりと落ち着いていて、琵琶湖の湖面はキラキラと静かな輝きを見せていた。

昇りの急峻さに比べて、下りは早い。気がつくと、彦根城博物館まで降りていた。博物館でみっちりと井伊家と彦根城の歴史を勉強して、彦根城を後にした。

彦根駅まで戻る道を少し遠回りして、京町キャッスルロードを歩いた。歴史のある城下町には食欲をそそる伝統的な料理や和菓子が多く残っている。受け継がれた伝統に新しい技術やセンスを加味して、新たな創作を売り物にしている店もある。そんな店の一つ一つを覗きながら彦根城の余韻を楽しんだ。何度も彦根山を振り返りながら。

clip_image002紀行文写真file 556 ひこにゃん

(注1) 弘前城、松本城*、犬山城*、丸岡城、彦根城*、姫路城*、松江城、備中松山城、

丸亀城、高知城、松山城、宇和島城の12城(そのうち、国宝は*印の4城のみ)。

(注2) 開会期間中の来場者数は、764,484人(彦根城築城400年祭実行委員会HPより)。

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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

お読み下さりありがとうございます。ブログに対する励ましのお言葉、とてもありがたく、心に沁みます。心から感謝申し上げます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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14.敗者・石田三成の最期を追う  関が原から古橋へ 

13. 関ヶ原(天下の行く方を決した古戦場の跡)

笹尾山から松尾山方面を望む

石田三成の生涯を想う時、関ヶ原の戦いを抜きにしてはどうしても語ることができない。

一介の百姓からスタートし、持ち前の人懐っこさと旺盛なアイデアとを以て一代にして天下人の地位を築いた豊臣秀吉が伏見城で亡くなった。慶長3年(1598年)8月のことであった。秀吉には、まだ幼い秀頼が遺されているだけである。

秀吉は、確固たる政権の基盤を確立することができないままに、世を去ってしまった。一代で築き上げたその道程があまりにも急すぎたため、また不幸にして跡取りに恵まれなかったこともあり、秀吉という求心力を失った豊臣政権は、濁流に浮き惑う小舟のような体を様してしまっていた。

秀吉亡き後の天下はどうなるのか?

日本全土が固唾を飲んで時代の行方に注目した。間もなく日本は2つの大きな勢力に色分けされていくことになる。徳川家康を総大将に抱く東軍と、石田三成が率いる西軍とである。

家康は、秀吉亡き後の最大勢力であることを存分に活用して、徳川を中心とする新たな世界を構築することを画策した。三成らによる官僚主導の政治を快く思わない武闘派の大名たちを巧みに自陣営に取り込み、強力な連合軍を組成していた。

家康が目指した世界とは、徳川氏を中心とした諸大名との連合による緩やかな中央集権国家であった。諸大名に所領の保有を認める代わりに、徳川氏を彼らの頭領(とうりょう)として認めさせること。この微妙な力関係の最上部に徳川氏を据えることにより、家康は徳川の世界を築こうとしていた。

前章で述べたごとく、三成は村の侍と武器とを農村から追放して武士と農民とを分離し、豊臣政権による強力な中央集権の国家を建設することを目指していた。戦国時代から脱却して、新しい武士の国家を築き上げる。数のうえでは家康に分があったけれど、三成は理想を現実のものとするために、敢えて不利とわかっていた戦いに挑んだのだった。

両陣営は、大勢を見極めようと様子見している大名に檄文を飛ばして味方に引き込む運動を繰り返すとともに、相手陣営を挑発したり牽制したりする行動を陰に陽に行うなどして、水面下でさかんに駆け引きを行った。

関ヶ原の戦いの直接の呼び水となったのは、会津の上杉景勝だった。

秀吉の没後、所領の会津に戻った景勝は、居城の改修を行うなどして不穏な動きを見せていた。これを危険視した家康が上洛を命じるが、景勝はこれに従わない。家康にとっては、上杉を討伐する格好の大義名分を得たことになる。

慶長5年(1600年)6月16日、家康は自ら大軍を率いて会津に向かった。名目は上杉景勝を討伐するためであったが、同時に家康は、石田三成がその間に挙兵するであろうことを予想し、そのための時間と場所を敢えて与えたのであった。

家康の見通しは的中した。家康の出陣を知ると、三成は諸将を味方に引き入れるための活動を激化させた。

家康軍に参加して東下しようとした大谷吉継に家康打倒の本心を告げ、味方に引き入れている。三成から話を打ち明けられた吉継は、最初非常に驚き、そして悩んだ。勝ち目のない戦いに加担することは、そのまま、死を意味する。しかし吉継は、三成との友情を選択した。

吉継は、関ヶ原の戦いにおいて最も勇敢に戦い、家康軍を大いに悩ませる働きをした後、壮烈な戦死を遂げている。友情のために死を選ぶ。こんな男気のある武将が我が国に存在したことを、私は誇りに思っている。

大坂の宇喜多秀家も、動いた。生前の秀吉から厚い寵愛を受けていた貴公子は、その恩顧に報いるために立ちあがった。

そして三成らは、中国地方の雄である毛利輝元を総大将に仰ぐことを決め、輝元に上京を促した。この呼びかけに応じて輝元が大坂城に入ったのが、7月17日であった。実質的な西軍の中心は三成であったものの、家康と対等に渡り合って戦うためには、それなりの「頭」が必要であり、輝元はその「頭」に相応しい存在だったのである。

ここに、西軍の陣容がほぼ出揃った。

西軍は、毛利輝元を総大将として、石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家の他、佐竹義宣、島津義久、小早川秀秋、小西行長、増田長盛、長宗我部盛親などが名を連ねた。これに、会津の上杉景勝が加わり、家康の東軍を挟み撃ちにする戦略であった。

挙兵した三成軍は手始めとして、会津征伐のために留守となっている東軍の武将の妻子を人質に取る作戦に出た。細川忠興夫人の細川ガラシャがこれを拒否し殉教の道を選んだ悲話は、後世に語り継がれている。

続いて、鳥居元忠が守る伏見城に猛攻を仕掛け、これを落としている(8月1日)。守る元忠も、元忠に伏見城の守備を託した家康も、この日が来ることを予測していた。わかっていながら依頼した家康もつらかっただろうし、これを受けた元忠も、大谷吉継に勝るとも劣らない男気の持ち主であった。

戦(いくさ)という不毛の愚行は、こうして慈しむべきもののふの心を持った武将たちを、無碍にこの世から消し去ってしまった。返す返すも口惜しいことであったと思う。

これら三成挙兵の情報が会津征伐のため江戸城に滞在していた家康の許に届けられたのは、7月19日のことだった。家康は遠い江戸の地でこの情報に接し、してやったりとほくそ笑んだに違いない。

しかし家康は喜び勇んで即座に引き返すことをしない。

家康の武将としての大きさは、東軍の大将たちの心をさらに確実に掴み取るために、もう一芝居を打てるところにあったと私は思っている。家康は何事もなかったかのように江戸を出発して軍を進め、7月24日に下野国の小山(おやま)に達する。ここで有名な小山評定が行われることになった。

小山評定とは、会津討伐のために従軍した諸大将を一堂に集めて、三成が挙兵し伏見城が血祭りに挙げられようとしていることを知らしめ、各自の態度を問うたものである。豊臣恩顧の大名たちがどのような反応を示すかが、家康にとっては三成との戦いを勝利するための最大の関心事であった。

彼らの忠誠心を引き出すことができれば、東軍は一段と結束力を強め、一致団結して西軍に当たることができる。しかしここで彼らに動揺が見られるようなことになれば、東軍の結束力は弱まり自ら瓦解していく。

家康は、勝利を確実なものとするために、一つの大きな賭けをしたのだった。

結果は、家康の思い描いた通りになった。武闘派の筆頭格である福島正則が家康への忠誠の意を示すと、他の諸将も正則に倣って相次いで忠誠の意を表明した。ほぼ全員の団結を確認できた家康は、会津の上杉征伐を中止して三成を討伐するために7月26日に陣を払った。

ここに、関ヶ原の戦いへの道筋が、完全に定まったのである。

天下分け目の関ヶ原、と言われている。

白黒決着をつける大事な決戦のことを喩える場合に、必ずと言っていいほど使われる言葉だ。日本史上における最も有名な戦いと言ってもいい。

今でも関ヶ原は交通の要所であり、難所である。

東国方面から都を目指す旅人は、関ヶ原を通り近江の国を経由して都に辿り着く。重要な土地であるから、関所が置かれた。不破の関である。

現在の東海道新幹線も、関ヶ原をルートとしている。冬場になるとこの地域に近付くと急に空が暗くなり、一面の雪景色になる。新幹線には極めて不都合な気候であるにも拘わらず、この地域を避けてルーティングをすることができなかった。それだけ、極めて重要な場所であることの証拠と言えるだろう。

その関ヶ原に東軍と西軍が対峙し刃を交えたのは、慶長5年(1600年)9月15日のことだった。

関ヶ原の西側の丘陵地に陣を取り、鶴翼の陣で臨んだのは、石田三成であった。鶴翼の陣とは、鶴が翼を拡げたような形でV字型に陣形を整え、突撃してくる敵を翼に譬えられる左右の兵で挟み込む陣形である。

最も奥まった場所に位置する笹尾山に陣取った三成は、関ヶ原の全体を見渡せる絶好のポジションから全軍を指揮した。

対する家康軍は関ヶ原の平原の中心部に陣を取り、魚鱗の陣を以て三成軍に対抗した。魚鱗の陣とは、△の形に整えた陣形で、鋭く敵の急所を突き、後から後から精鋭の兵士を繰り出していく戦法である。

丘陵地に着陣し、上から全体を見渡せる場所で大きく翼を拡げる陣形をとっていた三成軍に対して、平地に位置し、三成軍の翼に囲まれ懐のなかに入り込む形の家康軍の主力隊は、明らかに不利に見える。

事実、明治になってから両軍の陣形を見たドイツ軍のある少佐は、勝利したのは三成軍だっただろうと言ったという話は有名だ。そういう意味では、三成にも十分に勝機はあったのである。

決戦の朝は、静かに明けていった。

周囲を支配するものは、ただ静寂のみ。時折どこかで聞こえる馬の嘶きが、普通の朝でないことを気づかせてくれるが、それ以外には何もない、恐ろしいほど無気味な静かさのなかで、一日が始まろうとしていた。

静かに明けゆく朝であったが、誰もが、これから始まる一日の重さを、心の底にずっしりと感じていた。

たしかに目前に敵が位置しているのだろうが、深い霧と静寂とが自分たちの視界を遮断させていた。

逸る気持ちと僅かに覗かせる恐怖心とで、将兵たちは得も言われぬ時間を過ごしたことであろう。

かれこれもう2時間も彼らは待っている。霧の中で見えない敵と対峙して、ただひたすらに戦いのきっかけを待っていたのであった。

西方の総大将である治部少輔石田三成は、先程からじっと瞑目して、霧の中の見えない敵の姿を、心の目で捉えようとしていた。目の前に、鶴が大きく翼を拡げたように布陣した我が軍を目指して、▽の形をなした家康軍が果敢に突撃してくる。そして翼のなかにすっぽりと包含されていった。やがて彼らが消えていく様が手に取るように見えてきた。

逃げ惑う家康軍。追う三成軍。谷のそこここで勝利を宣する鬨の声が挙がっている。三成は勝利を確信した。そしてゆっくりと、静かに、目を開けた。

相変わらず目の前には深い霧がたちこめ、いつ晴れるとも見当がつかなかった。しかし間違いなくその時は、目前に迫っていた。

狭溢(きょういつ)な関ヶ原の野原からやがて霧が薄れかけ、朧気(おぼろげ)ながらも次第に前方が見え始めてきた午前8時、にわかに戦端が開かれた。

逸る気持ちを抑え切れずに開戦のきっかけを作ったのは、井伊直政だった。

直政は、物見と称して先鋒を務めることになっていた福島正則隊の脇をするするとすり抜けていった。そしてそのままに、正面に対峙していた宇喜多秀家隊目掛けて突撃していった。

約束が違うではないか!先陣の名誉に浴するはずだった福島正則は烈火のごとく激怒して、直政に遅れじとばかりに宇喜多勢に殺到していった。

ここに、世に名高い関ヶ原の戦いの戦陣が切って落とされたのであった。

まだ霧は十分には晴れやらない。幻想的な谷あいの光景の中で、天下の帰趨を決する戦いが、始まったのである。

序盤は、三成が思い描いたに近い戦いとなった。

井伊、福島隊に続けと、徳川方の諸将が怒涛の勢いで各々の正面に対峙する西軍の部隊へとなだれ込んで行く。三成方の諸将が憤怒の形相でこれを迎え撃つ。両軍相混じり、入り乱れての乱戦が繰り展げられた。

むしろ攻勢だったのは、地形的に有利なポジションを得ていた三成軍の方だった。あれだけ辺りを覆っていた深い霧はいつの間にかどこかへと消え去り、笹尾山の三成の陣地からは、敵を押し返しつつじりじりと前進を続ける味方の兵士たちの姿がくっきりと見届けられた。

今だ!三成は不敵な笑みを浮かべながら、叫んだ。

次第に相手を圧倒しつつあるこのタイミングで、翼の右翼にあたる松尾山の小早川秀秋の1万5千の兵が一気に山を駆け降りて徳川方の兵士たちを包み込めば、まさに開戦前に深い霧の中で瞑目した絵姿どおりとなる。

さしもの家康といえども、なす術はあるまい。

魚鱗の陣の背後、桃配山に陣取る家康は、じりじりする思いで戦況を見つめていた。次第に霧が晴れゆくにしたがって、家康軍の不利な状況が明らかになりつつある。

このままでは危ない。家康の背筋にぞっとする冷たいものが走った。えも言われぬ恐怖心が顔を出そうとするのを必死の思いで振り払った。

小早川秀秋殿は、いったい何をしていなさるのか?

家康の胸中には、確固たる勝算があった。それは、これまでの調略により、家康軍への寝返りを約束していた西軍の武将たちの存在である。そろそろ、我らのために動き出してくれてもよいものを。

間違いのない約束だとは思っているものの、ここは何が起こったとしても不思議ということのない戦場である。このまま彼らが動かなかったら……。

家康は、頭をもたげようとする不安を打ち消すのに懸命だった。そうこうしているうちにも、我が軍は押され続けている。こうなったら、一かばちかの策に打って出るしかあるまい。

家康は配下の者に命じて、松尾山に陣する小早川秀秋に向かって威嚇のための砲撃を敢行せしめた。秀秋殿がこれを家康からの攻撃と受取って我が軍に攻撃を仕掛けてきたら、家康軍は総崩れとなること必定である。

家康は今や、秀秋と心中するほどの覚悟を決めていた。

あとひと踏ん張りじゃ。笹尾山の石田三成は、思い描いた通りの戦況に満足気な表情を湛えていた。これで松尾山の小早川秀秋殿が山を駆け降りてきてくだされば、我が軍の勝利は確定的になる。それにしても秀秋殿は、何をしていなさるのであろうか?

一抹の不安がなかったわけではない。秀秋が寝返るのではないかとの噂が囁かれたことを三成も知っていた。しかし三成は、好転している戦線の状況に気をよくしていて、不穏な状況を見過ごしてしまっていた。そこへ、家康のいる桃配山から大きな砲声が轟いた。

そして、関ヶ原の戦いの戦局は、家康の陣から放たれた一発の砲声を境として、大転換を遂げたのであった。

三成が心待ちにしていた小早川秀秋が、ついに動いた。

しかし秀秋が松尾山から駆け降りた先は、徳川軍ではなく、三成の盟友である大谷吉継の軍であった。

小早川秀秋が寝返ったことは、大きな衝撃の電波となって瞬く間に関ヶ原の原野を駆け抜けて行った。それまで劣勢に立たされていた徳川勢は、俄然息を吹き返した。あと一息で均衡を打破できるところまで攻め立てていた三成軍は、浮足立った。

大谷吉継は、それでもよく戦った。吉継は精鋭部隊を秀秋に差し向けて、裏切り者を撃退しようとした。その奮闘ぶりは、関ヶ原の戦いにおける最も勇猛な戦いの一つであった。

ところが、小早川秀秋が立ち往生しているところへ、追い打ちをかけるように脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らまでが寝返って吉継軍への攻撃を始めたのだった。

巨大な鶴の翼のうちの右翼が突然にして千切られてしまったようなものだった。片翼を失った鶴は、大空を飛ぶこと能わず、ついに制御不能となり、失速して墜落していった。

小早川秀秋は、日本史上で最も有名な裏切り者として、歴史に名を留めることになってしまった。

前にも書いたとおり、人を裏切った人間の末路は、かなしい。自分では最良の選択をしたつもりでいても、他人の見る目はまた別物だからだ。裏切り者との烙印を押されて、敬遠される。一度他人を裏切ったことのある人間は、また同じように人を裏切るかもしれない。裏切られる相手が今度は自分だと思ったら、誰もその人を信頼し、その人に命を預けることなどしなくなる。

秀秋は関ヶ原の後、岡山に封ぜられたが僅か2年にして死ぬ。そのままお家は断絶となり、藩士は浪人となって路頭に迷ったと伝えられている。関ヶ原の戦いにおける勝利の最大の功労者である秀秋に対して家康が取ったこの仕打ちに、秀秋への評価が直接的に観て取れる。

秀秋の裏切りのインパクトがあまりにも強すぎたため、浪人となった家臣たちに対しても、誰も彼らを雇おうとする者はいなかったらしい。主君の決断が後々まで家臣を苦しめた典型的な事例である。

話が外れた。あの戦いから400有余年の歳月が流れた今、私はその関ヶ原の地に立っている。あれだけ名高い決戦があった場所であるにもかかわらず、実は私は、初めてこの地を訪れたのであった。

私は今、堪らなくこみ上げてくる興奮を、ぐっと心のなかで抑えながら、じっとこの大地に立っている。このけっして広くはない山あいの平地に、当時の日本を代表する武将たちのほとんどが集結して、日本の行方を決しようとした。知力と武力とを駆使しての総力戦が、この場所で行われた。当時のエネルギーのすべてが、ピンポイントでここに集められたのである。凄まじいエネルギーの磁場が生じていたことを思うと、私は興奮を禁じ得ない。

石田三成が陣を置いた笹尾山に登ってみた。

笹尾山は、関ヶ原の北西に位置する丘陵のような小山であるが、関ヶ原にいればどこからでもすぐにそれと知れる、絶好の位置にある。付近には、「大一大吉大万」と書かれた旗指物がきらめき、二重の矢来や馬防柵が復元されて臨場感を煽っている。

笹尾山・三成陣地 笹尾山 三成陣地

山上には物見台が設置され、「史蹟關ヶ原古戰場 石田三成陣地」、「笹尾山 石田三成陣所古趾」と彫られた古めかしい石碑が建てられている。観光客が後からあとからひっきりなしに登ってくる。関ヶ原の古戦場史跡の中でも三成が陣地としたここ笹尾山は、一番の人気スポットになっている。

笹尾山・三成陣地跡の石碑 笹尾山 三成陣地の石碑

物見台からの眺望は、実にすばらしかった。文字どおりに関ヶ原を一望の下に望むことができる。

笹尾山から関ヶ原中央部を望む 笹尾山から関ヶ原中央部を臨む

向かって右側には、ほぼ一列に西軍の諸将が陣を並べていたのだろう。手前の低い丘辺(あた)りには島津義弘と小西行長らが、その向こう側の小高い丸い山の手前側に宇喜多秀家、山の上には大谷吉継が陣を構えていたものと思われる。以上が鶴の左翼の陣形である。

そして遠く離れたなだらかな山容を見せる松尾山には、右翼の要である小早川秀秋が陣を据えていた。

笹尾山から松尾山方面を望む 笹尾山から松尾山方面を臨む

朝霧が次第に晴れていくに従い、味方の旗印が整然とはためくなかで、西軍の水をも漏らさぬ完璧な陣構えが三成には手に取るように見て取れたに違いない。

一方目を関ヶ原の中央に転じてみると、西軍の左翼に東軍の諸将が挑みかかっている様子を見ることができた。

手前の三成に近い方から、黒田長政、細川忠興、田中吉政らの諸隊が続き、さらにその先には藤堂高虎、福島正則らが宇喜多秀家と交戦している様が窺えた。

家康は、当初はかなり遠方の桃配山に陣を置き、家康らしい慎重な態度で戦いの趨勢を見極めようとしていた。

笹尾山の三成の陣からは、これら関ヶ原で行われている戦闘のすべてが、手に取るように見渡せたにちがいない。三成が指揮を執ったその場所に実際に自分の身を置いてみると、そのことがよくわかる。

笹尾山のすぐ左前のところ、一面の田園の中にほんの数本だが緑の木々が生えた一角が見える。一本の白い旗指物が風に吹かれて揺れている。「決戦地」と呼ばれているこの場所こそが、関ヶ原の戦いにおける最大の激戦が繰り展げられた場所だという。三成の陣地まで、あとほんの僅かという位置である。

さらにそのもう少し先、木がこんもりと茂っている辺りが、「史蹟關ヶ原古戰場 徳川家康最後陣地」である。遠く桃配山にいた家康が戦いの進展とともに前進し、最後に陣を置いた場所と言われている。家康はこの場所で、戦勝の首実験を行った。

最終的には、三成と家康の距離が思っていた以上に近かったことがよくわかる。こんな目と鼻の先で両者が最後の鎬を削っていたということに、私は驚きを隠せなかった。

こんなはずではなかった。

ひとりごちた三成の目は虚ろだった。焦点の定まらない視線を前方に投げかけたまま、まばたきひとつしなかった。

三成には今の状態が正しく理解できなかった。正確に言うと、今の状態を受け入れることを、脳と体が拒絶していたということかもしれない。

まだ下界のそこここで戦闘が繰り展げられており、人々の叫び声や鉄砲のはじける音や馬の嘶きなどが聞こえてきたが、三成の耳には入らない。

音も視野もない不思議な三次元の空間のなかを、三成の意識は浮遊しながらさ迷っていた。

新しい国が、白い靄の向こう側に朧気に見えた。

これだ!

三成の目に一瞬だけ、新しい国家の像がくっきりと見えたような気がした。しかしその像は、どんどんと手の届かない向こう側へと遠のいていって、再び白い靄の支配する世界となった。

次の瞬間に、白い靄の世界が暗転して、今度は闇が支配する世界になった。真っ暗で何も見ることができない。三成は手を伸ばして何かを掴もうともがいた。

どこかから、声が聞こえてくる。誰かが何かを叫んでいる。やがてその声は、定まらなかった焦点が結ばれるように、一つの言葉となって三成の鼓膜を捉えた。

殿。敵が間近まで迫っております。もはや猶予の時はございません。お腹を召されるなら、今が潮時かと。我々が命に代えても時を稼ぎますので、早くお支度を。

三成は振り返らずに、じっと前方にある関ヶ原の方向を見詰めたまま、言った。

わしは、敗れたのだな。この期に及んでは致し方あるまい。最早これまでと覚悟を決めた。しかし、わしは腹は切らぬ。一軍の大将たる者は、そうそう簡単に腹を切ってはならぬものじゃ。わしは逃げる。可能性がゼロになるまでは生きて、再起を図ることこそが、真のもののふと言うものぞ。

たった6時間の戦いだった。天下の行方がこんなにも呆気なく決まってしまうものとは思ってもいなかった。

完膚無きまでに叩きのめされたにも拘わらず、しかし三成の気力は不思議と衰えてはいなかった。滝壺に落ちた水の流れは、しばらくは水中深くに沈み込むが、いつまでも水底に留まっているのではなくて、やがては上に向かう流れとなる。

三成は捲土重来を期した。そのためには、今、この関ヶ原の地で命を捨てることなどとてもできない。

三成は、全軍に退却の命令を出すと、自らも山を降りた。どこへ行くという当てはなかった。ただ、気がついてみたら、足が伊吹山の方向に向かっていた。この山を越えた向こう側まで行くことができれば、そこは三成の生まれ故郷である。三成は、必死の思いで、伊吹山の山中を奥深くへと分け入っていったのであった。

 

14.古橋(敗者・石田三成の最期を追う)

三成の洞窟を示す札

ずいぶんと多くの紙面を割いて石田三成の生涯を追ってきてしまった。こんなに長くなるとは私自身も思っていなかった。調べて行くうちに、あるいは三成の足跡を追って旧跡を訪ねていくうちに、いつしか三成の魅力に惹き込まれていったというのが正直な私の心情である。最後に三成の最期について触れて、総括としたい。

関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の麓を経由して、最後は単身で母方の故郷である木之本の古橋に向かった。樵(きこり)の姿に身をやつし、木の実などを食べながらの悲惨な逃亡だったという。茶畑で動けなくなっているところを地元の住人に助けられたりしながらの苦行であった。

そこまでして三成が「生」に拘ったのはなぜだったのだろうか?

武運なく、志空しくして戦いに敗れた侍大将は、潔く自らの命を絶つのが当時の慣行ではなかったのか。敗戦後の戦国武将として三成が取った行動は、極めて稀な行動であったと言わざるを得ない。

前著『井伊直弼と黒船物語』でその生涯を見てきた井伊直弼の最期の潔さと比べたら、まさに正反対の行動である。同じ湖北の地に輩出し、共に湖北の地を代表する人物でありながら、その対照性が非常に顕著であることが興味深い。

歴史に仮という言葉はあり得ないけれど、もしも井伊直弼が石田三成の立場であったならどうしていただろうか?直弼は間違いなく、関ヶ原の地において自決していたであろうと私は思う。

目を覆わんばかりの往生際の悪さである。

でも私は、三成の気持ちがわからないでもない。

彼の発想は、私たちのような現代の人間の発想と同じなのではないかと思う。命をけっして粗末にしない。潔さが正義なのではなく、命を軽く扱うことが美徳でもない。たとえ僅かであっても可能性があるのであれば、無駄に命を捨てることなく、最後の最後まで望みを諦めない。

生き恥を去らすことはみっともないことではあるけれど、大望のためであれば敢えて甘受する強い精神力。自らの名誉のためであったら、三成は関ヶ原において自決していただろうと私は思う。

自分の命への執着ではなくて、世の中を変えていきたい、変えなければならないという強い使命感。敢えて三成が選択した道は、むしろ茨の道であった。

散り残る紅葉は ことにいとおしき

秋の名残は こればかりぞと

あらためて、三成が詠んだ「残紅葉」の歌を思い出した。

先に私はこの歌を、三成の生への執念と書いた。三成生誕の地で見た時にはそう思えたこの凄まじい歌だが、三成の最期に及んで再びこの歌について考えてみると、また違った意味合いに見えてくるような気がする。

最後の一枚となって散り残っている真っ赤な紅葉の葉は、三成の命そのものではない。秋の陽光を浴びて輝く赤い紅葉の葉は、豊臣時代に三成が築こうとした新しい世の中への希望の光だったのではないだろうか?

理想の社会を創ることを目指して日々戦いだった三成の人生。やがて最後の一枚の葉が、静かに音もなく散っていく……。

三成は、徳川方の武将である田中吉政の手の者によって捕らわれた。吉政は、三成と同じ湖北地方(浅井郡宮部村・三川村)の出身者で、三成とは旧知の間柄であった。土地勘もあり、三成の行動を正確に予測しえた唯一の人物であったに違いない。

捕縛時の正確な状況は、諸説があってわからない。

古橋は、母方の故郷である。若き日に三成自身が法華寺三珠院にて修行を行っていた土地であったかもしれない。三成を守り匿おうとした人々が多数いた一方で、吉政に情報を密告した人間がいたということであろう。

三成が隠れ潜んでいたと言われている洞窟がある。

「大蛇(おとち)の洞穴」と呼ばれている洞窟が、それだ。己高庵から急峻な山道を1時間も歩かないと辿り着くことができないのだそうだ。冬場は深い雪に埋もれていて、近づくことさえままならないという深い山あいのなかにある。

途中の道が険しくて、また自力での洞窟内への出入は困難だとも聞かされて、私は洞窟を訪ねることを躊躇せざるを得なかった。内部には夥しい数の蝙蝠(こうもり)が棲息しているとも言われている。

どうしたものかと思案していたところに、地元の人たちが案内をしてくれるというツアーが企画されていることを知った。長浜市・彦根市・東近江市の旅行業協会の若手会員と行政とがタイアップして立ち上げた「近江屋ツアーセンター」のツアーである。

私にとっては、渡りに船だった。

雪が融けるのを待って、私は大蛇の洞穴を巡るツアーに参加した。独力で訪れることが極めて難しい歴史的な旧跡を、確かな知識と経験を持つ地元の有識者に案内してもらえる企画は、実にありがたい。

いくら昨今の石田三成ブームとは言え、こんな辺境の地を自分の足で訪ねゆくツアーなんて、よほどの暇人かオタクでない限りは参加しないのではないかと思っていたのだが、意外と多くの参加者がいることにまずは驚いた。

前日まで降り続いた雨で、催行が直前まで決まらなかった。連日の雪や雨により洞窟までの山道がぬかるみと化していると言うのだ。それでも私は行きたかった。このチャンスを逃したら次はいつ行けるかわからないので、たとえ泥まみれになろうとも、私はどうしてもこの機会に大蛇の洞穴に行きたかった。

私の祈りが通じたのか前日までの雨が上がって、青空が顔を覗かせる天気となった。米原駅で集合した私たちは、バスでまっすぐに木之本町古橋に向かった。古橋は、三成の母方の故郷であることは、先に書いた。

己(こ)高庵(こうあん)でバスを降りた私たち一行は、現地ガイドを務めてくれるボランティアの方と一緒に、大蛇の洞穴に向かった。

ここ古橋は、「近江のまほろば」と呼ばれているのだそうだ。

案内板によると、「まほろば」とはすぐれたよい場所を示す「マホラ」という言葉から来ていて、山や丘に囲まれた中央部のすぐれた良い所の意だそうだ。マホラな場所がマホラ場であり、転化して「まほろば」となった。

そう言われてみるとたしかに、己高庵がある場所は三方を山に囲まれ南側に開けた平地の中央にあり、しっとりと心が落ち着く風景である。古くから大陸文化が伝来した場所のようだ。石器時代の遺跡が出土し、6世紀末から7世紀前半にかけて鉄を生産した痕跡を残す遺跡が確認されている。奈良時代には多くの寺院が建立され、平安期にかけて全盛期を迎えた鶏足寺、飯福寺、法華寺など仏教文化の中心地でもあった。

これらの寺々のことは、いずれこの作品の中で書くことになるであろうから、ここでの紹介はこのくらいにして、歩を先に進めることにしたい。

大蛇の洞穴までの道程の前半は、緩やかな登り坂が続く林道である。

洞窟への登り道  洞窟への登り道

険しい道を行くと聞いていたのでやや拍子抜けの感じだったが、美しい規則性をもって左右に立ち並ぶ杉の木立を見上げ、時折山肌から流れ落ちてくる清水の清らかな流れに見入り、右手に流れる谷川のせせらぎの音に耳を傾ける。

清らかな水の流れ 清らかな水の流れ

三成が隠れていた洞窟を訪ねるという目的を抜きにして単に風景を楽しむための山歩きとして考えても、心が休まる楽しい散策のひとときとなること間違いない。

常に水の存在を五感に感じながら歩いて行く風景は、なぜか心がしっとりと落ち着く。白い水飛沫(みずしぶき)を盛んに上げながら流れていく谷川の水を見ていると、心までもが洗われるように爽やかな気持ちに包まれてくる。

道端にはショウジョウバカマがピンク色の可憐な花を付けそこここに咲いている。羊歯(しだ)の緑が水に濡れて瑞々(みずみず)しく輝いて見える。こんな気持ちのいい散歩道を歩いていることが、私にはたまらなく爽快に思えた。

ショウジョウバカマ ショウジョウバカマ

30分近く歩いただろうか?私たちは道の左手に設置された1枚の案内板の前で立ち止まった。「大蛇(おとち)(おろち~オトチ)の岩窟と石灰工場跡」と書かれた案内板である。せっかくなので全文を引用することにする。

関ヶ原の合戦に敗れた西軍の将石田三成は少年時代の師を訪ねて法華寺三珠院へ逃れ

来て、旧知の友人余次郎によって一時匿われたと伝えられるオトチの岩窟である。(現在

一部の岩が崩れ土砂が入り込んでいるが、かつては二五㎡前後の岩窟であった)標高約

四百米の岩窟まで約二㎞あるが、その手前は石灰岩地帯であり、江戸時代末期から明治

中期まで石灰岩を焼いた高さ三~四㍍の焼き窯三基が残っている。またすぐ近くには近

年まで風穴があって地下遠く水の流れる音と共に冷風が吹き上げていたが、現在は危険

防止のため入口を砕石、土砂なので閉鎖している。

いよいよここからが本格的な山登りの始まりである。

いきなり急角度となった狭い山道に面食らう。右下に谷川の流れを見下ろしながら、必死の思いで私たちは坂道を登って行った。幸いにして道はぬかるんではおらず、昨日までの雨の影響はほとんど感じられない。

三成が洞窟に隠れていた間、村の人たちはこの道を通って三成に食料を送り届けたという。一往復するだけでも苦しい山道を、わざわざ三成のために何度も往復したのだろう。三成に対する村人たちの尊敬と愛情が痛いほど胸に伝わってくる。

途中、地面に30㎝程度の地面が削り取られたような穴があった。ガイドさんの話によると、イノシシの足跡だそうだ。私たちはけもの道のようなところを歩いているということなのだと納得した。

しばらく進むと、明らかに人工の工作物である石垣が積まれた広場に出た。ここが、先程の案内板にあった石灰岩の加工場跡なのあろう。野面積みの石垣は苔むして、崩れかけているものも多い。長い年月の間に訪れる人も稀となり、次第に風化し滅びていく過程の光景を見る思いがした。

この辺り一帯の岩は石灰岩でできているため、全体的に白っぽい灰色の石が目立つ。石灰岩は水に溶けやすいから、長い年月をかけて少しずつ岩が融けて空間が拡がっていく。大蛇の洞穴と呼ばれる洞窟も、きっとそのような成り立ちでできた地中の空間なのではないか。

石灰岩の加工場を過ぎると、道は再び急角度の登り坂となる。

洞窟への登り道2 洞窟への登り道

途中、どこから湧き出たものか水でぬかるみ、大いに登るのに難儀した箇所が一ヶ所だけあった。しかし三成もこの道を通ったのであろうと思うと、いとおしさのみが先に立ち、一刻も早く洞窟を見たい一心から、私は構わずに道を急いだ。

この山の一部は、今日私たちを大蛇の洞穴まで案内してくれているボランティアガイドさんの所有地だと聞いて驚いた。山頂と二つの谷とで囲まれた三角形の面積を一人の持ち分として、複数の所有者で山を共有しているのだそうだ。

子供のころから慣れ親しんできた山をとても慈しみ、まるで我が子を見るような眼差しで木々を見ている姿がとても印象的だった。私にとってはただ険しいだけの、単なる通り道でしかないこの山道が、彼にとっては木の一本一本までを識別している自分の庭の一部なのだということを強く感じた。

先程まで右手を流れていた谷川は、いつしか姿を消してしまった。ガイドさんの言によると、おそらくは私たちが立っている地面の下は大きな空洞となっていて、山に降った雨はすぐに沁み込んでその空間に集められ、それが山の中腹から谷川となって流れ出ずるのだろうということだった。

滑ったり転びかけたりしながら登って来た山も、次第に上の方が見通せるようになってきた。ふと木々の合間から遠くを眺めると、琵琶湖の湖水が平らな湖面を覗かせているのが見えた。随分と高いところまで登って来てしまった。

私たちはやっと目的地である洞窟の入口まで辿り着いた。

傍らの細い木の幹に申し訳程度に「石田三成の隠岩窟」と手書きで書かれた札が括り付けられているのが、唯一の表示である。

三成の洞窟を示す札 三成の岩窟を示す札

登り口の案内板にも書かれていたが、土砂の流入や陥没、それに岩の落石などにより、洞窟の形状そのものは三成が潜んでいた当時とは異なってしまっているらしい。

しかし洞窟は自然のものなのだから、自然の力によって形が変わってしまうことはやむを得ないものと考える。たとえ多少形が変わってしまったとしても、三成が同じこの山道を歩いて登って来て、この洞窟に潜んでいたということに私は限りない感動を覚えている。

洞窟の入口にはいまだに結構な量の残雪が残っている。大きな岩と岩の間から僅かに顔を覗かせている空間から中に入るしかなさそうだ。私は意を決してその僅かな岩と岩とでできた開口部へと降りていった。

洞窟の全景1 岩窟全景 with 残雪

ガイドさんが先に降りて、ロープを据え付けてくれた。まさに命の綱である。その綱を手に握りしめながら、私はうつ伏せで穴に入って行った。

穴の中にはアルミの梯子が据え付けられていて大いに助かったが、一番狭いところは体がかろうじて入るくらいの高さの余裕しかない。お腹を下の岩に摺り付けるくらいにしてやっと、背中が上の岩の天井すれすれを通過するような際どさだった。

恐るおそる洞窟の底に足を着ける。

入口の狭さに比較すると、内部は思ったよりも広かった。20数人は一度に入ったことがあるとの話をガイドさんから聞いて驚いた。中は真っ暗で、ひんやりとして澱んだ空気が頬を刺す。こんなところにあの三成がじっと潜んでいたのかと思うと、いたわしくて気の毒で、涙を禁じ得ない。

ガイドさんが持って来てくれた懐中電灯で中を照らすと、なるほど蝙蝠(こうもり)が寄り集まって天井からぶら下がっているのが見えた。前評判どおりである。今は冬だから冬眠をしているのだそうだ。こんなに至近距離で蝙蝠を見たことはなかったし、私たちが中に入って来たことにより蝙蝠が冬眠から目覚めて洞窟内を飛び回りでもしたらどうしようと思って不安だったが、幸いにして蝙蝠たちは静かに眠り続けてくれていた。

洞窟内のコウモリ 冬眠中のこうもり

日本の国土のなかに、こんな不思議な空間があったということに、私は非常に驚いている。この洞窟の中に隠れている限りは、どうやっても三成は見つかりっこないとしか私には思えなかった。

そんな疑問をガイドさんにぶつけてみると、ガイドさんは大きく首を横に振って次のように答えた。

「三成は、この洞窟で捕えられたのではありません。三成がこの洞窟に隠れていたのはせいぜい3日間ほどのことで、彼は古橋の村に戻ってそこで捕まったのです。」

三成が捕獲された時の様子が実は後世に伝わっていない。それは、古橋の人々が徳川氏からの追求を恐れて、何も文書としての記録を残さなかったか、あるいは残されていた文書類をことごとく廃棄したからではないか、とガイドさんは言う。

肯(むべ)なるかな、である。一村皆殺しなど平気で行われていたような戦国時代の世のことであるから、村の存続のために村民が一致団結して、止むにやまれぬ思いで行ったことではないのだろうか。

文書として残らない村の記憶は、村民の間に口伝で後裔たちに伝えられていった。その過程で記憶間違いも生じたかもしれないし、多少の脚色が加えられて伝わって行ったかもしれない。

様々な異説があって真実が定まらない背景には、そのような村の事情があったのではないかと推測される。

そうであっても、古橋の人たちは終始三成の味方だった。ある意味、命を懸けて三成を匿った。

先程も書いたとおりに、村人たちは洞窟まで30分はかかる険しい山道を、三成のために密かに食事を運び続けたと伝えられている。見つかれば、三成はもちろんのこと、自分の命もない。そんな危険を冒してまでも、村人たちは三成を守り続けたのである。

実際に行ってみるとよくわかるのだが、こんな所に隠れていれば、絶対に見つかるようなことはない洞穴である。いくら土地勘のある田中吉政の家来であっても、自力でこの洞窟を探し当てることはほぼ不可能であるように私には思える。

ではどうして三成は見つかったのだろうか?

この村出身のガイドさんは自信を持って、先程書いたように三成はこの洞窟を出て古橋で捕獲されたと断言した。捕獲された場所もわかっているのだと言う。

三成はこの洞窟にはわずか3日間潜んだ後に古橋に戻り、村人たちに対して三成の存在を田中吉政に伝えるよう指図をしたというのが、古橋の人たちに伝わる三成捕縛時の状況である。

なぜ三成は安全と思われる洞窟を後にしたのだろうか?

一つには、村人たちが三成のことを匿っていたことが徳川方に知れて村全体に類が及ぶことを恐れての行動だったと彼らは言う。

そしてもう一つには、三成の首に懸かっていた莫大な懸賞金のことを聞き及び、匿ってもらったお礼として村の人たちに懸賞金を得させるためであったとも言われている。少なくとも古橋の人たちは今でも、そのように信じている。

すなわち、三成は自らの意思であの洞窟を出て、そして縛についたということが彼らの結論だ。

あれほど崇高な志を掲げ、強い信念を持って逃亡生活を続けてきた三成が、ここまで耐え忍んできた努力を無にするような行為をしたという説を、私はどうしても素直に受け入れることはできない。

処刑場に向かう道で喉の渇きを訴えた際に、差し出された干し柿を見て、胆の毒だからと言って食べなかったという伝説の残る三成である。死の直前まで生きようとしていた男が、簡単に自ら投降したしたという地元の言い伝えを、感覚的に私は受け入れられないでいる。

心情的には、古橋の人々の真心を込めた待遇に深く感じ入っていたであろうことは疑う余地のないことであると思う。これ以上彼らの厚意に甘えてしまって、彼らの立場を貶めてしまってはいけないとの責任を強く感じていたであろうことも想像に難くない。

私の気持ちは、三成が自ら洞窟を出てきたという地元の人たちが信じている説よりは、もう一つの可能性として、村の中に裏切り者がいて田中吉政の手の者に密告したという密告説の方にやや傾いているのだが、いずれにしても正確な史料が残されていない以上は、真実は闇の中ということになってしまう。

それにしても、話には聞いていたけれど、想像していた以上に凄まじい洞窟だった。

辿り着くまでの山中の険しさも想像を遥かに超えていた。洞窟の中に入るのも、まさに命懸けの秘境探検隊になったような気分だった。

このような素敵なツアーを企画してくれた近江屋ツアーセンターと、地元のボランティアガイドを務めてくださったガイドさんには、本当に感謝をしたいと思う。

湖北地方に住んでいても、大蛇の洞穴に行ったことがあるという方はごく少数であると聞いた。このようなツアーを通じて、私と同じような体験をされる方が一人でも多く現れることを願ってやまない。

大蛇の洞穴は、関ヶ原後の三成の行動を語るうえでのいくつかある説のうちの一つの説に過ぎない。しかし実際に大蛇の洞穴を訪れた人なら誰でも、文句なしにこの説を信じるであろうことは請け合いだ。

私はなんとなく少しだけ三成に近付けたような気がして、熱い何かを胸に抱きながら、今度はきつい下り坂となる元来た道を慎重な足取りで降りていった。

洞窟付近では消えていたせせらぎの音がいつの間にか復活して、折しも逆行となる陽光を反射してキラキラと輝いていた。実に長閑で、清々しい山里の風景であった。

9月21日に田中吉政の手の者によって捕縛された三成は、25日に大津に滞陣していた家康のもとに送還された。家康は三成を厚くもてなしたという。単身で捕えられ、すでに籠の鳥となっている三成のことを、家康は何も恐れることはなかった。余裕を持って、あるいは優越感を持って遇したにすぎない。

一歩間違えば、反対の立場に立っていたかもしれないなどとは、微塵も思わなかったに違いない。勝者としての全幅の余裕をもって、家康は三成を扱った。

26日には家康とともに大坂入りをして、大坂、堺、京都の市中を引き回された後、10月1日に三成は京都の六条河原にて処刑された。41歳の波乱に満ちた短い生涯であった。

勝負は時の運とよく言われる。勝てば官軍という言葉もある。これらの言葉は、関ヶ原の戦いにおける三成のことを想う時、まさにぴったりと当てはまる。三成が勝っていた可能性だって十分にあった。いやむしろ、序盤戦において有利に戦いを運んでいたのは三成の方だった。

あの寝返りさえなければ、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

しかし一方で、小早川秀秋をあそこで寝返らせたのも家康の策略であり、家康の実力でもあるのだ。武力で戦うことのみが戦(いくさ)ではない。人の心を捉えること、そういうことも全部ひっくるめて、相手よりも勝(まさ)った者のみが歴史において勝者の称号を与えられる。

信義で動く人間は美しく、策略を弄する人間は汚い。日本人の倫理観であると思う。しかしながら、美しい者が常に勝者となるとは限らないのが、歴史におけるまた一方での真実でもある。誰も小早川秀秋が取った行動を非難することはできない。小早川秀秋にあのような行動を取らせた家康のことも、非難することはできない。

戦いにおいて敗れた男は、ただ歴史の舞台から去っていくのみである。

そして敗れた者の悲しさは、後世に自らの正当性を主張することができないことである。歴史は、真実を記録したものではない。勝者が、勝者の論理のみを記録したものである。今の世のスポーツとは違うので、敗者のことを思いやり、敗者を讃えることなどあり得ない。

むしろ、勝者が自らの正当性を主張するために、敗者を必要以上に悪者扱いするのが世の常である。後世の人たちからの批判や非難を恐れて、勝者は徹底的に敗者を悪人にしたててゆく。

何も知らない後の世を生きる私たちは、記録として残された歴史を真実であると信じ込み、それを常識と思い込む。三成の足跡を追って歩き続けてきた私は今、そういった歴史の恣意性を痛いほどに感じている。

歴史には表と裏の二面性があるものだから、私たちはよくよく慎重にその両面を理解して、自らの判断を下さなければならないのだと思う。

家康によって作られた三成像をまったく否定するつもりはないし、それはそれで間違っていると思うけれど、家康が故意に墨を塗った部分を丹念に消し去っていくと、いつも見ていた絵が、思ってもみなかった別の絵に変わっていくことがわかるだろう。

歴史を探求するということは、そういう作業を根気よく積み重ねていくことなのかもしれない。

湖北における三成を巡る一連の旅で私は、新たな三成像を探し当て、そして三成の魂に触れることができたような気がした。最後に改めて三成の辞世の歌をここに繰り返して、三成の締めくくりとしたい。

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と

ともに消えゆく わが身なりけり

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琵琶湖

琵琶湖

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滋賀県と聞いて誰もが一番に頭に思い浮かべるのが、琵琶湖ではないだろうか?

滋賀県の面積の半分以上が琵琶湖だと思っている人が意外と多いことにも驚かされる。実際には5分の1程度だと言うと、今度は皆が驚く。

それくらい、私たちの意識のなかでは滋賀県と琵琶湖とは切っても切れない関係にある。

『湖北残照』を書き始めてからずっと、琵琶湖について書かないことに私自身わだかまりを感じていた。部分的に触れた場面は結構あったけれど、一つの章として真正面から琵琶湖と対峙することをしてこなかった。

してこなかったと言うよりも、私にとって琵琶湖があまりにも大きな存在であったがために、琵琶湖を捉えきることができなかったという表現のほうが正しい。

今でも、そうである。琵琶湖のどこから手を付けていけばいいか、わからない。まったくの手探り状態ではあるが、この『湖北残照 拾遺』の最後を飾る章として、私はどうしても琵琶湖について書かなければならないと思った。

琵琶湖を書かないと、『湖北残照』は終われない。私は最後の力と勇気とを振り絞って、『湖北残照』の集大成として、琵琶湖に挑戦してみたいと思っている。

雲間から差す陽光DSCN7416

前の章で私は、伊吹山の生い立ちは約3億年前に遡ると書いた。

諸説あるのだろうが、琵琶湖は伊吹山よりもずっと若くて、約400万年前に誕生したと言われている。

それでも湖の世界では極めて古い部類に入り、バイカル湖、カスピ海に次いで琵琶湖は世界で3番目に古い湖であるとされている。一般に湖の寿命は短くて、普通は10万年以内であるとのことなので、琵琶湖がいかに古い湖であるかということが理解されると思う。

興味深いことには、誕生して間もない頃の琵琶湖は今の位置よりもずっと南側にあって、現在で言うと三重県の伊賀盆地付近にあった大山田湖と呼ばれる湖だっと言う。

滋賀県のシンボルのように思われている琵琶湖だが、実は三重県生まれだったと聞くと、ちょっと複雑な気持ちになる。

その後、次第に北西に移動を続け、約300万年前に琵琶湖はようやく滋賀県の領域に入ってくる。しかしその位置は、まだ日野から甲賀にかけての地域であり、今の琵琶湖の姿からは程遠い。

この状態が約80万年近くも続いた後、やがて地殻変動により南側の伊賀盆地が隆起し、一方で北側の近江盆地が沈降したため、湖は少しずつ北へと移動していった。その時期が今からおよそ200万年前くらいであったと想像されている。

さらに南側で鈴鹿山脈の隆起が続いた結果、100万年前頃には当初の位置にあった湖が姿を消し、琵琶湖は完全に滋賀県のものとなった。

30~40万年前になると南の鈴鹿山脈や西の比良山地がさらに隆起し、琵琶湖は一時、今の半分くらいの大きさにまで縮小するが、その後再び土地が沈降して、ほぼ現在の大きさと形になったものと推定されている。

ずいぶんといろいろな推移を経て現在に至っている琵琶湖ではあるが、縄文時代が始まったのが今から約1万6千年前であると言われているから、古代の人たちが目にしていた琵琶湖の姿も今とほとんど変わらない姿であったものと想像される。

琵琶湖の歴史に比べたら、人類の歴史などはほんの瞬間程度の僅かなものでしかない。

人間から見ると、琵琶湖は昔も今も常に変わらない姿で私たちの傍らに存在し続けているということになる。

以上が科学的な観点から見た琵琶湖の生い立ちであるが、民間信仰としておもしろい言い伝えがある。

昔、ダイダラボッチという大男がいて、近江の国の土を掘ってその土を駿河の国に盛り上げた。ダイダラボッチという大男が何のためにそんなことをしたのか、どうして近江の国の土を掘って駿河の国に盛り上げたのかはわからないが、こうして近江の国に出来たのが琵琶湖で、駿河の国に出来たのが富士山になったのだそうだ。

俄かには信じがたい話ではあるが、この伝説が縁となり、滋賀県の近江八幡市と静岡県の富士宮市とが昭和43年(1968)に夫婦都市の提携を締結している。姉妹都市でなく夫婦都市であるところが、珍しい。

両市の間では、この夫婦都市が締結される以前の昭和32年(1957)から毎年、琵琶湖で採取した水を富士山頂まで運び注ぐ、という儀式を行っている。

少しだけ夢のない話をすると、琵琶湖の体積はおおよそ30立方キロメートルなのに対し富士山の体積は1400立方キロメートルなので、ちょっと帳尻が合わない気がする。

それに、琵琶湖のほかに浜名湖にも同様の伝説が伝わっているのだそうだ。

高い山と大きな湖の成り立ちの起源を結びつけて考える素朴な民間信仰が昔からあったということなのだろうと思う。

琵琶湖の夕景DSCN6942

さて、この琵琶湖であるが、昔から琵琶湖と呼ばれていたわけではない。以前は何と呼ばれていて、そしてどうして琵琶湖と呼ばれるに至ったのであろうか?

琵琶湖は、古くは「淡海」と呼ばれていた。

古代の都の人たちにとって琵琶湖は、大きな淡水の海として認識されていたということだろう。淡海と書いて、「あはうみ」と読む。このあはうみが詰まって「あふみ」となり、現代に至って「おうみ」と読まれるようになったのだという。

京の都から見るともう一つ、琵琶湖の向こう側に大きな淡海(・・)がある。今の静岡県にある浜名湖がそれだ。琵琶湖と浜名湖。この2つの大きな湖を区別するために古代の人々は前者を「近淡海」、後者を「遠淡海」と呼んだ。

「ちかつあはうみ」と「とおつあはうみ」と読む。

やがて8世紀に至り、律令の定めるところにより国名を好字2文字で表すこととなり、近淡海を「近江」、遠淡海を「遠江」と表記することとした。

都に近い琵琶湖の方は、「近」という漢字が充てられているが「ちかつあはうみ」ではなく単に「あはうみ」(=おうみ)と読み、遠くにある浜名湖は漢字のままに「とおつあはうみ」(=とおとうみ)と読んだ。

近江も遠江も、湖の名前が国名の由来になっていることがわかる。

もう一つ、琵琶湖には「鳰海(におのうみ)」という呼称がある。

「鳰」とは、カイツブリという鳥の別称だ。カイツブリとは、カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属の鳥で、30cm弱の大きさの黒褐色をした水鳥である。滋賀県の県鳥にもなっているカイツブリは、まさに琵琶湖を代表する鳥であると言ってもいい。

漢字で(水に)入る鳥と書くように潜水が得意で、15秒から30秒近くも水に潜り魚などの獲物を獲るという。

この鳰が棲む湖ということで鳰海と呼ばれるようになったのだろう。

琵琶湖が今の「琵琶湖」という名前で呼ばれるようになったのは、比較的最近のことである。

湖の形が「琵琶の形に似たり」という表現が文字として残されているのは、14世紀に著された『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』という仏教書が最初のようである。

『渓嵐拾葉集』は、比叡山延暦寺の学僧である光宗(こうしゅう)(1276‐1350)が書いた300巻にも及ぶ仏教教学の著述集で、天台宗の教義についてのみならず、政治や経済や文化についてなど幅広い視野で書かれた書物である。一部散逸しており、現在は113巻のみが現存している。

光宗は比叡山から眺めた湖の風景が楽器の琵琶の形に似ていると言っているのだろうが、比叡山からは湖の全景が眺められるわけではない。比叡山から眺められる琵琶湖の姿から全体を想像して琵琶の形に似ていると言ったのか、それとも琵琶湖の周囲を自分の足で歩いてみて琵琶の形に似ているとの結論を得たものか、詳しいことはわからない。

湖の名前として「琵琶湖」という名前が明記されているのは、16世紀初頭に京都の詩僧である景徐周鱗(けいじょしゅうりん)(? – 1518)が湖を訪れた際に詠んだ漢詩集「湖上八景」が初出とされている。

もっともこの頃はまだ一部の知識人の間でそう呼ばれていたにすぎず、琵琶湖という名称が一般的に湖の名称として市民権を得るに至るのは、江戸時代も中期以降になってのことである。

元禄2年(1689)に『養生訓』の著述で有名な儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)(1630 – 1714)が日記のなかで琵琶湖全体の地形について記述し、「故に琵琶湖と言う」と記した頃以降、定着していったようである。

これらの状況を勘案するに、琵琶湖の名の起こりは、湖の形が楽器の琵琶に似ていることから琵琶湖と呼ばれるに至った、というのが一般的に言われている琵琶湖の名称の起源のようである。加えて、琵琶は湖に浮かぶ聖なる島である竹生島に祀られている弁才天が手にしている楽器でもあり、この弁才天信仰とも深く結びついて琵琶湖という名称が一般化したのかもしれない。

琵琶湖に浮かぶ竹生島DSCN0980

ところで、琵琶湖の河川法上の正式名称は、「一級河川琵琶湖」であると聞いて驚いた。

琵琶湖が「川」であると言われても大いに違和感があるのだが、琵琶湖から流れ出た宇治川がやがて淀川となり大阪湾に注ぎ込むという大きな絵図を考えると、琵琶湖も「川」の一部であるという考え方も成り立つのかもしれない。

しかしながら私は、琵琶湖を川と定義するお役人の感覚と理論とに哀しい気持ちを抱かざるを得ない。

海と捉えるのならばまだ理解ができるけれど、琵琶湖はやっぱり湖であって川ではない、とついつい思ってしまう。

 

琵琶湖が歌枕として読み込まれている歌や俳句をランダムに抜き出してみた。人麻呂や黒人以外にも『万葉集』にはたくさんの琵琶湖を詠み込んだ歌が掲載されているが、その一部は前著『湖北残照 文化篇』に紹介しているのでここでは繰り返さない。

 

柿本人麻呂 淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ『万葉集』

高市黒人 磯の崎漕ぎ廻(た)み行けば近江の海八十の港に鶴さはに鳴く『万葉集』

紫式部 しなてるやにほの湖に漕ぐ船の真帆ならねども相見しものを『源氏物語』

西行 にほてるや凪ぎたる朝に見わたせばこぎ行く跡の浪だにもなし『拾玉集』*

式子内親王 鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな『新勅撰集』

藤原家隆 鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり『新古今集』

藤原定家 鳰のうみやけふより春にあふさかの山もかすみて浦風ぞ吹く

藤原定家 あとふかきわがたつそまにすぎふりてながめすずしきにほの湖

藤原定家 さざ浪や鳰の浦風ゆめ絶えて夜わたるつきにあきのふなびと

藤原定家 さざ浪やにほのみづうみのあけがたに霧隠れ行くおきの釣舟

藤原定家 にほのうみやしたひてこほる秋の月みがく浪間をくだす柴舟

藤原定家 鳰の海のあさなゆふなに眺めしてよるべ渚の名にやくちなむ

藤原定家 鳰のうみやみぎはの外のくさ木までみるめなぎさの雪の月影

藤原定家 鳰のうみや氷をてらす冬の月なみにますみのかがみをぞしく

俊成女(むすめ) 鳰の海や秋の夜わたるあまを船月にのりてや浦つたふらん『玉葉集』

源実朝 比良の山やま風さむきからさきのにほのみづうみ月ぞこほれる『金槐和歌集』

良寛 にほの海照る月かげの隈なくば八つの名所一目にも見ん

芭蕉 四方より花吹入てにほの波

惟然(いぜん) 蜻蛉や日は入ながら鳰のうみ

一茶 夕雉の走り留や鳰の海

虚子 鳰がゐて鳰の海とは昔より

風生(ふうせい) 家並欠け葱畑の上に鳰の湖

青畝(せいほ) 友鳰の走るかぎりの鳰の湖

静塔(せいとう) 鳰のうみ青波を鴨ついばめり

 

* 『拾玉集』第四冊に、西行がその晩年に比叡山無動寺の慈円を訪れ、帰ろうとする翌

早朝、大乗院の放出から眼下の琵琶湖を見渡して詠んだ歌と、それに慈円が唱和し

たという返歌が、次のように収録されている。

円位上人無動寺へのぼりて、大乗院のはなちでにうみをみやりて

にほてるやなぎたる朝に見渡せばこぎ行く跡の浪だにもなし

かへりなんとてあしたの事にてほどもありしに、今は歌と申ことは思たえたれど、

結句をばこれにてこそつかうまつるべかりけれとてよみたりしかば、ただにすぎが

たくて和し侍し

ほのぐとあふみのうみをこぐ舟の跡なきかたに行こうかな

(五四二二・五四二三)

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人麻呂も西行も定家も芭蕉も、琵琶湖を題材歌枕とした作品を世に残している。これらの歌や俳句を見ていくと、浪 舟 月 花 鳥 霞 霧などの言葉がキーワードとして登場していることがわかる。

そこには、琵琶湖が私たちの生活や意識とどのように関係し位置づけられてきたのかが窺われて興味深い。

四季の移ろいのなかで、琵琶湖は私たちに様々な表情を見せてきた。

鏡の面のように穏やかな湖面の日もあれば、荒れ狂う浪が激しく湖岸に打ち寄せる日もある。霧がたったり霞がたなびく幻想的な光景もあれば、月の光が妖しく湖面に反射する夜もある。鳥が鳴き、湖岸に花が咲き、雪が降る。

豊かな自然を背景にして、琵琶湖は様々な場面で私たちに接し、私たちの心に語りかけてくる。

そこには、自然の中で私たちの生活と一体化した琵琶湖の姿を見ることができる。

また、琵琶湖の景色を岸から眺める歌も多いけれど、舟の上から目にする湖の風景であったり、岸から見る湖を漕ぎ行く舟の姿であったり、琵琶湖と接する人々の生活にとって舟が重要な役割を果たしていたことがよくわかる。

当時の琵琶湖の交通は舟による海上交通が主流であり、琵琶湖に住む人々にとっては今以上に舟が身近な存在であったことが想像される。

 

先の「菅浦」の章でも触れたが、近代に至るまでの琵琶湖に面する小集落の表玄関は、陸路による村の入口ではなく、海路による村の港だったと考えた方がいいかもしれない。

道路や鉄道が発達する以前の琵琶湖周辺の村々を巡る交通手段の中心はむしろ舟であり、歩いて村を巡るということの方があるいは少数派であったかもしれない。

特に湖北地方は山が湖のすぐ際まで迫り、非常に険しい地形になっている。細い道を切り拓くことはできたかもしれないが、広い街道を通すには多大な労力が必要だったことだろう。

今のような工作機械などがなかった時代には、よほどの大きな権力が介在しない限りは大規模な道を作ることは困難だったと想像される。

ところが舟が一艘あれば、湖が凪いでいる時なら琵琶湖沿岸のどの村へだって漕ぎ行くことができる。

歩いたり馬で行く場合は運べる荷物の量にも限りがあるが、舟だったら格段に大きな量の荷物を運ぶことができる。

今の私たちが考えている以上に、琵琶湖周辺において昔は舟が重要な役割を担っていたと考えた方が素直なように思える。

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高島の あどのみなとを 漕ぎ過ぎて

塩津菅浦 今かこぐらむ

既掲の菅浦を詠み込んだ歌のように、『万葉集』にも湖上を舟で移動する様子が詠まれている歌が散見される。そんな太古の昔から、人々は舟で湖上を移動していたことがわかる。

琵琶湖の湖上輸送手段を考えるとき、まず頭に浮かぶのが丸子船(まるこぶね)である。

丸子船は、琵琶湖に特有の船の形態で、喫水が浅く比較的平らな舟底、舟の左右に取り付けられた「おも木」と呼ばれる大木を二つ割にした木材、「かさぎ」と呼ばれる船尾に取り付けられた鳥居のような形状の木材、船の後部に据え付けられた大きな帆などが特徴的な船である。

比較的水深が浅く、湖であるために高い波がたちにくいという琵琶湖の自然条件を考慮して、少しずつ改良が加えられていった船の形態であると思われる。

原初的な舟は、切り倒した丸太を使用した「丸太(丸木)船」だった。やがて二つ割にした丸太をくり抜いた「刳(く)り舟」が使われるようになっていった。『万葉集』に登場するような舟は、そのような原始的形態の小舟だったのではないだろうか。

丸子船は、刳り舟を継ぎ合わせ棚板などを渡した準構造船と呼ばれる構造の船で、いつ頃から出現したものであるかははっきりしないが、最盛期の江戸時代中期(元禄時代)には1350隻もの船が琵琶湖の上を行き来するほどに、琵琶湖水運において重要な役割を果たす船として活躍していた。

古来、日本海で採れた海産物や北陸諸国の産物などは、一部には越前鯖街道の名で知られる湖西の街道を通って陸路で京まで運ばれていたものの、大半は敦賀から深坂峠を越えて琵琶湖北端の塩津まで陸路で運ばれ、塩津港から湖上を通って大津や堅田にもたらされ京に入るのが一般的なルートであった。

北(塩津)から南(大津・堅田)への荷を「下り荷」と言い、主にニシンや海藻類、それに生魚や馬の鞍木などがその主な荷物であった。

反対に南から北へは、飴・醤油・酒・タバコなどの食料品に綿や着物や反物などの繊維製品が「上り荷」として運ばれたという。

普通は京に向かうのが上りであり、京から地方に向かうのが下りであるのだが、琵琶湖の湖上輸送においては方角によって上り・下りを区分しているのが興味深い。

今も書いた通り、日本海や北陸方面からの産物は、敦賀に集積され陸路で琵琶湖北端の塩津まで運ばれそこから船で大津に向かう。

琵琶湖から敦賀まで水路が続いていたなら、陸路と水路を併用しなくて済む。

実はこのような地理に目をつけ、約1000年も前に敦賀と塩津の間を運河で結ぼうと考えた人物がいた。

平清盛である。

清盛は、息子の重盛に運河の開削を命じたが、当時の土木工事力では難所とされた深坂峠を越える水路を掘削することが困難だったのだろう。この壮大な運河計画は、残念ながら実現には至らなかった。

この時の無念の思いを清盛は、「後世必ず湖水の水を北海に落とせと言う者あらん、このこと人力の及ぶことに非ず」と書き遺している。

その後、清盛の思いは秀吉や家康に引き継がれたが、ついに琵琶湖と日本海とを結ぶ運河の開削は実現することがなかった。

江戸時代に入ると河村瑞賢(元和3年(1617) - 元禄12年(1699))が東廻り航路・西廻り航路を開拓し、菱垣廻船や樽廻船などの発達により日本海側の産物が比較的容易に京や大坂に運ばれるようになってくると、次第に琵琶湖水運の重要性が薄れてきて、さらに明治時代に入ると鉄道網の発達により、琵琶湖水運はその歴史上の役割りを終えることになった。

今は竹生島を行き来する観光船と小さな漁船などが時たま湖上を渡る姿を見かけるだけで、昔の面影を想像することは困難になってしまったが、江戸時代までは想像を絶する数の大小様々な船が湖上を行き来し、さぞや賑やかな風景であったことであろう。

浮世絵師歌川広重が描いた「近江八景」のなかでも、瀬田夕照、粟津晴嵐、矢橋帰帆、堅田落雁などの作品に湖上に浮かぶたくさんの船が描かれている。とても趣のあるすてきな光景だ。

琵琶湖に浮かんだ船と言えば、もう一つ、織田信長が造った大船についても触れておかなければならない。

信長が大工の棟梁岡部又右衛門に命じて、長さ30間(約54m)幅7間(約13m)、艪(ろ)を100挺、艫(とも)と舳(へさき)とに櫓(やぐら)を持った巨大な軍艦を建造させ、この琵琶湖に浮かべたことが『信長公記』に記載されている(元亀4年(1573)7月3日)。

信長は早速のこ大船で東岸の佐和山から西岸の坂本まで漕ぎ寄せ、さらに北西岸の高島にまで大船で攻め込んでいる。浅井氏一族を攻め滅ぼす3ヶ月ほど前のことである。

元々この大船は、足利義昭が将来刃向かうであろうことを想定した信長が、その際に一網打尽にするべく、大量の兵士を輸送する手段として建造させたものであったが、浅井一族を殲滅し義昭の脅威もなくなったため、信長はせっかく建造したこの大船を3年後の天正4年(1576)には解体してしまっている。

なんとも贅沢で気まぐれな行動に唖然とさせられる。

湖上から見た長浜城DSCN1069

琵琶湖は江戸期までは交通手段として重要な役割を果たしてきたが、そもそも琵琶湖沿岸に住む人たちにとって琵琶湖は、まさに生活の場そのものであった。

琵琶湖はその豊かな自然から人々に多くの生きるための糧をもたらしてきた。

琵琶湖には、鮒、鯉、鮎など一般的な淡水魚や琵琶湖固有種などを含めて約50種類の魚が生息しているという。

琵琶湖にしか生息していない固有種としては、ホンモロコ(コイ科)、ゲンゴロウブナ(コイ科)、ビワマス(サケ科)、イサザ(ハゼ科)、ビワコオオナマズ(ナマズ科)、ビワヒガイ(コイ科)、ニゴロブナ(コイ科)、ワタカ(コイ科)、ウツセミカジカ(カジカ科)、ビワヨシノボリ(ハゼ科)、スゴモロコ(コイ科)、アブラヒガイ(コイ科)、スジシマドジョウ(ドジョウ科)、イワトコナマズ(ナマズ科)など10数種類を数えることができる。

琵琶湖沿岸に住む人々は、古来よりこれらの魚を獲って食してきた。

なかには、別の章で紹介したニゴロブナを使用した鮒ずしのような珍しい発酵食品など独特の食文化をも創出している。

目を鳥に転じてみると、琵琶湖の古称である「鳰海(におのうみ)」の語源となった鳰(カイツブリ)、天然記念物のオオヒシクイ(カモ科)、冬になると遠くシベリアから飛来するコハクチョウ(カモ科)、湖北地方の冬の味覚の代表格絶品鴨鍋の材料となるマガモ(カモ科)などをはじめとして、ユリカモメ(カモメ科)、ケリ(チドリ科)、カルガモ(カモ科)、ダイサギ(サギ科)、カワウ(ウ科)、オオヨシキリ(ウグイス科)などの水鳥を見ることができる。

琵琶湖は、湿地を保護して水鳥を頂点とする食物連鎖の生態系を守るという目的で国際的に締結された、いわゆるラムサール条約の登録を1993年に受けている。

湖北地方は特にコハクチョウの飛来地として知られており、長浜市には琵琶湖水鳥・湿地センター(1997年開設、総工費2億5500万円)、湖北野鳥センター(1988年開設、総工費1億550万円)などの野鳥観察のための施設が設置されている。

これらの教育・観察施設では、「探鳥会」と称する野鳥観察会や、月例の「観察会」、「鳥のおはなし会」など様々な行事を通じて野鳥の生態を広く知らしめるとともに、鳥マニアたちの観察や写真撮影基地として重要な役割を果たしている。

コハクチョウは、北極に近いシベリア北部に棲息しており、5~6月頃に生まれた雛鳥とともに10月末くらいに琵琶湖に飛来して冬を越す。

1971年に初めて確認されて以来、毎年琵琶湖に飛来するようになり、最初は20~30羽くらいだったものが、1985年には150羽程度に増え、さらに最近では400羽以上ものコハクチョウが飛来している。

湖北地方の琵琶湖には、餌となるマコモや水草などがたくさん繁茂していて、コハクチョウたちにとっては大変に住みやすい環境であるのである。

コハクチョウと言っても、翼を広げた時の大きさは2mもあり、重さも5㎏ほどある。コハクチョウが琵琶湖の上空を飛ぶ姿は、まさに真冬の湖北の風物詩である。

また天然記念物に指定されているオオヒシクイもカムチャツカ半島から琵琶湖に渡ってくる渡り鳥である。

コハクチョウよりはやや小柄で、翼を拡げた時の大きさは1.6m、体重はコハクチョウと同じ5㎏くらいの褐色の鳥である。コハクチョウよりも警戒心が強く、また日中は沖の浅瀬などで休んでいるので間近で目にすることはあまりないかもしれない。

夜になると、小谷山東麓の西池などに飛来してマコモなどを食べると言う。

オオヒシクイも、おおよそ300~400羽程度の飛来が毎年確認されている。これらの貴重な水鳥たちを守るために、湖周辺の多くの人たちが琵琶湖の環境保護のために活動をしている。

他所者(よそもの)の私たちは、そんな地元の方々の苦労などをあまり知らずに、気軽ににこれらの施設を訪れては、珍しい鳥たちの姿を見て楽しんでいる。

 

琵琶湖の自然に関して、興味深い新聞記事を目にした。

真冬になると、琵琶湖の北部では表層部の水と深層部の水とが入れ替わる「全循環」という現象が起こるのだという。

水深が深い湖北地方では、例年春頃から気温の上昇とともに表層部の水温が上昇し、深層部との間に温度差が生じ、表層部と深層部とで別々の水循環が発生するようになる。

そうすると、深層部まで十分な酸素が行き渡らなくなり、深層部は徐々に酸素濃度が低下してくる。深層部の酸素濃度の低下は、10月~12月頃にピークに達する。

このままの状態が続くと、深層部は酸欠状態に陥り、湖底に生息するエビや貝などの生育に深刻な影響が出るのだが、その後、寒気により表層部の湖水が冷えて深層部に沈み込むことにより、表層部と深層部との間で大きな水の循環が発生し、深層部にも十分に酸素が行き渡るようになるのだそうだ。

毎年1月~2月頃に起こるこうした水の循環を「全循環」と呼び、別名を「琵琶湖の深呼吸」とも言うのだそうだ。

人工的に琵琶湖の水をかき混ぜることなく、自然の作用で表層部の水と深層部の水とが入れ替わるこの全循環は、琵琶湖の生物を維持していくための不思議な自然現象であると言える。

ただし、たいへんありがたい自然現象であるこの全循環も、その年々に発生した自然事象、例えば大型台風の襲来等によって発生の程度が異なってくるし、最近では地球温暖化現象や外来の藻などの影響により、全循環の発生程度に微妙な影響が出てきているというから、非常に心配な話である。

もう一つ、興味深い新聞記事を目にした。

琵琶湖が11年間で3cm縮んでいるというのだ。

最近はGPS(衛星利用測位システム)を使用して正確な地球上の位置を把握することができるようになってきた。そのGPS調査によると、湖西の高島市朽木と湖東の彦根市との距離が、2001年から2012年までの11年間で3cm縮まっているというのだ。

この章の冒頭で私たちは、琵琶湖は約400万年前に三重県の伊賀盆地付近で誕生し次第に滋賀県へと移動していったという生い立ちを見てきた。長い目で見れば琵琶湖は少しずつ姿かたちを変えながら変遷しているものなので、11年間で3cmという数字は驚くに値するものではないし、ましてや悲観すべきものではまったくない。

少なくとも、私たちが生きている間に琵琶湖が消滅するというような数字ではないので、そんなものかとただ頷くだけである。

そもそも、この琵琶湖が縮む動きというのは、ここ100年くらいの傾向として続いているもののようである。

琵琶湖だけでなく日本列島そのものが複雑に入り組む地殻プレート上で少しずつ動いているのだから、そのようなニュースに一喜一憂することにはほとんど意味がないが、何となく気になるニュースではあった。

さらにもう一つ、琵琶湖の生い立ちに関するニュースを紹介しておこう。

今も琵琶湖は約400万年前に伊賀盆地付近で誕生したと書いたばかりだが、現在のこの通説に琵琶湖固有種とされる生物種の遺伝子学的見地から異を唱える新設が、滋賀県立琵琶湖博物館(草津市)などで検証されているというのだ。

この説によると、鈴鹿山地が隆起する前に現在の濃尾平野と伊勢湾を含む一帯に「東海湖」という巨大湖が存在していて、通説とされている伊賀盆地付近にあったとされる琵琶湖の原型となる湖(大山田湖)は、この東海湖の一部だったというのである。

この説によると、琵琶湖の誕生時期は通説の約400万年前からさらに50万年ほど遡って、今から約450万年前ということになる。

これは、三重県津市の約400万年前の地層から、琵琶湖固有種である「スズキケイソウ」に似た化石が見つかったことなど、琵琶湖固有種の化石がこの東海湖があったと推定される場所から発見されていることなどをその根拠としている。

これらの研究によると、琵琶湖固有種である「ゲンゴロウブナ」は約450万年前、「イサザ」は約290万年前、「ホンモロコ」は約170万年前に元の種から分化して固有種になっていったのだという。

琵琶湖が11年間で3cm縮んでいる話も、今から400万年前だか450年前だか昔の琵琶湖誕生の話も、どちらも私にとってはそれほど深刻な話ではないけれど、琵琶湖に関する話はやっぱり気になってしまう。

 

さらにもう一つ、琵琶湖で気になることの一つが、琵琶湖疎水についてである。

湖北地方とはまったく縁のない話ではあるが、興味ついでに調べてみた。

琵琶湖には119本の川が注ぎ込まれていると言われている。代表的な川を列挙すると、余呉川(長浜市)、姉川(長浜市)、天野川(米原市)、芹川(彦根市)、犬上川(彦根市)、宇曽川(彦根市)、愛知(えち)川(東近江市)、日野川(近江八幡市)、野洲(やす)川(守山市)、真野川(大津市)、安曇(あど)川(高島市)などの川である。

大きな川は、比較的湖北から湖東にかけてが多いように思われる。

一方で、琵琶湖から出ていく川は、自然の川ではただ一つ、瀬田川のみである。瀬田川は、石山の辺りで琵琶湖から流れ出て、やがて宇治川、淀川と名前を変えながら最後は大阪湾に流れ出る。

119本もの川が注ぎ込んでいるのに流れ出る川がたった1本しかないというのは、いかにもバランスが悪い気がする。流れ込む水の量の方が多くてやがて琵琶湖の水が溢れ出てしまうのではないかと心配になるが、今のところ誰も騒いでいないところを見ると、きっと私の心配は素人の杞憂なのだろう。

それにしても、非常に不思議なことのように思われる。

今、自然の川では瀬田川がただ一つと書いたが、他に人工の川が一種類だけある。それが、琵琶湖疏水である。

疏水とは、『広辞苑 第六版』によると、次の説明になる。

 

灌漑・給水・舟運または発電のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水さ

せること。また、そのもの。多くは湖沼・河川から開溝して水を引き、地形によっては

トンネルを設けることもある。琵琶湖疏水が有名。

琵琶湖疏水(南禅寺境内)DSCN8109

 

琵琶湖疏水は、明治維新で都が東京に遷り活気を失っていた京都を復興する目的で、第3代京都府知事の北垣国道氏の呼びかけにより明治18年(1885)に建設が開始され、5年後の明治23年(1890)に第一疏水が完成したものである。

その後、明治45年(1912)には第二疏水も完成している。

第一疏水は、大津市の三井寺(園城寺)近くの琵琶湖から取水し、途中第1~第3トンネルおよび諸羽(もろは)トンネルの4つのトンネルを経由して、京都南禅寺近くの蹴上(けあげ)に通じている水路である。

当時は機械でトンネルを掘削する技術もなかったため、ほとんど人力だけで工事を完成させたという。しかも、外国人技師に頼らず、日本人の力だけでこの難事業を成し遂げたところに大きな価値がある。

難事業であったため、工事には犠牲者が出た。現在蹴上には、犠牲者の慰霊碑(殉職者之碑)が建てられている。琵琶湖疏水は、こうした善意の人々の犠牲のうえに成り立った大事業だったのである。

工法としては、トンネルの両側から掘り進むと同時に、途中の地上から垂直に竪穴を掘り、そこからも両端に向かって掘り進むという竪坑(シャフト)方式という工法が採られた。わが国で初の試みである。

今でも第一トンネルが通る長等山には、その時に掘った2つの竪坑が遺されている。レンガ造りのお洒落な造りの建造物だ。

明治23年4月9日の竣工夜会には、市内各戸に日の丸と提灯が飾られ、祇園祭の月鉾(つきほこ)、鶏鉾(とりほこ)、天神山、郭巨山(かっきょやま)の4つの山鉾が並べられ、さらに如意岳の大文字も点火されたというから、まさに京都の町を挙げてのお祝いだったことがよくわかる。

疏水の水は、水車動力、舟運、灌漑、防火などに使用されたほか、日本で最初の事業用水力発電としても活用された。蹴上発電所がそれである。

水力発電によって安定的な電力供給が可能となったことにより、折からの明治政府の殖産興業の流れにも乗り、伝統産業である紡績などを中心に京都の産業は再び活気を取り戻すことができた。

琵琶湖の水は、単に飲料水として京都市民の喉を潤しただけでなく、こうして産業復興を通じて町全体の活性化にも大いに貢献したことがわかる。

また、こうした実用的な目的だけでなく、琵琶湖疏水は流域に美しい景観を創り出してもいる。

トンネルの入口には、レンガや石を使用してお洒落な装飾が施されている。伝統的な寺院建築が多い京都にあって少しの違和感もなく、明治の洋風文化が自然な形で溶け込んでいるのが微笑ましい。。

南禅寺の境内を通るレンガのアーチ橋(水路閣)なども、周囲の景色に実によく馴染んで見える。今も美しいアーチ橋の上を、勢いよく水が流れている。実用的な部分にプラスして美的にも優れたセンスを持った琵琶湖疏水は、まさに芸術そのものだ。

この琵琶湖疏水建設が当時の京都市民だけの願いではなく、国家的事業であったことを示しているのが、この装飾的なトンネル入口に掲げられた扁額だろう。

第一疏水の第一トンネルの大津側入口には、伊藤博文筆の扁額が嵌め込まれている。

琵琶湖疏水DSCN8063

「氣象萬千(きしょうばんせん)」と彫られたその意味は、千変万化する気象と風景の変化はすばらしいという、宋の『岳陽樓記』の一節だそうだ。

第一トンネルの反対側(京都側)には山形有朋筆で、「廓其有容(かくとしてそれいれるものあり)」と彫られた扁額が飾られている。こちらの意味は、悠久の水をたたえ悠然とした疏水の拡がりは大きな人間の器量をあらわしている、という意味だそうだ。

以下、第二トンネル以降の扁額の一部を紹介すると、

井上 馨 仁似山悦智為水歓歡(じじんはやまをもってよろこびちはみずをもってなるを

よろこぶ) 仁者は知識を尊び知者は水の流れを見て心の糧とするという『論

語』の一節

西郷従道 隨山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる) 山にそって行くと水源に辿

り着く

松形正義 過雨看松色(かうしょうしょくをみる) 時雨が過ぎると一段と鮮やかな松の

緑を見ることができるという、唐の盧綸の詩

三条実美 美哉山河(うるわしきかなさんが) なんと美しい山河であることよという『史

記』呉記列伝の言葉

などがある。いずれも、京都市上下水道局のホームページを参照させていただいた。まだまだたくさんあるので興味のある方はそちらをご覧いただきたい。実際に疏水沿いを歩いて実物を見てみるのも楽しいと思う。。

琵琶湖疏水の最後に、インクラインについて触れておきたい。

南禅寺から京都市営地下鉄の蹴上駅まで歩くと、その途中左手に線路のようなものが見えてくる。これが、インクラインの跡である。

インクラインとは「傾斜鉄道」とも呼ばれ、運河や山腹などの傾斜している土地で貨物を運搬するための鉄道施設のことを言う。

どうして蹴上にインクラインが必要だったのだろうか?
琵琶湖インクラインDSCN7897

琵琶湖疏水のインクラインは、琵琶湖から疏水を通ってきた舟を丸ごと車輪のついた荷台に積み込んで陸路を運ぶという、まさに画期的なものだった。

私たちの普通の発想は、水路の終端地点で舟の積み荷を降ろし牛馬で運ぶか鉄道に積み替えるというものだが、琵琶湖疏水のインクラインはそのような手間をかけることなく、舟ごと鉄道で運んでしまう。そうすることにより、牛馬で運ぶよりも大量の荷物を迅速に運ぶことができるという訳である。

蹴上から鴨川経由で京都の町中まで荷物を運ぶためには35mの急坂を上らなければならず、当然のことながら舟では不可能なことであった。そこで舟を鉄道に乗せて運ぶという、このインクラインが発想されたのであろう。

「船頭多くして舟、陸に上がる」という言葉があるけれど、本当に船が陸に上がって運ばれていくのを見て、当時の人々は驚いたという。

今ではすっかりその役目を終え、その時に使用した線路が残されているのみとなってしまった。

 

琵琶湖について長々と書いてきた。

湖北の領域をはみ出して書いた部分もあるが、反対に書き足りない部分もまだたくさんあるし、書けなかった部分もある。

書けなかった部分というのは、琵琶湖で生活する人たちのことだ。琵琶湖はそこに住む人々の暮らしと不可分の関係にあり、人々が琵琶湖と接しながらどのように暮らしているのかを書きたいと思っていた。

何度か試みたのだが、今の私には無理であることがよくわかった。

私は他所者であり、たまに琵琶湖を訪れる旅人に過ぎない。たまに訪れたくらいでは、琵琶湖で暮らしている人たちの生活を理解することはできない、ということに気付いた。

いつかは琵琶湖の周辺に住んでみたいと思っている。

琵琶湖で暮らす人たちのことを書くのは、その時までお預けということにしたい。実際に住んでみないと本当のその土地の暮らしはわからないというのが、偽らざる今の私の心境だ。

琵琶湖の章を終わるにあたって、最後に「マザーレイク」という言葉について考えてみたいと思っている。

琵琶湖に関する情報を集めていると、よくこの「マザーレイク」という言葉を目にしたり耳にしたりする。

文字通り、母なる湖、というのがその意味だろう。

琵琶湖の夕景DSCN6967

琵琶湖は、周囲に住む人たちにとって、まさに母なる湖であるのだ。

琵琶湖は私たちに湖の幸をもたらしてくれる。湖岸には葦が生い茂り、その葦の根元では魚や水鳥たちが安心して巣を作ったり繁殖したりして生を育んでいる。

琵琶湖およびその周辺に棲む生物は、様々なかたちで琵琶湖と関わり、琵琶湖から様々な恩恵を受けながら生きている。

反対に、琵琶湖に何らかの異変が生じたら、被る影響は極めて大きいということでもある。

先に、琵琶湖が縮んでいるというニュースを紹介したが、琵琶湖の長い歴史の尺度から考えたらまったく何の影響もない。しかし、外来魚の出現によって在来種の生態系が損なわれようとしている事実や、水質の汚濁によって水中の生物に異変が生じているなどの情報は、看過することができない重大な危険性を孕んでいる。

私たちが母なる湖として琵琶湖から多大な恩恵を受けていることの裏返しとして、私たちは感謝の思いを込めて母なる湖を守っていく責務がある。

未来の琵琶湖の住人や生物たちのために、私たちは琵琶湖を今のままの状態で後世に伝えていかなければならない。

それはちょうど、駅伝で次のランナーにタスキを渡すこと似ているかもしれない。

自分の走区でタスキを絶やすことがないように、自分の後を走るランナーのために、私たちは今以上の琵琶湖を維持していく責務があるということだ。

滋賀は湖国と呼ばれている。

滋賀は即ち琵琶湖であり、琵琶湖は即ち滋賀であるということだ。滋賀の象徴である琵琶湖に生かされ、琵琶湖を生かしていくことが私たちの未来と同義語であると私は思っている。

 

 

『湖北残照 拾遺』を書きながら、やっぱり湖北には魅力が溢れていると思った。湖北を書いていることが、私にとってはとても楽しく充実した時間でもあった。

一度興味を持って訪ねると、そのことがきっかけになって新たな興味が湧いてくる。前に行った時には見えなかったものが見えてきたり、見落としたものがあったことを知ってまた行きたくなる。

こうして、同じ場所に二度も三度も足を運んでいく。

湖北を卒業したら別の地域について書いてみたい。ずっとそう思っているのだが、湖北のことがいつになっても書き終わらないので、次の地域に移動することができないでいる。

最近は、このまま私は湖北だけで終わってしまうのではないかという気持ちが次第に強くなってきた。一方で、このまま湖北だけで終わってしまってもいいなと言う気持ちも強くなってきている。

もれているものを補って『湖北残照』の完結版としてこの「拾遺」を書いたつもりだったのだが、どうやら「拾遺」の次にも「続・拾遺」なるものが出てきそうな気がする。

でも、それはそれでいいとも思い始めている。

湖北とは長い付き合いになってきた。こうして度々湖北を訪れていると、もう地図などなくてもどこへでも行けるようになってきた。

同じ場所に行っても、季節の移ろいのなかで目に映る景色は全然違ったものになってくるから、いろいろな季節ごとに訪れてみたくなる。

まさに私は、井伊直弼が語った「一期一会」の気持ちで、いつも湖北を訪れている。

 

 

 

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「終わりに」に代えて 村山たか女のこと

井伊直弼生誕200年によせて

「終わりに」に代えて 村山たか女のこと

 

人間井伊直弼を語る時、村山たか女に関するほんのりとした艶話も欠かすことのできない一要素となる。

生真面目で剛直なイメージの強い直弼であるが、一人の美しい女性との間に艶やかな恋物語がある。「終わりに」に代えて、村山たか女との恋の話を最後に書いて、私の拙い文章の締め括りとしたい。

 

彼女の出自は詳らかでない。多賀大社の神宮寺であった般若院の院主の落とし胤との説もある。

たか女1

たか女出生地跡(多賀大社前)

 

たか女という名前自体が、多賀大社との結びつきを連想させる名前である。

船橋聖一さんの名作『花の生涯』では、三味線の師匠としてこのたか女が初めて埋木舎を訪れる場面から物語をスタートさせている。

元は、兄であり当時の彦根藩主であった井伊直亮に仕えた侍女だったとも言われている。

とにかく詳しいことがわからない謎多き女性である。

どのようなきっかけで、たか女が埋木舎を訪れるようになったのかもわからない。確かなことは、このたか女が埋木舎で直弼と昵懇の間柄になったということである。

埋木舎でほとんど禁欲生活のような毎日を送っていた直弼にとって、美しくかつ歌舞や和歌などの才能に優れた6歳年上のたか女の存在は、非常に刺激が強かったに違いない。

たちまちにして、直弼はたか女に夢中になったのではないだろうか。

しかし、もしもたか女が単に容姿が美しいだけの女性だったなら、直弼はたか女にそれほどまでに惹かれることはなかったかもしれない。

たか女には深い教養と芸の才能とがあった。才色兼備の女性だったからこそ、最初は憧れ、そしてすぐに恋に落ちていったのではないだろうか。私の想像である。

たか女は、直弼の知的好奇心を大いに刺激したことだろう。打てば響くような機知に富んだ会話のやり取りや情の籠った和歌の贈答に、時が経つのも忘れて二人は夢中になったのではないだろうか。

2たか女

埋木舎内部

 

もちろん男と女の間である。甘くとろけるような濃密な時間も過ごしたことだろう。

運命が直弼をこのまま部屋住みの身として生きることを許していれば、あるいは直弼とたか女は、そのまま埋木舎で平凡だが幸せな生涯を終えたかもしれない。

しかし皮肉な運命の糸が二人を引き裂いた。

兄であり長く彦根藩主の地位にあった直亮には子がなかった。仕方なく養子とした直元(直中の十一男)にも子が生まれないまま、直元は世を去ってしまった。十四男だった直弼が彦根藩35万石の世子となることになったのだ。

それは直弼が兼ねてから望んでいたことであり、そのために自らを磨いてきたのであったが、皮肉なことに、奇跡とも言える直弼のこの大出世が、直弼とたか女の仲を引き裂くことになってしまった。

直弼が、彦根藩主であることにもっとルーズな考えの持ち主であったならば、直弼はたか女を諦める必要はなかったかもしれない。

直弼は一人の男である以前に将来の彦根藩35万石の藩主であり、彦根藩の藩主であるということは譜代大名筆頭格として他藩に先んじて徳川幕府を守り、盛り立てていかなければならない宿命を背負っていることを、誰よりも自覚し譽れに思っていた男であった。

幕府のために一命を賭してお仕えする覚悟だった。そんな時に一女性のことにかかずらわっていることは許されない。

直弼の武士道であり、人生哲学であった。

この頃書かれたものだろうか。直弼から主膳宛に、たか女のことはうまく後始末をつけてくれというような趣旨の手紙が残されている。

このことを以って直弼はたか女に愛想をつかしたのだとか、単なる遊び心だったのだと主張する学者がいる。

私はそうは思わない。直弼なりの愛情で、直弼は敢えてたか女に対して冷たい態度を取ったのだと思っている。

そうでもしなければたか女のことを思い切れなかったのだと思う。直弼とは、そういう男なのだ。

この不器用さと真っ直ぐな思いとが、私にとっての直弼の一番の魅力である。

 

単に捨てられたのであれば、その後のたか女の行動を説明することが難しい。

たか女は、直弼の代わりに長野主膳とつながりを持ち、その後も主膳とともに大老となった直弼のために京での情報収集活動に尽力した。

突き放すことで敢えてたか女との関係を断ち切ろうとした直弼と、別れても陰で直弼の力になろうとするたか女。

どちらも愛の形は違うけれど、相手を想う気持ちにおいては同じ想いだったのではないだろうか。

京で直弼のために諜報活動に奔走していたたか女は、どのような想いで突然の直弼死去の知らせを聞いたのであろうか。

想像するだに忍びない。

さらに、桜田門外の変から2年後の文久2年(1862)8月27日、長野主膳が彦根藩によって処刑されこの世を去った。彦根藩は藩の保身のために直弼の行った政治を否定し、直弼政治の推進者であった主膳と宇津木六之丞とを斬首したのであった。

その2ヶ月半後の11月14日、今度は京に潜伏していたたか女自身に禍が襲い掛かる。たか女は反幕府を掲げる天誅組によって捕捉され、鴨川の三条河原で三日三晩に亘って晒し者にされたのであった。命を取られずに済んだのは、たか女が女性であったからだという。

しかもたか女は、直弼と出会う前に設けた一子である多田帯刀をも、この時に失っている。母のたか女と共に直弼のために諜報活動を行っていたために、捕らえられ斬殺されたものである。

たか女は、直弼を失い、主膳を失い、一人息子の帯刀までをも失って、茫然自失だったことだろう。

この世に心を寄せる人が誰一人として消え失せてしまった虚しさを、たか女はどうやってしのいだのか?

3たか女

金福寺

 

やがて、京の東の山里にある金福寺(こんぷくじ)という寺に入り、そこで剃髪して尼僧となったたか女は、弁天様を祀る小さな祠を建て、日夜仏に仕えながら静かに余生を送った。

金福寺は、紅葉で有名な詩仙堂のすぐ近くにあり、金福寺自体もたいへんに紅葉が美しい寺であるけれど、詩仙堂ほどの知名度はない。

しかし、本堂の裏山には芭蕉にゆかりの茶室が建てられ、芭蕉を慕ってやまなかった蕪村の小さな墓がある。

たか女の生涯を考えるとき、文学的雰囲気に満ちみちたこの金福寺の瀟洒な佇まいは、いかにも彼女に相応しいものに思えてホッとしてくる。

たか女の墓は、その金福寺から程近い圓光寺にある。圓光寺もまた、紅葉の美しい寺である。

 

最後に、近年、京都の井伊美術館館長の井伊達夫さんによって、直弼がたか女に宛てて書いた「恋文」が発見されている。

直弼生誕200年を記念した私のささやかな文章の最後に、この恋文のなかで直弼がたか女に贈った歌を記して私の結びの言葉としたい。

 

名もたかき 今宵の月は みちながら

君しをらねハ 事かけて見ゆ

 

この歌は、直弼がまだ埋木舎の住人であった天保13年(1842)頃の歌だと言われている。直弼28歳であり、世子となって埋木舎を出る4年ほど前の時期にあたる。

すでにこの時期には彦根藩の世継ぎ問題が深刻化していて、世子の直元に変事があった場合に備えて直弼の存在がクローズアップされていたようである。

藩の反対でたか女との逢瀬を禁じられた直弼が、たか女への思いきれない気持ちを素直に綴った恋文である。

その恋文に添えられていたのがこの歌なのだ。

中秋の名月として名高い今宵の月は真ん丸に満ちているけれど、(一緒に見るべき)あなたがいなければ、私の心には欠けた月に見えてしまいます。

名も「たか」き、とさりげなくたか女の名を歌に織り込んでいるところが、何とも心憎い。直弼、なかなかやるな、といったところだ。

あとは読んで字の如くの意味である。ストレートでわかりやすい内容であるが、それだけに直弼の熱い想いが直に伝わってくる。

この恋文の存在により、直弼が埋木舎で学問ばかりしていたのではなかったことがわかり、私は内心ホッとしている。ますます人間井伊直弼のことを私は好きになってしまった。

今年平成27年(2015)が、井伊直弼の真実再考のきっかけとなる年になってくれればと、心から願う次第である。

たか女4

晩年のたか女像(滋賀・高源寺)

 

最近、皇居のランニングを始めた。

桜田門前の広場を出発して、二重橋前から大手門の前を通り、竹橋、半蔵門を通過して国会議事堂を右手に見ながらゴールの桜田門を目指す、1周ちょうど5㎞のコースである。

仕事が終わった後に、健康維持の目的で会社の同僚と走り始めたものだが、最後の数百メートルはまさに直弼が桜田門で暗殺された時のコースと一致する。

暗いので明瞭には見えないが、左手に「柳の井」の説明版が見え始める辺りのちょうど道の反対側が、かつて彦根藩の上屋敷があった場所である。

この辺りに差し掛かると俄かに私の心がさざめき立つ。今私が走っているこの同じ道を、安政7年(1860)3月3日の朝に直弼も辿ったからだ。

左手前方に丸の内の高層ビル群の灯りが桜田濠の水面に鮮やかに映し出されている。直弼の生きていた時代には当然、存在していなかった眺めである。

美しい光景だ。これぞ、東京の夜景だと言っても過言ではない絶景である。その美しい景色を眺め、わたしはいつも万感の想いを胸に抱きながら、桜田門を目指してラストスパートをする。

5㎞の道程の最後の500mほどの距離を、私は直弼に背中を押されるようにして力をもらって走っている。こんなランナーは他にいないだろうなって思いながら、走っている。

これも直弼と私との何かの縁なのかもしれない。

皇居を走りながら私はいつも、直弼の無念を思い、そして直弼への感謝の気持ちを持ちながら、最後の力を振り絞っている。

 

平成27年9月27日 中秋の名月の日に書き終わる

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桜田門外の変

桜田門外の変

 

日米修好通商条約締結、将軍継嗣問題、安政の大獄と、ことごとく直弼と水戸藩の徳川斉昭とは対立し、その結果として水戸藩や斉昭は直弼に叩きのめされて苦しい立場に追い込まれていった。

直弼の方が正論で、斉昭の考え方の方が古いうえに筋が通っていないのだから、このような結果となるのはある意味当然のことなのだが、水戸藩側からしてみればおもしろくない。

目の上の瘤というか、とにかく直弼は何事につけて邪魔な存在だった。

単に邪魔なだけでなく、直弼によってどんどんと藩そのものが窮地に追い詰められていく。水戸藩士たちの直弼への恨みと憎悪は急速に募っていった。

水戸藩には水戸藩の論理があって、彼らは自分たちに非があるとは思っていない。悪いのは直弼だと心の底から思っている。しかも、御三家としてのプライドもある。自分たちは将軍家の親戚であるが、井伊は単なる将軍家の家来ではないか。

直弼憎しの感情は最高潮に達していった。

正当な手段により相手を倒すことができなければ力ずくで倒すしかない。直弼暗殺の実行計画は、水戸藩士たちにより水面下で密かに進められていった。

彼らは水戸藩を脱藩し、三々五々、江戸に集まっていった。藩を脱藩したのは、主家である水戸藩に類が及ぶことを避けようとしたためである。

水戸藩脱藩の17名に薩摩藩士の有村次左衛門が加わった18名は、安政7年(1860)3月2日の夜に品川宿の妓楼土蔵相模に集結し、翌3日の未明に愛宕神社で大願成就を祈願した後、襲撃予定地である桜田門へと向かった。

桜だ列しの碑 愛宕神社

桜田烈士の碑(愛宕神社)

時ならぬ雪がしんしんと降りしきる寒い朝であった。

この日は3月3日の桃の節句の日にあたり、大名たちは総登城することになっていた。彦根藩上屋敷を出てから直弼が登城する道筋と時刻は調査済みだ。

水戸浪士らは桜田門外の道の両側に分散して佇み、直弼の行列が通りかかるのを待った。

当時は大名の行列を見物するのが一種のブームのようになっていて、大名の家紋が描かれた武鑑と呼ばれるガイドブックまで発行されていた。

大雪の早朝にも拘らず桜田門の周辺にも見物人が屯していたために、水戸浪士たちの存在が目立つことはなかったという。

徳川幕府の諜報網は強力だったので、実は直弼にはこの日の襲撃情報が事前に入っていたと言われている。

仮病を使ってこの日の外出をキャンセルすることもできたし、敵の襲撃に備えて供回りの人数を増やすことだってできたはずである。

しかし直弼には大老としてのプライドと責任とがあった。一国の宰相たる者が、それしきのことに狼狽(うろた)えて予め定められた予定を変えたり規則を破ったりしてはならない。

直弼一流の美学であり、直弼の信じた武士道であった。

水戸浪士に襲われた時、直弼を警護する武士たちが刀の束を雪から守るため布覆いを着けていて容易に刀を抜くことができなかったことが彦根藩に不利に働いたと言われている。

直弼は供回りの者に襲撃の可能性を一切告げていなかったことがわかる。

敵が襲ってくるかもしれないとわかっていたら、わざわざそんなカバーをするはずがない。いつ敵が襲ってくるかと身構えながら隊列を組んで歩いていたに違いない。

供の者たちにとっては、まったく寝耳に水の襲撃だったのである。

水戸浪士たちは、予め示し合わせておいたとおり、訴状を掲げた森五六郎が行列の前に進み出て、行列を止めた。

静寂に支配されていた桜田門外の雪景色に俄かに緊張が走った。

何者だ。無礼であるぞ。

彦根藩士の声が響き渡る。そしてその時、一発の銃声が轟き渡った。

この銃声を合図にして、道の両側から抜刀した男たちが一斉に行列に向かって走り寄る。

不意を打たれて直弼警護の彦根藩士たちは狼狽した。先程も書いたとおり、雪から刀を守るため束に着けていた布覆いを外すことができず、その間に次々と水戸浪士たちの刃の犠牲になっていった。

これが井伊の赤備えと恐れられたあの彦根藩の藩士たちなのか?と思わず疑ってしまうほど、戦いは一方的だった。

たった18人の水戸浪士たちに対して、直弼の供回り衆は60人もいたという。

数で圧倒的に有利な彦根藩士たちが、たったの15分程の戦闘で主人の首を敵方に渡さざるを得なかったというのだから、まったく勝負になっていない。

まさに水戸浪士たちの周到な準備と気合いとが一瞬にして勝敗を決する要因だったと言える。

短いが激しい戦闘のさなかに、直弼の籠に近づいた水戸浪士の稲田重蔵が渾身の力で籠の中に刀を差し込んだ。

確かな手応えを感じた。

そこへ薩摩藩士の有村次左衛門が駆けつけ、手荒く籠の扉を開けた。

中には、ぐったりとした大老がうずくまっていた。

次左衛門は籠から直弼の体を引き摺り出して、首を取った。

水戸浪士たちの歓声が轟き渡る。

桜だもん 桜田門

 

彦根藩士たちは直弼の首を取り戻そうとして、必死に次左衛門に襲いかかった。

次左衛門は大事な首級を渡してなるものかと、必死で逃げる。その次左衛門に彦根藩士が追いすがり、後ろから斬りつける。

次左衛門は深手を負いながらも、なお走り続けた。凄まじい気力である。

桜田門から日比谷濠を直角に左へ曲がり、和田倉門を経て更に進んだ辺りで次左衛門は力尽きた。

近江三上藩の若年寄遠藤胤統(たねのり)邸の門前で動けなくなった次左衛門は自決し、直弼の首は一時遠藤家に収容された。

彦根藩は極秘のうちに遠藤家から直弼の首を取り戻し、藩邸で藩医が桜田門外で回収した直弼の胴体に首を縫い付けて体裁を整えた。

後継ぎのないままに当主が死亡すればお家は取り潰しになるのが江戸幕府の掟だった。彦根藩では、直弼は負傷して床に臥せっていることにして幕府にその旨を届け出た。

大老を出している譜代大名筆頭格の井伊家のことだから、特別の図らいにより井伊家は事なきを得た。

以上が桜田門外の変の概略である。

なお、この日の供回りを務めた者たちは後日、手傷を負った者は切腹に、怪我をしなかった者は戦闘に加わらなかったとみなされて打首となり、怖気づいて現場から逃げ去った一部の者を除いて全員が彦根藩によって処刑されている。

主人の命を守ることができなかったのだから、武士としては当然の仕打ちかもしれないが、残酷極まりない処分である。

それにしても、幕府にとっても彦根藩にとっても、失った代償は大き過ぎた。

徳川幕府は、大事な屋台骨を失って、爾後は瓦解に向かってまっしぐらに堕ちていくことになる。

直弼の死とともに、徳川幕府は終焉を迎えたと言っても過言ではない。

 

井伊直弼の墓は、江戸における井伊家の菩提寺であった世田谷の豪徳寺にある。

豪徳寺は曹洞宗の名刹で、二代藩主井伊直孝が付近で鷹狩りをしていた際、急な雷雨に見舞われて大木の下で雨宿りをしていたところ、向こう側で手招きをしている猫がいる。何事かと思い猫のもとに歩き始めると、その直後に、もと居た大木に雷が落ちた。猫が手招きをしなければ直孝は雷に打たれて死んでいたところであった。

こんな伝説が残っていて、豪徳寺は招き猫伝説の寺としても有名である。境内には猫が描かれた彫刻のある三重塔があり、また境内にある招猫観音の傍らにはたくさんの招き猫が納められていて実に壮観な景色である。

豪徳寺

豪徳寺の招き猫

 

そんな豪徳寺の最も奥まった場所に、直弼の墓がある。

似たような姿形の歴代藩主や正室たちの墓が建ち並んでいるなかで、直弼の墓はたくさんの花が供えられているのですぐにそれとわかる。

実はこの直弼の墓に直弼が葬られていないという説がある。というのは、平成21年に世田谷区の教育委員会が直弼の墓の改修工事を行った際に、少なくとも地下1.5mまでに石室がないことを確認した。

その後、東京工業大学がレーザーを使って調査したが、地下3m以内には石室が見つからなかった。

直弼は4月10日にここ豪徳寺に埋葬されたことになっているけれど、地下3mまで調べて石室がなかったということになると、実際には直弼はここには埋葬されていないと考えたほうがいい。

私はそのニュースを聞いて愕然とした。

では直弼は、いったいどこに葬られているのだろうか?

今までここが直弼の墓であると信じられていて、ほかに何の文献も残されていない以上は、私には直弼が葬られている真の場所を知る由がない。

直弼の遺体はどこへ消えてしまったのか?直弼の突然の死から埋葬までの間に、彦根藩にいったいどんなドラマがあったのだろうか?

幕末の混乱する時代のなかで、直弼は痕跡を何ひとつ残すことなく、忽然とこの世から姿を消してしまったのであった。

井伊直弼の墓 豪徳寺

井伊直弼の墓(豪徳寺)

 

 

みなとみらい地区を望む桜木町の掃部山の一角に、ランドマークタワーと対峙するようにして立つ直弼の像がある。

直弼が横浜開港の陰の立役者であることは、あまり知られていない。

横浜発展の道筋を拓いたのは、実は直弼だったのである。そのことを忘れないようにと直弼への感謝の気持ちを込めて建てられたのが、この掃部山の直弼像である。

もっとも、当時の直弼には横浜の街を発展させようとの特別な意図があったわけではない。東海道五十三次の宿場町である神奈川宿を開港地とすることにリスクを感じて、街道から少し奥まったところにある漁師町であった横浜村を開港地と定めたのであった。

皮肉なことに、今では神奈川よりも横浜の方がはるかに街として発展を遂げ、神奈川という地名はわずかに県名として名を留める程度になっている。

当時の直弼は、横浜を長崎の出島のようにすることを考えていた。海を埋め立てて新たな島を作り、そこに外国人を住まわせる。

外国人居留地は海や川で本土とは隔離されているから自由に出入りすることができない。

出入口には関所を設け、入退管理を厳格に行う。この時の関所の内側(外国人居留地側)が、今の関内である。

幕府が積極的に外国人居留地での売買を奨励したため、横浜の街は大いに賑わった。

直弼が主張した開港策は大いなる成功を収めたのである。

桜木町の掃部山公園に立つ直弼の像は、そんな横浜の街の発展をどのような気持ちで眺めていることだろうか。

 

井伊直弼像

掃部山に建つ直弼像

 

私は、井伊直弼の人生からいろいろなことを学んだ。

心が挫けそうになった時、直弼が青年時代の15年間を過ごした埋木舎のことを想い、けっして諦めてはいけないと自戒している。

可能性が限りなくゼロに近くても、夢を諦めないで自分を磨き続けた直弼の忍耐力と信念を、私はわが人生の訓戒としている。

また、仕事や人生において悩みを抱えた時、日米修好通商条約締結時の直弼の苦悩とプレッシャーとを想い、その時の直弼の悩みに比べたら自分の悩みなんてちっぽけなものだと思うようにしている。

一歩間違えば中国と同じように欧米列強の植民地にされかねない危うい状況のなかで、国内には朝廷や水戸藩などの猛烈な開国反対派が勢いを増していた。

そんな追い詰められた状況のなかで、直弼はギリギリの決断をした。

岩瀬らの暴走により必ずしも直弼の真意に沿った解決にはならなかったけれど、彼らの暴走分まで含めて直弼は一切の弁明を行わずに責任を一身に背負い込んだ。

直弼のこのときの心情を想うとき、私は涙を禁じ得ない。

直弼こそ武士のなかの武士だと思う。一国の国民の命と生活とを預かる政治家として、直弼は自分の信念を貫き通して日本の窮地を救った。

実に鮮やかで爽やかな手腕である。

私たち日本人は、明治維新以降に反幕府勢力によって捏造された偏見を拭い去って、もう少し井伊直弼という人物について理解を示さなければならないと思う。

私が尊敬する幕末の英傑である勝海舟は、こんな言葉を残している。

 

行蔵(こうぞう)は我に存す。毀誉(きよ)は他人の主張、我に与(あずか)らず我に関せず。

 

直弼のこの時の心境も、きっと勝舟のこの気持ちと同じだったのではないだろうか。

後世の人たちが自分のことをどう思うかなんていう気持ちは直弼の心のなかにはこれっぽっちもなくて、自分が正しいと思った道をただ無心で歩いただけだったのだと思う。

その潔さも、私が直弼のことを尊敬してやまない一つの理由である。

 

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