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須賀谷温泉のブログ

鮒ずし

鮒ずし

近江の郷土料理と言うと、琵琶湖に生息する小魚であるもろこや小鮎などの甘露煮、琵琶湖で採れた小えびを大豆と一緒に甘く煮たえび豆、温かいそうめんの上に甘辛く煮た焼き鯖を乗せた鯖そうめんなどをすぐに思い浮かべることができる。

最近では、琵琶湖にのみ生息し「淡海(琵琶湖)の宝石」との別名をもつビワマスを使用した料理なども積極的に宣伝されている。

肉類に目を転じると、全国区の知名度を誇る近江牛のことを忘れてはならない。ただし近江牛については、説明不要だろう。

また、一般にはあまり知られていないかもしれないが、冬の訪れとともにシベリアから飛来するマガモを使った鴨鍋は、脂がのっていて絶品である。

これらたくさんの郷土料理があるなかで、どれか一つだけを採り上げろと言われたら、私は迷わずに鮒ずしのことを挙げるだろう。

外見といい臭いといい、他の地域には見られない特徴をもった独特の料理であるからだ。

当然、鮒ずしの存在はかなり以前から知っていた。

しかし、知っているということと食べてみるということとは、私の心のなかで結びつかないでいた。もう少し正直に白状すれば、その外観を見て、どうしてもそれを食べてみようという気持ちになれなかったのだった。

『湖北残照』という紀行エッセイを書き始め、湖北地方に纏わる様々な歴史や文化について調べているうちに、鮒ずしのことがどうしても気になってきた。

どんな味がするものなのか?そもそも私が食べることができる代物なのだろうか?

何度か挑戦してみようと思ったことはあるけれど、実はちょっと試してみるのにはたいへんに高価な食べ物でもある。

もしも注文してしまってまったく口にすることができないようなものであったなら、かなりの損失になってしまうことを覚悟しなければならない。

琵琶湖にはおいしい食べ物がたくさんあるので、わざわざそんなリスクを冒さなくても十分に満足できる食事を堪能することができる。私はやや意識的に鮒ずしとの「対面」を避けていたのかもしれない。

 

意を決して鮒ずしと対面しようと思ったのは、『湖北残照 歴史篇』を書き終えて、『湖北残照 文化篇』を書き始めたことに起因する。

歴史を書いている間はまだ許されると思ったものの、文化を書くにあたり鮒ずしを食べていないというのは致命的なことのように思えたからだ。食も立派な文化の一構成要素である。湖北の文化を究めたいのなら、鮒ずしを避けて通ることはできないのではないか、と思ったからだ。

ただし、私には多少の勝算もあった。

それは、私が酒飲みであるということである。酒のなかでも特に日本酒が好きな私は、自然と日本酒に合う肴を好んで食べている。旨い肴を食べながら旨い酒を飲む時間が、私にとっては何よりもの至福の時間(とき)である。

鮒ずしは日本酒の肴としても珍重されているというから、酒好きであれば口に合うのではないか。何かの根拠があってのことではなかったけれど、そんな気がした。

元々、結論は0か100かだと思っていた。

まったく食べられないか、おいしく食べられるかの二者択一で、中途半端な結果は出ないだろうと思った。

彦根に私のお気に入りの店がある。

美人の女将と腕の立つ大将が店を構える「楽座」という懐石料理店である。女将の趣味で選ぶ季節の日本酒がまたおいしくて、彦根を訪れた時には何度となく足を運んでいる。

日本酒を飲みながら、鮒ずしに挑戦してみるか。私は意を決して、鮒ずしを注文した。

呉須絵の皿に盛りつけられた鮒ずしは、想像していたよりもグロテスクではなかった。むしろ、オレンジ色の鮒の身と卵の色とが皿の紺色に鮮やかに映え、白い飯の色が落ち着いた雰囲気を作り出している。

刺身のように切り身にされ鰹節が振り掛けられた鮒ずしは、ある種の芸術作品のようにさえ思われた。

写真を見て、腐った魚にしか見えなかった鮒ずしであったが、実際にこうして目にしてみると、抵抗感はあまりない。

臭いも、思ったほど強烈ではなかった。

実は臭いについては、私は密かに危惧していた。なぜなら、写真などの映像ではまったく窺い知ることができなかったからだ。

鮒ずしは発酵食品であるというから、もしも腐臭が漂うような食べ物であったなら、口に運ぶ気にさえならないだろう。

しかしその不安は払拭された。気になる人には気になるかもしれないが、少なくとも私にとって臭いは、阻害要因にはならなかった。

外見はクリアーされた。臭いも大丈夫だった。問題は味である。

私は箸で一切れを取り、恐る恐る口に運んでみた。

緊張の瞬間である。

一気に口の中に入れて、嚙んでみた。口の中に酸っぱさと塩辛さと魚の持つ旨みとが同時に拡がった。複雑な味わいである。しかし、これはいける!と思った。

なるほど、これなら日本酒によく合う。日本酒の旨さを引き立て、日本酒との相乗効果で口の中に微妙な味が形成されていく。

私はホッと胸を撫で下ろした。

納豆を食べられるか食べられないかと同じで、これは理屈ではなく、どちらかの部類に分かれるしかない。その結果、私は鮒ずしを食べられる方の陣営に振り分けられたことになる。

単に食べられるだけでなく、おいしいと思った。ごはんと一緒に食べてもきっとおいしいだろうが、やはり日本酒を飲みながら食べるのに最も適していると思った。

私はこの場で全部食べてしまうのが惜しくなって、女将に頼んで半分をホテルに持って帰ることにした。

ホテルの部屋でまた、ちびちびと日本酒を飲みながら鮒ずしの微妙な味わいを楽しむことにしたのだ。味が濃いから、一度にたくさんの量を食べなくてもいい。たいへんに高価なものでもあるし、少しずつ、味わいながら鮒ずしを楽しみたいと思った。

その晩、酒量が進み過ぎたのは、言を俟たない。

 

そもそも、鮒ずしとはどんな食べ物なのだろうか?

私は鮒ずしそのもののことをよく知らない。まずは鮒ずしとは何ぞや、について調べていくこととしたい。

鮒ずしの歴史は古い。驚くことに、その歴史は奈良時代以前にまで遡ることができる。

何と、長屋王(天武天皇13年(684)? - 神亀6年(729))の邸宅跡から発見された木簡(長屋王家木簡)や二条大路の路上で大量に発見された木簡(二条大路木簡)のなかに、「鮒鮨」や「鮨鮒」という文字が確認されている。

また、平安時代に編纂された延喜式には、近江国筑摩厨(現滋賀県米原市)から「鮨鮒」が貢納されたことが記載されている。

奈良時代の皇族や貴族も鮒ずしを口にしていたことになる。と言うことは、鮒ずしはそれ以前から存在し、高貴な人たちにそれなりの認識を得られていたと言うことを意味している。

食品を発酵させ保存食とする技術は、有史以前から存在していた。

そのルーツを辿っていくと、タイ北部からラオス、ミャンマー、および中国雲南省あたりの東南アジア山岳地帯に求めることができるという説がある。

これらの地域では今でも、塩と米と淡水魚を使った鮒ずしとよく似た熟れずしが作られているという。

こうした保存食としての熟れずし作りの技法が水稲技術とともに大陸から伝播した、というのはいかにもあり得ることのように思える。

春先に獲れた新鮮な琵琶湖の魚を保存し長く食するための手段として、古来より湖北の人たちによって受け継がれてきたのだろう。

単に保存するだけではなく、おいしく保存する技術であったことが、湖北の人たちにとってさらに幸いした。

保存食としての原初的な食の姿を今に留めている鮒ずしは、その味わいとともに、不思議な郷愁を私たちにもたらしてくれる食べ物である。

鮒ずしの原料として使用される魚は、琵琶湖固有種のニゴロブナだ。

全長30cmくらいのコイ目コイ科の鮒で、琵琶湖の湖岸に群生する葦の中で生育し、主に動物性プランクトンを食べて生きている。

他の鮒と比べて頭部が大きく体高が低いと言う。そう言われても、地元の人であれば鮒の種類を容易に見分けられるのかもしれないが、実際に並べ比べてみないと私には違いがわからない。

他の鮒を使用した鮒ずしを作ることももちろん可能だが、ニゴロブナで作った鮒ずしが最も骨が柔らかくて味わいがあるのだという。

したがって、鮒ずしと言えばニゴロブナということになる。

しかし最近は、ブラックバスやブルーギルなどの外来種の繁殖や稚魚の生息地となる葦の減少などによりニゴロブナが減っている。

鮒ずしがたいへんに高価なものである理由は、製法が複雑であることに加えて、このニゴロブナの漁獲量が激減していることが大きく影響している。最近はニゴロブナ以外の魚でも鮒ずし(鮒以外の魚だと、鮒ずしとは言わないと思うが)の製作が試みられているものの、やはりニゴロブナにはとても敵わない。

ニゴロブナも、琵琶湖がもたらしてくれた宝物の一つではないだろうか。

 

鮒ずしは、いわゆる熟(な)れずしの一種である。

熟れずしとは、『広辞苑』第六版によると、次のようになる。

 

塩漬にした魚の腹に飯をつめ、または魚と飯とを交互に重ね重石(おもし)で圧し、よくなれさ

せた鮨。魚介類と飯などを発酵させて、自然の酸味で食べる。近江の鮒(ふな)鮨、吉野の釣瓶(つるべ)鮨

などが有名。くされずし。<季夏>

 

つまりは、いわゆる発酵食品の一種ということになる。

吉野の釣瓶鮨は、浄瑠璃や歌舞伎の「義経千本桜」の舞台として描かれた「すし屋」弥助が有名だ。しかしこの「つるべすし弥助」では、以前は鮎を使った熟れずしだったのだが、今は普通の押し鮨が出されているそうだ。

熟れずしは人によって好みの差が大きいので、次第に無難な味の押し鮨に変わっていったのではないだろうか。

今も変わらず熟れずしのままの姿を留める鮒ずしは、そう言った意味で、全国的に見ても貴重な存在なのかもしれない。

 

では、その鮒ずしはどのようにして作られるのだろうか?

滋賀県漁業協同組合連合会のホームページに「美味しいフナズシの作り方」(監修:藤原 氏(彦根市))という資料があったので、参考までに以下に全文掲載する。

 

  • 必要な物

■ 塩切り(塩蔵)したニゴロブナ 鮮魚換算で5kg

■ ブラシ(真ちゅうのワイヤーブラシ)

■ まな板(フナを洗うときの台に使う)

■ キッチンペーパー

■ ざる・かご等(洗ったフナを入れる)

■ 洗濯物(靴下)干し

■ 漬物用プラスチック桶(30号)

■ ビニール袋2枚(先の桶用)

■ ご飯(3升5合の米を炊飯)

■ 酒1合

■ 荷造り用ビニールロープ1.7m×9本

■ 重石(合計30kg)

 

  • 作業
  1. フナを水道水(流水)で洗い、塩を取り除く。 この時、口から水道水を静かに流し込み、 お腹にある塩分も取り除くことが重要 。 卵が詰まっているので、流さないように注意。
  2. 水道水を流しながらブラシで、残っているウロコを取り除く。背びれの付け根、のど元、 腹びれの下などはウロコが残りやすいので、ていねいに洗う。
  3. 水を流しながら、ブラシでフナ全体を青光りするまで磨き上げる。 体表の黒っぽい皮はほぼ完全に取り除く。鰓ぶた の裏は、親指と人差し指で擦るようにしてぬめりを取る。
  4. 磨き上げたフナはキッチンペーパーで水分を取り(頭の中も)、洗濯物干しに尾を挟んでつり下げて、風通しが良い日陰で翌日まで(数時間でもOK)干す。
  5. ご飯に漬け込む。まず、桶の中にビニール袋を 2重にして入れる。その中へ、酒に浸した手で、ご飯を2~3センチの厚さになるように敷き、よく押さえて均す。
  6. フナの鰓ぶたの下やお腹の中にご飯を詰める。この時、卵を奥へ押し込まないように、無理にご飯を詰めないこと。鰓ぶたの下にはご飯がはみ出すくらい沢山詰め込むことが重要。
  7. ご飯を詰めたフナは、お互いが重ならないように桶の中に、1重に平行に並べる。
  8. その上に、フナが隠れる程度にご飯を敷き、隙間ができないよう強く押さえる。
  9. その上に、先のフナと直角方向(井型状)に、⑦と 同じようにご飯を詰めたフナを並べる(これを繰り返し、何層にもする)。
  10. 最後にご飯をかぶせて、2枚のビニールを交互 に閉じ、しっかりと押さえる。
  11. ビニール袋の上に、桶の内周に沿わせて太縄をおき、上に内蓋をのせて、軽いめの重石(20キロ程度)をして1週間置く。
  12. 1週間後、重石を追加する(合計30キロくらい)。重石の下から桶にビニール袋をかぶせ、桶の周りを紐などで縛ると、臭気がもれない

●管理等

  • 漬け込みは、夏の土用の暑い日が良い(最初に発酵を進めることが重要で、涼しい日は不適)。
  • 桶の置き場所は、午前中に日が当たる場所がよい。
  • 特に水を張る必要はない。夏季には重石の下などに虫が発生するが、内部に侵入することはなく、そのまま放置する。12月末には食べられる。 もう少し、私なりに補足説明をしておく。 資料では、この塩漬けされた鮒の塩を取り除くところから説明が開始されているので、塩漬けするところを若干補っておく。 腹の中をきれいに水洗いした後、鰓の部分から腹に塩をギュッと押し込む。この時にも、卵が押し出されないように注意しながら、塩は十分に押し入れる。 樽の中は、塩、ニゴロブナ、塩、ニゴロブナ……というように交互に層を作りながら漬け込んでいく。樽の上部にいくに従い塩の量を多めにしておくのがコツだ。漬け込みが終わったら、木の蓋をして重石を乗せる。 これら一連の作業を「塩切り」と言う。そうすると、前述資料冒頭の「塩切り(塩蔵)したニゴロブナ」につながっていく。 本漬けの作業は、大きく二つに分かれる。 塩出しは、水洗いと塩の抜き方により味が左右される。腹の卵に注意しながら、丁寧に塩を洗い流す作業が求められる。
  •  まずは、ニゴロブナの腹に詰め込まれた塩を取り出す「塩出し」と、塩を取り除いた後に飯を入れる「飯漬け」の二つだ。
  •  塩切りをすることにより、浸透圧の作用でニゴロブナ体内の水分が抜け、コチコチの状態になる。こうして本漬けを待つのである。
  •  このままの状態で夏の本漬けまでの間、樽の中で寝かせておく。
  •  塩漬けが終わったニゴロブナを樽に詰めて保存する。
  •  まずはニゴロブナの鱗を丁寧に取り除き、腹の卵を傷つけないように注意しながら鰓(えら)の部分から内臓を抜き取り、また目玉も取り除く。
  •  ニゴロブナを獲るのは、春の季節だ。鮒ずしを作るのは説明資料にもあるとおり夏の暑い日だから、それまで塩漬けして保存しておくことになる。

塩を抜き終えたら、ニゴロブナの腹に飯を詰め込む。飯には、焚いてよく冷ました良質の飯を使用する。米どころである近江米が鮒ずしの味を引き立てるのに最適であることは、言うまでもない。

この飯漬けの工程が最も重要であり、完成後の味を決定的に左右する。

代々鮒ずしを作り続けているある老舗の鮒ずし店では、この工程は主人のみが行う秘密の工程とされているという。

何年も鮒ずしを作り続けているベテランであっても、年によって微妙に味わいが異なるというから、この作業がいかに繊細なものであるかが理解されるだろう。

乳酸菌という自然界に存在する微細生物の発酵を利用するものであるから、ある意味自然の成り行きに任せる部分が存在し、その微妙な変化が味の深みや幅となって現われてくる。

塩加減、飯の量、その時の気温、それら様々な条件が相互に影響し合いながら、長い時間をかけて発酵し、そして深いコクと旨みとが醸成されていくのだ。

 

鮒ずしの製作工程はこのように複雑でたいへんに手間のかかる作業である。しかも、春に塩切りをして夏に飯漬けをし、それから発酵を待つのであるから、実際に口にするまでには1年弱の長い時間を必要とする。

鮒ずしが高価な食品であるのもむべなるかな、である。

琵琶湖にしか生息しない貴重なニゴロブナを使用し、手間暇かけ多くの工程を経て漬け込み、長い時間を費やして作り上げていった鮒ずしだからこそ、一切れ一切れ味わいながらじっくりと食べたいし、またそういう価値のある食べ物なのだと思う。

 

この章のはじめにも書いたとおり、鮒ずしは誰もが食べられる食品ではない。おいしく感じるか感じられないかの前に、食べられるか食べられないかの関門が待ち構えているからだ。

鮒ずしのいかにも発酵した食品らしい外見や臭いを生理的に受けつけられない人も多いだろうと思う。

世の中には納豆を食べられる人と食べられない人とが存在するのと同じ理由だ。これは、理屈ではない。臭いが気にならない人にとっては何でもないことが、臭いを感じてしまう人にとっては、生理的にどうにもならない障壁となってしまう。

しかし食べられない人にとっては、食べられないことを残念に思う人は少ないかもしれない。むしろあんなグロテスクな食べ物を好んで食べる人の気が知れないと思っていることだろう。

それはそれでいいのだと思う。

幸いにして食べることができる人は、自分が鮒ずしを食べられる存在であることを幸運だと思ったらいい。そして、鮒ずしの微妙でかつ絶妙な味わいを思う存分堪能することだ。

鮒ずしは、発酵食品として乳酸菌が豊富に含まれていることから、腸内の善玉菌を増殖させる整腸効果があるとともに、美肌や美白にも効能があると言われている。

また、含まれている豊富なミネラルやビタミンB1などにより、滋養強壮、風邪、便秘、下痢などにも効き目があると地元では昔から語り継がれている。

柔らかくなった骨ごと食べるので、カルシウムの補給にも適しているだろう。

ちなみに、臭いと言うがどのくらいの臭さなのかというと、概ね納豆やくさや(・・・)(焼く前)や沢庵と同じくらいの臭さなのだそうだ。

どんな食べ物なのか私には想像すらできないが、シュールストレミングという食べ物は鮒ずしの16倍、ホンオフェという食べ物は13倍弱、焼いたくさや(・・・)だと2.6倍も臭いというから、上には上があるものである。

 

そんな健康食品でもある鮒ずしのおいしい食べ方について、インターネットで調べてみた。一例として、近江八幡市安土町下豊浦の有限会社魚善さんのWebサイトから引用してみたい。表記方法もWebサイトの表記に従った。

 

  1. 生姜醤油をつけていただく。生姜は溶かさずに香りとともにいただきます。
  2. 日本酒、焼酎は無論、チーズとあう白ワインと、鮒寿司の切り身をそのままでも良し。クラッカーに載せて召しあがっても、どちらも今までにない新しい味覚の体験です。
  3. 茶漬けはおどろくほどあっさりとしてうま味が際立ちます。お茶碗に温かいご飯を少し。鮒寿司2~3切にとろろ昆布や刻み塩昆布をいれ、熱いお湯を差す。醤油を2~3滴たらしよくかき混ぜていただきます。
  4. 茶漬けの要領にてご飯をいれずに吸い物に。針生姜を入れていただきます。
  5. 寿司飯とのコラボは、いうなれば鮒寿司の握り寿司。わさびではなく木の芽を挟んでいただきます。
  6. カラッと天ぷらにして、まずは切り身に衣をつけ、青じそでくるみ、もう一度衣を薄くまとわせて熱い油でさっと揚げます。天つゆ、または焼き塩で。
  7. 「ひれ」を切り取り強火の遠火で、じっくりカリカリに。熱々の日本酒に浮かべ待つこと2分。美味しいひれ酒との出会いに思わずほほが緩みます。●頭も尾もあますところなく食べられます。

 

読んでいるだけで、思わず涎(よだれ)がこぼれてきそうになった。

この他にも、鮒ずしの切り身を雑炊に入れたり、味噌汁に入れたりといった食べ方もあるようだ。

また変わり種では、鮒ずしと一緒に漬け込んだ飯を使用して「飯アイス」を作ったり、同じく発酵した飯を食パンに塗りチーズとともに焼いた「飯トースト」などというアイデアもあった。

発酵した飯は、意外とチーズと相性がいいものなのかもしれない。

何はともあれ、世にも不思議な食べ物であり湖国が生んだ至高の味覚でもある鮒ずしを、(食べられる方は)是非ご賞味あれ。

 

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百済寺樽

百済寺樽

 

百済寺

 

日本酒好きが昂じて、ついに酒米作りから日本酒に関わることになってしまった。

百済寺樽という日本酒を造るために、その材料となる酒米を栽培する作業からプロジェクトに参加することになった。

 

百済寺とは、滋賀県東近江市百済寺町にある古刹の名前である。

百済寺と書いて、「くだらじ」とは読まずに「ひゃくさいじ」と読む。

近隣の西明寺、金剛輪寺と合わせて「湖東三山」と呼ばれ、紅葉の名所として地元の人たちにはつとに有名な寺である。

湖東三山については、前著『湖北残照 文化篇』で少し詳しく紹介しているので、併せて参照していただけるとありがたい。

百済寺庭園の紅葉

 

私は紅葉を見るために、ほぼ毎年のようにこの寺を訪れている。秋の季節になると、寺を訪れるための車の列が延々と続く。

 

寺の創建は聖徳太子の時代にまで遡る。

聖徳太子が師である高句麗の高僧慧慈(えじ)を伴い近江国の太郎坊山を訪れ滞在していた時のことである。東の山並みの中に不思議な光を見た。夜が明けてからその光が放たれたであろう場所を探してみると、山中に枯れた杉の大木を見つけた。

その杉の木の周りにはたくさんの猿たちが群がり何かの儀式をしているようにも見え、また木の根元には供えるようにして果物などが整然と並べられていた。

杉の木は、上半分が無くなっているものの不思議なオーラを放っていて、容易には近寄りがたい不思議な力が周囲を支配していた。

「これはいったいどうしたことであろうか?」

聖徳太子の問いに慧慈は、

「この木の上半分は十一面観世音菩薩像を造る材料として伐り出され、百済国(はくさいこく)の龍雲寺(ヨンウンサ)に渡ってご本尊として崇められています。」

と答えられた。

「この木は、百済国と日本国とを取り結ぶ霊木であらせられましょう。残された木を使って百済国の龍雲寺の十一面観世音菩薩像と向き合うように日本国にも十一面観世音菩薩像を彫ってお供えしましょう。」

聖徳太子はそう言うと、根が付いたままの状態で杉の木に刀を入れ、十一面観世音菩薩像を彫り始めた。その像が完成すると、百済国と日本国とを結ぶ寺としてこの百済寺を勅願により建立した。

時に、推古14年(606)のことであった。

この時に聖徳太子が彫られた十一面観世音菩薩像は、度重なる堂宇の焼失の際にも難を免れ、今でも百済寺の本堂にご本尊として祀られている。世に言うところの「植木観音」である。

植木観音は秘仏であり、普段は見ることができない。おおよそ50年に1度のご開帳というから、一生のうちに一度拝めるかどうかの仏様ということになる。

その後、百済寺は天台宗の寺となり、多くの堂宇を擁する大寺として大いに興隆した。

この寺に大きな転機が訪れたのは、安土桃山時代のことだった。

元々南近江を支配していたのは佐々木源氏の血を引く六角氏であった。そこへ、天下統一を目指す織田信長が近江国へ攻め込んできた。天正元年(1573)4月のことである。

六角氏に付くか織田氏に付くかの選択を迫られた百済寺は、長く南近江の統治に君臨してきた六角氏に付くことを選択した。

百済寺は密かに六角氏の支城である鯰江(なまずえ)城に兵糧を送るとともに、鯰江城にいた婦女子を山内の僧坊に匿った。

この行為が百済寺に進駐していた信長軍の知るところとなり、信長の強い怒りを買った。六角氏を密かに援助する行為を信長に対する敵対行為と考えた信長は、百済寺の徹底的な焼き討ちを命じた。

おおよそ半月間にも亘って燃え続けたという百済寺は、完膚なきまでに破壊された。三百坊と伝えられる堂宇は悉く灰燼に帰し、城塞のように積まれた石垣は安土城築城のために崩されて運び出された。

 

この時に失われたものは、堂宇や石垣だけではなかった。

実は、百済寺に延々と伝えられてきた僧坊酒である「百済寺樽」の醸造技術がこの時に数多の僧坊や石垣とともに消し去られてしまったのであった。

僧坊酒とは、密かに寺の僧坊にて醸造された酒のことである。

仏教では酒は禁物であるがそれは表向きで、僧も人の子であり寺でも密かに酒造りが行われていたとは、百済寺の住職の言である。

現実的には、酒を造るのにはそれなりの資本力が必要であり、官衙による酒造が衰えてくると、酒の造り手として寺院が次第にその役割を代替してきたのではないかと思えなくもない。

かつてはいろいろな寺で僧坊酒が「密造」されていたのかもしれないが、畿内では近江国百済寺(百済寺樽)のほかに、大和国正暦寺(菩提泉)、大和国興福寺(南都諸白)、河内国金剛寺(天野酒)の僧坊酒がつとに有名で、そのなかでも百済寺の「百済寺樽」は超一流の銘酒として知る人ぞ知る存在であったという。

百済寺樽が室町幕府にも献上されていたことが古い文書(もんじょ)にも記録されている。

百済寺樽の説明版

 

当時の寺は単に仏教の修業道場としての存在に留まらず、様々な才能や能力を持った人材が集まり、学問や文化の担い手としての役割をも果たしていた。酒造りにもそういった文化としての側面があったものと考えることができる。

幸いにして、近江国は米どころであり、酒の材料となるべき良質の米を採ることができた。また、百済寺の近辺には鈴鹿山脈の伏流水がもたらす豊富な良水が存在していた。そこへ酒造りの技術を持った僧が加われば、最高品質の日本酒を造ることができたであろうことは想像に難くない。

大寺である方が様々な能力に長けた人材が集まりやすく、従って大寺の方がうまい日本酒を造る技術も発達していたと考えることができる。

当時の百済寺がいかに大きな力を持った寺であったかということの一つの証明であるかもしれない。

実に残念なことに、百済寺の伽藍も百済寺に伝わってきた百済寺樽の醸造技術も、信長の焼き討ちによってすべてがこの世から消え去ってしまったのであった。

 

百済寺の堂宇はその後、江戸時代になり徳川幕府の力によって再建された。重要文化財に指定されている今の本堂は、慶安3年(1650)に再建されたものである。最盛期の規模までの再興には至らなかったものの、百済寺は今現在も相当の寺域を誇っている。

伽藍は再建されたけれど、百済寺樽の醸造技術は復活しなかった。

酒を造るには杜氏職人が必要だが、一度離散してしまった職人を百年近く後の時代に集めなおすことは難しかったに違いない。さらに、酒造りの主体が寺から民間の醸造所へと次第に移りつつあったことも影響していたと私は思っている。

例えば、伏見の銘酒月桂冠の創業は寛永14年(1637)、富翁の創業は明暦3年(1657)、神聖の創業は延宝5年(1677)と言われている。百済寺の堂宇再建の時期とほぼ重なっていることがわかる。

これら民間の醸造所に杜氏職人を奪われるかたちで寺から酒を造る技術が消失していったのではないかと私は推察している。

民間の醸造所の興隆とともに、百済寺樽のことも次第に人々の記憶から消え去っていった。

 

 

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比叡山一日回峰行挑戦の記 

この度の「平成30年7月豪雨」で亡くなられました方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆様に衷心よりお見舞い申し上げます。
平穏な日々が一刻も早く戻ることをお祈りいたします。

 

一日回峰行 終わりに

 

こうして、私の一日回峰行は終わった。

本来であれば、午前2時に居士林研修道場を出発してから9時に戻ってくるまでの間のことだけを書けばよいのだが、私の一日回峰行の修行は前日の朝に比叡山の麓を訪れた時からすでに始まっていると思っている。

そこからのこと全部を含めて私の一日回峰行なのだと言える。だから、少し長くなってしまったけれど、比叡山に到着してから比叡山を出るまでのほぼ24時間を、私の一日回峰行としてまとめた。

 

突然だが、千日回峰行の行者になるには、どうすればなれるのだろうか?

当然のことではあるが、誰もが行者になれるわけではない。

まずは最低でも7年間、僧侶としての基礎的な修行が必要となる。比叡山ではいわゆる住職を務めることができる僧になるために7年間の修行が必須であり、千日回峰行の行者になるためにもこの7年間の修行が出発点になる。

さらにその後、千日回峰行を満行された大行満大阿闍梨に最低でも3年間は付いて研鑽を積まなければならない。

師の推薦が得られて初めて、千日回峰行の行者としての選考を受ける資格が得られるのだそうだ。

選考では、比叡山の長老による満場一致の賛成がないと行者になることは認められないという。

そして、選考を受けるチャンスは一度しかないので、もしもこの時に満場一致の賛成が得られなければ、その人はもう一生、千日回峰行の行者になることはできないのだそうだ。

少なくとも10年間の修行を経て、日頃の素行や人格など様々な観点からのチェックを受けてこの人ならばという人でなければ行者になることさえできない。

まさに狭き門である。

 

千日回峰行について、私たちにもっとも鮮明な印象を与える言葉は、次の言葉ではないだろうか。

 

行ならずば死あるのみ

 

ひとたび千日回峰行の修行をやり始めたならば、途中で完遂することができなくなれば、死ぬしかない。

どんなことがあっても、途中で止めることが許されない修行であるということだ。

千日回峰行の行者の白い装束はいわゆる死装束であり、行者が首をくくるための紐と自決するための短剣とを携えているのも、そのことの現れとされている。

台風が来ても地震が起こっても休むことは許されないし、病気になったり怪我をしたりしても止(や)めることができない。

その厳しさばかりが強調されているような気がするが、千日回峰行の本質はもう少し別のところにあるような気がする。

今回、一日回峰行に参加してみて、一つは積み重ねることの大切さであり、もう一つは思考することの尊さについて私は学んだ。

今回の私のように、一日だけならできる人はたくさんいるだろう。

でも千回積み重ねることができる人は、ほんの一握りしかいない。一日を千回積み重ねることが如何に難しいし意義のあることであるかということを、今回の一日回峰行を通じて強烈に感じている。

しかも、千日の回峰行は一日一日が一期一会で、同じ一日がけっしてないのと同様に、同じ千日回峰行はけっしてない。

毎日天候も違うし季節も移ろっていく。その日の体調も異なるし気持ちも毎日同じではない。

同じことを繰り返しているようでいて、同じことでないのが千日回峰行なのではないだろうか?

そういうなかで、千日もの回峰行を一日一日積み重ねていくというのは、並大抵のことでできることではない。

十日ならできるかもしれないけれど、百日となると難しい。

百日できても、二百日はできるかわからない。そういうことの積み重ねが、千日という数字の意味であり意義なのではないだろうか。

そして、歩いている間にいろいろなことを考える。

その考えるということ自体が、行者にとっての修行であると同時に大きな宝となるのではないか?

たった一日だけの行であったけれど、私もいろいろなことを考えた。こんなに考えたことは、これまでの私の人生においてなかったかもしれない。

考えること。それが一日回峰行の大きな目的なのではないか。

歩きながら考えて、私が得た結論である。

まだ一回しか歩いていないから、次はどんなことを考えながら歩くのか、わからない。

おそらくは、最初に歩いた時のことを考えながら、新たに発見したことなどについて考えていくのだろう。

季節も異なるし天候も異なるので、見たり聞いたりする周囲の環境はそれこそ無限通りの組み合わせがあるはずだ。

毎回新鮮な気持ちで歩くことができれば、毎回いろいろなことを考えることができるのではないか。

 

今回、千日回峰行の行者が歩くのと同じ道を同じ時間に歩くことができて、大いなる達成感を感じることができたし、大いなる感動を得ることができた。

しかし今回の一日回峰行と千日回峰行とでは決定的な違いがあった。

私たちが参加した一日回峰行は、列の前後左右を4人の僧に守られての行程であった。

一人で行くのではなくベテランの僧が4人も付いていてくれるのだから、常に見守られているし、何かあっても大抵のことは何とかなるだろうという安心感があった。

ところが、千日回峰行の行者は本当に一人での孤独な行程である。

万一のことが起こったとしても、誰も助けてはくれない。そういう緊張感のなかで歩くのとある程度の安心感があるなかで歩くのとでは、精神的なプレッシャーが全然違う。

だから、私は千日回峰行の行者が歩くのと同じ道を歩いたけれど、行者とまったく同じ体験をしたとは思っていない。

擬似体験と言えばいいのだろうか?本質的には行者の行動とはまったく異なる表面的には似たような体験をしたということだと思っている。

それでも、うれしかった。

たとえ表面的であっても、ほんの少しだけでも行者に近づくことができたと思う。

一日回峰行は、また来年もほぼ月に1回のペースで開催されるという。

一日回峰行を一日回峰行で終わらさずに、二日回峰行、三日回峰行と続けていけたらいいと思っている。

その時に、私はどんなことを考え、どんなことを学ぶことができるのか、考えてみただけでもうれしくなってくる。

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比叡山一日回峰行挑戦の記

比叡山一日回峰行挑戦の記

一日回峰行 登り(律院~無動寺坂~居士林)

6時15分に律院を出発する。

後から律院に到着した女子班の人たちは、先に叡南師のご加持をいただいた後に朝食を食べることになっていた。

律院を出発する頃には、もうすっかり夜が明けていた。新しい一日の始まりの凛とした厳かな雰囲気が漂うなかを、私たちは比叡山を目指して再び歩き始めた。

これからの道程が容易なものでないことはわかっていたので、私の心の中は再び緊張感で満たされてきた。

一度登り始めたら、もう引き返すことはできない。行くしかない。ある意味、悲壮な決意だった。

坂本の延暦寺に所縁のある里坊や寺院などが建ち並ぶ前を通り過ぎ、比叡山病院という病院の横に現れた登山口から登り始める。

後ろから何かに照らされたような感覚を感じて思わず振り返ってみると、ちょうど琵琶湖の向こう側から太陽が顔を出したところだった。

眩い光に照らされて、東側の空が燃え上がっている。思わず足を止めて見入りたくなるような荘厳な夜明けの風景だった。

しかしそんなことにはお構いなしに、引率の僧は真っ直ぐに前のみを見て坂道を登っていく。従っている私も、後ろの景色に浸っている心の余裕はなかった。

最初のうちは舗装された広い幅の林道のような道だったけれど、すぐに細くて角度の険しい山道となる。

その後は、ひたすら登るだけの厳しい道が続いた。

登りになって、引率の僧の歩く速さが一段と速くなってきたように感じられた。

最初の10人くらいは必死に食らいついているけれど、その後は次第に遅れが目立つようになっていって、列が間延びしていく。

私はちょうど10人目くらいのところで何とか付いて行こうとしていたのだが、途中で靴紐が解けてしまったため、道端で紐を結び直している間に何人もの人に抜かれていった。

まん中くらいの位置で歩いていると、それほどのスピード感を要求されずにある程度マイペースで登ることができた。

体力的には楽になったけれど、先頭との距離は間違いなくどんどん拡がっているはずだった。

人生も同じで、常にトップランナーでいないと先頭集団からどんどん離されて差がついていってしまう。

そして一度ついた差は、なかなか挽回することができない。

先も見ず、後ろも振り返らず、ただただ次の一歩を踏み出す場所だけを見つめて登り続けた。

足を上げる度に太ももの筋肉が悲鳴を上げた。しかし登らなければならない高さは決まっているので、一歩一歩で稼いだ高さの分だけ間違いなくゴールに近づいていくのだ。

私は歯を食いしばって急な山道を登っていった。

それにしても、厳しい登り坂だった。心臓の鼓動が強く打ち付ける音が聞こえる。休みなしで30分ほど登ったところで、やっと小休止が入った。

休憩が少ないのは、道が険しすぎてたくさんの人が一時(いちどき)に休むことが出来るようなスペースがなかなか見出せなかったということもあるのかもしれない。

立ち止まると、心臓は楽になるけれど、その代わりに汗がどっと吹き出る。

居士林を出発する時にあんなに凍えていた身体が、今は火照って熱い。

休憩している間に続々と後続部隊が到着してくる。

みんな、激しい登り坂に表情が歪んでいる。引率の僧が涼しい顔をしているのとは対照的だった。

暫しの休憩の後、再び出発する。

途中で案内板や道標の標柱などがあるのだが、そんなものにはお構いなしに僧はずんずんと道を進んで行く。

従って、今どういうところを通っているのか皆目見当がつかない。

事前に地図で見た記憶から、ケーブルカーの走る左側を歩いていることだけは容易に想像ができた。

昨日、ケーブルカーに乗って比叡山に向かっている時に、座席に坐って窓の景色を眺めているだけでも急坂で驚いたものだが、その坂道を自分の足で登っているのだから、我ながら信じられない気がする。

とにかく道が険しくて、ひたすら登るだけの坂が延々と続いていた。

普通の山道は、登りのなかにも一時的に下りの局面もあって、登ったり下りたりのなかで登っていくものなのだが、無動寺坂は下る局面がなくてただただ登り坂があるのみだった。

道はすべて登り坂なのだが、その中でもとりわけ厳しい登り坂を登った後に訪れる比較的緩い登り坂に差し掛かると、ほんの少しだけだが楽に感じられる時がある。

平坦な道を歩いているときつく感じられる坂道でも、より厳しい坂道を登っていればむしろ楽に感じられるということを実感した。

人生も同じで、いつも楽な人生を歩んでいると、少しのことでも辛く感じられてしまうものだ。

登り坂を登りながら、いろいろなことを考えた。

暗い山道を歩いている時にもいろいろなことを考えたけれど、苦しい登り坂でもいろいろなことを考えた。

何度かの休憩を挟んで、さらに登り続けると、突然、道が下りに転じた。

せっかくここまで登ってきたのに下るということは、その分、さらにまた登らなければならないということである。

これはつらいなぁと思っているうちに、道はどんどんと下っていく。

どこまで下るのだろうと思っていたら、道はついに谷川がささやかに流れる谷底にまで降り着いてしまった。

周りの展望が展け、明るい太陽の光が差し込む気持ちのいい場所だった。

ここが無動寺谷であろうか?

相応和尚がこの地を選んだわけがわかったような気がした。

谷というのだから、下っていかないと辿り着かない。問題は、ここから無動寺までどれくらい登って行かなければならないかだった。

一度下り坂で緩んだ気持ちと筋肉とを再び奮い立たせるのは、なかなか容易なことではない。

しかしここでリタイアするわけにはいかないから、また急な登り坂を渾身の力を入れて登り始めた。

幸いなことに、少し登ったところで上方に何やら人工的な建造物の一部が見えてきた。

もしかしたら、玉照院の建物ではないだろうか?昨日無動寺明王堂からさらに降りてきて、もうここから先は行けないと思って引き返したあの寺院であったらうれしいと思った。

その真偽を確かめるべくさらに坂道を登って行くと、目の前に急に視界が展けて見覚えのある変わった形をした山門が見えてきた。

間違いなく玉照院だ。

もうここからは知らない道ではない。私はこの瞬間に、一日回峰行の満行を確信した。

ここから先、居士林まではなお登りの道が続くものの、険しい山道はもうないしほぼ知っている道だった。

一日回峰行に所縁のある無動寺地区に入ったので、もう少し各寺院を巡りながら明王堂を目指すのかと思っていたのだが、引率の僧は玉照院も大乗院も軽く手を合わせただけで先を急ぐようにして歩いて行く。

昨日私が偶然見つけた相応和尚入寂の地も軽く手を合わせただけでほとんど素通りだったのは意外だった。

引率の僧は、一路、明王堂を目指してずんずんと進んで行く。

そして、急角度な石段を登り切り、明王堂の前の広場に到着した。7時40分のことであった。

律院を出発したのが6時15分だったから、思っていたよりも本当の登りに要した時間は長くはなかったことになる。

全員が揃うのを待って整列し、般若心経を読経する。

明王堂の横には相応和尚の像もあるのだが、引率の僧からは何の説明もなかった。

千日回峰行の創設者なのだから、この一日回峰行においてはもっと相応和尚に焦点を当てた解説があってもいいのではないかとやや物足りない思いを抱いたのは私だけであっただろうか?

相応和尚や堂入りのことなどは、この文章の最初の章で書いたので、ここでは繰り返さない。

私たちは暫しの間、明王堂からの絶景を楽しんだ。

前にも書いたとおり、ここから眺める琵琶湖の眺望は美しい。誰となく参加者の人たちがカメラや携帯を取り出してその景色を写真に収めていた。一日回峰行はハイキングではなく修行である。本来は修行の最中に写真を撮るなどということは許されないと思われるのだが、ここまで帰ってきた安堵感も拡がっているなかなので、引率の僧も見て見ぬふりをしてくれていた。

十分な休憩と美しい眺望とに息を吹き返した私たちは、再び東塔へと向かう坂道を登り始めた。

坂道と言っても舗装された道であり、無動寺坂の山道とは比べようもない。

8時20分に根本中堂を見降ろせる広い階段の前に至る。

さすがにこの時間になり延暦寺の中心的建造物前となると、参拝客がちらほらと現れ始めている。

この場で7回目の般若心経読経を行う。

根本中堂はちょうど今、平成の大修理が行われている最中で、建物全体が覆い屋根に覆われていて、その傍らにはクレーン車の姿が見られる。お馴染みの根本中堂の壮観な景色を見ることはできないけれど、その代わり、覆い屋根に覆われている根本中堂を見る機会は私が生きている間にはもうないだろうと思った。

そう思えば私は今、貴重なものを見ていることになる。

引率の僧から根本中堂の由来や不滅の法灯などの説明を聞いた後、浄土院に向かって歩き始めた。

8時40分に浄土院に到着する。

浄土院は、延暦寺の開祖最澄の廟所で、比叡山の中でも最も「清浄」な場所である。

何事にも先達はあらまほしきものなり。

実は以前この場所を訪れた時には、手前の建物を見ただけで知らずに帰ってしまったのだが、引率の僧の説明により最澄の廟が建物の後ろにあることが今回初めてわかった。

浄土院は、千日回峰行と双璧を成す比叡山で最も厳しい修行である十二年籠山行が行われている場所でもある。

千日回峰行が動の荒行と呼ばれるのに対して、十二年籠山行は静の荒行とも言われている。

十二年間、浄土院の外に一歩も出ることを許されず、ひたすら最澄に仕える毎日を送らなければならない。

延暦寺では、今も最澄の魂が生きていると考えられていて、最澄の肖像画に朝晩の食事を供え、祈りを捧げる毎日を過ごさなければならない。

千日回峰行は毎日違う環境のなかを千日間歩き続ける修行であるのに対して、十二年籠山行は十二年の間、何一つ変わることのない環境のなかで全く同じことを日々続けていく修行である。

変わっていくのは周囲の環境ではなくて、自分の内面ということになるのだろう。

十二年という歳月は途轍もなく長い時間である。その間に、少しずつ変わっていく自分を自覚しながら、しかしどんなことがあろうと一日たりとも休むことが許されないというのは、並大抵のプレッシャーではあるまい。

現に、十二年籠山行では、満行に至らずに病を得て亡くなる人の割合が1~2割もいるという。それだけ十二年という歳月が長く厳しい年月であることを物語っているのだ。

浄土院前で最後の般若心経を唱え、釈迦堂を経て居士林まで戻った。

 

ちょうど9時だった。

深夜の2時に出発してから7時間。何とか無事に帰ってくることができたことへの安堵感と、たった一日ではあったけれど千日回峰行の行者が歩くのと同じ道を歩くことができたという達成感とで、胸が一杯になった。

出発の時と同じように居士林前の空き地に整列して、後続部隊が到着するのを待った。

結局、大きく遅れている2人を除いて49人が到着したところで、解散となった。遅れていた2人もその後に無事到着したとのことで、参加した51人全員が無事に満行したことを聞いて安堵した。

部屋に戻ってお風呂に入り、さっぱりして居士林を後にした。

疲れているのかもしれないが、気持ちが高揚しているからか疲労感はなかった。

朝と言ってももう早朝とは言えない時間になっていたけれど、それでも朝の空気が爽やかに感じられた。

まだシャトルバスが動き出す時間の前なので、参拝客も日中に比べたらかなり少ない。

私は、昨日訪れることができなかった浄土院を訪ね、今度はしっかりと最澄の廟所まで行って手を合わせて拝んで、さらに東塔のバスセンターまで歩いて、バスとロープウェイとケーブルカーとを乗り継いで京都側の八瀬まで降りて比叡山を後にした。

振り返ると比叡山のボリューム感のある山容が大きく見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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比叡山一日回峰行挑戦の記

 

一日回峰行 下り(居士林~横川~律院)

 

外の空気は冷たかった。

居士林の玄関を出た途端に、刺すような空気が露出している顔に突き刺さる。

先導される僧の指示に従い、居士林前の空き地に集合し、きれいに4列に整列して並ぶ。

参加人数の関係で男性班と女性班とに分けられていたから、いま集まっているのは男性のみだ。総勢51人の集団である。

男性が2時に出発し、30分遅れて女性が2時30分に出発することになっていた。

いよいよかと思うと、途端に緊張感が高まってくる。無事に帰って来ることができるだろうか?不安はあるが、自分が選択した道だから、前に突き進む以外に選択肢はない。

ヘッドライトを点けてみたら、空中に白いものがたくさん浮いて見えた。

最初はこの季節なのにちいさな虫が飛んでいるのかと思ったけれど、よく見てみたら雪だった。

積もるような雪ではなかったが、雪がちらつくほどに冷え込んでいるということだ。

しかしこの寒さだというのに、引率の僧は、薄い作務衣だけの軽装だった。

きれいに剃り上げた頭には、帽子さえ被っていない。さすがに草鞋ではなく運動靴を履いていたけれど、寒さに対して完全武装で臨んでいる自分を恥ずかしく思った。

修行を積んでいくと、雪がちらつく寒さの中でも薄着でいることができるようになるのだろうか?

全員揃ったところで、出発する。

出発前に言われていたことは、これから1列でないと歩けないような狭い山道に入っていくので、前の人との間隔を空けないようにするということだった。付いていけないと思ったら、後ろの人に先に行ってもらうようにすること。

聞いた時には、それほど難しい注意事項ではないと思った。

 

すぐに釈迦堂前に至る。

当然のことだが、内陣の特別拝観で昼間にはたくさんの参詣客で賑わっていた釈迦堂前の広場に、人っ子一人いない。

ここで立ち止まり、一礼して手を合わせた後、最初の般若心経読経を行う。

引率の僧から釈迦堂についての解説を聞く。

ここは西塔地区の中心建造物で、比叡山で最も古い建物になるのだそうだ。

と言っても、創建当初のものではない。信長による焼き討ちにより、山内の建物は全て灰燼に帰してしまったからだ。

今の釈迦堂の建物は、信長の死後に豊臣秀吉が大津の園城寺(三井寺)から移築したものだという。

貞和3年(1347)に建てられたものだというから、それでもなかなかに古くて風格のある建物である。

ここ釈迦堂をスタート地点として、私たちは引率の僧に従って比叡山の山中に分け入って行くことになる。

いきなり、細い上りの道となった。

それまで2列で歩いていた列を1列にして進んで行く。

街灯もなくなり、完全に真っ暗な山道となる。

新たに購入し持参したヘッドライトの効果は歴然で、これから踏み出そうとする我が足元をピンポイントで照らしてくれた。

木の上などで寝ている鳥や動物たちの安眠を妨げないために、ライトを上方に向けて照らしてはいけないと言われていた。

思っていたよりも足元はよく見えた。反対に、ヘッドライトで照らされている足元以外は、真っ暗で何も見ることができない。

自分が今どこを歩いているのか、道の向こう側は林なのか平地なのかそれとも池なのか、さっぱりわからない。

とにかく自分の目の前にある道を誤たずに歩くことだけに意識を集中せざるを得なかった。

山道を歩き始めてわかったのだが、歩くスピードが相当に速い。上り下りの変化の激しさもあるけれど、前の人との間隔を空けずに歩くことがとても難しかった。

とにかく遅れないようにと、そのことだけを考え、前の人との間隔を常に注意しながら、足元に集中して歩いた。

私には、平坦な道を歩くのはそれほど速くはないけれど、山道を歩くのはけっして遅い方ではないとの自負があった。

その私がついて行くのがやっとなのだから、先頭を行く引率の僧は相当のスピードで歩いているに違いない。

私たちのことを斟酌して速度を落とすということをしないで、僧が普段歩いている速さで歩いているのだと思う。

そのスピードを体感して、改めて僧の凄さを実感した。

おそらく千日回峰行の行者は、もっと速く比叡山の山中を歩き巡るのだろう。

以前に見たDVDで千日回峰行に挑戦中の酒井師は、ほとんど走るようにして山を駆け巡っていたことを思い出した。

真っ暗な中で山道を歩いていると、いろいろなことを考える。

もしかしたらこのことが、千日回峰の行を深夜に行うことの一つの理由(わけ)なのかもしれないと思った。

いま私が見えるものは、ヘッドライトの光に照らされた足元のほんの限られたスペースでしかない。

その限られたスペースにすべての注意力を集中しないと、私は足を踏み外して転けてしまうだろう。

運が悪ければ奈落の谷底に転落して一命を落としてしまうかもしれない。

だから、余念を排して足元のただ一点だけを見続けている。

暗闇の中を歩くということは、景色だとか周囲の地形だとかそういう情報一切を遮断することと同義となる。

遮断したくなくても、何も見えないのだから自分の力では如何ともしようがない。

そういう状況の中に自分の身を置くことによって、余念を排し自然と足元にすべての神経を集中させることができるのだろう。

次の一歩をどこに踏み出すか。

簡単なことのようだけれど、実はこれが難しい選択であることを知った。

次に私が足を置こうとしている石は浮き石ではないだろうか?あるいは、右の石と左の石とどちらの方がより安全だろうか?

次の一歩を踏み出すまでのごく短い時間の間に、私はいろいろな可能性と危険性とを考え、また実際の足元の状況を観察して、決断を下す。

その決断の一つ一つはちいさな決断かもしれないけれど、そのことの積み重ねがなければ一日回峰行は成し遂げられない。

平坦な道を歩いているのであれば、次の一歩をどこに踏み出そうとそれほど大きな問題にはなり得ない。

ところが真っ暗な山道では、極端に言えば踏み出した一歩が命取りにもなり得るのだ。

次に足を置こうとしている石は頑丈な石だろうか?苔で滑ったりはしないだろうか?落ち葉を踏んで滑るようなことはないだろうか?

そんなことを一歩一歩考えながら歩いて行くのは、なかなか気持ちが疲れることだった。

しばらく一列になって歩いて行くと、おもしろいことに気づいた。

完全に転ばないまでも、ズリッと滑って転びかけることがたまにある。

大抵はそこで踏みとどまって転ばないのだが、ズリッと滑って転びそうになる人は、何度も滑ることに気がついた。

滑らない人は全然滑らないのに、滑る人は何度も滑る。そしてその延長線上として、必ず転ぶ。

何度か転びそうな危ない目に遭うと、どこかで本当に転ぶ可能性が高いので、そういう場合にはよくよく注意をしなければならないということなのだろうと思った。

やがて、広場のようなところに到着して、ストップがかけられた。

真っ暗なのでよくわからないけれど、ここは狩籠の丘と呼ばれるところで、伝教大師最澄が延暦寺を建立するに際して、魑魅魍魎たちを岩で作った結界の中に封じ込めた神聖な場所なのだそうだ。

今もあるという三角形を形成(かたちな)す三つの岩の間の場所には、悪霊たちが封じ込められているという。

この狩籠の丘に限らず、夜の比叡山には特に、どこにでも魔物が潜んでいそうな気がする。

狩籠の丘を過ぎるとまた暫くは上ったり下ったりの山道が続く。

一段と速さを増してきた引率の僧のスピードに負けないように、必死になって足元を見つめながら歩いていく。

次に一行が止まった場所は、止まった理由がすぐにわかった。居士林を出発してから50分が経過していた。

それまでずっと遠くの視界が見えない真っ暗闇の中の歩行だったのだが、引率の僧が立ち止まった小さなスペースからは宝石のような街の灯火(ともしび)が見えた。

京都の街の灯である。

左の方に四角い真っ暗な空間が見えるのは、御所だそうだ。

千日回峰行の行者は、回峰行の行程中で唯一、石に腰掛けて休むことが許される場所でもあるという。

こんな深夜にも拘らず、京都の街の灯はチラチラと輝いて美しかった。あの灯火の下で、京都の街の人たちはぐっすりと深い眠りについているのだろう。

暗くてよく見えなかったが、ここには杉の木があるのだそうだ。

行者は、この京都の街の灯を眺めながら、漆黒の闇のような御所に向かって玉体の健やかならんことを祈るのだという。

玉体とは、天皇のことである。

従って、ここに生えている杉の木は、玉体杉と呼ばれている。

そして行者は、天皇の安泰とともに、京都市民の健康と安全とを祈願するのだそうだ。

千日回峰行の行は、最初の700日までは自利行と言って自分のための修行であるのだが、堂入りを経て701日目からは利他行と言って他人のための修行になるのだという。

そこが大乗仏教たる天台宗の教えの面目躍如たるところでもある。

この眺めがすばらしい玉体杉のもとで、千日回峰行の行者は天皇と京都市民の健やかな生活を祈る。

玉体杉に立つと、なるほど比叡山が京都の表鬼門である京都の北東の場所に位置しているということがよくわかる。

今私たちが立っているところで、外部から都に侵入して来ようとする悪霊たちを食い止めているというのだ。

しかしそのことをよく考えてみると、悪霊たちはこの比叡山の外側にいることになる。

つまり、悪霊たちが棲んでいるのは何と近江国ということになるではないか。

今までそういう目で見たことがなかったけれど、近江国側からの視点で考えてみたら、そうなる。

差し当たり、比叡山の東側の麓の坂本辺りは、都への潜入を謀んでいる悪霊たちの魔の巣窟ということになりはしないだろうか?

この考え方は、近江国の人たちにとっては実に迷惑な考え方だと思った。しかし当時は都中心の考え方だから、致し方ない。

今でも京都の人と滋賀の人とはあまり仲がよくないのは、単に隣接しているライバルだからというだけではなく、過去からのこういう経緯(いきさつ)もあったのかもしれない。

京都の街の灯火を見ることができたのは、玉体杉からの眺望だけだった。

この後は、木々の間から街の灯が見え隠れしている場所はいくつかあったけれど、あのように街の景色を一望のもとに見渡せる場所というのはなかった。

行者道は、途中で何度か比叡山のハイウェイを横切りながら続いていく。

私たちの一行は、独力で深夜の比叡山を歩いているように見えるけれど、実は多くの関係者の方々のサポートを受けていた。

引率の僧も、先頭を行く僧だけではなくて、最後尾にも僧がついてくれているし、前と後ろだけでなく遊動軍のような形でサポートしている僧がさらに2人もついている。

2人の僧は、トランシーバーのようなもので頻繁にどこかと連絡を取りながら歩いている。

千日回峰行の行者は文字通り孤独な独り旅であるけれど、私たち一日回峰行の一行は、陰に陽に多くの僧たちに見守られての行であることを強く感じた。

本質的なものが全然違う。

千日回峰行のほんの表面的なものに触れただけだということを、強く自覚しなければならないと思った。

それでも、何にも触れないよりはまだずっといい。

やがて突然、見覚えのある舗装された広場に出た。

横川のバス停がある広場である。時計を見ると、3時20分だった。玉体杉を出てからちょうど30分歩き続けたことになる。

誰もいない真っ暗な駐車場に1台のワゴン車が止まっていた。そのワゴン車は居士林の車で、中には温かいお茶が用意されていた。

一日回峰行に参加している私たちのためにわざわざお茶を用意して待っていてくれたものである。

寒い山道をずっと歩いてきたので、こんなところで温かいお茶を飲めるとは思っていなかっただけに、とてもありがたかった。

と同時に、千日回峰行の行者はこんなところで温かいお茶など出されることはないので、私たちの一日回峰行は保護された鳥籠の中を歩いているだけのものであることを強く自覚した。

やっぱり本物の行者とは違うのだ。

しかしそうは思っても、寺の好意はうれしかったし、ありがたくお茶をいただいた。

湯気が上がるお茶を口に含みながらふと空を見上げると、オリオン座が妖しい光で輝いて見えた。

周りに灯りも何もないから、星がとても美しくくっきりと見えた。星ってこんなにきれいだったんだと、改めて思った。

暫しの休憩の後、私たちは駐車場から横川中堂まで移動して、ここで再び般若心経を読み上げた。

横川中堂を出て真っ直ぐに進むとやがて突き当たりとなる。

ここを左に行くと、例の元三大師御廟に至る道となるのだが、ここを右に曲がる。

こちらは、恵心堂がある方向だ。

恵心堂に続く曲がり角のところで立ち止まり、引率の僧から恵心僧都の母の逸話を聞く。

恵心は幼い頃に父と死に別れ、母の教えに従ってここ比叡山に入った。

小さい頃から聡明だった恵心はやがて帝の前で説教をすることになり、その弁舌の鮮やかさに感銘を受けた帝から褒美の品を賜った。

喜んだ恵心は帝からの下賜品を母に送った。母もきっと喜んでくれると思ったからだ。

ところが、母からは一首の和歌とともに送った品がそのまま送り返されてきた。

その和歌とは、

 

世の中を渡す橋とぞ思いしに

世渡る僧となるぞ悲しき

 

である。

お前はいつからそんな思い違いをするようになってしまったのか?

私はお前をそんな賤しい性根の僧にするために比叡山にやったのではありません。世のため人のためになる立派な僧になるようにと比叡山に送ったのです。

世俗に紛れ帝に褒められたことで有頂天になるようなお前の心根に私は落胆しました。

もっとしっかりと修行を重ね、どうか立派な僧になるよう一層の精進をしなさい。

この和歌を読んだ恵心は我が道心の浅はかであったことを悟り、その後は一心に仏道の修行に励み、のちには『往生要集』という著述を著わすなどの功績を残し立派な僧になったという逸話である。

恵心の教えはやがて法然の浄土宗の教えへと発展していく

この僧にしてこの母あり。

私は浅学にして恵心僧都の母の話を知らなかった。引率の僧からこの話を聞いて、深く感動した。

この話には後日談がある。

それから25年以上後のことである。恵心の許に母の危篤を知らせる姉からの手紙が届いた。恵心は15歳の時に母と別れて比叡山に入ってから一度も故郷に帰らず仏道の修業に明け暮れていた。

病に臥した恵心の母は、自分の命の灯が長くはないことを悟り、うわごとで頻りに恵心の名を読んだ。たまりかねた姉が恵心への手紙を書いたのであった。

恵心は取るものもとりあえずに母の臥す故郷へと急いだ。

故郷に着いて母の病床を見舞うと、母は恵心の顔を見て一瞬、生気を取り戻した。母の求めに応じて恵心は阿弥陀仏の本願を説いた。母は目に涙を浮かべながら恵心の仏法を聞き、安堵した表情を浮かべながら極楽へと往生したという。

私は恵心堂の方角に向かって手を合わせ、深々と頭を下げた。

一日回峰行は、体力トレーニングのための場ではない。道中にある祠や霊木霊水霊石などに祈りを捧げながら自らを律するために歩く修行の場である。

延暦寺の堂宇だけでなくこの比叡山には様々な霊が籠っている。その霊の一つ一つを崇めることがこの行の一つの目的である。

私たちは行の途中で度々立ち止まって、手を合わせ頭を垂れる。

 

これまでは比叡山の峰道に沿って歩く上り下りの道であったけれど、恵心堂を過ぎると、日吉大社に向けての本格的な下り坂となる。

真っ暗な急坂をヘッドライトの僅かな灯りだけを頼りに、ひたすら下っていく。一日回峰行の行程のなかで最も危険な場所にさしかかった。

転ばぬ先の杖と言うけれど、持って行った登山用のスティックがとても役に立った。

降りる前に降りる地点に先に杖を突くことにより、一度杖で衝撃を受け止めておいてから足を着くことができるので、より安全でよりソフトに着地が可能となる。

そう言えば千日回峰行の行者も、手に長い杖を持って回峰行を行っている。

こういう道具をうまく使うことも、大切なことなのだということを思った。

降りる途中で木々の間から向こう側の街の灯が垣間見える時があるけれど、先程玉体杉のところで見た京都の街の灯の光量とは全然ちがう。

あぁ、今私は京都側から琵琶湖側に向かって降りつつあるのだなぁということを実感した。

急な下り坂をずっと下り続けていたら、突然、石段が現れて建物のある場所に出た。3時40分に恵心堂を出て今が4時45分だから、ほぼ1時間の間、休まずに下り続けたことになる。

大きな岩が御神体になっていて、その大岩を祀るためなのだろうか、岩の左右にお堂が建てられている。

ここは日吉大社の奥の院にあたる社で、御神体の大岩は金大巌(こがねのおおいわ)と言い、左右の社は三宮宮と牛尾宮と言うのだそうだ。

眼下には琵琶湖の景色が拡がっていた。美しい眺めに、疲れも忘れて暫しの間見入る。

ここは昨日、JRの比叡山坂本駅からケーブルカー駅に向かって歩いて行く時に、山の中腹に建物があるのを見つけたその建物に違いないと思った。

<三宮宮・牛尾宮>

その時にはまさか自分がそこに降りてくるとは思っていなかったので、あぁあんな山の中腹に大きなお堂が建っているんだなぁと他人事のように思っただけだった。

昨日坂本の街から見上げたその場所に今自分がいるということが不思議に思えた。

三宮宮・牛尾宮からは、参道のようになっている道を下って行った。しばらくは広い坂道が続き、その後は石段が現れる。坂道はずるずると滑りそうになるし、石段は大きな石で組まれていて歩幅と合わないしで、どちらにしても降りにくい道だった。

しかしながら、毎年4月に行われる日吉大社の山王祭では、大きな神輿を担いでここから下の日吉大社まで降りるというから、まさに驚きである。

杖を使いながら何とか転ばずに降りて行って、15分ほどで日吉大社の本宮に降り着いた。ついに比叡山の麓にまで降りてきたことになる。平坦な道になって、やっと緊張感がほぐれていく。

日吉大社は、全国に約2000社あると言われる日吉神社・日枝神社・山王神社の総本社である。元は日枝山(比叡山)にあったものだが、崇神天皇7年(紀元前91)に現在の地に移されたとされている。

延暦寺を創建した最澄は、比叡山の地主神である日吉大社を比叡山および天台宗の守護神として崇めた。

日吉大社には2つの本宮があって、まずは東本宮に詣でる。

東本宮は、大山咋神を祭神として祀る神社で、本殿は国宝に指定されている。

拝殿の前でこの日3度目の般若心経を唱え、神社の儀礼に合わせて柏手を打った。

延暦寺は寺なのに、僧が神社に詣でて柏手を打つというのはいかにも奇妙なことのように思われるかもしれない。しかし、神仏分離とか廃仏毀釈などと言って訳のわからない主張をしたのは明治維新になってからのことで、それまでは本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)のもとで神も仏も一緒に祀られていた。

だから少しも奇妙なことではない。少しずつ夜が白みかけてきた日吉大社の境内を西本宮に移動して、同じように般若心経を唱えて柏手を打った。

さすがに何度も般若心経を唱えてきたので、ほぼ間違わずに唱えることができるようになってきた。

<日吉大社境内図>

 

日吉大社には、2つの本宮のほかにたくさんの末社があり、その前を通る度に手を合わせ一礼をした。

日吉大社を後にする頃には、もうほとんど夜は明けていた。

私たちは里坊の一つである律院の門を入って行った。

すでに門前を修行の僧が箒できれいに掃き清めている。

お寺の朝はとにかく早い。

律院に着くと、朝食が配られた。

おにぎり2個とペットボトルのお茶が1本だ。

おにぎりは、居士林の厨房で作られたものかと思っていたら、何とセブンイレブンのおにぎりだったのは意外だった。

具が何も入っていない塩むすびが一つと、中に梅干しが入って海苔が巻かれたおむすびが一つだった。当然のことながら、動物性の材料は何も入っていない。

一日回峰行の最中だからなのか、昨日の夕食時のように「食前観」を唱和することもなく朝食が始まった。

食事の後で、30分後に出発した女性の班が律院に到着し、全員揃ったところで千日回峰行を成し遂げられた叡南大行満大阿闍梨から講話を聞きご加持をいただいた。

ご加持というのは、跪いて頭を垂れたところに数珠か何かで後頭部に触れていただき、大阿闍梨様のお力を分けていただくことだと理解した。

千日回峰行のDVDを見ると、行者が通る道端に信者たちが祈りを捧げるように手を組んで跪き、行者が一人一人の頭に触れながら歩いていく様子が映されている。

信者たちは、行者からのご加持をいただいてありがたい思いで頭を垂れる。

叡南師は、もうかなりのお歳だと思われるが矍鑠(かくしゃく)としておられて、生気というのだろうか、強いオーラを感じた。

私たちが横一列になって整列しているところに、叡南師は右側から一人ずつ頭に手を触れながら近づいて来られた。

そしていよいよ私の番だ。

後頭部に何か硬いものが当たる強い衝撃を感じた。それは単に触れるというソフトな感触ではなくて、予想していたよりもはるかに強い衝撃だった。

叡南師の生の力(パワー)とでも言えばいいのだろうか?後頭部を震源地として、何かが私の身体の中に拡がっていくのを感じた。

叡南師から生きる力を分けていただいて、私は暫くの間、ただぼうっとその場に佇んでいた。

 

叡南師のご加持をいただいて私たちは、いよいよ一日回峰行の後半戦であり最大の難所である無動寺坂の登りに挑まなければならない行程に突入した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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比叡山一日回峰行挑戦の記 その2

居士林研修道場

 

いよいよ、その時が訪れた。

一日回峰行の受付のために研修道場である居士林の玄関を入ったその時から、私の一日回峰行の修業が始まる。

集合時間の16時までにはまだ30分以上あったけれど、早めに道場に入って落ち着きたいと思い、私は案内表示に従って西塔の釈迦堂から居士林へと進む道を歩いて行った。

居士林は、釈迦堂から思いのほか近いところにあった。

やや上りになっている釈迦堂脇の小道を歩いて行くと、正面に白い壁の大きな建物が見えてきた。

これが居士林かと思ったら、「居士林研修道場 研修の受付は右奥の建物へお越しください」と記載された大きな看板が立てられていて、その看板の手前にも「一日回峰行受付会場」と墨書された立て看板が置かれている。

周囲に歩いている人は誰もいない。ひっそりと静まり返っている林の向こう側に、やはり白い壁の二階建ての建物が見えた。

<居士林>

次第に高まっていく緊張感を感じながら、その白い建物に向かっていく私の足取りは重くなっていく。

玄関の右脇には、「一隅を照らす運動研修道場」「比叡山居士林」と墨書された木の板が掲げられていた。そして戸の左側には先程の立て看板と同じく「一日回峰行受付会場」と書かれた紙が貼られている。

私は恐る恐る、引き戸を開けて中を窺った。

声を掛けたが誰も応答する人がいない。正面にまっすぐ廊下が伸びていて、一番手前の開け放しになっている畳の部屋に私と同じ参加者と思しき人たちが坐っているのが見えた。

靴を脱いで下駄箱に入れ、控室と思しきその部屋に入って指示を待つことにした。

畳の上に荷物を置き、腰を降ろしてから部屋の中を見回してみると、すでにかなりの数の人がいることがわかった。

今回の募集人員は50人とインターネットの案内ページに書かれていた。その数から考えると、受付時刻の30分前にも拘わらず集合のペースは相当に早いような気がした。

驚いたことに、参加するのは年配の男性ばかりかと想像していたのだが、意外と女性が多い。しかも、グループで参加している若い女性たちも結構いた。

一日回峰行の厳しさをどこまで理解して参加しているのかわからないが、女性が多数参加していることにちょっと安堵した。他人のことを気遣う余裕はないけれど、みんな無事に怪我なく一日回峰行を満行できたらと思った。

控室での沈黙の時間がしばらく続き、やがて受付開始時間の16時になって廊下に置かれた長机のところで受付が始まった。

私たちは、開閉式のチャックが付いたビニール袋と小さな紙切れとお経などが印刷された「坐禅止観」というタイトルが付された小冊子とを受け取った。

受付の僧の指示に従い、財布から千円札を1枚取り出すとともに、小さな紙切れとお経の小冊子とに名前を書き込む。

氏名を書いた小さな紙切れは、財布やカメラなどの貴重品とともにビニール袋に入れて僧に預けた。

手元には、千円札と小冊子とが残った。

小冊子は、これからの研修で事あるごとに取り出して使用することになるので、肌身離さずに携行するようにと言われた。

千円札は、明日の一日回峰行にて万一途中でリタイアするような事態となった場合に、山下からケーブルカーでここまで戻って来なければならないので、その時に使うお金であるとの説明を受けた。

これも、無事にここまで帰って来るまでは大切に持っていなければならないものである。

リタイアした時のことまで考えられているということは、過去にそういう人が少なからずいたということに違いない。

改めて、今回の修行の厳しいであろうことを想像した。

受付を済ませた人は、女性は1階の小部屋に振り分けられ、男性は2階の大部屋に行くようにと指示された。

木の階段を上って2階に行くと、大きな広間が2部屋繋がっていた。

窓際に腰を下ろして荷物を置く。

だだ広い部屋の壁や窓に沿って、受付を済ませた人たちが少しずつ張り付いていく。

部屋の中央部にはスクリーンがセットされていて、千日回峰行に関するビデオが放映されていた。

見るとはなしに見ているうちに、やがてそのビデオも途中で消され、スクリーンが取り片付けられる。

これから入所にあたっての注意事項を伝えるので、部屋の中央に集まるようにと伝えられる。

やがて、1階に割り振られていた女性も2階に上がってきて、担当の僧の紹介や今後の日程、それに注意事項などが伝えられた。

控え室の中での飲食は禁止する。1階にお茶を用意しているので、飲みたい人は飲んでもよい。ただし、使用した茶碗は自分で洗って元の場所に戻すこと。

トイレは1階の奥にある。使用したスリッパは、元の位置に戻しておくこと。また、点けた電気は必ず消すこと。

自分の身の回りの荷物は1箇所にまとめ、整理整頓しておくこと……。

こまごまとした注意事項が続く。

ここは比叡山延暦寺の研修道場であるから、すべては延暦寺の僧の生活と同じように行ってもらう。

一言で言うと、そういうことだと理解した。

基本的には、自分のことは自分で行う。他人に迷惑をかけるようなことはしない。他人のためになることは率先して行う。何かを使えば必ず元の場所に元通りにして返す。

一つ一つのことは極めて道理のあることであり、とりわけ難しいことを言われているわけではないけれど、とかくルーズな生活に慣れてしまっている身には、やや窮屈なようにも感じられた。

しかし好き好んで修行の場に飛び込んだのだから、そのくらいのことは当たり前であり、注意事項はきっちり守らなければいけないと思った。

ひと通りの注意事項の説明が終わった後は、受付時に渡されたお経などが書かれた小冊子を取り出すように指示を受ける。

この後で入所式が行われるとのことで、その際に読み上げる「一心頂礼」という言葉を練習し、その後で食事の開始時に読み上げる「食前観」と食事の終了時に読み上げる「食後観」という言葉を練習した。そして最後に、般若心経を声を出して読んだ。

ふりがなが振ってあるけれど、途中で読み間違えずに読むことはなかなか難しい。

次に、かなりの長い時間をかけて、夕食時の作法についての説明が行われた。

入所時に渡された「坐禅止観」と書かれた小冊子は、裏返すと「食事作法」という別のタイトルが付された小冊子になっている。

その裏表紙に記載された注意事項から僧の説明は始まった。

曰く、

  1. 伝教大師のたまわく「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」と。
  2. 食事の作法は適確、静粛しかも機敏なるべし。
  3. 食事においては言語はもちろん一切の音声あるべからず。
  4. 食器の位置を乱さず、香菜の器も一々手にとって食すべし。
  5. 着座、展鉢、さば、洗鉢等の諸作法はすべて隣席の上座にならうべし。

 

その時にはそれぞれの言葉の意味するところを表面的にしか理解することができなかったけれど、すべての行が終わり暫しの思考の時間を経た今に至っては、一つ一つの言葉に深い意味があり重い言葉であったことを理解している。

それはともかく、僧による食事作法の説明が始まった。

講師の机には実際に使用される膳と空の椀とが用意されていて、実物を使用しながら食事に際しての注意事項の説明を受けた。

食事中の私語が厳禁なことは言うまでもなく、食べる時には一切の音を立ててはいけない。食べる音も食器が触れ合う音も立ててはいけない。

食べる時には椀を一椀ずつ手に取り、必要量を箸で取って食べたら静かに元の膳にその椀を置く。

出されたものを残してはいけない。

最後にお茶と沢庵一切れとを残しておいて、お茶を各椀均等に音を立てずに注ぎ、小さな椀から順に沢庵で綺麗に洗い、洗ったお茶は次に大きな椀に音を立てずに注ぎ込む。

その椀も同じように沢庵できれいに洗い上げ、次に大きな椀に洗い終わったお茶を注ぐ。

その椀も同じように洗い上げ、最後に一番大きな飯椀にお茶を注ぎ込み、沢庵で洗う。

飯椀も洗い終えたら、音を立てずに沢庵を食べ、飯椀に残ったお茶をすべて飲み干す。

そして、膳の上に元あったとおりにすべての椀を置いて他の人が食べ終わるのを静かに待つ。

僧が食べ終わった椀をお茶で洗うという話はどこかで聞いたことがあったような気がするけれど、今まで自分で実践したことはなかったから、うまくできるかどうか不安に思った。

これは大変なところに来てしまったと思ったのは、その時だった。

後から考えると、このような食事作法は僧のみが行っていることではなくて、昔の日本人ならば誰もが普通に行っていたことなのではなかったかと思った。

日本の古き良き伝統を今も風化させず誠実に守っているのが、僧の生活なのかもしれない。

食事の作法の後に簡単に明日の一日回峰行の話を聞いて解散となった。詳しくは、また夕食の後に説明があるとのことだった。

しばらくの休憩の後、18時から夕食となる。

 

夕食は、寝起きする棟とは別棟の食堂で摂る。先程、釈迦堂からこちらに歩いて来る時に最初に見た白い建物が、食堂の棟であった。

<居士林食堂>

 

靴を履いて戸外に整列し、食堂のある建物に向かう。幸いにして、雨はその時にはあがっていた。しかし少しの間のことだったが、寒気が襲い掛かる。さすがに日没後の比叡山の夜気は厳しい。

靴を脱いで端の方から順番に並べて下駄箱に収める。一列に並んで食堂に入ると、まずは食堂の後ろ側に祀られている仏像に向かって一礼をして手を合わせ、奥の席から順番に席に着く。

席は椅子席ではなく畳だから、当然、正座をすることになる。

食事をするということは、自分が生きるために大切な別の生き物の命をいただくということなのだそうだ。

動物に対してはそうだと漠然と思ってはいたけれど、仏教では動物だけでなく植物についても同じ考えであることを知った。

私たちはすべて、御仏の力によって生かされている。

だから、けっして出された食べ物を残してはいけないし、感謝の気持ちを持ってありがたく食べなければならない。

食事の前に研修道場の長である僧からそのような話を聞かされた。食事に際して様々な作法を行わなければならないのは、そのような考えのもとですべてのものに感謝の念を忘れてはならないからなのだろうと思った。

そして、剣道や花道や茶道などの「道」という言葉は、道心という言葉から来ている。その道を極めようとする心のことを道心と言うのだそうだ。

仏教の教えを修めようとするのが、仏道である。食事の前に、ありがたい言葉をいただいた。

席に着いても、食事を目の前にしてなかなか食べることができない。

次に、お茶が入った急須が回されてきて、順番に自分の湯呑みにお茶を注いでいく。このお茶は最後に椀を洗うために使うお茶なので、貴重なお茶だ。

ごはんの量だけは調節することができる。残すことは許されないので、食べられないと思う人は、事前に自分で減らしてもいい。空のお櫃としゃもじが奥の席から順番に回されてきて、多いと思えばその分のごはんを自分の飯椀からお櫃に移す。

続いて、例の小冊子を取り出して食事の前の言葉(食前観)をみんなで読み上げる。

最初に僧が

「われ今幸いに」

と出だしの言葉を読み上げる。

続いて私たちが

「仏祖の加護と衆生の恩恵によってこの清き食を受く、つつしんで食の来由をたづねて味の濃淡を問わず、その功徳を念じて品の多少をえらばじ」

と唱和し、最後に

「いただきます」

と声を揃えてやっと夕食が始まる

実は居士林研修道場に入所して以来、私は一つの違和感を感じていた。

それは、ここに来る前に事前にインターネットで得ていた研修の雰囲気と今日のこの場の雰囲気とがまったく異なっていたからだった。

私が読んだ一日回峰行参加の体験談が書かれた記事によると、夕食の場では参加者が自己紹介などをしながら和気あいあいと食事を楽しんでいる光景が書かれていた。

料理の写真も掲載されていたが、私の目の前にある膳には、①野菜の煮しめ、②胡麻豆腐、③すまし汁、④ごはんの4椀しかないけれど、そのインターネットの写真には、ごはんと汁椀の他に7椀と一人用の鍋までが写っていた。

そもそも、音ひとつ立ててはいけないので隣の人と話すことなどあり得ないし、写真を撮ることなどとてもできるような雰囲気ではなかった。

話が全然違う!

勝手にインターネットの記事を見て想像していた私が悪いのであるが、事前の想像とのギャップもあって、夕食の場は非常に窮屈なものに感じられた。

後から思うと、一日回峰行はほぼ毎月開催されているが、この居士林研修道場で行われる場合と東塔の延暦寺会館で行われる場合とがある。

今月は居士林研修道場で行われるけれど9月の一日回峰行は延暦寺会館で行われた。

インターネットで紹介されていたのは明らかに延暦寺会館だった。延暦寺会館は一般の参詣客も宿泊する場所だから、研修一色という運営が難しいのかもしれない。

私の仮説が当たっているかどうかは、次の機会に延暦寺会館での一日回峰行に参加してみればわかるだろう。

情けないことに、食事の途中から正座していた足が痺れてきた。何とか血流をよくして痺れを取らないと、食事を終わって席を立つ時に不様なことになってしまう。

私は必死で足首から先をこっそりと動かして血流を確保した。

全員の食事が終わると、食後の言葉(食後観)を皆で唱和する。

食前観の時と同様に僧が

「われ今この清き食を終わりて」

と出だしの言葉を読み、続いて皆で

「心ゆたかに力身に満つ、願わくばこの心身を捧げて己(おの)が業(わざ)にいそしみ、誓って四恩(しおん)に報い奉らん」

と唱和し、最後に

「ごちそうさまでした」

で終わる。

一食毎に、食に感謝する気持ちを言葉に表して述べる。

今まで当たり前だと思っていたことでも、よく考えてみるとけっして当たり前ではない。植物たちの貴重な命の犠牲のもとに私たちの生命は維持されている。

食事をする度に感謝の念を忘れずに言葉に出して自らを戒める。

最初は窮屈に感じるだろうと思うが、僧の修業というのは実は根元的なことを実践しているだけなのかもしれない。

痺れる足を気付かれないように引き摺りながら、前の人に従って順番に食堂の外に出る。入室する時と同様に仏様に一礼をして、さらに食堂に隣接する厨房にいる婦人たちに感謝の礼をしてから部屋を出る。

味が濃いだとか薄いだとか文句を言ってはいけない。品数が多いとか少ないとか言ってもいけない。どんな食事を出されても、食事を作ってくれた婦人たちに感謝の気持ちを忘れてはいけない。

実に慎ましい生活を実践していかなければならない。

慣れないせいでもあったのだろうけれど、食堂棟を出て自室の大広間に戻ったところでホッと安堵のため息をついた。

 

部屋に戻ってしばらく休憩の後、全員が集まって千日回峰行のビデオを見る。

見せられたビデオは、先に引用したNHK特集の「行」というビデオだった。

二度も千日回峰行を満行された酒井雄哉さんのことを記録したビデオであり、何度見ても壮絶としか言いようのない厳しい映像だ。

ほとんどの人は初めて見る映像なのだろう。みんな、神妙な顔をしてビデオに見入っている。

ビデオが終わると、再び明日の一日回峰行の注意事項等の説明となる。

そして、持参するように前もって指示されていた懐中電灯のスイッチを入れて実際に点灯するかどうかを確かめてみた。

いざという時に電池切れで使えないようなことになれば、それこそ命取りになりかねない。

そんな大事な道具であるのに、持参し忘れた人が何人かいたのには驚いた。

さらに、それを予想していたかのように、居士林にて懐中電灯を販売していたのにも驚いた。

居士林では、懐中電灯のほかに雨具も販売していた。

命を守るための道具だから、なしでは済まされないし、それにも拘らず持参していない人が案外多いということなのだろうと思った。

この後は、お風呂に入りたい人はお風呂入り、入らなくてもいい人はお風呂に入る人の分も含めて大広間で仮眠するための布団を敷く作業をみんなで共同で行った。

最初に注意事項として言われたごとく、自分のことは自分でやり、他人のためにも率先して行う精神で、広間一面に布団を敷いていった。

どうも参加者数が多いと思い不思議に思っていたら、実は10月に実施予定だった一日回峰行が台風のために中止となり、その時に応募した人までが今回の一日回峰行に参加しているとのことだった。従って、今回の参加者数は50人ではなく100人なのだそうだ。

ちなみに、本物の千日回峰行は台風が来ても取り止めにはならない。どんな天候であろうと、行かなければならないのが、千日回峰行の厳しい掟である。

しかしさすがに、素人が参加する一日回峰行ではそのような危険なことはできなかったのだろう。台風のために中止になったことを知った。

参加人数が多いため、明日の一日回峰行は男性と女性とに分かれて2班で行動することになるらしい。

全員分の布団を敷き終わり、そのうちの一つに潜り込む。

これから仮眠を取る。起床時間は1時半とのこと。目覚まし時計をかけなくても、時間になったら起こしてくれるようだ。

21時から1時半までだから、4時間半は寝られることになる。しかも、畳の上ではなくて布団の中でだ。

畳の上に雑魚寝することを想像していたので、それよりは好待遇ということになる。

私は布団の中に潜り込んで、目を閉じた。

しかし高揚感からなのだろうか、なかなか寝付くことができない。

やがて周囲の人たちもそれぞれの布団に入り、電灯も消される。

大勢の知らない人たちの中で眠るという経験は、久しくなかったことだった。いびきをかく人が意外と多くて、なかなか眠れないままに時間が過ぎていく。

うとうとしかけては、いびきで眼が覚める。そんなことの繰り返しだった。

そしてやっと少し深い眠りについたと思った頃には、起床を知らせる僧の声が聞こえてきた。

あまり眠ることができないうちに起床時間を迎えてしまった。

しかしこのことは、ある程度織り込み済みのことだった。それよりも、これから始まる一日回峰行への期待と不安とで、私の気持ちは昂ぶっていた。

みんなで協力して寝具一式を元の押し入れに戻して、顔を洗って出発準備に取り掛かる。

当然のことながら、洗面所ではお湯など出ない。凍るような冷たい水を気合いで顔に掛けて洗った。

子どもの頃の、まだガス給湯器などがなかった時代のことを懐かしく思い出した。

今の時代の若者たちはそんな経験もないだろうから、私たちよりももっとつらく感じられたことだろう。

雨が心配だった。

雨具を持って行くかどうかで迷っていたからだ。付き添いの僧に聞いてみると、今は雨は降っていないとのことだが、雨具を持って行くかどうかの判断は自分でするようにとの回答だった。

昨日の天気予報では天気は回復傾向にあったので、迷った末に雨具は置いていくことにする。

そして、いよいよ出発の時間となった。

寒さが一番心配だったので、アウトドア用の厚手のコートにネックウォーマー、それにニットの帽子を被って万全の格好で外に出た。

いよいよ、一日回峰行が始まる。

 

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比叡山一日回峰行挑戦の記

比叡山一日回峰行挑戦の記

一日回峰行の前に

千日回峰行の祖と呼ばれる相応和尚(そうおうかしょう)は、天長8年(831)に近江国浅井郡の北野で生まれ、延喜18年(918)に比叡山内無動寺谷の十妙院にて阿弥陀仏の名号を唱えながら88歳の生涯を閉じられた。

千日回峰行とは、7年間で1000回にわたって比叡山の山中や東麓の坂本、反対側の京都市街などを歩き、聖地・聖石・聖木などに祈りを捧げる修行である。厳しい修行で知られる延暦寺の修行のなかでも、十二年籠山行と双璧をなす荒行である。

総歩行距離は地球一周に匹敵する4万キロメートルに及ぶ。

深夜の2時に出発して比叡山の山中を巡る。台風が来ても雪が降ってもやめることはできない。怪我をしたり病気になったりしても休むことは許されない。

「行ならずんば死あるのみ」

途中で行を止めることは許されず、その場合には自ら命を断たなければならない。まさに命懸けの修業が千日回峰行なのである。

 

今年(平成29年(2017))は、その相応和尚の没後1100年の御遠忌の年に当たる。

この記念すべき年に私は、千日回峰行の行者が廻るのと同じ時間に同じ道を歩くという比叡山延暦寺の一日回峰行に参加する機会を得た。

何たる幸運なことか!

湖北の地に生まれた相応和尚に興味を持ち、相応和尚が創設した千日回峰行について調べ、2年前に私は『湖北残照』拾遺という作品のなかの一章として「千日回峰行」という文章を書いた。

自分なりに苦労して書いたものの、いわゆる机上の空論であり、私にとって千日回峰行は想像の中での産物の域を出るものではなかった。

千日回峰行の行者はどんな道を歩き、そこでどんなことを考えているのだろうか?真っ暗な山道を歩くというのはどういう感覚なのだろうか?書きながら湧き上がってきた数々の疑問に答えるためには、自分で同じ道を歩いてみるしかない。

ずっと、そう思っていた。

ところが、大まかなコースは示されていても詳細な道がわからない。そもそも、深夜に比叡山の険峻な山中を独力で歩くことなど、ほとんど自殺行為に等しい危険に満ちみちた行為だ。

千日回峰行の行者が歩くのと同じ道を歩くことができる修行がある!

延暦寺が一般人を対象とした修行の一環としてそのような研修メニューを用意していることを知った私は、小躍りする思いで参加の申し込みをした。

たとえ一日だけでも行者が歩くのと同じ道を自らの足で歩くことができたら、相応和尚の千日回峰行に少しでも近づくことができるのではないか。

申し込んだ後も私は、この日が来るのを心待ちにしていた。

 

そしてついに、その日が訪れた。

平成29年(2017)11月11日(土)は、朝から今にも雨が降り出しそうな天気の一日だった。

6時前に横浜市の自宅を出た私は、早朝の新幹線に乗って京都に向かった。京都駅からは湖西線で比叡山坂本駅に行き、駅を降りてからは坂本の街を速足で突っ切ってケーブル坂本駅を目指した。

この日の大津地方の天気予報は雨のち曇り。雨が上がった後は寒気が強くなるということだった。しかしまだ雨は落ちていなかった。

9時30分発のケーブルカーは、折しも紅葉シーズン真っ只中ということもあり、座席は満席となり坐れない人が多数立っているような混雑状況だった。

しかしこの喧騒も、ケーブル延暦寺駅を降りてからは静寂に変わる。

と言うのは、ケーブルカーを降りた人たちは皆、駅から望む琵琶湖の眺望をしばらく眺めた後には、すぐに根本中堂のある東塔(とうどう)地区を目指して歩いて行ってしまうからだ。次のケーブルカーが到着するまでの時間、駅は静寂に包まれる。

私はその静寂をしばらく楽しんだ後、根本中堂とは反対側の無動寺へと続く坂道を降り始めた。

私のように無動寺へと坂道を降りて行く人間は他にいなかった。

しかし私にとって無動寺は、相応和尚を偲ぶ聖なる場所であり、比叡山の中で最も神聖な場所なのである。

延暦寺から送付されてきた「比叡山一日回峰行参加受付完了のお知らせ」には、「受付は、当日11月11日(土)午後4時から居士林(こじりん)研修道場にて行います」と記載されていた。午後4時までに西塔地区にある居士林という研修道場に行けばいいのだが、せっかく比叡山に来たのだからその前に可能な限り諸堂を訪れておきたい。

明日の一日回峰行でも比叡山の諸堂を巡ることになるのだろうが、深夜か早朝の時間帯なので堂内に立ち入ることはできないものと思われる。だから、前以て見られるところは見ておきたいと思ったのだった。

そして私は、比叡山を訪れたなら真っ先に訪ねるのは無動寺と心に決めていた。

幸い無動寺は、ケーブル延暦寺駅からバスなどを利用しないで歩いて行ける場所にある。

駅舎を出て左手方面に向かうと「無動寺参道」と彫られた石柱と「大辯才天女」という額が掲げられた鳥居がすぐに目に入ってくる。間違って迷い込んでしまう観光客を稀に見かけるが、無動寺に詣でるためにこの鳥居を潜る人は稀である。

ただし、私のような無動寺の熱烈な信奉者も皆無ではない。迷い込んだ観光客か熱烈な信奉者かは、足取りを見れば一目瞭然である。前者は心許なげにパンフレットなどを眺めながら覚束ない足取りで歩いている。後者は脇目も振らずに谷へと降りて行く。

偉そうなことを言っているけれど実は私も2年前に初めてこの地を訪れただけなので、信奉者の中ではごく初心者である。

とは言え、一度訪れたことがあるので迷うことも不安になることもなく坂道をずんずんと降って行く。以前は厳しい山道だったのだろうが、今は舗装されてよく整備された道である。

ただし、どんなに道が整備されても、傾斜のきつい坂道であることだけは如何ともしがたい。

つづら折りに何度か折り返しながら、杉の木立が連なる山深い参道を私はひたすらに降り続けた。

えも言われぬ静寂が辺りを支配している。

途中で2つ目の石の鳥居を潜る。

そして3つ目の石の鳥居を潜った右手奥にあるのが、「閼伽井(あかい)」である。

<閼伽井>

ここは、「堂入り」*の苦行を行っている行者が一日一回午前2時に、仏様にお供えする水を汲むために訪れる聖なる井戸である。

井戸の前には門が設えられていて、部外者の侵入を頑なに拒んでいるかに見える。その門の隙間から覗く井戸は華美な飾りなど一切ないけれど立派な石の井桁と覆い屋を持っている。おそらくは、千日回峰行の信奉者が心を籠めて寄進したものなのであろう。

千日回峰行の行者はこの井戸を前にして、日々次第に掠れゆく意識のなかで何を考えるのだろうか?

直近の事例で言うと、千日回峰行者である釜堀浩元さん(当時41歳)が9日間の堂入りを満行したのは、平成27年(2015)10月21日未明のことであった。

今からほぼ2年前のことである。

井戸の門の前に佇み、私は静かに手を合わせて祈った。

ここから無動寺明王堂までは200mほどの距離である。五体満足な状態であれば何でもない距離だが、不飲不食かつ不眠不臥の状態で9日間の修行を行っている行者にとっては、果てしなく遠い距離に感じられたに違いない。

途中、右手に行くと弁天堂となる分かれ道を真っ直ぐに進み、すぐ左手の石段を登って明王堂に至る。

 

<無動寺明王堂>

2年前にこのお堂を訪れた際には、今年行われる相応和尚1100年の御遠忌の準備のために修繕中で、堂内に入ることができなかった。

その御遠忌法要も11月2日に無事に終わったばかりだ。前庭には「南無南山建立大師相應和尚壹千百年御遠忌報恩謝徳攸」と墨書された木柱が毅然とした姿で建立されている。

今回は明王堂の中に入ることができる。

堂前には、「御自由にお参り下さい」との立て看板が置かれていた。2年前に釜堀さんが堂入りした際の舞台となった明王堂の中に「御自由に」入ることができるのである。

御自由にと書かれていても、自然と私の心の中に緊張感が走る。

木製の階段を登り入口で靴を脱ぎ、恐る恐る正面の引き戸を引いて堂内に入った。

想像していたよりも中は広く感じられた。手前に信者たちが祈るためのスペースがあり、その奥の内陣にご本尊の不動明王が祀られている。ご本尊のお姿は暗くてよくわからない。

しかしながらこの場所で、あの壮絶な堂入りの荒行が行われていたのかと思ったら、胸が詰まった。

一切の飲と食とを断じ、不眠不臥で五体投地を続け、不動明王の真言を10万回唱え続けるという想像を絶する修行である。そんな状態のなかで生きていること自体が不思議に思えてしまう。強い精神力が要求される修行なのだ。

堂入り中の行者は、薄れゆく意識のなかで何を考えるのだろうか?どんな苦しみを抱いてこの景色を眺めるのだろうか?

そして、9日間の苦行を無事に満行した時、行者はどんな新境地を拓くことができるのだろうか?

壮絶という言葉以外には何も思い浮かばない。世の中にこんなに激しい修行が存在すること自体が、私にはとても信じられないことだった。

今の明王堂は、ここがそのような厳しい修行が行われた現場であることを感じさせない穏やかな空気が支配している。

それだからこそ余計に、堂入り中の張り詰めた雰囲気を想像してしまう。

堂入りが始まる時には、比叡山の高僧がこの明王堂に集結し、堂入りを行う行者と一緒に食事を摂る。これが最後の食事になるかもしれないとの思いを、行者も高僧たちも噛み締めながらの食事である。

「生き葬式」とも呼ばれるこの食事が終わると、やがて高僧たちが一人二人と明王堂から立ち去っていき、最後に行者一人のみが堂内に残される。

そこから、孤独で壮絶な9日間の堂入りが始まるのだ。

堂入り中の行者は、みるみるうちに頬が削げ、無精ひげが顔を覆う。

途中からは瞳孔が開き、死臭が漂い、幻影を見るという。生と死との紙一重の状況にまで我が身を追い詰め、ひたすら不動明王と対峙する。

一日一回深夜の2時に、仏様に供える水を汲むため先程通った閼伽井に出向くが、僅か片道200mほどの道を往復するのに、最後の方は30分以上の時間を費やすと言われている。

衰弱しきった身体に鞭打って、行者は9日間の行を務める。

その時の行者のことを想像し、私は打ちひしがれたような思いで、明王堂を出た。

ふと視線を上げると、明王堂の前庭には思いがけないほどの美しい琵琶湖の景色が拡がっていた。方角的には大津の市街地なのだろう。ホテルの高いタワーなどを望むことができる。

相応和尚の頃にはもちろんホテルのタワーはなかったけれど、心に沁みる琵琶湖の景色が今と変わらぬ佇まいで眺められたことだろう。

相応和尚がこの無動谷の地に明王堂を建立されたお気持ちが少し理解できたように感じた。

明王堂の前庭には琵琶湖を見降ろす場所に一本の楓の木が赤く色づいていた。この秋に比叡山で見た最も赤くて最も美しい楓の木が、この無動寺の楓だった。赤く色づいた楓の葉越しに望む琵琶湖の光景はまた格別だった。

<相応和尚像>

明王堂の向かって右手奥には、小さな石造りの像が建てられている。

右手に長い杖を持ち、左手には数珠と何やら円筒形の物体を提げ、変わった形の被り物を被り直立している不思議な像だ。

この像こそが、千日回峰行の行者姿の相応和尚である。

左手に提げているのは、夜の峰道を歩く際に足許を照らす提灯であろう。頭に被っているのは、蓮の葉を模った千日回峰行者独特の笠である。

像の傍らに建つ板碑に相応和尚の略伝が彫られていたので、以下にそのまま転記する。

 

北嶺行門始祖

相應和尚略伝

孝徳天皇の末裔で 天長八年(八三一)近江国に生まれる 十五才のときに比叡山に

登って傳教大師の高弟 慈覚大師円仁仕え 止観遮那両業の学問を尽く収め 宗祖の遺

訓にもとづく山のおきてに従い籠山十二年の修業を始め苦修練行 薬師如来の夢のお告

によって霊感をうけ 比叡山三塔の諸峰を巡拝して鎮護国家万民豊楽を祈り 北嶺回峰

行の基礎を打ち立てた たびたび宮中に招かれて参内 天皇 皇后をはじめ 高官の病

を加持し 郷に民衆の災難消除を祈祷 霊験は顕著なものがあった 今に伝えられる回

峰行大行満の土足参内の儀はこの相應和尚の先駆に習って行われている 貞観七年には

無動寺を建立して不動明王を祀り回峰行の根本道場としたので 建立大師ともいう 傳

教 慈覚の両大師號宣下を奏請したのも相應和尚であった

延喜十八年(九一八)十一月三日 西方に向って念佛を唱えながら 同日夜半従容と

して入寂した このとき紫の雲が叡南の峰(無動寺渓の山)にたなびき 異香は全山に

満ちて 山上の僧も山下の郷民もみな慈父を失ったように悲しみに號泣したと和尚伝は

伝えている ときに八十八才であった

 

明王堂を背にして左手にある急な石段を降りる。

この石段は、NHK特集『行~比叡山・千日回峰』(昭和54年(1979)1月5日放送)の番組のなかで酒井雄哉大阿闍梨が堂入りを終えた直後、僧侶に抱きかかえられるようにして降りた石段だ。

この番組は後にDVDになり、私も何度か見たことがある。

番組を見た時にはよくわからなかったけれど、実際に降りてみると非常に厳しい斜度をもった階段であったことがわかる。堂入りを終えたばかりの行者が自分の足で降りるには、あまりに急すぎる階段だ。

石段の脇に「相應和尚壹千百年御遠忌記念」と刻まれた真新しい石柱が建てられていた。おそらくは、相応和尚の1100年御遠忌を記念して、この石段に取り付けられている手摺りが新調されたのだろう。

よく見ると、以前は真ん中に一つだけあった手摺りが、今は両脇に据えられている。こうして少しずつ、参拝者の便利がよくなるように熱心な信者たちによって無動寺は整備されて続けていることがわかる。

石段を降り切った道を左に曲がってさらに坂道を降りて行くと、大乗院という建物が見えてくる。入口の大きな石柱には「親鸞聖人御修行蹟」と彫られている。

ここは、親鸞が10歳から29歳までを過ごした寺として知られていて、親鸞が自ら彫ったとされる蕎麦喰木像が安置されているそうだが、中を拝観することはできない。

さらに道を降りて行くと、変わった形の2階建ての黒い門が特徴的な玉照院に辿り着く。ここは回峰行の本院であり、2年前に訪れた時には軒下にたくさんの履き潰された草鞋が掛けられていた。

当時まだ千日回峰行を続けられていた釜堀浩元さんが履かれていた草鞋ではなかったかと推測している。

「天真らんまん流尼僧ブログ」というブログの2015年10月12日のところに、ブログの作者である尼僧が堂入りを翌日に控えた釜堀さんを玉照院に訪ねて行く場面が掲載されている。

千日回峰行に挑んでいた当時の釜堀さんが玉照院を拠点としていたことが窺えるエピソードである。

 

<草鞋>

勝手口の戸の脇に「火元責任者 釜堀浩元」と書かれた札が貼られているので、今でも釜堀大行満大阿闍梨は玉照院と関係があるのかもしれない。勝手口には、ほかに「叡南」と書かれた大きな表札も掛けられていた。叡南さんも、千日回峰行を満行された大行満大阿闍梨である。

2年前に来た時にもそう感じ、今回もまったく同じように感じられたのだが、玉照院に至る道の少し手前の坂道から、周囲が実にきれいに掃き清められていた。

箒の跡が模様を成していて、その掃き清められた道を土足で歩くのが申し訳なく思えるほどに掃除が行き届いた道である。

修行の第一歩である掃除に少しも手を抜かない誠実さと厳しさとを感じた。

道は、玉照院までしかない。いわゆる行き止まりである。

正確に言うと、玉照院の門前を通過したところから無動寺坂を通って坂本まで続いていると思われる細い山道があるのだが、この道を降りてさらに下まで行く勇気はなかった。

私は玉照院で折り返し、再び明王堂へと向かう坂道を登り始めた。

ここで、一つの奇跡が起きる。もしかしたら、相応和尚が私のことを招き寄せてくれたのかもしれない。

先程訪れた大乗院に至る手前の右手に、本道から分岐して後方へと上っていく道があった。

案内板も何もなかったし上り坂だったのでそのまま通り過ぎてしまうところだったのだが、何気ない気持ちでふと登ってみようと思った。道はそれほど長そうはなくて、一段上の場所に広場のような土地が見えたからだ。

私はその広場に至って、言葉を失った。

なぜなら、位置的には大乗院のちょうど裏手にあたるその広場の中央に一つの真新しい石碑が建てられていて、その石碑には「相應和尚入寂之地」と刻まれていたからだ。

<相応和尚入寂の地>

まったく知らずに通り過ぎてしまうところだった。

相応和尚は延喜十八年十一月三日の夜半に、無動寺谷の十妙院で「西方に向って念仏を唱えながら」入寂されたと伝えられている。

先の明王堂脇の相応和尚像の傍らにあった石碑によると、紫の雲が無動寺谷の山々に立ち込め、香しい香りが全山を覆ったと伝えられている。

生前に数々の奇跡を起こした相応和尚らしい、和尚最後の奇跡だったのだろう。

その場所が、今私が立っているこの場所だというのだ。

長浜の北野の地で生まれた相応和尚が、厳しい修行を自ら課し様々な奇跡を起こして朝廷からも篤い帰依を受け、千日回峰行という今に受け継がれる厳しい修行を編み出し輝かしい足跡を残しながら八十八歳でこの世を去ったその場所が、ここなのだった。

今からちょうど千百年前のことである。私は石碑の前に佇んで、そっと手を合わせた。

石碑の裏側には、

 

平成二十九年十一月三日

相應和尚一千百年御遠忌記念

建立 法曼院

 

の29文字が刻まれていた。

法曼院とは、明王堂からの急な石段を降りる途中にある断崖の上に建つ寺院だ。

それにしても、何の案内表示もないこんなところに相応和尚入寂の地があるなんて。私は驚きを隠せなかった。

しかし何はともあれ、期せずして相応和尚が入寂した神聖な地を訪れることができたことに、なにがしかの相応和尚とのご縁を感じ心から感動した。

相応和尚入寂の地を後にした私は、明王堂への石段を登らずにそのまま真っ直ぐに進み、白蛇伝説が伝わる弁天堂へと歩を進めた。

無動谷は観光地でないからか親切な説明版がほとんどないので詳しいことはよくわからないのだが、明王堂とはまた別の意味で弁天堂は無動寺谷のなかで重要な役割を果たしている場所であることは間違いない。

崖を削って捻出したような狭い土地に、赤い献灯で飾られた弁天堂を中心にたくさんの小さな社や祠が建てられている。

崖の下には清らかな水が流れ、龍の口を模った水路から一条の水の流れが滝となって落ちている。いかにも龍神が棲んでいそうな不思議な雰囲気に満ちた場所だった。

 

* 「堂入り」とは、千日回峰行のなかでも最も厳しい修行と言ってもいい9日間に

わたる苦行である。7年1000日の修行のうちの5年700日の修行が満行したとこ

ろで、ここ無動寺明王堂にて執り行われる。

堂入りの間行者は、食べ物を口にすることも水を飲むことも許されない。不眠

不臥で五体投地を繰り返し、ひたすらに真言を唱え続けるという想像を絶する修

行である。

 

無動谷から東塔地区に戻る山道で、ついに空から冷たいものが落ち出した。天気予報では雨のち曇りだったが、予報よりも少し遅れて雨が降り出したらしい。

それでも私は、無動寺にいる間だけでも傘をささずに済んだことを感謝しなければならないと思った。これも相応和尚のお力かもしれない。

雨は思っていたよりも本降りとなり、傘なしではとても歩けないほどに強くなっていった。と同時に、吹き付ける風が急に冷たくなって、傘を持つ手がかじかんできた。

比叡山の厳しい気候を目の当たりにして、この雨が夜半まで上がらなかったら明日の一日回峰行は困難を極めるのではないかと、そのことが不安でならなかった。

傘をさしながら、東塔の中心地というか延暦寺の中心である根本中堂をはじめとして、文殊院、大黒堂、大講堂、戒壇院、東塔、阿弥陀堂などの堂宇を拝観した後、西塔地区を素通りしてシャトルバスで横川(よかわ)地区に向かった。

西塔地区を飛ばしたのは、本日の一日回峰行の集合場所である居士林が西塔地区にあるからで、集合時間に合わせて最後に回った方が時間の調節ができるし効率的だと判断したからだった。

東塔から西塔まではシャトルバスに乗るとそれほどの距離ではなかったけれど、西塔から横川まではバスでもかなりの乗りでがある道だった。

今夜は間違いなくこの距離を自分の足で歩いて行かなければならないと思い、次第に重圧を感じ始める。

横川地区では、横川中堂に参った後に虚子の塔を経て元三大師(がんさんだいし)堂に詣でる。

元三大師こと良源は、相応和尚と並んで私が尊敬する比叡山を代表する名僧の一人である。良源は、延喜12年(912)9月3日に近江国虎姫に生まれた。相応和尚の生誕地である北野とは目と鼻の近さである。

相応和尚が生まれた80年後に、良源のような名僧が再び湖北の地から輩出されたのは、単なる偶然だろうか?

良源は、火災などで荒廃していた延暦寺の堂宇を再建し、乱れていた僧の風紀を正したことから延暦寺中興の祖とされる名僧であり、延暦寺の第18代座主(ざす)を務めている。また、今の社寺に広く伝わる「おみくじ」の創始者としても知られている。

その良源が住した定心房跡に建てられたのが今の元三大師堂であり、堂内には良源像が祀られている。

元三大師堂に参った後には、さらに山道を歩いて元三大師御廟(みみょう)に詣でた。元三大師堂まではかなりの数の参拝客で賑わっていたけれど、元三大師御廟にまで足を延ばす人はまずいない。

天台僧になるための修業の場である比叡山行院の前を通り過ぎ分岐する道を左に取ると、急に鬱蒼と木が茂る寂しい道になった。周囲の空気が一変するのがわかる。

分岐点からすぐのところの路傍には、先日の台風による大風のせいなのだろう、太く高い木が根元から折れてそのままの姿で倒れていた。殺伐として無気味な風景を目の当たりにして立ちすくむ。

実は、元三大師御廟は比叡山の三魔所の一つと言われている場所なのである。

と言うのは、比叡山は京の都から見て鬼門である北東に位置していて、そこに建てられた延暦寺は、京の都を魑魅魍魎たちから守護する役割を担って建立された寺だとされている。つまり、延暦寺はいわゆる悪霊封じのための寺としての顔を持った寺なのである。

その都の鬼門にあたる延暦寺のなかでも横川地区は北東部に位置しており、延暦寺の鬼門となる場所にある。

さらにその横川地区のなかで最も北東の端に建立されているのが、元三大師御廟なのである。つまり元三大師御廟は、鬼門の鬼門の鬼門に位置し、最も最前線で悪霊たちから京の都を、延暦寺を、そして横川の地を守護していることになるのだ。

どことなく無気味な「気」が漂っているように感じられるのには、そういう理由(わけ)がある。

元三大師は自らの意志でこの地に埋葬されることを望んだという。死してなお、京の都を、延暦寺を、そして横川を自らの力によって守ろうとする強い意志を持っていた。だからこそ私は、相応和尚の無動寺と同じくらい、元三大師御廟に詣でることに拘っていた。

実はこの道は、前回初めて元三大師御廟を訪ねるために通った時に、突如として転倒してしまった道なのだ。次のシャトルバスまであまり時間がなくて、でも元三大師御廟には何としても詣でたくて、小走りに走っていた時のことだった。

ここ十年来、こんなに激しい転び方をしたことはなかった。手にしていたカメラは疵ついて使えなくなってしまったし、膝を地面に強く打ちつけ、足首を捻ってあまりの痛さにしばらくまともに歩くことができなかったほどだった。

地面から石が突き出ていたわけでもない。もちろん舗装はされていなかったけれど、普通の平坦な道を走っていたはずだった。

やっぱりこの道には怖ろしい魔物が潜んでいるのかもしれない。

その時の記憶が鮮明に蘇ってきた。しかも今日は雨で道がぬかるんでいる。私は今回ばかりは走らずに、慎重に歩いていくことにした。

たしかに魔物が棲んでいると言われても疑問に思われないくらい、寂寥とした道である。ただし今回は初めて通る道ではないので、道を間違えるという心配はなかった。

やがて石でできた鳥居と小さなお堂が見えてきた。元三大師の御廟は、このお堂の裏側にある。

<元三大師御廟>

 

四囲を石柱で囲まれた立派な基壇の中に不思議な形をした石の柱があった。まっすぐでなく少しだけ曲がった柱の上にちょこんと円盤状の石が乗っている。まるでキノコのような形をしたものが、元三大師の墓石なのだ。

不思議な空間に不思議な物体を見たような思いだ。

私は元三大師の墓石に手を合わせた後、元来た道を転ばないように細心の注意を払いながら歩いて戻った。

再び行院の前を通り、そのまままっすぐに進むと恵心堂に至るのだが、その手前の道を横川中堂の方へと右折してバス停まで無事に戻った。

この後はいよいよ、最後の訪問地である西塔である。私はシャトルバスに乗って西塔へと向かった。

 

西塔地区には最澄の廟所である浄土院*があるが、西塔地区の中心的建造物と言うとやはり釈迦堂になるだろう。

今年は相応和尚の1100年の御遠忌を記念して、延暦寺史上で初めて釈迦堂の内陣が一般公開され秘仏となっているご本尊の釈迦如来像が開帳されているという。

普段はけっして見ることができない内陣を見てご本尊の釈迦如来像を拝することができることを幸せに思った。これも相応和尚とのご縁かもしれない。

弁慶が左右のお堂を肩にかけて担いだとの伝説が残っている「にない堂」の左右の建物をつなぐ廊下を潜り石段を降り始めると、釈迦堂の大きな建物が見えてくる。

信長による比叡山焼打ちの後、豊臣秀吉によって大津の園城寺(三井寺)から移築されたもので、比叡山の建築物のなかで最も古い建物になるそうだ。

釈迦堂の中は大勢の参詣者で賑わい、内陣拝観のために堂内で長い列ができていた。

相応和尚の御遠忌による記念公開ということから、堂内には千日回峰行者の白装束に蓮の葉を模った笠をかぶった像が展示され、相応和尚の生涯が紹介されたパネルなどが壁に掛けられていた。

この釈迦堂をはじめとして、今年の比叡山は全山で相応和尚が主役になっていた。数々の名僧を輩出した延暦寺において、相応和尚の業績がいまだに高い評価を得ているということであり、そのことが私には何よりうれしかった。

東塔の根本中堂と同じ造りで、釈迦堂の内陣も外陣より一段低く作られている。寺僧からお清めを受けた後、しずしずと内陣に足を踏み入れた。

内陣の中はがらんとしていて、四天王像や文殊菩薩像などが疎らに配置されている。普段は中に入ることを許されず間近で見ることもできない仏像をこうして拝むことができることを不思議に思った。

外陣の喧騒が嘘のように静寂が支配するうす暗い内陣をしずしずと歩いて一回りした後、再び外の喧騒の世界に戻った。

釈迦堂を出た後、中途半端な時間だったので少し迷ったけれど、これから少し離れた浄土院まで行って集合時間ギリギリに居士林に駆け込むよりも、余裕を持って受付を済ませた方がいいと思い、釈迦堂から真っ直ぐに居士林に向かうことにした。

居士林に入ってしまえば、その瞬間から私の一日回峰行の修業が始まる。

私の緊張は、急速に高まっていった。

 

*  西塔地区と東塔地区の間にあり厳密に言うと東塔地区に属するが、バス停で

は西塔からの方が近いように思われる。

 

 

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高島篇 朽木 その3 (祝 高島&長浜観光締結)

木地師

 

岩瀬の志古淵神社を後にしたのち、「くつき温泉てんくう」というところで朽木名物の鯖寿司膳の昼食をいただいた。

てんくうは、朽木の街を見下ろす小高い山の上に建てられた、食事処、温泉、スポーツ施設などを併設する総合レジャーランドである。

丘のすぐ麓を鯖街道とも呼ばれている国道367号線が通っており、昔から若狭で採れた鯖がこの道を通って京まで運ばれてきた土地である。

その名産の鯖寿司と温かいうどんがセットになった鯖寿司膳は、たいへん美味だった。

お腹の欲求を満たした私たちは、朽木の街の中心部と言ってもいいのだろう、朽木市場地区に向かった。

市場地区の象徴とされるのが丸八百貨店という名の百貨店の建物なのだが、その丸八百貨店に行く前に、私たちは向かいにある小さな建物の戸を引いた。

それほど広くない店内には、木切れなどの材料や漆器などの商品が所狭しと置かれている。ここは、木地師の伝統を受け継ぐ方の店舗兼作業所なのだそうだ。

木地師とは何か?

普段あまり耳にしない言葉である。『広辞苑』第六版によると、木地屋に同じとあり、木地屋の項目を見てみると、

 

轆轤などを用いて木材から盆や椀などの日用器物を作る人。きじし。ろくろし。

 

とある。

身近に存在する木材を材料にして、轆轤を使って日常生活で使用するための盆や椀などの食器を作る人のことを木地師というのだそうだ。

朽木に来て以来、筏、杣、志古淵神社など「木」に関係する様々なものを見てきたが、木地師もまた木と密接に結びついた存在であることを思った。

朽木はどこまでも、木によって生き、また木によって生かされている町なのだという意を強くした。

 

木地師の実力を実演により見せていただいた。

轆轤というと、陶芸で使う大きな回転台がありその上で粘土を形造っていくような光景を想像するが、現代の木地師は工作機械のようなものに小さな立方体の木片を固定し、その木片を回転させながら鑿で削っていった。

かつてイタリアのヴェネチアで、ヴェネチアングラスの職人が真っ赤に熱せられたガラスの塊からピンセットのような工具を使ってあっという間に馬の像を造り出す技を見たことがある。

熱いガラスの塊の中から前脚が引っ張り出され、続いて後脚が姿を現し、そしてやや太くて長い首が引き出されたら、それはもう立派な馬の姿だった。

時間を測っていたわけではないが、一頭の仔馬が造り出されるまでに1分もかからなかったのではないかと思う。

その時と同じような光景が、我が眼前で繰り展げられていた。


何の変哲もない小さな立方体の木片が、みるみるうちに小さなキノコの姿へと変貌を遂げていったのである。

それはまるでマジックを見ているようなものだった。

あるいは、元々、木片の中にキノコが潜んでいて、木地師の操る鑿によってその姿が現実の姿として浮かび上がったとでも思えるような、見事な手捌きであった。

ほんの短時間のうちに、単なる木の塊からキノコが姿を現す。木地師の方は、固定していた工作機械からキノコを取り出すと、私たちに手渡してくれた。

滑らかな手触りと鮮やかな木目が印象的だった。キノコ自体はキーホルダーや携帯のストラップになるような小さなものだったが、私にはキラキラと輝く宝石のようにさえ思えた。

先にも書いたとおり、木地師はいわゆる芸術作品を創る工芸家ではない。むしろ芸術の世界とは対極にある日常世界の食器を作る極めて生活に密着した存在である。

身の回りにあるブナや栃の木などの木材を使用して、椀や盆などの身近な食器を削り上げていくのだ。

室内に雑然と積まれている木片が材料となるのだろう。

よく見ると、その木材には、山桜、カツラ、ブナ、ナラ、トチ、カエデ、ケヤキ、水目、カキ、ホオなどとマジックで木の名前が書かれている。

輪切りになった小振りで厚めの円筒形の木片は椀を作る材料となり、薄くて広めの立方体の木片は盆の材料となるのだろう。それぞれの出来上がりの姿を想像して材料としての木片が準備されていた。

その傍らには、製品となった椀や盆が並べられている。

これらの椀や盆は「朽木椀」、「朽木盆」と呼ばれ、日常使いの食器類とは言え、朽木地方の漆工芸品が高い技術力を持ったものであることを物語っている。

そのなかでも特徴的なのが盆で、黒、朱、緑などの漆が塗られたうえに、どれも菊の文様が描かれている。

あるものは盆の面全体に大きく、またあるものは盆の面の一部に小さく描かれているが、いずれも皇室の紋章と同じ16枚の花弁をもつ菊の文様で飾られている。このことについては後述しなければならない。

木地師は木を削って椀や盆の形を作るまでが受け持ちで、その上に漆を塗るのは塗師(ぬし)と呼ばれるまた別の職人が行うのだそうだ。完全分業制である。

これも後にまた触れるが、朽木には「木地山」と呼ばれる山がある。木地師は主にその木地山などの山間部を本拠とし、移動しながら良質な木材を求めていたようである。

明治以降はそのような特権は失われていったが、木地師は山の7合目以上の木を自由に伐採できるという「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持していた。この綸旨は全国どこの山でも有効であったという。

こうして木地師は、山から山へと点々とする生活を送っていたようである。

一方の塗師は、先程私たちが筏や志古淵神社などを見てきた安曇川の畔の岩瀬の辺りに定住していたと言われている。

木地師の轆轤技術と塗師の漆の技の合作が、素朴な朽木の日常食器になっている。

 

滋賀は全国の木地師発祥の地と言われている。

それは、悲劇の皇子と呼ばれる小野宮惟喬(これたか)親王伝説と結びついている。

惟喬親王は、承和11年(844)に第55代文徳天皇の第一皇子として生まれた。いずれは天皇位を継ぐべき立場であった。ところが文徳天皇は、第一皇子である惟喬親王を差し置いて第四皇子の惟仁親王を皇太子として立てた。

惟仁親王の母が藤原氏の系列に属する明子であったのに対し、惟喬親王の母が紀氏であったためとも言われている。

皇太子になることができなかった惟喬親王は、天安2年(858)に太宰権帥として大宰府に赴いた後、常陸太守、上野太守など都から遠い辺境の地を点々とし、貞観14年(872)に30歳に満たない若さで失意のうちに出家した。

その後、小野、山崎、水無瀬などに移り住んで寛平9年(872)に54歳で亡くなったと伝えられている。

惟喬親王の逸話は、『伊勢物語』の第81段と第82段にも書かれている。有名な

 

世のなかに絶えて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし

 

という歌は、その第81段に掲載されている歌である。

 

京都府左京区大原上野町に、惟喬親王の墓と言われる五輪塔が遺されている。

ところが滋賀には、惟喬親王にまつわるもう一つ別の伝説が伝わっている。それが木地師の伝承と深く結びついているのだ。

すなわち、惟喬親王が近江国蛭谷(現東近江市)に隠棲し、そこで地元の住民たちに木地師の轆轤技術を拡めたという言い伝えである。この伝承を以て、蛭谷地区を含む小椋谷一帯は木地師発祥の地と称されている。

蛭谷は、愛知川の上流にある名刹永源寺をさらに遡ったところにある。秋には見事な紅葉が流域を彩る美しい地域である。

蛭谷という地名は今も当地に残っている。

八風街道と呼ばれる国道421号線を愛知川に沿って遡り、途中から左手に折れて愛知川支流の御池川に沿って県道34号線を進んでいく。

政所、箕川という集落を過ぎると、やがて目的地である蛭谷に辿り着く。

かの白洲正子さんが「かくれ里」として紹介した小椋谷は、政所、其川、蛭谷、君ヶ畑、九居瀬、黄和田、筒井などの集落から成る広範な地域であるが、まさにかくれ里と呼ばれるにふさわしい山深い土地である。

興味深いことに、今も書いた通り、小椋谷一帯には政所、君が畑という地名が存在している。また、高松御所、筒井公文所、大皇器地租(おおきみきじそ)神社と呼ばれる場所などがある。

まるでかつてこの地に天皇か天皇に准ずる皇族が住んでおられたかのような土地の名がここ小椋谷に点在しているのだ。

土地の言い伝えによると、隠棲された惟喬親王は君ヶ畑にある金竜寺にお住まいになられていたという。この金竜寺のことを土地の人たちは高松御所と呼んでいる。

金竜寺の本堂には菊の御紋が掲げられている。君ヶ畑という地名も、元は小松畑という名だったそうだが、親王がお住まいになられたことから君ヶ畑と呼ばれるようになったのだという。

高松御所のすぐ近くにある大皇器地租神社は、祭神として木地師の祖先としての惟喬親王を祀る神社であり、明治以前は大皇大明神という名前で呼ばれていた。

かつてこの地には木地師を統率するための役場が設置されていて、その役場のことを筒井公文所と呼んでいた。

木地師は全国に散らばり良質な木材を求めて移動しながら生計を立てていたため、木地師を登録して統制を保つとともに、彼らの身分を保証してやる必要があったものと考えられている。

こうして小椋谷には、正史とは別に惟喬親王伝説が存在し、今でも土地の人たちは、惟喬親王が小椋谷に住まわれ、木地師たちに轆轤の技術を伝えていたと信じているのである。

先に惟喬親王の墓は京都の大原にあると書いたが、ここ小椋谷にもある。

県道34号線沿いの筒井峠付近に、惟喬親王御陵がひっそりと佇んでいるのがそれだ。

 

小椋谷における惟喬親王隠棲伝説は、かつて『湖北残照』文化篇で紹介した菅浦における淳仁天皇伝説と相通ずるものがあるように思われる。

どちらも白洲正子さんがかくれ里として紹介された土地であることは単なる偶然であろうか?

醜い政争に巻き込まれ、自らの意志ではどうにもならない権力に翻弄され、不本意な生涯を終えた淳仁天皇と惟喬親王。

しかし庶民たちは彼らの正当性を理解し、支持していた。

そんな誠実な想いが伝説となり、正史とは別の物語を成立させているのだろうか。非常に興味深い事実である。

親王のやりきれない哀しい想いを、庶民たちは信じていた。

 

本題の朽木を離れ、かなりの紙面を割いて東近江市の小椋谷のことを書いてきた。惟高親王の無念を想うとともに、惟喬親王一派による木地師の技術伝播が朽木繁栄の礎を築いたと思ったからだ。

近江国小椋谷を源とする木地師の轆轤技術は、木地師が諸国の山林に散らばっていったがために、文字通り日本全国へと拡がっていった。

同じ近江国のなかにあり良質な木材を産する朽木のムラに木地師の技術が伝えられていったことは、想像に難くない。

近江国と若狭国との境に、木地山という山がある。この山こそが、文字通り朽木の木地師が拠点としていた山だと考えていいのではないか。

朽木の木地師の仕事の特徴として、菊の紋章が意匠された盆が有名であることを先に書いた。

これは他の地域にはあまり見られない朽木の盆だけの特徴であり、そこには、惟喬親王との並々ならぬ結びつきを認めざるを得ない。

皇室の御紋の使用は一般庶民にはけっして許されることがなかったと思われるからだ。朽木の木地師たちは、あるいは小椋谷に隠棲されたと伝えられる惟喬親王と直接関係があった人たちであったのかもしれない。

一枚の盆から、様々な想像を巡らせることができる。

まさに歴史におけるミステリーであるのだ。

 

丸八百貨店

 

木地師の店を出た私たち一行の関心は、木地師の店とは細い道を挟んだ反対側に建つ丸八百貨店のモダンな建物に向かわざるを得なかった。

しっとりとした純日本風の古風な趣を今も醸し出している朽木の街に、突然ぽかんと洋風の洒落た建物が姿を現しているのだ。

この街には場違いとも思われる洋風建築は、いつ誰が何のために建てたものなのか?興味が湧かないわけがない。

落ち着いた薄い黄色を主調とした石造りの三階建ての建物の上部には、三角形を組み合わせて帯のようにした装飾が施されていて、実にお洒落なデザインだ。

建物の角に設けられたエントランスの上には大きく「丸八百貨店」という文字が掲げられている。ここが元は百貨店であったことがすぐに伺える。

調べてみると丸八百貨店は、この地で下駄屋を営んでいた大鉢捨松という人が昭和8年(1933)に百貨店として建てた建物であることがわかった。

今は三階建てであるが、創業当時は二階建ての建物で、一階には本業の下駄のほかに雑貨、本、新聞などが並べられ、二階では呉服が売られていたという。

三階が増設されたのは昭和18年(1943)頃で、森林組合の事務所や村営の授産施設が置かれたりした。

今もだが、当時としては目を瞠るようなハイカラな建物であり、そのデザインの斬新性において朽木の人たちの心を鷲掴みにしたのではないだろうか。当時の繁盛ぶりが窺える。

滋賀県でモダンな洋風建築というとすぐに頭に浮かんでくるのがヴォーリズである。年代的には重なっているし高島市にはヴォーリズが建設した建物もあるのだが、丸八百貨店は残念ながらヴォーリズが建てた建物ではない。

大工は比良の清水一左ヱ門という人で、左官は京都の沢本浅之丞という人が造った建物であるそうだ。二人とも大鉢捨松氏の親戚筋にあたる人であるという。大鉢氏の一族は芸術的才能に満ちた一族であったのかもしれない。

丸八百貨店の店名の由来には諸説があるようだ。

京都の大丸百貨店を真似たとする説や、当時は百貨店の名前に丸の字を付けるのが流行っていたので、大鉢の「鉢」を「八」に変えて丸八としたという説などがあるが、真相はわからない。

市場地区という朽木の街のなかでも最も賑わう中心部に立地し、目を引くモダンな建物であるので、先程も書いたとおりさぞかし繁盛したであろうと思われるが、残念なことに平成のはじめ頃に最後の店子が亡くなり百貨店は閉店となったという。

半世紀強に亘って朽木の街の人たちに商品を提供し続けてきた丸八百貨店であったが、閉店後は旧朽木村が土地と建物とを買い取り、「鯖街道まちづくり委員会」が一階を書店と無料休憩所として開放し、二階にはパブを作り、三階は会議スペースとして使用したという。

個人的には是非、二階のパブでちょっと気取った気分でお酒を飲んでみたかった。

平成9年(1997)にはこの丸八百貨店の建物は国の登録有形文化財に指定されている。県で3番目の指定である。

平成14年には「鯖街道まちづくり委員会」が撤退し、平成16年から「睦美会」という地元の女性グループが管理と運営に当たっている。

私たちが行った日はたまたま休館日であったため、扉が閉ざされていた。無情にも「おやすみ」と墨書された木札が扉に掛けられ、入口には「準備中 丸八百貨店」と書かれた看板が立てられていた。

せっかく来たのだから中に入ってみたい。建物の中はどのようになっているのだろうか?自然な欲求である。

残念な思いで建物の周囲をうろうろしていたら、「扉を開けましょうか?」と地元の女性が声を掛けてくれた。

先に書いた、この建物を管理している女性グループの方のようだ。20人もの他所者が建物を取り囲んで周囲をうろうろしている様子は、ただならぬものがあったに違いない。

私たちはその女性のご好意で丸八百貨店の建物の中に入ることができた。

一階から二階にかけてが吹き抜けの構造となっている。眩しいくらいの壁の白い色に窓枠や梁の木の色が映えて鮮やかだった。

今は丸八カフェとして、コーヒーや紅茶などの飲み物の他に、うどんやそばなどの軽食を提供している。予約をすると、当地名物の鯖そうめんや鯖寿司などを食べることもできるそうだ。

このようなステキな場所で地元の名物に舌鼓を打つ。想像しただけでも心がうきうきしてくる。

内装自体は開業当時のままではないと思うが、今の内装もしっとりと落ち着いていて上品な雰囲気を醸し出している。当時の店内の様子がどんなものだったのか、見てみたかった気がする。

私たちはしばらくの間、建物の中を歩き回りモダンの香りを思い切り吸い込んで、丸八百貨店を後にした。

 

先に、丸八百貨店がある市場地区は朽木の街の中心部にあると書いた。

市場という地名からも容易に想像できるように、この地には古く室町時代から市が立っていたという。

モノが集まればヒトが集まる。かつての朽木の中心部市場地区には商家が建ち並び、人々が往来し賑わいを見せていたことだろう。

若狭国と京とを結ぶ鯖街道のちょうど中間地点に位置し交通の要衝でもある当地には、江戸時代に朽木氏の陣屋が置かれていた。

朽木氏は1万石以上の大名ではなく旗本であったのでその居所も城とは言わずに陣屋と呼ぶが、私たちに馴染みやすい言葉で言えば朽木は朽木氏の城下町であったと表現してもいいだろう。

近くに国道367号線が新たに通されたため、かつての街道は今は旧道となっている。丸八百貨店周辺の道もそうだが、道が不自然に鉤型に曲がっているところがある。これは「鍵曲(かいまがり)」と言って、城下町に特有の防御のための仕掛けである。

敵が一気に攻め込んでくるのを妨げるために、道を意図的に直角に曲げる。曲がった道は目の前の視野を遮る効果もある。そしてその曲がった角には敵を迎え撃つための兵士を潜ませておくことができる。

彦根の城下町にも、同様の目的で「どんつき」と呼ばれる鍵型に曲がった道が今でも残されている。まさにかつての城下町としての面影を感じる部分だ。

また、市場地区の旧街道を歩いていると、道の傍ら、用水路の脇にレンガ造りの立方体の煙突のようなものが目に入ってくる。

これは、「立樋(たつどい)」と呼ばれるもので、用水路の水を取り込みサイフォンの原理を利用して各家庭に水を引き入れる装置である。

古い街並みにレンガ色がお洒落なアクセントを作り出している。

道の傍らに清らかな水の流れがあるのが滋賀の街並みの特長の一つであるのだが、市場地区もその例外ではない。

今回の私たちの旅のメインテーマは、日本遺産に認定された琵琶湖とその水辺景観を巡る旅であった。

ここ朽木においても、水と密接に結び付いた生活風景の一端を垣間見ることができる。

用水路に沿って道を歩いて行くと、流れの水位まで降り立つことができる階段状の施設を目にする。

これは、「川戸」と呼ばれるもので、住民たちが洗い物をしたりするために設けられたものである。用水路は住民たちの日常生活と密接に結び付いた存在であることがよくわかる。

用水路の水は、防火用水として、また積雪時の融水用の水としても使用されるのだという。

市場地区にはその他にも、藩の御用商人として造り酒屋や醤油の醸造を行っていた熊瀬家の住宅や昭和13年(1938)にヴォーリズが設計して建てた旧郵便局の建物などが遺されている。

いつか時間の制約なくじっくりと歩いてみたいステキな街である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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高島篇 朽木その2 (祝 高島 & 長浜 観光締結)

安曇川と筏

 

筏と言うと私は、ディズニーランドのアトラクションの一つである「トムソーヤ島いかだ」くらいしか思い浮かべることができなかった。

ディズニーランドでは、対岸のトムソーヤ島に行くための乗り物として、太い丸太を横に何本も並べて作った平たい舟のような乗り物が「いかだ」と呼ばれ使われている。

興聖寺を出た私たちは、徒歩で安曇川に沿った道を川下の方へと歩いていった。

この先に、地元の方が私たちのために作ってくれた筏が係留されているというのだ。

その時には、ここでどうして筏が登場してくるのか、私にはよくわからなかった。やがて川を横断する水道橋が見えてきて、その袂に細長い木の塊(かたまり)が水に浮かんでいるのが見えてきた。

これが筏なのか?

私が描いていたイメージとはちょっと違っていた。

と言うか、私はこれまで本物の筏というものを見たことがなかったという事実に初めて気がついた。

私が目にしたものは、丸太を数本横に束ねて、それを縦に3連(れん)繋いだ細長い木の塊(かたまり)だった。

きれいに皮が剥がされた丸太は、1本1本はそれほど太いものではないけれど、どれもみなまっすぐで光沢があった。私は木に関してはまったくの素人であるけれど、そんな素人が見ても良質の木材であることが一目瞭然だった。

これらの丸太はみな、朽木の山林で切り出されたものだという。

そう言えば、京都から朽木まで、バスはずっと山道を走ってきた。道の両側の斜面は、見渡す限り木々で覆われていた。朽木は、豊かな山林資源に恵まれた土地柄であったことを改めて認識した。

朽木の人たちにとって、林業は重要な産業であるのだ。木とともに生き、木と共に暮らす。朽木の人たちと木との間には、切っても切れない関係が存在している。

伐採した木々を運び出す手段として重要な役割を果たしていたのが、筏だった。

川は自然の恵みである。長く重い丸太を陸路で運ぶのには多大な労力を必要とするけれど、水の流れに乗せて流していけば楽に運ぶことができる。

朽木の筏は、ディズニーランドのアトラクションのように人を乗せて運ぶものではなく、伐り出した木を安曇川の流れを利用して下流の琵琶湖に運ぶためのものだったのだ。

川が狭くて流れの速い場所もあるだろうから、横に広いトムソーヤ島のいかだのような形状では、途中で引っ掛かってしまうだろう。

朽木の筏は、川の流れの中でも事故なくスムーズに木を運ぶことができるように工夫されたものだということを理解した。

丸太と丸太とを繋ぐものは、植物の蔓(つる)である。

これも山の中に自然にあるものを使っている。すべてが理に適っていることに感嘆した。

朽木の筏は人を運ぶものではないけれど、人が乗って行先をコントロールする必要があるのだろう。人が握る舵取り棒のような木が筏に括りつけられている。

この棒を使って巧みに舵を切りながら、朽木の人たちは安曇川の河口まで筏を運んでいったのだろう。

実際に筏を流しているところを見ることはできなかったけれど、最盛期には安曇川の流れにたくさんの筏が浮かび流れていく壮観な光景を想像した。

 

朽木における木の歴史は古い。

「朽木杣(くつきのそま)」という言葉がある。

「杣」とは、『世界大百科事典』によると、「古代律令国家や荘園領主が,造都や寺院などの巨大造営物の建設用材を確保するために指定した山林」だそうだ。

大きな寺院や貴族の邸宅などを造営するためには、大量の木材が必要となる。また、造営した寺院や邸宅を維持していくためにも継続的に木材の供給を欠かすことができない。

そこで古代の寺院や貴族たちは、自分たちの建物を造営・維持するための木材を確保する手段として、畿内の各地に専用の山林を所有するようになった。

その山林のある山のことを「杣」と言い、杣で木材の伐り出しに従事する人のことを「杣人」、杣から伐り出される木材のことを「杣木」と言った。

杣は組織的に管理され、杣の運営を司る杣頭、張付などと呼ばれる管理者が置かれていた。

その杣の一つが、朽木杣である。

高島には、安曇川に沿って朽木杣のほか子田上杣(こだかみのそま)、三尾杣(みおのそま)、石田川に沿って河上荘(かわかみのしょう)などの広大な地域に杣が営まれていた。

11世紀初頭には、山城国寂楽寺(白川寺喜多院)造営のために近江国朽木杣が営まれたとの記録が文献にある。

杣と杣との間には微妙な力関係が存在していたようで、朽木杣は隣接する子田上杣に対して従属関係にあったと言われている。朽木杣の人たちは、杣に入るために「山手」と呼ばれる手数料を子田上杣に支払わなければならなかったし、伐り出した木を筏に組んで安曇川に流すためには「津料」と呼ばれる通行料を支払っていた。

子田上杣は藤原氏の権力を背景とした宇治平等院の杣であったから、山城国寂楽寺と比較すると格式が高かったためにそのような力関係が生じたのかもしれない。

しかし朽木杣も手を拱いて子田上杣に従っていたわけではなかったようだ。

通行料を支払わず杣道を塞いで子田上杣の伐採を妨害したり、勝手に人夫を入れて木の伐採をしたりして紛争となり平等院が天皇に宛てて訴え出たことなどが、今津町酒波の日置神社に遺されている古文書に記録されている。

木材の伐採で生計を立てていた杣人たちにとって、木の1本1本が生きていくための重要な資源であり、少しでも多くの木材を得るために様々な努力が行われていたことの一つの痕跡なのではないだろうか。

安曇川の筏を見ていて、そんな古代からの朽木の人々の「木」にかける思いの強さをしみじみと想った。

 

志古淵神社

 

筏が係留されていた場所から程近いところに、志古淵神社と呼ばれる神社があった。「志古淵」と書いて、「しこぶち」と読む。

珍しい名前の神社である。

志古淵、志子淵、志故淵、思古淵、思子淵、信興淵など充てられる漢字は異なるものの、高島には安曇川沿いに「しこぶち」神社と呼ばれる神社が多数存在するという。

高島市のWebサイトによると、実に15社もの「しこぶち」神社が紹介されている。そのうちの主要な「しこぶち」神社が七社あり、それらを総称して「七シコブチ」と呼ばれている。

七シコブチとは、以下の七社を言う。

久多・思古渕社(志古淵神社)

京都府京都市左京区久多中。この神社に古くから伝わる「花笠踊」は、無形文化財に

指定されている。

小川・思子淵神社

滋賀県高島市朽木小川。毎年輪番に宿を決めて集まり、床の間に「思子淵神社」と書

かれた神軸を掛けてお供えをし、赤飯を炊いて会食する思子淵講と呼ばれる講があっ

た。境内に建つ本殿、蔵王権現、熊の社の3社は14世紀後半建立の貴重な建造物であ

り、国の重要文化財に指定されている。

坂下・思子渕大明神

滋賀県大津市葛川坂下。大岩の上に鎮座する小さな祠に祀られている。

坊村・信興淵大明神

滋賀県大津市葛川坊村町。地主神社の境内社として祀られている。湖北出身の比叡山

の名僧相応和尚が創設した葛川明王院の創始にまつわる伝承が伝わっている。

梅の木・志子渕神社

滋賀県大津市梅の木町。近年まで、陰暦十月七日が祭日であった。

岩瀬・志子淵神社

滋賀県高島市朽木岩瀬。志子淵神を「筏流しの神様」として祀り、毎年志子淵講が行

われる。もとは北側の小字畑福に鎮座していたが、寛文2年(1662)の大洪水により

流され、現在地に遷されたと伝えられている。

中野・思子淵神社

滋賀県高島市安曇川町中野。七シコブチのなかで最も下流に立地するシコブチ神社。

筏流しにとって特に危険な場所はここよりも上流ということになる。

 

一方で、高島以外の地方には「しこぶち」神社という神社は存在しないという。

古来から高島地方に坐(いま)します土地の神様の名前なのだろうか?それとも、この地方に住みついた渡来人が信仰していた異国の神の名だろうか?不思議な聞きなれない名前に、何の根拠もないけれど、様々な憶測が頭に浮かんでくる。

案内をしてくれた高島市の職員の方の説明によると、しこぶちの「しこ」とは強いとか恐ろしい場所という意味で、「ぶち」とは川の淵、すなわち川が大きく曲がっている場所や深く水が澱んでいる場所のことを示す言葉なのだそうだ。

前述のとおり、林業を生業とし木材の伐採により生計を立ててきた高島の人々にとっては、伐り出した木材を安曇川の流れを使って安全に琵琶湖に運ぶことはたいへんに重要なことだった。

流量が十分にコントロールされている今の安曇川の流れとは異なり、自然の流量に任せる以外に方法がなかった昔の人たちにとっては、安曇川の流れはありがたい存在であると同時に時には危険な存在となることもあった。

一歩間違えば死傷事故にもつながりかねない危険な川の流れ。当時の人たちにとって安曇川の流れは諸刃の剣で、無事に木材を琵琶湖まで流すことができればこんなありがたい存在はないが、一方でそれは死と隣り合わせの危険な作業でもあったのだ。

自然、そこは神頼みということになる。

どうか無事に筏を琵琶湖まで流してほしい。筏乗りたちの切実な願いであった。そう言えば、山本兼一さんの『火天の城』という小説のなかに、安土城を築城するために木曽の山から大きな丸太を伐り出し木曽川を使って運搬する光景が描かれた場面があった。

その丸太が川の淵をうまく曲がりきることができず岩に激突し、作業を指揮していた頭が亡くなるという凄惨な事故の場面が描かれていたことを思い出した。

これは小説の中だけの出来事ではなく、実際に起こり得る事故であったということを改めて実感した。

先に私たちは、安曇川に係留されている筏を見た。そしてそこから程近い志古淵神社を訪れて、この筏と志古淵神社とが深い関係を有していることを知った。

インターネットで安曇川に浮かぶ筏の古い写真を見ることができる。先程見た筏よりももっと幅が広くて、いくつもの筏を長く連ねた立派な筏が写っている。

安曇川の水量も今より多く向こう岸まで一杯の水が流れていて、一つの長い筏に何人かの筏師が乗って、長い竿を操って筏を操縦している。

こんなに長くて大規模な筏を操縦することは容易なことではなかっただろう。これでは、川の流れの状態によっては、いつ筏が岸や淵に激突して筏から放り出されるかわからない。まさに筏乗りは命懸けの仕事であったことが理解される。

 

興味深いことに、この志古淵信仰は、水に関わる想像上の動物である河童の伝説とも関わっている。

滋賀県小学校教育研究会国語部会が編集した『読みがたり 滋賀のむかし話』という本のなかに、「しこぶちさん」という昔話が収録されている。要約すると、以下のような内容である。

昔むかし、朽木村に「しこぶちさん」という名の筏師がいた。

山から伐り出した木で筏を組み、息子とともにその筏に乗って安曇川を下って行くと、続が原の日ばさみというところで筏が岩角にぶつかり立往生してしまった。

これは困ったことになったと途方に暮れていると、一緒に筏に乗っていたはずの息子の姿が見当たらないことに気づいた。

川面を見ると、一匹の河童が息子を小脇に抱えて水の中に引き入れようとしているではないか。

驚いたしこぶちさんは持っていた竿で河童を叩き、息子を救い出した。川太郎という名のこの河童は、もう悪さはしませんと言ってすごすごと引き下がっていった。

ところが、しこぶちさんが中野の赤壁というところまで筏を進めていくと、再び筏が大きな淵に当たって動かなくなってしまった。

しこぶちさんが川の中を覗いてみると、先程の河童の川太郎が川底から筏の航行を邪魔しているではないか。

大いに怒ったシコブチさんは、川太郎をこてんぱんに叩きのめした。

ついに観念した川太郎は、もうこれからは筏師には一切手を出しませんと誓い、そのしるしとして、手にしていた杉の枝を逆さにしてしこぶちさんに向かって突き出した。

その杉は、中野のさかさ杉と呼ばれる大きな杉の木になった。

しこぶちさんは河童の川太郎を許し、川太郎はその後、筏師の守り神として安曇川を下る筏が遭難しないように守護したと伝えられている。

 

私が訪れた興聖寺の近くにある志古淵神社は、先に紹介した七シコブチのうちの岩瀬の志子淵神社であった。

旧道に面して志子淵神社と刻まれた古い石柱が自然石の台座の上に建てられている。一部が黒く変色した太くて高い石柱だ。

その奥には一段高くなった場所に石の鳥居が見える。

説明版などは何もない。ここが観光の対象ではなく村人たちの生きた信仰の場所であることを物語っているのだろう。

不思議なことに社殿は鳥居を潜った正面にではなく、左に直角に曲がった場所に鎮座ましましている。

社殿は、鳥居が建つ広場よりもさらに一段高くなった場所に築かれていて、背後には鎮守の杜が厳かに控えているのが見える。神社がある一帯は民家が建ち並んでいる旧街道の一角なので、周囲で木々があるのはこの鎮守の杜だけだ。厳かな気配が漂っているのは背後のこの杜のせいかもしれない。

積年の風雪による損傷から保護するためなのだろうか、石垣の上に石柱が張り巡らされた敷地の中に建つ社殿には覆い屋が掛けられていて、それがかえって神々しさを増幅させているようにも思われる。

覆い屋は、主殿の左右に従えている末社をも覆い、非常に複雑な構造を成している。けっして豪華なものではなく、しかも社殿もだが覆い屋自体もかなりの年輪を感じさせる古いものであり、今にも朽ち果てそうな佇まいがある。

神寂びたという言葉がいかにも似つかわしい趣のある神社だった。

今回私は、七シコブチと言われる志古淵神社のうちの一社を訪れただけであるが、残りの六社についてもいつか詣でてみたいと思った。それぞれに特徴をもった不思議な神社であるに違いない。

杣、筏、そして志古淵神社。朽木という土地のことを考えるときに欠かすことのできないそれぞれに関連しあっているキーワードを、私は改めて頭の中で整理してみた。

すべては、木にまつわるものである。

朽木という土地が、昔からいかに木と密接な関係のうえに成り立っている土地であったかということを強く考えた。

 

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 高島篇 朽木 その1 朽木街道 (祝 高島 & 長浜 観光締結)

旅のはじめに

 

平成24年(2012)12月に『湖北残照 文化篇』を上梓した。

その後、まだ本にはなっていないが、『湖北残照 拾遺』を書き上げた。これで『湖北残照』としては、「歴史篇」「文化篇」「拾遺」の三部作が完成した。もういいだろう。新境地を求めて他の地域についても書いてみたい。

「拾遺」を書き終えた時にはそう思っていた。

ところが、「湖北」には、まだ広大な地域が手つかずのまま残されていた。高島地区である。

一般に「湖北」と言うと、琵琶湖の北東の地域のことを言う。具体的な市町村名で言えば、長浜市が該当するだろう。

ところが、琵琶湖の北西の地区はなぜか「湖北」とは呼ばれないが、同じ琵琶湖の「北の方」であることに変わりがないという事実に、ある日ふと心が留まった。

地元の方は「湖北」と呼ばないかもしれないが、他所者である私にとっては、湖の北東も北西も湖の北の方という意味において「湖北」であることに変わりはないと思ったのだ。

関東の人間にとって、琵琶湖の玄関口は東海道新幹線の米原駅になる。ここを起点に考えると、湖の向こう側に位置する高島市は交通の便として最も行きにくい場所にある。それが今まで私が高島市に足を踏み入れたことがなかった最大の理由でもあった。

今回は縁あって、京都駅から出発する高島市の日本遺産*を巡るバスツアーに参加することになった。

この際、私にとってのもう一つの湖北をじっくりと見て体感しておきたい。私はわくわくする思いで、京都駅南口の集合場所に向かった。

琵琶湖を、いつも見るのとは反対側から見るということにも興味があった。長浜方面から見ると夕方の太陽が琵琶湖に沈んでいくのだが、反対側の高島方面からは朝日となって昇ってくる。

長浜とは対照的な世界がそこには拡がっているのだ。

高島から見た長浜は、どのように見えるのか?私の興味はどんどん大きく膨らんでいった。この旅を最初の一歩として、高島の魅力を味わっていきたい。そんな想いから、私は『湖北残照』高島篇を書いてみることにした。

そんなことで、まだまだ私は「湖北」から卒業できないでいる。

*日本遺産とは、以下のように定義されている(高島市作成のパンフレットより転記)。

地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として文化庁が認定するものである。

ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。

 

平成28年現在で37件の日本遺産が指定されているが、そのうちの1件として「琵琶湖とその水辺空間-祈りと暮らしの水空間」というストーリーで、大津市、彦根市、近江八幡市、高島市、東近江市、米原市、長浜市の7市が指定を受けている。

 

 

 

朽木 その1

朽木街道

歴史好きには、「朽木」と聞くと織田信長のことを思い浮かべる人が多いのではないだろうか?

元亀元年(1570)4月27日、越前・朝倉氏を攻めるために信長が敦賀の金ヶ崎を攻略していた時のことだった。

突然、北近江の浅井氏が信長の退路を断つ形で背後から攻撃を仕掛けようとしているという報告がもたらされた。

「そんな馬鹿なことはない。」

信長は最初、その報告を誤報と決めつけて取り合わなかったという。

なぜならば、織田家と浅井家とは同盟関係を結んでおり、浅井家当主長政の許には信長の妹であるお市の方が嫁入りをしていたからである。

長政とお市とは夫婦仲がよく、二人の間にはすでに茶々と呼ばれる長女が誕生していた。次女の初も元亀元年の生まれであるから、この時すでに誕生していたか少なくともお市の方のお腹の中にはいたはずである。

固く結ばれた織田家と浅井家とのことを考えれば、長政が信長に反旗を翻すことなど考えられない。信長が最初の報に接して信じなかったのも宜(むべ)なるかな、である。

ところが、その報告は誤報ではなかった。

次々と信長の許に寄せられてくる続報に接した信長は、長政の攻撃を信じないわけにはいかなかった。

前方には朝倉氏が、そして後方には浅井氏が迫ってきているとなれば、まさに信長は袋の鼠だった。

即座に退却を決断した信長は、金ヶ崎から琵琶湖西岸の朽木を通って命からがら京へと逃げ帰ったのであった。

世に言う「金ヶ崎の退き口」である。

信長の人生において最大の危機だったと言われるこの時の逃走劇において重要な役割を演じたのが、一人は殿(しんがり)を務めた木下藤吉郎であり、そしてもう一人が朽木の領主であった朽木元網である。

朽木氏は、近江佐々木源氏の流れを汲む高島氏の支族である。

鎌倉時代初期に近江守に任じられていた佐々木信綱の4人の子が信綱の死後に領地を分割して与えられ、長男の重綱が大原氏、次男の高信が高島氏、三男の泰綱が六角氏、四男の氏信が京極氏をそれぞれ名乗った。

その高島高信の次男頼綱の代に、近江国高島郡を領有する高島氏から朽木谷の地を領地として拝領し、朽木氏と名乗ったのが始まりである。

信長の時代の朽木氏の当主が元網であった。

何としても生き延びて京に辿り着きたい信長は、朽木谷に沿って走る朽木街道を通って京に逃げ帰る道を選択した。

この道は、今ではいわゆる「鯖街道」と呼ばれる若狭と京都とを結ぶ重要な街道となっている。安曇川の流れに沿い山中を通る道である。

この朽木街道のほぼ中心に位置している朽木を領有していたのが、朽木元網であった。

朽木街道を通って京に戻るためには、朽木を通らないわけにはいかない。しかし朽木元網は信長の領内通過を許容してくれるかどうかわからない。

信長は、同行していた弾正松永久秀を交渉役として元綱の許に遣わした。

その間信長は、朽木の領内に入る手前の岩陰に隠れて久秀からの朗報を待っていたと言われている。

その信長が隠れていたという岩が「信長の隠れ岩」として今も残されている。多少のニュアンスの違いはあるが簡潔にまとめられているので、近くに設置された説明版の内容を以下に書き写してみた。

 

戦国武将・織田信長は元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討伐するために敦賀

へ侵攻していましたが、妹婿であった浅井長政が裏切ったとの情報を得て急きょ撤退を

決意、同日30日に京都へ引き返します。その退路として通ったのが今津町保坂から大津

市葛川へ抜ける裏ルート「朽木越え」でした。

信長が来ることを知った当地の領主・朽木元網は、甲冑姿で出迎えようとしました。

この武装姿に驚いた信長は、同行の松永久秀と森三左衛門(可成)に元網の真意を確か

めに行かせます。

そして元綱に敵意がないことを確認するまで、ここ三ツ岩の石窟に身をひそめて待機

したと伝えられています。

平服に着替えた元網は、信長を下市場の圓満堂(えんまんどう)でもてなした後、朽木城に宿泊させ、

翌日京都までの警備役も務めました。

(圓満堂跡はここから南へ1キロの下市場の集落内にあります)

~朽木・群・ひとネットワーク 朽木地域まちづくり委員会~

 

元網は、永禄9年(1566)に浅井長政に攻め込まれて降伏し、一時長政の勢力圏に組み込まれていたことがある。その後、隷属関係は解消となっているものの、果たして信長にすんなり領内通過を許すかどうかはわからない。

信長の大きな賭けだった。

交渉役として派遣された松永久秀が元網相手にどのような交渉を行ったかは、わからない。しかし久秀もここで元網を説き伏せられなければ信長同様命がない状況にあったので、必死の交渉が行われたであろうことは想像に難くない。

交渉上手であった久秀が信長の陣中に居合わせていたことは、信長に幸いした。

後に信長に背き壮絶な死を遂げる久秀であったが、この時は命懸けで元網を口説き、信長の命と自らの命とを救った。

信長にとっても大きな賭けだったが、元綱にとっても突然訪れた大きな試練だったに違いない。

信長の将来性と浅井・朝倉連合軍の可能性とを短時間のうちに秤にかけて、元網は信長の将来性を採ったということなのだろう。

一歩間違えば自らの地位や命をも危うくする局面で元網が選んだ選択肢は、信長に味方することだったのである。

信長が命からがら京に辿り着いたのは、3日後の4月30日であったと伝えられている。

 

その時に信長が辿った道を、私は反対に京都からバスで辿っている。

雑踏の朝の京都の街を抜け出し、出町柳で二手に岐(わか)れる鴨川を右側の高野川に沿って北へと進んでいく。

今年の紅葉は例年より早くてすでに大方は散ってしまっていたけれど、沿道のところどころにはまだ名残りの紅い葉がちらりと望まれる。

朽木への道は、途中までは大原へ行く道と同じである。大原までは何度か来たことがあるので、なんとなく見覚えのある風景を辿っていく。

その大原を過ぎると、景色が一段と山深くなってきた。道が峠を越えると、そこが京都府と滋賀県との県境になっていて、バスは滋賀県大津市へと入っていった。

大津市と言うと琵琶湖南端の湖に面した平坦な土地を想像するけれど、実は市域が非常に広くて、おおよそ琵琶湖西岸の南半分は山側まで含めて大津市の行政区分になっている。ちなみに琵琶湖西岸の北半分が高島市となる。

バスは安曇川上流の流れに沿ってそのままずっと北へと山中を進んでいく。かの信長は、どこまで南下して来たところで自らの生還を確信したのだろうか?などと考えながら、私は車窓の景色を眺めた。

いつしかバスは大津市から高島市へと入っていった。

 

興聖寺

 

この旅の私たちの最初の立ち寄り地は、興聖寺であった。

京都から1時間あまり、山道をバスに揺られながらの道中だった。

あいにくの曇り空で今にも降り出しそうな晩秋の空の下、バスを降りた私たち一行は、目の前にある小高い山へと登っていく坂道を歩き始めた。

駐車場の辺りには何もなく殺風景な景色だったので、こんなところにお寺なんてあるのだろうか?そんな思いを抱きながら登っていったのだが、意外にもそれほど登らないうちにすぐ、私たちは興聖寺の入口に立つことができた。

そこには、低いが重厚な石垣が築かれていて、まるで坂本や湖東三山にある寺々のような趣を呈している。

いつの頃に造られた石垣かはわからないが、野面積みの苔むした佇まいに時の流れを感じる。


興聖寺は、朽木の領主であった佐々木信綱が承久の乱で戦死した一族の供養を行うために、兼ねてから深く帰依していた道元禅師を招いて建立した曹洞宗の寺である。

朽木の地形が、道元の住持していた宇治の興聖寺の地形と似ていたことから、道元が自ら興聖寺と命名したと伝えられている。

その後、享禄元年(1528)から3年間、室町幕府第12代将軍足利義晴が、細川晴元、三好元長らの反乱から逃れるために当時の朽木氏当主であった朽木稙綱(たねつな)を頼って興聖寺に滞在したことが、この寺を一躍有名にしている。

この期間、言わば室町幕府はここ朽木にあったとの説を唱える学者もいて、彼らは朽木幕府なる言葉を世に送り出した。

こんな山の中に3年間も室町幕府の将軍が住んでいたなんてとても不思議な感じがするけれど、政権基盤が弱かった足利氏の歴代将軍は、しばしば京を抜け出して似たような山中に籠っている。

以前、『湖北残照』歴史篇のなかの観音寺城の章で紹介した桑実寺も、まさにその一つであった。この観音寺城のすぐ間近にある桑実寺に逃げ込んだのも、足利義晴であった。

義晴は桑実寺にも3年間滞在していたそうだから、25年間に及ぶ将軍在位期間の約4分の1にあたる6年間は京を離れて山中に逃げていたことになる。

義晴の子で第13代将軍である足利義輝もまた、家臣の細川幽斎(藤孝)を従えて6年半ここ朽木に滞在したと言う。

室町幕府の将軍家である足利氏は、何とも不思議な将軍である。将軍がこのような体では、国が乱れて戦乱の世となるのも頷ける。

 

朽木に滞在する将軍足利義晴のために、稙綱は「岩神館」と呼ばれる館をこの地に建てた。眼下に安曇川を望み、朽木街道が一望のもとに見渡せる絶好の立地である。

館とあるけれど、むしろ砦であったと考えた方がいいだろう。

側面と背後にあたる南側と西側にはそれぞれ29mと56mの土塁が築かれ、その外側には空堀が設えられている。

西側の土塁は、今でもほぼ完全な形で遺っている。

こうして見てみると、岩神館は非常に堅固な造りの「館」であったことがわかる。

現在の本堂の南側に位置するこの岩神館が建てられていた場所は、今では興聖寺の墓地となっている。将軍が居住していた館跡が墓地になっているというのは、私には非常に不思議な気がする。

それはともかくとして、心ならずして朽木の山中に逃げ込んだ足利将軍義晴の塞いだ心を慰めるためにと、佐々木一族のほか京極高秀、浅井亮政(すけまさ)、朝倉孝景ら近隣の有力大名が協力して造営したと言われているのが、ここ興聖寺の庭園である。

作庭は管領細川高国と言われている。

高国は、京の慈照寺(銀閣)の庭を参考にしながら、朽木の地形を巧みに活かした名庭を造り上げた。


残念ながら、紅葉の季節にはほんの少しだけ遅かった。

それでも、枝に残った紅葉や緑の苔の上に落ちた真っ赤な楓の葉を見ているだけで相当に風情があり美しい景色であるので、紅葉真っ盛りの時に訪れていたなら、さぞかし感動的だったに違いない。

庭園は、池に鶴島と亀島を浮かべた蓬莱式の回遊庭園である。

江戸時代の大名庭園のような計算され洗練された美しさというよりは、素朴で原初的なおおらかさが心地よい庭と言ったらいいのだろうか。

大ぶりの庭石がさりげなく随所に配置されていて、どの角度から眺めてみても妙に心が落ち着く素適な庭である。

小高い山の上にあるから、庭の向こうには安曇川の流れと比良山系の山々の連なりとが借景となって風景に取り込まれている。

池に渡された2本の石の橋を渡りながら庭を巡っていると、心が穏やかに落ち着いてくる。敵に追われて逃げてばかりいた足利の将軍様も、この庭を眺めている時ばかりは浮世の憂さを忘れて心を和ませたことだろう。

 

興聖寺には美しい庭園のほかに、本尊である重要文化財の釈迦如来坐像と楠正成の念持仏と伝えられている不動明王坐像などが安置されている。

釈迦如来坐像は、平安後期に後一条天皇の皇子が幼少にして亡くなられた際に、天皇の叔父にあたる藤原頼通がその供養として三仏を彫らせたうちの一体であると伝えられている。

桧の寄木造りで、作者は不明ながら宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像を造った定朝の様式をよく顕している柔和なお顔の仏像である。

平等院を建立したのが頼通であり、その頼通に縁(ゆかり)のある仏像であることを考えると、定朝の流れを汲む一流の仏師の作である可能性が高いのではないか。宇治とは元々、寺の創建時から深い関係にある。

不動明王は、朽木時経が北条高時の命により千早城の楠正成を攻めた時に、戦火に遭い焼失せんとするところを持ち帰ったものと伝えられている。

いかにも正成の念持仏らしく精悍な顔つきで、時経が思わず火中から救い出したのも頷ける迫力ある不動明王である。

この不動明王は、「縛り不動明王」と呼ばれている。

昔、盗人がこの不動明王を盗み出そうとしたところ、金縛りに遭って動けなくなったとの言い伝えがあるところからいつしか縛り不動明王と呼ばれるようになったのだそうだ。

住職が寺の歴史や庭の見どころなどをわかりやすく説明してくれるのを聞きながら、私は改めて、朽木における朽木氏の歴史と役割りとを想った。

朽木の歴史は、朽木氏の歴史であるのだ。

 

 

 

 

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