須賀谷温泉のブログ
5月のおしながき
- 2012-05-03 (木)
- 今月のお献立
皐月のおしながき
お市の舞(グレードアップのメニュー)
小鉢 お豆腐
前菜 白ダツ白和え
うるか
手長海老 サーモン玉子
かもロース
姫おくら
あゆ甘露煮
サザエクリームチーズ
吸物 アイナメ 若草豆腐
白玉 じゅんさい 木の芽
刺身 鯛 寒八 ぼたん海老 鯛の手毬寿司
焼物 びわます南部焼き
そばクレープ 法月トマト
煮物 車海老味噌煮 丸茄子 針生姜 生クリーム 木の芽
変り鉢 近江牛ステーキ エリンギ イタリアンパセリ
凌ぎ 田舎そば(料理長の手打ち) 山芋
揚物 穴子アスパラ巻き 海老湯葉揚げ
ご飯 近江米
止椀 赤出汁
デザート フルーツトマトゼリー
茶々の華(スタンダードのメニュー)
小鉢 お豆腐
前菜 白ダツ白和え
うるか
手長海老 サーモン玉子
かもロース
姫おくら
あゆ甘露
吸物 アイナメ 若草豆腐
白玉 じゅんさい 木の芽
刺身 鯛 寒八 ぼたん海老 鯛の手毬寿司
焼物 びわます南部焼き
そばクレープ 法月トマト
煮物 車海老 鯛眞子 南瓜飛竜頭
きぬさや 青もみじ麩
鍋物 近江牛しゃぶしゃぶ
変り鉢 手打ちそば 山芋
揚げ物 穴子アスパラ揚げ
海老東寺揚げ わさび葉
ご飯 近江米
止椀 赤出汁
デザート フルーツトマトゼリー
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4月のおしながき
- 2012-04-04 (水)
- 今月のお献立
卯月のおしながき
お市の舞(グレードアップのメニュー)
先附
胡麻豆腐 いくら うま出し 山葵
前菜
蛤木の芽和え
鶏二色そぼろ
合鴨ロース
うずらサーモン巻き
子鮎赤煮
蚕豆わらび
吸物 うぐいす仕立て 玉子豆腐 つくし
刺身 鯛 車海老 イカ 鮪寿し
焼物 びわます奉書焼き
竹の子木の芽焼き
煮物 竹の子万十 新ふき
鍋物 近江牛しゃぶしゃぶ
凌ぎ 田舎そば(料理長の手打ち)みょうが ねぎ 山葵
揚物 かにとフォアグラ湯葉揚げ こごみ
ご飯 近江米
止椀 赤出汁
デザート 桜ムース 苺 オレンジ キウイ
茶々の華(スタンダードメニュー)
小鉢 胡麻豆腐 いくら うま出し 山葵
前菜
蛤木の芽和え
鶏二色そぼろ
合鴨ロース
子鮎赤煮
蚕豆わらび
ほたるいか
吸物 うぐいす仕立て 玉子豆腐 つくし
差味 鯛 ぼたん海老 寒八 鮪寿し
焼物 びわます香草焼き
竹の子木の芽焼き
煮物 甘鯛桜蒸し 竹の子 ふき
鍋物 近江牛しゃぶしゃぶ
凌ぎ 田舎そば(料理長の手打ち)みょうが ねぎ 山葵
揚物 蟹化粧揚げ
さより 菜の花 葉わさび こごみ
ご飯 近江米
止椀 赤出汁
香物
デザート 桜ムース 苺 オレンジ キウイ
江の夢
小鉢 胡麻豆腐 いくら うま出し 山葵
前菜 旬の肴 三種
刺身 鯛 寒八 鮪
焼物 鰆味噌漬焼き
磯の昆布寿し はじかみ
煮物 甘鯛桜蒸し 竹の子 桜麩 菜の花 ふき
揚物 えび真丈揚げ 旬風揚げ
ふきのとう 茄子 青唐
凌ぎ 田舎そば(料理長の手打ち)みょうが ねぎ 山葵
鍋物 近江牛しゃぶしゃぶ
ご飯 近江米
止椀 赤出汁
香物
デザート 桜ムース 苺 オレンジ キウイ
初のしらべ♪(お昼の人気メニュー)
前菜 旬の肴 三種
刺身 鯛 寒八 イカ
焼物 鰆味噌漬焼き
磯の昆布寿し はじかみ
煮物 甘鯛桜蒸し 竹の子 ふき
揚物 水菜と川海老の春揚げ
さつま丸十 なす えんどう豆
凌ぎ 田舎そば(料理長の手打ち)みょうが ねぎ 山葵
鍋物 牛シャブ
春菊 しいたけ 豆腐 本シメジ茸
ご飯 近江米
止椀 赤出汁
香物
デザート 苺 オレンジ キウイ
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3月のおしながき
- 2012-03-10 (土)
- 今月のお献立
弥生のおしながき
お市の舞(グレードアップのめにゅー)
先附 緑豆腐 からすみ 土筆
針魚昆布〆
吸物 蛤 わらび 筍 桜麩 木の芽
うすい豆と川海老(琵琶湖産)
びわ鱒の昆布巻き(琵琶湖産)
蕨白和え
旬菜 独活土佐煮
子持ち白魚の有馬煮
飯蛸の柔煮
小芋松露
煮物 目張の煮付
小倉蓮根 菜花 桜人参
焼物 筍 車海老 ほたるいか 帆立 うに
造り 寒八 まぐろ 鯛 生うに
油物 白魚束ね揚げ こごみ、 ふきのとう、 蟹ポーション
鍋物 近江牛小谷鍋
御飯 近江米
香の物
止椀 もずく なめこ
水物 わらび餅 フルーツ二種
茶々の華(スタンダードメニュー)
先附 緑豆腐 からすみ 土筆
蕗としめじのままこ和え
吸物 蛤 わらび 筍 桜麩 木の芽
うすい豆と川海老(琵琶湖産)
びわ鱒の昆布巻き(琵琶湖産)
蕨白和え
旬菜 独活土佐煮
子持ち白魚の有馬煮
姫サザエ蕗味噌焼き
蚕豆
煮物 鰆馬鈴薯煮
小倉蓮根 桜百合根 菜の花 うぐいすあん
焼物 筍 桜豆腐 ほたるいか
造り 寒八 まぐろ 鯛 生うに
油物 春野菜天盛り
ふきのとう スナックえんどう 葉わさび こごみ 木の芽おろし
鍋物 近江牛小谷鍋
御飯 近江米
香の物
止椀 もずく なめこ
水物 わらび餅 フルーツ二種
江の夢(ほっこりプランメニュー)
先附 緑豆腐 からすみ 土筆
蕗としめじのままこ和え
煮物椀 菜々新丈
筍 人参 木くらげ えのき茸 いんげん豆
うすい豆と川海老(琵琶湖産)
びわ鱒の昆布巻き(琵琶湖産)
旬菜 蕨白和え
独活土佐煮
子持ち白魚の有馬煮
煮物 鰆馬鈴薯煮
小倉蓮根 桜百合根 菜の花 うぐいすあん
焼物 筍 桜豆腐 ほたるいか
造り 寒八 まぐろ 鯛
油物 春野菜天盛り
ふきのとう スナックえんどう 葉わさび こごみ 木の芽おろし
鍋物 近江牛しゃぶしゃぶ
御飯 近江米
香の物
止椀 もずく なめこ
水物 わらび餅 フルーツ二種
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如月のおしながき
- 2012-02-16 (木)
- 今月のお献立
お市の舞(グレードアップメニュー)
先附 白魚みぞれ いくら
芹と蟹サラダ
吸物 甘鯛錦紙包み 早蕨
手まり麩 柚子
えび豆(琵琶湖産)
えり鮎(琵琶湖産)
葉わさび煮びたし
旬菜 唐墨大根巻き
鯛巻きアスパラのうに焼
蚕豆はさみ揚げ
蛤緑焼
煮物 季節の煮魚
筍 独活白煮 小松菜
造り 鮃鉄引き
焼物 鮪のステーキ
変り鉢 大海老三色揚げ
(梅肉 黄身 磯辺)
鍋物 小谷鍋
近江牛
御飯 近江米
香の物
止椀 鯛のあら
水物 わらび餅 メロン 苺
茶々の華(スタンダードメニュー)
先附 白魚みぞれ いくら
芹と雲丹の味噌和え
吸物 白子真蒸 早蕨
手まり麩 柚子
えび豆(琵琶湖産)
えり鮎(琵琶湖産)
葉わさび煮びたし
旬菜 唐墨大根巻き
鯛巻きアスパラのうに焼
蟹身帆立の寄せ流し
つぶ貝緑焼き
炊合せ えび芋きんちゃく
蓮根 小かぶ 有頭海老
造り 四種盛り
焼物 鰆と大あさりのバター焼き
さつま芋 椎茸 焼パプリカ
変り鉢 鱈テリーヌコラーゲンのせ
長芋大葉揚げ
カリフラワー・むかご天ぷら
鍋物 小谷鍋
近江牛
御飯 近江米
香の物
止椀 鯛のあら
水物 わらび餅 メロン 苺
江の夢(ほっこりプランメニュー)
先附 白魚みぞれ いくら
芹と雲丹の味噌和え
吸物 白子真蒸 早蕨
手まり麩 柚子
えび豆(琵琶湖産)
えり鮎(琵琶湖産)
旬菜 葉わさび煮びたし
蟹身帆立の寄せ流し
つぶ貝緑焼き
炊合せ えび芋きんちゃく
蓮根 小かぶ 有頭海老
造り 三種盛り
焼物 さわら東寺巻 ブリオッシュ
菠薐草胡麻和え
変り鉢 鱈テリーヌコラーゲンのせ
長芋大葉揚げ
カリフラワー・むかご天ぷら
鍋物 牛シャブ 国産牛
御飯 近江米
香の物
止椀 鯛のあら
水物 わらび餅 メロン 苺
初のしらべ(お手軽会席)
先附 白魚みぞれ いくら
芹と雲丹の味噌和え
蒸し物 茶椀蒸し
えび豆(琵琶湖産)
旬菜 えり鮎(琵琶湖産)
菜の花煮びたし
煮物 鯛の近江米飯蒸し
蓮根 小松菜 梅人参
造り 三種盛り
焼物 かれいの柚庵焼 ブリオッシュ
菠薐草胡麻和え
鮭アーモンド
変り鉢 長芋大葉揚げ
カリフラワー・むかご天ぷら
鍋物 鱈ちり 白子
ポン酢 薬味
御飯 近江米
香の物
止椀 鯛のあら
水物 わらび餅 メロン 苺
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近江八幡(ヴォーリズの面影を追って)
- 2012-01-22 (日)
- 湖北残照 ~文化編~
1. 近江八幡(ヴォーリズの面影を追って)
近江八幡は湖北ではありませんよ。
私にとっては心から尊敬している優秀な編集者であるが、一方で私の著作の最も厳しい批判者でもあるサンライズ出版の矢島さんの声が聞こえてくるようである。
そんなことはわかっている。わかっているけれど、どうしても私は近江八幡のことを書きたかった。初めてこの街を訪れた時の鮮烈な印象と感動とを私は忘れない。『湖北残照』の1ページとして何としても、私は近江八幡の街のことを書き留めたかったのだ。
近江八幡の街としての歴史は、豊臣秀吉の時代に始まる。
織田信長が本能寺の変で倒れた後、信長の居城であった安土城もその城下町も謎の出火により焼失した。ルイス・フロイスの著書『日本史』のなかでは、信長の次男である織田信(のぶ)雄(かつ)が自ら火を放ったように書かれているが、真相は闇の中である。
焼け残った安土の街ごと、安土の街から4㎞ほど西の八幡山の麓に秀吉の甥であり後に秀吉の後を継いで関白となる豊臣秀次が新しく城下町を創ったのが、今の近江八幡の街の原形となった。
平成22年3月21日には安土町と合併し、ついに「安土」という町の名前さえも「近江八幡」に吸収されてしまった。
豊かな琵琶湖の水資源に恵まれ水郷地帯としても知られている近江八幡は、訪れる者をして郷愁を感じさせるに十分な歴史と雰囲気とを持った魅力的な街である。
その近江八幡の街の中心地にある日牟禮(ひむれ)八幡宮を訪れた。
日牟禮八幡宮は、成務天皇の元年(131)に天皇が高穴穂の宮に即位した時、武内(たけのうち)宿禰(すくね)に命じてこの地に地主神である大嶋大神を祀ったのが最初であるとされている。この伝承を信じれば、1900年近くもの長い歴史を持つたいへんに由緒ある神社ということになる。
応神天皇の6年(275)には奥津嶋神社からの還幸の際に、応神天皇が社の近くの宇津野々辺に御座所を設けて休憩したとされている。後日その仮屋跡に2つの日輪が現れるという不思議な現象が見られたため、祠を建てて日群之社八幡宮と名付けられた。これが現在の日牟禮八幡宮の名の起こりであるとされている。
持統天皇の5年(691)には時の為政者であった藤原不比等が参拝し、
天降りの 神の誕生の 八幡かも
ひむれの社に なびく白雲
という歌を詠んで、比牟禮社と名を改めた。
正暦2年(991)、一条天皇の勅願により八幡山の上に宇佐八幡宮を勧請して上の社とし、寛弘2年(1005)には山麓に遙拝社を建立して下の社とした。
その後も、皇室からも武家からも篤い信仰を集め、時の有力武将から社領の寄進を受けるなどして地位を不動のものにしていった。
現在の姿になったのは、天正18年(1590)に豊臣秀次が八幡山の山上に八幡山城を築城することになり、上の社を下の社に合祀したことに伴うものである。
徳川の世になってからも家康や家光などから寄進のための朱印状を得るとともに、当地に源を発する近江商人の守護神としての信仰も一心に集め、社は大いに興隆を続けていった。
祭神は、誉田(ほんた)別(わけの)尊(みこと)(応神天皇の神霊)、息(おき)長足(ながたらし)姫(ひめの)尊(みこと)(応神天皇の母である神功皇后の神霊)、比賣(ひめ)神(かみ)(田(た)心(ごり)姫(ひめの)神(みこと)、湍津(たぎつ)姫(ひめの)神(みこと)、市(いち)杵島(きしま)姫(ひめの)神(みこと)の神霊。この三姫神は玉依姫とも言う)の三柱を祀っている。
街中のどこからでも見渡せる八幡山の麓にあり、抜群の存在感を誇っているのが、日牟禮八幡宮である。2層から成る大きな三門を潜ると、正面に入母屋造りの大屋根を持つ拝殿が現れる。
拝殿の右手には、能舞台が設えられている。
能舞台自体は明治の建造(明治32年(1899))であるが、古色が滲み出ていて趣の深い味わいを湛えている。この時に能舞台の完成を祝して演じられた「日觸詣(ひむろもうで)」という観世流の能楽は、その後長らく上演されることなく途絶えていたものの、平成5年に93年ぶりに薪能として再演されて、以後は毎年演じられるようになったという。
拝殿の後ろの一段高くなった平地には本殿が控えている。紅白の紐が括りつけられた大鈴が5個も取り付けられていて、落ち着いた雰囲気の立派な建物である。
拝殿の後ろ側に一際目を引く金色の鳩が何(いく)つがいか、据えられていた。これらの鳩は金婚式を迎えた夫婦がそのお礼のために寄進したものだという。めでたい鳩の姿に、思わず心が和む。
ここ日牟禮八幡宮では、2つの有名な祭りが執り行われている。
一つは、八幡まつりである。
この祭りの起源は、なんと応神天皇の御代(6年(275))にまで遡るという。天皇が、母である神功皇后の生地である息長村(現米原市)を訪れた際、日牟禮八幡宮の大嶋大神に詣でるために琵琶湖から当地に上陸した。その時に地元の人々が天皇を道案内しようとして湖岸に群生する葦で松明を作り、火を灯して先導したのが祭りの始めであると伝えられている。
毎年4月14日と15日の両日、八幡町開町以前から存していた旧村落12郷の氏子たちによって執り行われる。
14日の宵宮祭は別名を松明まつりとも言い、各郷からしきたりに従った大小様々な大きさの松明が奉納される。松明と言っても、大きいものは笹を使って10mもの高い柱のように組み上げたものである。これを朝8時半頃から結い上げていく。
大松明以外の松明は、葦と菜種殻を使用して組んでいく。
午後7時頃になると、これらの松明が引き摺られるようにして拝殿前に運ばれてくる。これを宮入り(宵宮)と言う。そして、松明に火が放たれて(これを「奉火」と言う)祭りのクライマックスを迎える。
すべてが、応神天皇を迎えた際の当時の情景をそのままに今に伝えているものだという。
一夜明けて翌15日の本祭は別名を太鼓祭とも言われる。12郷の大太鼓が宮入りし、拝殿の前でそれぞれの流儀によって打ち鳴らされ、神職からの祝詞を受ける。
八幡まつりは応神天皇の頃の面影を色濃く残す、古色豊かな祭りである。
もう一つは、左義長まつりである。
左義長まつりは、元々は正月を祝う火祭の行事として漢時代の中国から伝わったもので、正月飾りなどを焼いて1年間の無病息災を祈ったという行事に由来している。三毬杖・三木張・三毬打・爆竹などとも書かれ、この行事自体は今でも全国で普通に行われている。
安土における信長は、毎年正月に自ら奇抜で華美ないでたちで安土の町へ繰り出し、見物衆の耳目を驚かせたことが『信長公記』に記されている。
黒き南蛮(なんばん)笠(がさ)をめし、御眉(まゆ)をめされ、赤き色の御ほうこうをめされ、唐(から)錦(にしき)の御そばつぎ、
虎皮の御行(むか)膝(ばき)、すぐれたる早馬、飛鳥の如くなり。(中略)
この外、歴〱、美々しき御出立(いでたち)、思ひ〱の頭巾、装束、結構にて、早馬(はやうま)十騎・廿騎宛
乗らさせられ、後には、爆竹に火を付け、噇(どう)と、はやし申し、御馬ども懸けさせられ、
其の後、町へ乗り出だし、さて、御馬納めらる。見物群衆をなし、御結構の次第、貴賤
耳目(じもく)を驚かし申すなり。
信長亡き後、豊臣秀次が近江八幡に城を築いて入城した際に、開町以前からの町衆が執り行う八幡まつりを目の当たりにして、一同その荘厳さに度肝を抜かれた。この八幡まつりに対抗すべく行われ始めたのが、近江八幡における左義長まつりの始まりであると伝えられている。
元からの住人と新興の住人との間のプライドを懸けた激突が目に見えるようである。
現在の左義長まつりは、毎年3月中旬の土曜・日曜に行われる。以前は14日・15日で日が固定されていたが、今は14日・15日に近い土・日に行われている。
左義長とは、新藁を12段の段状に積み重ねた高さ2mほどの三角錐の松明のことである。その上に長さ約3mの青竹を立てかけ、竹がしなるほどに大量の短冊型の細長い赤紙を据え付ける。
左義長の正面には、各町毎に意匠を凝らした「ダシ」と呼ばれる飾りものが取り付けられる。円形、扇形、方形などの様々な形態をした「台」に、その年の干支などに因んだ「虫」と呼ばれる動物が飾られ、この「台」と「虫」とを合わせて、「ダシ」と言う。
前述の日牟禮八幡宮の能舞台には、織田家の家紋であるモッコウが描かれた真っ赤な酒杯(台)に干支としての勇壮な虎の像(虫)が乗る「ダシ」が飾られている。幽玄な能を舞う舞台に華美な左義長まつりのダシは不釣り合いな気がするが、左義長まつりのダシを間近に見る機会はなかなかないので、それはそれでありがたい。
華やかに飾り立てられた左義長には、4本の担ぎ棒が通され、ちょうど神輿のように肩に担いで街中を練り歩くことができる。
祭り初日の土曜日の昼にはすべての左義長が日牟禮八幡宮に宮入りし、その後、左義長は終日町内を思い思いに練り歩く。左義長の周囲には踊子と呼ばれる町衆が取り巻いていて、「チョウサ、ヤレヤレ」「チョウヤレ、ヤレヤレ」との賑やかな掛け声を掛ける。
踊子の男性が女装をしたり化粧をしたりしているのは、信長が派手な格好で踊り出た故事を踏襲しているのだという。
2日目の日曜日も町内を練り歩いた左義長は、日暮れ時に日牟禮八幡宮に集結し、最後は奉火により神に捧げられる。
近江八幡の町衆が一月(ひとつき)あまりにもおよび精魂を込めて作り上げた左義長に火が入れられて、日牟禮八幡宮の夜空を真っ赤に染める様は、まさに天下の奇祭と呼ばれるに相応しい豪壮な祭りのクライマックスとなる。
人々の祈りと歓声とため息とが重なり合って、それらすべての思いが煙とともに天に上っていく……。
湖北地方に纏わる祭りのことは、次章の「曳山まつり」の章でもう少し踏み込んで考察してみたいと思っている。こうして古来から地元に伝わる祭りを見ていくことは、その地方の文化を知るうえでたいへんに貴重な材料を得ることにつながる。
祭りには、その祭りが始められるに至ったその地に特有の由来があり、その祭りが長い間地元の人たちによって受け継がれてきた歴史があり、そして祭りが維持されるための風土や土壌がある。
残念ながら私は、まだ実物の祭りを見たことがないので表面的な思考に止まらざるを得ないが、近江八幡の祭りの場合は、どちらも火が重要な要素になっている。
秀次による近江八幡開町以前からの住民たちによる八幡まつりと、近江八幡開町以後に移り住んできた人たちによる左義長まつりという、新旧2つの祭りのコントラストがおもしろい。
豪壮な火まつりに想いを馳せながら、ロープウェイで八幡山に上った。
ゴンドラが高度を上げていくに従って眼下に近江八幡の美しい街並みが拡がっていく様子を見ていくのは、快感だった。緑の木々に覆われていた視界が次第に展けていき、平らな平野に家々の甍が連なっている様子が明らかになっていく。
市街地の外側はすぐに田園地帯となり、さらにその外側にはもう山がちらほらと見られる。小ぢんまりとした近江八幡の街並みが我が眼下に一望されている。
ロープウェイ山上駅を降りた後、八幡山の山頂まではまだなお歩いて登らなければならない。
少し坂道を登り始めると、右手に大きな石垣が顔を覗かせてきた。やや粗い積み方の石垣(算木積みと言う)ではあるもののかなりの高さがあり、相当の大規模な石垣であることに驚かされた。
主に4㎞南方の岩倉山の石材を使った石垣とされているが、急な築城であっただろうから、安土城や観音寺城など周囲の城郭の石垣も再利用されたかもしれない。それにしてもこんな高い山上にこれだけの石垣を造った豊臣氏の権力の大きさを改めて思い知った。
私が訪れたのは新緑の季節で、まだ覚束ない透き通るような緑色をした楓の葉が、石垣を背景に差し込む陽光を通して輝くように見えた。秋の季節にはきっと、一面の緑が紅葉で真っ赤に染まることだろう。
途中、出丸跡、西の丸跡などいくつかの曲輪跡を経て、標高271.9mの北の丸跡に辿り着く。ここから望む琵琶湖の景色はとても美しかった。
眼下には田植えが済んだばかりの水田が拡がり、その向こう側に琵琶湖の広い湖面が見える。右側の視界に見える山は、長命寺のある長命寺山である。
北の丸跡を出て、時計回りに遊歩道を歩いて行くと、やがて本丸跡に移築された瑞龍寺の山門に至る。この門があった場所に、かつては本丸の入口にあたる虎口(こぐち)があったものと考えられている。
瑞龍寺は、村雲御所とも称し、日蓮宗唯一の門跡寺院である。秀次の生母である瑞龍寺殿日秀尼が秀次の菩提を弔うために文禄5年(1596)に創建した寺で、元は後陽成天皇から京の村雲の地に寺禄1000石を賜り、村雲御所と呼ばれる門跡寺院となった。
京の地から現在の八幡山城に移転したのは意外と最近で、昭和38年(1963)のことである。瑞龍寺から眺める近江八幡の街並みは、ロープウェイ山上駅よりも一段と高いせいか、より美しく見えた。
八幡山城は、天正13年(1585)に豊臣秀吉が甥である豊臣秀次のために自ら普請の指揮を取って築城した城で、八幡山城の完成とともに秀吉は安土城を廃城している。つまりは、安土城に代わって近江国を治めるために秀吉が新たに造った城が八幡山城であったということになる。
安土城が本能寺の変の後もなお織田氏の城であったことを考えると、秀吉が織田氏に代わって天下を我がものとするために、秀吉らしい巧妙な手口で織田氏の城を豊臣氏の城にすり替えたというのが実情であったと思われる。
八幡山は安土山よりも急峻であったために、山上に戦闘用の構えを築いたものの、平時は麓の秀次の居館で政務を執り行っていたものと考えられている。
秀次の館は、今のロープウェイの麓駅よりもかなり西側に建てられていた。八幡公園のさらに西側に、安土城のようなまっすぐの大手道が通り、その最上部に一段と立派な石垣に囲まれた秀次の館が存在していた。
家臣団は、大手道の左右の山の斜面に居を構えていたから、構造的には安土城に極めて類似した構造だったと言えるだろう。
一般の町民が住む城下町は、それよりさらに南側の平地に拡がっていた格好になる。
ロープウェイの麓駅と秀次や家臣団の館跡の中間に位置する八幡公園の中腹に、秀次の像が建てられている。衣冠束帯姿の立像だ。
台座には「従一位左大臣関白豊臣秀次卿」と彫られているが、八幡山城主時代の秀次はまだ関白ではない。天正13年(1585)の紀州および四国攻めで挙げた戦功により、関白になったばかりの秀吉から賜ったのが、近江八幡の43万石だったからである。
しかし近江八幡における秀次の治世は僅かに5年間でしかなかった。天正18年(1590)には尾張国清州城に移封となり、さらに文禄4年(1595)には謀反の罪を着せられて空しく高野山にて自刃させられこの世を去っているから、人の運命とは儚(はかな)いものである。
豊臣政権を維持するために、秀吉は秀次を後継者に指名して関白の地位を譲り、自らは太閤と称して陰で権力を掌握していた。ところが、そこに秀頼誕生という予期せぬ事態が生じてしまったために、関白である秀次の存在が秀吉にとっては急に疎ましくなってしまった。
難癖をつけて高野山に放逐したもののそれでも安心できず、ついには秀次に自害を強要する。秀吉が相手では勝ち目がないと悟った秀次は、高野山にて従容として死に就く。
その後秀吉によって行われた秀次の妻子や側室などの大量虐殺行為は、秀次の悲劇にさらに拍車をかけるとともに、秀吉の名声を地に貶めることにもなった。
八幡城山主に抜擢された頃の秀次は、10年後に我が身に降りかかる悲劇のことなど思いもよらなかっただろう。すべての出発点がこの八幡山城だったと思うと、秀次のことが一層不憫に思いやられる。秀次の像を前にして、そんなことなどをつらつらと考えていた。
秀次が清州城に移った後の八幡山城へは京極高次が入ったものの、秀次の死とともに八幡山城は廃城となり今に至っている。八幡山城は、築城から僅かに10年間しか使用に供されなかった悲劇の城であった。
いよいよ、近江八幡の城下町を散策する時間が訪れた。近江八幡は見どころ満載の美しい街だから、街を見ようとすると長時間を要することを覚悟しなければならない。と言うか、夢中で街を歩いているうちに、いつの間にか時間が経過してしまうのが、近江八幡の街の魔力である。
近江八幡の城下町は、八幡山城の外堀であり運河の役割りをも果たす八幡掘の外側に碁盤の目のように整然と築かれている。八幡山城の築城と同時に新しく造った街なので、計画的な街づくりが可能であったからだ。
他の典型的な城下町とは異なり、古い日本式の街並みのなかに洋風の建築物が点在し、しかもこれらの洋館が和風の街並みにも融合しているのが、近江八幡の街並みの特徴かもしれない。
そこにはヴォーリズという建築家の存在がたいへんに大きいのだが、ヴォーリズのことは次の章でゆっくり触れるとして、まずは古くから伝わる純日本風の街並みを歩いてみることにしたい。
八幡堀に平行して走る道に「京街道」と名づけられた道がある。まずは手始めに、私はこの京街道を歩いてみた。京街道とは、その名のごとく京へと通じている道であったに違いない。
私が最初に京街道を歩くことを選択したのには理由(わけ)があった。それは、この京街道こそが、前章の最後で触れた朝鮮人街道であったからだ。
中山道の鳥居本宿から分岐した道が佐和山の切通しを越えて彦根城下に至る。彦根の宗安寺で一泊した後、朝鮮通信使の一行はさらに進んでこの近江八幡の街並みへと歩を進めていく。
市立資料館の前の道に「朝鮮人街道」と刻まれた石碑が建てられている。一行はこの石碑が建つ道を通って、もう少し先にある本願寺八幡別院で昼食を摂るのが習わしであったという。
朝鮮通信使も通ったという道には、今でも黒板塀の趣のある家並みが続いている。右手に八幡山を望む美しい街並みだ。かつて朝鮮通信使や雨森芳洲も、今私が見ているのと同じ景色を見ていたのかと思うと、胸がわくわくしてくる思いがする。
京街道は、本願寺八幡別院の少し先のところで願成就寺に突き当たり、直角に左に曲がってさらに続いて行く。
私はここで引き返して、気の向くままに近江八幡の街並みを歩いてみた。
縦横無尽に道が走る近江八幡の街並みは、どこを歩いても城下町の趣を残す美しい街だ。紅殻色の格子のある家がある。黒板塀に白壁が美しい家もある。まるで木曽路の宿場町を歩いているのではないかと錯覚してしまいそうな古風な街並みが、木曽路の宿場町の数倍の厚みを伴って我が眼前に存在している様は、壮観でさえある。
そのなかでもとりわけ立派な建物が建ち並ぶのが、新町通りである。
新町通りは八幡山城から垂直に伸びている通りの一つで、旧西川家の住宅や伴家の住宅などの邸宅が甍を並べている。
旧西川家は、大文字屋という屋号で主に蚊帳や畳表などを扱っていた近江商人で、江戸、大坂、京都に店を構えて大層な繁栄を誇った名家である。
現在の建物は、初代の西川利右衛門から数えて3代目が宝永3年(1706)に建てた建物で、築造からすでに300有余年の歳月を経ており、国の重要文化財に指定されている。黒板(くろいた)に白壁を配した建物はどっしりと力強く、豪商としての自信に満ち溢れているように見える。
開け放たれた門から覗く路地にはまっすぐに敷き石が伸び、奥の土蔵の白壁とも相俟って趣のある空間を作り上げている。
西川家は昭和初期まで続いたが、昭和5年(1930)に子孫が途絶え、以来土地と建物は市の管理物となっている。
旧伴家も、西川家と同じく近江の商人で、扇屋の屋号で麻布や蚊帳や畳表などの商いをしていた。
西川家住宅からはかなり時代が下るが、現在の建物は7代目の伴庄右衛門能伊が文政10年(1827)から天保11年(1840)までの13年間の歳月を費やして構築したもので、2階に窓ガラスを多用したたいへん開放的な日本建築となっている。
大いに栄えた伴家であったが明治20年に廃絶となり、建造物は当時の八幡町に寄贈された。その後、小学校、役場、女学校、近江兄弟社の図書館、近江八幡市立図書館と実に数奇な運命を辿り、現在は市立資料館の一部として市を訪れる観光客に往時の繁栄ぶりを伝える語り部としての役割を果たしている。
近江八幡の街並みはどこを歩いても趣があり飽きることがないが、そろそろ私は、この近江八幡の章のハイライトであり主題であるウィリアム・メレル・ヴォーリズの建築について語らなければならない。
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睦月のおしながき
- 2012-01-22 (日)
- 今月のお献立
1月のおしながき
お市の舞(グレードアップメニュー)
先附 金海鼠このわた山かけ 菠薐草 いくら
吸物 白魚 せり 短冊人参 卵
蛤グラタン
さざえう玉焼
旬菜 鶏松風
活車海老キャビア
わけぎ金糸巻き
煮物 鰆昆布舟蒸し
寒八椿造り
造り 鯛梅造り
まぐろ 生うに
焼物 伊勢海老タルタル焼き
柚子釜鱈白子
変り鉢 ステーキ鉄板 アスパラ
大根みぞれソース 赤パプリカ
鍋物 小谷鍋
御飯 筍御飯
香の物
止椀 大根 生椎茸 うす揚げ 小葱
本日のデザート
茶々の華(スタンダードメニュー)
先附 氷頭なます 鯛南蛮
吸物 神葉草 京人参 海老芋 うぐいす葉
車海老キャビア
オクラ数の子寄せ
サーモン松の実焼き
旬菜 田作り
甘海老塩辛
たづな巻き
えり鮎
煮物 ずわい蟹蕪みぞれ煮
鱈 まい茸 なめこ 菜の花
造り 寒八 まぐろ 鯛 うに
焼物 鯛真砂子焼 長芋田楽
むかご 金柑 帆立西京
変り鉢 蟹とアスパラ東寺揚げ
肉じゃが春巻 ふきのとう 蛤フライ
鍋物 牛しゃぶ
御飯 近江米
香の物
止椀 大根 生椎茸 うす揚げ 小葱
本日のデザート
江の夢~(ほっこりプランメニュー)
先附 氷頭なます 鯛南蛮
吸物 神葉草 京人参 海老芋 うぐいす葉
車海老キャビア
オクラ数の子寄せ
旬菜 サーモン松の実焼き
鶏松風
甘海老塩辛
煮物 ずわい蟹蕪みぞれ煮
鱈 まい茸 なめこ 菜の花
造り 三種盛り
焼物 鰤柚庵焼 大根 はじかみ
むかご串焼き 金柑
変り鉢 蟹とアスパラ東寺揚げ
肉じゃが春巻 ふきのとう 蛤フライ
鍋物 牛しゃぶ
飯物 近江米
香の物
止椀 大根 生椎茸 うす揚げ 小葱
本日のデザート
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12月のおしながき
- 2011-12-15 (木)
- 今月のお献立
~お市の舞~ (グレードアップメニュー)
先附 鮃の錦糸巻
小柱の山芋和え
吸物 雪見汁 活蛤 白玉 芹
あわびうに焼
銀杏金柑
旬菜 蟹クリームチーズ焼
びわ鱒の笹寿司
エリンギ牛肉八幡
煮物 鱈親子蒸し
ふかひれあん 小松菜
造り 寒八 まぐろ 鯛 うに
鍋物 あんこう鍋
水菜 白ねぎ しめじ もち
焼物 甘鯛と帆立のホイル焼
変り鉢 近江牛ステーキ
フォアグラ 分葱 パプリカ
飯物 近江米
止椀 車麩 焼しめじ 小ねぎ
香の物
本日のデザート
~茶々の華~ (スタンダードメニュー)
先附 鮃の錦糸巻
小柱の山芋和え
吸物 雪見汁 白玉 芹 焼鯛
寒干大根田舎煮
銀杏金柑
あられほや子
旬菜 冨有柿クリームチーズ焼
びわ鱒の寿司
エリンギ牛肉八幡
むかごけしの実
煮物 海老百合根
鰤しぐれ
えび芋 小松菜
造り 寒八 まぐろ 鯛 うに
鍋物 近江牛のしゃぶしゃぶ
水菜 榎木茸 しめじ つみれ
焼物 鰆ムース包み
変り鉢 柚子釜雪中蒸し
分葱 焼里芋 くも子
飯物 近江米
止椀 車麩 焼しめじ 小ねぎ
香の物
本日のデザート チョコムース
~江の夢~ (お昼の人気メニュー)
先附 鮃の錦糸巻
小柱の山芋和え
吸物 雪見汁 白玉 芹 焼鯛
寒干大根田舎煮
あられほや子
旬菜 冨有柿クリームチーズ焼
びわ鱒の笹寿司
むかごけしの実
煮物 海老百合根
鰤しぐれ煮
えび芋 小松菜
造り 寒八 まぐろ 鯛
鍋物 ちゃんこ鍋
焼物 鰆金時焼 大根
からすみ千寿
変り鉢 柚子釜雪中蒸し
分葱 焼里芋 くも子
飯物 近江米
止椀 車麩 焼しめじ 小ねぎ
香の物
本日のデザート
~初のしらべ~ (ちょっと軽めの会席メニュー)
先附 鮃の錦糸巻
小柱の山芋和え
蒸し物 茶碗蒸し かしわ 銀杏 サラダ海老
おしのぎ ミニちらし寿司
煮物 鰤大根 小松菜 針柚子
焼物 鮭の味噌グラタン
鍋物 つみれ鍋 国産牛肉
造り 寒八 まぐろ 鯛
変り鉢 あんこう葱間揚げ
飯物 近江米
止椀 車麩 焼しめじ 小ねぎ
香の物
本日のデザート
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1. 中山道の宿場町から(醒井宿、鳥居本宿)
- 2011-12-15 (木)
- 湖北残照 ~文化編~
私は埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)の出身である。
浦和は、中山道69次の宿場町のうちの第3番目の宿場町として江戸時代に栄えた町だ。日本橋を出て板橋宿、蕨宿と歩き続けた旅人は、やがて浦和宿に辿り着く。日本橋から24㎞ほどの距離だから、お江戸日本橋を七つ(午前4時)に出発した旅人がそろそろ疲労と空腹とを覚え、どこかで昼食でも摂ろうかと思案する頃合いだったかもしれない。
すっかり近代化してしまった浦和の街で、今では当時の浦和宿の面影を想起できるような遺物はほとんど残されていないが、僅かに「中山道」という道の名前だけは残っている。
私にとっての中山道は、南から北に向かって走る1本の道だった。
この道が、やがて上州路、信州路、木曽路、美濃路と続いていって、ついには近江にまでつながっているということが、私にはとても不思議な気がする。近江路を走る中山道が南北の方向ではなく東西の方向であることも、なんとなく私の感覚にはうまくフィットしていない。
しかしながら紛れもなく浦和と近江国とは中山道によってつながっていて、近江国には柏原(かしわばら)、醒井(さめがい)、番場、鳥居本(とりいもと)、高宮、愛知川(えちがわ)、武佐(むさ)、守山、草津、大津の10の宿場町が存在していた。
本稿ではこの10の近江国における宿場町のうち、私が大好きな醒井宿と鳥居本宿を採り上げて訪ねてみたいと思っている。
中山道第61番目の宿場町が、醒井宿である。
一言で言うと、清らかな泉の湧き出でる爽やかな宿場町とでも言い表すことができようか。
このことは、「野田沼、上丹生、朝妻」の章でも少し触れた。街のそこここから水が湧き出で、湧き出た水が街道の傍らを流れる水の流れとなって旅人のこころに安らぎと潤いとをもたらしてくれる。
水にまつわる様々な伝説が生まれ、透明度の高い澄んだ水の中には珍しい魚や植物が生息している。この宿場町に関するあらゆることが、水から始まっているのだ。
なんて清々しい宿場町なのだろうか。初めてこの街を訪れた時に抱いた私の印象である。
早速、醒井宿を歩いてみることにしよう。
JR東海道本線・醒ヶ井駅を降りて駅前の道を道なりに歩いて行くとすぐに旧中山道醒井宿の街並みに辿り着くのだが、旅人の気持ちになってこの宿場町を見るためには、宿場の入り口から入るのが王道だろう。
私は駅前を走る国道21号線を左方向の関ヶ原方面に歩いて、この新道から旧道が分離する地点にまで移動した。距離にして1㎞弱の距離であろうか。左手にJR東海道本線を見ながら歩く道だが、車が猛スピードで走り抜けていく国道を歩くのは、味も素気もない。
しかしこれも、これから味わう醒井宿の魅力を堪能するための試練だと思えば苦にならない。
新道と旧中山道との分岐点に近いところに馬頭観世音と刻まれた石が大切そうに祀られている。江戸時代において馬は、人や荷物を運ぶための数少ない動力源の一つとして重用されていた。馬頭観音を祀る石碑は、全国各地で見ることができる。
旧中山道醒井宿は、この馬頭観音碑のある辺りから西側(醒ヶ井駅方面)に続いて行くのだが、少しだけ寄り道をして、急な坂道を直角方向に登って行く。
実はこちらの急な坂道が旧中山道で、不自然に曲がりくねったこの坂道の途中に醒井宿の本当の入り口である見附が設けられていた。
見附は宿場の入り口と出口に設けられていて、それぞれに番所が置かれていた。不自然に道が曲がりくねっているように見えたのは、桝形の構造になっていたからだった。醒井宿は、この東見附から西見附まで、8町2間(876m)に亘って家並みが続いていた。
見附の案内板を右手に見ながらもう少しだけ宿場から離れる方向に坂道を登って行くと、右手に「鴬ヶ端」と書かれた案内板が見えてくる。
江戸方面から旅を続けてきた旅人は、醒井宿に入る直前のこの鴬ヶ端の地で、ホッとひと息ついたのかもしれない。遠景に伊吹山が顔を覗かし、眼下に醒井宿が見渡せる眺望の地は、古来歌枕にも歌われた場所だ。
旅やどり ゆめ醒井の かたほとり
初音もたかし 鴬ヶ端
平安時代の歌人で三十六歌仙の一人にも数えられている能因法師の歌である。
近くには「佛心水」と刻まれた井戸がある。旅人は、この仏心水の水で喉を潤し、伊吹山の秀峰を眺め、そして醒井宿へと入って行ったのだろう。
ここで道を引き返して、いよいよ醒井宿へと歩を進めていく。
宿場町の街並みにはどこか不思議な雰囲気がある。
広い野原を横切り、険しい峠を越え、川の急流を乗り越えて旅を続けてきた旅人にとって、心から休まることができるオアシスのような場所が、きっと宿場町だったのだろう。
私はそんな苦行をしてきたわけではないが、それでも人が集まり集落を形成している場所に身を寄せると、安堵の気持ちが湧いてくる。
古い家並みが多く建ち並んでいることも、旅情を掻き立ててくれる。
よく見ると、窓の桟(さん)や柱などに紅(べん)殻(がら)色の塗料を使った美しい色彩の家が目につく。後の章でも書くことになろうが、紅殻は私のなかでは近江を代表する色彩である。深い朱を湛えたこの色を見ていると、妙に心が落ち着く気がする。
ほかにも、洒落た桟をしたガラス窓を持った家や美しい格子戸のある家なども多数見られ、何気ない生活のなかにも美的なセンスが窺われて、うっとりと足を止めることしばしばであった。
緩やかに左に曲がり、さらに右に曲がりかけた道の左手に、「居醒の清水」を湛える池が見えてくる。
醒井の地名の起源となったと思われるのが、日本武尊の居醒の清水伝説である。当地に建つ案内板をそのまま引用する。
景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせておりました。そ
こで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。尊は剣を抜いて、大
蛇を斬り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめま
した。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不
思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名
づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。
伊吹山の大蛇とは、あるいはこの地域一帯に勢力を持っていた地元の豪族のことであったかもしれない。
伊吹山の特異な山容とも相俟って、彼らのことを大蛇と表現したものと推測される。いかにも大蛇が棲息していそうな妖しい雰囲気をもった山である。
彼らとの戦いは激戦だったのだろう。なんとか勝利したものの、日本武尊も大いに傷ついた。その傷を癒したのが、この居醒の清水の澄んだ水だったということではないだろうか?
何の文献も存在しない神代の時代の出来事をこんなふうに現代風に解釈してみるのも、私には楽しい知的想像作業である。
池の対岸の丘の斜面には、長く太い剣を杖のようにして左手に持ち、右手を高く翳(かざ)している鬟(みずら)姿の日本武尊像が立てられている。
その日本武尊像の前に拡がる池は、はっきりと底が見通せるほどに澄んで透明だ。石の橋が渡され、この場所に神が宿っていたかもしれないと思うほどに、神聖な雰囲気に満ちている。
水が絶えることなく湧き出でる光景には、なぜか心を落ち着かせる作用があるのだろう。 池の傍らには、こんな歌碑も建てられていた。
明治二十八年、北白川能久親王は、台湾で熱病にかかられ、重体になられました。病床
で「水を、冷たい水を」と所望されましたが、水がありません。付き添っていた鮫島参
謀は、かって醒井に来られた時の水の冷たさを思い起こされ、1枚の紙に
あらばいま 捧げまほしく
醒井の うまし真清水
ひとしずくだに
と詠んで親王にお見せになると、親王もにっこりされたと伝えられています。
日本武尊伝説とはまた趣が異なってしみじみと胸を打つ歌である。
鮫島参謀の必死の介護の甲斐もなく北白川宮能久親王は台湾で息を引き取られたが、鮫島参謀の真心に接せられて、親王は心から喜ばれたに違いない。北白川宮能久親王は初めて戦地にて戦死を遂げられた皇族として、日本武尊に擬せられたとも伝えられている。
やはり醒井とは非常にご縁のおありになる方だったようである。
軍服に身を包み騎馬で勢いよく駆け出でる姿の親王像が、東京の北の丸公園にひっそりと建立されている。スピード感のある馬の動きが生き生きと感じられて秀逸な像であると、親王の像を眺めながら毎日、私は朝の散歩を楽しんでいる。まさか醒井の地で親王にお会いするとは、思っていなかった。
醒井宿の街道脇を流れる清流(地蔵川)には7月になると梅花(ばいか)藻(も)が可憐な白い花を着け、澄んだ水の流れに揺らめく姿を見ることができる。
梅花藻とは読んで字のごとく、梅の花弁に似た白い花を着けるキンポウゲ科の沈水植物で、水温15℃くらいの澄んだきれいな湧水を好む長さ50㎝ほどの多年草である。流れに沿ってゆらゆらと水面にたゆとう白い花は、見る者をして神聖な気持ちにせしめる何かを持っている。
透明な水の流れの中で太陽光を浴びて生き生きと輝きを増した緑色の葉が眩しい。その緑のなかにまるで小雪が降りかかっているように白いものが点々と見えるのが、梅花藻の花だ。
想像していたよりも小さな花だった。
そのことが余計に、得がたい尊さとなって心に沁み込んでくる。醒井のこの水があってのこの花でもある。
梅花藻が見られる地域はここ醒井のほかに、富士山に降った雨水が伏流水となって濾過されて湧き出る静岡県三島市の柿田川流域、北アルプスに降った水が清らかな水となって流れる上高地の梓川など、国内でも僅かしかない。
いずれの場所にも共通しているのは、水が澄んでいることである。それも、ちょっとやそっときれいなだけでは条件を満たさない。最高度に澄んだ透明な水でなければ、梅花藻は生育しないのである。
また梅花藻は、15℃程度の冷水でないと生育しないため、特に温暖な西日本では育ちにくいという。さらに、生育のためには水の流れが必要で、澄んだ水であっても澱んだ水では育たない。流水でも水槽ではまず生育しないというから、梅花藻がいかに繁殖しにくい植物であるかがわかる。
いくつもの条件が合致したごく限られた場所でないと見ることができないことも、梅花藻をたいへん貴重な存在に昇華させている。
地蔵川の清らかな流れと水面に浮かぶ梅花藻を眺めながら、趣のあるいかにも宿場町という感じの古びた建物が建ち並ぶ街並みをそぞろ歩きするのは、とても楽しいことである。
醒井の地蔵川には、梅花藻とともにもう一つ、珍しい生物が生息している。
それは、ハリヨという名前の小さな魚である。
ハリヨとは、針魚と書かれることもあるトゲウオ科イトヨ属の魚で、滋賀県東北部と岐阜県南西部の水温が20℃以下の湧水に生息している体長4~7㎝ほどの目の大きな可憐な魚だ。
鱗はなくて、背中に3本、腹部に1対、それに尻びれの近くに1本のトゲがある。この針のようなトゲから針魚と呼ばれるようになり、「はりうお」が転訛して「ハリヨ」になったのかもしれない。
梅花藻と同様に澄んだ冷たい湧水にしか棲むことができない。そのためか、ここ醒井ではハリヨは梅花藻と共生しながら生きている。
梅花藻に寄生している水生昆虫はハリヨの好物であり、ハリヨは水中に漂う梅花藻の長い葉の中を潜り抜けながら、生活をしている。
また、梅花藻により緩やかになった水の流れはハリヨの格好の産卵場所にもなる。ハリヨは水草等でトンネル状の巣を作り、3月から5月にかけてその巣の中で産卵を行う。オスは卵が孵化するまで餌も食べずに卵を見守るというから、なかなかに献身的な魚のようである。
とても小さな魚なので、地蔵川の中で泳ぐハリヨの姿を確認することはなかなか難しい。うまく泳いでいる姿を見つけることができたら、それはとてもラッキーなことかもしれない。
そんな魚だけに、ハリヨの神秘性は余計に増してくる。幻のような魚がこの地蔵川の流れのどこかに潜んでいると思うだけでも、不思議な思いにかられてしまう。
梅花藻とハリヨの存在が、醒井宿を一層魅力ある街にしていることは間違いない。私は満たされた思いでJR醒ヶ井駅へと続く道を歩いて行った。
駅の手前の右側にある洒落た洋館は、ウィリアム・ヴォーリスの設計なる建物だ。大正4年(1915)に旧醒井郵便局として建てられたもので、今は記念館として内部が公開されている。
ヴォーリスについては次の章で書くのでここでは簡単に触れるに止めておく。純和風の建築物が続く醒井の街並みのなかで特異な存在であるのに、違和感をまったく感じさせない気品を保っているのがとても不思議だ。
醒井宿は、この章の最初にも書いたとおりに、湧き出でる泉の宿場町である。
宿場町の中には「居醒の清水」のほかに、「十王水」と「西行水」という2つの泉が湧き出ている。
十王水は、平安時代中期に天台宗の高僧である浄蔵法師が諸国遍歴の途中で開いた水源と伝えられている。近くに十王堂というお堂があったことから十王水と呼ばれている。
西行水は、この泉の畔の茶屋で休憩した西行とその西行に恋した茶屋の娘との淡い恋の伝説から名づけられた泉名である。
宿場を外れるが、近くを流れる丹生川を遡っていくと「天神水」、「いぼとり水」、「役の行者の斧割り水」などの湧水が見られ、この地域一帯が湧水の宝庫であることがわかる。
これらの泉は、背後に存在する霊仙山(1084m)の伏流水であると考えられている。霊仙山は山全体がカルスト地形で構成されていて、山に降った雨水が石灰石の地層に沁み入り、濾過されて地表から湧き出てくる。
霊仙山は同時に古来から山岳仏教の修験道場でもあったことから、役の行者や西行など仏教の修験者の名前が伝説と結びついて泉の名前として定着していったのだろう。
今では、丹生川の澄んだ美しい水を利用して丹生川から分かれた宗谷川に東洋一の醒井養鱒場が造られている。
豊かな水を巧みに利用しながら、醒井の町は今なお生き続けている。
醒井宿の次に私が訪れたのが、中山道第63番目の宿場町である鳥居本宿である。
醒井宿を出た旅人は、番場の忠太郎で有名な番場宿を経て、鳥居本宿に辿り着く。宿場町に入る手前には、街道随一の名所とされる摺針峠が控えている。
この峠から見る琵琶湖の眺望はすばらしい。
長い旅を続けてきた旅人は、ここで初めて琵琶湖の姿を目にするのだろう。海沿いを通る東海道と異なり山の中を歩む中山道を進んできた旅人にとっては、湖といえども大海原に匹敵する琵琶湖の眺望は、感動的だったに違いない。
かつて旧東海道を歩いてみたことがある。はるばる日本橋から歩き続けて箱根の石畳の道を息を切らせながら上り詰めた。そして権現坂と名付けられた下り坂まで来たときのことだった。急に目の前が展け遠くに芦ノ湖の青い平らな湖面が見えてきたときの感動を、私は忘れない。
その時に私が味わったのと同じ感動をおそらくは、中山道を旅してきて摺針峠にさしかかった旅人たちは感じたことだろう。
摺針峠とは曰くありげな名前である。
昔、諸国を修行して回っていたある旅の僧がこの峠に差し掛かった時、一人の老婆が一心に斧を石に摺りつけている光景に出くわした。何をしているのですか?とその僧が問いかけると、1本しかない針を誤って折ってしまったので斧を石で摺って針にしようとしているのです、と老婆が答えた。
斧から1本の針を摺り上げようなどとは、気の遠くなるような作業である。普通の人間なら何を馬鹿なことをしているのかと老婆を嘲るところだが、この僧は老婆の真摯で諦めない姿に我が身を戒められた思いがした。
慢心していた己が身を大いに恥じてさらに修行に励み、この僧は後に高僧となった。その僧の名を弘法大師と言う。
道はなほ 学ぶることの難からむ
斧を針とせし人もこそあれ
弘法大師は後に再びこの峠を訪れたとき、摺針神明宮に栃餅を供え、杉の若木を植えてこの歌を詠んだと伝えられている。
その杉の真下に望湖堂という茶屋が建てられていた。たいへんに立派な建物で、江戸時代には朝鮮通信使もこの茶屋で休んで琵琶湖の眺望などを詩にして詠んだ。また、皇女和宮や明治天皇も休息したという由緒のある茶屋だったが、平成3年に惜しくも焼失してしまった。
かつて望湖堂が建てられていた場所には現在、1軒の建物が建てられている。紅殻色の柱が鮮やかな立派な邸宅だ。
どうぞご自由にご覧ください、と気さくに声を掛けていただいた当家のご婦人の好意に甘えてお庭を拝見させていただいた。
右脇の狭い入り口を通り抜けると、建物と低い白壁の塀の間の細長いスペースに飛び石が設(しつら)えられている。
その飛び石伝いに歩いて建物の裏手に回ると、そこには極上の琵琶湖の眺望が用意されていた。 庭に置かれた石灯籠の向こう側、白い塀越しに一面の田園風景が見渡せる。そしてその田んぼの尽きるところに、青く平らな琵琶湖の湖面が穏やかな表情で顔を覗かせている。
おそらくは朝鮮通信使も和宮も明治天皇も、今私が立っているのと同じ場所から同じ琵琶湖の風景を眺めて、その美しさを心に刻んだに違いない。朝鮮通信使でなくとも、詩や歌などを詠みたくなるような、絶景である。
摺針峠の眺望を楽しんだ旅人たちは、いよいよ鳥居本宿へと歩を進めていく。
中山道の前身にあたる東山道では、今の鳥居本宿より南側に位置する小野村に宿場が置かれていたようである。小野村には、この地が小野小町の誕生地であるとの伝説が残されている。
即ち、出羽郡の小野美実(好美)が京から奥州に下る途中で当地に一夜の宿を求めた。その宿で生後間もないかわいい女児を見染め、貰い受けて出羽国に連れ帰った。この女児こそが、後に美人の誉れ高い小野小町となったという伝説である。
今でもこの地には小町地蔵が祀られる祠が建ち、その傍らには小町塚という塚(石碑)が存在している。
しかしながら絶世の美女と謳われている小野小町を巡っては全国各地で同様の伝説が語られていて、決め手はないというのが実情のようである。
それはそうと、今でも小野村(現彦根市小野)には古い由緒ありげな家々が建ち並び、鳥居本宿ほどの密集度ではないものの、趣のある家並みの小集落となっている。鳥居本を訪れる人はいても、小野村まで足を伸ばす人はほとんどいないだろう。
名神高速道路と東海道新幹線とに挟まれ小野川という小川に沿った狭い谷あいの街並みであるが、私は小野村のもつ独特の表情を気に入ってしまった。
ところで、小野村に置かれていた宿場が鳥居本村に移された背景には、徳川幕府の意向が見え隠れしている。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、通信網と物流の整備を優先政策と考え、いち早く東海道をはじめとする五街道の整備に着手した。中山道もその一つとして慶長7年(1602)に伝馬制が定められた。
ところが当初は小野村に伝馬継所が置かれたものの、すぐにその翌年の慶長8年には小野村で代々本陣を営んでいた寺村家が幕府により鳥居本村へと本陣の移転を命じられている。
ちょうどこの頃、西国への守りを固めるために彦根山に新しい城が築城されようとしていた。この彦根城と中山道とを結ぶ脇街道のルートが定められたのも、この時のことだったと考えられている。彦根道と呼ばれる道が鳥居本宿から分岐して佐和山の南麓に存在していた切通しを通って彦根城へと続いているのがそれである。
小野村と彦根城との間には石田三成の居城のあった佐和山から続く山並みが横たわっているために道を通すことが出来ない。今の彦根カントリー倶楽部となっている山塊がそれである。その山を避けるために宿場町を北側に移したというのが小野村から鳥居本村への宿場移転の実情と考えていいだろう。
山に道を拓くことをしないで、反対に町を移動させることにしたのだから、徳川幕府もかなり乱暴なことをしたものだと思う。もっとも当時の土木技術を考えると、道を切り拓くよりも町ごと移転させてしまった方が容易だったのかもしれない。
かくして、中山道の第63番目の宿場町としての鳥居本宿が成立した。
鳥居本宿は、南端の小野村境から北端の下矢倉村までの長さ13町(約1.4㎞)、人口約1450人、戸数300戸程度(天保年間の「宿村大概帳」による)の宿場町であった。この宿場の中に35軒の旅籠と本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒が置かれていた。
北側の下矢倉村から鳥居本宿に入った旅人は、まずは大きな店構えの建物を目にすることになるだろう。赤玉神教丸という胃腸薬を製造し販売する店である。
創業は万治元年(1658)と伝わるから、鳥居本宿が成立してから僅かに半世紀の後のことである。赤玉神教丸の有川家は、鳥居本宿の北の端から350年以上にもわたって鳥居本の歴史を見守ってきていることになる。
有川家の先祖は、元は磯野丹波守に仕えた郷士で鵡川という姓を名乗っていたが、有栖川宮家への出入りを許されるようになり有栖川宮の「有」の一字を賜って「有川」の姓となった。
鳥居本宿の次の宿場の高宮宿の近くには「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と俗謡に歌われ全国から多くの信者を集めている多賀大社がある。その多賀大社の神教によって調製したという謳い文句が奏功した。
多賀大社の坊人が全国を巡回して多賀参りを勧進して回る際に、神薬として赤玉神教丸を持ち歩いて宣伝したことも神教丸の名前を拡めることに大いに寄与したことだろう。多賀大社の名声はこれらの坊人たちによって全国津々浦々にまで轟き渡っていたので、効果は絶大だった。
赤玉神教丸は店舗販売を専らとしていたために、鳥居本宿のこの店舗には、評判を聞きつけて赤玉神教丸を買い求めようとする旅人で大いに賑わった。中山道を旅して鳥居本宿に行ったなら、あの赤玉神教丸を旅の土産として是非とも買い求めよう。そんな思いの旅人たちで店舗はごった返していたことだろう。
土産物としても家族に喜ばれるだろうが、何が起こるか分からない旅の途中であるから、道中を無事に過ごすための非常薬としても旅人にとってはこの赤玉神教丸が心強い味方であったに違いない。
当時の世相を描いた『近江名所図会』にも赤玉神教丸を買い求める旅人で賑わう店舗の様子が生き生きと描かれている。また、十返舎一九の『木曽道中膝栗毛』にも、
くれないの 花にいみじく おく露も
薬にならない赤玉という
もろもろの 病の毒を 消すとかや
この赤玉も 珊瑚朱の色
下賤な歌だが、赤玉神教丸を題材とした歌が紹介されている。
この神教丸も、近江国の賜物であると私は考えている。
多賀大社との絶妙のコラボレーションで庶民が飛びつきやすい見事なキャッチフレーズを考案した商才も称賛に値するけれど、元々神教丸の歴史は有川家がまだ鵡川の姓を称していた頃に伊吹山の薬草を探索していたことに起因している。
まさに湖北の自然がもたらしてくれた産物が神教丸であると言うことができるのだ。
現在の赤玉神教丸本舗の建物は宝暦年間(1751~1764)に建てられたもので、入母屋造りの大きな瓦葺き屋根の下に白壁で塗り込められた2階部分が顔を覗かし、1階部分にはもう一層の庇のような小屋根を設け、大きな格子のガラス戸が6枚嵌め込まれている。
建物の右端の入り口には左右に「有川市郎兵衛」「赤玉神教丸」、中央には丸の下に一文字のトレードマークが染め抜かれた臙脂色の大きな暖簾が誇らしげに掛けられている。
ほぼ真っ直ぐな道が続く鳥居本宿のなかで、唯一街道がカーブを描いているのがこの赤玉神教丸本舗の前である。その角地に大きな店構えの立派な店舗を構えていたのだから、赤玉神教丸のことを知らずに通りかかった旅人でさえ、思わず足を止めて見入ったに違いない。
そんな迫力満点の店内で販売されていたのが、食べ過ぎ、飲み過ぎ、二日酔い、胃のもたれや胸やけなどによく効くという赤玉神教丸である。オウバク(黄柏)、キジツ(枳実)、ビャクジュツ(白朮)など9種類の生薬を配合した小さな丸い仁丹くらいの大きさの薬だ。
これもおそらくは、有川家のご先祖様が伊吹山の山中を歩き回って効能豊かな薬草を探し求めた賜物であるに違いない。
神教丸という名前は知らなくても、今でも「赤玉」と言われればあの薬のことかと思い当る人は多いと思う。
母屋の右手には、明治11年(1878)に明治天皇が北陸巡幸の際に増築されたという建物が接続されている。正面から見ると威風堂々たる店構えだが、右手の増築部分から眺めるとたいへんに複雑な構造を持った建物であることがよくわかる。
鳥居本宿には、この赤玉神教丸のほかにもう一つ、旅人たちの間で有名だった名産品がある。それが、合羽である。
合羽とは、雨の時に羽織って濡れるのを防ぐ、あの合羽である。
なぜ、鳥居本で合羽なのだろうか?
鳥居本宿における合羽製造の歴史を遡っていくと、享保5年(1720)の馬場弥五郎という人物に行き当たる。
弥五郎は、若くして大坂に奉公に出て合羽の製造方法を学んだ。とは言っても、当時はまだ合羽の製造技術が十分に成熟していたわけではなかった。弥五郎は奉公先の「坂田屋」という屋号を譲り受けて故郷の鳥居本に戻り、さまざまな工夫や改善を重ねながら合羽作りに励んだ。
なかでも、それまで雨滴をはじくために菜種油を使用するのが一般的だったものを、代わりに柿渋を使用したことが大成功を招く要因となった。柿渋は保温性と防水性・防湿性に優れ、しかも紙を丈夫にする作用があるため、山がちで雨の多い木曽路を旅する旅人たちに大いに重宝されたからだ。
色合いも、菜種油よりも深い赤味がかかった美しい色をしている。一説には紅殻を混ぜてこの深い色合いを出したとも言われているが、実用性に富んでいただけでなく外見的にも鳥居本宿の合羽は美しかったということになる。
今の時代と違って車も電車もなかった時代だから、旅人は雨の日でも濡れながら旅を続けていかなければならない。合羽の重要性は現代よりもはるかに高かったと言うことができるだろう。となれば、少しでも高機能で少しでもお洒落な合羽を手に入れることは当時の人たちにとっての必然の需要だったということになる。
馬場弥五郎が創業した鳥居本宿における合羽製造業者の数は次第に増加し、江戸時代の文化文政年間(1804~1829)には15戸にも達していた。そこには、他では追随できない高い技術と鳥居本の合羽というブランドとが確立していた。
ここで簡単に合羽の製造方法について触れておく。
まずは鳥居本合羽の秘密兵器である柿渋の製造方法である。
柿渋自体は、防腐用、外壁の塗装用、清酒の清澄剤、衣服の染色用などに幅広く使用されており、製造方法が鳥居本の専売特許であったわけではない。熟した柿ではなく、タンニンが多く含まれる青柿を使用した。これを石臼や米突き臼などで砕き、適量の水を加えて桶や樽の中で数日間貯蔵して発酵させる。
発酵期間が長いほど良質の柿渋が採取されるという。この発酵した柿渋液を圧搾して上澄みを採取したものが柿渋である。
次に合羽の材料となる紙は、若狭、大坂、土佐、伊予、美濃などの産地から取り寄せた仙花紙がおもに使われた。仙花紙は厚手で丈夫なために、耐久性が要求される合羽の材料として適していた。
調達した紙を張り合わせて必要な紙の大きさにすることを小継ぎと言う。張り合わせることで紙の大きさを確保するとともに、紙の強度を増すという効果を得ることにもなる。
張り合わされた紙は、寸法どおりに裁断される。木製の定規を当てて、ヘラのような包丁で紙を切っていくのだ。当然だがこの時、張り合わせるためののりしろを確保したうえで紙を裁断していく。
裁断した紙の四隅を折り曲げて糊で張り合わせて合羽の原形を作り上げる。張り合わせた糊が剥がれにくくなるように、糸で縫う。これを糸入れと言う。
合羽の形ができあがると、製造業者の商標印を入れる。鳥居本製の合羽であることを証明する重要なステップであるが、単に版木を押印するだけの単純な作業なので、子供が手伝いで押すこともあったと言う。
次が紙揉みの工程である。後で塗る柿渋や油の吸収をよくするためには、紙を十分に揉みほぐさなければならない。合羽には硬い仙花紙を使用しているために、紙揉みは熟練を要する重要な作業であった。
紙揉みが終わると、いよいよ柿渋を塗る。これを渋引きと言う。20㎝くらいの刷毛で柿渋液を満遍なく塗っていく作業である。出荷する地方の嗜好に合わせて柿渋に紅殻を入れたりして独特の色合いを出すのもこの工程における作業だ。
続いて、油引きと言って、渋紙に薄く油を塗っては乾燥させるという作業を何度も繰り返す。
油引きが終わった合羽は、天日で干される。合羽干しと呼ばれる作業である。油引き後の合羽はなかなか乾燥しないので注意を要する。
そして最後の仕上げに四隅または上部の両端に紐を通す穴を開けたりして細部を整えて、完成である。
簡単に書いたつもりだったのに随分と長くなってしまった。合羽を作る工程は、それだけ複雑で煩雑な作業の積み重ねであるということなのだと思った。馬場弥五郎が初めて鳥居本宿で合羽の製造を行って以来、幾多の改良が加えられながら伝えられてきた技術である。
鳥居本宿のちょうど真ん中あたり、かつて本陣があった場所の正面に木綿屋という合羽所の建物が現存している。黒板塀に塗り込められた白壁が目に眩しく輝き、趣のある竹格子が立てかけられている格式のある立派な建物だ。
軒下には、「本家合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた木製の看板が吊るされている。実はこの合羽所・木綿屋は、私が出版でお世話になっているサンライズ出版の岩根社長のご実家であるのだ。
合羽の製造は現在ではもう行われていないが、岩根家には当時の合羽製造に使われた道具や商標印の版木、それに顧客からの特注で合羽に刷り込んだ模様の型紙などが保管されている。
それらを拝見させていただきながら一番に私が驚いたのは、合羽そのものである。
合羽というから、衣服の上から羽織る紙でできた比較的簡単な構造の蓑のようなものを想像していたのだが、私の目の前に現れた合羽はそれとは全然違うものだった。
時代劇によく出てくる旅ガラスが纏うマントのような形をしていて、しかも木綿でできている。柿渋を塗った雨滴をはじく紙はどこに行ってしまったのだろうか?と訝しげに眺めていると、岩根社長のお母さまの敏子さんがそっと教えてくださった。
なんと、柿渋を塗った紙は表地と裏地の2枚の生地の間に挟まれて縫い込まれているのだそうだ。これでは外見は普通のマントと何ら変わらない。
しかもこの合羽、表地が紺色にやや薄いブルーの縦縞で、裏地は同じく紺色の地色だが白い縦縞と薄いブルーの横縞の格子模様になっているリバーシブルの合羽なのだ。
実用的でかつ美的センスにも優れていた鳥居本の合羽の真髄を見た気がした。
なるほど、こんなお洒落な合羽だったら、人々が争って購入したというのも素直に頷けると合点した。
それにしても、旧家の文化的蓄積はすごいものがあると思った。
岩根家は宿屋ではなかったものの、中山道を行き来する文人墨客などの文化人が木綿屋に立ち寄り、そして一夜の宿りを借りることも多かったのだろう。そのお礼として彼らがその場で書いて置いて行った書や絵を屏風に設えたものが置かれていた。
いずれも見事な出来栄えのものばかりで、日頃から教養の高い文化人との交流を通じて自らの文化をも高めていった旧家の底力を目の当たりにした感じがした。彼らは単に工業製品としての合羽を生産していたのではなかったのだ。
合羽所が転じて、現在は地元の貴重な情報を書籍として世に送り出す出版社となったことにも、納得がいく思いがする。
ここまでは代表的な名産品である赤玉神教丸と合羽を中心に鳥居本宿を見てきた。この2つ以外にも鳥居本宿には、ヴォーリスが設計した旧本陣寺村家の門扉や、佐和山城の用材が使用されているという専宗寺の太鼓門など歴史的価値のある建築物が多数存在している。しかし何よりも、宿場町としての雰囲気のある街並みを街全体で今によく残してくれていることが、旅人にとっては格別うれしい。
さらに近江鉄道本線の鳥居本駅は、三角形の赤い瓦屋根がトレードマークのかわいらしい駅である。昭和6年(1931)の開業当初の姿をよく保存しているという駅舎はまるでおとぎの国の駅のようで、鳥居本宿の玄関口として実にふさわしい佇まいである。
最後に鳥居本宿を通る朝鮮人街道について記述して、長くなってしまったこの章を終えることにしたい。
朝鮮人街道とは、先に雨森芳洲の章で触れた朝鮮通信使が朝鮮と江戸との往復の際に通った道で、鳥居本宿から分岐して中山道よりも北側の琵琶湖沿いの道を通り守山宿の手前の行畑で元の中山道に戻る全長40㎞あまりの道のことである。
比較的まっすぐな道として整備されている中山道とは異なり、道が複雑に右折左折を繰り返す道をわざわざ朝鮮通信使一行に歩かせた幕府の意図はよくわからない。
この道は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が京に上る際に通った吉例の道とされている。その後も将軍上洛の際に使用された道であるが、大名の参勤交代には通行を許されなかった特別な道でもある。
鳥居本宿の南のはずれに近い四つ角に、「右 彦根道 左 中山道 京いせ道」と刻まれた古い道しるべが建っている。
ここをまっすぐ南に下って行けば次の高宮宿に辿り着く。右の佐和山方面に曲がって行けば、切通しを抜けて彦根の城下町に向かう道となる。
朝鮮通信使はここで進路を右に取り、彦根城下の宗安寺で宿泊するのが通例となっていた。朝鮮通信使は徳川時代を通じて12回しか派遣されなかったのにこの道が朝鮮人街道と呼ばれるようになったのは、沿線の住民たちにとって朝鮮通信使の一行がいかに印象強いものであったかを物語っている。
しかしながら今では、この「朝鮮人街道」という道の名前も道筋も朧気なものとなってしまっていて、地元の人でも朝鮮人街道という名前を知らない人が多くなっているという。
ましてや、今となっては区画整理などで道が失われてしまっている箇所も多々あり、正確な道筋というものがわからなくなってしまっているというのが悲しい現実のようである。
そんな幻の朝鮮人街道を実地に歩いて確かめようという滋賀県立彦根東高校新聞部の生徒たちの興味深い研究成果がサンライズ出版から本として出版されている(『淡海文庫「朝鮮人街道」をゆく』(1995年))。
鳥居本宿の分岐点に立って佐和山方面を見やりながら、私は雨森芳洲と朝鮮通信使たちのことを想った。
私が歩いたのと同じこの中山道を、幕末には新撰組の隊士たちが江戸から京へと駆け抜けていった。反対に孝明天皇の妹君であられた和宮が、公武合体という重たすぎる使命を帯びて京から江戸へと下っていった。
許嫁との婚約を強制的に破棄させられ、京の皇族から見れば蛮族とも思えるような東国の武家の許に嫁がなければならなかったその時の和宮の悲壮な決意の気持ちを想うと、切に胸が痛む。
これらの歴史に名を刻んだ人物が歩いたのと同じ道を今、私が歩いているという不思議な感覚。そして、感動を私は噛み締めている。
女性である和宮が山の中を通る中山道を婚礼の道として選択したことは一見意外なことのようにも感じられるが、幕府の政策により大きな河川には橋が架けられていなかった東海道のほうがかえって女性には歩きにくい道であったとも言われている。
中山道のことを別名で「姫街道」とも称されているのは、女性が多く選択した道であった事実を物語っているのだろう。
ここまで来れば、最終目的地の京都までもあと僅かだ。旅人たちの安堵のため息と京都での期待感が伝わってくるような気がする。
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我善坊谷・葬送の道
- 2011-11-29 (火)
- 湖北残照・番外編 ~江戸の江~
このブログは、須賀谷温泉に来られた、または須賀谷温泉のブログをご覧になられて江の生涯に興味を持たれたお客様が、江戸での江の足跡または面影を求めて旅をされる際の道案内にでもなれば、との思いで書いた「湖北残照」の番外編である。
ここ須賀谷温泉のすぐ目の前にある小谷山の上で生を受けた江が、その後の数奇な運命を経て辿り着いた終着点が、徳川幕府の江戸であった。
近江の江から江戸の江へ。
江の波乱万丈の人生の出発点と終着点とを見ると、はるばると人生の旅をしてきた江のことが思いやられて、しみじみとした感慨が湧き起こる。
この湖北の地で江の生まれ故郷を堪能されたみなさんには是非、江戸における江の足跡を訪ね歩かれることをお勧めする。そこには、意外な発見があるかもしれない。
我善坊谷・葬送の道
今、私は六本木交差点にいる。
六本木と言えば、若者の街、あるいは外国人の街という言葉が似合う。または夜の街、眠らない街などという形容詞で語ることもできるかもしれない。東京でも特徴的な街の一つである。
なぜ、江が六本木なのか?
実は、江が亡くなって荼毘に付された時の灰を集めて埋めたと言われている「灰塚」が、六本木交差点から歩いて僅か1分ほどのところにある深(じん)廣寺(こうじ)という寺にあるのだ。
寛永3年(1626)9月15日、江は江戸城西の丸で53年の波乱に満ちた生涯を終えた。この時、夫であり徳川2代将軍である秀忠も、嫡男である家光や忠長も揃って上洛中であり、江にとっては寂しい最期だった。
江の遺体は9月18日の夜に徳川氏の菩提寺である増上寺に運ばれた。
その後、荼毘に付されたのが10月18日であったことから推測するに、江の葬儀は夫の秀忠や息子の家光の帰着を待って執り行われたと考えるのが自然であろう。
江の火葬場が設けられたのは、「麻布野」であるとも「我善坊谷」であるとも言われている。
麻布野とは、今の六本木付近に拡がっていた広大な原っぱのことであり、我善坊谷とは、麻布野よりもやや増上寺寄り、今の麻布台一丁目にある麻布郵便局裏手の低くなった谷状の土地のことであると推測される。
今では先鋭的であり高級な都会の代名詞のようになっている六本木や麻布台であるが、当時はまだ随所に空き地が見られる原野や谷あいだったものと考えられる。
江が火葬された正確な場所はわからない。
前述の灰塚のある深広寺付近というふうにも考えられるが、『徳川実紀』には我善坊谷と記載されている。いずれにしても、現在の六本木から麻布台にかけての広々とした土地に、江のための盛大な荼毘所が設けられた。
増上寺から荼毘所までの1000間の間に筵を敷き、その上に白布10反を布いて1間ご
とに竜幡をたて、両側に燭をかかげた。荼毘所は100間四方槍をもって垣をつくり、丹
を塗り筵を敷き、達空、信人、梵行、究竟、の四門をたて、各門に額をかけ、方ごとに幡(ばん)
10本ずつ四方40旒、火屋内構60間、四方の垣外構と同じ。……。
『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』 東京大学出版会
1間は約1.8mであるから、1000間というと約1800mということになる。2㎞弱にもわたって筵が敷かれ、その間、2m弱の間隔で幡が立てかけられていたことになる。荼毘所の広さも180m四方に槍を建てて垣を造ったというから、いかに大規模な設備であったかが記述から窺える。
先に、江は徳川の15代にわたる将軍の正室のなかで唯一、将軍となる子を産んだ正室であることを書いた。さらに江は、増上寺に埋葬された将軍・正室などの徳川一門の人々のなかで、唯一火葬された人でもあるという。
どうして江だけが火葬されたのか、私にはわからない。
江の死が急な死であったこと、秀忠や家光などの男衆が江戸を留守にしている間の死であったこと、それに火葬に付されたことなどの周囲の状況から、毒殺だったのではないかと考えている人もいるようだ。
当時の貴人は土葬が普通だった。今のような機械設備もない当時は、むしろ火葬を行うことの方が手間暇のかかる行為だったという。わざわざ江が火葬された背景に何か特別な事情があったとの考え方もあるかもしれない。
江の死が、もしも何者かによって企まれたものであったとしたら、それはあまりにも悲しすぎる事実である。そのような推理が成り立つとしたら、その背後に一人の女性の影が見え隠れしているのもまた事実であるからだ。
しかし私は、江が毒殺されたとする説には与しない。
『徳川実紀』の記述には矛盾する記述や不正確と思われる記述が多いのでどこまで信じるべきか迷うところではあるが、江が危篤である旨の急報は9月11日には京の二条城に滞在していた秀忠や家光に届いていたこと、秀忠や家光の江戸帰着を待って江の葬儀が行われたことなどから考えると、急死であることも証拠隠滅のために荼毘に付したということも根拠のない説であると考えざるを得ない。
事実は永遠に不明のまま、残念なことにすべては灰と化してしまった。
今となっては、江の死の真相を知る術(すべ)は何も遺されていない。私は、江の死という事実のみを知るのみである。
江戸に戻って江の遺体と対面した秀忠や家光や秀長は、どんな思いだったことだろうか?彼らの驚きと悲嘆に満ちた気持ちを想う時、私は涙を禁じ得ない。江が忽然とこの世を去ってしまい、命なき遺体となってしまったという事実を、おそらくは容易に受け容れることができなかったのではないだろうか。
江の訃報を聞いて、江の化粧料地であった石川村や王禅寺村からも、江を慕う人々が取るものもとりあえず駆けつけてきた。
実際に江にお目見えしたことはなかったかもしれないが、彼らにとっての江は絶対的な存在であったにちがいない。支配者と被支配者という単純な上下関係ではなくて、彼らの間には信頼に裏打ちされた、あるいは親愛の情がこもった主従の関係が存在していたものと想像される。
この日の我善坊谷は、悲しく重苦しい空気に包まれていたことだろう。
先程引用した『徳川実紀』の記述を基に、江の荼毘所が造られたと言われている場所を推理してみた。
増上寺から1000間(=約1800m)という距離を考えると、我善坊谷では近過ぎてしまう。やはり六本木辺りと考えるのが妥当であろうか?
しかし私は、『徳川実紀』に記述された距離感には疑問を抱いている。
別の箇所で、
沈香を32間余りに積み重ね、一時に火を放てば、香烟10丁余りに及んだ
という記述があるからだ。
さすがに没後1ヶ月以上を経た遺体を荼毘に付すにあたって、腐臭を如何ともし難かったのだろう。香木を32間余りに積み重ねたと記されているのだが、先程の計算(1間=約1.8m)で換算すると、32間は57.6mになってしまう。
57mという高さは、京都にある東寺の五重塔の高さと同じである。そんなことはあり得ない。従って、増上寺から荼毘所までの距離が1000間というのも、疑ってかかるべきであると考える。
この1000間という記述を考慮しなければ、我善坊谷はいかにも荼毘所がありそうな雰囲気に満ちた場所であるように思われる。
我善坊谷を歩いてみた。
夕暮れ時に歩いたということもあったかもしれないが、通る人も疎らで、たいへんに寂しい道に見えた。六本木がすぐそこで、東京タワーも間近に見え隠れする都会の真ん中に立地しているのに、喧騒からは隔絶された世界がそこには存在していた。
王家の谷という言葉がエジプトにあるけれど、死にまつわる場所は洋の東西を問わず陰の世界が相応しい。陽の当たる岡の上よりも、日陰の谷底の方が似つかわしい。
今では「我善坊谷」という地名さえ、歩き回ったけれどどこにも見出すことができなかった。すでに忘れ去られた世界なのかもしれない。
荼毘に付された江の遺骨は、墓所である増上寺に向かうためにしずしずと我善坊谷に設けられた荼毘所を出発した。
葬送の長い列は、細く曲がりくねった道をしめやかに進んでいった。狭い路地を悲しみの行列が通り過ぎていく。
こんな静かな道を江の遺骨が運ばれて行ったのだと思うと、ちょっと心が疼いた。小谷山で生まれ、波乱に富んだ人生を送り、そしてこんな遠い江戸の地で、夫や子供に看取られることもなく寂しく亡くなった江の人生を想った。
そして、将軍の御台所の葬送なのにという気持ちと、でも心から江の死を悲しんでくれる人たちに囲まれての葬送の列の方が江にはふさわしいという気持ちとが相半ばして、私の気持ちは複雑に揺れ動いた。
我善坊谷の坂道を上りきると、目指す増上寺はすぐ目の前である。
葬送の道を辿る旅の最後に、江の荼毘所に関連したいくつかの寺を訪ねてみた。
江の遺骸の火葬に携わった寺院は、前出の深(じん)廣寺(こうじ)のほか、教(きょう)善寺(ぜんじ)、光専寺(こうせんじ)、崇(すう)巌寺(がんじ)、正信寺(しょうしんじ)の5つの浄土宗の寺だった。
これらの寺院は後に、火葬地一帯の麻布野に寺領を与えられた。
六本木3-14-20の六本木墓苑は、道路拡張のために崇厳寺の跡地に集約されたこれら5寺の共同墓地である。
正信寺は、後に小石川に移転している。
私は、六本木墓苑を訪れた後、今に残る教善寺、光専寺、それに深廣寺の3つの寺を訪ねてみた。
いずれの寺も非公開で、私たちの訪問を頑なに拒んでいるかのようだ。
建物自体も近世になって建立されたものであり、当時の面影を残してはいない。私は、なんとなく満たされない気持ちで、これら3つの寺院の門前で記念の写真を撮っただけで、そそくさと六本木の街を後にした。
なお、深広寺の境内には、この章の冒頭で書いたように、江の灰を埋めたという灰塚と呼ばれている石碑が遺されている。せめてこの石碑くらいは拝んでみたいと思うのだが、それも叶わない。
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増上寺・将軍家の廟所
- 2011-11-29 (火)
- 湖北残照・番外編 ~江戸の江~
増上寺・将軍家の廟所
三縁山増上寺は、明徳4年(1393)に浄土宗第八祖西誉聖聰上人により武蔵国豊島郷貝塚(現在の東京千代田区平河町から麹町あたり)に開山された寺である。
開山当初から東国における浄土宗の重要な拠点として位置づけられてきた寺であったが、戦国時代の終わりに関東の地を賜った徳川家康によって、徳川家の菩提寺としての地位を不動のものとした。
家康が時の住職であった源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依していたためと言われている。
その後、慶長3年(1598)に今の芝の地に移転し、三(さん)解脱門(げだつもん)、経蔵、大殿などの諸堂が相次いで建立されて山内は徳川家の菩提寺としての威容を整えていった。
こうして増上寺の歴史を見てくると、増上寺は徳川幕府の樹立前から徳川氏との間に深い関係が構築されていたことがわかる。
元和2年(1616)、家康は増上寺にて葬儀を行うことを遺言してこの世を去った。
その後も増上寺と徳川家との良好な関係は幕末に至るまで続き、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍とその正室や側室の墓所が増上寺に設けられている。
ちなみに家康は日光東照宮に、3代、4代、5代、8代、10代、11代、13代将軍は上野の寛永寺に、そして15代慶喜は谷中霊園に墓所がある。
増上寺一寺に絞り込まず、寛永寺と競わせるように菩提寺を2つに分散させたのは、徳川氏の政策によるものであったか。
戦前までの増上寺には、大殿(本堂)の右側と左側に分れて広大な将軍家の廟所が設けられ、将軍毎に豪壮な霊廟が建てられていたという。第二次世界大戦における空襲(昭和20年(1945)3月9日)でこれらの貴重な文化遺産の大部分が灰塵に帰してしまったことはまことに残念であり、慙愧に堪えない。
現在増上寺大殿の右奥にある「徳川将軍家霊廟」は、6代将軍家宣の墓前にあった鋳造の中門(鋳抜門)を入り口の門として、寺内の広い場所に散在していた各将軍や正室などの宝塔や各大名から寄進された灯籠などを移設したものである。
元々の徳川将軍家の廟所は、大殿の左側に拡がる広大な土地に2代秀忠と正室江の廟所が設けられ、大殿の右側の土地にそれ以外の将軍の廟所が寄せ集められるようにして造られていた。
著しくバランスを失するレイアウトであったことに、私は驚きを隠せない。
増上寺における徳川家の墓地の半分のスペースを秀忠と江が独占し、残りの半分のスペースを5人の将軍でシェアーしていたということになる。
想像するに、徳川政権が長く引き継がれ世の中が安定の時代へと推移していくに従い、次第に将軍の墓に対する認識も改まり、類型化、簡素化が進んでいったのではないだろうか。
徳川幕府の草創期であった秀忠の時代には、この後徳川幕府がいつまで続くかなんてわからない先が見通せない時代だった。
後代の将軍のことなどを考える必要もなく、今の徳川家の権威を思う存分に見せつけるための立派な廟所こそが必要だったのではないだろうか。
ましてや、初代将軍の家康は別格の存在で遠く日光に造営した専用の廟所に納まっている。増上寺における将軍の墓所は秀忠が初代となるのだから、後代の将軍廟の見本となるべき墓を造る必要があった。
その後、3代、4代、5代と3代続けて寛永寺に廟所が築かれた後、増上寺に6代将軍の墓所が築かれる頃には徳川の世は十分に安定し、むしろその後も末永く将軍の墓域を確保しておく必要があった。
秀忠と同じ面積を家宣の墓域として使ってしまったら、次の将軍の墓域を増上寺に見出すことが難しくなってしまう。
幕府は方針を転換して、大殿の右側のスペースを後代の歴代将軍の廟所スペースとしたのではないだろうか。
以上は私の何の根拠もない想像である。
目を今の時代に戻すと、大殿の左側の秀忠と江の墓域とほぼ一致するエリアが、今ではザ・プリンスのパークタワー東京の敷地となっており、それ以外の将軍家の墓域とほぼ一致するエリアが、東京プリンスホテルの敷地となっている。
徳川将軍家の廟所は、今ではプリンスホテルの敷地に変わってしまっているということになる。
増上寺(中央)を挟んで上側(南)に江と秀忠の廟所が、下側(北)に他の将軍の廟所があった。現在、江と秀忠の廟所はパークタワーとなり、他の将軍の廟所は東京プリンスホテルとなっている。
そこには、政商として陰に陽に活躍した西武グループの創始者・堤康次郎氏の影が見え隠れしている。 そのことは次の章で書くことになるから、ここではこれ以上触れない。
それにしても、徳川将軍家の墓地の跡地にホテルを建てるという発想は、普通の人にはない発想だと思う。寝ていると将軍の霊が夢枕に現れて来そうであまりいい心地がしないだろうと思うのは、私だけだろうか?
幸か不幸か、私は東京を代表するこの高級なホテルに宿泊したことはない。
江の廟所があったパークタワー東京の敷地を歩いてみた。
入り口は、前々章でも触れた日比谷通りに面した台徳院惣門である。秀忠の廟所に通ずる最初の門であるというこの門を改めて見てみると、繊細な彫刻こそ施されてはいないものの、堂々としていて実に立派な門であることに気づかされる。
改修が行われて当時の姿を彷彿とさせてくれているのも、たいへんにありがたいことである。後述するが、他の現存している増上寺にあった将軍家の廟門は、どれもみな長年の雨風に晒されて往時の輝きを失っている。
博物館の中に納めて劣化を防止するのも寂しいことだし、文化遺産の保存は実に難しい問題を含んでいるとつくづく思う。
惣門を潜るとそれほど長くはないが石段が続く。
きれいに整備されたその石段を登りきったところに「惣門跡」の標柱が建っている。何の説明もないからほとんどの人は何も知らずに通り過ぎてしまうが、今潜って来た惣門が元々建てられていたのがこの場所である。
どうして日比谷通り寄りに移設されたのかはわからない。奥まったところにひっそりと建てられているよりは、日比谷通りを通る多くの人に見てもらいたいとの思いがあったのかもしれない。
惣門の手前には水路が造られていた。珍しく詳細な説明板が設置されているので、ここではそのまま引用してみよう。
ここに並べられた石垣石は、増上寺山内丸山に造営された台徳院-二代将軍徳川秀忠-
霊廟の惣門前に構築された水路に用いられていたものです。台徳院霊廟は寛永9年
(1633)、台徳院の死後まもなく造営が始められ、およそ一年後に竣工したことが記録に
あります。
水路は砂地の上に組み上げられた石垣を壁としており、これらの石垣石はその建材の
一部です。石垣は平成14年(2002)に行われた発掘調査によって、この石列の真下、地
下およそ8mの位置で発見されました。石垣は、最も良好な箇所で4段検出されました。
石材として、相模から伊豆にかけての地域で切り出された安山岩が用いられていますが、
形や大きさはまちまちです。最下段の石垣には、宝永の火山灰の付着が確認され、刻印
や墨書を認めるものもあります。かつて、旧御成道-現在の日比谷通り-から御霊屋への通
路は、惣門手前でこの水路を渡りました。往時、水路には清らかな水が流れ、発掘調査
では惣門手前に架けられていた橋台の一部も検出されました。
今では、人工的に切り整えられ平行に置かれたいくつかの石が、説明板の記述により僅かに水路跡の石であることを認識できるにすぎない。その石も、夏草に覆われてほとんど埋もれかけている。
かつては、台徳院惣門の前には水が清らかに流れていた。廟へ参詣する者は、この水路に架かる石橋を渡って惣門を潜った。
当時の姿を想像しながら進んでいくと、程なくして右手に「勅額門跡」と書かれた標柱が目に入る。
やはり何の説明もないので、知らない人はかつてあった増上寺の門だと思うことだろう。ところがこの門こそが、秀忠と江の廟所に向かう2番目の門なのである。
次の章で書くことになるが、この門は都内某所に現存している。
長い歳月の経過により劣化が進行し往時の姿を十分に残しているとは言い難いものの、それでも、詳細な彫刻が施され、部分的には鮮やかな彩色が今なお残る勅額門は、見事と言うほかない立派な門である。
その勅額門を心の内に描いてさらに進むと、そこには円形に整えられた芝生の広場が拡がっている。
この芝生広場には、かつて台徳院廟所の拝殿と本殿とがあったはずである。
日光東照宮には及ばないものの、そこには豪華な彫刻で飾られ鮮やかな色彩で彩られた建造物群が建立されていたことだろう。私は再び、心の中で想像を逞しくする。
勅額門を潜ると、目の前に唐門が見える。その向こう側の建物が拝殿で、さらに奥には2層から成る本殿の屋根が顔を覗かせている。いずれも総瓦葺きで、拝殿と本殿は入母屋造りの堂々たる建造物である。
台徳院の拝殿・本殿の右側の一段やや低いところに、崇源院(=江)の拝殿と本殿とが台徳院の拝殿・本殿と並んで建てられていた。今で言うと、円形の芝生広場を少し右側に外れて増上寺会館裏手の敷地にかかる辺りであろうかと想像する。
かつて崇源院の拝殿と本殿があったであろう場所を歩いてみると、明らかに人の手によって加工された四角い大きな石が道端に無造作に置かれていた。もしかしたら、崇源院の廟殿のどこかに使われた石だったのかもしれないなんて思うと、そんな何気ないただの石までもが神々しく見えてきてしまう。
現在円形の芝生広場となっているこの辺りに秀忠の拝殿と本殿が建てられていた。
勅額門を入ってすぐ右側、台徳院の拝殿・本殿から崇源院の拝殿・本殿に通ずる道に建てられていたのが、「丁子門」と呼ばれる小さな美しい門である。
この門については、次の章で触れる。
台徳院(=秀忠)の墓所は拝殿・本殿左手の、さらに高まった場所にあった。木製の巨大な宝塔が置かれ、内陣の柱には葵の紋をモチーフにした詳細な装飾が施され、欄間の彫刻では天女が笛を吹きながら宙を舞う姿が描かれていた。
まさに別世界というか夢の世界である。
日光まで行かずしても、徳川氏の権力と富と文化の結晶であるこの美しい世界を私たちは間近に見ることが出来るはずだった。つい60数年前まではたしかにこの世に存在していたこの世の至宝を、無益な戦争によって失った私たちの損失は計算することができないほどに大きい。
台徳院の墓は木製の宝塔であったために、廟殿ともども灰塵に帰してしまった。
後(昭和33年(1958))に徳川将軍家の墓を移転・改葬するに際して行われた学術調査において、焼失した台徳院宝塔の下、地下2.7mのところに埋葬されていた秀忠の遺体も調査の対象となった。
中期以降の将軍が華奢で貴公子のような体格であったのに対して秀忠は、背丈はそれほど高くはないものの毛深く、骨格はがっしりとしていかにも戦国末期を生き抜いた人のそれであったようだ。
副葬品として葵の紋がついた槍や火縄銃が添えてあったというのも、当時の世相を反映していて興味深い。
台徳院の宝塔があった墓所は、今まさにザ・プリンスのパークタワー東京が建つあたりであると思われる。秀忠の墓も、随分と洒落たビルディングに姿を変えてしまったものだと思う。
私は江や秀忠への熱い気持ちを胸に抱きながら、万感の想いを込めて二人の廟所がかつてあったであろうホテルの敷地を、歩き回った。ここがそんな場所であることなど知る由もなく、結構式を迎えたウエディングドレス姿の花嫁と白いタキシード姿の花婿が、緑の芝生とホテルの建物を背景にして、記念写真を撮っている光景が眺められた。
現在パークタワー東京が建つあたりに、かつて秀忠の墓所である宝塔があった。
台徳院の拝殿・本殿の位置と宝塔(=墓所)があった位置はだいたいわかった。崇源院の拝殿・本殿も台徳院の拝殿・本殿の右側に並ぶようにして建てられていたことがわかった。では、崇源院の宝塔(=墓所)はどこにあったのだろうか?
私は、徳川家霊廟が描かれている地図を目を皿のようにして探した。
しかし、増上寺の南側に拡がる台徳院と崇源院の廟域からは、どうしても崇源院の宝塔を探し出すことができなかった。
崇源院の宝塔は元はどこにあったのだろうか?
私は何度も繰り返して古地図を眺めてみたが、崇源院の宝塔の所在地をどうしても見出すことが出来ない。
ほとんど諦めかけていた時に、ついに私は崇源院の宝塔があった場所を見つけた。
まったく想定していなかったのだが、崇源院の宝塔は、増上寺の南側ではなくて北側にあったのだ。
今で言うと東京プリンスホテルのエントランスのあたりになるだろうか。周囲には、5代将軍綱吉の生母である桂昌院など将軍の正室や側室たちの墓が集中している地域になる。
江の墓所を示す宝塔は、かつてはこの東京プリンスホテルのエントランス付近にあった。
しかも、元々は江と秀忠の墓として使われている今の宝塔ではなくて、葬礼当時の江の墓は、高さが5m15㎝もある宝筐印塔であったことが発掘調査の過程で判明した。
慶安のころから塔の破損が激しくなったとの記録があり、改修を繰り返したもののついにこの宝筐印塔を諦め、現在の八角形の御堂形の宝塔に代えられたものと推測されている。
元の宝筐印塔は5つのパーツに分けられて無造作に江の墓の周囲に埋められていたという。発掘調査ならではの知られざる事実を知って、改めて感慨を深めた。
不思議なことに、江の遺骨は増上寺の北側に埋められて、そのまま移葬されることはなかったことになる。拝殿と本殿のみが、秀忠の薨去後に家光によって増上寺の南側の墓域に造られたということを知って、非常に複雑な気持ちになっている。
江と秀忠の遺骸は、ずいぶん長い間、増上寺の北側と南側とに分かれて埋葬されていたのだ。
戦後の発掘調査に続く改装により、文字通り江と秀忠の遺骨は一つの宝塔の下に納められることになった。それはそれで、二人にとってはよいことだったのかもしれない。
最後に現在の江と秀忠の墓を訪れた。
上野の寛永寺は将軍家の墓所を公開していないが、増上寺では年に10数日程度ではあるものの将軍家御霊屋を特別に公開している。
今年(平成23年)は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、4月2日~8日に予定されていた御忌期間中の特別公開が見送りとなったが、その代わり4月15日~11月30日までの長期間にわたって徳川家墓所が特別に公開されている。
ただし、冥加料として500円が必要である。
通常は無料公開なので500円はやや高い気もするが、無料公開の時には多数の拝観客でごった返すのに、有料となると拝観客が激減する。静かな雰囲気の中で江や秀忠の墓と対面するのも悪くはない。
さらに、貴重な焼失前の御霊屋の絵葉書と当時の地図が記念品として用意されている。この文章を書くにあたっても大いに参考にさせていただいた有意義な史料である。
あれだけ広大な敷地に散りばめられていた将軍家の墓が1000㎡ほどのスペースに閉じ込められてしまったのは残念な気がするけれど、それでも十分威厳に満ちた神聖な雰囲気がこの空間には満ちみちている。
江と秀忠の墓を示す宝塔は、墓域の一番奥まった場所の右側にある。
前述のとおりに秀忠の宝塔が木製だったために焼失してしまったことから、秀忠が江の宝塔に同居しているのが、いかにも姉様女房の夫婦らしくて微笑ましい。
以前お参りした時には、宝塔の右側に単に「台徳院殿二代秀忠公」と書かれた木の立て札が立てられていただけだったのに、今年のNHK大河ドラマ「江」の影響であろう、宝塔の左側に「崇源院殿お江の方」と書かれた立て札が新たに立てられていたのには、失笑を禁じ得なかった。
そう言えば、前回お参りした時には、同じくNHK大河ドラマ「篤姫」が放映されていた時で、和宮と家茂の墓のみが特別に脚光を浴びていたことを思い出した。その時の秀忠の墓は、その他の将軍の墓の一つでしかなかった。
江の墓はいかにも女性の墓らしく、石造りの宝塔はやや小振りで、塔身も屋根も八角形をしている。他の将軍の宝塔が丸い塔身に四角形の屋根であるのと比較するとたいへんに特徴的な宝塔である。
紆余曲折を経たものの、この中に江と秀忠の遺骨が納められているのだと思うと、身震いするような気持ちがする。
元々江は火葬であったが、秀忠の遺体も昭和33年(1958)の学術調査の後に、他の将軍の遺体とともに桐ケ谷斎場(品川区西五反田)にて荼毘に付された。そして増上寺の僧侶たちの懇ろな法要を受けて現在の地に移葬されたのであった。
先に私は、秀忠は背丈はそれほど高くないものの毛深く、骨格はがっしりとしていかにも戦国末期を生き抜いた人のそれであったと書いた。
江も、波乱万丈の人生を力強く生きてきた割には小柄で、華奢な体格の女性であったようだ。浅井長政の一族は大柄な体格の人が多い家系のように思われるのだが、江は小さな体に溢れんばかりのバイタリティーで波乱に富んだ人生を送ったのかもしれない。
その後、移葬が行われてから50年以上の歳月が経過している。
すっかり周囲の景色や草木にも馴染んだ将軍家の墓域は、元からここにあったかのように思えるほどの威厳をもって我が眼前にその姿を見せてくれていた。
少なくとも私が生まれた時には今の状態になっていたのだから、そう思えることも不思議ではない。無益な戦争により多大なダメージを受けたことを考え合わせると止むを得なかったことかもしれないが、今の姿が江や秀忠にとって必ずしも幸せな形であるかどうかは、私にはわからない。
やはり本来は、元の埋葬されていた場所に、願わくば焼失前の廟所を復元してほしかった。今の時代であったならば、あるいはそういう動きになったかもしれない。
高度経済成長を背景に文化財遺産への尊重と尊敬とが軽んじられていた時代背景もあったのだろうが、廟所を破壊するブルドーザーの槌音に急かされるようにして学術調査を行わざるを得なかったという事実を知ると、とても悲しい気持ちになってしまう。
プリンスホテルの敷地内にはここが徳川将軍家の墓地跡であったという事実を示す説明板がほとんどないことが、一層私の心を痛めている。法律的には適法であり、誰から責められる余地もないものかもしれないが、彼らが行った行為はある意味では文化遺産の破壊であり、そのことは彼ら自身が最もよく認識していたのではないだろうか。
多くを語りたくないために説明板が設置されていないと考えるのは、私の穿ち過ぎだろうか?
徳川家の霊廟を後にして大殿の裏側を通ってさらに進むと、貞(てい)恭(きょう)庵(あん)という瀟洒な茶室がひっそりと建てられているのに出くわす。大勢の参詣者で賑わう増上寺においても最も奥まった場所にあり、訪れる人も稀な静寂に包まれた空間である。
この貞恭庵と呼ばれる四畳半台目の茶室は、皇女和宮に所縁の茶室なのだそうだ。
貞恭庵という庵名は、和宮の謚である「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」から命名されている。
この茶室、通常は非公開だが、月に1回だけ中に入ることができるチャンスがある。毎月第4日曜日に茶(ちゃ)雅(が)馬(ま)茶道教室が主催している抹茶と和菓子の会だ。
和宮の茶室を是非とも見てみたくて、私は8月最後の日曜日に再び貞恭庵を訪れた。平成23年8月28日のことであった。
たいへん幸運なことに、毎月テーマを決めて行われる茶会の今月のテーマは江であった。9月15日が江の命日であることから、江との関係が深い増上寺塔頭の最勝院に伝わる掛け軸(大和遠州流第2代の小堀篷雪画)が床の間に飾られ、江にまつわる話が語られた。
時代が違うので、和宮の茶室を見に来て江の話を聞くとは予想していなかった。それだけに、思わずして江の話を聞くことができて、感慨もひとしおだった。
こんなふうにして何気なく江のことが語られる増上寺という寺は、江にとって非常に身近な寺であったということなのだろうと思った。
最後に、江は東京タワーのすぐ近くに眠っている。そして東京タワーは、東京のかなり広範囲な場所からでも遠望することができる。
私は東京の街を歩いていて東京タワーを見つけると、あぁあの袂に江の墓があるのだなと思うようにしている。
そうすると一層、東京タワーが愛おしい存在に思えてくる。
秀忠の拝殿・本殿があった円形広場、秀忠の墓(=宝塔)のあったパークタワー東京がよく見える。
江の墓所を示す宝塔があった東京プリンスホテル方面。
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